このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

日本人慰安婦の証言

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


稼ぎについて
平成20年8月27日水曜日晴れのち雨 ○

 「教科書から消せない歴史」(久保井規夫著 明石書店 一九九七年)には、<確かに朝鮮人女性の日本軍「慰安婦」は多数であったが、日本人の日本軍「慰安婦」が少なからず存在していた事を抹消してはならない。>P一八九〜一九一
と書かれているが、慰安婦で一番多かったのは日本人であることは、秦氏などの研究により明らかになっている。
そして、久保井氏は
<自発的に「慰安婦」になって、大金持ちになった朝鮮人女性の事例等未だに聞いた事もない。聞こえてくるのは、日本軍によって「性奴隷」そのものの過酷な使役を強制され、戦場を引き回された女性の悲劇しかない>p一六四
と書くが、慰安婦という商売が、当時として短期間で大金を金稼ぐ事ができた事は事実であり、不幸な事に故郷への帰還が遅れ、すべてを無くした人もいるだろうが、それは他の事業をおこなっていた日本人も同じである。
 この本を書いた時(一九九七年)に、大阪府摂津市立第二中学校で教論をやっていたという久保井規夫氏のこれらの記述がいかにデタラメかということは、朝鮮人慰安婦が元の郵便貯金返還裁判をおこしたり、日本人慰安婦の他の本に出てくる証言が証明している。
 朝鮮人の嘘つき戦時売春婦の証言?とやらが多いですが、人数では一番多かった我が国の慰安婦について書いている本は少ないです。
 
 その少ない日本人慰安婦について書いたものは私の手元にあるものでは、「従軍慰安婦・慶子」(千田夏光著 クラブハウス 二〇〇五年復刻 初版は光文社 一九八一年)、「慰安婦たちの太平洋戦争」(山田盟子著 光人社一九九一年刊)「続・慰安婦たちの太平洋戦争」(同 一九九二年刊)、「従軍慰安婦」(山田盟子著 光人社 一九九三年刊)、そして、「証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭」(広田和子著 人物往来社 一九七五年刊)です。
 このうち、今まで取り上げたことのある千田夏光氏と山田盟子氏の著書は他の「日本人は朝鮮人慰安婦にあやまれ」と騒いでいる連中が多く引用しておりますが、不思議とそれより以前に出された「証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭」はあまりそのような人たちから話題にされません。その「証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭」には貴重な日本人慰安婦の証言が本名と偽名でひとりずつ掲載されています。
 ただ、著者は今だったら、嘘とわかっている朝鮮人慰安婦の恥ずかしい証言である「現代」一九七二年四月号に掲載された「ある朝鮮慰安婦の記録」金春子著も何の検証もなしにそのまま引用して書いているような人ですが。

 以下、その「証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭」より、芸者菊丸さん、本名山内馨子さん(大正一四年青森県生まれ)についてです。
 山内さんは、一〇歳のときに芸者置屋の仕込っ子として東京に売られ、一九四二年三月、満一八歳の時に、西小山で芸者をしているとき、置き屋の借金を肩代わりしてくれるということで、朋輩と二人でトラック島に渡る。
その山内馨子さんの証言として
 
「あの当時で四千円近い借金があったの(葉書が二銭のころ)。芸者というのはお金がかかるのよ。着物一枚買うにも借金だし、踊りや三味線も習わなきゃならないでしょ。お座敷に出るときには島田に結うの。蕕つけだとか、元結、たて長など使うので、結う旅に一円近くかかってしまう。だから借金は増えるばかりだったわ」p一九
 
「契約は一年半。略)働いたお金は四分六分で四分が自分のもの、略」帰国したときに、借金を返したあと一万円くらい残ったかしら」p二四
 つまり、この山内馨子さんという慰安婦は当時で四千円近い借金があったが、一年半働いたのち、借金を返したあと一万円くらい残った。
 そして、野口幸一氏という日本兵だった方の証言として、五百円の前借金が抜けないでトラックに来た慰安婦が、その金を三カ月で返したという証言や、仮名ながら、一年で前借金の二千三百円を返しただけでなく、一万円の貯金ができていたという証言が掲載されている。

