このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ
飲んべえ日記平成17年10月
堀内大佐の善政2
10月31日月曜日はれ ×
角田武紀氏(現性・川戸)日記の続き
昭和十七年四月二十七日 メナド出港。
略)
そこへ、昨日のランゴアンでの送別だけで満足できずにトラツクで山を下ってきた郡長、村長、その他の村人たちが、最後のお別れに近寄つてきた。司令の白手袋の手を握る六尺のモゴットの郡長は、堪えきれなくなって司令に抱きつき、男泣きをしている。泣きはらして目を赤くした少女が、打ったようにしゃくりあげながら司令の前で腰を二つに折って挨拶している。
三十人ほどの若者がかたまって、「司令殿がいなくなって、ランゴアンの私たちは寂しくてしかたがない」との趣旨の「堀内司令を讃える歌」を、涙を流しなから歌い出した。司令の目も赤く濡れている。そばに立っている私たちに、
「別れるということは、実に辛いものですね」「五十のおやじに泣かれるのには実際参る。本当に嘘がないですからね」
と、言われた。美しい別離の光景である。
いよいよ司令も乗船する。
「いろいろと貴重なご教訓をいただいてありがとうございました。武運長久をお祈り申し上げます」
と、申し上げる私の目にも熱いものがあふれてきた。
「どうぞしっかりやってください」と言う、優しい勇将堀内中佐の目は、高僧の目のごとく澄んで濡れていた。鼻水をハンカチでかみながら、ランチのほうへ歩き出された。
勇将の目に涙あり別離の日
引用終わり 「堀内海軍大佐の生涯」p159〜164
堀内大佐の人間性を感じさせてくれる文章です。上原氏のこの著書には角田氏の後からセレべスに派遣された久保田義麿氏(後の国立国会図書館館長)の事も書かれており、久保田氏は昭和四十五年六月二十七日付け「週刊新潮」の掲示板コーナーにおいて
着任して驚いたのは、半年ほと前に進攻し、すでに移動していた堀内海車中佐の落下傘部隊が、原住民に深い愛情をもって語られていることでした。堀内さんといえば例の海軍体操の発案者。その後、念願の会見をしたときには、「罰を厳しくするよりは、罪を犯させない配慮がなにより」ということを話ってくれたものです。
腰布ひとつの島の女たちに胸を覆う布を配布し、日本兵との事故を防いだのもそのひとつとか。
(注・当時のバリ島では男女ともに上半身は裸であったという)やがて私自身もフロレンス島の民政統治をゆだねられ、堀内さんの教えは島民と心を交わす一助となりましたが、その私にどうしても解せないのは堀内さんが戦犯として現地裁判で処刑されたことです。ご遺族や部隊のかたがたに、事情を教えていただくかあるいは書いたものでも読みたいと思います。
という投稿をし、それに対して、多くの方々から「オランダによる報復裁判」「堀内大佐は部隊長としての責任を一身に背負って刑に服した」などと書かれた手紙が久保田氏宅とどいたそうです。
久保田氏はそれに対して
「いまさらながら大佐の偉大さに一層打たれるものがございます。本当に立派な方を失ったものと痛惜の念にたえません。(中略)私は、堀内大佐を日頃尊敬申し上げておりましたが、これを機に、さらに大佐の尊いご精神を体し、微力ながら、世のため、国のために献身的努力を捧げたいと誓っております」
とういう返事を出されたそうです。
午後よりスポーツセンターにいく。今日は肩の調子もよいので久しぶりにあげる重さをアップする。昨年のベストのウエイトまであと少し。
夜は西大島にある「おでん ふじ」さんで久しぶりに長谷川さんとケイザブロウさんと飲む。この「ふじ」というお店は初めてでしたが、おでんなどのお料理も美味しい感じのいいお店。その後はヨッパライ二人(ケイザブロウさんとわたし)は「カヴェルナ」さん、「春」さんといつものコース。
堀内大佐の善政
10月30日日曜日くもり
上原氏のこの本は堀内司令の善政について数多くの例をあげています。
そのなかのひとつに中央官庁(農林省)から司政官としてメナドに派遣された角田武紀氏(現性・川戸)の当時の日記には下記のような記述があるそうです。
以下引用
昭和十七年四月二十五日、ランゴアン
落下傘部隊が転戦のために、ランゴアンから移動する前日、部隊本部を訪問した。今日は堀内司令も軍装を整えておられる。庭先に遠慮勝ちに立っているのは、身なりを整えた何組かのの村人である。堀内司令は、
「木部に入り代わり立ち代わり、送別の挨拶に来ているよ」
「婆さんに泣かれて弱った。爺さんも泣いて挨拶にならない。朝から泣いている。自分ももらい泣きをするので、なるべく顔を見せぬように覆ってしまうのだ」
などと話しながら、玄関先の人たちを招いている。緊張した顔で入ってきて、司令の手を握り、頭を下げ、挨拶をかわしているうちに泣きだしてしまう村人たち。そばで見ていて、ほろりとさせられる美しい光景である。兵隊の宿舎の中にも、年寄りも若い者も娘たちも、いっぱい来ている。
遠くからごちそうまで持って来て別れを惜しんでいる、
昭和十七年四月十六日、晴れ。
いよいよランゴアン川発の朝、別離の時である。村の真ん中の通りに長い列をなした約三十台のトラックにはすでに兵隊も乗り終わって出発を待っている。両側の数千人のインドネシア人の人垣に取り州まれた車の列。手をあげて挨拶する者、泣いている村長、娘たち、お婆さんたち。天より降った神兵のごとき珍客を迎えて百日余。別離の問際、わずかな時問を敬愛する兵十の手を一人でも多く握ろうと、狂人のように走り川る娘たち。無数の手が差しのべられ、くぎづけにされたようなトラックの列。
司令が先頭車に立って、いよいよ川発である。のろのろと動き出した。バンザイ、バンザイの絶叫。まさに感激のクライマックスの数刻である。司令も兵士も後ろ髪を引かれる思いで手を振り振り離れて行く。何と美しい別離の光景か。
親指を立てて、「ニッポン、ジョートー」と、絶叫する考。目を血走らせて車上の人を追う者。ぬれる椰子の木の下の草ぶきの家の前に、白い上着をきちんとつけて最敬礼する老人。向手を高々とあげて見送る母親たちの笑顔。
「ニッポン、インドネシア、ナカヨシ」と、大声をあげる考。ベラソダに並んで、うやうやしく頭を下げる家族。老若男女、狂気する椰子の林のなかの村。
「天下絶品の兵隊なればこそである。これもまた堀内司令の人格の現れである」とは、一緒に眺めていた軍医長の言葉である。
その夜、メナド橋本本部隊本部で、ささややかな送別の宴があった。二人の司令のやりとりがおもしろかった。
堀内司令が、「今夜はゆっくりと眠れるな。夕べは、でかいのと一緒だったのでベッドから落っこちそうになったよ」と、笑う。その意味はこうだ。
前夜は、堀内司令を迎えにメナドからランゴアンに行つた橋木卯六司令(堀内と同期)が堀内部隊本部に泊ったが、メナドの本部の大きな建物と違って小さ民家なので、部屋もベッドも足りない。
そうは言っても、堀内司令の一言で橋本司令のための一室は確保できるのだ。ところが、それには堀内司令が部下のだれかを動かさなければならない。部下に迷惑をかけたくない堀内司令が、「貴様、おれと一緒に寝ろ」「よしとも」という調子で、堀内司令のシングルベッドに、一緒に寝たというのである。
橋本司令は百七十五センチの大男である。
橋本司令は笑いながら、
「手を伸ばすと、何か気持ちのわるいものに触れたと思ったら堀内のひげだった」
と、やり返す。堀内司令は十五センチほどの豊かなひげを蓄えている。生死を共にしてきた二人の司令。片や音に聞こえる帝国海軍落下傘隊長、片や金鵄勲章を二つももらっている海軍陸戦隊の猛者。共に油の乗り切った海軍中佐の友情に、聞く者一同、笑いの中にも感銘を覚えたひとときであった。
続く
今日は起きるのが遅くなり一日が短い。店を片付けていたら、遅くなり、結局、スポーツセンターには行く事が出来ず。部屋に帰る途中にいつものカレー屋さんで飯を食う。
少年サンデー
10月29日土曜日曇一時雨 ×
私の淡路島にある実家に残っていた古本ですが、明治タイムスという欄には日露戦争の事が出ています。朝鮮人のわけのわからない人物を紹介するのではなく、ちゃんと東郷平八郎提督もでてきます。小笠原諸島の特集では硫黄島の死闘が写真とともに紹介されています。
今の酷い教科書よりまともな内容でしょう。
普通の国に早くなってほしい。
昭和41年8号 2月27日号 | ? | ? |
昭和41年39号 10月2日号 |
昭和43年40号 小笠原特集 | ? | ? |
ありがたいことに土曜日なのに多くのお客様に御来店頂き忙しい。初めてのお客様Iさん四名様で来店。Hさん来店。明日は浜松での酒の会に参加だそうです。Tさん二名様で来店。今日が誕生日だそうです。MASAKOさん四名様で来店。同じ生まれ年のお友達で71年のワインを開けてお祝。今年はモンローズ1971。ただ、入手までに立ててあった時間が長かったと思われ、コルクが乾いていた。二回目の経験です。ゴメンナサイ。Oさん三名様で来店。
明日が休みということで今日もドンチャン。
磯自慢40%10年間の垂直
10月28日金曜日晴れ △
今日河岸から帰ってきて、仕込みが終わってひとだんらくしてから「磯自慢40%10年間の垂直」のお誘いのメールを出す。早速30分後にはSさんから参加してくださるというメールをいただき、6時過ぎのKさん、そして注文をした時についでにお話をさせていただいたS店長まであっというまに定員になってしまいました。
会の当日が平日ということもあり少し心配していたのですが、磯自慢の人気には関係無かったようです。
メールにも書かせていただきましたが、同じ会は当店では開けません。BYが違うのを開くにしましても今後しばらくはかかります。まあ、それもそれまで当店が潰れずにやっていればの話ですが・・・・
ケイザブロウさん来店。一名様。二名様来店。Aさん来店。Sさん来店。「どうせ、今日来るつもりだったけど、念のためにとすぐに参加のメールしてよかった」そういえば、しみずさんからも確認メールを頂戴いたしました。二名様来店。二名様御夫妻?で来店。
李さんと飯。
大橋巨泉3
10月27日木曜日雨のち晴 △
以下の文章は大橋巨線氏が週刊現代に連載している「内遊外歓」というコラムでr<米国でも非難されている「つくる会」の教科書>と題された文章です。氏の醜いというかアホな考え方がよく表れた文章です。ちょっと長くなりますが、引用させていただきます。
以下引用
略)
それにしてもこの数年で、日本人の声がどれ程右旋回したか、信じられない。これは主としてマスコミで意見を言う人や、右側の政治家によって代表されているのだが、それに対する国民の反応もまたボクを心配させている。つまりそれらの発言に対して、真っ向から反対する声が小さいのだ。多くは沈黙しているが、この沈黙が恐ろしい結果につながることを、ポクは戦前の経緯から学んでいる。
先日実現した「戦後60年の国会決議」にしても、10年前の、問題になった「50年決議」より更に後退している。あの時、日本だげが植民地支配や侵略をしたわけではない」(強盗に入って捕まって”才レだけが泥棒しているわけじゃない〃と言っているのと全く同じ)と言って、本会議を欠席した自民党の議員が沢山居た。確か決議の賛成者は、総議席の半数に達しなかったと記憶している。それでもあの時は「植民地支配」という文言は入っていた。
