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酒たまねぎや飲んべえ日記
この日記の文責は、すべて酒たまねぎや店主である木下隆義にございます。
1月31日土曜日雨のちくもり 寒い
河岸から帰ってきて、仕込みを終えた後に、スポーツセンターに行く。今日は昨日出来なかった下半身のメニューを消化。今日もフリーウエイトをメインにする。前回は太ももがバンバンに張って辛かったので、軽め・・・・
今日は、上半身のあっちこっちが痛い・・・・・
帰りに芳林堂さんで、本を数冊購入。
Mさん二名様で来店。Fさん来店。
ヒマ。後片付けをしてさっさと帰る。
写真は、宮崎県の富永さんが贈ってくださった「糸巻きダイコン」を使い終わって、右の写真のように、ちょっぴり残った上の部分を水につけておいたら、新しい葉っぱがでてきたもの。
根三つ葉
1月30日金曜日雨
午後より、久しぶりにスポーツセンターに行く。ノートを見ると二二日に来たっきりなので、一週間以上も間があいていることになる。あまり時間がなかったので、スロートレーニングにて、上半身のメニューのみ消化。
バンブーさん来店。Mさん二名様で来店。Kさん四名様で来店。K@京城二名様で来店。さんMさん二名様で来店。ナベちゃん来店。Yさん、Fさん三名様で来店。
珍しく大忙し。
写真は、鍋に使った根三つ葉をさしておいたもの。昨年は根腐れをおこしたが、今年は、容器を浅いものにして、根腐れがなく、長い期間、楽しませてくれている。
公明党の使命
1月29日木曜日くもり
「生活を守るのは、公明党です。」
公明党のポスターの文句ですが、いったい、誰の生活を守るのでしょう。
斉藤鉄夫環境相(公明党)
<「創価学会を守る。それが公明党だ」、「今がチャンスだ。死にもの狂いで戦いなさい.新生公明党を一緒に作ろう」、「宇宙人の斉藤君、私が勝利の因を作ってあげるからしっかり頑張りなさい」池田先生の顔が(両手を広げて)このぐらいの近さで、直接、激励を頂いて、(中略)その時初めて私自身、腹を決めることができました・・・・>
平成五年の初出馬の直前に広島市内の学会員を集めた会合にての発言
週刊新潮平成二〇年十一月十三日号P三四
「創価学会は、ある目的を達成すれば解散します。それがほかの宗教や団体と違うところです。私も早くやめて、文春にでも務めたいですよ。これでも昔、出版社にいたことがあるんです。」
昭和三十八年の週刊文春にて
(私は週刊文春 平成二十年十月三十日号(創刊二五〇〇号 記念特大号 「本紙記者がナマで聞いた名言・失言・放言大特集」p四十四より引用)
ああ、鬱陶しい。
まあ、うちの店の店頭メニューには「鬱陶しい人お断り」と明示させていただいておりますけど。
Mさん来店。Sくん来店。
営業終了後、高円寺のイタリアンにてドンチャン。今日も、元気いっぱいな」マルガリータさん合流。
現役
1月28日水曜日くもり一時小雨
部屋にあった古雑誌を片付けていたら、札幌の老舗中の老舗である「BARやまざき」の山崎達郎さんが紹介されていました。(週刊朝日 平成二十年八月十五日号)
八十八歳の今も現役という日本最高齢バーテンダー であり、札幌でオーナーバーテンダーとして五十年間もお店をされている。店の開店は六時からで、今でも山崎氏は午後八時半からカウンターに立つそうです。
小野田寛郎元陸軍少尉が、ルバング島の戦闘より帰ってこられたのが昭和四十五年(一九七四年)三月、五二歳の時です。そのわずか一年後に、小野田さんは、自分の生きる地をブラジルと定め旅立つ。五十三歳の時です。
下記は、「小野田寛郎の終わらない戦い」(戸井十月著 新潮社 二〇〇五年刊)に掲載されていた平成十六年(二〇〇四年)十二月六日、南マットグロッソ州の州都、カンポ・グランデ空軍基地でのブラジル空軍の民間人に与えられる最高位勲章「サントス・ドゥモン勲章」の授与式での小野田氏の挨拶です。
「本日はウィリアム閣下始め大勢の方々においでいただいた中で、最も栄誉あるメリト・サントス・ドゥモン賞をいただきましたことは無上の光栄であります。これは私だけでなしに日系人としての誇りでもあります。
私は長い戦争から日本に帰って、第二の人生は、牧場をつくろうと考えました。幸い、理解あるブラジル政府より永住することを認められて、牧場を建設いたしました。私の牧場が空軍基地のそばにあることから、空軍の司令官を始め多くの方々と親しくお付き合いをさせていただきました。そんなことから、私がかって、軍人として命令を守り通したということをよく理解していただいて、そして今回この栄誉ある勲章をいただけることになったのだと思います。
私はこれから、この栄誉に恥じることのないよう、日系人として、ブラジル及び日本のお役に立ち続けたいと思います。
最後に、ブラジル空軍の前途に神の祝福のあらんことをお祈りして、私の挨拶といたします。」
自分の歩んで来た道をそのまま受け入れ、誰を恨むことも無く、羨むことも無く、五十歳を過ぎて、第二の新しい人生を歩み、ブラジル、そして日本の地にて八十歳を過ぎてなおかつ現役として、その地域に貢献され、そして、尊敬されている。このような生き方ができる人が何人いるであろうか 。
老後の年金の事が話題になっていますが、自分で働けるのであれば、それでいいのではないでしょうか。日本人は職人であれ、百姓であれ、元々体が動くかぎりはそれなりに働いていたものではないでしょうか。
今の店の近所にも、ご年配の御夫婦が経営されているレストランがあります。
旦那さんは昭和二年生まれですから今年八二歳になります。今でも平日は昼間のみ。週末、日曜日は夜のみの営業をしています。
怠け者の私には到底まねのできないことです。
今日は、今朝までの酒が効き、調子はいまいち。
Nさん京城の方と来店。初めてのお客様二名様来店。
今日は飲まず。
詐欺師千田夏光と毎日新聞の関係
1月27日火曜日晴れ ×
詐欺師・吉田清二氏と同じ穴の狢であり毎日新聞という全国版の反日エロ新聞に取り入っていた千田夏光氏は、その著書「従軍慰安婦・慶子」(初刊は一九八一年 光文社、その後、一九九五年 恒友出版、二〇〇五年 クラブハウスが復刊 手元にあるのは二〇〇五年版)において、毎日新聞との関わりを次のように書いています。
<ひょんなことから彼女らのことを足掛け七年かけ調べ、二十年前「従軍慰安婦(正続)」なる本とした>P一 これは、一九九五年に恒友出版より出版された時の「はじめに」と書かれた文章です。その「ひょんなこと」については下記のように書いています。
<いわゆる従軍慰安婦、すなわち軍命令により戦場へ連れていかれ、第一線将兵の性欲処理用具として使われた女性たちに私が目をむけるようになったのは昭和三十八年(一九六三年)夏であった。当時「毎日グラフ」編集長をされていた赤城益一郎氏に支那事変から大東亜戦争へかけ、毎日新聞従軍カメラマンが撮った発表を禁止された写真の整理をたのまれたときである。
目的は写真による戦史編集のためだったが、ボロボロになった二万数千枚の、その写真を一枚一枚めくっていると、裾をまくり敵前の川をわたっている二人の女の姿があったのである。場所は中国戦線、徐州会戦の時であった。どうしてこんな戦場に、兵隊しかいないはずの場所に女がいるのだろうという単純な疑問から出発したのだった。従軍体験のある古いカメラマンがかたわらから、「それは従軍慰安婦だよ」それなりに説明してくれたが、なぜかそれ以上の説明はなかった>P十四
従軍看護婦ならぬ従軍慰安婦という言葉は、千田氏がその著書「従軍慰安婦 正篇」(一九七三年)で最初に造った言葉といわれておりますが、この千田氏の文章では、従軍体験のあるカメラマンが言った事になっております。流石はフィクション作家!
これらのことより、一九二四年生まれの千田氏は一九六三年、三九歳の時にエロ日新聞の手伝いをしていて、この慰安婦のウソを思いついた事になります。
「一億人の昭和史 二 二・二六事件と日中戦争」(昭和五十年七月)には、千田氏の解説で、「従軍慰安婦という悲しい存在」(p一七六〜一七八)という」文章が掲載されています。
その後の写真集、「一億人の昭和史 一〇 不許可写真史」(昭和五十二年一月)でも、あの吉田清二と並ぶ詐欺師であるこの男に慰安婦についてでたらめを書かせています。毎日新聞「一億人の昭和史」にみる千田夏光との関係
それぞれぞれの写真のキャプションも醜いものでした。
千田氏の嘘については、中川八洋氏が著書『歴史を偽造する韓国』(徳間書店 二〇〇二年)にて詳しく指摘しています。 若槻泰雄の著書にみる千田夏光
この「一億人の昭和史 二 二・二六事件と日中戦争」においても、千田氏は、下記のように平気で多くの嘘を書く。
以下引用
<日本人慰安婦には性病既往症が多かったのにたいし、朝鮮人慰安婦は未婚の処女がほとんどだったこと、つまり性病の心配がなかったことがひとつ。 日本人で従軍慰安婦になろうとする者は長い売春歴から体がガタガタにされたのが多かったのに、朝鮮人は健康でピチピチしていたことがふたつ。
当時の朝鮮は植民地で或る種の強引な手段をもって集めても無理が通ると判断されたことがみっつめであった。
こうして昭和十四年ごろからは従軍慰安婦といえば朝鮮人女性という通年みたいなものができあがっていったのだった>P一七七
これも、昨年取り上げましたが、この写真集と同じ年(昭和五十年)に出された「証言記録従軍慰安婦・看護婦」(広田和子人物往来社)に実名で日本人元慰安婦の方の証言があります。
以下、その「証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭」より
芸者菊丸さん、本名山内馨子さん(大正一四年青森県生まれ)は、昭和十七年(一九四二年)三月、満一八歳の時に、西小山で芸者をしているとき、置き屋の借金を肩代わりしてくれるということで、朋輩と二人でトラック島に渡りました。 その山内馨子さんの証言として、朝鮮人慰安婦の話はほとんどなく、多くの日本人慰安婦の話がでてきます。つまり、最低限、トラック島においては昭和十四年から三年も経過しているのに、朝鮮人慰安婦より日本人慰安婦が多かった可能性が高いのです。また、慰安婦においては日本人慰安婦が一番多かった事が、秦郁彦氏の研究より明らかになっています。 あと、裕福な現在も売春が朝鮮の重大産業のひとつである国が、戦前にどうして、慰安婦の朝鮮人が処女がほとんどだったのでしょう。 キーセンに売られたという金学順という嘘つき朝鮮人売春婦も処女だったのでしょうか。
あと、千田氏の文にはこのような事も書かれています。
<なお投降した朝鮮人慰安婦は昆明にあった米軍管理の捕虜収容所へ送られ、昭和二十年八月十五日すぎ、はるばる迎えにきた金日成将軍(現朝鮮人民共和国)の使者の手で祖国へもどされていった。>「一億人の昭和史 二 二・二六事件と日中戦争」P一七八
では、もっとも近いであろう我が国には金日成大将軍様の迎えは来たのであろうか? 金日成大将軍様は、慰安婦だけに優しかったのであろうか?
