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千田夏光の著書にみる慰安婦捏造の毒(関特演というウソ)の原点

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


 

平成21年2月3日火曜日晴れ ×  

 「関東軍特別(大)演習」、「関東軍特種演習」、「関特演」といわれるものが、いわゆる「従軍」慰安婦関係の著書には度々出てきます。

 (私の手元にあるもので、関東軍特種演習と書いてあるのは、吉見義明氏の著書)

 ウィキペディアには、下記のように掲載されています。 <関東軍特種演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。>

 そして、この関特演に多くの朝鮮人「従軍」慰安婦が動員されたとなっているのですが、これは大嘘というか、腐れ売国奴どものいつものやりかたです。

 私の手元にあるものとしては下記のようなものです。

 まず、イダイな歴史捏造家である千田夏光氏の著書より

<「”関特演”・・・・の動員の中に”慰安婦”の動員も含まれていた。関東軍の後方担当参謀の原善四郎少佐(のちの中佐)という人物がいたが、作戦部隊の兵隊の欲求度や所持金に女性の肉体的能力を計算したすえ、”必要慰安婦の数は二万人”とはじき出し、飛行機で朝鮮へ調達に出かけている」

「原善四郎氏は大阪市の南に隠栖されていた。・・・・・私はそこからお尋ねすることにした」

「朝鮮総督府総務局に行き依頼した」

「実際に集まったのは八千人ぐらいだった」

「(最初は断った師団長も)二ヶ月とたたぬうち、やはり”配属してくれ”と泣きついて来た」>

「従軍慰安婦」正編 続編(千田夏光 三一新書 初刊は双葉社一九七三年、七四年)

(私の引用は「歴史を偽造する韓国」(中川八洋 徳間書店 二〇〇二年刊)p二三八〜二三九より引用

 < 大動員の方、これは朝鮮半島に目が向けられていった。

略)

 代表的なものとして関特演の場合がある。

 関特演とは関東特別大演習の略称だが、これが昭和十六年八月十日を期し対ソ戦を開始し、一ヶ月で東部シベリアを占領する作戦の秘密名だったことはひろく知られている。計画によれば八月九日までに七〇万人の兵員をソ満国境に集結することになっていたが、この動員が発令されるや関東軍司令部第三課、つまり後方兵站担当のF中佐参謀が京城(現ソウル特別市)に飛んだ。そこにある朝鮮支配の日本政府機関・朝鮮総督府へ「従軍慰安婦二万人の徴募」を依頼の形で命じている。

 この七〇万人に対する二万人という数字は、兵隊の欲求度と所持金から算出されたものだったが、頭割りにすると兵隊三五人にたいし慰安婦一人ということになる。昭和十三年の第一号から三年半め、この時点ではそうした数字が作戦計画の中で参謀業務として算出されるようになっていたのである。

 もっとも関特演は作戦発動ギリギリで中止となり、二万人と予定された朝鮮人慰安婦も一万人で徴募中止となったが、大東亜戦争段階になると、これは徴用令という形になった。方の名によって集められたのである。形としては軍需工場に動員される者と同じであったが。娘をとられるのを悲しみ山奥へ逃亡させた両親を警官が捕え、留置場に放り込み、さらに罰金刑をかけた事例や、その前日に自殺した女性の例まで、今も朝鮮半島に語り継がれる悲話は多い。>

「一億人の昭和史 二 二・二六事件と日中戦争」(毎日新聞社刊 一九七五年七月 )に書かれた「従軍慰安婦という悲しい存在」 千田夏光 p一七七〜一七八 

<まず従軍慰安婦とした女性の数は今もって不明である。ほぼ実数に近いと思われるのは関東軍司令部後方担当参謀をされていた原善四郎元中佐が二日かけ算出して下さった「約八万人」である。この中には韓国・朝鮮人以外の女性も入っているが、圧倒的に多いのは韓国・朝鮮人女性で推定でほぼ七万人近いのではとされており、彼女らは満州、中国本土から南方各戦場へ送られていった。>

P五(一九九五年の恒友出版よりの復刊のさいに書かれた序文より)

