反日活動家・鈴木裕子というどうしようもないバカ女
反日活動家・鈴木裕子というどうしようもないバカ女
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
鈴木裕子
平成23年1月18日火曜日晴れ寒い ×
鈴木裕子 (女性史研究家)
<鈴木裕子(すずき ゆうこ、1949年 – )は女性史研究家。 日韓の女性と歴史を考える会代表。韓国強制併合100年共同行動共同代表。
東京下町生まれ。早稲田大学院文学研究科修士課程日本史学専攻修了。
専門は女性史および社会運動史。現在、東京経済大学講師として日本史を教えている。>
つまり、典型的なアホ反日活動家です。
鈴木裕子氏の著書「従軍慰安婦・内朝鮮結婚」(未来社 平成二年刊)についての私なりに検証したく思います。
まず、
鈴木女史は、著書に「我が国の近代化のいけにえ」として紡績等に携わっていた女工とともに我が国のかっての公娼制度について下記のように書いています。
<いいかえるなら公娼制度とは、国家公認の買春制度であって、国家は業者らに営業許可の鑑札を与えるかわりに彼等から税金をかすめとったのである。国家と業者は女性の性を収奪する上で、まさに共犯関係に立ったといえた。
女性を抑圧するシステムにもう一つ、家長制度(家父長制)があった。
略)
この家制度(実父長制)と公娼制度は、いわゆるメダルの表と裏の関係にあって、ともに女性に対する抑圧・支配の要となった。この二つのシステムは相互に補完しながら女たちを男権支配・権力(天皇制権力)支配のもとに組敷いていく機能を大いに発揮した。なを、付言すれば、男権支配・権力(天皇制権力)支配の最頂点に立っていたのは、国家の「大家父長」とされた天皇であった。>
p十一
天皇陛下とどうして慰安婦が関係あるのか。
天皇陛下を頂いているのは、世界中で我が国だけだが、他国には慰安婦はなかったのか。
家制度と公娼制度がどうしてメダルの表と裏の関係になるのか。
朝鮮では我が国が統治するまで奴隷が四十%を占めていた。
その奴隷たちは我が国が併合したことにより、奴隷から解放されたわけです。まあ、どうしようもないアホ大学教授・朴一氏、これまたどうしようもないボケ映画監督・井筒和幸氏などは朝鮮人には皆「族譜」があり、何世代も前のルーツがわかるような事を書いているが、奴隷にそのようなものがあるはずもないから、多くの朝鮮人は族譜などない。
ほとんどは後に作られたものである。
そして、これも書いた事であるが、まるで、我が国が公娼制度を持ち込んだもので、それまでは朝鮮には売春制度が無かったというような書き方です。
じゃあ、朝鮮には売春婦はいなかったのか。とんでもない話で、いわゆる妓生(キーセン)とよばれる売春婦は新羅時代からあり、高麗時代の初期には「官婢」つまり国に所属していた奴隷の「売春婦」として制度化されていました。そして、全国から生娘をあつめて「貢女」として支配していた元に捧げられ、用済みになると返されたが、これを「帰順女」呼んで蔑んだ。
そして、奴婢については
『ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話』(林鍾国、平凡社 一九八七刊)
<奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。
かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても 犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。
それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具
にしたものであった。奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、
ひどい場合は打ち殺されることもあった。
外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている 年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れをさしこ まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された 不幸な運命の主人公であった。>
近代までこのような状態であったのです。
そして、近代までアジア最大の管理売春国家であり、今でも売春婦輸出大国である。
南朝鮮は一人当りGDPが一万六千ドルあり世界でもGDPランキング一一位の国でありながら、現在でもアメリカ、オーストラリア、香港、ヨーロッパだけでなく我国にも数千名以上の売春婦を供給している売春婦輸出大国です。
