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第二の吉田清治 山田盟子
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
先日、古本市で買ってきた「慰安婦たちの太平洋戦争」「続・慰安婦たちの太平洋戦争」という劣化本の著者がこの山田盟子というキチガイ女です。
まあ、この「続・慰安婦たちの太平洋戦争」という本の帯には「朝日新聞、毎日新聞ほか各誌で絶賛、ベストセラー続編」と書いてあるだけで、この本の程度が知れるというものです。
この山田女史の従軍慰安婦というものに関しての嘘については、当時は合法であった売春を批判することにより、売春とは可哀想な女性が受けた性による暴力のであるとして、戦場売春婦という「慰安婦」に軍が関与するのは当たり前のことであるのに、それを「日本軍が女性を恥辱・凌辱した」という嘘でからめたイメージを作って、それを糾弾するのが当たり前だと思わせるという多くの売国奴どもが使う手法を駆使しているところです。
その手法は、たんなる「戦時売春婦」のことを、あのNHKの番組が「問われる戦時性暴 力」などというグロイ名前を付けて放送した事などもそうです。 嘘で固めたイメージというものは下記の文章からも理解できます。
元参謀の大橋武夫は、
「ある町を攻撃、占領し、まだ残敵とパチパチうちあっているところへ、商売をさせてくれと業者がやってくる。もちろん女を連れてです。金になると、どんな危険な土地へも乗りこんでくる」
このことは事実であったろうし、またこの言葉には軍部の言いのがれも入っている。性御用は勝手な業者によるもの、という防衛がうかがえる。
性病で皇軍の戦力をおとしたくない軍にとって、業者の請負い型慰安所の方が、たんに衛生管理をするだけで、体面上にもよかったといえないだろうか。AP59〜60
当時合法であった公娼制度については内務省の管轄であったが、軍を追っかけてきた慰安婦の置き屋に対して、内務省が関与できるはずもなく、軍が性病検査、その他の関与をするのは当たり前であるのに、ことさら悪のように書くことによって事実をねじ曲げているのである。
下記も同じく @は「慰安婦たちの太平洋戦争」、Aは「続・慰安婦たちの太平洋戦争」よりの引用です。
1926年うまれの山田女史のアホな頭の程度をよくあらわしている文章として終章「ある慰安婦の叫び」で元慰安婦にあった時の事をこう書いています。
彼女に会って私は驚いた。まさしくその体は、ボロきれの性にいそしんだ事を雄弁に物語っていた。太い胴、そして行為に不在な心を示すように、手足は細くなえており、まるで枝打ちをされた盆栽を想わせた。彼女は日支事変、太平洋戦争、そして戦後にとかかわる慰安婦であったから、私は彼女に「娼婦盆栽」を感じたのであった。@p283
これって、動くのが嫌な、ただ太っているだけのおばあさんということでしょう。
このようなアホな文章がこの人の本には山盛りです。
以下その一部分だけですが抜粋させていただきます。(全部はあまりにも多すぎて書ききれません)
そのような女たちは、飯を男の腹の下で食った。腰がマヒし、尿意があっても立つこともできず
私のオ×××はゴムじゃあない、とうたったという。@p50
「なに寝台で寝たっきりで、おむすび食べならんわ、水のまなんわ、おしっこに行く間もなうて、ぬくいと思ったさに、すんどるちゅう調子で、ただ男に運動させとるだけの明けくれやった」@p199
三時間で76人もこなした女がいた。@p106
(180分で76人、ひとりあたり2・3分つまり140秒で全て済ませる。さすがはプロ・・・・・兵隊さんも大変ですな。)
ススぺキャンプ収容所
女たちは働けばキャラメルもまんじゅうも買えるとあって、生産を通して気持ちもととのい、男に媚びたりする女がいなくなった。@P195
(この山田というバカは、では現在も売春が非合法ながら根絶せずに、この豊かな我が国に存在するという事実をどう説明するのでしょうか)