<昭和十六年七月の対ソ開戦を前提とした関東軍特別大演習のとき二万人の朝鮮女性を連行しようとした関東軍後方担当参謀にも当時の話を聞く事ができた。>P十五

<昭和十六年八月の初旬、軍属通訳として配属されてきた、日本の長崎高等商業学校(現、長崎大学)をでた朝鮮人の男が「満州で関東軍の大動員がはじまり朝鮮から一万五千人の女が従軍慰安婦として強制連行されたそうだ」押し殺した怒り声で李英玉に話しているのをきいたが、>p二一九

「従軍慰安婦・慶子」(千田夏光 クラブハウス二〇〇五年 初刊は一九八一年光文社)

 既に書いた事ですが、この関特演のいわゆる従軍慰安婦問題の捏造に関しては、中川八洋氏が著書『歴史を偽造する韓国』(徳間書店 二〇〇二年)にて詳しく指摘しています。

参考→若槻泰雄の著書にみる千田夏光

 

 

  千田のウソについて中川氏はその著書で 「関特演」つまり「関東軍特別演習」は、七月二八日にはサイゴンに入城して「南進」に戦略が定まったため、八月二日頃には、シベリア侵攻断念(陸軍統帥部の正式断念は八月九日)が陸軍中枢の意志となっていた。これにより「関特演」はあっという間に”単なる演習”に格下げされた。

 「関特演」の動員命令は、第一次が七月九日、第二次は七月十六日であった。内地から動員された宇都宮の第五一師団と弘前の第五七師団は、この七月十六日での下令であった。ところが、八月九日には正式の中止決定である。つまり、実質的には(七月十六日〜八月二日の)二週間の「幻の動員」に過ぎなかった。この奇襲開戦の当初の予定日は八月十九日であったことを思えば出産予定の一ヶ月前に自ら掻爬してしまった「机上の大動員」であったといえる。要するに、「関特演」は、実際には、上記の二個師団を除き、満朝軍の平時編制を戦時編制に切り換えただけであった。ほぼすべての部隊は、満州と朝鮮の既存の部隊に限定された。

「国をあげての戦争準備」とは程遠く、そんなものは影も形もなかった。

 そうとはいえ、この「演習」はあくまで開戦準備であったから、パールハーバー奇襲と同じく、機密のなかの機密であった。当然”企図秘匿”は至上命令であった。だから、実際には「動員」の二文字すらなく、「臨時編制」の四文字に置きかえられていた。出征兵士の壮行会や歓送会は禁止された。

 以上の史実に基づき、中川氏は千田氏の捏造を指摘をされています。

以下引用

 その一  朝鮮からの慰安婦(売春婦)の朝鮮総督府への依頼、総督府による募集、「八千人」という慰安婦の集合、満州北部への輸送は、仮に七月七日に開始されたとしても、なんとたった一ヶ月未満の八月二日までに完了したというのである。軍隊の動員より早く、かつ動員された軍隊よりその輸送も迅速だったというのである。

 その二  朝鮮全土で公然と朝鮮人の面長(村長)と村の巡査を叱咤しての「八千人」という巨大募集は、完全に秘密裡に実行された。一個師団にほぼ近い、売春婦「八千人」と恐らくその置き屋関係者約千人以上が、朝鮮から満州北部に完全に秘密裡に輸送された。

 その三  新規動員(補充)された将兵兵舎や馬の厩舎すらなく、テントその他でその場をしのぎ、それらの建設を応急的にやっているときに、この「八千人」と置屋関係者の建物だけは絶対優先でただちにつくられ完備された。

 その四  従軍慰安婦「八千人」が仮に八月上旬に満州北部に到達したとすれば、その「二ヶ月後」は十月上旬である。「関特演」は八月九日に中止になっていた。それでも、ある師団長はシベリヤ用慰安婦が欲しいとこの十月ごろに関東軍参謀部の兵站部に泣きついた。