 朝鮮人売春婦のウソにも書きましたが、文玉珠という朝鮮人戦時売春婦は訴状では「慰安婦として働いて、ためた一万五千円のうち五千円を実家に送った」となっています。
 更に文玉珠は戦前の日本円で二万六千円の多額の貯金を持っていたことが明らかになり、一九九二年五月十二日の毎日新聞に、文玉珠の預金通帳についての記事が載っている。その通帳によれば、一九四一二年から一九四五年の間十二回振り込みがあり、その預金残高は二万六一四五円に上っている。これは今の金額にすると数千万円に相当する。当時日本軍の陸軍大将の年俸は六千六百円だった。従って文玉珠は陸軍大将の約二倍稼いでいたことになる。
 また元海軍中佐重村実氏は彼女らの前借金が四千円から五千円であったと言っている。そして彼女らはこの前借金を三カ月から半年で返し、平均的な貯蓄額は五〜六千円から一万円持っていたと言っている。その中には三万円も持っている人も居て、皆驚いていた。という証言が正しかった事がわかります。
 アメリカの反撃が予想以上に早く、彼女らの中には爆撃で死んだ人も居た。また前借金の返済が終わったにもかかわらず、船がなくて帰ることが出来ず、前線で亡くなった人も居る。しかし終戦と共に彼女らの大半は日本に帰った。千田夏光の『従軍慰安婦正篇』には一九三七年(昭和一二年)位の話として、内地にて前借金千円で集めたとしている。そして彼女らは遅くても数カ月で借金を帰し、自由の身になったが誰もこの商売を止めなかったと書いている。

慰安婦と軍人の給金の比較
 ちなみに、2万6千円とは、当時では家が数件も買えた金額だそうです。、これが、虐待されたと騒いでいる朝鮮人自称慰安婦の実態です。何度も書きますが、この朝鮮人たちは仕事として売春婦だっただけなのです。
 そして、いくら大金を稼ごうと、その金が身につくか、つかないかは別問題です。この「証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭」にでてくるお二人の元慰安婦の場合も同じです。芸者菊丸さん、本名山内馨子さんは四十代後半の若さで自殺してしまいましたが、その時にはアパート代も払えなかったそうです。 
 だからといって、慰安婦がお金を稼げなかったことにはなりません。それはいつの時代でもそれはいえると思います。日本人慰安婦の場合も朝鮮人慰安婦の場合も同じです。ただ、平気で嘘を言って老後を生きているかどうかの違いだけです。
 ちなみに偽証罪で起訴された南朝鮮人は二〇〇〇年の場合一一九八人で同年の日本人は五人であり、人口などを考慮した場合、六七一倍という南朝鮮のニュースがあったほどです。強姦、放火、売春、捏造などといっしょに嘘も朝鮮の国技の一つとネット上では評判???
「朝鮮の国技 売春」

 現在も多くの朝鮮人女性は我が国において売春で稼いでいます。これも無理矢理連れられてきて、イヤイヤながら働いているのでしょうか。「売春輸出大国朝鮮」

日本人慰安婦の証言 その2 待遇について
8月29日金曜日晴れ時々雷雨

 同じく、「証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭」(広田和子著 人物往来社 一九七四年刊)よりの引用です。筆者は徳間書店「週刊アサヒ芸能」の週刊誌記者として山内馨子さんを取材。それに連載された山内馨子さんの手記よりの引用として
<「あたしは士官用だったから、お相手させていただいてる方々と同等の食事ができました。赤飯の缶詰め、肉、野菜、なんでも豊富にありました。果物は本場だから新鮮なものがすぐ手に入る。それに、カナカ族が朝六時からお風呂をわかしたり食事のしたくを手伝ったりしていたから、あたしたちは何もしなくてもいいんですよ。司令官がくるときは前もって連絡がありましてね。クルマが玄関に横付けされ、従兵たちはそこで帰されるんです。司令官は茶道が趣味で、いつもお茶道具持参なの。炭火をおこしてたてるんです。あたしね、お点前が嫌いなの。畳の上にかしこまって座って『結構なお点前で』なんていわなきゃいけないでしょ。早く帰ってくれないかなあって、いつも思うんだけど、なかなか帰らないの。でもその後が楽しかったのよ。缶詰めを開けてスキヤキしたり。そうして、帰る頃になると、またちゃんとクルマが迎えにくるんです」
略)
 当時のトラック島司令官は武田盛治中将。戦後は戦犯として虜囚の身にあったが、その後、大阪で大きな材木商を営み、数年前に死去。菊丸さんはこの司令官に可愛がられた。「仕合わせな時代にめぐりあった、懐かし人です」と菊丸さんはいう。「仕合わせな時代」ーーーー菊丸さんは、当時の自分の置かれた立場をこういった。>P二五〜二六