はてはて???
あほらし
アホ丸出しですが、こんなアホにだまされるというか、利用するアホも多いのです。
つづく
この冬初めてとなる活けタラを購入。
ご近所にお住まいのKさん来店。来月ご結婚されるそう。小胡子さん来店。インフルエンザは大分よくなったそうでなにより。マロさん来店。Iさん来店。Bさん来店。 写真は今日買い物に行った近所のスーパーマーケットでつい買ってしまったでっかいデコポン。一個四九八円。高いがやっぱりうまい。
営業終了後、マルガリータさんと高円寺のイタリアンでドンチャン。マルガリータさんはこの店で今日は四件目だそうな。ひえ〜
その後、中野の「石松」さん。今日は珍しく記憶あり。
毎日新聞社「不許可写真」と草森紳一
1月26日月曜日晴れ
以下引用
<従軍慰安婦とビルマ山奥の料亭
従軍慰安婦の大半が「従軍看護婦、女史挺身隊、女史勤労奉仕隊という名目で狩り出された」(土金富之助『シンガポールへの道』)朝鮮の女性たち(いわゆる素人)で、兵四十人に一人の割り当てというから、大変な数(八万余)である。彼女たちは性病をもたず、性病であったとしたなら、日本の売春婦からうつされた兵から貰うのである。定期検診は軍医が担当した。性病では戦えないからで、サック着用を義務づけた。いまだにこの問題は、「大東亜戦争」のツケとして残り、解決をみていない。
(「一億人の昭和史 一〇 不許可写真史」この項、すべて同書を見て記す)
略)>
「二十世紀記憶 不許可写真二」(毎日新聞社 平成十一年一月)P百七十八
<物撮りの記録精神
「一億人の昭和史」には「写真は検診に向かう到着直後の朝鮮人女性」というネーム情報がある。これだけでも、一皮むけて、奥の層を見せ始める。彼女たちは分けも知らずに上海まで連れてこられ、現地でようやく日本兵の性欲を一時的に解消するのが役目と知る。がく然としている間もなく、性病の有無を調べる検診所へ強制的に向かわされている時の写真だとわかる。
これらの写真が検閲を受けたとしたなら、「我軍ニ不利ナル記事写真」に街頭するものとして、「不許可」となるのだろう。新聞社は、それを承知で、皇軍の恥部たるべき写真の判断を仰いだのだろうか。とすれば、はかない攻撃であり、やらないよりはましの抵抗である。
しかし、なんら従軍慰安婦が、中国人女性への強姦予防にならなかったことは、あきらかである。「南京虐殺」の中国側の提供写真の中で、ボケボケなのだが、今も記憶に残っているものがある。それは、強姦した相手の女性を裸(下半身)にして立たせ、自分は軍服のままその横に座り、記念撮影したものである。日本兵はカメラの方を見ている。ボケボケの中にも美人とわかるスタイルのよい中国人女性は、レンズのほうを見つめず、白い太腿をむきだしにしたまま直立し、その日本兵を斜めに見下している。無機的な視線にも見えるが、人によっては哀れんでいるとも、軽蔑しているとも感じられるだろう。写真は不安定なる「情景」を生産する。
この強姦記念写真は、報道写真ではない。秘匿写真である。だれが撮影したのだろうか。現地の写真館のオヤジであろうか。そのオヤジは、日本人は、日本人か中国人か。日本人経営の写真館が南京にあった可能性もある。兵の要求に答える(ママ)ため、写真館のオヤジが従軍していた可能性もある。それにしても、中国側はよく手に入れたと思うが、日本人の命令で中国人が撮影したとするなら、フィルムが残るので、焼き増しも可能である。それにしてもボケボケなので、日本兵の死体のポケットから発見したともいえる。だとすれば、強姦記念に撮影してもらった日本兵は、後に戦死したことになる。中国側の宣伝合成写真の可能性もすこしはある。>(P百七十九)
<戦争体験談としてのビンタと強姦
中学校のころより、大人たちから戦争体験談をさかんにきかされた。たいていは、上官にビンタを張られた話である。つづいて多いのは慰安所の話(一里も列を作って兵たちはズボンの上からチンポコを抑えながら順を待って並んだと一般論めかしていうのがパターン)、つぎは強姦の話(中国の女性は貞操が高く、膝をなかなか開くことができなかったそうだと間接的にいうのがパターン)をずっときかされつづけたような気もする。戦いの話を彼等があまりしなかった。負け戦の話はあまりしたくあるまい。しかしまだ中学生で、セックスがらみの話は、妖しい気持ちにすこしなるだけだが、一つ坊主を脅かしてやれといわんばかりに、大人は面白がっていうのである。シャクにさわるので、中途半端な戦争体験を補うため、さかんに戦記物をあさって読んだ(昭和二十五〜二十七年、講和条約締結後GHQの検閲から解放されたのか、やたら戦記ものが世にでた)。内外を問わず、戦争映画も好んで見た。
略)
慰安所の話はすこし出てくるが(兵の相手をする女性の大半が日本の植民地であった朝鮮の女性だったとほとんど書かれていない)、日本兵の強姦の話などまったくでてこない(ただ満州を引き揚げてくる途中、報復として日本女性が強姦された話は出てくる)。とすると、大人たちの話は、みんな嘘だったのかと思ったりもしたが、まあ、身内の恥は語らぬということなのだろう。大日本帝国のマスメディア統制やGHQのマスコミ統制から脱却した後でも、表向きには、その実態が語られることはなかった。それでも残虐行為の告発ものは出たが、セックスがらみの話は、あくまでアンダーグラウンドのものだったのだろう。しかし、世間では、あまりおおっぴらに言えぬがと前置きしながら、堂々と内緒話して、さかんに語られまくり、子供であった私の耳にさえもその情報は届いていたのである(ずいぶん最近まで、「情報」というのは、セックスがらみの秘密の話と思い込んでいたほどだ)。
このようなヒソヒソ話には、誇張がつきものだが、今ふりかえりながら気づくのは、情報提供者たちが、自分がやったといわず、「・・・・だそうだ」と間接的に語ったり、一般論にそらして語っていたことである。いわば、お伽話の話法を使っている。自分がやっていようが、やっていまいが、この話法の森の中へ隠れこむことができる。半分真実が含まれているとすれば、噂話やお伽話にも、「情理」があるわけで、分析するに足りるものなのである。>(P百七十九)
この草森氏の参考にしている「一億人の昭和史 一〇 不許可写真史」の文章の如何わしさについては、平成十七年に指摘させていただきました。毎日新聞「一億人の昭和史」にみる千田夏光との関係
千田夏光氏については、すでこの「二十世紀記憶 不許可写真二」が出版された平成十一年一月以前において、吉田清二氏と同様、種々の捏造が明らかになっています。千田夏光
草森氏は、莫大な数の蔵書を保有していたことで知られるそうで、ウィキペディアによると、<30歳前後から、いわゆる「資料もの」といわれる仕事をするようになって、本がねずみ算式に増殖したとは本人の弁。「ひとたび『歴史』という虚構の大海に棹を入れると、収入の七割がたは、本代に消える。異常に過ぎる。いっこうに古本屋の借金は、減らない」と、自著「随筆 本が崩れる」に記している。>となっていますが、それは格好だけで、草森氏はこのような文章を書くにも、その膨大な蔵書よりなんら情報も得る事なく、何も検証もしなかった事があきらかです。
この第二の千田夏光としか言えない草森氏が強姦記念と書いている写真についても、多くの人がその如何わしさについて書いています。この点についてはすでに「諸君」平成十年四月号にて(P九十)で秦郁彦教授が指摘していますが、秦氏が台湾で入手した「鉄証如山」という写真集にはトリミングされる前の写真が掲載され、右に支那服を着た男が写り、服装も民間人のジャンパー風で、帽子も顔も日本人には見えないと書かれています。
(比較写真は「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究」東中野修道・藤岡信勝 祥伝社 平成十一年)
アホとしかいいようの無いこんな人間に文章を書かせるバカ新聞社。流石はエロ日新聞です。
朝日新聞といっしょに潰れてしまえバカ新聞社!