 その五  「従軍置屋」の担当は憲兵部隊であるのに、関東軍では実戦部隊の兵站部が所轄した。

 その六  千田は開始されてもいない対ソ戦に、「まぼろしの日本軍」を追っていき、その売春婦八千人が全員巻き込まれて亡くなり、朝鮮には帰ってこなかった。

 その七  関東軍の一参謀の依頼で、朝鮮総督府総務局の官僚たちがすぐに応じて引き受けてくれた。また、総務局は「従軍慰安婦」の「募集」を所轄する部局であった。

 その八  動員を開始した直後には、食料や弾薬の輸送を担当する兵站部門は眠る間もない超多忙と激務になる。が、その中心的なエリート参謀が、のこのこ朝鮮に売春婦募集にいく時間的余裕がたっぷりとある。

 その九  「父親(面長)がある日のこと頭をかかえていたのです。駐在所の警官がたずねて来た直後です。・・・・若い女性を集めろと言われたのですね」  すなわち、駐在所の警官が面長(村長)に対する命令権がある、巡査という末端の警官は村長の上司であると主張する。しかし、面長の上司は郡守である。郡守の上司は道長官(副知事)である。一方、村の巡査は警察署長の部下である。警察署長は県(道)の警務部長の部下ある。警務部長は、総督府の警務局長の命令に服する。

 以上の他に中川氏は千田に対して、

1)本当に原善四郎にインタビューしたのか。インタビューの録音テープの存在の有無。

2)「父親(面長)がある日のこと頭をかかえていたのです。駐在所の警官がたずねて来た直後です。・・・・若い女性を集めろと言われたのですね」と語った韓国人は本当に実在するのか。

3)これだけの虚偽者作は、個人で発案したのか、それとも背後の組織の命令によるのか。

と三つの事項を明らかにすべきだと言っています。

つづく

 Kさん来店。小胡子さん、BOOちゃん来店。三名様来店。うち、お一人様は独特の日本酒に対しての知識をお持ちの方。「マスターは以前、義侠は、ヤクザが買い占めるから、手に入り辛いって言ってましたよね」「この香りは、酒を造る米に香り米を使っているからですか」などなど。こうやって、都市伝説???はつくられていくのでしょうか???????

 

2月4日水曜日晴れ ××××

 この千田氏の「関特演」による「従軍」慰安婦の「狩り出し」という捏造は、最初の著書が出版された僅か三年後の一九七六年には下記のような引用がされ、芽が出ます。

<朝鮮での女集めは、日本軍の動員と作戦のうねりに比例していた。朝鮮での女集めの大動員が始まったのは、ドイツ軍の大軍がソ連領への進攻を開始(独ソ開戦)した一九四一年七月ころからである。

 略)

 ところで、対ソ決戦の意を固めた関東軍では、関特演の名で増員された三十数万の兵隊に見合うだけの慰安婦も急遽に必要だったのだ。こうなっては従来のように個々の売春業者に任せておけないとみえて関東軍司令部の後方担当参謀・原善四郎が飛行機で京城に乗込み、朝鮮総督府総務部に娘二万名の急遽募集を依頼した。(千田夏光『従軍慰安婦』)

 当節は軍の要求するものなら、何でも通るものと相場が決まっていた。このたびの未婚女性二万名供出さわぎは、朝鮮全土を震わせた。

 朝鮮での女集めには、だましと、おどかしと、おだての三拍子がそろい、そのルートも決まっていた。関東軍から女の供出を依頼された朝鮮総督府は、例のように道知事へ命令し、道知事は各郡守へ伝達し、郡守は面(村)長宛に、廠廠警察署→巡査駐在所へと下達される。

 こうして末端の面長と巡査は、指令されたような真赤な嘘を掲げて生娘を集めるのだった。その文句も決まっていた。「お国のためになる仕事だ」と半ば強制した。もし娘たちが、それをのがれようと逃げ回るものなら、背負いきれない過酷な穀物供出の割当てを押し付けて報復する。

 そこで娘たちは、一抹の不安を抱きながらも、面長や巡査がいうことであるから間違いないだろうと、働く覚悟を決めて集まる。その仕事というのは、軍隊の被服廠か看護婦手伝いのようなものと思っていた。まさか軍隊の慰安婦にされるとは思っていないのだ。