 <昭和一七年三月一七日が日本を発った日です。あのころの私たちは愛国心に燃えて、若さもあり、日本の為また陛下のためと頑張りました。今日の若き人が聞いたら笑うことと思います。また女性が話し合うことでしょう。
略)
 士官用の部屋は三三室あったかしら。
略)
 日用品は一カ月一度配給。ちり紙、便せん、封筒、はんかち、石鹸、脱脂綿。煙草は士官連中が持ってきてくれる。「光」を。一カ月の働きが六百円か七百円。陸上の士官が一カ月分先払いする。又ある中将は来てお茶をたてる。少々窮屈であった。昼ごろ来て夜半に帰る。それからパインどろ様に行く事もある。
 ある時は司令命令にて島巡りをしたこともある。其の時は一番嬉しかった。ランチには中将旗がひるがえり、私一人に司令部つきの若い士官二人ついて、其の時の姿は半ズボン。何か急にえらくなったよう。昼食はサンドイッチ。今考えるとあの時くらい自分の鼻が高くなった事はない。春島、秋島、冬島とまわり、鶏をもらい得意になっていた。其の司令官も平和な日本を見て故人になった。私がこんなことを書いていると聞いたらきっとおこるかもしれぬ。
 私の店は海軍省の元で働いた。私たちは楽で借金もすぐなくなり、毎日働いた帳面は一週間毎に司令部で検閲する。私たちの裏のほうに横須賀の店があった。それは民間で出して居る故、私たち一時部隊(ママ)が帰る時も借金がなくならず、後に残った人も居たと思う。私達は楽な働きをしてきた。あのころの私の借金は四千円ぐらい。昭和一七年ころは莫大なものと思う。これも海軍さんのおかげと感謝している。
後略)>
P二六〜二九

 そして、著者は山内馨子さんについて
 <菊丸さんが知っているかぎりでも、当時の巡洋艦の艦長は現在、東京で船舶関係の運輸会社の重役をしているし、引揚げ後、釧路で芸者をしている時に再会した北海道警察のN防犯部長は元海軍大尉。現役をしりぞいて悠々自適の生活を送っている人も多い。二、三年前は何人かと年賀状や暑中見舞のやりとりもあった、と菊丸さんはいう。
 菊丸さんのトラック島での思い出は、「楽しいことばかり」であったらしかった。取材中、「今まででいちばん楽しかったのは、トラック島にいたときよ」という言葉をなんども聞かされた。慰安婦という職業のイメージから、もっと暗く恨みのこもった話しを予期していたわたしには、正直なところそれは意外であった。>P三五

 その菊丸こと山内馨子さんについて、著者の広田氏は当時トラック島にいた兵士にも取材しています。
 大野俊雄氏 衛生兵(取材当時五五歳・東京都杉並区)
「美人でしたからなあ、友だちの五十鈴ちゃんとよく一緒に歩いていましたよ。二〜三カ月に一度、軍で演芸会をやったんですが、士官用の慰安婦は芸者出身が多く、三味線や踊りで楽しませてくれました。日頃は話すこともないのですが、そのときばかりは冗談をいい合って、楽しかったですよ。
 ハンサムで気のいい士官がいたのですが、その士官にのぼせた士官用の慰安婦が朝早く軍にきて、会わせてくれと頼まれて困ったことがあります。菊丸じゃあありませんよ。その士官はいま、東大で教授になっていますよ。東大紛争のときには新聞に写真と名前が出ていて、いやあ〜懐かしかったですね」P四九〜五〇