でたらめ引用
「大東亜戦争中の連行朝鮮人は、内外あわせて六百万、そのうち行方不明は一般労働をふくめ二十万人」としている
朴慶植『朝鮮人強制連行』
@p84
この朝鮮人学校教員であった朴慶植については既に多くの方々がこの人物の卑劣さを指摘しております。そのような人間の書いた事をそのまま引用しているのです。(そう言えば、最近、あのバカ国家が840万人とかいう数字を出していたような・・・)
日韓併合の結果、郡内の土地の半分は無主地として地主や日本の東拓などに取り上げられてた。東拓が村に乗り込むと、村からは数戸が満州や日本、そして沿海州などへと流れていった。
日本人地主の小作人になった者は、八割も「執租」でとりあげられた。「執租」とは物質がみのった時期に立見で決める小作料である。@p77
(これについては、別の機会に書きますが、朝鮮人のウソをそのまま書き写しているだけのバカです)
この気狂い女が、あの詐欺師の吉田清治のウソをそのまま引用しているのにも笑えます。
「陸軍は内地において、防衛管区を西、東、中、と分けていたが、昭和十八年に入っても、二千名の慰安婦徴募指令を出した。九州地区と山口県をふくむ西部陸軍防衛司令官は、山口県労務報告会動員部長吉田清治に対して、二百人の慰安婦狩り込みを割り当てた。吉田は済州島へむかい、強権での女狩りを行った。@p130
「内地でも昭和18年5月31日までに、九州地区と山口県をふくむ陸軍防衛司令官より、二千人の陸軍用慰安婦の徴発がかかり、山口県の労務報告会では済州島に出向し、割り当ての200余名の女狩りを強行した。」@p180
まあ、この詐欺師の吉田清治に関しては先に書きましたが、当時、朝鮮総督府管内であった済州島にどうして山口から出向で行かなければならないのでしょう。参考→吉田清治
また、あまりの売国奴ぶりにバチがあたった松井やよりの言葉を引用しているのにはもっと笑わせてくれます。やはり、売国奴繋がりと言えましょうか。
「松井やよりは1986年(昭和61年)二月十一日に、渋谷の山手教会で開かれた建国記念日に反対する集会の講演で、タイ残留の朝鮮人慰安婦の話をした。
『彼女を日本人の手で引き揚げることも大切かもしれないが、ひよっとすると、彼女らはーーーーほっといて欲しい。今さらあなたたち日本人の手を借りたくないというかもしれない』と語った (『戦争拡大の構図』 吉沢南)AP59
文中に引用先のないでたらめな下記の記述もそのたぐいでしょう。
陸軍兵の志願制度は、昭和十三年二月から施行されていた。しかし、兵もムスメも志願ではなく、実際は強権のおどしつきの人狩りであった。@p78
朝鮮では昭和14年から、八十五万の男子強制連行がなされていた。路上でからめ捕われた学生も多かった。@p124
朝鮮は産物ならぬ、性の大兵站基地とされ、女子愛国奉仕隊、女子挺身隊と、つぎつぎに淫獄の花嫁に狩りこまれていった。@p85
北仏印には日本政府による黄麻などの強制作付と、冷害が重なったりして、昭和19年から戦争末期にかけて、二百万という餓死者を生むにいたった。Ap25
これも、多くの方々が検証されデタラメという事がわかっている事です。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm
大部隊の兵は、洗面器や石油カンを打ならし、横列型で南下して行った。その地域の中国人を数十万生けどりにしょうと。
左右の地平線に、夜は寒さよけに百余ケ所に天をこがすたき火がみえた。
労工狩りはウサギ狩りともいわれていた。AP236
討伐のときに、小麦、家畜から労工狩りへと進んだ。
昭和十八年九月、北支の各師団(略)で、ウサギ狩りの実習があった。
野原に円陣を張り、各中隊旗を立て、ドラを鳴らしてウサギを追い詰める練習だった。
ウサギは人間のことだった。一ヶ月後に、まさしくウサギは人間にとってかわったのだ。Ap240
