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ミャンマー(ビルマ)
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成17年2月3日木曜日晴れ
あの犯罪国家の北朝鮮のように政治レベル低い国に支援するなという国連の報告書が先日発表されたそうです。
http://japanese.joins.com/html/2005/0117/20050117170900500.html
以下引用
北朝鮮のように政治がメチャクチャな貧困国家には、国際社会が援助を行なってはならない、という内容を盛り込んだ国連の報告書が17日に発表された。
??この報告書は、北朝鮮・ミャンマー・ジンバブエなど政治レベルの低い人権後進国には、大規模な支援が行なわれてはならない、と指摘している。アナン国連事務総長が、ジェフリー・サックス教授(コロンビア大学)に要請し作成されたもの。
引用終わり
犯罪国家の北朝鮮はわかりますが、ミャンマーと腐れ北朝鮮と一緒にするのはちょっとおかしいと思います。
ミャンマーは現在は軍事政権ですが、北朝鮮のような犯罪国家ではありません。情報も公開されていますので、国民は自由に外の情報を得る事ができます。少し前の南朝鮮も軍事政権でした。その軍事政権の南朝鮮には我が国も援助していました。
かってはビルマという国名で、1989年に国名をミャンマーに変えました。ASEANにも1997年に加盟しています。
ビルマは、それまでの18世紀より続くビルマ族による王朝を19世紀末に英国との三回による戦争によって植民地にされましたが、この時に、自称「紳士の国」といっている英国は、ビルマ人々の尊敬の中心であったアランパヤー朝の最後の国王であるティボー国王を王妃とともに1885年11月に捕らえて連れ去り、インドのマドラスからタラナーギリーに流刑にしてしまいました。ティボー国王は1916年に58歳で没しましたが、英国はそれだけでは飽き足らず、なんと、その王子と王家につながる人々もすべて処刑にしてしまいました。
この事により、ビルマ国民は国家としての大切な心のよりどころである王族をすべて失う事になりました。
また、アランパヤー朝の都がおかれていたマンダレ−にあったシュナンドーという国王の金箔に覆われていた寺院の金箔を第三次イギリス・ビルマ戦争時にイギリス兵がすべて剥ぎ取ってしまいました。
そして、1866年にビルマを当時のイギリス支配下のインド領の一部と宣言し、インド人と華僑をビルマに入植させ経済を支配させ、モン族、カチン族という少数山岳民族にビルマ人を支配させるという、それは、植民地の民族がまとまらない方が都合がよいという白人にとって都合のよい分断統治政策に他なりません。仏教徒であるビルマ人の町であった美しいマンダレ−は仏教寺院であるバコダがつぎつぎと壊されて、その変わりにモスクやキリスト教会が建つという風景のまちになってしまいました。
よく、朝鮮人は「日本は国王を奪った」などというウソを平気で言っていますが、我が国は大韓帝国皇帝の高宗に対して「徳寿宮李太王」と称され、日本の皇族の待遇を持ってむかえました。その他の重臣、功労者は華族として叙爵されました。朝鮮も我が国に併合される事無く、イギリスの属国となっていたら朝鮮の皇帝とその一族はビルマ王室と同じ皆殺しになっていたでしょう。
そんなビルマに対して、日本帝国海軍は大東亜戦争開戦直前の昭和16年2月1日に大本営直属の「南機関」を発足させました。「南機関」とはビルマの独立援助とビルマ・ルート遮断を目的とした組織です。
雷帝ボ・モージョこと鈴木啓司大佐を機関長とする「南機関」が最初にやった事は、ビルマ独立に燃えるタキン党の若い優秀な青年30人を選んで、日本に脱出させることでした。
この30人を川島威伸大尉を教育隊長にして、南機関全員が海南島で昭和16年4月から猛訓練を施しました。この30人の中にアウンサンスーチ女史の父親である後のアウンサン将軍、後のビルマ首相オン・サン、独立宣言を発したバー・モウの副官ボー・ヤン・ナイン、後の議長ネ・ウィンなどがいました。この30人を中心に大川周明博士の大川塾の学生十数名も参加したビルマ独立義勇軍BIAがバンコクで編成され16年12月31日に出陣式を行い、独立義勇軍が進撃するにつれて、ビルマ全土に独立の気運が燃え上がり、ラングーンはその後17年3月8日、マンダレ−は5月1日に陥落します。
そのころのビルマの人々が、我が日本軍にどのような思いを持っていたかは、その実例をバー・モウがその著書「ビルマの夜明け」で書いています。