 野口幸一氏(取材当時五四歳)一九四〇年トラック島に渡り、1945年二月帰国。松島砲台勤務
「略)士官用の菊丸さんねえ。名前は聞いたことあるような気がするけど・・・・・とにかく慰安婦のいるころはよかったですよ。いい時機に引き揚げましたよね。わたしもトラック島に長くいたものですから、馴染みの女がいましてね。名古屋出身といってました。関西方面の女が多かったようですね。その彼女はもとは芸者だったんだけども、なんでもその当時のお金で五百円の前借金が抜けないでトラックに来たといってました。それがトラックに来て五百円の金を三カ月で抜いたといってました。借金を抜いてしまったあとはあんまりお客もとらないで、気楽にやっていたようです。
 馴染みになってしまうとね、もう給料袋ごと渡してしまうんですよ。そしていついつ行くからと連絡しておくと、その給料の範囲内で、さしみだとかお酒だとか買って用意しておいてくれるんです。四五分単位になってましたけど、馴染みになると慰安婦のほうでもそんなに客をとらなくなるんですね。
 浮気ですか。しませんでしたね。慰安婦のほうにだって自尊心はあるだろうし、同じ棟ではできませんよね。まあときにはそういうこともあって、盗った盗らないで慰安婦同士ケンカになったという話を聞いたことはあります。慰安婦のところへ行くといったって、寝るだけが目的じゃあないんですよ。世間話をしたり、わたしらのように長く内地を離れていると、内地の様子を聞かせてもらったり、あるいはおたがいの身の上話を聞かせあったりするんです。慰安婦のほうも借金を抜いてしまうと、あとは内地に仕送りをしたりしながらノンビリやってましたからね。だからたとえ三カ月でも半年でもいいから一人の男と夫婦生活のまねごとでもしてみたいというような気持じゃあなかったですか。
 同じ棟で、遊んでいる女の子がいれば呼んでくるし、こっちもときには友達二、三人と一緒に行って飲んだり食ったりするんです。慰安婦のところへ行くとね『お帰りなさい』というんです。情も移りますよね。兵隊のほうはどうせいつか死ななければいけないと思っているし、慰安婦のほうはそれまで少しでも楽しませてあげようとするしね。
 ああいう世界の人間だからって軽蔑することはありませんでした。彼女たちだって同じ人間なんであってね。家庭の為に身を売ったりとかいろいろ事情はあったろうけど、中にはお国のためにと働く兵隊さんのお役に立ちたいと志願してくる女学生もあったそうですよ。だけどそういうのは一応病院でもって検査するときに、医者もびっくりするけど本人もびっくりしちゃってね。わたしは兵隊さんの慰安隊だっていうから志願してきたのに、こんなことするのが慰安とは思いませんでしたと泣き出すのもいました。そんなのはみんな内地に送り返しました。
 日本に帰ってからは馴染みだった慰安婦とは会っていないんですよ。同じ釜の飯を食って、同じ玉の下をくぐった同年兵でさえも、いまどこでどうしているかわからないぐらいでしてねえ。でも、やっぱり懐かしいなあ。会えるものなら会ってみたいですよ。どこでどうしているのかねえ。わたしら自身生きて帰れるとは思ってみませんでしたから」P五二

