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軍隊と性
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成18年5月23日火曜日くもり △
<従軍慰安婦という制度は、日本だけにあったものと言われる。少なくとも近代軍の中で、戦争の際に、女性たちを同行させ、自分たちの性の処理をさせた軍隊というものは、かってなかった>
「従軍慰安婦と戦後補償」p69
あの売国奴弁護士高木健一の言葉です。
そして、あの辛淑玉女史も
<近代国家の軍隊が、組織的に大量の女性を性奴隷にして戦場を連れ歩き、強姦し続けたなどという例が日本以外のどこの国にあるのか、ご存知ならば教えてください>
『在日コリアンの胸のうち』より
あまりにも無知、あまりにもアホ、あまりにもブス・・・・とにかく言っている事があまりにも酷すぎます。慰安婦と軍隊の事などいくらでも例があるはずです。戦時中だけでなく、戦後も我が国においてさへもアメリカ軍基地の周辺にはそれらの施設がありました。辛淑玉女史の母国(のひとつ)である南朝鮮においてももちろんそうですし、他国も同様です。
辛淑玉女史の母国の南朝鮮軍はベトナム戦争時に醜い戦時犯罪を犯しました。そして、ベトナム女性を犯し私生児を多く残してきました。kannkokugunniannfu-.html
現在、私の手許にある本からだけでも以下のような例を引く事ができます。
第一次世界大戦時の軍隊と性
西部の戦争舞台では、アミアン、アベヴィーユ、アーヴル、ルーアンその他、前線の背後のすべてのフランス都市には連合国軍部隊のための特に設備がよくて繁昌した兵站娼家があった。将校用娼家の目印は青い軒燈で、兵隊用娼家のそれは赤い軒燈であった。娼婦はたいていフランス女で、前からその町に住んでいるものか、ドイツ軍に占領された地方から逃げてきたものであった。・・・・・このフランスの兵站娼家は、予防法のことをほとんど知らぬイギリスの兵隊たちにとっては特に、まさに性病の孵化場であった。
ドイツの側にも、兵站地域の大きな町には必ず兵隊用娼家と将校用娼家とがあった。
略)
兵隊用娼家はどこでも、門前に長蛇の列をつくっている兵隊たちによって、あまり見栄えのしない光景を呈していた。
(ヒルシュフェルト「戦争と性」世界性学全集第五巻、河出書房刊 p125〜6)
我が国においてのアメリカ軍に対しての慰安婦政策
昭和二十年八月十八日、内務省は全国の警察管区に秘密無電を送り、占領軍専用の「慰安婦施設」を特設するよう指示した。
(ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」岩波書店p150 引用元 神崎清「売春・決定版神崎レポート」現代史出版p127〜162)
米軍の本隊がまもなく到着する。宿舎は内村旅館である。どのくらいの期間滞在するかわからないが、署長は米軍から知覧の町民を守るようにとの中央の命令を受けている。一番怖いのは婦女暴行であるが、これについては各方面の協力を得て、彼らに当てがう女たちを確保した。
その女たちは、いわゆる慰安婦である。
(赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」草思社p188)
アメリカの朝鮮戦争時における慰安婦施設について
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人女性の売春婦(慰安婦)を集めた米軍管理の「センター」を設置した。朝鮮の戦場から一定期間毎に交代で米軍の兵隊が送られてきた。
(中川八洋「歴史を偽造する朝鮮」徳間書店p225)
アメリカのベトナム戦争時のベトナム女性慰安婦について
一九六六年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿」が設置された。
ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側に二棟の「リクリエーション・センター」があった。バーとバンド演奏所の他に六十室の個室があり、そこで六十人のベトナム女性が住み込みで働いていた。
彼女たちは米兵の好みに合わせて、「プレイボーイ」のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく本番だけ」がモットーで、一日八人から十人をこなす。
(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p171)
何度か書いていますが、各国とも軍隊における性処理にはそれなりの形式をとっています。土井たか子などが大好きなソ連の軍隊はそれがないために、満州、支那、朝鮮に残された日本人の方々、ドイツ国内において醜い行為が続出いたしました。
福岡良男氏の著書に見る慰安婦
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成21年1月14日水曜日晴れ 寒い
福岡氏の著書には慰安婦に関する興味深い記述もあります。
以下引用
<売春婦が部隊付近、とくに炊事班の付近に出没しているという噂が部隊内にながれた。部隊はヤシ林の中にあり囲いはない。
炊事班は、煮炊きによる煙によって敵の部隊に位置を知られないよう、部隊本部から数百メートル離れた谷間に置かれているので取り締まりがむづかしい。公用外出時の下士官や外出日の兵を、売春婦が声をかけて誘い、ヤシ林のなかで売春をしているという噂がながれた。
炊事班には、残飯や食物を貰いに来て、その代償に性行為をさせる女性もいるという噂が耳に入った。性病罹患者が出ることを警戒して、各中隊に対して副官と坂方軍医大尉から、売春婦の誘いにのらないようにとの厳重な注意が与えられたが、その後間もなく、心配していた性病罹患者が出始めた。>
(P百三十)
慰安所の設置について
<ある日、突然M主計少尉から、「軍医さん、慰安所ができることになりましたよ」と言われた。
はじめは正直をいって慰安所は喫茶店のような憩いの場所と思った者が多い。ところが、よく聞いてみると慰安所とは女郎屋である。
軍隊内と現地一般住民間に性病が蔓延するのを防ぐために、さらに現地婦人を性の捌け口にしないようにするために慰安所ができることになった、とのことであった。
経営は韓国出身の日本語の上手な女性(朝子)が、慰安所の女性集めは出入り御用商人のニコラス・タンブブン、フレッ・タンブブン兄弟が担当することになったとのことであった。慰安所の女性を集めるために必要な布地などの物資は、部隊の主計からニコラスに与えるとのことであった。
慰安所の女性の健康管理(局所検査を含め)は、軍医さんにお願いすることになっていますとM主計少尉から言われた。
慰安所設置は、軍の組織上、M主計小尉が単独で決められることではない。部隊長(IM陸軍少佐)、UT副官からの命令なくしては設置が不可能である。SS軍医大尉に事前相談があったかどうかはわからない。>(P百三十一)
(SS軍医大尉とは何度も名前が出て来る坂方真三軍医大尉のことと思われるが、ここで、SSとする意味があるのであろうか)
この後、慰安所について福岡氏は下記のように記している。
以下引用
<慰安所の建物
主計が大きい木造民家を借り上げ、改装して小部屋を沢山つくり、慰安婦に個室があたえられた。
慰安婦はこの部屋で売春をした。慰安婦の外出は自由であった。
慰安所の利用方法
慰安所を利用したい人は、慰安所係の下士官にチケット代金を渡すと、慰安所係の下士官は主計からチケットとコンドームを受け取り希望者に渡していた。
慰安所利用者は、チケットを慰安婦に直接渡した。
慰安所経営者はチケットをまとめ、主計へ行き現金と交換していた。その折に、慰安所経営者は米など生活必需品、布、薬品などを主計からもらっていた。