今回はその言葉も、「侵略的行為」という表現も消えてしまった。この10年の間に、日本はよりアメリカ一辺倒になり、本当は最重要のはずのアジア諸国との外交は八方ふさがりになってしまっている。そしてその底にあるものが、日本の政治家たちの「決議」に対する姿勢だという事に、果して彼らは気がついているのだろうか。ポクがこのコラムでくり返し憂えて来た「.夜郎自大」の精神状況が、まるで雨後の筍のように急成長しているのだ。そして政治家にそうした態度を取らせているものが、多くの日本国民の暗黙の肯定又は賛意だとすれば、この国の未来は甚だ暗いと言わざるを得ない。
夜郎自大とは、昔の中国で漢の大きさを知らず、自国の力を信じていばっていた夜郎国という蛮族を瞳った表現であるが、現在の日本はまさにそうである。そしてその代表が「新しい歴史教科書をつくる会」だろう。彼らの姿勢が外国で、しかも同盟国であるアメリカでも笑いものになっていることを、知っているのだろうか。今日のこちらの新聞にも、「日本の戦時中の行動をホワイトウォッシュ(隠す)するもの」と非難されている。特に「慰安婦」間題に全く触れないのは、歴史的事実を隠ぺいするものと批判している。ただこの記事が、中山成彬文部科学大臣の「慰安婦という言葉は当時なかった」というコメントに触れていないのは、愚かな大臣にとってラッキーであった。何故ならこの発言は、「江戸時代、吉原で働いていた女性は売春婦である」という表現に対し、「当時は売蕃婦という言葉はなかった」というのと、全く同義だからである。
ホワイトウォッシュというのは「白いしっくいを塗って、うわべだけ奇麗にする」というのが原義だが、夜邸族以外は、そんなことをしても意味のない事を知っている。今朝クラブの朝食で一緒になったカナダ人の友人がうまい事を言ったものだ。「今にかならずバレて、そういう教科書を作ったことが世界で恥さらしになるさ。ちょうど美容整形をした母親を、成長した子供が見て、何故似ても似つかない顔なんだろうと悲しむようにね」。「つくる会」の人々は恥かしい人々だが、それを使おうという学校の責任者はもっと恥かしい。今日を筆頭に、こちらカナダとアメりカのマスコミも、終戦記念を多く扱っている。しかしその多くは、戦勝を祝ったり、それを美化しようというものではない。その逆で、自らの国の犯した過ちに触れるものも多い。特に戦時中に、民族的に日本人だったからという理由だけで(国籍はアメリカ、カナダなのに)、内陸の収容所に強制的に入れられた人々を扱ったものが目立つ。ポクは国境の南のサマーハウスでは、シアトルの新聞を取っているが、今回シアトル大学のキャンパスにオープンする日本庭園についての記事を読んだ。'42(昭和17)年にアイダホ州の収容所に送られたクボタ・フジタロウ氏の孫のアラン・クポタさんが設計したとある。
別の記事では、ワイオミング州の「ハートマウンテン収容所」の跡地に出来た「記念遊歩道」のオープニング(6月)に、プッシュ政権のノーマンニミネタ運輸長官が出席したと報じている。長官は12歳の時に、家族とともにここに収容された経験をもつ。
これらの記事に共通しているのは、こうしたものを残し、更に資料館などを充実して、「われわれもこうした過ちを犯したんだ」という事を、若い世代に知ってもらいたい、という願いがこめられているという事だ。日系人だけがやっているのではなく、シアトル大学の担当者は自人だ。ワイオミングの資料館には、'42年当時、ここの白人の看護婦の月給が150ドルだったのに対し、日系人のそれは僅か16ドルだった」と記されているという。このように過去の過ちは過ちとして認め、しかもそれを子孫に伝えようとする彼らに対し、日本では過ちを何とか隠し、歴史を美化しようとする動きが強い。しかもアメリカもカナダも、収容された日系人達には、一人何万ドルという賠償を支払っているのである。皆さん、日本人として恥しくありませんか?我々の政府は、慰安婦の皆さんに補償さえしていないのだ。
以下略)
引用終わり
週刊現代2005年9月10日号
P70〜71内遊外歓 大橋巨泉
いかがでしょう。この男のバカさ加減と醜さがよく表れた永久保存版の名文だと思います。
アジアとはこの男にとっては支那、南北朝鮮の特定アジアしかないわけです。
我が国が朝鮮に対して欧米諸国のような醜い統治をしたとでもいうのでしょうか。大橋氏のいう「戦時売春婦」に対する補償ってなんでしょう。米国での支那、朝鮮の反日団体の行動を知らないのでしょうか。高山正之帝京大教授が書いている事ですが、朝日新聞が出している新聞版のリーダーズダイジェスト版ともいうヘラルド・トリピューン紙に「靖国参拝違憲判決」「靖国神社は戦地での残虐行為で処刑された悪者の栄誉まで讃えている」「戦時の残虐行為を少しも反省しない日本には今度の判決はいい薬になるだろう」「国粋主義者の小泉首相には日本人も困っている」いう醜い記事を書いたマーティン・ファクラーという東京特派員となっている男について確認するとニューヨークタイムズ東京支社でのたんなる現地雇いのスタッフだったそうです。朝日新聞からヘラルド・トリピューン紙が出るようになってからおかしくなった・・・・・・・・
今日、夕方磯自慢の寺岡社長よりお電話をいただいたときに磯自慢の会を11月15日火曜日にお願いしたいという事をお伝えする。
その気配を感じたのでしょうか?すばらしいタイミングでしみずさん来店。磯自慢の会のことを話すと、会費も聞かずに、手帳でスケジュールを調べてすぐに「参加!」ハヤイ! Kさん女性のお客様SATOMIさんと来店。遅い時間にKさん2名様で来店。
堀内大佐を裁いた裁判官について
10月26日水曜日 雨 △ S
オランダは戦後、日本軍の攻撃で逃げ出した後に降伏して捕虜になったオランダ軍のメナド付近の守備隊長をしていた男が終戦後、急に居丈高になり、自分達と違って現地で慕われていた堀内大佐に報復感をいだき、卑怯にも自ら裁判官となり大佐を銃殺にしました。(この事は中堂観恵元海軍少将が、戦後オランダ大使館武官より聞いた話として手記に書いている)
下記の証言もこの裁判の異常差をよく証明している。
「私は裁判長から、堀内大佐を弁護するとあなたのためによくないよ、といわれ、判決日を俟たずに帰国させられました」(昭和二十年代後半名古屋大学の学生だった堀内大佐の遺児堀内一誠氏が東京都内に住む堀内大佐の弁護人だった井手諦一郎氏を訪ねた時の井手氏の証言
つまり裁判長自ら弁護人を脅迫し、強制送還していたのである。
「とても弁護できるような状態ではなかった。充分な審理がおこなわれず、法廷が開かれた回数も極端に少なかった。いきなり判決が下されたような状態だった。弁護人として発言の余地がなかったので、私は、自分が何のために来たのかわからないと、裁判長を問いつめた。裁判長は一瞬詰まった様子だったが、『それは、被告が日本国民であるからだ』と答えた。これほど露骨な報復感情を込めた言い方はない。はじめから裁判の形をなしていなかったのだ」
(昭和二十九年にたずねた緒方健一郎氏に対して井手氏の言葉)
多くの戦犯とされた先人の皆様がそうであるように、オランダの復讐裁判により堀内大佐は銃殺刑に処されました。
本日「磯自慢40%の10年間を飲む会は11月14(月曜日)〜17日(木曜日)のいずれかの日で」という磯自慢蔵元の寺岡社長から電話がありました。明日には決めたく思っています。当日は特別ゲスト?も来店予定です。
今日は築地の河岸が休みということで、昨日はホロン部員Yさんと遅くまでドンチャンをやり昼過ぎに起きる。店を片付けた後に少し時間があったので、スポーツセンターにいく。大急ぎで軽めのメニューを消化。
今日はめずらしく大勢のお客様来店していただき大忙し。Yさん5名様で来店。Kさん2名様で来店。大台さん2名様で来店。Sさん来店。Yさん御夫妻来店。TさんKさん来店。飲む。ドンチャン。でもめずらしく最後まで記憶あり。
オランダのインドネシア統治と傭兵の扱いについて
10月25日火曜日晴れ あったかい ×
インドネシアにおいてその地元の人々をオランダがどのような扱いをしていたかよくわかる記述というか、いたたまれない記述箇所が上原氏の著書の中にでてきます。
P127の「鎖につながれた現地兵」という箇所ですが、落下傘部隊と連係して、ケマとメナドにそれぞれ千数百人の海軍陸戦隊が一月十一日未明上陸した。ケマに上陸した佐世保第二特別陸戦隊の第一中隊長佐久間武(海兵六十六期)は部下二百五十人を率いてケマ街道をメナド市に向かって進撃。二時間ほど進んだところで、トーチカ六基より猛烈な機銃掃射を受けたが、これを包囲して総攻撃をかけ、上部から火炎放射器を銃眼抗にむけて放射し、トーチカを三十分かけて占拠したが、佐久間中隊長がのぞいたその中にいたのはすべてインドネシア兵で、全員戦死していた。そして驚いた事にそのインドネシア兵の足は鎖でつながれていたのでした。オランダ軍はトーチカにインドネシア兵の足を鎖で繋いで機銃を撃たせ、自分達は逃げてしまったのです。
何度も書いてきたようにオランダによるインドネシア統治がいかに圧政であり、搾取のみの愚民政治であるかわかるというものです。
似たような話はイギリスがインドの人々に対してもおこなっているというのをどこかで読んだ事がありますが、いずれにしても欧米諸国の植民地政策と我国の統治との違いです。
このオランダのインドネシアにおける愚民政策統治については以前にインドネシア独立運動に日本人として参加し英雄墓地に眠っていいらっしゃる朝鮮人の梁川七星氏の箇所で少し書いた元海軍司教官の鈴木政平氏の著書を別の機会に詳しくとりあげてみたいと思っています。
この本には鈴木氏がいかに小さなことまで気を配り、教育者としてインドネシアの人々と接したかが書かれていると同時に、卒業証書、教員の昇給辞令にまで税金をかけてたり、歴史という授業がなく、運動場もなく、消しゴムから白墨にいたるまで学用品使用量を異常に低く押さえていたり、女子の就学率が異常に低く、学校の新設も少ないという文盲政策をとったオランダによる愚民政策統治のひどさを学校数など具体的な数字で表しています。それに比べて、我が国はどこの統治下でもやった事ですが、官民あげて就学を奨励し、初等教育の授業料は無料とし、多言語.多民族のインドネシアにおいて当時の共通語になりつつあったムラユ語(マレー語)今はインドネシア語とよばれる言葉を教育用語として教えて、そのうえで日本語教育をしたという事が、オランダの統治時代とよく比較できます。
この項続く
しかし、あの大仁田厚ってなんざんしょ。一応参院議員らしいけど、杉村太蔵衆院議員に対して勝手に「教育係」に名乗りを上げたあげくに、挨拶が無いっていわれても杉村議員もこまるだろう。今日はその杉村議員の事務所に勝手に押し掛けて行って会えなかったそうです。
だいたい、この大仁田って人が他人様の教育係をできるような立派な人格とは到底思えない。
単なる目立ちたがり屋のアホなだけでしょう。まあ、反面教師だったらぴったりと思いますけど。しかし、こんなやつが国会議員センセイ・・・・
今日は河岸の魚が薄いので値が高め。うちみたいな一杯飲み屋と違って多くの種類のネタを仕入れなければならない寿司屋さんなど大変でしょう。
