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吉田清治という詐欺師
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
吉田清治
本名 吉田雄兎 戦後、下関市の市会議員に共産党から立候補しているぐらいですから、共産党と密接な関係にある。
吉田清治の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」(三一書房 1983)によると、斉州島での、「慰安婦強制連行」は一週間にわたり、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいたと書いています。
場所は、帽子工場の女工から八人、貝ボタン工場で十六人、乾魚工場から二十七人、ソーセージ製造所から五十人、西帰浦の海女を五十人など合計二百五人を連行するなどナマナマしい情景が活写されている。
城山浦の貝ボタン工場での連行の様子を下記に引用します。
<女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。
「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。
若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。>
秦氏は吉田が、「昭和十八・十九の二年間で千人以上」(赤旗1992年1月26日)「吉田さんらが連行した女性は少なくみても九百五十人」(朝日新聞1992年1月23日夕刊)この非人道的行為による強制連行がおこなわれたのかどうか疑問に思い、1992年3月29日より済州島に渡り実地検証をしています。
当時、78歳の吉田に秦氏は連絡をとり「裏付けをとりたいので済州島の慰安婦狩に同行した部下の誰かを紹介して欲しい」と頼みましたが「本を書く時に二、三人に会って記憶を整理した」ことは認めたが「あちこちから聞かれるが、絶対に教えられない」と拒絶したそうです。
そのために秦氏は日付と場所が特定されている済州島・城山浦まで行き実地検証をおこなっています。
吉田の著書が1989年に翻訳されて南朝鮮(韓国)で出版された時に、その記述内容に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査し、1989年8月14日付で同紙に著名入りの記事として下記のような内容の記事を書いています。
済州新聞の許栄善記者による1989年8月14日の記事
<解放四十四周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用していたとの記録が刊行され大きな衝撃をあたえている。しかし裏付けの証言がなく波紋を投げている。
(吉田著の概要を紹介)
しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で十五〜十六人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏ずづけ証言する人はほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「二五〇余の家しかないこの村で、十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。>
以上
郷土史家の金奉玉氏は「一九八三年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。
これだけで、吉田の著書の内容について全面否定に近いが、現地調査を行った秦郁彦日大教授も、海女の研究家でもある康大元氏(慶応大学出身)の通訳により城山浦の老人クラブ、四、五ケ所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認した。
「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と、今は『済民新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、「有名な南京虐殺事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります」と答えるのが精一杯だったと秦氏は著書「昭和史の謎を追う 下」書いています。[p498]
同じ著書で秦氏は続けて、下記のように記している。
くだんの吉田も何回か韓国へ謝罪の旅に出かけ、土下座したり慰安婦の碑を建てたり、国連の人権委員会に働きかけたりしているようである。しかし彼の申し立てには、本名や経歴をふくめ、他にも不審な点が多い。たとえば
1)慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄管理下にあり、内地から出張しての狩りこみはありえず、もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずと述べている。
