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毎日新聞「一億人の昭和史」にみる千田夏光との関係

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成17年12月15日木曜日
 先日古本市で買って来た「一億人の昭和史 一月号 不許可写真史」(毎日新聞社刊)は小朝日新聞ともいえるこの社の編集方針が分かりやすい一冊でした。以下その本よりの引用です。

「ころがりはじめた侵略戦争に歯止めをかけることがいかに難しいかを教えた」P29のキャプション
「軍国主義とファシズムが暗雲となってのしかかった15年間は、このせまい日本国内はどこに行ってもサーベルが鳴った。憲兵と警官のサーベルであった サーベルは言論報道の規制と禁止の威力をいたるところでみせていた そして心ある者の”沈黙時代”がはじまった」P36

 そしてお約束の慰安婦のページでは
近代国家の軍隊で戦場まで慰安婦をつれていったのは日本軍だけだった。軍部もさすがに恥ずかしかったのだろう。慰安所の写真、慰安婦の写真はすべて禁止とした。
 個人的に高級将校とか軍医の撮影したもの、新聞カメラマンの作品がわずかに残っているだけである。
略)
 では、なぜこうしたものを設けたか。それは
上海、杭州湾上陸の将兵が、強姦略奪しほうだいに南京へ進撃していったからだ。杭州湾上陸の第十軍のごときは、毎日戦闘を繰りかえしつつ、一カ月そこそこで三百キロを走り南京に達したが、その秘密はそれであったという人もいるくらいだ。
 
「日本兵の去ったあと処女なし」といわれ、東京裁判では、一人の女性を日本兵三十人で輪姦した証言もある。
略)
 これらのことから軍最高幹部は、たけりくるう将兵に、軍が管理する清潔な売春婦をあたえ”鎮める”ことを考えた。すなわち”従軍慰安婦”である。
 女性を集めるのは、初め軍から資金をもらった御用商人が内地でおこなった。一人千円の前借金、これを返したら自由というシステムをとった。
 料金は一回二円だったから、五百人をあいてすれば自由ということである。
略)
 
この慰安所のこと、従軍慰安婦のことは日本内地には秘密で、彼女たちの存在がわかる記事も写真もすべて検問でとめられた。不許可である。
 
彼女たちの大半が朝鮮から強制的につれて来られた女性であったことが知られるようになったのは、戦後二十年たってからだった。戦争中の検問のおかげである。
略)
 敗戦後、彼女らの大半は現地でボロ屑のように捨てられ、なかには、兵隊に産まされた赤ん坊を背負ってさまよう哀れな朝鮮女性もいた。東南アジアではいま年老いた幾人かの元従軍慰安婦が、皿洗い女や靴みがきなどしているのを見ることがある。
 
従軍慰安婦は兵隊四十名につき一名の割で配属され、総数は八万余名だった」P62〜62

 そして、写真のキャプションでは
「初め集められた慰安婦のうち
朝鮮人女性には性病経験者なく健康体がおおかったため 強制的に朝鮮半島から若い女性を集めてくるようになり 悲劇も多かった 写真は検診にむかう到着直後の朝鮮女性」
「軍帽をかぶった慰安婦 
戦場経験者の大半はいまもこの種の写真を一枚は秘蔵している?」P65

 従軍看護婦ならぬ従軍慰安婦という言葉は、千田夏光氏がその著書「従軍慰安婦 正篇」で最初に造った言葉といわれておりますが、1977年に出版されたこの本のこれらの文章およびキャプションには記名はされていませんが、千田夏光氏はこの本に「日本軍国主義時代における検閲の思想と流れ」という文章を載せており、編集後記にも「千田夏光氏が、ユニークな視座から分析しています」とありますので、千田氏の影響なりが強いのでしょう。

 まあ、どんどん増えている南京大虐殺?や支那の我国との戦闘における戦死者の数、朝鮮の被害者?の数と同じで、このころは慰安婦は八万人となっていましたが、今は二十万人とかなっています。