吉田清治とおなじで、人間をウサギ狩りの実習をしてから捕まえるのだそうです。この女はアホ過ぎます。
これでもかと日本軍が住民を虐殺したというくだりが多く書いてあるのですが、その裏付けになるソースがありません。何がなんんでも我々の先人が悪いという結論が先にありきの書き方。
この女のデタラメぶりは支那がやっていた「三光作戦」を昭和16年には北京方面指令部にて決められたと書いている事です。A239
八紘一宇、正義の聖戦とうそぶいた天皇の軍隊ではあったが、じつのところ戦国の野盗集団と変わらぬ無法集団といえた。小便一丁、糞八丁、強姦二十丁が、進軍のおくれの歩数とされていた。@p103
これまた多くの人から嘘をしてきされた詐欺師と千田夏光の文章も引用しています。@P251
その中でも千田の大嘘のひとつ「原善四郎少佐による朝鮮人慰安婦一万人動員」をAP64で引用し、大恥を書いています。千田夏光という詐欺師については中川八洋氏がその著書「歴史を捏造する韓国」で指摘されており、別に引用させていただきます。参考→若槻泰雄の著書にみる千田夏光
南機関についても書いているのですが、「ある日、五、六人と連れ立って、野菜を買い出しにいったとき、部下の一人がいきなり一人の僧に連れて行かれた。
彼は後を追って、「だれだ!」と、唯何したら、
「お前の部下か。今のようなことはするなと言っているところだ。自分らは五・十五に関係した者で、現在、南特務機関にいる。私らが長年努力した仕事をこわさないでくれ。日本では死んだことになっている人間が私らだ。この仕事に命をかけている」といって立ち去った。AP122
と南機関のことを書いてあるのですがいくら読んでも、この文章から何を言いたいのか、何のことなのか全然わかりません。
そして、山田女史は「南機関も藤原機関も、日本軍の第15軍と連携して、侵奪に加わった」AP123と書いているのですが、南機関の鈴木大佐は感状までもらっているのですが、日本憎しであるバカ女にはわからないようです。参考→ビルマ
美子は一年半で千円の前借りも抜いた。なのに、そこから離れる気が起きなかった。
昭和19年(1944年)の夏、部隊は南方戦線にもっていかれだした。副官は、
「君たちを連れて行けない。兵たちは死地には連れて行きたくないと考えているようだ。別の働き口をみつけなさい」
と申し渡した。美子たち十六人の慰安婦は、そのとき泣いて同行をたのんだのだった。
彼女たちはそれっきりで慰安婦をやめ、満州で宿屋の女中や料理屋の仲居になったりした。略)しかし、二度と体を売らなかった。@p138
これって、戦時売春婦に対して、日本軍の兵士がやさしかった事というだけでしょう。
日本海軍がセレべス島における白人女子抑留所としたカンピリ収容所においての所長の山地正氏(兵曹)はもちろん、柴田弥一郎司令長官、神谷参謀長、寺田先任参謀などが白人女性を慰安婦としなかった(@P235〜228)「彼女たちは兵にまじって、洗濯、炊事、弾薬運びにと、粉骨砕身してくれた。なんと感激の意を表してよいかわからないのです。なかにひとり身重の女がいます。骨が折れるでしょうが、よろしくお願いいたします」と補給部隊に慰安婦を託している。(AP179〜180)と山田女史は著書に書きながら「敵が上陸するまでは女を我慢しろ。上陸したら強姦してもかまわん。ただしすんだら、女はかならず殺して埋めることだ」@P210
「おもいっきりやっちまえ!後の人間が世界史をひもどいたとき、全員とりはだが立つような大虐殺をやってみせよう」藤重正従大佐@P211
昭和19年の京漢作戦に、第十二軍の四コ師団が参加したとき、稲村大隊長は部下の将校と下士官を集め、猛烈な訓示を行った。
「何がなんでも洛陽は一番乗りしなければならぬ。洛陽にはいったら、わたしは両手でトウモロコシを取って、一度に処女を三人ずつ強姦してやる・・・」と。
『戦争と奴隷』津山章作 @p106
夢声はシンガポールの虐殺は記録していない。したがって、水野分隊に殺された、シンガポールの俳優のことを知ったら、さぞ腹を立てたに違いない。Ap98