今日は大台さん来店。I本さんが大学時代から行っているというBAR Fellow&Fellowのオーナーの杉田さん、友人のOさんと来店。Kさん3名様で来店。今日も遅い時間にホロン部員Yさん来店。
2日間も酒を飲まなかったので、今日は酒が旨い。ということで、グイグイ。ドンチャン。
B・C級軍事裁判
10月24日月曜日晴れ ○
まず、下記の表を御覧戴きたい
裁判主催国 | 起訴人数 | 死刑 | 終身・有期刑 | 無罪 | その他 |
アメリカ | 1453 | 140 | 1033 | 188 | 89 |
イギリス | 978 | 233 | 556 | 116 | 83 |
オーストラリア | 949 | 153 | 493 | 267 | 36 |
オランダ | 1038 | 226 | 733 | 55 | 14 |
フランス | 230 | 26 | 129 | 31 | 1 |
支那(中華民国) | 883 | 149 | 355 | 350 | 29 |
フィリピン | 169 | 17 | 114 | 11 | 27 |
合計 | 5700 | 934 | 3413 | 1018 | 279 |
これ以外にソ連ではおよそ三千人、中共支那では三千五百人といわれている。
田中宏己著「BC級戦犯」より
戦勝国の報復・リンチであるいわゆる戦犯裁判において公開裁判の形式をとったA級裁判といわれるものに比べてB・C級裁判はほとんど非公開でおこなわれた。
この表を御覧いただければ、なお歪んだ一面が浮かび上がる。表に現れていないソ連の国際法違反による終戦真際の火事場泥棒といっていい一方的開戦による十日たらずの戦闘にもかかわらず、そのロシアという人種の特性をよく示している戦中戦後の暴行・暴挙による虐殺。そしてソビエト抑留という名の虐殺をおこなったソ連に裁判を行うべき資格がないのは当然であるが、イギリスとともに死刑・有罪数が多いのは、我国に対して侵攻後わずか一カ月の十七年二月に降伏したオランダの異常な死刑判決・有罪判決の多さである。これは復讐裁判といわれる戦犯裁判を端的に表している例です。
今日は昨日の夜読みはじめた「これだけは読んでおきたい特攻の本」を読み終えたら読み始めが遅かったせいもあるが、朝まで読んでしまい、そのまま寝て起きたら昼過ぎ・・・・
おかげで、今日の一日は短かった。出かける予定は予定であったが、結局は夕方に飯を食いに外に出て、そのついでに古本屋さんをブラブラして一日が終わる。古本屋さんでは二冊購入。
部屋には新聞もテレビも無いので、外の情報が全く入ってこないので飯を食いに入った店でタイガースが二連敗したのを知る。インターネットも繋がっていない。その飯屋さんにあった朝日新聞に生活保護費のことが大きく取り上げられていたが、どうせだったら何にでも差別だ差別だと大騒ぎする我国の総人口のたった5%を占めるだけの在日朝鮮人の生活保護費用が我が国全体の生活保護費のどのくらいなのかをぜひ朝日新聞に詳しく書いて欲しいものです。政府も逆差別はぜひとも止めていただきたい。
あと、こんなことわざわざいう必要があるのだろうか。
以下引用
防衛庁の金沢博範報道官は21日の記者会見で、防衛大学校(神奈川県横須賀市)の学生が毎年、靖国神社に参拝していると韓国の報道機関が報じたことについて、「学生の自主的活動として、休日を利用して靖国神社に参拝している。昨年は12月に約600人が参拝した」と述べた。
同大によると、学校の行事ではなく、学生の有志が心身の鍛錬と団結強化を目的に、同大から靖国神社までを徒歩で行進して参拝している。昨年は12月12日に全学生の約3分の1に当たる約600人が制服を着用して参加したという。 (時事通信) - 10月21日19時1分更新
引用終わり
なんだろうね。こんな事までいちいち発表しなきゃあいけない事なのでしょうか。早く普通の国になってほしいものです。
堀内大佐4(抜粋集より)
10月23日日曜日晴れのちくもり ○ S
金曜日に「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 ー福祉友の会・200号『月報』抜粋集ー」が届く。これは新聞に発売の事がニュースとして掲載された時に購入したいと思いながら、ついつい延び延びになり、お願いした時点で、編集責任者の坂根氏から「もう全国の図書館に配る分だけしか残っていないので、お分けする分は無くなってしまいました」と御連絡をいただき、「増刷の時にはよろしくお願い致します」と返事を出したものの残念に思っていたところ、後日坂根氏から大丈夫ですという御連絡を改めていただき、心待ちにしていた本です。
まだ、一部分しか読んでいませんが、興味深い話が山盛りです。少しずつ紹介していきたく思っています。転載禁止ですので、先人のエピソードという形での引用しての御紹介になります。その中のひとつに東北大学医学部・名誉教授の福岡良男氏の「医師が見た大東亜戦争ー巡回診療で知った堀内豊秋海軍中佐の善政と民族意識ー」というページがありました。
以下引用
このミナハサ地区に降下し、オランダ人を数日で駆逐したのは海軍の落下傘部隊であったが、部隊長の堀内豊秋海軍中佐が、現地住民を非常に大切にし平等に取り扱い善政をひいたために、住民の対日感情が非常によいということがあとでわかった。
また、オランダのインドネシア傭兵捕虜を、直ちに釈放したことも現地住民の対日感情を一層よいものにした。どこの村落にいっても「ニッポン インドネシアサマサマ(平等)」「ホリウチタイチョウ ジョウトウ」「ニッポンジョウトウ」といって親指を上に向け歓迎してくれた。堀内豊秋海軍中佐におくれて現地の守備の任に着いた陸軍は、堀内海軍中佐の善政の恩恵に浴した。
堀内豊秋海軍中佐とその部隊がバリ島に移動するとき、落下傘の降下地区のガラビランとラングアン地区の住民数百人が、別れを惜しみ六十キロの道を歩いてメナドまでホリウチ部隊を見送りに行った。
引用終わり 抜粋集p327より
福岡氏のインドネシアとのつながりについては別の機会に取り上げる事ができればと思っていますが、何度も書きますようにオランダはインドネシアにおいて徹底的な愚民政策統治をとったので、日本がインドネシアに侵攻したときには医者が七万人に一人しかいなかった(宮元静雄氏元ジャワ派遣軍作戦参謀談 「日本の心を語る34人」明成社刊p221 元南方特別留学生でもある元バハリン・ヤヒヤ氏 インドネシア外務大臣との対談にて)
そのような当時の状況の中で、福岡氏は医療に恵まれていなかった現地住民から無料巡回をしてほしいという要請に応えて、「責任は俺がとるから」という先任軍医坂方眞三大尉の厚意と、坪井定男准尉の員数外の薬品は自由に使ってよいという申し出と真野晃主計少尉の影での援助などにより、無料巡回診療を続けられ、現地住民の人々に感謝されたそうです。
堀内大佐の項はこの後も適当に続く予定。
今日は店の片付けをチンタラとやっていたら予定よりメチャ遅くなったので、スポーツセンターへ行くのを明日にして止めて帰ろうかと思ったが、ふと明日がスポーツセンターの月に一度の休館日ということに気が付いて大慌てでスポーツセンターにいく。そうしないと、またまた2週間以上も間が開いてしまう。六時三十分ごろ入館したので、一週間ぶりなのにゆっくりとやる時間も無く慌ただしくひととおりのメニューを消化。その割には効率よく消化できた方かも・・・・
スポーツセンターのジム内でふとしたきっかけで話し掛けてきた、今風のチャパツ三人組のでかい体をしたニイちゃんたちも、トレーニングの仕方に付いて聞いてきたので、いろいろと話しをすると敬語も使って礼儀正しい。敬語も使えないバカな社会人よりよっぽど話をしていて気持ちがよかった。
帰りの電車は事故?のためか遅れていつもと違うホームに入ってきたために空いていていた。途中、BOOKOFFに少し立ち寄ったあとにカレー屋さんで飯を食って帰る。
昨日買った「これだけは読んでおきたい特攻の本」(北影雄幸著 光人社刊)を布団に入ってから読んで寝る。
堀内大佐3
10月22日土曜日晴れ △
大隊付信号員長として堀内大佐(当時中佐)の側にいた坂田喜作氏が上原氏に語った事として占領当日の一月十一日のこととして著書で次のように書いています。
「その夜は付近の田圃のなかにあった一軒の民家に入り、通信隊の一部と本部付の人、そして司令(堀内大隊長)とで、その日の戦闘状況をまとめる準備をしていました。そこへ、原住民の敵兵を一人捕虜にしたという報告がが入りました。一晩拘禁し、翌十二日に調べてみると、捕虜は、そこの農民であることがわかりました。すると堀内司令は、早速その捕虜になった農民に『あなたがた住民の仲間で、私たち落下傘部隊に協力してくれる人がいたら連れてきてくれないか』といって、貴重な塩を与えて帰してやりました。その農民は十数人の住民を連れてきて、われわれが占領した飛行場の整備などを、熱心に手伝ってくれるようになったのです」
「降下したその日は、無人の農家に入って他の部隊と交信したりしました。翌日からは、地方の有力者シガラキ氏の申し出で、その家を使うことになりました。司令をはじめ総勢十名ていどで本部をシガラキ氏宅に、その他はオランダ軍の兵舎跡らしい建物や公共建物を兵舎にあてました。塩とか食料は応援部隊がきたので、内地から輸送したものと思われます。塩は大変貴重でした。
インドネシア兵が順次投降してきたので、捕虜にしていったん民家に収容しました。百数十人いました。みんなおとなしくしていたので、司令はかれらに休暇を与えました。一週間ぐらい休みをだして家に帰す時、堀内司令は『こうして元気にしていると、家族に話してきなさい』といって、塩を土産に持たせました。オランダ軍側にいたときは全く休暇などなかったとのことで、一週間の休暇が過ぎると、手土産を持って全員が帰ってきました。これをみても、堀内司令がいかに信頼されていたかわかるでしょう」
このような事がきっかけで、住民のあいだに驚くほどの早さで宣憮工作がゆきわたり、降下して一カ月後には、住民たちと一緒に演芸会を開き、ともに楽しむまでなった。常日頃堀内大佐は「女や子供には手を出すな、弱い者いじめはするな」と隊員に厳しく命じていたので、ますます住民に慕われていったそうです。
明日あたりに続く
今日は昨日と違い、大忙し。Sさん4名様で来店。香港からHIMEがMaxさんと来店。今月のお誕生日はお仕事ということでなので、ちょっと早いけどアルフレッド・グラシアンキュヴェ・パラディ ブリュット(NV表示ですが内容は96年)、もう一本というか店主自身が久々に飲みたかったこともあり、ハミルトンラッセルのCWGシャルドネリザーブ2003を開けてお祝。どちらも私が大好きなワイン。Maxさんが今度日本支社の事務所を開設したということもついでにお祝。Eさん来店。Iさん来店。Yさん御夫妻来店。
グラシアンのオーナー自身が100年に一度のでき(100年前のは飲んだのかというHIMEの突っ込みもありましたが・・・)という1996も楽しみです。
ところで、昨年の山田錦の出来は散々でしたが、「不作の年に銘酒あり」とかいわれるように16BYのお酒は美味しい酒が盛り沢山。美丈夫夢許を斗瓶も含めていっぱいもらう事ができて幸せ!!!!!