 かくて一万人に近い朝鮮の娘が狩出されて臨時列車に乗せられて北上し、「ソ満国境」地帯の各部隊に配給された。この女性たちを依頼した前記の原善四郎が語るように「秦天(瀋陽)駅で出迎えたときは、華やかなものでした」というから、その大がかりさがうかがわれる。>

「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」(金一勉 三一書房 一九七六年)p五七〜五八

その後も下記のように捏造の花が開きます。

<当初は”クロウト”であったが、不足するようになると、朝鮮人の女性をだまして、あるいは強制的に徴用してこれに当てるようになった。一九四一年、例の対ソ戦準備の七十万人の大動員のあった「関特演」に際しても、二万人の慰安婦が準備された。近代国家の軍隊が、「制度」として慰安婦を戦場に連れて行ったなどとは、世界の戦史史上例のないことであろう。そして、その犠牲者は朝鮮人の女性であった。>「韓国・朝鮮と日本人」(若槻泰雄 原書房一九八九年刊)P二〜三

<兵用性業婦としての組織的な刈込みは、「関特演」の第一次動員がなされた昭和十六年七月十三日である。七〇万、三十四個師団の満州集結のおり、二万の慰安婦徴募を後方担当参謀原善四郎少佐が、朝鮮総督府にとんで用達をなした。統治密約による官斡旋で、指定郡庁から面事務所、区長、警察署を通、女子愛国奉仕隊員を刈り込んだ。

組織的な「関特演」用の女子強制供出につづき、その後に発布をみたのは、朝鮮女性への挺身勤労令であった。

 「われわれ朝鮮の人間が、よりいっそう国家のためお役に立つ方法がみつかった。喜んで協力をして欲しい。このたび朝鮮における十六歳以上の女子に対し、志願により国家に尽くす道が開けた。その名前は女子愛国奉仕隊といい、戦前の兵のために働くものである。忠義のヤマトナデシコになれる道が開けたのだ。これで女も内地の女なみに、肩身が広く生きられるという道なのだ」

 と、日本側は志願を強調した。「関特演」での一万人の女たちは、関東軍の下にプールされ、その中から兵たちも女たちも中国に太平洋に送り込まれた。>「慰安婦たちの太平洋戦争」(山田盟子 光人社 一九九一年)p一七〇〜一七一

 <マレー半島における慰安婦のことを、近衛歩兵第一連隊幸田部隊の足取りからみてみよう。

 部隊はソ連軍撃滅が目的で、大連を経て満州秦天(いまの瀋陽)に昭和十六年(一九四一年)七月に到着した。演習と称されたこの下命で、七〇万人の兵に対する二万人の慰安婦のうち、後方担当参謀原善四郎少佐によって、朝鮮総督総務局の協力でたちどころに一万人が集められ、臨時列車に乗せられて北上した。

 「秦天駅で女を出迎えたときは、華やかなものでした」と、原善四郎は語った。

 ところが第一次、第二次と集められた招集の兵は、独ソ戦の膠着と同時に、関特演がとりやめという命令もないまま、十月の中旬に出発命令がでて、幸田部隊は秦天から大連に向かった。八千トン級の大型貨物船に乗せられた。動員」を「続慰安婦達の太平洋戦争」(山田盟子 光人社 一九九二年)P六四

<朝鮮には(ママ)日本のアジア侵攻と同時に、女衒や一旗組も入り込んで、女たちは慰安婦としてさらわれてきたが、組織的な刈込みは、「関特演」の第一次動員がなされた昭和十六年(一九四一年)初夏からであろう。

 そのとき兵七〇万であり、慰安婦二万は朝鮮総督府にもちかけた。統治密約の官斡旋で、女子報国隊として、面事務所、区長、警察署長を通して、強制的に集められ、ひきつづいて朝鮮女子には、挺身勧告令がほどこされていった。