今日も身体の調子がいまいちなので、田母神氏と西村議員の講演会に行くつもりが、 外に出ること無く一日が終わってしまう。
毎日新聞社「不許可写真」と草森紳一
1月25日日曜日晴れ
大東亜戦争中に軍の検閲により掲載が許可されなかった写真を、毎日新聞社が「不許可写真」として写真集を今までに何冊か出している。
毎日新聞社大阪本社の資料室に保存されていたというこれらの写真は、中々、興味深い面白い写真も多いです。そして、なかなかするどい指摘もあります。
「不許可写真」として、手元には、「一億人の昭和史 一〇 不許可写真史」(昭和五十二年一月)「二十世紀記憶 不許可写真一」(平成十年十二月)「二十世紀の記憶 不許可写真二」(平成十一年一月)の三冊があります。
「戦争において軍事機密はたしかにある。検閲はその意味からたしかに必然かもしれない」としながら、
「軍艦の船腹にどうどうとペンキで艦名を書き戦線に進出させながら、その写真は国民に不許可とした。戦場にある相手(敵)側へは艦名を見せながら国民に秘密とした理由はなんであろうか。」
(「一億人の昭和史 一〇 不許可写真史」P十八)
ごもっともです。
この「一億人の昭和史」シリーズにおいては、元従軍記者であった佐藤振寿氏の証言「一億人の昭和史 一〇 不許可写真史」(P二百四十三〜二百四十七他)、新名丈夫氏の証言「一億人の昭和史 一〇 不許可写真史」(P二百三十九〜二百四十一)、「一億人の昭和史 三 太平洋戦争」(P二百十四〜二百十九)、のような貴重なものも掲載されている。
南京一番乗りであった百人切り冤罪事件裁判におけるカメラマンもつとめた佐藤氏の証言は有名ですが、当然、このシリーズに掲載された佐藤氏の証言はその事に触れていません。(特攻隊についての新名氏の証言については別に記します)
しかし、この「一億人の昭和史」シリーズ、それに続く「二十世紀記憶」シリーズにおける毎日新聞の姿勢にはある方向性があると思わざるを得ない。これについては、以前に書いた事もございますが、この一連のシリーズにおける毎日新聞の方向性とは、あの千田夏光氏を何度も登場させていることでもわかりますが、事実を歪めてでも、あるイデオロギーに沿った記事、本作りをしているとしか言いようがない。南京攻略戦においての百人切りウソ報道を認めないなど歴史を歪める事等平気で、流石は小朝日新聞ともいえるものです。天下のエロ腐れ新聞社。日本のためにならない事だったらなんでもやります。
そいう意味では、「二十世紀記憶 不許可写真二」(平成十一年一月)草森紳一氏による巻末の不許可写真論?というのは醜いものであり、まさに第二の千田夏光と言ってもよく、千田氏の後ガマとして据えたとしか思えません。この人のイデオロギー全開の文章です。
そして、頭の中は本多勝一氏並みである。
つづく
今日は、スポーツセンターに行く元気も無く、店の生ゴミを夜に出した後は、帰って、一日中部屋にいた。
もちろん、酒は飲まず。
1月24日土曜日くもり○
ご予約も一件もなく、どうせ土曜日でヒマだろうと思ったら、大勢のお客様。
Aさんご夫妻初めての来店。初めてのお客様二名様来店。OさQん三様で来店。坂本ちゃん来店。Bさん二名様で来店。Uさん二名様で来店。Kさん来店。わ。さん来店。
あまり飲まず。
1月23日金曜日晴れのちくもり ○
昨日のフリーウエイトでの下半身トレーニングメニューで、太ももがバンバンに張っていて、階段の上り下りが久しぶりにきつい。
Yさん四名様で来店。Oさんご夫妻、ミラノのレストランオーナーシェフご夫妻と来店。竹中さんバルセロナのレストランシェフご夫妻と五名様で来店。マロさん来店。Fさん二名様で来店。Yさん来店。Mさん二名様で来店。営業終了後にMさんたちとラーメンと餃子・・・あんまり身体によくはないでしょうな。
ドンチャン
金嬉老を激励した「ドアホ文化人グループ」
1月22日木曜日小雨 ○
在日朝鮮人の恥さらしであり、根っからの犯罪者である金嬉老の言葉にだまされ、その犯罪行動を支持した「文化人」グループと呼ばれた人たちがいます。
日高六郎(東大教授)、伊藤成彦(中大助教授)、鈴木道彦(一橋助教授)、金達寿(作家)、角南俊輔(弁護士)、斉藤浩二(弁護士)、山根二郎(弁護士)
これらは、週刊新潮昭和四十三年三月九日号の記事「金嬉老で恥をかいた人々 日本を征服した五日間の言行録」に掲載されていた人たちの名前です。(私は「週刊新潮が報じたスキャンダル戦後史」(新潮社二〇〇六年刊) p二二一より)
現実に、金嬉老の籠る静岡県寸又峡の「ふじみ屋旅館」まで応援にのこのこと出かけていったのは、伊藤成彦、金達寿、角南俊輔、斉藤浩二、山根二郎の諸氏だったようです。
金嬉老と会い、その発言にころっと騙されて、泣いたバカもいたそうです。
学生運動については金嬉老の「警官と戦う学生の心の中にダイヤモンドを見つけました」という言葉に感激した伊藤成彦氏は「いや、私は、金さん、あなたの心の中にダイヤモンドを見つけました」という言葉を吐いたそうです。
「曽我(注=金嬉老が清水で殺した相手)が、私の家に踏み込んで私をなぐり、アサ公とののしった時、私は心の中ですでに彼を殺していました」
「私は十五歳のときから、警察が自分の家となりました。しかし、その家はあまり住み心地のいい家ではありませんでした」
これらの言葉は、普通の人が聞けば、「寝ぼけたこと、アホ言っとるな。お前がみんな悪いんだろうに」となるのに、伊藤成彦氏は「あなたは立派な文学者だ」と叫んだそうです。
このバカどもは、下記の金嬉老の母親、朴得淑さんの言葉をどう聞くのであろうか。
「あれは、ふだん朝鮮人といわれてもハラは立てないが、ムシの居所が悪いと、カッとくるね。それだけの話よ。だけど、息子は、捕われになっても、まだ生きてるからいい。しかし、あれが殺した二人の遺族を思うと、私、何もいえない。私は息子にいいたかった。死ぬのなら早く死ねばよかった」
このバカどもだけでない。金嬉老を、在日朝鮮人差別を訴えた英雄のごとく扱った、いや、今でも扱っている腐れマスコミも、このお母さんの言葉をどう聞くのであろう。腐れマスコミだけあってどうも思わんのだろうな。
ちなみに、日高六郎氏は、日本赤軍と深い関係にあり、オーストラリア政府から入国拒否の措置をとられたりしている、
伊藤成彦氏は現在中央大学教授の要職にあり、そして、あの浅井基文氏などとともに、九条連(憲法9条 世界へ未来へ連絡会)代表の一人。
九条連とは、戦時売春婦をたきつけて、日本軍慰安婦問題アジア連帯会議 などというものを開いて、「日本政府は公式謝罪せよ!」などと気勢をあげているところです。ちなみに日高氏もこことのつながりは強いです。
伊藤氏の過去の発言には、中々面白いものがあります。
「日朝国交正常化交渉の中断は、日本側が共和国にたいして、核疑惑や大韓航空機爆破犯の女性の日本語教師だったとされた李恩恵など何の根拠もない問題をもちだした結果でした」
(キムイルソン主義研究一九九九年一〇月号)
「(国交正常化交渉で)もう一つ懸念されるのは、行方不明者の問題、日本政府が主張しているいわゆる拉致問題です。『拉致問題』にはいっさいの証拠がないため、これをとりあげてハードルを高くしようと思えば無限い高くしていけます」
(キムイルソン主義研究二〇〇〇年七月号)
「日本の植民地支配がなければ、朝鮮民族が戦争に巻き込まれることはなく、外国軍がくることも、三十八度線での分断もありえなかった。従って日本は、済州島四・三事件について済州島民に謝罪すべきだ」
(朝鮮日報 二〇〇八年四月二十三日)
流石は、在日朝鮮人の恥である金嬉老に対して、「金さん、あなたの心の中にダイヤモンドを見つけました」という言葉を吐いただけの事はあります。アホ丸出しです。
こんなアホでも務まるのか中央大学教授・・・
まあ、東京大学もアホ教授をいっぱい飼ってますけど。
午後よりスポーツセンターに行く。昨日出来なかった下半身のメニューを消化。久しぶりにフリーウエイトでのスクワットなど。最後は有酸素運動。
帰りに、芳林堂さんによる。週刊誌と「戦時演芸慰問団『わらわし隊』の記録」を購入。
写真は、高田馬場のビル街にいたかわいいネコ。人懐っこい感じでしたので、どこかで飼われていたのだろうが。
小胡子さん来店。遅い時間にHさん二名様で来店。
早い時間から飲む。記憶は最後まであり。
二枚舌
1月21日水曜日曇りのち雨
創価学会は平成二十年六月二日の「SGI会長の先見性光る提言」と題した聖教新聞社説に於いて、対人地雷については九十八年、九十九年に。クラスター爆弾については、〇二年に提言し、厳しく弾劾してきたという。
では、対人地雷の最大の保有国、生産国、輸出国のひとつであり、また、そのクラスター爆弾を保持し、破棄しようともしない支那に対して、このような事は一言でも言った事があるのであろうか。
池田氏が兄の国という朝鮮に対してこのような事を言った事があるのであろうか。
支那だけでなく、南北朝鮮、ロシア、米国などは禁止条約にも加盟していないだけでなく、会合にすらも出席していない。
(我が国の地雷、クラスター爆弾の破棄というばかばかしい行為については別にして)
「名誉会長 中国の胡錦濤主席と再会」、(二〇〇八年五月九日)とされるように、支那の要人ともひんぱんに会われている池田大作氏は、支那のウイグル、チベットにおける人権弾圧を一言でも言及されたことはあるのであろうか。
私の知っている限り、聖教新聞において、ウイグル、チベットにおける人権弾圧を批判した記事を拝見した覚えはないのだが。
そのかわり、支那政府のウイグルにおける統治を賞賛した記事は聖教新聞で見た事はありますけど・・・・・
こんな池田大作氏を
「平和の闘士」(平成二〇年十一月十三日聖教新聞)
「世界一の平和の使者」(平成二〇年十一月十八日聖教新聞)
いかにも、腐れ宗教らしい姿勢です。
URAホームページの下記のページが私のミスにより、表示出来なくなっておりましたので、本日、訂正いたしました。
他にも、このような箇所がございましたら、お知らせいただけましたら、幸いです。
今日は河岸が休市なので、午後からスポーツセンターに行く。今日もスロートレーニング。
Hさん来店。草加からHさん二名様で来店。Fさん二名様で来店。
飲む。ドンチャン。記憶あり。
池田大作氏 自画自賛
1月20日火曜日晴れ 寒い
<全世界から「五六〇」の名誉市民称号もいただきました。五大陸から、お贈りいただいた顕彰は、「三〇〇〇」を超えております。
モスクワ大学での二度の講演を筆頭に、世界の大学やアカデミーでの講演は、三二回を数えます。
今でも、多くの大学から講演の要請をいただいています。
世界的名門のハーバード大学では、二回、講演を行いました。その際に私が論じた仏法の生死観を、多くの人々が希望の指針としてくださいました。今でも、最高峰の知性の方々が、この講演について論じてくださいます。
リハーノフ先生との対談集をはじめ、世界で出版された私の著作は、四〇言語、九五〇点を超えました。
さらに、ロシアのコスイギン首相、中国の周恩来総理をはじめ、私が対話をしてきた世界の指導者、人類の知性も七〇〇〇人を超えております。
略)
私は弟子として、この五〇年、いかなる難も勝ち越え、堂々たる王者の証を打ち立てたのであります。
そして、私は今、この世界一の英知の月桂冠と絶対勝利の宝剣を、我が愛する、大切な学園生に譲り託したいのであります。(大拍手)>
意味わかりますか?