日本人は欲しがっている物を人々から奪った。車も時計もミシンなど、他の侵奪地でやったことはなんでもやった。
略)
進駐当時の日本軍は、マレー人から見ると「武士道」という規範を持っていた。武士道によると、兵士は、勇気があって、義務を果たすのに忠実で、苦痛に十分耐えることができ、上官の命令に対して従順である。
なおマレーシアの現中学二年生には「日本は第二次世界大戦のとき、勇敢な日本のパイロットが、飛行機に爆弾を積んで敵艦にぶつかっていった。彼らは神風操縦士と名づけられた」と「歴史のなかのマレー」で教えている。
夢声の見た芝居は、虐殺もいとわない皇軍を美化したものであった。マレー人の見た武士道の兵とは、天皇症候群の皇軍であった。
Ap99〜100
この女は、慰安婦にやさしい兵士も気にくわない、武士道という規範を日本軍が持っているのも気にくわないし、虐殺を徳川夢声が記録していないのも気にくわない。その夢声がマレーで靖国神社がでてくる芝居に涙をこぼしたのも気にくわない。勇敢な日本のパイロットと教えているのが気にくわないようで、どうしても、日本軍は悪でならなければいけないようです。
それは下記の文章でも明らかです。
「カーサの後方にも、慰安婦はいたんでしょうね」
とたずねると、とたんに彼は怒声をとばした。
「なんでそんな仕事をする。なんば慰安婦を捜したところで、だれかねぎらいをくれるんか。それに慰安婦は、銭を取って体を開いとったんだ」
筆者は遠い異国にでむいて、頭ごなしに叱りとばされ、驚きもし、哀しくもなって泣かざるをえなかった。インドネシアの取材でも元兵士に数人あったが、忠勇な兵士の化石のような人が多かった。
彼が筆者の仕事をなんと思おうが、筆者には天皇制下の兵は兵囚、慰安婦は性囚としか思ってないとつげた。A132
これではなんのための取材でしょう。最初から結論ありきであり、自分のイデオロギーにあわないものは認めないといっているのです。このようなバカ女が歴史を語っているのです。どうしようないバカ女です。
「一人が自動車一台ずつ持って掠奪に行くんだ。銀貨、時計、洋服地なんかね。古年兵だから軍の意志を知りぬいているので、こんなこと平気ですよ。でも二回ほど強姦罪で銃殺されるところを見たな。わたしらは仮にやっても尻尾をつかまれるようなことはしないから」@p202
これって、この証言者がたんなる犯罪者で、それを軍がきびしく取り締まっていたということにしかならないのですが、このキチガイ女にとっては違うようです。しかし、一人自動車一台ってどこの軍隊でしょう・・・
現地人を「慰安婦」に強制しただけで銃殺刑に処すほどの日本の軍規は世界第一級に厳格であったのです。例えば、一九九三年八月十五日の毎日新聞には一九四四年にジャワ島セマランで、一人の陸軍少佐が、部下がこの強制をやったことに対して、この部下の行為を黙認した罪で死刑になり、他に軍・民あわせて七名が七〜二十年の禁固刑になったという記事が掲載されています。
兵たちは、私娼や慰安所通いや強姦などで性病にかかると、いきお”狂気の魔法”を欲した。特効秘薬として、生きた人間の脳味噌や肝を欲しがった。@p112
と書きながら
「明治末、長崎には死体買いの中国人やら生肝買いがおった。」と同じページに書いているは洒落でしょうか。
断髪の女のなかには、兵士に強姦され、挙句に脳味噌や胆が性病薬として喰われたり煎じ薬にされたりした。略)
このように天皇の軍隊は、古い呪術をこよなく愛したのである。AP241〜232
「古い呪術をこよなく愛した」笑いどころでしょうが、人食いの伝統は支那のものです。
この女のバカなとところはまだまだあります。
サイパンが玉砕する前に、H島にいた女学生志願慰安婦たち数人が、隊長のの配慮で最後の帰国船に乗せられたことがあった。
彼女たちは出航後に、朝鮮に向かう船とすれちがった。その船の甲板から、
「大本営が満州になるらしいぞ!」
乗組員が叫んだ。おどろいた彼女たちは、さっそくその船に乗り継ぎをした。AP265