兵、下士官の慰安所の利用時間は、各分隊に割り当てられていた。将校には夜間が割り当てられた。
慰安所係下士官
慰安所係下士官なるものが副官から任命され、慰安所で、兵、下士官同士のトラブル、慰安所とのトラブル、慰安婦の部屋の清掃状態等、秩序の維持にあたっていた。慰安所係の下士官には品行の悪い下士官が任命された。
慰安婦の人数
慰安所が部隊ごとにあったことは事実であり否定しない。慰安所には少ないところで四〜五名、多いところでは十〜二十名位の慰安婦がいた。全員インドネシア人であった。
私が所属した独立歩兵第三七五大隊は、ケマ、トリアンゴキ、ソンデル、ベランの四地区に分散駐屯していたので、慰安婦全員の人数は不明であるが、ソンデル町には約十名、ケマ町のは約二十名の慰安婦がいた。
慰安婦の局所定期検査・兵の陰茎定期検査(M検査)
性病予防のため慰安婦の局所検査は週に一度、兵の陰茎検査は月に一度、軍医によって行われた。慰安婦の検査にはなぜか憲兵が立ち会った。>
(P百三十九〜百四十一)
この福岡氏の所属部隊においては、慰安所の経営者が朝鮮人女性であり、慰安婦を集めて来るのはインドネシア人の商人であることが記されている。
そして、<終戦後、部隊の慰安婦には主計から沢山の軍票と布地が与えられたが、出身地に帰れぬ女性が多く、哀れであった>(P百七十六)
と書かれている。現在でも、どこの国に置いても、売春婦が故郷に帰って、どのような仕事をして大金を稼いだか、公言できる人はまれであろう。
大阪の中学教師である久保井規夫氏などは、その著書「教科書から消せない歴史」(明石書店 一九九七年)で、<自発的に「慰安婦」になって、大金持ちになった朝鮮人女性の事例等未だに聞いた事もない。聞こえてくるのは、日本軍によって「性奴隷」そのものの過酷な使役を強制され、戦場を引き回された女性の悲劇しかない>p一六四
と書くが、慰安婦という商売が、当時として短期間で大金を金稼ぐ事ができた事は事実であり、不幸な事に故郷への帰還が遅れ、すべてを無くした人もいるだろうが、それは他の事業をおこなっていた日本人も同じである。アホとしか言いようが無い。こんなアホが教師をしているのです。
(この本を書いた時点で(一九九七年)大阪府摂津市立第二中学校で教論をやっていた)
福岡良男氏の著書にみる売春婦、慰安婦について2
平成21年1月15日木曜日晴れ
今日も寒い 今更ながらであるが、最もふるい職業のひとつと言われている売春婦は、我が国はもちろん世界中にいる。この慰安婦、そして、売春という制度について福岡氏はご自身の著書に下記のように書いている。
<軍隊は、若い男性の集団である。性欲旺盛な若い男性の集団である。平和時でも売春婦が存在し性欲旺盛な男性の欲望を満たしている。
歴史的に見ても、動物的性行動の時代(古代)、個人売春時代を経て、鎌倉時代になると売春制度が生まれた。アメリカ独立革命時代(一八七五〜一八八三年)には、女性奴隷は、女性局部の外見の善し悪しで売り買いされた。 (Ove Brusendorff & Henningsen: History of Eroticism, Vet Pub Copenhagen 1968)
略)
この売春制度は、昭和三十一年に売春防止法が制定されて終焉を迎えたが、これはあくまで表向きであって、トルコ、ソープランドとかいういろいろの名称で売春は続き、社会からなくなっていない。 オランダのアムステルダムには飾り窓の女という売春の店が現在も存在している。
女性を買う男と、性を売る女が存在する限り社会から売春をなくすことは不可能であろう。> (p百三十二〜百三十三)
<戦時中の慰安婦を教科書に掲載することに反対する派と賛成する派の両派の主張を読んでみると、なぜ遊女がどうして現在まで存続しているかが論ぜられていない。 第二次世界大戦中、ドイツ軍もイタリア軍も慰安婦を伴っていた。またフランス政府は、ノルマンディー近くの海岸に、アメリカ兵専用の慰安所をつくった。エジプトでも政府が設立した慰安所をアメリカ兵が利用した。