これは、昨年三月に行われた創価学会関係の卒業式においての池田大作ダイセンセイの祝辞のお言葉でございます。
私には、単なる自己顕示欲の固まりということしか理解できません。
池田ダイセンセイはこれ以外にもいろいろと述べていらっしゃいます。
<晩年、戸田先生は、私の手をがっちりと握りながら、「君がいてくれたから、私は本当にいい人生を送れた」と落涙された。
あまりにも美しい師弟の姿であった。
略)
戦後の最大の苦境のなか、私は戸田先生をお護りした。
命を賭して師匠を護る これが本当の師弟である。
古今東西の歴史を見ても、私ほど師匠に仕え切った弟子はいないと自負している。
略)
この言語に絶する師弟の道をつくってきたからこそ、学会は世界的な発展を遂げたのである。>
(全国最高協議会でのスピーチ 聖教新聞平成二〇年八月一日より)
普通の日本人だったら、自分でこんなこと言うか〜
「 あまりにも美しい師弟の姿であった。」
まあ、日本人じゃあなかったら知らんけど・・・・
そんな、「古今東西の歴史を見ても、私ほど師匠に仕え切った弟子はいないと自負している。」という自称世界一の弟子は、師匠である戸田氏が亡くなった時に、どういう仕打ちをしたか。
死の直後に池田氏が戸田氏宅に乗り込み、遺品類、古美術、など四億円相当の遺産を強制的に差し押え、葬儀に寄せられた四千万円あまりの香典さえ、遺族に渡さず、創価学会が取ってしまい、未亡人らの抗議でやっと、ほんの一部が返されただけだそうです。そのあとも色紙、メダルにいたるまですべて回収して二代会長色を一掃したそうです。自宅は、池田氏会長就任後に池田氏自身の手により売り払われた。
参照(池田大作の素顔)
<じつは私は「桂冠詩人」であり、「世界桂冠詩人」の賞もいただいております。詩人にとって詩を贈ることは、最大の栄誉を贈ることなのです。>
(胡錦濤来日時に胡錦濤に詩を贈ったときの言葉 平成二十年五月九日聖教新聞より)
ちなみに池田大作氏は、聖教新聞に「詩」を発表するときも、
一番最後に
<桂冠詩人
世界桂冠詩人
世界民衆詩人>
と書いています。
その詩の中には、
<「第三代会長を守れば
広宣流布は必ずできる」
「第三代は一生涯
会長として指揮を執れ!」
これは
恩師の絶対の遺言であった
皆が生命に刻みつけた
最大の遺訓であった。>
という「アリガタイ」お言葉もございます。
何回も書きますけど、こんな人をどこをどうすれば指導者として、あがめる事が可能なのか。私程度の頭では理解不能です。
こんな、「偉大な」指導者様は、私は池田大作氏以外には金正日将軍様しか知りません。
あほらし。
Mixiに当店の一番古くからのお客さまでもある大野さんが、阪神淡路大震災の時に経験した事を書かれていた。
私も、あの地震では忘れる事の出来ないことがある。
当店のお客様であるMさんから、地震のその日に営業前でアパートでテレビをつけっぱなしで見てした時に、心配して電話をいただいた。
「木下さん、ご実家は大丈夫ですか」
「ありがとうございます。連絡がまだとれないので、わからないのです。Mさんこそ、ご実家は大丈夫ですか」
「私もとれていないのですが、大丈夫だと思います」
でっ、うちの実家はおんぼろ車庫がぶっ壊れただけで、たいした事が無かった。
Mさんの芦屋のご実家は全壊。
そして、妹さんがお亡くなりになったことを後で知った。
決して、忘れる事の出来ない出来事です。
小胡子さん、BOOちゃん来店。小胡子さんインフルエンザで大変だったそう。
1月19日月曜日晴れ
今日はいつもは定休日ですが、Nさんがご存知のお店の常連さんの皆様が集まってくださり、臨時オープン。
刺身、アンコウ鍋でドンチャン。
美丈夫うすにごり四合瓶二本、磯自慢大吟醸、いそのさわ大吟醸、九平次 別誂、十四代槽垂れ、義侠40%それぞれ一升瓶を一本づつ。
みなさん、お強い。
1月18日日曜日晴れ
今日、午後に日記の更新をやっていたら、新しいソフトの使い方がまだあまりわからないので(全然わからないといった方がいいかも)、十五日までの日記を消去してしまう。
手元に残っていた原稿などで少しは修復。
スポーツセンターにいった後に、帰宅。
酒は飲まず。
池田大作の戦い お笑い
平成21年1月17日日曜日晴れ
<私に対して、先生は絶対の信頼を寄せてくださった。 それまで、だれもやったことのない、またできなかった戦いである。しかし私は「やります!断じてやります!」と、決然と申し上げ、戦いを開始した。
マスコミで誤報が流れれば、すぐさま関係者に会い、直接、誤りを正した。悪意の中傷をする者がいれば、厳重に抗議した。真実を明らかにするため、論陣も張った。 ある時、地方の新聞に学会を批判する記事が出た。事実無根のデマによるものであった。 私は即座に、その新聞社に飛んでいき、抗議した。誠実に、そして明確に、真実を伝えた。>
(各部合同協議会でのスピーチより 二〇〇八年六月二八日聖教新聞)
あれっ、藤原氏に対しての言論弾圧事件の時はどうだったのでしょう?
正々堂々と、抗議したのでしょうか?
論陣をはったのでしょうか?
こういうのを、厚顔無恥、大嘘つきというのではないでしょうか?
<四十年前、激しい圧迫の嵐が吹き荒れるなか、私は日中の国交正常化を、勇気をもって提言しました。
どれだけの反対があったか。非難、中傷があったか。危険を避けるため、自宅にいられないことさえあった。 略) かって日本は、この、一番の大恩人の国を侵略した。とんでもないことだ。その歴史は、あまりにも重い。>
(延安大学「終身教授」称号授与式 創価教育同窓の集い・未来部総会 広布第二幕第八回全国青年幹部会でのスピーチ (長過ぎるわいアホが) 聖教新聞二〇〇八年五月十三日)
日中国交正常化を言っただけで、どこから、どのような圧力がかかるのというのだろう。
ましてや、自宅にいられないほどの。
息をするように嘘を言う・・・・・まるで・・・・・
やっぱ、池田大作ダイセンセイは私には偉大すぎて理解出来ません。
こんなのを祭り上げて喜んでいるのは、アホとしか言いようが無い。
Oさん来店。2名様来店。
今日は飲まず
日記の編集で、失敗してしまい、15日までの分が消えてしまう。
ショック。
少しずつ、下書きで残っている分のみ再編するつもりです。
天に唾する
1月16日金曜日晴れ 寒い
<国内外の識者が賞賛
聖教新聞には邪悪と戦う魂が
神聖な理念と美しい文章がいい
一般ニュース(一〇面 十一面)も大変面白い>
これは、聖教新聞に掲載されたものです。(二〇〇八年四月二一日)
美しい文章?・・・・・・・・ あの文章のどこが美しいのでしょうか?
もう一つ
<学会は本年も完全勝利 悪辣なデマも法廷で全て粉砕>
<坊主が不法行為 盗聴 違法ビラ 今や暗闇の不法集団か>
対談内容は
<原田 今年も、わが学会は一切の戦いに完全勝利した。創価の正義を、社会に厳然と示しきってきた。
谷川 その通りだ。悪辣、愚劣なデマも、破邪顕正の言論で完璧に打ち砕いてきた。裁判でもことごとく打ち破り、堂々と前進してきた。
正木 裁判といえば、あの日顕宗は今年も悪辣千万なデマ事件で断罪されたな。
略)
谷川 略) この一派は、これまでも選挙狙いのデマビラや違法ビラをまき散らしては、裁判で繰り返し断罪されている。>
(聖教新聞 二〇〇八年十二月十一日)
まあ、どっともどっちという感じなのですが。
下記は週刊新潮に掲載された創価学会関係の記事です。
以下引用
<「悪質ビラ撒きで高裁が指摘した創価学会関与」
今月十三日、東京高裁で下された判決。新聞・テレビでは一切報じられない、その内容が創価学会関係者に衝撃与えている。
「事の発端は平成十三年九月。妙観講を標的にした悪質な中傷ビラがバラ撒かれたのです」(妙観講関係者) 妙観講は、学会との確執が続く日蓮正宗の信徒団体で、学会にとっては目の敵というべき存在である。
「ビラには妙観講代表の顔写真がオウムの麻原と並べられ淫祀邪教、狂信的カルト集団等々の誹謗中傷の言葉が並んでいた。それが杉並区に一万枚以上も投函されました」
さらに平成一〇年二月には東京、大阪など一〇都道府県で、数日のうちに一万五千枚以上のビラが配布された。 妙観講は独自の調査で、バラ撒きを行った学会員数名を特定。この実行部隊と学会本体を相手取り、東京地裁に名誉毀損の民事訴訟を起こす。一審判決はビラを配布した会員たちに対して計二八〇万円の損害賠償を命じたが本体の責任は否定。その後、提訴審が行われてきた。 「今回の判決では、創価学会の業務としてのビラの作成・配布が行われたことは認められなかった。しかし、創価学会のいずれかの組織を構成する相当多数の学会員がその意思を通じて関与していたものと推定することができると組織的な関与を指摘しました」
判決はビラがカラー印刷の両面刷りで作成には多額の費用を要し、ごく短時間に、広い範囲に撒かれたことから「個人活動であることは到底認め難い」と説明した。内容についても「著しく事実を歪曲し、誇張するものというほかない」と断じている。>
(週刊新潮 二〇〇八年二月二八日号p一五三より引用)
公明党と竹入義勝氏との間での裁判も、地裁では公明党が昨年三月に敗訴してますし、少なくとも、聖教新聞に書かれている「学会は本年も完全勝利 悪辣なデマも法廷で全て粉砕」というのは、ウソということになるのではないでしょうか。 「坊主が不法行為 盗聴 違法ビラ今や暗闇の不法集団か」の坊主を創価学会に入れ替えたらそのままピッタリという例が過去にもいっぱいあったように思います。 有名な藤原弘達氏への言論弾圧事件、替え玉投票、盗聴に限っても組織的関与に言及したのでは宮本顕治元共産党委員長宅への盗聴事件、組織的関与は言及されなかったがヤフーBBの個人情報流出事件、ドコモ・システムズの創価学会員による事件などが思い出されます。
まさに、天に唾する・・・・
今日発売の「週刊新潮」でも、「菅直人が暴露した公明党の内閣法制局長官恫喝」という記事があった。小さな扱いであったが、今週号に掲載された記事では一番面白い。
以下一部引用
<1月8日、衆議院予算委員会。「定期給付金」に焦点が絞られる中、民主 党の菅直人代表代行の質問によって、公明党による内閣法制局長官への 「恫喝」が暴露されたが、殆ど(新聞もテレビも)報じなかった。
事の発端は、昨年10月7日の同委員会。菅氏の「(麻原彰晃党首の)『真 理党』が、多数を占めて政治権力を使ってオウムの教えを広めようとし た場合、憲法20条の政教分離の原則に反するのか」という質問に対し宮 崎礼壱長官は「違憲になるとい思う」と答弁した。 略) まず、翌8日、同委員会で富田茂之代議士が長官に食って掛かり、次に15日には参議院の予算委員会で山口那津男政調会長が撤回を要求。さらに 山口氏は質問主意書まで提出し、12月24日、会期末のドサクサに紛れて なんと「撤回」の答弁書が閣議決定されていたのだーー。
「1月8日の質問では、当の(昨年10月7日の)質問直後、太田代表と北側 幹事長が法制局幹部を呼び出していた事も明らかにされた。長官答弁に よって、公明党が如何に"身の危険"を感じたのか良くわかります」(さ る政治評論家)。
公明党は"呼び出し"を否定するが、菅氏は「予算委員会での答弁を閣議 決定で"撤回"すると言う異常なことが行なわれた。放置できません」と 語り、集中審議を求める構え。略)>
週刊新潮 平成二十一年一月二十二日号P三十四
ただ、残念な事に、昨年の十月の答弁は確認できたが、十二月二十四日の閣議決定、一月八日の国会答弁がネットにはまだアップされておらず、詳しい内容は確認出来ませんでした。
スポーツセンターに行く。下半身のみのメニューを消化。
Sくん来店。初めてのお客様Kさん三名様来店。初めてのお客様来店。Mさん来店。まりこさん二名様で来店。マユタン来店。営業終了後、真ユタンと「エムズバー」さん、「カヴェルナ」さんとハシゴ。私は中野の「石松」さんへ。帰りは「石松」のマスターと同じタクシー。