海上ですれちがった船からの声を聞き取りなど普通はできませんし、出港してしまって、すれ違った船にどうやって乗り継ぎをするのでしょう。アホ過ぎる。
偏った思想
「戦犯におとしめられた朝鮮人の俘虜監視員たちがいる。陸軍省が昭和十七年に、朝鮮人三千人を俘虜監視員として強制徴用した。そのうち百三十人が戦犯とされて処刑された。強制した植民地の労務者に戦争の罪を着せた事実・・・」@p246
連合国による戦犯裁判の不当性を訴えるのではなく、我が国が悪いという論理・・・・
「慰安婦たちの太平洋戦争」は「城田すず子」という日本人娼婦の話から始まる。
中国の慰安婦が、相当の稼ぎをしていることを、出入りの船員からきかされたりして、こんな古いところでウジウジしていても、ラチがあかないとあせりだしていた。@p23
高島順子という女性については
女たちの方も三ヶ月もすれば借金が抜けるとあって、いきおい稼ぎに気合いが入った。@p39
順子はその慰安所で翌春まで稼ぐと、慰安所をたたんだ国井茂といっしょに帰国した。玉の井にはもどらず、回復した弟を引き取って、新宿で小料理屋をはじめた。@p43
積慶里慰安所の兵の利用は、九時から17時まで、下士官は二十時まで、将校は二十時以降泊れた。
料金は一時間で兵一円、下士官一円五十銭、将校と軍属は一時間三円、泊まりは将校十円である。@p68
楼のなかには大阪松島の二百戸のうちから、軍のお声がかりで呼ばれた娼家もあり、福原妓楼の支店もあった。たいてい本店にあやかり、大阪清南楼とか、清富士楼、松本楼、勝己楼、松浦楼など九軒、ほかには朝鮮人の経営する三好、青山、三成、泰平、平和、花乃屋、武漢など十一の妓楼、これらには内地慰安婦百三十名、朝鮮人慰安婦百五十名がいた。
遊びでは昭和十八年にショートで五円四十銭、下士官九円、将校の泊まりで十八円とはねあがっていった。@p67
朝鮮出身の慶子は、獣性のくらしを、金を貯めこむ張り合いで日々をやりすごし、五万をためて京城で小料理屋をやりたいという目標を立て、そのころで三万を積みたてた。あくまでもそれは、真の生きがいの代償ともいえるものだが。
春子はボロっきれの性で得る金を、朝鮮の故郷に送り、親に田地田畑を買わせた。親への孝行という意識下に、性奴の自分を置くことによって、みじめな抑圧を解き放ったのだ。@p69
山田女史は慰安婦の事をことさら醜く書き、
慰安所は陰湿な荒んだ荒野であり、女の本然である生命を育むことが許されない不毛地である。@p68
くらがえの慰安婦たちは、積慶里にくるまでだって、人肉市場の囚われ人であったのだ。@72
慰安所とはあくまで女という人格の没落場所であり、隔離と隷属であり、女としてこれ以上落ちこむ先のない最低条件の生存場所なのであり、まさに人間の閉鎖囚獄を彼女は拒否し、おののいたのである。@74
と書いていいますが、それでいて、作家の戸川幸夫の文章として「そこは軍人軍属の社交場であった。彼女らの前身は日本国内で芸妓、赤線などで働いていた者がほとんどだったが、なかには自ら志願して、あるいは説得されて来た者もあり、処女もまじっていた。したがって気位が高く、嫌な客は拒否した」(『戦場の紙碑』戸川幸夫)@P223と引用しています。その娼婦の稼ぎは先に書いたこの山田女史の文章より、少なくとも、慰安婦の中に日本人慰安婦も多くいたし、朝鮮人慰安婦とも当時は合法であった売春により大金を稼いでいたものが多くいた事がわかります。
また、慰安所の経営者は朝鮮人も多くいたこともわかります。
それを、無理矢理、「真の生きがいの代償」「親への孝行という意識下に、性奴の自分を置くことによって、みじめな抑圧を解き放ったのだ」と書いたり、醜い娼品、性囚、獣獄、獣性という造語をつかったりすることにより、当時の日本軍が悪かったという摺り替えをおこなっています。