2)第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977)には、四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、第二作(1983)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する
3)第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。
以上の事について私なりに説明を加えさせていただくと、吉田は第二作には一九四三年五月十五日に発令された軍の命令書の内容について、吉田の妻が当時(一九四三年五月十五日)の日記に内容を書き残したと書いている。しかし、第一作では吉田氏は一九四四年四月三日付けの動員命令書により女子挺身隊として慰安婦を徴用したのが最初であり、結婚はその二か月前、つまり一九四四年二月になっている。御丁寧にその動員命令書もその著書に書かれている。第一作である著書『朝鮮人 慰安婦と日本人』に「私が朝鮮人の娘や女房に徴用をかけて軍の慰安所へ送る仕事がいやだったのは、朝鮮人の女がかわいそうだと思ったからではなく、この徴用が売春にかかわる仕事だったからだ。私は二月上旬に結婚して、まだ二か月しかたってなかったので、売春婦を不潔に思い、嫌悪感をもっていた」と書いています。p155〜156
吉田氏は新婚だから、売春婦を不潔に思った。それだけでなく、慰安婦=売春婦だから、それを集めるのはいやだと言っているわけです。
秦氏は著書の中で、
<もちろん済州島での事件が無根だとしても、吉田式の慰安婦狩がなかった証明にはならないが、今のところ訴訟の原告をふくめ100人を超える被害者側から該当する申告がないのも事実である>と書いています。(同書 p499)
以上は秦氏の著書のうち手許にある「昭和史の謎を追う・下」文春文庫より引用しそれに加筆させていただきました。(なるべく引用箇所とページは明記させていただきましたが、わかり辛いところ、間違いなどは御指摘いただけますとありがたく存じます)
以下、その他の矛盾点を私の手許にある本などより引用させていただく。
以下引用
十五、朝鮮女子挺身隊
昭和19年
私は「朝鮮人女子挺身隊」の動員命令書を県庁の労政課で中村主事から手渡された。
略)
「慰安婦ですね。軍はどうして商売女をつかわんのですか」
「あんたはその方面にうといが、このごろのの遊廓は年増の女郎しか残ってないですよ。若い子はみんな産業戦士になって、赤たすきかけて軍需工場で働いてるんだから。朝鮮総督府の女子挺身隊は、大陸で兵隊さんに評判がいいそうですよ。若くて日本語がうまいから、クーニャンとかちがって、情がわくんでしょうな」
「労務報国会に、慰安婦の動員までやらせるようになったんですか」
「動員署は去年から、日本人の慰安婦の徴用をやっていますよ。実は課長が県内の事情を話して、こんどは朝鮮人を出すことで話がつきました。それで課長がこの動員は下関労報にと言いましてね」 p150〜151
動員命令書 (注 原文は縦書き)
(県労政発第○号)
動員命令書
陸軍○○部隊の要請に基づき左記の通り労務動員を命ず
昭和十九年四月三日
山口県知事 ×××× 印
山口県労務報国会下関支部長 ×××××殿
記
一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊百名
一、年齢十八歳以上三五歳未満(既婚者にても可、ただし妊婦を除く)
一、身体強健(医師の身体検査及び花柳病検診を受け、診断書を要す)
一、給与 一個月金三十円也
支度金として前渡金二十円也
宿舎・食糧・衣服等を現物支給す
一、派遣期日 昭和十九年四月十日午後一時
一、集合場所 下関市細江町下関税関庁舎前
一、輸送指揮 陸軍○○部隊依託長谷川勇殿 p151〜152
男の「朝鮮人狩り」ばかりやらされている動員係の連中は、女の朝鮮人狩りははじめてだったので、おもしろがってよくしゃべった。p154
第二作の引用部分でも出てきた「山田」と称する部下に対して、
「短気をおこして狩り出しはやるなよ。志願した女も恐れてやめたりしてめんどうになる」
「だいじょうぶです。今日は大きな声はださないようにしています」 p160
と、著書では済州島での慰安婦狩りより一年も経っているはずなのに下関での慰安婦の徴用は「狩り出しはやるな」と命令しています。
同じ吉田氏の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」に書かれてている朝鮮人慰安婦の斉州島での、いわゆる「慰安婦強制連行」とは大きく違う。
ましてや、一年も前に斉州島で「慰安婦強制連行」をやったと書いているのである。
これも、多くの方々が指摘されているように、女子挺身隊とは女学生の勤労動員のことであり、女子挺身隊と慰安婦は別のものです。それを、吉田は女子挺身隊という動員命令書により慰安婦を集めたと書いている。吉田のデタラメさを表す事例のひとつです。
ところで、
吉田清治氏は著書の中で、実在の酒の名前を出しています。
「部長(吉田氏のこと)、関娘がはいりました。いい酒です。味見してみませんか」『朝鮮人 慰安婦と日本人』P79