 もうひとり仮名ながら大阪在住の鈴本文さん(当時四五歳)という方の証言も掲載されている。
 <鈴本さんがトラック島に渡ったのは昭和一七年三月。偶然にも菊丸さんと同じ船だった。帰国が昭和一八年一二月で、これも菊丸さんと同じだったのだが、二人にはまったく面識がない。菊丸さんは士官用、鈴本さんは一般兵隊用ということで、狭い日本人社会の中だというのにつきあいがなかったのである。>P四二
証言として
「略)
 そやから二〇歳になるまでには、こんなところからはどんなことがあっても足洗わなと思ってね。それで体えらいのも承知で南へ行ったのです。一八歳でね。連れてった親方が、ちょっと首ひねったんですよ。借金はいちばん多いし、年はいちばん若い。身体がつづくかどうかね。前借金は二千三百円でしたが、おかげさんで全部払うてしもうて帰る時には一万円の貯金ができとりました。
略)
 一年いう約束で行ったんやけど、自分らが行った時の『太平丸』かいね、あれがわたしら降ろしといて、その後の航海でやられてしまったんよね。まともに働いとれば一年で帰ってこれたんやけども、それで一〇カ月のびたわけですよ。交代の人が一年で来たから、あとの一〇カ月というものは遊んどったようなものやけどね。
略)
 トラック島にいてる間は、日本にいて芸者置場を転々としているころよりも気が紛れとったね。わたしらは一般の兵隊用やからね。士官用の人たちのところは塀でかこって区別してあるわけよね。トラック島は『三笠』なんかが常時おったから、たいてい来る人は決まった人が多かった。時には、馴染みになった人に頼んで、お金だしてもろうて時間を延ばしてもろうたりしました。
 一日何人ぐらいお客とったんやろう。わたしはわりあい少ないほうじゃないかしら。借金払ろうてしもうたとき、つれていっとった親方も『心配しとったけど、取り越し苦労やったなあ』いうて喜んでくれはったけどね。あのときは四〇人ちこう行ったんかしら。大阪のグループと神戸の福原遊廓のグループの合併でね。みんなはよ借金返したいばかりでね。
略)
 一年の契約で一年一〇カ月いたさかい、あとは帰りの船を待つだけやったから、島巡りをしたり、のんびりしたもんやった。馴染みの兵隊さんが遊びに来たり。そやけど団体生活やからね、泊まっていったりすることはなかった。ほんとにいまの人が考えたらロマンチックやなと思うやろうけどね。その時分はまだ戦争しとったんやからね」P四三〜四五

 「仕事は朝一〇時ごろからやね。早いときは九時半ごろにはもうお客さんが列んどったからね。昼前が一番たてこむ。帰艦する時間があるから夕方になると、そんなにゆっくりしとらへんからね。五時半すぎるとからっぽになってしまうから、それからちょっと雑貨屋に買い物にいったり、散歩に行ったりして、それから夕食や。夕食食べながら、みんなで今日のお客さんはああやったこうやったという話したりして、九時頃には完全に消灯です。」P四七〜四八

  金学順など朝鮮人戦時売春婦の証言については湊郁彦氏が著書「昭和史の謎を追う」(文春文庫)、杉本幹夫氏の著書「植民地朝鮮の研究」(展転社)など数々のみなさんが強制連行についてそのウソについて指摘しています。

 米軍による一九九四年夏に北ビルマのミートキーナーにて捕らえられた朝鮮人慰安婦二十人と抱え主の北村夫婦(日本人)からの尋問記録を要約したレポートによると、雇用契約は抱え主と慰安婦の配分は五〇%ずつ。月間収入は一五〇〇円、年季は半年から一年。
生活状況として、生活はかなり豊かで町へ買い物にも行けた。兵からの贈物が多く、娯楽やスポーツをやりパーティにもでた。
 以上秦郁彦著「昭和史の謎を追う 下」p491〜492より

 同じく秦氏の著書「慰安婦の戦場の性」新潮選書には
 慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿泊して、寝起きし、業を営んだ。彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれw萪沢ともいえるほどであった。
 慰安婦は接客を断る権利を認められていた。負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。P二七五

 元慰安婦で、平成四年に二万六千百四十五円の郵便貯金返還の訴訟を起こして敗れているビルマのラングーンで慰安婦をしていた文玉珠という元慰安婦の手記よりの引用として
 支那マーケットにいって買物した。ワ二皮のハンドバッグと靴をわたしのために買った。母のためにもなにか買った。
将校さんたちに連れられてジープに乗って、ぺグーの涅槃像をみに行った。ヤマダイチロウ(日本兵の恋人)と代?の母の無事を祈って帰ってきた。P二七六

 それなにり、戦場下において、日本人慰安婦だけでなく、朝鮮人慰安婦もその生活を楽しんでいた事がわかります。
 何度も書きますが、売春婦は歴史的にも今も世界有数の売春大国であリ続ける朝鮮はもちろんの事、我国にも存在します。需要があり、そして、お金になるからです。ましてや、今よりも貧しい時代であり、売春も合法であった時代ということを考えればおのずとわかることです。
 それを強制だと騒ぐ嘘つき朝鮮人慰安婦。まるで金になるものだったら何にでもたかる蠅やダニ以下の人種です。
 まあ、我が国にとっての一番の問題は、そういったダニを焚き付ける朝日新聞などの腐れマスコミとアホな日本人連中ですけど。

裏表紙