慰安婦の稼ぎに関しては山田女史も「慰安婦たちの太平洋戦争」のp68「続 慰安婦たちの太平洋戦争」P171〜2にて引用している有名な米軍による1944年夏に北ビルマのミートキーナーにて捕らえられた朝鮮人慰安婦二十人と抱え主の北村夫婦(日本人)からの尋問記録を要約したレポート(米国立公文書館所蔵)があります。その内容はいずれも慰安婦としての生活が山田女史のいう地獄では無かったことを表していますが、山田女史はこの中から意図的に一部だけを引用し「前借金を親に払った」「個室を与えられた」「水曜日は検診のために休日」「生活はかなり豊かで町へ買い物にも出かけた」「兵からの贈物が多く、娯楽やスポーツをやりパーティにもでた」などということを引用せずに、「行列する旧日本兵を相手に、週七日間、休みなく働かされつづけた」「前借金の返済をおえて帰国の権利ができた慰安婦もいたが、戦況悪化を理由に軍が許さなかった」AP172、自由外出厳禁@p97と書いたり、慰安婦と関係ない挺身隊を慰安婦と偽って書いて事実をゆがめています。
この山田盟子(本名光子)という人も吉田清治と同じく職業詐欺師ということでしょう。
また、山田女史は日支事変にも太平洋戦争にも、軍の性囚にされた慰安婦の九割は、植民地朝鮮からの女立たちであった。@p84
朝鮮人慰安婦については、日本が朝鮮に総督府をおいた時点から、すでに性の兵站基地として組み込まれており、かつ中国やアジア侵攻と同時に、楼主や女衒、軍権商人の餌食にされてきたのだった。@p170
と書きますが、秦氏は慰安婦の総数一万数千人、民族別の割合は日本人四割、現地人三割、朝鮮人二割、その他一割と推計しており、(秦氏の著書慰安婦と戦場の性」より)一番多かったのは日本人であると書いています。
そして、朝鮮の売春やキーセンについては他で書いたとおりで、我が国が朝鮮を併合してから朝鮮の女性の地位が向上しました。
その他、山田女史の著書の興味深い箇所は
海軍特務局長を殺した慰安婦の朝鮮人楼主については、「朝鮮における無数の安重根の一人であったのだ」
「母国を汚す醜悪な権力を特務局長にみて、殺害へとむかった。」
@p130〜131
には笑わせれますが、単なる人殺し朝鮮人をどう見ればこういう風に見れるのでしょう。あの根っからの犯罪者であり、人殺し在日朝鮮人ライフル魔の金嬉老に対して、朝鮮人差別と戦ったなどといっていたバカどもを思い出しました。
そして、「第十一章虹のかなたに」として
十五年戦争中、日本側に利用された中国人慰安婦の資料が、中国側に記録物でもいいからあるのかとたずねあてたかった。ファシズムの遊色政策で、吸い寄せられ、あるいは徴用された女たちを知りたかった。
貶められた女たちを、はっきりと見える存在として認識したかった。そのことは戦時中に少女であった私などにとって、「見えなかった日本」そのものに迫る課題に思えるからだ。その意を大使館に伝えたところ、
「自分たちでやったことは、自分たちが御存じでしょう」
と、もっともらしい返事を受けた。
蒋介石の政治圏でも日本軍の統治内でも、中国娼妓の営業は野放しにされていた。戦後、毛沢東主席による中央政策では、多数の女たちのを淫業から飛翔させた。@p141
体で国への奉仕を強いられた女たちに、中国のような施策はなされなかった。
略)
戦場垢をつけるのに強姦も慰安所通いもいるとされた。慰安婦はヤクザ軍隊の麻酔剤であり、戦力保持用の性具であった。@p150
また、吉沢南という同じ詐欺師の著書よりも引用して
「ベトナムの軍隊はじつに立派だった。女のことで問題をおこしたことはない。そんな話もきいたこともなかった。・・・・・人民のための軍隊という自覚が強かった。ボロ軍隊だったが、精神だけはりっぱだったね。山道や村で娘と会っても、兵たちを彼女たちは怖がらなかった。日本軍はそうはいかない」(『私たちの中のアジアの戦争』吉沢南)AP57
共産主義の支那、ベトナムがよくて、我が国が悪いという考え方は歴史を捏造し、我が国国民に嘘を信じ込ませるというマルクス主義に冒されているであろう山田盟子という人の考え方がよく判る文章だと思います。
山田盟子の著書にみる捏造