関娘はhttp://www.sekimusume.co.jp/下関のお酒らしいのですが、こんな売国奴に名前を出されてえらい迷惑なことでしょう。
秦氏だけではなく、板倉由明氏(『諸君』1992年7月号)、上杉千年氏(『諸君』1992年8月号)、中川八洋氏(『歴史を偽造する韓国』)などにより指摘されている吉田清治氏の著書の悪らつなところは、慰安婦関係だけではない。第一作では慰安婦よりも現地徴用と題した内容はありもしない強制連行のウソを書き連ねていることです。
わざわざ、山口県から朝鮮に渡って「朝鮮人狩り」と称した「強制連行」をやるについては下記のように書いています。
<労政課長による緊急動員計画の説明
「このたび呉鎮守府における、中国五県の労政課長会議の席上、半島労務者移入の件が決定された。これはブーゲンビル島海軍施設工事に、海軍作業愛国団として派遣されるものだ。山口県の割り当ては、土工八百人と大工・左官各五十人で、土工八百人は慶尚北道の半島労務者を移入することになった。その徴用業務は山口県労務報国会の各支部に依託する。現地では鎮海要港の武官府の指示に従って、直接労務動員をおこなうことになる」
略)
「現地での朝鮮人狩りは総督府の労務協会がやってくれるのでしょう」
「このごろは内地各県からの申請が多くて、労務協会の斡旋だと三か月以上待たされるそうです。このたびは緊急を要するので、ご苦労だが現地をまわって直接狩り出すことになります」>
(p111)
昭和18年9月21日に下関より興安丸に乗り朝鮮の釜山港に着いた吉田達は福岡出身だという海軍少尉より「海軍軍属募集要項」を手渡されています。
その後、大邸にある海軍武官事務室にて白川兵曹長という名前をだして、その人より徴用についての指示を受けています。
徴用者の輸送には大邸警察署の護送車を海軍が借りたと書いています。p119
そして、奴隷狩り同然の徴用の様子は下記のように書いています。
<小川の木橋を渡って進むと大きな河があった。河ぶちの道路を走っていたら、広い河原に十人ばかりの男が見えた。流れに石を積み丸太を運んで河の堰の工事をやっていた。
略)
山田が先にとびだして男の頭に木剣を打ちこんだ。続けて胴を打った。男は麦わら帽子をとばして頭をかかえ、からだを曲げて低くうなった。山田は木剣の先を男の腰に当て、ほろの下まで押して行き尻を一撃した。ほろの中の者が泣きわめく男を急いで引っぱりあげた。>(p131〜132)
<「大昌面の徴用は二十五名でしたが、帰りに琴湖江で一名拾いました。この非常時に朝鮮人のくせにのんびり魚釣りなんかしていたんで引っぱってきました。合計二十六名です」
護送車から降ろされた徴用者の中にシャツの胸を血だらけにしたのがいた。額を大きくはれあがって紫色になり血がにじんでいた。
「あの野郎逃げようとしたんですよ。もうすこしで河へとびこまれるところでした」と小野田労報の職員がいった。>(p138)
<宇部労報の職員二人が若い男を狩りだしてきた。シャツとズボンが泥によごれて、顔がはれて鼻血をたらし、足を引きずっていた。だいぶ痛めつけたらしい「田の中を逃げまわって、しぶといやつでした」
略)
尻をけって護送車に追いたてた。>(p142)
<着のみ着のままで狩りだされた現地徴用の九十四人には灰色の海軍作業着に作業帽、地下たびが支給された。
略)
園田中尉が労報職員の前へ来て、謝辞を述べた。
「皆さんご苦労さまでした。さすが徴用の専門家だけあって、短期間にこのような優秀な労務者を集めてくれてありがとう。山口県ですみやかに作業愛国団を編成して、期日までに呉鎮守府に派遣されるようお願いいたします。輸送中は脱走者をださないように、じゅうぶん警戒してください」(p146)
百九十八人の朝鮮人は九月二十八日午後「南大平洋方面海軍作業愛国団」として呉鎮守府に入団した。
十二月八日の開戦記念日に、山口県庁で日雇労務者動員会議が開かれ、労政課長から山口県派遣の海軍作業愛国団は、某島において将兵と供に全員玉砕せるものと認定され、県内出身の大工・左官百人の日本人軍属に対しては、海軍省より遺族に一時金が支給されることになった」と発表された。>(p149)
以上のように、醜い奴隷がリのような強制連行があったかのごとく吉田は書くが、このような強制連行があろうはずはない事は多くの方々が指摘されているとおりです。
この詐欺師について多くの方が糾弾してすでに1992年には決着がついています。
板倉由明氏(『諸君』1992年7月号)によると、吉田が昭和十五年(1940年)より中華航空株式会社に入社し、上海支社の営業所主任として勤務中にフランス領事館より頼まれた中国人が、朝鮮人テロリストの「金九」として上海から広東行きの臨時便中島式AT機に同年に乗せたとするのはウソで、金九は昭和十三年(1938年)十月に上海から重慶に潜入しています。
吉田はこのことにより、憲兵隊に捕まり、軍法会議にかけられ、法務官は少佐と二人の大尉で、その少佐から「懲役二年」を宣告され、南京の桜井部隊本部の軍刑務所に送られ、昭和十七年六月二十日に出所したことになっています。(P69〜70)