「その間、英雄的行為も生まれた。その一つは戦時中のアジア人の間で、伝説のように語り伝えられたものである。サルウィン川での戦いの真最中、数人の日本人将校が、ビルマ人にボートで対岸に渡してくれるように頼んだ。船の通路は数カ所の英国側陣地からまる見えで、その射程距離にあったから、船を出すことは死にに行くようなものだった。しかし4人のビルマ人船頭が進み出た。2人の船頭と日本人将校が船底に伏せ、残りの2人の煽動はまっすぐ平然と立って櫓を漕いだ。船が川の中ほどに来て、岸からまる見えになった時、2人のこぎ手は銃弾の中に倒れた。残りの2人の船頭は一言もしゃべらず、騒がず、すぐに持ち場に着いて漕ぎ出した。ちょうど船が対岸に着いた時、この2人も弾にあたって死んだ。これは例のない英雄的行為であった。日本の新聞ラジオは、ひろくこの実話を伝え、日本本国と東南アジア諸国で感動を呼び起こしたのであった」
ところが、大本営は雷帝と慕われていた鈴木啓司大佐と川島威伸大尉を任務からはずし、南機関を解散させてしまいます。
ビルマ独立義勇軍は鈴木啓司大佐に別れを惜しみ、軍刀一ふりと感謝状を贈りました。
その感謝状の最後には次のように書かれています。
「ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人をわれわれは末永くなつかしむ。将軍のビルマえの貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡んでも、われわれの感謝の気持ちは亡びることはない。将軍が日本に帰られたら、ぜひとも日本の天皇陛下や東条首相、そして老弱男女に報告してほしい。われわれビルマ人の誠意、忠誠心、勇気、日本軍への協力、日本ビルマ間の友好への努力を−−−−−」
(この時の感謝状の実物は、後に鈴木大佐未亡人がビルマ政府よりぜひにと懇願され現在はビルマにあるそうで、未亡人の手許にはビルマ政府より贈られた複製品があるそうです)
そして、遅ればせながら日本政府は、その1年2ヶ月後昭和18年8月1日年にモゴークの牢獄に捕らえられていたイギリス帰りのバー・モウ博士を救い出し、バー・モーにより独立宣言が発せらました。
その時の民衆の興奮ぶりをバー・モウの著書「ビルマの夜明け」には次のように伝えています。
「それは言葉では言い現せないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸をふくらませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群集がパゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。僧たちは町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で万歳を叫んで、日本に対する深い感謝を現す決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた」
残念ながら、このビルマの人々の喜びは日本軍のインパールの敗北が決定的になり、日本軍とともに戦ってきた30人のビルマ独立の志士もビルマを生き残らせるために分裂することになります。
バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、バー・モウは日本に亡命し、ミン・オンは日本を裏切るのは忍びないと自決しています。
その時に今もバー・モウ家にのこるバー・モウあてのオン・サンが書いた手紙の全文が「ビルマの夜明け」に掲載されていますが、その内容は「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」「日本軍のビルマ撤退が賢明な方法」「日本を責めない」と書かれています。
つまり苦渋の選択だったわけです。
このくだりついては戦史家のルイス・アレン(イギリス)もその著書「日本軍が銃をおいた日」にも感激して詳述しているそうです。
ビルマの人々にとっての独立とはどうだったかという答えのひとつは「ロンドンタイムス」が1968年5月23日号に「ビルマの夜明け」がイギリスで発刊された時の書評にあるように思います。
書評は「ビルマを長いイギリスの植民地支配から解放したものは誰か。それはイギリスでは1948年、アトリ−首相の労働党内閣だというのが常識になっている。しかし、バー・モウ博士は、この本の中で全く別の歴史と事実を紹介し、日本が大二次大戦で果たした役割を、公平に評価している」と書かれ、著書の中より下記の文章が引用されています。
「真実のビルマ独立宣言は、1948年1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリ−の率いる労働党政府ではなく、東條大将と大日本帝国政府であった」序文
「歴史的にこれ見るならば、日本ほどアジアを白人社会から離脱させることに貢献した国はない。