平成21年2月2日月曜日晴れ ○
山田盟子氏はその著書「慰安婦達の太平洋戦争」において、「従軍慰安婦と看護婦」(田和子著)を参考および引用を明示している記述があります。
<昭和十七年三月十七日に、すでに太平丸で九十九名がトラック島に進出したのだ。
略)
太平丸で上陸した特要員の菊丸は、本名を山田馨子といい、トラック島に来島したときは十八歳であった。
略)
菊丸の乗った太平丸は横浜を出港すると、神戸で福原廓や大阪の妓 たちで、三十三名となり、釜山にまわって六十六名の朝鮮ムスメを乗せた。
チョゴリを着たムスメたちは、日本の前借抜きのくらがえ娼婦とちがって、騙されて刈り込まれた女たちであり、「アイゴーアイゴー」と泣く姿に、菊丸たちはもらい泣きしたという。南洋海軍区は横須賀鎮守府の所轄であったが、横鎮の性用兵站は陸軍と同じ朝鮮であった。
略)
将校用の菊丸をはじめとする三十三名は、
略)(『従軍慰安婦と看護婦』広田和子)>
「慰安婦達の太平洋戦争」光人社 一九九一年刊 p一六四
では手元にある広田和子氏の著書『従軍慰安婦と看護婦』(新人物往来社 昭和五十年(一九七五年)刊)にてそれらしい記述箇所をさがしますと、
<芸者菊丸、本名山内馨子さん>とまず、菊丸さんの本名が「山内」と「山田」と違っています。これだけだと、単なる誤記かとも思うのですが、もうひとり同じページで、木元で芸者をしていて、菊丸さんと同じ船でいっしょにトラック島に渡った女性も広田氏の著書では「鈴本」文さん、山田氏の著書では「鈴木」文さんとなっています。
そして、同じ著書に出てくる人なのに、
<おなじく太平丸で、木元(熊野市)で芸者をしていた十八歳の鈴木文が、トラック島にむかった。
「あのとき四十ちこうおったかな・・・・うチらは普通の兵隊さん相手だった」
略)
「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」>
「慰安婦達の太平洋戦争」p一六五
引用先をとわざわざ「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」と書いています。
この「鈴木」文という名前の引用は「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」において金一勉氏が使っています。金氏も巻末に掲載した参考文献の中に「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」と書いています。
私は残念ながら、「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」に掲載された「ドキュメント太平洋戦争」の原文をもっておりませんから確認出来ませんので、「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」においては、「鈴木」文さんになっているかもしれません。
しかし、山田氏が引用しているこの広田氏の著書は「アサヒ芸能」に連載されていた「ドキュメント太平洋戦争」において広田氏が取材したものをまとめたものであり、当然、鈴本(鈴木?)文さんに関しても、ほぼ同じ内容の文章が掲載されている。その引用先をわざわざ分けて記述する必要がどこにあるのか。鈴本文さんと鈴木文さんを別人にしなければいけないのであろうかと私なりに考えてみました。
山田氏は広田氏の著書よりの引用として「菊丸の乗った太平丸は横浜を出港すると神戸で福原廓や大阪の妓たちで、三十三名となり、釜山にまわって六十六名の朝鮮ムスメを乗せた。」と書く。つまり、日本人は横浜+大阪.神戸グループで合わせて三十三名しか乗船していない。残りの六十六名は朝鮮人慰安婦であるとしている。
しかし、山田氏の引用元である広田氏の著書では
「その時上陸した慰安婦は約百名。そのうち少尉以上を相手にする士官用は三十三名、菊丸さんはその一人だった。」p二四