ちなみに、我が国における朝鮮人売春婦の数千名以上という数字は少なく見積もったと思われる数字であって、 アメリカでは逮捕される九割が朝鮮人女性です。それでだけでなく、売春専業女性がおよそ二十六万人もいて、買春売春市場の規模が年間二十六兆ウォンにもなり南朝鮮のGDPの五%も占めるということは、我が国に当てはめると二六兆円もの規模になります。
自分ところではさっさと禁止しておきながら、平気で我が国の政治家になんとかしろと騒ぎ立てている朝鮮人が経営者であるパチンコの経済規模とほぼ同じです。
(中央日報平成一五年二月六日より)
そして、
「企業文化の中では深くお酒を飲む面があり、男性同士のつながりを強める方法として買春を受け入れる状況にあって、なくすのが難しい儀式」だそうで、男同士で飲んだ後に買春をしないと約束したら映画チケットをプレゼントするという政府キャンペーンまでやっていた国です。
また、現在でも、儒教の影響で家長の権限が強いのは朝鮮であるし、その朝鮮に於いては家庭内に置ける女性の地位は低い。
食事までも別にするところがあるぐらいです。
この鈴木女史は他の事についてもそうであるが、朝鮮や他国との比較など絶対にしようとしない。
そして、検証というものもしようとしない。これが自称歴史の専門なのである。
ましてや、この鈴木女史の著書に下記のような記述がある。
<日本支配層は、この朝鮮にも公娼制をしき、朝鮮人民の「精神的愚民化」を図ろうとしたという>
p十八
先に書いたように、我が国が公娼制度等持ち込まなくとも、朝鮮には、強姦、放火、嘘などとともに朝鮮民族の国技の一つである売春は存在し、その国技を活かして今でも朝鮮人女性が出稼ぎに我が国に大勢来ている。
これについては何度も書いているが、鈴木女史には鴬谷辺りの朝鮮人売春婦どもを、捕まえるなり殺すなり、なんでもどういう形でもいいからこういったゴミ朝鮮人をすべて始末してから寝言をほざいて欲しいものである。
続く
今日もメチャ寒く、河岸に行く時に築地本願寺を通ったら、境内においてある大きな蓮の鉢に氷がはっていました。
「二階堂」ならぬ「三階堂」築地のマグロ屋の慎吾ちゃんとこにあったやつです。
すげ~見た事ないバッタもんと思ったら、マジックで書いたものでした。
おそまつ。
Oさん、Iさん来店。
当店のお客様よりの御紹介ということで、香港からトミージョーダンさん、ルイズさん来店。
Tさん四名様で来店。
来週結婚されるカップルの御祝い。
当店より、御祝いということで、スパークリングワインを開ける。
ホロン部員Yさん来店。
早い時間からドンチャン。
気が付いたら、灯つけっぱなしで鍵もかけずにカウンターの中で寝てました。
サル。
鈴木裕子その2
1月19日水曜日晴れ 寒い △
また、鈴木女史は満州侵略の悲劇として
<開拓団が入植した土地は、もともとは中国人農民が耕していたところが多く、なかでも肥沃な土地を無理矢理奪われた農民の恨みは強かった。いわば「怨嗟」の土地だったのである。>
p二十五
と書きながら、
<移民たちを襲ったのはゲリラばかりではなかった。「満州」に行けば、二十町歩の地主になれるといった甘言に誘われて、「渡満」した彼等に、冬場には零下四十度にもなるという寒気は想像を絶するものであった。
まして人里離れた「北満」の奥地である。猛烈な無聊と、「屯懇病」といわれる一種のノイローゼ状態が襲った。移民たちの中からは内地に帰還することを希望するものが続出し>
p三十
鈴木女史の頭の中には「矛盾」という単語がないのか。
その他にも、
「朝鮮民族抹殺の意図として」
<朝鮮人慰安婦の場合は、性的搾取に加え、民族的搾取がこれに加わった。いや、搾取というより「民族抹殺」と呼ぶ方が相応しいかも知れない。
略)
「内鮮一体」とは、朝鮮人を皇民化、すなわち日本人化することによってその民族性を抹殺するものであった。「国語」(日本語をさす)強要、創氏改名、神社参拝などの強制が皇民化政策の一環としておこなわれ、精神的民族抹殺の一端をになっていったが、究極の民族抹殺こそ、若い未婚の女性を狙い撃ちした慰安婦狩りであったかもしれない。
朝鮮半島から人狩り同然で、若い未婚の女性たちを連行し、慰安婦にさせたのは、日本の配食が濃くなった四十三~四十五年がピークのようである。此の当時の慰安婦狩りの凄まじさは、一地方の朝鮮人強制連行の動員責任者(山口県労務報国会下関支部動員部長)であった吉田清治氏の著書「私の戦争犯罪」(三一書房 一九八三年)に赤裸々に記されている。そこには一読して目を覆わしめるような残忍卑劣なシーンをつつみ隠さず綴られている。まさに人間狩りであった。>
p四十七
何処の国でも、併合した場合、言語を統一するのは当たり前のことであり、その事により、むしろ就く事の出来る職業など選択の幅が広がる。