しかしまた、その解放を助けたり、あるいは多くの時柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。これはまた日本が、その武力万能主義者と民族の夢想とのために謬られたためである」
「もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである」
こうして、ビルマ人自身の勇気と努力によってビルマは独立しましたが、ビルマの人々はこの時の恩義を忘れずに、戦後、鈴木啓司大佐が英軍によりビルマに連行され軍事裁判にかけられそうになった時にオン・サン等は「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何ごとか」と猛反対し、その後、ネ・ウィン議長は昭和41年12月20日から翌年1月20日まで、元南機関鈴木大佐をビルマに招待し、その年に鈴木大佐がお亡くなりになったあとは47年に節子未亡人を招待。そして56年には、南機関関係者である鈴木大佐夫人、杉井満、川島威伸、泉谷達郎、高橋八郎、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄の7名の方々にビルマ最高の栄誉である「オン・サンの旗」アウンサン勲章を授与し、ビルマ独立義勇軍の生みの親として、最高の敬意を表しています。
そして、今でも3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が首都ヤンゴンに集まって日本の“軍艦マーチ”から演奏し始め“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”など昔の日本の歌を次々と演奏していきます。
恩を仇で返す支那、南北朝鮮の極東バカ三国とはえらい違いです。
そんなミャンマーに軍事政権だからといって我が国はわずかなODAを出し惜しみしています。
そもそも、民主化の象徴であるアウンサン・スーチ−女史とはそんなりっぱな方なのでしょうか。
スーチ−女史の父親であるアウンサン将軍はビルマ独立後に暗殺され、娘のスーチ−女史は英国に引き取られます。
その後、ビルマはビルマ人の国という国名のビルマから5族協和を意味するミャンマーに変えて、英国人の手先だった山岳民族とも和解して再建を目指しますが、その時に、アウンサン・スーチ女史がビルマに戻って来ます。彼女は英国に引き取られ30年も暮らし、考え方も英国風となり英国人の男と結婚していました。
その彼女は、かっての英国の手先としておいしい思いをしていた華僑、山岳民族であるモン族やカチン族の支持を集めています。
英国の利益の代表であるスーチ−女史とは、我が国で報道されているような美しい面ばかりでは無いように思います。
そんなミャンマーに支那が食い込んでいます。 支那が1998年から−2003年の6年間に、アフリカ諸国や中米などに支出した対外援助額が計271億元(4250億円相当)に上るそうです。我が国は支那に24年間で計3兆3億円のODAだしており、世界開発銀行等の分を含めれば6兆円をはるかに超えます。
その支那が昨年は815億円相当も他国にODAを出しています。
これは大半は小口の無償援助分で、支那企業が受注する“ひも付き”の大型プロジェクトは含まれていないので、援助実態はさらに巨額になるそうです。
そしてミャンマーにも大規模な発電所建設支援に乗り出しています。ミャンマーの総発電量の約四割は日本の支援で建設された発電所によるものですが、支那の有償援助で進められている十一カ所の発電所が完成すれば、支那の援助を受けた総発電量は六割に跳ね上がる。
発電所建設の支那の融資は、ミャンマー側は同国中部での建設費二千万ドルを7年間で支那企業に返済するといういかにもあの国らしいミャンマーにとって厳しい条件ですが、支那との関係が深くなるのは間違いありません。
ちなみに、支那に対しての我が国のODAを見てみると、支那の北京空港は建設費の40%が我が国のODA300億円もの巨費で建設されたものであるがその時の金利はわずか2・3〜2・6%で償還期間も30年もの長きにわたるもので、こんな好条件だと日本国民がみんな借りたいでしょう。
我が国は人道支援や民主化と経済構造改革のための人材育成などを除いて同国への支援を停止した状態です。昨年の援助額は34億8000万円と、ラオスの約三分の一程度となりましたが、これについてさへ、あの朝日新聞がうるさくいっています。
だいたい、朝日新聞にとって、ミャンマーは酷い人権蹂躙国家らしいが、あの口うるさいアウンサン・スーチ女史が帰国以来17年も生きていける国なのです。
朝日新聞の大好きな支那でしたら、国家反逆罪とかですぐに死刑か国外追放でしょう。
もっと、ODAは効率良く、我が国にとって国益になる使い方をしてほしいものです。
ところで、同じアナン国連事務総長は我が国とドイツにもっとODAを出せといっています。
それよりも前に国連の金満体質の改善の方が先だろう。