大東亜戦争終戦直後の八月二十一日に、連合軍の命令で、政府は警視庁保安課を通じて、都道府県警察署長に「進駐軍特殊慰安施設指令」を発した。連合軍兵士向けの性的慰安施設、即ち占領軍慰安所(国際親善協会RAA)を設置しろという指令である。
略) その総数は、最盛期にはアメリカ軍の調査によれば、全国で七万人であった。
一方アメリカ兵駐屯地区では市民が強姦される、という事件が続発した。
私が、終戦後疎開していた鎌倉でも、私の知人の婦人が、真っ昼間アメリカ兵にピストルを突き付けられて強姦されるという事件があった。
その後、アメリカ新聞特派員の撮影した占領軍慰安所に並ぶアメリカ兵の写真がアメリカ本国の新聞に掲載されると、アメリカの婦人団体がこの問題を取り上げ大社会問題となり、日本での占領軍慰安所は廃止されることとなった。
突然職場を失った慰安婦は、街頭でアメリカ兵を勧誘するパンパン(街婦)となったり、チャプヤ(卓袱屋)形式のバーの女性となって、売春を続けて生きていくより生活手段がなかった。
これらの女性と業者は、アメリカ憲兵(MP)の監視下にあった。したがって、性病予防と称して、強制的に局所検査を受けさせた。性病罹患者のでたバーは「性病立ち入り禁止(VD、OFF LIMITS)と書かれた大きな張り紙をされ、営業停止を命じられた。感染源はアメリカ兵であるのに、と業者は憤慨していた。
私も、当時、東京市立病院(伝染病病院)の医師をしていたので、MPがトラックに乗せ連れて来たパンパンやバーの女医の局所検査を手伝わされた。
新橋周辺には、五メートルおきに一人位の割合でパンパンが立ってアメリカ兵に働き掛けているのを、日本人は横目で眺めていた。日本人を相手にしてくれなかったからである。彼女たちは、つかまえたアメリカ兵と付近の旅館やパンパンハウスに行き売春していた。
ローマ時代は、敗戦国の女性は戦利品として、性的奴隷として戦勝国に連行されたという史実がある。 (デンマークで発行された歴史書に戦勝国の軍人が敗戦国の女性を一列に並べ、局所をださせ、その品定めをしている絵が掲載されている)。
売春がなぜ歴史的になくならないのか、そして現在でも、なぜ世界各国で売春が行われているのか、なぜ性産業が存在しているのか、その本質についての議論がなされていない。この問題を議論すべきではないだろうか。> (P百四十二〜百四十五)
私も過去に何度も書いていますが、我が国の大東亜戦争時の慰安婦を問題にしている連中も、他国軍隊の慰安婦、そして、現代の慰安婦ともいえる基地の周りにおいて、軍隊をあいてにして商売にしている売春婦については口をつぐんでいる。ダブルスタンダードの典型である。
在日朝鮮人差別を叫び、在日朝鮮人を商売のタネにしている、あの在日朝鮮人にとっての恥さらし以外のなにものでもない辛淑玉女史などもそうである。ベトナム戦争において、戦後、朝鮮人とベトナム人の間にできた数千人の混血児が社会問題になった事、南朝鮮に駐留している米軍相手の朝鮮人売春婦をはじめ現在も我が国だけでなく、アメリカ、オーストラリアなど世界各国で朝鮮人売春婦が問題になっている事等いっさい口にせずに日本軍慰安婦について声高々に叫んでいるだけである。アホウとしか言いようがない。
そんなアホな事を言っている時間があるのであれば、東京だったら新宿、池袋、上野などの繁華街を歩いてみればよい。鴬谷のラブホテル街に行ってみればよい。我が国において朝鮮人女性が何をしているかみて見ればよい。戦前に比べて、豊かになった朝鮮。その豊かなはずの朝鮮からどうしてあれほど大勢の売春婦が我が国だけでなく世界中に「輸出」されているのか。現実を見るべきだろう。
一番多かった日本人の慰安婦の方が、どうして我が国に対して謝罪、賠償を求めないのか。考えてみるがいい。