福岡良男氏の著書にみる売春婦、慰安婦について2
1月15日木曜日晴れ
今日も寒い 今更ながらであるが、最もふるい職業のひとつと言われている売春婦は、我が国はもちろん世界中にいる。この慰安婦、そして、売春という制度について福岡氏はご自身の著書に下記のように書いている。
<軍隊は、若い男性の集団である。性欲旺盛な若い男性の集団である。平和時でも売春婦が存在し性欲旺盛な男性の欲望を満たしている。
歴史的に見ても、動物的性行動の時代(古代)、個人売春時代を経て、鎌倉時代になると売春制度が生まれた。アメリカ独立革命時代(一八七五〜一八八三年)には、女性奴隷は、女性局部の外見の善し悪しで売り買いされた。 (Ove Brusendorff & Henningsen: History of Eroticism, Vet Pub Copenhagen 1968)
略)
この売春制度は、昭和三十一年に売春防止法が制定されて終焉を迎えたが、これはあくまで表向きであって、トルコ、ソープランドとかいういろいろの名称で売春は続き、社会からなくなっていない。 オランダのアムステルダムには飾り窓の女という売春の店が現在も存在している。
女性を買う男と、性を売る女が存在する限り社会から売春をなくすことは不可能であろう。> (p百三十二〜百三十三)
<戦時中の慰安婦を教科書に掲載することに反対する派と賛成する派の両派の主張を読んでみると、なぜ遊女がどうして現在まで存続しているかが論ぜられていない。 第二次世界大戦中、ドイツ軍もイタリア軍も慰安婦を伴っていた。またフランス政府は、ノルマンディー近くの海岸に、アメリカ兵専用の慰安所をつくった。エジプトでも政府が設立した慰安所をアメリカ兵が利用した。
大東亜戦争終戦直後の八月二十一日に、連合軍の命令で、政府は警視庁保安課を通じて、都道府県警察署長に「進駐軍特殊慰安施設指令」を発した。連合軍兵士向けの性的慰安施設、即ち占領軍慰安所(国際親善協会RAA)を設置しろという指令である。
略) その総数は、最盛期にはアメリカ軍の調査によれば、全国で七万人であった。
一方アメリカ兵駐屯地区では市民が強姦される、という事件が続発した。
私が、終戦後疎開していた鎌倉でも、私の知人の婦人が、真っ昼間アメリカ兵にピストルを突き付けられて強姦されるという事件があった。
その後、アメリカ新聞特派員の撮影した占領軍慰安所に並ぶアメリカ兵の写真がアメリカ本国の新聞に掲載されると、アメリカの婦人団体がこの問題を取り上げ大社会問題となり、日本での占領軍慰安所は廃止されることとなった。
突然職場を失った慰安婦は、街頭でアメリカ兵を勧誘するパンパン(街婦)となったり、チャプヤ(卓袱屋)形式のバーの女性となって、売春を続けて生きていくより生活手段がなかった。
これらの女性と業者は、アメリカ憲兵(MP)の監視下にあった。したがって、性病予防と称して、強制的に局所検査を受けさせた。性病罹患者のでたバーは「性病立ち入り禁止(VD、OFF LIMITS)と書かれた大きな張り紙をされ、営業停止を命じられた。感染源はアメリカ兵であるのに、と業者は憤慨していた。
私も、当時、東京市立病院(伝染病病院)の医師をしていたので、MPがトラックに乗せ連れて来たパンパンやバーの女医の局所検査を手伝わされた。
新橋周辺には、五メートルおきに一人位の割合でパンパンが立ってアメリカ兵に働き掛けているのを、日本人は横目で眺めていた。日本人を相手にしてくれなかったからである。彼女たちは、つかまえたアメリカ兵と付近の旅館やパンパンハウスに行き売春していた。
ローマ時代は、敗戦国の女性は戦利品として、性的奴隷として戦勝国に連行されたという史実がある。 (デンマークで発行された歴史書に戦勝国の軍人が敗戦国の女性を一列に並べ、局所をださせ、その品定めをしている絵が掲載されている)。
売春がなぜ歴史的になくならないのか、そして現在でも、なぜ世界各国で売春が行われているのか、なぜ性産業が存在しているのか、その本質についての議論がなされていない。この問題を議論すべきではないだろうか。> (P百四十二〜百四十五)
私も過去に何度も書いていますが、我が国の大東亜戦争時の慰安婦を問題にしている連中も、他国軍隊の慰安婦、そして、現代の慰安婦ともいえる基地の周りにおいて、軍隊をあいてにして商売にしている売春婦については口をつぐんでいる。ダブルスタンダードの典型である。
在日朝鮮人差別を叫び、在日朝鮮人を商売のタネにしている、あの在日朝鮮人にとっての恥さらし以外のなにものでもない辛淑玉女史などもそうである。ベトナム戦争において、戦後、朝鮮人とベトナム人の間にできた数千人の混血児が社会問題になった事、南朝鮮に駐留している米軍相手の朝鮮人売春婦をはじめ現在も我が国だけでなく、アメリカ、オーストラリアなど世界各国で朝鮮人売春婦が問題になっている事等いっさい口にせずに日本軍慰安婦について声高々に叫んでいるだけである。アホウとしか言いようがない。
そんなアホな事を言っている時間があるのであれば、東京だったら新宿、池袋、上野などの繁華街を歩いてみればよい。鴬谷のラブホテル街に行ってみればよい。我が国において朝鮮人女性が何をしているかみて見ればよい。戦前に比べて、豊かになった朝鮮。その豊かなはずの朝鮮からどうしてあれほど大勢の売春婦が我が国だけでなく世界中に「輸出」されているのか。現実を見るべきだろう。
一番多かった日本人の慰安婦の方が、どうして我が国に対して謝罪、賠償を求めないのか。考えてみるがいい。
今日発売の「週刊新潮」に「韓国は在韓米軍に慰安婦を提供していた」という記事が掲載されていた。産經新聞の一月八日に掲載されていた「韓国人元慰安婦、韓国政府と米軍を告発 NYタイムズ紙」というのがあったが、それが元になっているのでしょう。
産經新聞の記事については、NYタイムズの記事が「売春婦」と書いてあるのを、「慰安婦」としている。悪質な改竄だというような突っ込みもあるようですが、そのNYタイムズの記事http://www.nytimes.com/2009/01/08/world/asia/08korea.html?_r=3&hp
には、「彼女らは、第二次世界大戦中に日本人によって売春を強要されたことについて、広く公共の共感を勝ち得たいわゆる従軍慰安婦と自分達を比較し補償と謝罪を求めている。自ら選んだ、必要だったから、強制であったかに関わらず売春婦は全て政府の政策の犠牲者であったと言うのだ。」
「 女性の主張は驚くべきものではない。何十年もの間、売春が不法である韓国が米軍基地の近くで売春を許可していたのは明らかであるからだ。世界中の軍事基地の周囲と同じように、韓国でも飲み屋や売春宿は長い間米軍基地を囲むようにして立ち並んでいる。 」
と書かれている箇所を無視しているように思うのですが。
まあ、産經新聞も「元慰安婦のグループ」と書かずに、「元売春婦いわゆる慰安婦」を提供していたと書けばよかったのです。そうすれば、アホな連中から突っ込まれることなかったと思います。「いわゆる慰安婦」は「売春婦」には違いないのですから。
福岡氏が書かれている「売春がなぜ歴史的になくならないのか、そして現在でも、なぜ世界各国で売春が行われているのか、なぜ性産業が存在しているのか、その本質についての議論がなされていない。この問題を議論すべきではないだろうか。」という言葉が本質を突いていると思うのは私だけでしょうか。
北京オリンピック柔道金メダリストの石井慧が、成田空港から米国に向けて出発する時に、母校の国士舘大学について「腐ったみかんと一緒にいたら、こっちも腐ってしまう。切るなら切ればいいけど、その度胸はないでしょ」とホザイタそうな。
自分が高校の二年間(途中編入)、そして、大学の四年間世話になった母校である国士舘に対して、この言葉はないだろう。石井という人間がよくわかる言葉です。
ところで、「切るなら切ればいいけど、その度胸はないでしょ」って、どういう意味でしょう。このままだと、単なる単位不足で卒業出来なくて、中退扱いになるだけのことで、それは石井の大学における四年間の学業の結果であって、大学から切る切らないは関係ないことでしょう。勘違いも甚だしい。
今日もめちゃヒマ。Sさん来店。のみ・・・・今年最初のオチャピーでなくて、よかった。
Sさんと飲む。フリーの物書きさんとして生きて来たSさんといわゆる「派遣村」に集まっている連中の話になる。なんで、このくそ寒い時期になってから、わざわざ公園を選んでテント生活なんだ?本当に集まっている連中のことを考えたら、テントを手配するより、空いている建物を確保した方が、いいだろうに。政治的パフォーマンス以外になにがある。そして、その中に、以前からのホームレスの連中はどのくらいいたんだ。生活保護を寄越せとか言っていたが、生活保護により、働かなくて、国民年金より多い金をもらえれば、働かないままの連中はいっぱいいるだろう。国が悪いという前に、こいつらどういうことを自分らでやったんだ。国はこうなった補償しろなんて言っているが、フリーでやっているSさんも自営の私も何も補償などない。仕事が無ければ自分が悪い、つぶれれば自分が悪い。ただそれだけだ。国が悪いなどとは言わん。派遣社員でいる間にも、その境遇について満足できないのであれば、それなりにいろいろと行動できることはあっただろう。国に対して自分たちの権利を要求する前に、もっと、しなければいけないこと、出来たことがあるのではないか、
今でも、選ぶと仕事はないかもしれないが、ただ仕事だったらいくらでもあるのではないか。
でっ、ドンチャン。記憶はあり。
平成21年1月14日水曜日晴れ 寒い
福岡氏の著書には慰安婦に関する興味深い記述もあります。
以下引用
<売春婦が部隊付近、とくに炊事班の付近に出没しているという噂が部隊内にながれた。部隊はヤシ林の中にあり囲いはない。
炊事班は、煮炊きによる煙によって敵の部隊に位置を知られないよう、部隊本部から数百メートル離れた谷間に置かれているので取り締まりがむづかしい。公用外出時の下士官や外出日の兵を、売春婦が声をかけて誘い、ヤシ林のなかで売春をしているという噂がながれた。
炊事班には、残飯や食物を貰いに来て、その代償に性行為をさせる女性もいるという噂が耳に入った。性病罹患者が出ることを警戒して、各中隊に対して副官と坂方軍医大尉から、売春婦の誘いにのらないようにとの厳重な注意が与えられたが、その後間もなく、心配していた性病罹患者が出始めた。>
(P百三十)
慰安所の設置について
<ある日、突然M主計少尉から、「軍医さん、慰安所ができることになりましたよ」と言われた。
はじめは正直をいって慰安所は喫茶店のような憩いの場所と思った者が多い。ところが、よく聞いてみると慰安所とは女郎屋である。
軍隊内と現地一般住民間に性病が蔓延するのを防ぐために、さらに現地婦人を性の捌け口にしないようにするために慰安所ができることになった、とのことであった。
経営は韓国出身の日本語の上手な女性(朝子)が、慰安所の女性集めは出入り御用商人のニコラス・タンブブン、フレッ・タンブブン兄弟が担当することになったとのことであった。慰安所の女性を集めるために必要な布地などの物資は、部隊の主計からニコラスに与えるとのことであった。
慰安所の女性の健康管理(局所検査を含め)は、軍医さんにお願いすることになっていますとM主計少尉から言われた。
慰安所設置は、軍の組織上、M主計小尉が単独で決められることではない。部隊長(IM陸軍少佐)、UT副官からの命令なくしては設置が不可能である。SS軍医大尉に事前相談があったかどうかはわからない。>(P百三十一)
(SS軍医大尉とは何度も名前が出て来る坂方真三軍医大尉のことと思われるが、ここで、SSとする意味があるのであろうか)
この後、慰安所について福岡氏は下記のように記している。