現実に、朝鮮人は官職を始めありとあらゆる職業につき、その朝鮮人上司に仕えていた日本人も多かった。
ましてや、我が国の場合、日韓併合の一九一〇年から一九三七年(昭和十二年)頃まで、国語である日本語と共に朝鮮語も学校で必修科目として教えていました。それによってハングルは朝鮮に普及したのです。総督府に朝鮮の固有の文化を尊重しようという姿勢があったためです。
初めての本格的な朝鮮語辞典は総督府が明治四五年に編纂に着手し、大正九年に刊行、「朝鮮語奨励規定」を大正十年に設けて日本人官吏に朝鮮語の習得を奨励しています。帝国大学である京城大学に大正十三年に法文学部には朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の講座を開設したりまでしています。大東亜戦争中もこれらの講座には何も制限が加えられていません。
鈴木女史は、これも何の検証もなく此の後に詐欺師吉田清治氏の著書より引用掲載している。
吉田清治氏については、当時、その第一作めの著書である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 昭和五十二年刊)と第二作目のこの「私の戦争犯罪」に書かれている内容との矛盾が指摘されていただけでなく、すでに、書かれている事が嘘である事は、現地の新聞記者の取材により明らかにされていた。
そして、このような奴隷狩りのような事がありえないことは多くの方々に証言、証明されていたにもかかわらず、平気で嘘を書く。
それは、このどうしようもないアホ女鈴木女史が此の本を出した同じ年に吉田清治氏の偽証言を満載した著書を真実だとした、朝日新聞の論説委員である人間のクズ北畠清泰氏の平成四年一月二十三日付け朝日新聞夕刊のコラム「窓」による嘘宣伝と同じである。因に北畠氏はこの吉田清治の記事については誤りも訂正もせずに大学教授までなり死にました。流石は人間のクズだけのことはあります。
続く
写真は今日の河岸での風景。
河岸では、カラス、鳩の代わりにカモメが我が物顔。
今日はメチャヒマ。
浜松からYさん来店。
今日は東京でのお仕事を済ませて、新幹線でお帰りになる前に少しということで寄ってくださる。
Oさん来店。
いろいろと、楽しいというか面白い情報山盛りでお話ししてくださる。
中井洽氏が国家公安委員長であるときに、路上キス?を写真に撮られた銀座のホステスをやっていた朝鮮人女性と結婚したことを教えてくださったのもOさん。
今日も、中々濃いお話。
ヒマだし、早い時間からドンチャン。
記憶あり。
サルよりマシ。
鈴木裕子その3
1月20日木曜日晴れ △
先に書いたように、鈴木女史は何も根拠もデーターも示さずに断定してこの本を書いている。
<従軍慰安婦問題は、わたくしが考えるに三つの基本的側面を持っている。一つは慰安婦のおよそ八割が朝鮮女性であったことからして、これが朝鮮民族に対する植民地支配・戦争責任・戦後責任の問題であるということ。二つめは、女性の性的自由に対する抑圧、蹂躙の問題としてあるということ。三つめは、当時、天皇の軍隊、すなわち皇軍といわれた日本国家の犯した犯罪としてあったことである。>
p五十一
慰安婦で一番多かったのは日本人です。
秦氏は慰安婦の総数一万数千人、民族別の割合は日本人四割、現地人三割、朝鮮人二割、その他一割と推計しており、(秦氏の著書「慰安婦と戦場の性」より)一番多かったのは日本人であると書いています。
ましてや、戦前、戦後多くの国の軍隊は軍人の性処理、慰安婦についてそれなりの監理をしていた。
性病になっては軍隊としての能力が落ちる。それを防ぐ為である。
参照→*各国における慰安婦(アメリカ軍慰安婦) *各国における慰安婦(ドイツ軍慰安婦)
そして、支那の宣伝を鵜呑みに何の検証もなしにそのまま書くバカ女ぶり。
<対中国侵略戦争において、天皇の軍隊、皇軍がとった作戦は、「三光作戦」といわれた。すなわち殺光(殺し尽くす)、略光(奪い尽くす)、焼光(焼き尽くす)で、中国人を人間と思わぬ残忍な大殺戮作戦が皇軍の手によって行われたのであった。
この殺戮作戦が大規模に展開された手始めが南京(当時の中国の首都)攻略戦(一九三七年十二月)で、此のとき何十万人という中国人(市民多数を含む)が皇軍によって虐殺された。いわゆる南京虐殺である。このおり女性は老人から少女に至るまで?辱、つまり強姦され、そのあげく証拠を消すため殺されたという。
その凄惨なさまは、当時、南京に居住していた外国人によって「南京アトロシティーズ」(南京虐殺事件)として世界中に喧伝された。>
p五十三~五十四
光を殺すと習った日本人はいるのであろうか。支那では光は殺すと言う意味らしいが、日本語でない言葉をどうして、我が国の軍隊が作戦名としてわざわざ使用しなければならないのか。
アホか!