松ちゃんとこの斗瓶はまだかな〜
10月21日金曜日晴れのちくもり △
今日は金曜日のはず・・・・少なくとも世間一般では・・・・
と思っていたらKさん4名様で来店。いろんな酒をドドドンと飲んでくださり、う〜ん、よかった。
愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」と米原子力潜水艦の衝突事故で、米運輸安全委員会(NTSB)の報告書の写しを同県に届けた米国の大阪・神戸総領事館のフィリップ・カミングス領事が20日午後、宇和島市を訪れた。領事は報告書の写しを携え、米国民を代表し哀悼の意を表しに来たことを丁寧な日本語で説明した。
宇和島水産高校の正門脇には、犠牲になった9人を弔う慰霊碑がある。同校を訪れた領事は碑の前に進み、花束をささげて深々と頭を垂れた。その後、校長室で玉井治樹校長に「できるだけ早くと思い、持参しました」と書類を手渡した。
(時事通信) - 10月20日18時1分更新
根室市のサンマ棒受け網漁船「第3新生丸」が根室沖で転覆し、乗組員7人が死亡した事故で、イスラエル運輸省は19日、事故原因の調査報告発表を当初予定していた26日から来月25日まで延期すると発表した。(毎日新聞) - 10月19日21時32分更新
同じような7名がお亡くなりになった悲惨な海難事故でありながら、「第18光洋丸」についての腐れマスコミの報道の異常さが際立ちます。
その船が南朝鮮の興亜海運という会社の船で、なおかつ海上事故の常習的な船長、御遺族に対して「逃げも隠れもしない。落ち着いてから話をしよう」と言い切った腐れ経営者だということがほとんど報道されません。
この報道と当事国、会社などの対応の 差はなんなのでしょう。
まあ、長崎、広島の原爆に対してはアメリカも似たようなものだけど・・・・
ブッシュ大統領にはぜひとも広島、長崎への慰霊碑への献花と靖國神社参拝をお願いしたいものです。以前に靖國神社参拝を妨害した腐れ外務省には今度は強力に押し進めるぐらいの事はやってほしいものです。
堀内大佐つづき
10月20日木曜日晴れ あったかい △
堀内大佐(当時少佐)はあるとき部下の非をとがめ、こっぴどく叱りとばした後、その非は自分の不徳の致すところ、責めの一半は自分にもあると深く反省し、以後自らを戒める誓いの印として、通訳を通じて、廈門の南西に浮かぶ小島コロンスの洞窟内に下記のような文字を彫ったそうです。
「以責人之心責己、以怒己之心怒人」
(人を責むる心をもって己を責め、己を許す心をもって人を許す)
堀内大佐が教えた海軍兵学校の生徒であった堀之内芳郎氏(六十二期)は昭和十五年夏にそのコロンスに遊んだ時に偶然この洞窟内の岩壁に彫ってあったのを見つけて、心にとめた堀之内氏は支那人の書家に揮毫してもらい、表装して大事にもっていて、処世訓のひとつとしていたそうです。それが堀内氏が彫らせたものだとわかったのは海上自衛隊幹部候補生学校の教官としてこの掛軸を持ち出して学生に説いていた時に、一人の学生から「陸戦隊司令が彫らせたもの」と言ってきたそうで、三十年ほどの長き年月を経て、この時期の陸戦隊司令が堀内豊秋氏だと知ったそうです。そして、堀内氏が戦後のオランダ軍による軍事法廷に召還された折に、部下の責めを負って従容として死についた恩師のその人なりを、改めて偲んだそうです。
海軍落下傘部隊長(補横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(横一特)司令)に昭和十六年九月二十五日に任命される。当時四十一歳という世界一高年齢の落下傘隊長だそうです。しかし、その体力、俊敏性、柔軟性は親子ほど年の違う部下をも凌いだとあります。
昭和十七年一月十一日午前六時三十分にフィリピン・ミンダナオ島ダバオの基地を二十八機に分乗し離陸。
(このミンダナオ島ダバオでは大東亜戦争開戦とともに、日本人居留民は全員強制収容所に入れられた。そこで、日本人女性はフィリピン土民兵に連れ出され暴行されるという痛ましい事件があり、自殺した女性も出ている)
この途中、一機はエンジンの不調で引き返し、そして第四編隊の五番機は味方の水上機の誤謝により撃墜されるという悲劇があった。
部下思いの堀内大佐は後々まで、この五番機の無念な最後を悔やんでも悔やみ切れないと残念がっていたそうです。
残りの二十六機三百十二人は午前九時五十二分に高度百五十メートルより降下。もちろん日本海軍伝統である指揮官先頭を切ったのは堀内大佐(当時中佐)です。この勇姿は報道班を乗せた飛行艇より本間金資カメラマンのアイモにより収められています。
オランダ軍の機銃掃射により戦死者二十名、負傷者三十二名と多くの犠牲者を出しながら、インドネシア・メナドのカラビラン(通称ランゴアン)飛行場を激戦二時間で制圧しました。
この降下で片腕とたのむ染谷副官をはじめ三名の副官を失ったことが、のちに堀内大佐にとって痛手となり、部隊の掌握に苦労をしいられ問題を起こす事になりました。
堀内軍政を示すものとして、堀内大佐の生家に今も大切に飾られている臈纈染の作品がすべてを物語っている。それはインドネシアの古代叙事詩を主題に描いた作品で、影絵や人物を素材にしたワヤンというこの形式の絵は、堀内大佐が占領下のインドネシア・バリ島シンガラジャ司令時代に、現地住民から贈られたものです。
画面の左側は悪人の頭に大きな石が落ち、驚いてあけたその口に槍が刺さっている。右側には人々が楽しそうに語り合う平和の風景が示され、正義のために戦った五兄弟の母親(伝説中の人物)と、天国にいる高僧と、自由にさえずる鳥が、豊かな色彩で描かれている。
古代戦争劇の一幕を表したこの画面の背景には無数の落下傘が舞い降りている。
ミナハサ地方には古くから、「わが民族が危機に瀕する時、空から白馬の天使が舞い降りて助けにきてくれる」という言い伝えがあった。
本間報道員の写したニュース映画には、大勢の現地住民が画面一杯に写っていて、喜びの表情を隠しきれないでいる。
これは同じ我国軍人として現地の方々より慕われたミャンマーにおいての鈴木啓司大佐の物語にも通づると思います。
明日あたりにつづく
ラムズフェルド米国防長官は20日、北京の軍事科学院での講演で、支那がミサイル能力と配備を拡大し「太平洋を越え世界の多くの地域に到達できるようになった」とした上で、支那側がミサイル関連情報の公開に消極的なことに強い懸念を表明した。AP通信が伝えたという共同通信のニュースがありましたが、支那にいった我が国の政治家で、我が国に向けられている支那の700基以上といわれるミサイルに言及し、それに懸念を表明した政治家は何人いるのでしょう。
友好友好と口ばかりでは真の友好などありえません。
築地の河岸には今日も「小春ちゃん」(トマト)の入荷はなし。
Mさん二名様で来店。Sさん来店。Y岡さん来店。Kさん来店、仙台のIさん来店。今日は体調もよく、酒の味も普通に感じられる。
営業終了後、李さんと飯。
堀内海軍大佐といわゆる戦犯裁判について
10月19日水曜日晴れ ちょと肌寒い ○
大東亜戦争が終わって三年も経過した昭和二十三年九月二十五日にインドネシアのメナドでオランダ軍によりひとりの日本海軍大佐に対して銃殺刑が行われました。この海軍大佐は銃殺の時に目隠しを断り、死に臨みました。
この日本軍人は堀内豊秋大佐という方です。では堀内大佐は銃殺刑に処せられるような事をしたのでしょうか。この堀内大佐のひとなりを書いた本が、手許にあります。「堀内海軍大佐の生涯」(上原光晴著 光和堂刊)という本です。この本の題名になっている堀内豊秋大佐は海軍体操の創始者として知られていますが、海軍落下傘部隊司令として、昭和十七年一月十一日オランダ領東インド(インドネシア)・北セレべス・メナドに部下の先頭をきって降下し、オランダ軍を降伏させた勇将でもありました。
その堀内大佐は単なる勇敢なだけの軍人ではありませんでした。
他人に対して思いやりと優しさを持っている武人でした。そんな武人を銃殺刑にするという戦犯裁判についてです。
まず、この本に書かれている堀内大佐の人なりと生い立ちについてこの本より引用して書きたいと思います。
江田島の海上自衛隊第一術科学校が管理している教育参考館にはガラスケースのなかにバリ島在住であったドイツ人画家ストラッセル・ローランドによる大きな油絵が掲げられている。その絵にはメナド降下作戦でカラビラン飛行場に降り立った堀内大佐(当時中佐)の姿を描いている。
その油絵の下に、昭和十四年十一月より支那の廈門に当時少佐の堀内豊秋が陸戦隊司令として軍政に携わっていた時に、廈門駐留を継続してくれるようにと書いた廈門の百五十二村長の連名、押印による廈門海軍司令部牧田司令長官宛の陳情書があります。
廈門にて軍政に携わっていた堀内少佐は現地住民の信頼を一手におさめていました。駐留交代の知らせを聞くと、住民はこぞって駐留継続の嘆願書を現地の最高司令官である牧田覚三郎少将に出しました。さらに堀内少佐の軍政を讃えて、昭和十五年十月に百八人の支那人が寄付金を出し「去思碑」を建てました。
堀内大佐は「おれは原住民にもてるんだよ」と持ち帰った去思碑の碑文の掛軸を可寿夫人に見せています。
(戦後は暗転し戦犯とされた方々の御家族は皆様苦しい生活でしたが、堀内大佐は獄中より夫人にあてた手紙の中で支那・廈門の人々より贈られたこの掛軸とインドネシアの人々より贈られた肖像画と胸像以外の私物すべてを売り払い、子供達の学資とするように書かれているように、現地の方々の志をいかに大切に思っていたかが伺われます。)
その「恭頌大日本海軍陸戦隊堀内豊秋司令徳政」との書き出しの碑文は堀内豊秋の軍政について下記のように書いてあるそうです。
ーああ、総指揮官大権を職掌し廈門に駐箚すること二年。口碑流伝す。人民を領導し、よくその完全を致し、軍隊を使うに万略ありて寸毫も恋々たるなし。善政を施せる名声は僻遠の地に至まで広がり、人民の復帰する日に多く、各生業に安んじ、鼓腹にして皆歌う。時に乗じて建設し、日に異なり、月に新たなり。爾今爾後、日親に藉資す。赫赫たる司令、よく領民を安んじ、その徳、衆人におよび、昇平あらかじめ兆す。ここに節録を述べんか、禾山区一帯の者とともに明らかなるべし。石碑にこれを刻し、以て永久に伝えん。
この去思碑の除幕式は昭和十五年十月三十日、廈門の江顕五通でとりおこなわれました。当時の現地の新聞には
「禾山民衆敬愛日軍 為堀内部隊長立去思碑 昨晨挙行隆重掲幕典礼」
の見出しで、次のような記事を写真入りで伝えているそうです。
「(前略)地元側は趙署長以下書院ならびに各誘導員、各社長約二百名参集の下に開式。李恭氏の祝詞等あって記念品奉呈に対し、堀内部隊長はきわめて流暢な促成廈門語を使って謝辞を述べ、来会者に深い感動を与えた。これがすんで趙署長登壇、慈父と慕う部隊長の在任中の功績を讃え、今後その指導に基づいて禾山の発展のため、献身的努力を続けることを誓う旨、祝詞に代えて述べた」
ただ、海兵78期出身の作家、高橋玄洋氏が後年この記念碑を確認しに現地をまわってみたそうですが、見つける事ができなかったそうです。共産党支那においてその存続が難しかったのでしょう。
この項明日あたりに続く
今日は河岸が休みだったので、スポーツセンターにでも行こうかと思いながら、やっぱり思っただけで終わってしまう。
Kさん来店。磯自慢をずらりと飲まれる。TさんSさん来店。Nさん友人の方と来店。後でN夫人のETUKOさん来店。
まあ、芸人ですが・・・・
10月18日火曜日晴れ
あの狂言師の和泉元彌がプロレスにでるそうな。そのプロレスデビュー戦の相手に元WWEの鈴木健想を指名したとかいうのがありました。
その中で面白発言連発
草間GM「私どもは和泉さんがプロレスが未経験だということ、また伝統芸能、伝統文化を伝える国の宝ということも考慮し、おケガでもされたら大変」
和泉元彌「エキシビション的にお客様扱いで(プロレスの)まねごとだけして帰ってくるのは、プロレスのリングに命を懸けているレスラーの方々に失礼」「日本の伝統芸能・狂言を尊重していただいたなかでハッスル参戦が決定したので、自分もプロレスのリングに敬意を表し、その世界を尊重して、自分のファイティングスタイルを持ってリングに上がりたい」
「自分が狂言の世界で培ってきた“狂言力”というものを生かして、思いっきりぶつかれる相手をこの場で指名したい」
「プロレスにも200年近い歴史があるというが、それだけの間、老若男女を問わず沸かせてきたプロレスの魅力とはどういうものなのか。その土俵に入ってしっかりと受け止めて帰って来たい」
う〜んもっと早くお笑いの世界に入るべきでした。
ちなみに、和泉元彌はスポーツの経験はなし、自称170cm弱、63キロ、対戦相手に指名した鈴木健想とは同じ昭和49年生まれの31歳だが、ラグビーからプロレスいりした鈴木健想は身長191センチ、123キロだそうです。
しかし、見に行く人は銭を払っているという事をわかっているのでしょうか。
まあ、昔は小人プロレスとかも放送していましたから、何でもありなんでしょうね。
築地には部屋から直接いく。今日は台風のせいもあり、仕入れが難しい。一吉のアンちゃんは今日はサバはあまりおすすめでないそうで、サンマをすすめられる。ウニは今回初めて使う壱岐の白の塩水ウニ。白身は活けのキハタ。後は鮑とイカ。マグロは相変わらず慎吾ちゃんのところでいいのを入れてくれる。今日も「小春ちゃん」は入荷無し。
いつも昼飯でお世話になる近所のお店が明日から四日間も休みなので、「何処変へお出かけですか」とママさんに尋ねると「家で骨休めよ」とのこと。なんとなくわかる。
Sさん来店。ホロン部員Yさん来店。Kさん来店。
ヒマなので、早い時間から飲む。でも、何か酒の味が違って感じるので、体調がイマイチ・・・・・・
大橋巨泉の人物像パート2
10月17日月曜日雨 ○
少し前なのですが、あの大橋巨泉氏の週刊現代のコラム「内遊外歓」に書かれていた事です。
以下引用
ボクは後藤田さんと、思想的に一致するものではないが、彼のような政治家が居たからこそ、自民党政権は機能したのだと評価している。時々の首相に対して、ハッキリ是々悲々の態度で直言した人で、私心が無いだけに説得力があった。故伊東正義元外相と同じで、周りから推されてもトップには立たなかった。こういう人は信用できる。首をタテに振りさえすれば総理総裁になれるという時に、自らの能力、年齢、健康状態などを考慮して、国民のためにならないと思えば、ハッキリ断念できる。そういう人ばかりなら、日本はこんな事にはならなかったろうが、普通の人は権力欲、自己顕示欲のためには何でもするものである。
略)
自民党に後藤田さんの衣鉢を継ぐ人は、果たしているのだろうか。ボクは河野洋平さんに期待をかけているが、大勝に驕る総裁が耳を傾けるかは大いに疑問である。
引用終わり
週刊現代2005年10月15日号 P72〜73内遊外歓
すごい、さすがは大橋巨泉というべきでしょうか。後藤田氏亡き後に期待しているのが河野洋平氏とはすごいです。
この後藤田という人を評価している方がもうひとりいらっしゃいます。
「平成5年、私が社会党委員長になった時、お昼をご一緒しましたが、”自衛隊について社会党と意見の違いはあるけど、自衛隊が武装して海外に出ていくことには反対しなければならない。その点は同じ考えです”と話された。自衛隊の海外派遣や集団自衛権の行使など、憲法が認めないことがなし崩しになることに危惧を抱いていた。非常にまともな方でした」
村山富市元首相談 週刊新潮平成17年10月6日号
・・・・・・史上最低の首相からまともな方といわれる悪い冗談!!!