 千田氏のいう嘘をそのまま載せている毎日新聞社の姿勢は、詐欺師吉田清治氏の嘘を基にして従軍慰安婦キャンペーンを1991年大々的にやった朝日新聞の前哨戦でしょうか。

毎日新聞社「一億人の昭和史」の方向性
12月16日金曜日 △

 この写真集のキャプションにはひとつの方向性があります。

「長春地区を除き張学良は無抵抗主義をとおした」(撤退しそびれ捕虜と鳴った中国兵という写真のキャプションとともに)P23


中国軍を攻撃したが 死傷145(北大営は24)の損害を出したのち夕刻にやっと攻略した」P24

「当時満州にいたのは国民党政府直系軍ではなく 地方軍閥の部隊だったため 一部を除いて必ずしも強兵ではなかった」(捕虜となった中国兵の写真のキャプション)P27

「連行される更衣隊 上海市政府作成の記録では死者6080人 行方不明1万400人となっている」P32

中国軍の抵抗は満州の地方軍閥とちがい強烈をきわめ 第9師団は2月20〜22日だけで戦死212 戦傷611生死不明4の損害をだした」P33

「江湾鎮第一次攻撃戦は 2個連隊の兵力に重砲から空軍まで動員して行われたが不成功 予備隊(1個大隊)まで投入したすえ2月21日午後八時攻撃を中止せざるを得なかった」P33

「29日天津における交戦のさい 飛行部隊の空爆援護によりやっと勝てた」P40

「家族同伴で帰順した中国兵 国民党政府系地方軍には強制的に動員され 生活手段を奪われた妻子が夫に同行する事例がしばしばあった 投降拒否の共産党とは対照的であった」P55(共産党万歳!????)

「伝染病発生と細菌謀略をおそれる各国軍は 水にたいし神経をはらうのが常だが 日本陸軍も防疫給水部をもうけていた やがてそれは細菌戦研究所に変貌する」P56

「日本陸海軍航空部隊を迎え撃った中国空軍部隊はけっして弱くなかった 日本海軍の九六式艦戦・零戦など圧倒的に高性能機のまえに壊滅はしたが 初期において撃墜された日本機も少なくなかった」P96未帰還機捜索の写真にてのキャプション

 戦争だろうから、完全勝利などありえないわけで、それをわざわざ弱くなかったというのは何か意図があると思われても仕方ないでしょう。だいたい中国戦線での強敵はフライングタイガーの事を抜きに語れないでしょう。

「日本軍飛行隊の爆撃の犠牲となった中国兵」P152
「この戦線でも中国軍は新部隊を編成中だったが 防衛戦闘にいずれも間に合わなかった」P153
「汪兆銘 ”主席”と
称した」P164

中国の娘たちも戦った
「日本軍の鉾先が広東に向くや中国の若い娘たちは軍隊に応募し軍服をまとい 男の兵隊と同じ戦技訓練をした 略)軍歌を高唱しながら行進する彼女たち 宣誓する彼女たち 
中国にもこうした娘たちがいたのである」P166

「作家の火野葦平は7年2月2〜27日 石炭沖仲仕50人をつれ従軍し 民間人と思われる多くの中国人死体を駆逐艦で揚子江へ投棄する作業に従事したと『魔の河』でそれとなく書いている 写真は大場鎮の中国兵死体」P35(中国兵死体とこのキャプションは何が関係あるのだろう)


一番驚くのは、我国の支那在留一般人と守備隊が支那保安隊に惨殺されたいわゆる通州事件についてである。
「7月29日 日本軍が総力をあげ北平南方の南苑を攻撃中 北平東方の通州で
激高した中国保安隊が 同地の日本軍守備隊と日本人を攻撃 手薄な日本側は死傷者あいついだ」P38(我国の支那居留民が惨殺された通州事件の残虐な写真は掲載せず、破壊された車両のみ!!!)
通州事件までこのような書き方をする。これはいったいどこの国の本であろうか。

我国の軍隊は悪く、弱く、支那の軍隊、それも共産軍は強く、正義の軍であると言いたい様です。

 まあ、どちらにしても毎日新聞という新聞社の姿勢がよくわかる写真集でした。

裏表紙