戦いなのだから殺しもしようが、当時、南京の人口は二〇万人といわれたが、我が国の軍隊が攻略した後もその人口が増えている。
ましてや、鈴木女史が言うような
<その凄惨なさまは、当時、南京に居住していた外国人によって「南京アトロシティーズ」(南京虐殺事件)として世界中に喧伝された。>
などという事実はない。
我が国の国会でもその事を戸井田とおる議員が指摘している。
<今一般に言われているようなことなど、当時、第三国の新聞記事には載っていない。ニューヨーク・タイムズとかロンドン・タイムズだとか、そういう海外の特派員が当時、南京にいたわけですよね。しかし、本国に送った記事の中に、三十万の虐殺であるとか二万人のレイプだとか、そんなものは出ていないわけであります。>
平成十九年二月二十一日国会内閣委員会における戸井田とおる議員による答弁
その他にも、経歴詐称だけでなく嘘を書きまくった事で有名な曽根一夫氏の手記「南京虐殺と戦争」からも何の検証もなしに引用しています。
P五十六~五十七
この曽根氏については板倉由明氏が鈴木女史がこの本(正確には元になった論文)を書く四年前に『諸君!』昭和六十三年(一九八八年)十二月号に「『南京虐殺』のザンゲ屋、『曽根一夫』の正体」としてその経歴詐称から虚偽の体験談を糾弾している。
まるで、あの山田盟子女史なみのアホである。
(まあ、秦郁彦氏も曽根氏の嘘証言を信用して御自身の著書に掲載していますが)
鈴木女史が同様に検証もなしに書いているのは「関特演」による慰安婦集めである。
<なく子もだまると恐れられ、その精強ぶりをうたわれていた関東軍は、一九四一年、「打倒ソ連」をめざして、対ソ連への大々的な武力準備を行った。いわゆる「関東軍特別演習」、略称、関特演である。
略)
兵力の大増強に伴い、関東軍司令部参謀第三課(兵站担当)の原善四郎中佐は「慰安婦調達」のため朝鮮半島に乗り込んだ。
略)
作戦計画の段階より従軍慰安婦は既に組み込まれていたことがわかるのである。皇軍はもはや慰安婦無しには軍紀の保持はもとより、作戦計画にさえ支障をきたすようになっていた事が伺われるのである。>
P六十~六十一
この関特演に関する慰安婦調達の嘘については、すでに指摘してあります。
*千田夏光の著書にみる慰安婦捏造の毒(関特演というウソ)の原点
続く
今日は、明日ご予約いただいているアンコウ鍋用に三・六キロの活け鮟鱇。競り落としてくれた一吉の社長いわく「今日、一番だと思う」
ありがたい。
でっ、肝心の当店の方は、メチャヒマ。
初めてのお客様二名様来店。
いろいろと話をしながら、ヒマだし早い時間からドンチャン。
記憶あり。
サルよりマシ。
鈴木裕子その4
1月21日金曜日晴れ ×
鈴木裕子女史は軍隊についても
<職業軍人と違って、応召された兵士たちの大部分は、貧しい農村の出身者であった。対する「敵」の大部分も自分たちと同じ貧しい農民層が圧倒的であった。軍部権力は、彼等出征兵士が自分たちの出自、境遇に「めざめて」立ち上がることを極度に恐れていた、と思われる。
そのために憲兵は、四六時中、兵隊の動静に目を光らし、常に監視下に置いていた。さらに絶対服従の兵隊教育が徹底的に叩き込まれた。「上官の命令は朕(天皇)の命令」とされ、絶対服従が暴力つきで教え込まれた。たとえばこうである。
略)
(木下注 引用文は嘘つきの曽根一夫氏の著書「南京虐殺と戦争」P四十七より)
みられるように天皇の軍隊、皇軍とは、なんとも不条理、不合理な社会であった。こうした弱い者いじめの一方で、懐柔策として、女たちの性を「あてがった」のである。兵士たちに対する、この懐柔策は見事に成功した。皇軍の兵士たちは、敗戦に至るまでついに一度たりとも軍や天皇制権力をおびやかすような蜂起をおこさなかったからである。彼等兵士は、女たちの性をテコに、自分たちの性をも管理され、支配下におかれていたことを見抜けなかったのである>