しかし、このアホお二人に支持される後藤田正晴氏という方はそれだけでなんとなく、その底が見えそうです。高山正之氏がコラムに本当は真っ赤だった後藤田さんと書いていますが、(週刊新潮2005年10月13日変見自在)内務省に入り昭和15年に応召して台湾に陸軍主計としていった後、終戦後復員して内務省に戻って、すぐに職員組合委員長に就任。内務省解体に伴い警察庁になった時に警察官の労組を立ち上げようとして潰される。警察庁長官時代に浅間山荘事件が起きるが、ライフル銃を持つキチガイ連合赤軍により機動隊員が撃たれ殉職者が出るまで機動隊側から攻撃らしい攻撃をさせなかった。政界入りし、法相、副総理と務めましたが、その間は警察官の増員は一切認めず、シナ人などの凶悪強盗に対しても警官は銃を抜いて撃つ事も躊躇われた時代だったそうです。そして、無差別殺人をおこなったオウム真理教に対しての破防法摘要を断固拒否し、東京裁判も支持し、政界引退後は日中友好会館名誉会長という肩書きだったそうで、まるで、朝まで生テレビでアホな事を平気でしゃべった福島瑞穂とその言動は余り変わりません。なんといっても最初の選挙ではなんと元警察官僚それも警察庁長官まで務めた身でありながら、厚顔無恥にもタクシー券、ビール券を配りまくり200人以上もの検挙者を出してみごとに落選した御仁です。
でも、同じ赤い仲間としてまだ加藤紘一や河野洋平などが健在です。
大橋巨泉氏もこんな御仁を指示されているとはやはり類友なのでしょう。
そんな大橋巨線氏を「私の尊敬する大橋巨線氏」と同じ週刊現代に連載中の漫画の中で書いていた柳沢きみお氏・・・・・
今日は、一日中飯を食いに外に出た以外はどこにも行かずに、予定していたスポーツセンターも予定だけで終わり、結局部屋でゴロゴロして終わる。飯を食いにいった時に寄ったBOOKOFFで数冊購入。100円で売っていた辛淑玉女史と永六助氏との対談本「日本人対朝鮮人」はお笑い所満載。さすがです。
あと、超破格値だった一冊は・・・・今度、友人へのプレゼントにしようと思います。贈った友人が興味無くて読まないようでしたら、トレーニングの時にウエイトとして使えますし・・・・
フュッセン九段下店へ
10月16日日曜日雨のち曇り ×
今日は午後よりスポーツセンターにいく。途中、古本市がビックボックスで開催されていたので、ついつい寄ってしまう。これでいつものとおりに時間が無くなり、スポーツセンターでは胸、背中などのメニューを消化しただけで終わる。夕方より当店のお客さまでもある小川さんが開店された九段下にあるフュッセン九段下店に伺う。御一緒してくださった北新居さん、鈴木さんとも私と同い年の親父・・・・こんどは、私が持っている生まれ年のシャトーラフィットのマグナムを開けてドンチャンしましょうという話になる。92年にリコルクしてあるので、大丈夫でしょう。(でも本当に大丈夫かな・・・・・)
小川さんのお店は店頭にケーキ、惣菜などを販売するスペースがあり、奥のレストランは背もたれが高くなっているために、個室的なスペースとしてゆっくりと食事を楽しむことができるようになっています。この日は「シェフのおまかせコース」(6000円)をお願いして、ワインも白一本、赤三本を飲みいい気持ちでお店を出て、みなさんともう一件居酒屋さんでビールを飲んでお開き。今日も大ヨッパライ。最近どうも酔っぱらうのが早い・・・・
国会での答弁
10月15日土曜日 晴れのち大雨 ×
救う会全国協議会ニュースの(2005.10.14)号よりの引用掲載です。
以下引用
「全員生存の前提の下に早期帰国のために交渉する」−斎木審議官が山谷えり子議員の質問に答弁
■「全員生存の前提の下に早期帰国のために交渉する」−斎木審議官が山谷えり子議員の質問に答弁
「全員生存しておられるという前提の下に先方とその早期帰国のために交渉をしていくという、そういう立場でございます」。10月5日、参議院予算委員会の場で、山谷えり子議員の質問に斎木昭隆外務相アジア太洋終局審議官が上記の答弁を行なった。家族会・救う会は、北朝鮮が「死亡」「未入境」などと捏造したすべての主張に対し、拉致被害者の生存と早期帰国を要求してきたが、この日、斎木審議官が改めて、生存を前提に早期帰国を要求することを明言した。
また、中川昭一・経済産業大臣は、「対話は対話として、北朝鮮は一刻も早く約束を守るべきだと思いますし、と同時に、現在進行形で拉致、あるいは大量破壊兵器、ミサイルの、核の問題が現に存在している、し続けているわけでありますから、この圧力という手段も、何も対話があるから圧力はいったん引っ込めるという性格のものでは必ずしもない(略)」等と答弁した。
拉致関連部分の議事録は以下の通り。
◆参議院予算委員会 平成17年10月5日議事録
○山谷えり子君
自由民主党、山谷えり子でございます。
新憲法制定を望む声が国民の過半数となっております。国の最高法規ではありますが、前文は、日本、言霊幸う国日本の命が感じられるようなものであってほしいと思います。小学生が朗々と暗唱できるような、また女たちが台所で大根を刻みながらもふっと口ずさんでしまうような、そのような前文を望みます。
私、試みの案を書いてみました。
「四季のめぐり、恵みあふれる大八洲、豊葦原瑞穂の国に生まれ育ったわたくしたち日本国民は、睦み和らぎ、徳を高め、勤め励んで、平和の国、文化の国、道義の国として歩んできました。美しい日本の国がらを誇り、喜びとして、これからも正直、親切、勤勉、節度、品位、調和、献身、進取の気性をもって、諸国民との協和の中で輝く自由と民主主義の国として歩みます。長い歴史と伝統、家族の絆の中で、豊かに育まれたわたくしたちは、一人一人に与えられた賜物に感謝し、法にしたがい、国を富ませ、心を世界に開いた政治、経済、外交を展開し、尊い生甲斐を互いに尊重する社会をつくります。人類の恒久平和、自然との共生に心を一つにして国際社会の中で名誉ある国づくりにつとめます。愛と一致と希望の中で、力をつくし、誠をつくし、明き清き理想に向かって進んでいくことを誓います。」というものなんですが、明治時代は様々な方々が起草案を出されました。国民各位の具体的な議論の高まりを願うものでございます。
現憲法の前文は、平和を願う諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意したという文章がございます。いかにもよさそうでございますが、これほどよく考えてみると非現実的な前文もないわけでございまして、この前文が正しいものであるならば北朝鮮の拉致問題も起こらないわけでございます。
本日、十月五日、横田めぐみさん四十一歳のお誕生日でございます。両親とともに誕生祝いができないことを本当に政治家として申し訳なく思っております。
佐々江アジア大洋州局長、十四日の二国間協議で、生存者の帰国、安否不明者の真相究明、拉致実行犯の引渡し、三点を強く求め、このままでは厳しい対応を求める声が強まるという国内状況を説明なさいました。生存者の帰国と言われたのは初めてではないかと思いますが、生きていらっしゃるということで交渉をなさっているわけですね。
○政府参考人(齋木昭隆君)
お答え申し上げます。
政府の立場としては、当然ながら、今北朝鮮にまだ残されておられる方々、拉致の被害者の方々が生存しておられると、全員生存しておられるという前提の下に先方とその早期帰国のために交渉をしていくという、そういう立場でございます。
○山谷えり子君
今月中旬の日朝対話、どのような姿勢で臨まれますか。
○政府参考人(齋木昭隆君)
お答えいたします。
日朝の政府間対話、この日程、場所、出席者のレベル等々、まだ先方との間で調整中でございまして、必ずしも報道にありますように十月の中旬ということで決定したわけではございません。引き続き先方との間では調整を進めてまいりますが、今回ようやく、一年ぶり近くにわたって中断しておりました政府レベルの先方とのやり取り、再開されるということで先方と合意したわけでございますから、是非とも私どもとしては拉致問題の解決につながるような、そしてまた日朝関係の前進につながるような成果を上げて、きちっとした対応を取ってまいりた
いというふうに思っております。
○山谷えり子君
必ず成果を上げるという御覚悟で臨まれるわけですね。
○政府参考人(齋木昭隆君)
お答えいたします。
私どもとしては、交渉には真剣に臨みたいと思っておりますし、何とか成果を上げるべく全力を尽くしたいと思っております。
○山谷えり子君
昨年十二月二十四日、細田官房長官は、誠意ある回答がない場合、厳しい対応を取ると言われました。
中川経済産業大臣にお伺いいたします。経済制裁についての御所見、お伺いします。
○国務大臣(中川昭一君)
私もこの拉致という問題は、一人の人間あるいは一人の政治家として、一刻も早く普通に暮らしていらっしゃった人たちが普通に日本で御家族と暮らすように、政治として、あるいはまた行政として、最大限努力していかなければならない喫緊の課題だというふうに思っております。
そういう中で、昨年、参議院の本会議で可決、成立していただきました改正外為法、これは我が国の平和及び安全の維持のために特に必要があるときは、輸出入等の停止を閣議において、ここは主務大臣じゃなくて閣議ということになっておりますけれども、閣議において決定できるようにすると。主務大臣は財務大臣、経済産業大臣、私が行うということを追加をしていただきました。これは当然、拉致問題あるいは北朝鮮の核、大量破壊兵器を念頭に置いたものだというふうに考えております。拉致問題を始めとして状況は何にも変わっていないというふうに私は認識をしております。
対話と圧力というのが北朝鮮に対する交渉の基本姿勢でございまして、対話につきましては先日も長期間にわたって行われたわけでありますけれども、対話と圧力という中の一つの手法として、この輸出入の停止と、輸出入等の停止ということは現に法律にあるわけでございますから、私はこの拉致問題解決、一日も早い解決のためにこういう法律を作っていただいたわけでございますので、これを早く発動しろという声は拉致家族の皆さん、あるいは多くの国民の皆さん、あるいは山谷議員も同じお考えではないかと思いますけれども、多くの国会の先生方
もそういうお考えの方が多いというふうに私は理解をしております。
したがいまして、拉致問題解決のためにあらゆる手段を使う、対話、圧力、あらゆる手段を使っていくという中でこの法律があるわけでございますから、主務大臣といたしまして、この拉致問題、一日も早い解決のためにこの法律が機能するということであれば、一刻も早くこの法律も発動すべきではないかというのが私の考えであります。
しかし、あくまでもこれは閣議決定ということでございますので、総理始め、閣議決定という手続が必要だということももう言うまでもないことでございますけれども、ともに拉致問題解決のために私も全力を尽くしていきたいというふうに考えております。
○山谷えり子君
できるだけ早くというのは、今回の日朝対話ということでございますか、後という、その成果によってということですか。
○国務大臣(中川昭一君)