以下引用
<慰安所の建物
主計が大きい木造民家を借り上げ、改装して小部屋を沢山つくり、慰安婦に個室があたえられた。
慰安婦はこの部屋で売春をした。慰安婦の外出は自由であった。
慰安所の利用方法
慰安所を利用したい人は、慰安所係の下士官にチケット代金を渡すと、慰安所係の下士官は主計からチケットとコンドームを受け取り希望者に渡していた。
慰安所利用者は、チケットを慰安婦に直接渡した。
慰安所経営者はチケットをまとめ、主計へ行き現金と交換していた。その折に、慰安所経営者は米など生活必需品、布、薬品などを主計からもらっていた。
兵、下士官の慰安所の利用時間は、各分隊に割り当てられていた。将校には夜間が割り当てられた。
慰安所係下士官
慰安所係下士官なるものが副官から任命され、慰安所で、兵、下士官同士のトラブル、慰安所とのトラブル、慰安婦の部屋の清掃状態等、秩序の維持にあたっていた。慰安所係の下士官には品行の悪い下士官が任命された。
慰安婦の人数
慰安所が部隊ごとにあったことは事実であり否定しない。慰安所には少ないところで四〜五名、多いところでは十〜二十名位の慰安婦がいた。全員インドネシア人であった。
私が所属した独立歩兵第三七五大隊は、ケマ、トリアンゴキ、ソンデル、ベランの四地区に分散駐屯していたので、慰安婦全員の人数は不明であるが、ソンデル町には約十名、ケマ町のは約二十名の慰安婦がいた。
慰安婦の局所定期検査・兵の陰茎定期検査(M検査)
性病予防のため慰安婦の局所検査は週に一度、兵の陰茎検査は月に一度、軍医によって行われた。慰安婦の検査にはなぜか憲兵が立ち会った。>
(P百三十九〜百四十一)
この福岡氏の所属部隊においては、慰安所の経営者が朝鮮人女性であり、慰安婦を集めて来るのはインドネシア人の商人であることが記されている。
そして、<終戦後、部隊の慰安婦には主計から沢山の軍票と布地が与えられたが、出身地に帰れぬ女性が多く、哀れであった>(P百七十六)
と書かれている。現在でも、どこの国に置いても、売春婦が故郷に帰って、どのような仕事をして大金を稼いだか、公言できる人はまれであろう。
大阪の中学教師である久保井則夫氏などは、その著書「教科書から消せない歴史」(明石書店 一九九七年)で、<自発的に「慰安婦」になって、大金持ちになった朝鮮人女性の事例等未だに聞いた事もない。聞こえてくるのは、日本軍によって「性奴隷」そのものの過酷な使役を強制され、戦場を引き回された女性の悲劇しかない>p一六四
と書くが、慰安婦という商売が、当時として短期間で大金を金稼ぐ事ができた事は事実であり、不幸な事に故郷への帰還が遅れ、すべてを無くした人もいるだろうが、それは他の事業をおこなっていた日本人も同じである。アホとしか言いようが無い。こんなアホが教師をしているのです。
(この本を書いた時点で(一九九七年)大阪府摂津市立第二中学校で教論をやっていた)
Mさん来店。一名様来店。ご近所に引っ越していらしてそうで、大きな犬を飼われているそうな。二名様来店。
福岡良男氏の著書にみるオランダの統治下におけるインドネシアの医療
1月13日火曜日晴れ 寒い △
福岡氏は、著書にて腹水患者の治療について、下記のように書いています。
「私の駐留していたソンデル町の隣村レイレムに現地住民の患者がいるので見て欲しいという依頼がソンデル現地住民からあった。
略)
なんとか助けてあげたい。色々の薬を使ってあげたいと思ったが、部隊にはあまり薬がない。まして利尿剤はない。一時的にでも、患者の苦痛を和らげるため腹水を採取することにした。
略)
腹部に局所麻酔をして紐で腹部を締め、注射器で徐々に腹水を採取した。
略)
現地人が利尿薬として使っている現地の薬草(クミスクチン)を投与したところ、腹水が大分減少し、楽になったと感謝された。時々往診して対処療法をしてあげたが一ヶ月後に、吐血(食道の静脈瘤の破裂)で死亡したことはかえすがえす残念であった。
家族は、生まれて初めて医師にかかることができたと喜んでくれた。私には信じられない言葉であった。
オランダ植民地時代には、オランダに協力した特権階級か、金持ちでないと医師にかかることができなかったことを現地住民から聞き、植民地時代の庶民の惨めさをはじめて知った。医師は庶民にとって無縁の存在であったらしい」(P百十六〜百十七)
インドネシアにおいてオランダがどのような統治をしていたかの一つの例として、よくわかる体験談です。
オランダ統治下におけるインドネシアでの医療については
<オランダは植民地時代にインドネシアにおいて徹底的な愚民政策統治をとったので、日本がインドネシアに侵攻したときには医者が七万人に一人しかいなかった(宮元静雄氏元ジャワ派遣軍作戦参謀談 「日本の心を語る三十四人」明成社刊p二二一 元南方特別留学生でもある元バハリン・ヤヒヤ氏 インドネシア外務大臣との対談にて)>という数字まであります。
福岡氏は、ある日、専任軍医の坂方軍医大尉より、高熱で苦しんでいる住民の往診をするように言われ、中嶋楠太郎衛生兵とともに、ソンデル町小ロンガン・パウに住む背部にある大きな膿?をともなった「できもの」による敗血症を併発して苦しんでいるヤン・センドック氏に対して、手術をし、化学療法剤を投与し、毎日、切開創の治療と化学療法剤の投与のため往診した結果、三週間後には全快したそうです。
この時使用した化学療法剤は、当時、最も新しい抗菌剤として開発されたサルファチアゾールであり、内地出発にあたり武田薬品株式会社が、餞別として贈ってくれた私物だったそうです。
ヤン・センドック氏はその後メナドに転居したが、福岡氏の恩を忘れずに、戦後、福岡氏がメナドを訪問した時に、自宅に招待し感謝の宴を開いたばかりでなく、当時の他の患者だった人にも呼びかけ、メナドのカワヌア・シティー・ホテルで八十数名の元患者とその家族による歓迎ダンスパーティを開いたそうです。
福岡氏は、この時ほど医師になって良かったという気持ちを持ったことはなかったと書いておられます。 (P百十八〜百十九)
このように、福岡氏は戦後もインドネシアの人々との交流を続けられたことがこの著書には書かれています。
仕込みをしていたら、コンコンとノックの音。(ドアでなく、引き戸の場合は、ノックはどうも違和感がある。)
若い男性
「ヴィクトリア・ジャクソンの営業のものです。」
「はあ?なんですか。それ」
「ヴィクトリア・ジャクソンです」
「いや、ですから、なんですかそれ。」
「ヴィクトリア・ジャクソンです」
「ヴィクトリア・ジャクソンってなんですか。なんの御用ですか」
「いや、ですからヴィクトリア・ジャクソンのコスメのご案内」
「いや、コスメって?」
「こういうものです」
「化粧品、おれ、男ですから何もつけませんから」
「いや、プレゼントでも」
「いりまへん」
ヴィクトリア・ジャクソンという会社名を日本人だったら誰でも知っていると思っているのだろうか。酒の飲まん人は、酒の銘柄など有名銘柄以外は興味ないでしょう。
一名様来店。マロさん来店。二名様来店。マロさんと「エムズバー」さんに行く。その後、「石松」さんに行く。ドンチャン。
福岡良男氏のインドネシアでの医療活動
1月12日月曜日晴れ
福岡氏は独立混成第五十七旅団・独立歩兵第三七五大隊に所属していました。部隊長はIMとなっていました。これは、福岡氏の著書にこの部隊長の行動について批判的な箇所が頻繁に出て来るためです。ちなみに、IMとは岩本貢陸軍少佐と思われます。
(著書に所属旅団の構成および隷下部隊が書かれ、それぞれの旅団長、部隊長名まで掲載されていますから・・・・ミエミエ)
福岡氏は着任早々、このIM部隊長に、せっかく、父親が持たせてくれた軍刀を取り上げられてしまいます。P九七 (福岡氏は江戸時代の準古刀と書いていますが、関ヶ原の戦いを境に古刀と新刀を区別しますので、新刀もしくは後半の新々刀という呼び方の方が一般的ではないでしょうか)
オランダは植民地時代にインドネシアにおいて徹底的な愚民政策統治をとったので、セレベス島コヤ村に駐屯中の福岡氏の独立歩兵第三七五大隊に軍医がいるという噂を聞き、治療を求めて多数の現地の人々が押しかけてきた。 福岡氏は軍関係者以外の診療を行ってはいけないことと知りながら、衰弱した病人をみるにしのびず、坂方真三軍医大尉の許可を得て、村長宅で午後の暇の時に診療をはじめ、連日多数の患者が押し掛けて来たが、数日後司令部より、現地人の診療は、直ちに中止するように通達があった。
しかし、坂方真三軍医大尉、杉山軍医見習士官とともに、急病人だけでもと、外出を装って診療していたが、副官に見つかり、許可なく外出ができなくなってしまった。
福岡氏は「東亜の民族解放を叫びながら、他民族を切り捨てた軍部の態度に、われわれを歓迎してくれた現地住民の心も、次第に、日本人から離れていく運命にあると思った。 略」 コヤ村の住民は、日本人をどのように見たであろう。私を、なんと冷たい医師と見たことであろう」と書いています。(P九九〜一〇〇)
セレベス島北部のメナドから南に四十キロの場所にあるソンデル町において、住民から巡回診療要請が部隊にあり、先任軍医の坂方真三軍医大尉の配慮で、部隊診療の傍ら無料巡回診療を福岡氏は始めるが、その数日後、IM部隊長(岩本貢陸軍少佐?)から「住民の診療をしてはいけない。兵隊に塗る薬はあってもインドネシア人に塗る薬はない」と命令があり、続行が不可能になる。
しかし、この話を聞いた貨物所分所の坪田定雄準尉から、員数外の薬品があるからと提供を受けたり、部隊の真野晃主計少尉も陰でいろいろと援助してくれ、福岡氏も、私物の薬品と現地の薬草を使用して治療に当たる。
福岡氏にとって、一番の心の支えは、先に書いたように、先任軍医の坂方真三大尉の「気にしないでもよい。責任は俺がとるから続けて診療してやりなさい」という言葉であった。(P百十三)
このように、多くの人に支えられ、無料巡回診療は再開された。
この無料巡回治療により住民から福岡氏は感謝され、
「無料巡回診療は住民は無条件で感謝してくれた。私は医師として当たり前のことをしただけであるのに、住民の私に対する親近感は強まり、道ですれ違う時に最敬礼をしてくれるのには恐縮した。
自分の家へ泊まってくれ、食事をしていってくれ、という住民たちの厚意を断るのに苦労したほどであった。夜になると、連日現地の住民が、私の宿泊先の民家に集まって来て、私と遅くまで話し合った。
略)
私はこの毎晩の対話によって、インドネシアの人々が、日本の明治維新の青年が抱いていたと同じような、民族独立と繁栄に対する強烈な情熱を抱いていることを知り、私自身も、彼等の情熱と気概のとりことなってしまい、インドネシア独立のために役立つ人間になりたい、という気持ちを持つようになった。
その時以来、彼等と私の間には強い絆が芽生え、今日に至るまで友情は続いている。彼等の希望に満ちた輝かしい表情は、いまでも私の脳裏に焼きついている。」(P百十四)
と書いています。
この時期、福岡氏は部隊の薬品不足を補うためと、巡回診療に使用する薬の確保のため、インドネシアで薬草を探しています。その時に役に立ったのが、武田薬品工業の駐在員であった星野暹氏の指導であったそうで、星野氏よりの薬草資料は今でも原本を持っておられるそうな。
福岡氏は三輪清三軍医大尉(終戦復員後、千葉大学内科教授)が、現地でマラリヤの薬として使用されていた薬草クリット・カユー・トロールが、臨床実験の末、解熱作用はあるがマラリヤ原虫を殺す作用のないことを明らかにし、それを粉末にし、タピオカの粉末と混ぜ、丸薬をつくり、解熱剤として住民の診療に使用し、現地医療に貢献されたことなども記しています。(P百十五)
その他、マラリヤ原虫を探すコツを、インドネシア人の若いマンツリー(医師の資格のない医療従事者)におそわったことなども詳しく書かれています。
支那とインドネシアの差?