出所後は、同郷の先輩の世話とやらで、山口県労務報国会下関支部の動員部長として就職しています。(P71)
ところが、中川八洋氏はその著書『歴史を偽造する韓国』(徳間書店 二〇〇二年)にて下記のように指摘しています。
<二年間刑務所にいた前科者が、直ちに内務省系の動員部長に任用されることは万が一にもありえないと指摘し、中華航空の社員である民間人の吉田が軍人のみを裁判する軍法会議の対象にはなりえないし、共産主義などの思想犯を取り締まる治安維持法の法律違反者は地方裁判所で裁かれる。>(P229)
また中川氏は吉田が著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」で昭和十八年五月頃の済州島では「決戦下のこのごろは−−−−事実上の軍政を敷いていた」(吉田の著書のP103)と書いているが敗戦にいたるまで、我が国は軍政を朝鮮だけではなく、日本本土にもしいた事はないこと、朝鮮軍指揮下にある済州島に駐屯していた日本陸軍部隊が内務省系の、しかも下関市レベルの一団体に協力することなどありえない事、内務省の管轄下にある末端組織に軍が直接依頼することなどありえないのに、吉田は慰安婦狩りの命令を「西部軍指令部付きの中尉」がした(P100)などと多くのウソを指摘しています。
そして、中川氏は吉田清治の偽証言を満載した著書を真実だとした、朝日新聞の論説委員である北畠清泰の1992年1月23日付け朝日新聞夕刊のコラム「窓」による嘘宣伝の罪は大きいと書く。
北畠はいまだに訂正も謝罪もしていないそうである。
このように嘘つきの吉田清治が書いたものが、売国奴の宮沢喜一と河野洋平により、正当化されてしまったのです。
売国奴の集まりである朝日新聞と、同じく売国奴宮沢喜一と河野洋平が我が国に与えた傷はあまりにも大きい。
<吉田清治が自身の慰安婦狩り証言について、現代史家の秦郁彦氏は他のところでも下記のように述べています>
朝日新聞紙面に何回も登場した吉田清治の「済州島で慰安婦を強制連行した」という告白ですが、私が済州島へ行って調査した結果、まったくの作り話であることがわかりました。地元のマスコミからは「なんでこんな作り話を書くんですか」と逆に責められて困りました。
Will2005年4月号P46 上坂冬子氏との対談「従軍慰安婦のまぼろし」にて
吉田氏はその後、秦氏との電話会見にも応じ、「人権屋に利用された私が悪かった」と、反省
の弁をほのめかしていたとのことです。(*「諸君!」1998年11月号 秦郁彦
「『空想虚言症』の記憶にさいなまれる『朝日新聞』」より)
当の吉田氏は、一時、右翼や旧軍人からの脅しやいやがらせで、知人宅に身を寄せたこと
もあったというが、「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。デッチ上げ
といわれても構いません。私の役目はもう終わったのですから」
確かに、日本の謝罪外交を定着させた吉田氏の”役目”は終わったといっていいだろう。
ちなみに、吉田氏の履歴には不明な点が多いが、昭和22年4月の下関市議選に共産党から
立候補。僅か129票の得票で落選している。この人、機を見るに敏だけの人生のようなのだ。
(*「週刊新潮」1995年1月5日号「『慰安婦強制連行』問題をデッチ上げた変な日本人」
から抜粋)
1992年11月中央大学教授吉見義明編「従軍慰安婦資料集」が刊行されましたが、その中
に「強制連行」を示す資料は一つもありませんでした。その本の解説の中で吉見教授は
「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の
強制連行であり、詐欺などを含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきで あろう」と述べています。この人はこれまで「強制連行はあった」と論じてきたのに、色々調べ
ていった末、それを裏付ける資料がないことが分かると論点をすり換えて「広義の強制連行」
を考えるべきだなどと言い始めました。また「政府が資料を隠しているのかもしれないから、
それが出てきたら事情が変わってくる」と暗示しているのも学者らしい狡さを見せつけられます。
1997年1月3日の「朝まで生テレビ」に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的
強制連行は確認されていない」ことと、および「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されて
いない」ことを認めました。これは日本政府の5年前に調査した公式発表と一致するものです。
したがって、従軍慰安婦強制連行問題は、議論が出尽くして調査もしつくして決着している
ものと言わねばなりません。
日本政府が聞き取り調査した16人の内、10人は「証言内容が支離滅裂で信用できない」。
そして、残り6人の強制連行被害証言には信憑性があるとして受け入れたのだったと思う。
しかし、その6人は、先立って東京地裁に提訴していたが、その訴状の内容は、強制連行と
明確に異なるものだった。つまり、騙されたわけだ。
ちなみに朝鮮における売春についてはこちら