P六十八~六十九
どのような育ち方をすれば、これほどの醜い女に育つのであろうか。
よほど、親がクソバカだったとしか思えない。
アッツ島、ペリリュー島、硫黄島、沖縄など多くの将兵の奮戦、そして特攻も「慰安婦による懐柔策」によるものと言い張るのであろうか。
下記の文は前衆議院議員・西村眞悟氏のメルマガ「西村眞悟の時事通信」よりの引用です。
以下引用
<最後に、次の言葉が忘れ得ない。
共に、硫黄島の戦いのなかで戦没した無名の兵士の言葉である。
留守晴夫著「常に諸子の先頭に在り」(慧文社)により教えられた。
「軍医殿、泣いておられるのですか」
これは、硫黄島の動けなくなった重傷者で充満した天然壕のなかで、安楽死の注射を打たれた兵士が最後に軍医に言った言葉である。
彼は、極限とも言うべき自らの悲惨そして苦痛のなかにおいても、自分に安楽死の処置をしようとする軍医を気遣っているのである。
軍医の涙が、彼の顔に落ちたのだ。
海軍司令部付士官松本巌は、伝令のため本部壕を目指した。その途次、動けなくなった重傷者が集められた陸軍の中隊壕に入った。多くの兵の手足は無くなり、顎がない兵士もいた。
そのなかの一人の兵が松本に言った。
「水があったら飲ましてくれ。もう四日も何も口に入れていない」
松本が水筒を彼に渡して飲まそうとした。
その時、壕の入り口付近にいた下士官が松本に言った。
「海軍さん、やめろ、あと二時間もすれば、俺たちは皆火炎放射器で焼き殺されてしまうんだ。
死にかかった者に飲ます水があったら、
その水をあんたが飲んで戦ってくれ。
あんたは手も足もまだついている。やってくれ、我々の仇を取ってくれ。頼みます。」
松本は中隊壕を出て半時間ほど歩き本部壕にたどり着いた。程なくして、中隊壕の百五十数名が火炎放射器で全滅させられたという報告が本部に届いた。
硫黄島で、このような兵士が戦っていた。そして、続く沖縄でも。共に、アメリカ軍の本土への本格的侵攻をくい止めるためだ。
それ以前の、サイパン、ペリリューまたアッツ島そして、インパールにおいてもこのような戦いが為されたのだった。
では、これら勇戦奮闘した兵士とその心は、過ぎ去ったその時にしかないのか。
そうではない。
「過去は過ぎ去った日付のところにあるのではなく、今に生きる我々のなかにある。我々は過去である。」
従って、歴史を失うとは、過去を過ぎ去った日付のところに放置して忘れることである、つまり自らを忘れることである。多くの民族は、そのようにして滅んだ。
だが、我々日本人は、断じてその轍を踏んではならない。
我々自身が再生するために、民族のなかに受け継がれてきた「闇に輝く一条の光」を甦らせよう。
我が国の無量の英霊よ、我らのなかに甦り我らに力を与えたまえ。>
引用終わり
「西村眞悟の時事通信 平成二十二年十二月三十日号」
大東亜戦争で我が国を守る為に戦った先人は、男ばかりではない。
私の伯母は従軍看護婦として戦場に行っている。
沖縄戦では、有名なひめゆり部隊を始めとし、多くの女学校の学生が従軍看護婦として参加した。
下記も、同じく西村眞悟氏のメルマガより
ひめゆり部隊・・・沖縄師範学校女子部百五十七名及び
沖縄県立第一高等女学校六十五名
白梅部隊・・・沖縄県立第二高等女学校五十五名
名護蘭学徒隊・・・沖縄県立第三高等女学校十名
瑞泉学徒隊・・・沖縄県立首里高等女学校六十一名
積徳学徒隊・・・私立積徳高等女学校六十五名