平成21年1月11日日曜日晴れ ○
我が国のNPO法人が編集した日本語教材が支那で出版されたが、原本に史実として収録された「旧日本軍医が多くの中国人を助けた」という内容に対して、支那側が難癖をつけて、削除されて出版されたことが、昨年十二月三十日付けの産經新聞矢板明夫記者の記事で報道されていました。
以下引用
略)
中国では愛国主義教育の一環として、日本軍の残虐さを誇張して描写した書籍が大量に出版されており、こうした日本軍のイメージと矛盾しているため中国側が難色を示したとみられている。
略)
中国側が問題視したのは「永井隆、原爆の地 長崎に生きる」という文章だった。
長崎に原爆が投下された後、自分も被爆しながら、多くのけが人を治療した医者、永井隆氏の生涯をつづった文章で、一九三七年に永井氏は軍医として中国に赴き、日本人だけでなく、病気や負傷した中国人を多数治療したことも紹介された。
その中で、「一九三九年には一年間で四〇〇〇人の中国の人々を助けた」などの部分について、中国の出版社が「記述に問題がある」として日本側に手直しを求めて来た。
日本側は、執筆の際に参考にした「永井隆全集」など多くの史料を中国側に送り、説得しようとしたが、結局「永井隆」の部分は、すべて削除して出版された。
略)
同教材は二〇〇七年十月に韓国で出版され、来春には台湾でも出版される予定だが、いずれも原本のままで、内容については問題視されていない。
引用終わり
産經新聞二〇〇八年十二月三十日
流石は、支那です。恩人を平気で殺す留学生の国だけのことはあります。すばらしい国です。こんなすばらしい国の留学生を優遇してまでドンドンいれようとしている腐れ政治家、腐れ役人。
今、我が国には、こんなすばらしい教育を受けた支那人が六〇万人以上も住んでいます。
手元に、「軍医のみた大東亜戦争インドネシアとの邂逅」(福岡良男 暁印書館 二〇〇四年)という本があります。
元軍医としてインドネシアに従軍された東北大学医学部・名誉教授の福岡良男氏の名前を最初に知ったのは、堀内豊秋海軍中佐について書いた時に引用させていただきました「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 福祉友の会・200号『月報』抜粋集」に掲載されていた福岡氏の「医師が見た大東亜戦争 巡回診療で知った堀内豊秋海軍中佐の善政と民族意識」という記事によってです。
著書の「軍医のみた大東亜戦争 インドネシアとの邂逅」は福岡氏が、インドネシアセレベス島北部に従軍した時に書いていた日記・記録・メモなどによるものを土台として、ご自分が体験されたこと、体験者から直接聞いたことをのみをまとめたもので、貴重な資料となっています。
なぜなら、軍医であった福岡氏は復員時に日記・記録・メモなどの没収を免れたために、記憶だけでなく、正確な記録として残すことができたのです。
そういう資料的な意味では、以前に引用させていただいた同じインドネシアの「日本占領下バリ島からの報告」(鈴木良平 草思社 一九九九年)と同じ価値があると思います。
後、福岡氏の著書には、戦後もインドネシアとの関係を大切に思い、交流を続けてこられた福岡氏ならではの記述もあります。
福岡氏はセレベス島において部隊の診療の傍ら、先任軍医の坂方真三大尉の「気にしないでもよい。責任は俺がとるから続けて診療してやりなさい」という配慮で、現地住民の無料巡回診療を続けました。
この無料巡回診療に住民は無条件で感謝し、道ですれ違う時に最敬礼までするほどであったという。
戦後も、その時に命を救ったヤン・セドリック氏をはじめ、多くのインドネシアの人々との交流などもこの本には描かれています。
福岡氏には戦後、インドネシア政府をはじめマナド赤十字などから、多くの感謝状・表彰状・盾などが贈られています。
支那政府とはえらい違いです。
1月10日土曜日晴れ
見学中止の築地市場が、今月の十九日から受け入れ再開というニュースがありました。
それによると、<再開にあたっては、競り場入り口に複数の警備員を配置するほか、禁止行為を英語で記した紙を観光客に示し、ルール順守を求める方向だ。同市場のホームページでも、英語で見学ルールを掲載する。>となっているが、これだけでは駄目でしょう。支那語と朝鮮語も必要でしょう。 なにしろ、JRの駅の表示板には英語とともに支那語、朝鮮語が書かれているのですから、注意するのだけは英語だけというのは差別でしょう。 現実に、河岸でマナーが悪い外国人は英語圏からの人だけではありません。支那人、朝鮮人のマナーも大変醜いものがあります。ちょっと見が日本人と区別がつきにくいので、そのマナーの悪さが、他の国の人々ほど目立たないだけです。支那語、朝鮮語でも注意文を書くべきです。そうしないと、問題の根本的解決などほど遠いでしょう。
めちゃヒマ。Iさん来店。のみ・・・・・
飲まないで後始末をしてさっさと帰る。
本多勝一とお笑いジャーナリスト魂
平成21年1月9日金曜日雨 寒い △
本多勝一氏は自身の著書「中国の旅」についてこう述べています。
「なぜ、今ああいうものを書いたかといいますとね。結論から先にいえば、今だからこそ書いたんです。終戦直後でもない、十年前でもない、まさに今だからこそなんです」
「日本人は、大ざっぱにいって侵略民族です。アメリカ人もそうですね。
略)
日本人自身がやったことに触れたがらない。私が今回、具体的にそれを描いているのは、どういう殺され方をしたかを知らせることです。概念的に、何千万人殺された、じゃ説得力がない。風景として、どのように殺されたかを知ることで、それは意味が違ってくるんです。
日本の報道機関は、ソンミ事件やニューヨーク・タイムズのベトナム秘密報告のスッパ抜きがあると、さすがはアメリカだとほめるんですね。ほめるぐらいなら、自分でやればいいんじゃないかといいたいんです。うん、まあ、そのやればいいことを、今回、私はやったんですがね。朝日新聞を含めて、ジャーナリズムも、こういうことを書くことをサボってきた。今書くのは時代に迎合しているという人もいるかも知れないが、仮に迎合したっていいじゃないですか。私はかまわないと思う。もっと大きな意味があればね。」
(週刊新潮昭和四十六年九月二十五日号の記事「朝日のエース 本多勝一記者のやっていること」より わたしは「週刊新潮が報じたスキャンダル戦後史」(新潮社二〇〇六年刊 p五三より引用)
本多氏は「中国で日本軍が何をしたかを詳細に報道した私のルポタージュ『中国の旅』」と自身の著書「中国の日本軍」(蒼樹社 一九七二年第一刷発行 一九九〇年第二十二刷発行)p二三八に書いています。本多氏は後に、当時、支那にいた日本人の人々から事実と違うという抗議を受けた時に「中国政府のいうままに書いただけだから、抗議は中国政府にしてくれ」と言い逃れしました。
支那の走狗として活躍している本多氏のジャーナリスト魂とは所詮この程度なのです。「自身がやったことに触れたがらない。」という言葉は、自国の歴史を嘘で固めた支那・朝鮮に対して言ってほしいものです。
「週刊新潮が報じたスキャンダル戦後史」に本多氏の記事は「二、虚飾の英雄」という項目の一番最初に掲載されています。 「嘘飾」・・・嘘で飾る、まさにこの売国奴にぴったりの言葉です。
バンブーさん来店。Sさん来店。小胡子さん来店。二名様来店。KくんMさんと来店。江上さん、中島さん、高橋さん、昼間さん来店。 高橋さんと昼間さんは江上さんのお父上である江上茂氏のお弟子さん。蛭間さんは四十年以上前よりスペインに渡られ、空手の普及に努められている。 現在はスペイン王子のお弟子さんのひとり。 営業終了後、Kくん、Mさんとラーメン屋さんで餃子とビール・・・・・・ |
本多勝一と天皇
平成211月8日木曜日晴れ 寒い △
二十年前の昨日、一月七日昭和天皇が崩御され、昭和が終わり、平成が始まった。
我が国は天皇とともにあるが、その天皇について、本田勝一氏はどう語っていたか。
<「こういうもの(注=天皇)を、平然と飼っている日本人を、心底から恥じさせてくれる存在」
「利用された気の毒な人なのだから、死刑にしなくてもよいが、国外追放にして今後また利用されないようにする。南米あたりに移住してもらって、あそこの勝ち組の日系人たちに飼ってもらったら」>
「我々にとって天皇とはなにか」(エール出版)という問いに対して「北京から」回答して。週刊新潮昭和四十六年九月二十五日号の記事「朝日のエース 本多勝一記者のやっていること」より 私の引用は「週刊新潮が報じたスキャンダル戦後史」(新潮社二〇〇六年刊) p五三より引用
<言葉だけでアイマイにしておく「罪」などは、日本以外にはほとんど存在しない。きびしいリアリズムなのだ。日清戦争以来五十年間も中国を侵略し、日露戦争中の中国人殺害なども含めると何千万人も殺した過去について、どうしてそのようにかんたんに「あやまる」のだろうか。
このような態度は、中国では全く通用しないのだ。
略)
中国人が何千万人も殺された行為が、どのような構造によってなされたかを、素朴に、原点にさかのぼって考えてみよう。これは実証してゆけば、大册の単行本になってしまうけれど、そんなことをするまでもなく、実はほとんどの日本人は知っている。天皇制。すべては天皇に象徴される天皇制軍国主義によってなされた。もちろんそのさらに底には財閥があるけれども、構造の頂点に天皇があったことは否定できない。三光作戦による皆殺しも、天皇の名においてすべて正当化されてきた。赤ん坊を面白半分に突き殺し、その母親を強姦する行為も、すべて天皇の名によって「聖戦」となるのだった。中国人がこんなにもひどい目にあわされたことの元凶は、天皇制軍国主義である。その天皇が、今なにをしているか。
略)
私たちは、多少はスジの通った考え方のできる者であればだれでも知っている。天皇制などというものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろものだということは。ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いするであろうことも知っている。にもかかわらず、平均的日本人よりは「良識ある」報道人が作り出す大新聞さえ、『ニューヨーク・タイムズ』と決定的に違って、ニューギニア高地人に大笑いされるような、ドバカな記事を書いているのである。世界に希有なこの大迷信によって、戦争中の私たちは、あんなにもだまされ、あんなにもひどい目にあった。敗戦のとき報道人は「もうだまされまいぞ」と心に誓ったのではなかったのか。どうしてそれが、今でもこういうことをやっているのだろうか。どうしてそれが、今でもこういうことをやっているのだろうか。だが、この「良心的」報道人の態度は決して報道人特有のものではなく、日本の一般的知識人の正体の反映なのだ。恥ずかしい。日本が侵略したアジア諸国の人々に対してとくに恥ずかしい。この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人。侵略の口実とした天皇をそのまま「あがめたてまつ」っている日本人。第一に謝罪すべきアジアでなく、ヨーロッパあたりへ出かけてはほっつき歩く天皇を大々的に報道する日本人。こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろうが、私もまたその一人なのだ。少しでも、もう少しでも、ましな民族になってほしいと、いたたまれない「愛国」の気持ちで、こんな文章も書いている。