今日発売の「週刊新潮」に「韓国は在韓米軍に慰安婦を提供していた」という記事が掲載されていた。産經新聞の一月八日に掲載されていた「韓国人元慰安婦、韓国政府と米軍を告発 NYタイムズ紙」というのがあったが、それが元になっているのでしょう。
産經新聞の記事については、NYタイムズの記事が「売春婦」と書いてあるのを、「慰安婦」としている。悪質な改竄だというような突っ込みもあるようですが、そのNYタイムズの記事http://www.nytimes.com/2009/01/08/world/asia/08korea.html?_r=3&hp
には、「彼女らは、第二次世界大戦中に日本人によって売春を強要されたことについて、広く公共の共感を勝ち得たいわゆる従軍慰安婦と自分達を比較し補償と謝罪を求めている。自ら選んだ、必要だったから、強制であったかに関わらず売春婦は全て政府の政策の犠牲者であったと言うのだ。」
「 女性の主張は驚くべきものではない。何十年もの間、売春が不法である韓国が米軍基地の近くで売春を許可していたのは明らかであるからだ。世界中の軍事基地の周囲と同じように、韓国でも飲み屋や売春宿は長い間米軍基地を囲むようにして立ち並んでいる。 」
と書かれている箇所を無視しているように思うのですが。
まあ、産經新聞も「元慰安婦のグループ」と書かずに、「元売春婦いわゆる慰安婦」を提供していたと書けばよかったのです。そうすれば、アホな連中から突っ込まれることなかったと思います。「いわゆる慰安婦」は「売春婦」には違いないのですから。
福岡氏が書かれている「売春がなぜ歴史的になくならないのか、そして現在でも、なぜ世界各国で売春が行われているのか、なぜ性産業が存在しているのか、その本質についての議論がなされていない。この問題を議論すべきではないだろうか。」という言葉が本質を突いていると思うのは私だけでしょうか。
北京オリンピック柔道金メダリストの石井慧が、成田空港から米国に向けて出発する時に、母校の国士舘大学について「腐ったみかんと一緒にいたら、こっちも腐ってしまう。切るなら切ればいいけど、その度胸はないでしょ」とホザイタそうな。
自分が高校の二年間(途中編入)、そして、大学の四年間世話になった母校である国士舘に対して、この言葉はないだろう。石井という人間がよくわかる言葉です。
ところで、「切るなら切ればいいけど、その度胸はないでしょ」って、どういう意味でしょう。このままだと、単なる単位不足で卒業出来なくて、中退扱いになるだけのことで、それは石井の大学における四年間の学業の結果であって、大学から切る切らないは関係ないことでしょう。勘違いも甚だしい。
今日もめちゃヒマ。Sさん来店。のみ・・・・今年最初のオチャピーでなくて、よかった。
Sさんと飲む。フリーの物書きさんとして生きて来たSさんといわゆる「派遣村」に集まっている連中の話になる。なんで、このくそ寒い時期になってから、わざわざ公園を選んでテント生活なんだ?本当に集まっている連中のことを考えたら、テントを手配するより、空いている建物を確保した方が、いいだろうに。政治的パフォーマンス以外になにがある。そして、その中に、以前からのホームレスの連中はどのくらいいたんだ。生活保護を寄越せとか言っていたが、生活保護により、働かなくて、国民年金より多い金をもらえれば、働かないままの連中はいっぱいいるだろう。国が悪いという前に、こいつらどういうことを自分らでやったんだ。国はこうなった補償しろなんて言っているが、フリーでやっているSさんも自営の私も何も補償などない。仕事が無ければ自分が悪い、つぶれれば自分が悪い。ただそれだけだ。国が悪いなどとは言わん。派遣社員でいる間にも、その境遇について満足できないのであれば、それなりにいろいろと行動できることはあっただろう。国に対して自分たちの権利を要求する前に、もっと、しなければいけないこと、出来たことがあるのではないか、
今でも、選ぶと仕事はないかもしれないが、ただ仕事だったらいくらでもあるのではないか。
でっ、ドンチャン。記憶はあり。