悌梧学徒隊・・・私立昭和高等女学校十七名
大東亜戦争ばかりではなく、我が国国民、先人は国家のために、愛するもののために戦って来た。
それを、これほど、我が国の先人を醜い見方しかできない鈴木裕子のようなクソバカアホゴミ女も珍しい。
こんなどうしようもないバカ女が講師として東京経済大学とやらで歴史を教えているのである。
そういえば、東京大学でも、どうしようもないアホが多く教授やらやってますけどW
今日は当店としては珍しく忙しい。
バンブーさん来店。
Nさん三名様で来店。
Nさん三名様で来店。
Tさん三名様で来店。
初めてのお客様二名様で来店。
同じく初めての方二名様来店。
Tさん来店。
今日は最初から頑張って、洗い物を終えてからドンチャン。
営業終了後、Tさんと新橋のカッシーズバーへ。
まあ、記憶は少しはあるから、サルよりマシ。
ところで、いくら、女相手に格好を付けたいからといっても、アホな事を言ってアホをさらすより、飲み屋では酒を楽しんだほうがええと思うのだが。
鈴木裕子その5
1月22日土曜日晴れ △
中川八洋氏は著書で、「千田夏光のつくり話も、吉田清治のそれと似て、数字を酷使している。日本人は嘘数字に弱い」と書いていますが、あの算数も出来ない朝鮮人大学教授の朴一氏と同様に、鈴木女史も具体的な検証もしなければ算数もできない。数学ではない、算数である。
<強大な権限を天皇から委任された総督寺内は、腕づく、力づくで朝鮮民衆の独立・抵抗の動きを封じ込めた。朝鮮全土に憲兵を放って監視の目をひからせ、寸分のスキもなかった。官吏はもとより、女学校の教師に至るまで着剣を命じ、民衆を威嚇した。
一九一九年三月、朝鮮民衆の広汎な独立闘争である三一運動がおこるまで、いわゆる、この「武断政治」の時代が続いたのである。>
P七十四
まず、三・一事件は、鈴木裕子女史が書くような「朝鮮民衆の広汎な独立闘争」ではない。
*宇都宮太郎大将の日記にみる三・一運動と朝日新聞
*講談社による三・一運動の描き方
アカ思想を持っていた反日日本人どもは、戦後、同じく赤い連中が仕切っていたGHQにより、我が世の春を謳歌した。
その連中は己らの事を取り締まった憲兵を忌み嫌い、悪鬼のごとく描いた。
それが、戦後の憲兵の姿となった。
憲兵について、「誰も書かなかった日本陸軍」(浦田耕作 PHP研究所 平成十五年刊)には下記のように書かれています。
<憲兵は、味方の非違・犯則はもとより、占領地住民に対しての行為にも、敵に対する行為についても、非違行為や犯則を防ぎ、取り締まりを行い、日本陸軍の良心でもあった。>
P二〇〇
赤いゴミどもは憲兵のこのような姿は絶対に描くことがない。
鈴木裕子女史が何も検証をせずにこの著書を書いているのは下記の数値だけでも充分である。まず、朝鮮半島には終戦まで第十九師団(羅南)、第二十師団の二個師団のみが置かれていた。たった二個師団である。
ましてや、この二つの師団が朝鮮半島に編成完結されたのは、大正七年(一九一八年)である。
一師団一万万名前後(他に非戦闘員五千名)として二万名である。
鈴木女史が「朝鮮全土に憲兵を放って監視の目をひからせ、寸分のスキもなかった。」と宣う朝鮮半島における一九一一年末における憲兵・警官の数は下記の通りである。
憲兵
将校
下士官
上等兵
憲兵補助員
計
78名
693名
2525名
4453名
7749名
警察官
警務部長
警務官
警部
巡査
巡査補
合計
13
3(1)
268(101)
2261(182)
3417(3417)
6006
(カッコ内朝鮮人)
備考 憲兵補助員と巡査補は全員朝鮮人
「歴史を偽造する韓国」(中川八洋 徳間書店 平成十二年刊)P一〇四