略)
戦後、天皇は人間になったなどといわれたが、「象徴」という奇妙な存在として、結局は天皇制が残された。このあいまいな存在。こういう思想的甘さが、どれだけ残酷な結果をもたらしてきただろう。
略)
日本および日本人については、そのような意味で根底をなすものは何か。それこそまさに天皇制である。しかも天皇制は、常に「悪」の面でのみ、日本人にかかわり、支配している。世界の人民の平和のために、消えてなくならなければならないものはたくさんあるが、天皇はその典型のひとつといえよう。>
(本多勝一氏の著書「中国の日本軍」蒼樹社p二九四〜p二九八より引用 同文は「月刊社会党」一九七二年一月号に掲載されたもの)
この本多氏の言葉を読んで、怒りを覚えない普通の日本人は皆無でしょう。ちなみに、この時、本田氏は朝日新聞のバリバリの第一線記者であり、スター的存在でした。このような者が看板記者であり続けた朝日新聞というものがどういったものであるか。今更ながらによくわかる事例です。
Tさん来店。Mさん2名様で来店。二名様来店。Hさん来店。K@京城さん三名様で来店。
小野田寛郎元少尉にとっての祖国日本2
1月7日水曜日 晴れ
敗戦や 妻なく子なく金もなし 職もなければ死にたくもなし
これは小野田寛郎氏が、二十九年間の戦争をして五十二歳近くになり帰国した後に、その時の心情を詠んだものです。
小野田氏は帰国後、日が経つにつれ、戦後の日本に違和感を感じるようになったそうです。
日本に帰国して半年後の昭和四十九年十月四日、次兄、格郎氏のいるブラジルに三ヶ月の旅行にでます。そして、帰国後、昭和五十年四月、ブラジル永住を決め、わずか一年で再び日本を離れます。
小野田氏五十三歳の年です。
ブラジルに渡った小野田氏は、ブラジル中西部、南マットグロッソ州バルゼア・アレグレ移住地に、ヘクタール当り三万六千円で五百十四ヘクタールの土地を購入する。
三回に分けて購入した土地の頭金は手記の印税で払い、残りは知人から借金した。国から多額の保証金を貰っただの、ブラジル政府から土地を貰っただのの噂が流れたが、すべて根拠のないデマだった、若干の見舞金も靖國神社に奉納してしまった小野田氏には、手記の印税以外の金はまったくなかった。
のちに結婚する町枝夫人と懸命に働き、現在の千百二十八ヘクタール、千八百頭の牛を有する小野田牧場を作った。
移住して七年間は電気もなく、ランプで暮らし、護身用と狩猟用に四丁の銃を持ち、ジャガーや大蛇の襲撃、軽機関銃を手にして、牛泥棒と対峙した。
そんな小野田氏は、
「みんな僕のことを気の毒がってくれるけれど、何も、僕は気の毒でも何でもない。気の毒なのは死んだ人。僕はこれから働けばいいんだから。何も同情してもらうことはないって気持ちもありました」
「性質ですかね。済んだことは済んだことで、愚痴を言ってもはじまらない。愚痴を言えば前に進む力がへるだけでしょ。だから、愚痴を言うのは大嫌いです。愚痴や泣きごとを言う人も大嫌い。
戦争で三十年近くを無駄にしたと思われているけれど、でも、その分ずい分強くなりましたよ。南方の自然や天候気象について、生きるために得た知恵もある。結局、それが後で役に立つんですからね。だからあながち無駄じゃあないんです。要は、自分がどう使うかなんです。無駄と思ったら、無断になっちゃうんでしょうね。どっちにしろ、強くなったことは確かに強くなりました」
(「小野田寛郎の終わらない戦い」戸井十月著 P百三十三〜百三十四)
と述べている。
悪いことはすべて他人のせいにして生きている人間が多い日本では、小野田氏は暮らしにくかったのでしょう。
二十年十二月十三日の産經新聞に、小野田氏の帰国直後である昭和四十九年三月二十日に掲載された「高貴に生きた小野田さん」と題する日本文化会議専務理事・鈴木重信氏の論文が掲載されていました。
その中で、鈴木氏は
「小野田さんの生還が、日本人を感動させたのは、その体験の異常さではなく、増して軍国主義の亡霊としてでもない。与えられた運命を甘受して、三十年間を任務の遂行に賭けた、この生き方である。
オルテガは自分に多くの要求を課し、進んで困難と義務を負う人間を真の貴族と呼んだ。小野田さんはまさにこの高貴な精神を生きて見せたのであり、これこそ平和と繁栄の中で欲望肥大症にかかった日本人が喪失したものである。現代の日本人は、まさに虚を衝かれたのだ。戦後の教育の見失ったものを、いま謙虚に小野田さんから学ばねばならないのである」と述べておられます。
以前にも書いた事はあると思いますが、政府は引きこもり対策として、多額の税金を投入しようとしているが、そんなものが果たして必要なのだろうか。健康な成人が引きこもりをしていることに国が金を使う必要があるとは思えない。もっと、根本的な教育に金を使うべきだろう。もっと、普通の教育をすべきであろう。
年老いた親が、いくら自分の子供とはいえ、いい年をした健康な成人を食わせているというのは異常としか思えない。普通は、逆だろう。人間、腹が減れば自分でなんとかするのが当たり前です。親が食わしてくれるから親に甘えて、ええ歳をして働こうともせず、世間が悪い、社会が悪いと文句ばっかり言っているだけの者も多いのではないだろうか。健康な成人なのに、餌をやらなければ、死んでしまうというのであれば、そんなアホは死ねばよい。生きていても、世の中のためには何にもならない。
午後より一〇日ぶりにスポーツセンターに行く。あまり時間がなかったが、一応一通りのメニューを消化。
きっと、明日は身体のあちこちが痛いと思う。
金ちゃん、マロさん来店。平成二十年度「お前が言うな大賞」受賞者のoresama777さん来店。景品の磯自慢大吟醸を受け取っていただく。小胡子さん、BOOちゃん来店。Sさん来店。Kくん、Hさん来店。
ドンチャン。営業終了後、金ちゃんとKくんと三人で高円寺のイタリアンに酒を持ち込みドンチャン。(徹夜明けのマロさんは帰宅)マルガリータさん合流。
「派遣村」とかいうのが話題になっている。本当に手を差し伸べなければいけない人もいるだろうが、そうでない人も多いのではないだろうか。何がなんでも国が悪い、世の中が悪いといってばかりいて、人の助けを待っているより、前向きにやれることもあるのではないだろうか。
小野田寛郎元少尉にとっての祖国日本
1月6日火曜日晴れ
「小野田寛郎の終わらない戦い」(戸井十月著 新潮社 二〇〇五年刊)を読む。
小野田寛郎元少尉は昭和四十九年三月十日夜、フィリピン空軍では整列した兵の捧げ銃で迎えられ、
翌日、マラカニアン宮殿でマルコス大統領は、
「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として四年間戦ったが、三十年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。」
と賞賛され、三月十二日、空港に向かう小野田氏を、フィリピン軍楽隊は「フィリピン国歌」、「君が代」そして「ハッピーバースディ」の演奏で送った。
マニラ空港より、日本政府が用意した日本航空特別樹により帰国した。パーサーもスチワーデス(今や死語ですが)も小野田氏の故郷である和歌山出身者から選ばれた人たちであったという。
三月十二日午後四時二十分、羽田空港に着いた小野田氏を迎えたのは、大勢の人であったが、整列した兵の捧げ銃も軍楽隊の姿はなく、空港に流れたのは、わずかに、デッキで出迎えた、見知らぬ民間人の元近衛兵だった方がたったおひとりで吹かれる軍隊ラッパの音色だけであったという。
ご両親、ご兄弟、戦友の島田伍長、小塚一等兵のご遺族よりも前に、タラップの下には百人近い政府関係者が並び待っていた。タラップを降りた小野田氏を待っていたのは、先を争うようにして名刺を差し出す政治家だった。
その後の会見も、後に小野田氏が「苦しく、そして腹立たしい会見だった」と書いたようなカスマスコミらしいアホな質問ばかりだった。
小野田氏は、そのまま国立第一病院に強制的に入院させられ、マスコミはそんな小野田氏に取材もないまま体験を面白可笑しく書き、その想いを勝手に推量したり決めつけたりした。
入院させられて数日後に、当時の田中角栄首相より一〇〇万円が届けられた。
田中角栄氏のポケットマネーであるその一〇〇万円の使い道をアホなマスコミから聞かれた小野田氏は、「靖國神社に奉納します」と答えたが、それに対して軍国主義に与する行為だと非難の矢面に立たされる。
小野田氏は政治家や善意の人からの僅かな見舞金以外、手にしたお金などないが、政府から多額の保証金を内密に受け取ったから、一〇〇万円というお金を靖國神社に奉納できるなどという噂までながされる。
三月二十六日、我が国政府は、自民党の鈴木善幸総務会長を特使としてフィリピンへ派遣し、マルコス大統領に感謝の意を表明。田中首相の親書と小野田氏からの手紙を渡し、フィリピン政府に三億円を贈ることを閣議決定した。
三月三十日、十九日ぶりに退院した小野田氏を待っていたのは、厚生省の役人によるスケジュールのもと、皇居では二重橋前で体の向きまで指示され行動しなければいけなかった。
当初は、小野田氏の帰国後の最重要事であり、一日も早く実現させたかった一緒に戦った島田庄一伍長、小塚金七一等兵の墓参りさへ、スケジュールに組み入れられてなかった。そのため、独自の計画を立てた。それは、中野学校二俣分校同期会、「帆一会」幹事長の末次一郎氏に協力を頼み、退院前夜、病院を抜け出し、未明までに埼玉、八王子の二人の戦友の墓に参り、靖國神社と皇居に参拝したのちに東京を離れるという計画だった。小野田氏の心情を理解する末次氏が厚生省に掛けあった結果、やっと、首相表敬訪問の後、墓参りすることが許可された。
首相官邸では、首相と並んで座らされ、首相の顔は小野田氏の方ではなく、列をなして並ぶカメラに終止向けられていた。
このように、小野田氏は腐れ役人と、腐れ政治家のパフォーマンス、腐れマスコミに振り回され続けた。
昨日、初競りでキロ七千五百円の高値の鮪が競り落とされたというのを、今日、河岸に行って初めて知る。年末にあがったのを、初競りにぶつけて来た手法は、数年前の最高競り値であるキロ一〇万円の時と同じという話を河岸でしていた。
めちゃヒマ。二回目のお客様Mさん三名様で来店。のみ。ということで、営業終了後、七日ぶりの酒。ドンチャン。記憶あり。
1月1日〜5日まで、部屋にこもっていて、食事以外はほとんど外出せず。
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