となっている。
広田氏の著書には、朝鮮人慰安婦の人数的な記述は、私が読んだかぎりでは「釜山では朝鮮の女性がかなり乗船したわよ。」p一九
と書かれているだけであり、具体的な数値は書かれていない。つまり、どこにも「釜山にまわって六十六名の朝鮮ムスメを乗せた」という記述は無いだけでなく、広田氏の著書には鈴本文さんについて下記のように書かれている。
「鈴本文さん(仮名四十五歳)彼女は菊丸さんと違い、回しをとらなければならなかった一般兵隊用の慰安婦である」p三八
「鈴本さんがトラック島に渡ったのは昭和十七年三月、偶然にも菊丸さんと同じ船だった。帰国が十八年十二月末で、これも同じだったのだが、二人はまったく面識がない
略)
あのときは四十人ちこう行ったんかしら。大阪のグループと神戸の福原遊郭のグループの合併でね。」p四十二
このように、山田氏の著書には鈴本(鈴木)文さんに関しては「おなじく太平丸で」と書かれているが、「偶然にも菊丸さんと同じ船」(同じ便)だったとは書かれていない。
ここに、山田氏が引用先を別にしなければいけない理由がある。
山田氏の著書にあるように、菊丸さんが、鈴本さんと別の便の太平丸に乗船しなければ「釜山にまわって六十六名の朝鮮ムスメを乗せた。」という朝鮮人慰安婦のウソの数があわなくなるからです。
山田氏が引用している広田氏の著書には、昭和十七年三月十七日に横浜港を出航した太平丸においての慰安婦に関しての数字は、上陸したのは約百名の慰安婦であり、そのうち、三十三名の士官用慰安婦であったこと。そして、大阪、神戸のグループが四十名近い人数というだけである。
九十九名という具体的な乗船していた慰安婦の総数も、釜山において乗船してきた六十六人という朝鮮人慰安婦の人数もどこにも書かれていない。
この数値はどこから出てきたものであろうか。そして、朝鮮人慰安婦の数が日本人より倍も多くなければいけない理由でもあるのであろうか。
最低限、日本人慰安婦の数は、横浜+大阪、神戸グループ(四十人)となるので四十人よりは確実に多くなる。横浜からの具体的な人数は書かれていないが、菊丸さんとその友人の二人は確実に乗船している。よって、朝鮮人慰安婦の数は約百人ー(四十+2+α)となり、五十八人よりは確実にちいさくなり、六十六人という山田氏の著書にある人数はありえなくなる。それどころか、三十三名の士官用慰安婦は横浜からと仮定し、大阪、神戸のグループの四十名近い人数の慰安婦はすべて一般兵士用慰安婦と仮定して足すと、日本人慰安婦は七十人以上になり、釜山から乗ったのは六十六人という数字にはほど遠い三十人未満となる。
中川八洋氏は著書で、「千田夏光のつくり話も、吉田清治のそれと似て、数字を酷使している。日本人は嘘数字に弱い」と書いています。
私も、この山田盟子氏が、朝鮮人慰安婦の数をごまかすというより、日本人の倍の人数の朝鮮人慰安婦の具体例をでっち上げるために、わざわざ、引用先をわけたとしか考えられない
こんな女千田夏光、あるいは女吉田清治の書いた文章でも、これにより、具体的な朝鮮人慰安婦と日本慰安婦の割合を示す事例にもなり、また、日本人慰安婦は高級将校用、朝鮮人慰安婦は一般兵用というねつ造ができることになる。
あと、山田氏の著書に引用されている「日本の前借抜きのくらがえ娼婦とちがって、騙されて刈り込まれた女たちであり、」という表現も広田氏の著書には書かれていない。
我が国のためにならないことだったら何でもする腐れ売国奴ども!
今日というか、今朝まで起きてず〜と部屋でゴロゴロと本を読んでいたので、寝たのが六時頃。起きたのが十一時前。それから、食事に出かけただけで、後は部屋にいた。やったことといえば、築地の鮪屋のシンゴちゃんから「もう捨てたら」と言われているジーパンの修理ぐらいで、あとはマンガの本を読んでゴロゴロしていた。マンガと言えば、さいとうたかお氏の「藤枝梅安」「鬼平犯科帳」に出てくる脇役、特に女を書いているスタッフがめちゃ下手なやつに変わっている。ひどいもんです。