朝鮮で一九一八年十一月まで警察業務を行った憲兵については、中川八洋氏は御自身の著書で下記のように書かれています。
以下引用
<韓国併合時の日本の憲兵の数は、すべてで、たった二〇一九名であった。しかもそのうち、憲兵補助員の一〇一二名は朝鮮人であった。すなわち、日本人の「憲兵警察」は一〇〇七名しかいなかった。
これが、二二万k㎡の朝鮮全土に散らばって配置されたのである。文民警察官は、前述したように五六九三名いたが、その半分以上の三四二八名は朝鮮人であった。
略)
たった二〇一九名(うち日本人一〇〇七名)の「憲兵警察」で「強圧的な武断政治」が果たして可能なのだろうか。「朝鮮民族の糾弾」など可能なのであろうか。日本の「憲兵警察」は、当時の朝鮮人全体に受容され強く支持されていた。そうでなければ、このような僅かな数の憲兵が全土二二万平方k㎡にミニ小部隊ごとにわかれて展開されて安全であったはずはない。分遣・派出箇所が五六三とすれば、一カ所につき日本人憲兵は二名未満であった。村の民衆がある程度の集団をもって襲撃すればこれらの憲兵を全員殺害することが可能であった。しかも、そのようなことはほとんどおきなかった。
一九一九年の三・一事件の時、(二名の警官のほか)六名の憲兵が殺害されただけであった。圧倒的に多数の朝鮮民衆が綱紀の厳正な日本の「憲兵警察」の方を信頼し協力した。保護国時代の「義兵」を継承する、独立運動家の「反日」分子の方を拒絶した。
この「憲兵警察」と前述の普通警察(「文民警察」)と合わせても、韓国併合年の、在鮮の日本の警察力の数は七七一二名(うち日本人は三二五九名)であった。この極端に僅かな数の「警察官」で二二万k㎡の全朝鮮を担当したのである。日本がいわゆる「独立を奪った」直後の一九一〇年における、この数字「七七一二名」は、当時の朝鮮人全体が、日本統治を、面従腹背であれ、重病人のごとき朝鮮政府よりはるかにましとして受容し支持していた歴史事実を、鮮明にしている。
併合から一年余が経った一九一一年末には文民警察官は六〇〇六名、憲兵は七七四九名と増え、合計一三七五五名となった。
それでも、現在の日本に於ける、二千k㎡の東京都(面積は朝鮮の百分の一、人口は当時の一九一〇年とほぼ同じ)を所管する警視庁の四万一七二一名の警察官(二〇〇〇年四月現在)の三分の一である。面積を考えれば、当時の朝鮮は現在の東京都の三百分の一という密度での警察官配備であった。なを、現在の日本には二五万名の警察官がいる。一九一一年末の朝鮮全土の文民・憲兵あわせた警察官は、この二十分の一である。>
引用終わり
「歴史を偽造する韓国」(中川八洋 徳間書店 平成十二年刊)p一〇三~一〇五
平成二十二年現在、東京都の治安を預かる警視庁の警官の人数は四万三千人強である。広大な二二万k㎡の朝鮮半島をその三分の一で治安維持に務めていたのであるから、鈴木女史が書くような
<腕づく、力づくで朝鮮民衆の独立・抵抗の動きを封じ込めた。朝鮮全土に憲兵を放って監視の目をひからせ、寸分のスキもなかった。>
というのであれば、現在の我が国こそ、鈴木女史は武断政治国家と責めねばならぬ事になる。
いまさらながらアホかと。
検証をいうものを一切しない自称「歴史」の専門家である鈴木裕子私立東京経済大学講師の姿がここにある。
あほらし
今日は午後よりスポーツセンターへ。
一応、一通りのメニューを消化。
肝心の営業はメチャヒマ。
Kさん来店のみ。
ヒマだしとKさんと飲む。
記憶はあり。
サルよりマシ。
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