今外務省から御答弁ありましたように、今、日朝対話をするということになっているわけで、これは一つの成果だというふうに御家族も会見でおっしゃっておられました。
対話と圧力というのは、この対話があるから圧力は待つという性格のものでは必ずしもない。対話と圧力、両方あってもいいという判断もあり得ると思います。
ですから、対話は対話として、北朝鮮は一刻も早く約束を守るべきだと思いますし、と同時に、現在進行形で拉致、あるいは大量破壊兵器、ミサイルの、核の問題が現に存在している、し続けているわけでありますから、この圧力という手段も、何も対話があるから圧力はいったん引っ込めるという性格のものでは必ずしもないというふうに理解しております。
○山谷えり子君
特定失踪者問題調査会は三十日、国井えり子さんについて拉致濃厚と発表しました。これで拉致濃厚としたのは三十四人でございます。この三十四人、きちんと一応ヒアリングをしたり調査したりして濃厚ということを言っているわけでございますが、拉致問題連絡・調整室が対策本部にならないがゆえに全く調べができないと。この状況をどうお考えでございますか。
○委員長(小野清子君)
どなたがお答えになりますか。
○山谷えり子君
齋木審議官。
○政府参考人(齋木昭隆君)
必ずしも私がお答え申し上げるのが適当かどうか分かりませんけれども、内閣全般にかかわることでございますし、今内閣の中に拉致の御家族も含めた被害者の方々に対する支援、連絡調整等を行う部屋というのが設けられております。また、当然のことながら、この内閣の中に、一体となって関係の省庁、多岐にわたりますけれども、これらが緊密に、局長レベルも含めて随時情報交換、また対応について協議をしておる、そういう体制を取っておりますので、今後とも関係各省庁、より緊密に、連絡の効果を上げながらこの拉致問題の解決に向けて取り組んでまいりたいと考えております。
○山谷えり子君
これは本当に対策本部に格上げしてきちんと取り組んでいただきたいというふうに思います。
引用終わり
我が国の国民が北朝鮮という犯罪国家に拉致され、その一部の方々が帰国されて三年が経過しました。しかし、まだ多くの同胞が北朝鮮に拉致されたままになっています。
一刻も早い救出のために、経済制裁、そして、我が国国内の北朝鮮施設、非合法工作員に対しての圧力など具体的行動が必要でしょう。
しかし、山谷えり子議員の質問に入る前の言葉とその姿勢は比べる事が山谷議員に失礼ですが、腐れ売国奴どもの社民党の福島瑞穂、辻元清美、岡崎トミ子(元社会党)などとはエライ違いです。
今日も、忙しい。Oさん来店。浜松よりTさんKさん来店。当店の後は、電話で予約して中野の「春」さんに向かう。いつも一杯の席が幸運にもあいててよかった。中島さんと棒術会のみなさまが来店。原口さんが合流。Yさん御夫妻来店。関西よりKさん御友人方と来店。
今日は、忙しい中を飲みまくる。ドンチャン。でも記憶はそれなりにあったと思う・・・・
朝鮮人と特攻隊 2
10月14日金曜日晴れ
昨日の続きです。
卓庚鉉たくこうげん(光山文博)
大正9年慶尚南道生まれ
立命館中学、京都薬学専門学校(現京都薬科大学)
大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧) 特別操縦見習士官一期生
昭和20年5月11日大51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に陸軍戦闘機 隼にて出撃 戦死 24歳 2階級特進 大尉
辞世 たらちねの母のみとぞ偲ばるる弥生の空の朝霞かな
出撃の前年の昭和19年に母を亡くしています。その卓庚鉉少尉は知覧の特攻隊員の多くを見送った鳥浜トメさんの経営する富屋食堂に、出撃前夜最後の別れに一人で訪れてました。他の特攻隊員の歌声に耳を傾けていた卓に、トメさんが「今夜が最後だから光山さんも歌わんね」と勧めると、「そうだね、最後だからね。それでは僕の故郷の歌を歌うから、おかあさん聞いてね」とふだんは無口で恥ずかしがり屋だった卓は、被っていた戦闘帽を眼が隠れるぐらい目深に被って、あぐらをかき、柱にもたれかかってアリランを歌っています。
アリランを歌う卓は次第に涙でくしゃくしゃになって、二番は歌にならずに、いじらしく思ったトメさんは卓の手を取り、トメさんの娘さん二人も手を取り合って泣いたそうです。
卓庚鉉少尉はこの時トメさんに朝鮮織りの小物袋を「お世話になりました。こんなもので恥ずかしいですが、受け取ってください」とお渡ししています。トメさんはこの形見となった小物袋を大切にしていて、それは今も残されています。
光山大尉の墓は故郷の慶州にあり、「日本陸軍隼大尉」と墓碑名に刻まれ、御両親といっしょに眠っているそうです。
林長守りんちょうしゅ軍曹
少年航空兵出身
昭和19年12月7日 勤王隊 二式双襲(屠龍)にてフィリピン オルモック湾(レイテ島東海岸)出撃
朝鮮人として最初の出撃
「大東亜戦史・フィリピン篇」(富士書苑刊)によると
<そういう未熟な人の多い中では、勤王隊の林長守軍曹は抜群の操縦技術を持っていた。少年飛行兵出身として最初の特攻隊員でもあった。
人柄もよく、隊長の山本卓美中尉は彼を日本に帰して少年飛行聘の育成にあたらせようと、何度彼に説いても、彼は頑として聞かなかった。山本隊長の「これは命令だ」といっても、彼は「私のたった一度の反抗です。そういう命令はきくことができません」と承知しなかった。眼のくりくりしたいい青年だった>
林軍曹は二式双襲(屠龍)十機の中の一員として乗り込みました。その時の戦果は、駆逐艦マハン(一六三〇トン)輸送駆逐艦ワード(一六〇〇トン)の二隻を大破。両艦は使い物にならなくなり、最後は米軍によって沈められました。(米軍資料より)
当時、毎日申報は、「半島神鷲」として、林軍曹のことを大きく報じました。
朴東薫ぼくとうくん(大河正明)伍長
大正15年生まれ
少年飛行兵第15期生
昭和20年3月29日 誠41・扶揺隊 知覧より97式戦闘機にて沖縄方面出撃
18歳
遺書には「靖國に召されし一身如何にせん、ただ君がため」とあったそうですが、同期の同胞「金山」伍長には「内鮮一体というけど、ウソだ。日本はウソつきだ。俺は、朝鮮人の肝っ玉を見せてやる」と言い残したという。
「The Geacs Project Vol.5」大館史編による)
朝鮮半島の御遺族は、戦後、ソ連軍による財産没収や朝鮮動乱、そして、親日派としての経歴より多くの辛酸をなめましたが、朴伍長の御父上は生前、「日本という国は決して悪い国ではない。特攻で死んだ者の家庭に対して責任を持つ国だ」とおっしゃっていたそうです。
重いお言葉です。
近藤行雄伍長
昭和19年11月25日
万朶隊 フィリピン
崔貞根 (高山昇)中尉
大正10年生まれ
昭和14年12月1日陸士第56期生として陸軍予科士官学校入学(予科士第五期生)
「俺は天皇陛下のため死ぬということはできぬ」と日本帝国軍人として戦場に赴く事に懐疑の念を持ちつつも、
航空士官学校卒業後、飛行醍66戦隊(九十九式襲撃機部隊)配属
フィリピンのレイテ作戦に参加。
昭和20年4月2日 3機の長として徳之島を離陸、沖縄周辺 敵駆逐艦に体当たり散華
二階級特進 陸軍少佐 26歳
河東繁伍長
昭和20年4月16日 第106振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
李充範 (平木義範)曹長
昭和20年4月22日 第88振武隊
木村正碵伍長
昭和20年4月28日 第77振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
広岡賢哉伍長
昭和20年5月11日 第431振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
金田光永伍長
昭和20年5月27日 第431振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
石橋志郎少尉
昭和20年5月29日 飛行第30戦隊
韓鼎実 (清原鼎実)伍長
昭和20年6月6日 第113振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
そして、廬龍患 (河田清治)少尉
京城法学専門学校
昭和20年5月29日
二式戦闘機(屠龍キ・45)にて御前崎上空でBー29編隊長機に体当たりを敢行 撃墜
当時、全国の新聞を飾ったこの武勲の主である河田少尉が朝鮮人であることをほとんどの日本人は知らなかった。
平成14年現在河田少尉の実弟は水原市に住まわれている。
我が国は、特攻隊員の場合は二階級特進の栄誉をもって応えた。
以上参考、引用は
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社
「写真集特別攻撃隊」国書刊行会
今日はめちゃ忙しい。Sさん来店。初めてのお客様来店。Tさん二名様で来店。Tさん来店。Kさん御夫妻、御友人の方と来店。Kさん御夫妻と合流のために成田より直行で大台さん来店。マルガリータさんSさん来店。アッチさん後で合流。Kさん来店。Hさん来店。
今日はメチャ疲れたので、飲む気も起きずに後片付けして寝る。
朝鮮人と特攻 一部追記
10月13日月木曜日 晴れ
特攻などという必死の攻撃方法が通常の状態ではあるはずもなく、したがって通常では訓練などもされるはずは無い作戦です。
特攻による急降下攻撃の場合、突撃開始から目標の艦艇まで約二キロ、時間にしてたった十秒あまりを加速度で浮揚しようとする愛機を押え、目を見開いて突進する気概のみがこの攻撃方法を成功させる唯一の条件でした。愛機が火を吹こうとも・・・・・
大東亜戦争において、当時は日本であった朝鮮、台湾などの多くの方が日本人として戦い、散華されました。
その中には特別攻撃隊要員つまり特攻隊員として出撃、散華された方々もいらっしゃいます。
ただ、特攻隊員として散華された方の御家族は、お気のどくなことに、戦後、南北朝鮮にて冷たい目でみられています。特攻という作戦についての是非はいろいろと問われてしかるべきものと思いますが、その時代に国を守るために(当然、その時代は朝鮮も日本でした)、愛する家族、恋人を守るために、敵の艦船、飛行機などに我が身を顧みる事なく戦うという崇高な行為は、一般人をも巻き込み犠牲とする無差別テロ等と違い、民族、国境を超えて感銘を与えるものです。
この方がたは日本の英雄であるとともに、朝鮮民族の偉大な英雄です。
現在、残念ながら、詳しい事が不明の方も多いです。
現在、判明している方々とエピソードです。
金尚弼きんしょうひつ(結城尚弼)
大正9年平安南道生まれ(現在は北朝鮮)
昭和18年7月私立延禧専門学校卒業(京城)
9月大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校 特別操縦見習士官一期生として私立延禧専門学校初の合格者となる。
操縦は同期でトップ、柔道三段、剣道は突きが得意
のちに満州・綏中第23教育飛行隊配属
その後、満州敦化飛行隊配属、