 その女たちは、ビルマをはじめ、豪州の近くのチモール島まで配布された。>

「従軍慰安婦」(山田盟子 光人社一九九三年)p一九〇

 千田氏は一九九五年になっても、この捏造に自信を持っていたようで、下記のような文章を書いています。

<まず従軍慰安婦とした女性の数は今もって不明である。ほぼ実数に近いと思われるのは関東軍司令部後方担当参謀をされていた原善四郎元中佐が二日かけ算出して下さった「約八万人」である。この中には韓国・朝鮮人以外の女性も入っているが、圧倒的に多いのは韓国・朝鮮人女性で推定でほぼ七万人近いのではとされており、彼女らは満州、中国本土から南方各戦場へ送られていった。>P五(一九九五年の恒友出版よりの復刊のさいに書かれた序文より)

「従軍慰安婦・慶子」(千田夏光 クラブハウス二〇〇五年 初刊は一九八一年光文社)

 第二の吉田清治と中川八洋氏に書かれ、その捏造を暴かれた千田氏の「関特演」による「慰安婦強制連行」ですが、私は、千田氏が嘘の始まりと思っていたら、最近、古本屋で購入した本の中で下記のような記述を見ました。

<総督府が集める人数を上から割り当てていったとしたら、事実上の強制(半強制)になる。このようなケースがあったかどうか、より正確に実証していかなければならないが、次のような例がある。

略)

 堅実な実証史家であった故島田俊彦氏は、一九四一年七月以降、関東特種演習という名目で対ソ侵攻作戦のため大動員がおこなわれたが、このとき関東軍は二万人の朝鮮人慰安婦を集めようと計画し、約一万人を集め、ソ「満」国境に配置したと記している。「関東軍」>

(私は「従軍慰安婦をめぐる三〇のウソと真実」(吉見義明・川田文子 大月書店 一九九七年)p二三より引用(吉見氏の引用先は島田俊彦著「関東軍」中公新書一九六五年)

 吉見氏の著書にある島田氏の著書「関東軍」は私は持っておりませんので、直接確認することができないのですが、一九六五年というと千田氏が最初の著書「従軍慰安婦 正編」を双葉社から出した一九七三年の八年前となります。

 千田氏が、著書「従軍慰安婦・慶子」において、前書きの部分に<ひょんなことから彼女らのことを足掛け七年かけ調べ、二十年前「従軍慰安婦(正続)」なる本とした>P一

と書いていますので、千田氏は、この時には出版されていた島田氏の著書「関東軍」より「関特演」の慰安婦強制連行の捏造を考えだした可能性もあります。もしそうだとしたら、捏造の種を蒔いたのは島田俊彦氏で、それを持って生まれた詐欺師の才能で大きく想像を膨らませ、現実味を持たせたのが千田夏光氏ということになります。

 まあ、いずれにしても売国ぶりは本多勝一氏なみの貢献度です。

 その「偉大」な「捏造」による功績は不滅で、後継者も多くいるようです。

 しかし、千田氏の著書「従軍慰安婦・慶子」の表紙コピーはなんざんしょ!

<名書復刊

これを読まずに女の戦場と日本の戦争は語れない」

教科書から消された『慰安婦』記述。時代は戦前モードに!?

脱「謝罪外交」の動きで対立が深まる中朝の反日と、

日本のプチ・ナショナリズム。

すべてはこのルポルタージュから始まった。>

 迷書だろうに!

 いや、螟書か?

 酩書か????

 あほらし。

 スポーツセンターに行く。今日は、スロートレーニングでの上半身だけ。

小胡子さん来店。金ちゃん、マロさん来店。Aさん三名様で来店。Mさん来店。

 今日、金ちゃんから教えてもらうまで、社会科の教師の資格に「公民」と「地歴科」と分かれているということを知らなかった。あと、金ちゃんのように英語がいくら得意でも、英語の教員資格を持っていないので、教師として教える事は出来ない・・・・まあ、普通に考えるとあたりまえなのでしょうが・・・知らなかった・・・・

 営業終了後、エムズバーさんに伺う。 その後、中野の「石松」さんに行ったようだが、記憶は「まったく」、「全然」、「完全」になし。

ドンチャン。気がついたら、店の床で寝ていました・・・・・・

サル、猿、申、さる、SARU・・・・・・・・・・・・

せめて、椅子で寝るようにしたいものだ・・・・・・

 

 

 


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