昭和20年2月11日満州新京で編成された特攻隊に志願。
昭和20年4月3日 宮崎県新田原基地より第5編隊長として沖縄西方洋上に出撃 戦死 24歳 2階級特進で大尉
エピソード
休暇で朝鮮に帰った折、母校の私立延禧専門学校を訪問。その時の校長であった辛島驍氏の勧めで学生の前にたった金は、多くを語らず「俺についてこい」と言うなり、上着を脱いで、坂や林のある二十万坪の校庭を約一時間にわたって走り続けました。在校生だけではなく教職員も一緒になって彼の後に続きました。これが契機となって、校内にはやればできるのだという気概がみなぎり、志気も大いに盛り上がっていきました。
満州綏中第23教育飛行隊配属に配属されている時の事です。隊内の演芸会で「私は朝鮮出身です。少しアクセントが違いますが、日本の歌を歌います」と言うと、隊員から「アリランを歌え」「そうだ、そうだ、アリランを聞かせてくれ」との声があがりました。金が「では母国の朝鮮語で歌います」と言って歌い、歌い終わると、拍手喝采の嵐が起こったといいます。
その後、満州の敦化の飛行隊に移り、昭和二十年二月十一日、満州・新京の第二飛行軍で二つの飛行隊が編成された時特攻隊に志願し、誠第三二飛行隊に配属されました。恐らく家族とはこれが最後の別れになると思った金は、二月二十五日、平壌の三根旅館で日本軍将校になることを反対していた兄・金尚烈と会いました。
兄から逃亡するよう懸命な説得を受けましたが、
「自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が笑われる。多くの同胞が、一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁に我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです。日本が強くなればなるほど、地下の独立運動は無力となりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る、その方が確かだと思うのです。
日本人が憎くない、というとそれは嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れてゆきますし、今日一緒に来てもらった佐藤曹長からは、親身の整備をしてもらいました。戦友や部下たちとは、一心同体であり、民族のしこりや壁はありません。・・・・・・
民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許して下さると思うのです」。
それから一カ月余を経た四月三日、金は第五編隊長として小林勇第二編隊長と共に宮崎県の新田原基地より第5編隊長として沖縄西方洋上に出撃。圧倒的な数の米軍戦闘機と、艦隊からの対空砲火網の中沖縄西方洋上の艦船軍に突入。24歳の若さでその生涯を閉じました。2階級特進で大尉
この項は明日に続きます。
今日はメチャヒマ。Hさん、Mさん来店。後はカヴェルナさんへのハシゴだそうです。Aさん来店。お互い「スキカル」の愛用者ということで、床屋さんには申し訳ないが、おかげで、年間9万円以上浮いている勘定・・・・
営業終了後、李さんと飯ということでまた「青葉」さん。
インドネシア独立戦争と日本兵
梁七星氏についての追記
平成17年10月12日水曜日晴れ ×
今回、読んだものの中で、興味深かったのは、昨年、古本市で見つけてきて、読む事なく部屋でついついそのままになっていた元海軍司教官の鈴木政平氏の著書であろうか。
1999年に出版されたこの本は、日本が大東亜戦争時に統治していたインドネシアに昭和17年7月より昭和19年12月に至る二年半、民政部文教課長の職にあった時の状況を、鈴木氏が内地の学兄宛の報告として書き綴ったものを、そのままの形で本にしたものでした。(旧仮名づかいなどは現代仮名づかいに改められています)
この手の本のほとんどが、戦後、日本に帰ってきて生活が落ち着いてから書いたものがほとんどと思います。この本は著者がリアルタイム?で書き綴ったものですので、その当時のバリ島などの状況、日本の占領下における教育内容その他がわかりやすく書かれていています。
この本が出版されるまでにはドラマがあったようです。
1995年に元産経新聞記者の村松和男氏が入手した日本によるインドネシア統治時代の貴重な手記を、慶応大学経済学部教授の倉沢愛子氏に1994年に託した後、翌年の三月に村松氏はお亡くなりになったそうです。村松氏の行動は御自分の死期を悟られての事だったのです。
この手記を書かれた御本人の鈴木政平氏も、この本の出版を待たずに九十九歳という長寿を全うされてお亡くなりになっています。
この本には鈴木氏がいかに小さなことまで気を配り、教育者としてインドネシアの人々と接したかが書かれていると同時に、オランダがインドネシアにおいて卒業証書、教員の昇給辞令にまで税金をかけてたり、歴史という授業がなく、運動場もなく、消しゴムから白墨にいたるまで学用品使用量を異常に低く押さえていたり、女子の就学率が異常に低く、学校の新設も少ないという文盲政策をとったオランダによる愚民政策統治のひどさを学校数など具体的な数字で表しています。それに比べて、我が国はどこの統治下でもやった事ですが、官民あげて就学を奨励し、初等教育の授業料は無料とし、多言語.多民族のインドネシアにおいて当時の共通語になりつつあったムラユ語(マレー語)今はインドネシア語とよばれる言葉を教育用語として教えて、そのうえで日本語教育をしたという事が、オランダの統治時代とよく比較できます。
日本が統治してから学校の数が増えてハングルが普及したくせに、うそつき朝鮮人がよくいう、日帝が言葉と文字を奪ったなどと言っていることが如何に戯けたことかよくわかります。
同じインドネシア残留日本兵を題材にした上坂氏と長氏の本でしたが、残留日本兵の方々が作った「福祉友の会」の運営と二世三世への引き継ぎによる日系人がインドネシア社会にどう馴染み、発展、貢献していくかという事を主において扱った上坂氏と、インドネシア各地を訪ねてアルバム的に多くの残留日本兵を取材し紹介したジャカルタ日本人学校教員だった長氏とは著者の視点が大きく違っていましたが、どちらも貴重な資料のひとつと思います。
長氏の取材に応じられた残留日本兵の方々も取材後お亡くなりになっている方が多く、この発売時で五十年近くもたった時間の流れを感じます。
ただ、長氏の著書で気になった事が少しあります。たとえば、戦後、インドネシア独立軍に参加して他の日本兵の方々といっしょにオランダ軍と戦い、一緒に独立軍に加わった青木政四郎曹長、長谷川勝雄軍曹とともに捕らえられて銃殺され、独立戦争の英雄として今は英雄墓地に眠っている、有名な元軍属の梁川七星氏(朝鮮名 梁七星)の遺児エディ・ヤナガワ氏が紹介されていました。私は梁川七星氏に遺児がいるのをこの長氏の本で初めて知りました。その発言内容の中で、自由意志にて応募してきた軍属を「軍属として強制的に日本軍にインドネシアまで連れてこられた」という息子さんの言葉を訂正させずに掲載しています。
(普通だと、「朝鮮半島に徴用令が施行されたのは1944年です。それ以前に、ましてや軍属で強制的に連れてこられる事等ありえないから、あなたのお父さんは自由意志で応募してきたはずですよ」「日本軍からお給料も出ていたはずです」「強制的に連れてこられたのであれば、終戦後すぐに帰国するはずですよね」と具体的に諭してあげるのが普通だとおもうのですが・・・)
名越氏の著書によると、梁七星(日本名梁川七星・インドネシア名コマルデン)は全羅北道・全州出身。幼いころ両親に死別し、叔母夫婦に弟とともに引き取られる。大変心の優しい人で、小学校に入る時、近所の貧しい子供に学用品を分け与えたといいます。親孝行でもあり、引き取ってくれた養父を早く亡くした梁は、おそらく家計を助けるために、昭和十六年から十八年に募集に応じて日本軍の軍属となり、ジャワに渡りました。もちろん朝鮮人がよくいう嘘のひとつである「強制連行」ではありません。自由意志に応募であり、全州駅から出発する時は「日の丸」の小旗をふった見送りを受けての「栄誉の出征」でした。
ジャワでは捕虜の監視を務めていて、敗戦までは日本軍からの給料は実家に届けられ、手紙も度々届いていたそうです。しかし、敗戦後に、「いま国に帰っても仕方ないので、こちらの暑い国にもうしばらく留まる」と手紙を出した後、独立軍に加わったのでした。
敗戦時ジャワ西部にあるバンドン周辺に収容されていましたが、昭和二十年十一月ごろには、上官だった青木政四郎曹長(インドネシア名アブバカル)や長谷川勝雄軍曹(インドネシア名ウスマン)と共にインドネシア独立軍に加わり、バンドンやその西南部の各地でオランダ軍を相手にゲリラ戦を展開。彼ら以外にも多くの日本軍人や朝鮮人軍属そして台湾軍属の方々がおられます。
上官でリーダーだったアブバカルこと青木曹長はオランダ軍が千ギルダーもの懸賞金をかけるほどの優れた戦士であり、また「民家のものは決して奪うな。日本人でも女を襲ったり物品を略奪したら撃ち殺す」と規律も厳格に維持していました。梁七星も青木曹長の姿勢とインドネシア独立という姿勢に共感したからこそまさに生死を共にしたのでしょう。
インドネシアより搾取した富によって繁栄していたオランダにとっては、インドネシアの独立はそのまま自国の凋落につながることでしたので、カナダで調練した精鋭部隊を投入してきました。
オランダ軍の大きな誤算は、搾取だけの愚民政策による植民地主義のやり方と違う三年半の我が国による統治により、その教育と教練とによりインドネシアの人々が自らの独立に対する意志と勇気を持っていたことでした。
独立軍は乏しいながらも日本軍の好意による武器の提供を受け、竹槍や奪った武器により四年間も戦い抜き、八十万人もの犠牲者を出し、ついに一九四九年十二月二十七日に独立を勝ち取りました。
しかし、梁七星氏はもちろん青木曹長、長谷川軍曹もその喜びの日を迎えることはできませんでした。
一九四八年十一月、オランダ軍の奇襲を受け、激しい戦闘の末に捕らえられ、独立達成の僅か四カ月前の一九四九年八月十日に銃殺されました。
処刑を前に、青木政四郎曹長の辞世
國思ふ大和をのこの散りぎはは盛り短き桜花かな
やがて、三人は静かに「君が代」を歌い、「天皇陛下万歳」を三唱して、従容として死に赴いたそうです。その死顔は、一様に目を閉じ、美しいものであったと言います。彼らは共に戦った独立軍の墓地に埋葬してくれるように頼みましたが、オランダ軍はこれを拒絶、民衆墓地に葬られることになりました。
三人の遺体を墓地まで運ばれる時、沿道の人々は口々に「ムルデカ」「ムルデカ」つまりインドネシア語で独立を意味する言葉をオランダ軍を恐れずに叫んで見送ったといいます。そこには、欧米植民地勢力から独立を果たすために日本人、朝鮮人、インドネシア人が、アジア人として心を一つにして戦った情景が現れています。
三人の遺骨は、その後、共に戦ったインドネシア人の戦友の尽力によって、「独立英雄」として公式に認められ、一九七五年(昭和五十年)十一月、ガルートの英雄墓地に再埋葬されました。分骨された小さな棺がそれぞれの御遺族に送られるはずでしたが、梁七星氏の遺骨だけが取り残されてしまったそうです。
それを知ったある日本人がようやく遺族を捜し出しましたが、時すでに遅く、インド独立軍に参加した事を知らずに毎日のように全州駅に迎えに行っていた養母は、再埋葬の九年前にお亡くなりになっていたそうです。
平成七年3月11日付の産経新聞に梁川七星氏の墓碑名の変更要求運動が紹介されたそうです。[JAPAN
YANAGAWA SICHISEI]と刻まれている英雄墓地の墓碑名が、韓国から改めろという運動がおこり、1995年には「奪われた国籍と名前の回復を!」「誇るべき大韓民国の栄光・梁七星!」という声に満ちた市民集会まで開かれたそうです。
朝鮮人だったことはどこかに明記すべきでしょうが、当時は日本人だった梁川氏は、日本人として梁川七星としてインドネシアのために戦い、死んでいったのですから、今の墓碑名は間違ってはいないと思います。アメリカ軍人として戦った有名な442日系二世部隊の墓碑名がおかしいと言い張る日本人はいません。名前が朝鮮名でないのは、その名前を使っていなかったためでしょう。日本人でもインドネシア独立戦争においてインドネシア名だけで戦い、戦死したために、日本名が判らない方が大勢いらしゃるそうです。
先に書きましたように台湾軍属の方がたもインドネシア独立のために、戦っていらっしゃいます。
長氏の著書には田中英夫氏(台湾名廬春生)が紹介されています。
あと、長氏はこれまた有名なインドネシアの独立宣言文の日付け「17・8・05」という皇紀ではなく「1945・8・17」と西暦っぽく、書いているのはうっかり、それともわざと皇紀になっているその謂れを説明したくなかった・・・・・
今日もいつも買っているトマト「小春ちゃん」の築地への入荷がなかったので、土佐の伍川村のトマトを購入。今日のバチマグロは久々に旨いバチマグロ。マグロの中卸しの慎吾ちゃんの話ではいいバチの入荷がめっきりと減ったそうな。マグロは本マグロだけではなく、いいマグロはバチマグロでもキハダマグロでも旨い。ただ、いい固体数は少ない。
Y岡さん二名様で来店。NさんHさんと高校時代の友人であるIさんと三名様で来店。U さん二名様で来店。Kさん二名様で来店。Yさん御夫妻来店。営業終了後、遅い時間だというのにYさんの御自宅に図々しくもお邪魔してY夫人の手料理で旨いワインを御馳走になる。それも三本も・・・
ごちそうさまでした。
朝鮮人と特攻
桜の樹を植えた特攻隊員
10月11日火曜日雨のち曇り △
以下のエピソードは「日韓共鳴二千年」(明成社)に著者の名越二荒之助氏がどうしても紹介したい秘話として書かれていることです。
日華・日韓の教育交流に尽力されている草開省三氏と名越氏が昭和五十四年十二月末に研究会に通訳をお願いしている当時、中学校の教頭を務めておられた張志学氏に対して名越氏が「大東亜戦争をどう思うか」という質問をした時に、張氏がそれに答える変わりに、どうしても日本の方々にお知らせしたいと思っていた話として是非聞いて下さいと語った内容として書かれています。
以下引用
「私は教頭をになる前に視学官をやっていました。各地を巡回していた時、韓国では珍しい女性の小学校長を訪ねたことがあります。その校名は本人に迷惑がかかるといけないので、まだ発表できません。なななか立派な人柄で、男性教師からも尊敬されていました。ところがその校長は未亡人で、子供がいないのです。校長の御主人は、どんな人だったと思いますか。韓国では余り吹聴できませんが、実は特攻隊員として、沖縄で戦死したんです。その御主人は航空隊員になると、死を覚悟してたんでしょう。出身小学校を訪ねて、校庭に桜の木を植えたんです。その桜は今は大きな樹に成長しています。未亡人は奇しくも御主人が桜を植えた学校の校長として赴任したんです。校長は言っていました『淋しい時は桜の木の下に立つと心が安まる』と。
私はこの話を日本人に知って貰いたいと思って、ソウルにいる日本の新聞記者にそれとなく知らせたました。A新聞の記者が、早速小学校長を取材しました。
校長は記者を桜の木の下に案内しました。すると記者は『日本の軍国主義が、御主人をダマして申し訳ないことをしました』と言ったのです。いつもは謙虚な校長でしたが『だました』という言葉には激怒しました。
『私の主人はダマされるような人ではありません。自分の意志で出撃したんです。ダマされたというのは、人間に対しての屈辱です。取材はお断りです』と。これが私の大東亜戦争観です」
張さんはこの秘話を紹介しながら、あとは何も語りませんでした。私は余韻を持たせる解答にうなりました。
大東亜戦争を評論し出したら、どんなことでも言えましょう。特に当時の朝鮮の人々にとっては複雑で一言で尽くせるものではありません。我々は評論する前に、このように生きた人々の心を深く偲びたいものです。
その張志学氏は、一九九二年、癌のために逝去しました。そのために特攻戦死した御主人の名も、小学校の名も、もはや聞き出すすべがありません。美談はこのようにして歴史から消えてゆくのでしょうか。
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社P468〜470
引用終わり
歴史を簡単に断定する事ということは、往々にしてその時代に生きた先人の生きざまを屈辱する事にもなりかねません。我々も我が国を守るために戦ってくれた先人とともに当時の日本人として戦った朝鮮・台湾などの勇敢な人々の事を忘れてはいけないと思います。
ところで、この本に書かれているA新聞って、築地にあるあのA新聞でしょうか。
Yさん、O さん、ヨシヨシ、Kさん(Kさんは当店は初めての来店)と四名様で来店。Iさん二名様で来店。お連れ様は学生時代の日本酒のイメージをそのまま引きずっていらっしゃるそう。う〜ん、何となくわかる、その気持ち。野々市や金沢で当時飲んだ酒を思い出しました。翌日、頭が痛くて、ムカムカして気持ち悪い・・・・まあ、そんな酒で大儲けしてきた日本酒業界。
Sさん来店。Sさん彼女と下北沢の懇意にしているお店のマスターと三名様で来店。ETUKOさん結婚されたばかりという御主人Nさんと来店。ホロン部員Yさん来店。NさんETUKOさんお二人のお祝ということで、グラシアンを開けてホロン部員Yさんと四人で乾杯。
今日は、初めて予約いただいた四名様がなんの連絡も無く来店せず。まあ、おかげさまで、他のお客様に入っていただく事ができました。しかし、ナンバーディスプレイって知っているのだろうか。電話したろうかな・・・・・
おもしろネタ満載
10月10日月曜日雨のちくもり ○
先週の木曜日発売の週刊新潮(10月13日号)は前原民主党代表の嘘、アダルトショップ主催イベントでバイブレーターにサインをしてオークションに出品した辻元清美センセイ。(まあ、常識はずれということでレアな商品には間違いないでしょう)。インターネットではずいぶん前から騒がれていた我が国の寺宝が朝鮮人により盗まれて、それが南朝鮮で国宝指定されているという話題。閉鎖すべき国連大学という存在。靖國参拝を違憲とした大谷正治というバカ裁判長についてとここしばらくの週刊誌で、一番盛り沢山の面白いネタ満載でした。
今日は出かける予定は無かったのですが、午後、Sさんから「釣ってきた魚で一杯やるから来ませんか」という電話あり。店に寄って空瓶などを資源ゴミの回収ボックスに入れた後、Sさんのマンションにいく。最寄り駅について電話すると駅まで、アッチさん、マルガリータさんが迎えに来てくれる。
東一大吟選抜酒を飲みながら、ツマミとして食べるツネオさんが手際よく調理してくれた魚はどれも旨かったです。引越し祝いに初亀の出品酒を持っていく。マルガリータさん大ヨッパライ。Tさん遅く参加。ここで、即席寿司の握り方講座。
今回も最終電車・・・・
人権擁護法案という名の言論統制
10月9日日曜日雨のち曇り ○
店を片付けてからスポーツセンターに行く。明日は体育の日というので、トレーニングルームが無料解放などいろいろなイベントがあるせいもあって、今日は日曜日の割には空いていて使いやすい。
終わって、部屋の近所にあるカレー屋さんに入ると、先日あの国家解体論者の野中弘務氏の子分である自民党の古賀誠議員が同じ穴のムジナである与謝野馨議員と会い、今国会への人権擁護法案の提出を見送るというニュースがあったばかりですが、そこにおいてあった朝日新聞に鳥取県議会で「人権侵害条例案」が12日に可決される見通しという記事が掲載されていました。
鳥取県弁護士会が条例案について反対声明を発表したとも同時に掲載されていましたが、当たり前の事でしょう。
古賀議員が今回の提出をやらないといっても安心はできません。なにしろ先日この人権法案に首相意欲とかいう記事があったばかりです。
以下引用
小泉純一郎首相は二十九日、参院本会議で、先の通常国会で自民党内の賛否が分かれ、提出を見送った人権擁護法案について来年の通常国会への提出に意欲を示した。法案賛成派の与党人権問題懇話会(座長・古賀誠元幹事長)は来月中にも活動再開を予定。逆に反対派の多くは郵政民営化関連法案の反対派でもあり、除名を含めた処分待ちの状況だ。衆院選・自民党圧勝の余勢を駆って、法案成立に向けた動きが一気に強まる可能性も出てきた。
首相は「政府・与党内でさらに検討を進め、できるだけ早期に提出できるように努めたい」と述べ、「自民党は今回の総選挙の政権公約で簡易・迅速・柔軟な救済を行う人権救済制度の確立を公約している」と法案の重要性を強調した。神本美恵子参院議員(民主)の質問に答えた。
与党人権懇は、郵政法案が衆院を通過した直後に会合を開き、法案提出に向けた今後の段取りを決める方針だ。自民党の中川秀直国対委員長も、次の通常国会での提出に強い意欲を示している。
産経新聞17年9月30日
引用終わり
反対派は平沼赳夫元経産相のほか、古屋圭司議員などが無所属となり現在、自民党で明確に反対を表明しているのは安倍晋三幹事長代理ぐらいです。
この人権擁護法案は、売国奴といっていい野中広務氏が部落解放同盟、在日朝鮮人などの自称人権団体にいわれて推進し、池田大作いのちの創価学会公明党ももちろん賛成し、それを受け継いだ野中氏の子分である古賀氏らが押し進めているものです。
この人権擁護法案が成立すると、自称人権派といっている反日団体、売国奴団体、そして、池田大作氏、創価学会、朝鮮総連などに対する意見を公然と言論統制することができるようになります。
このような売国奴法は絶対に国民の手で阻止しなければいけません。
野中氏の子分である古賀氏や池田大作氏の意向を受けた公明党がこの法案成立を諦めたわけでは決してありません。
部屋に帰って、本を持ち込んでぬるい湯に入って長〜い風呂。
今日は飲まず。
「神の声」
10月8日土曜日曇りのち一時雨 △
神の声発言とかがニュースになっていたました。
以下引用
パレスチナ自治政府のシャース副首相が、10日放映予定の英BBCのドキュメンタリー番組の中で、ブッシュ米大統領がアフガニスタン攻撃やイラク戦争開戦に踏み切った理由を「神のお告げがあったからと語っていた」などと発言していたことが分かり、国際的に波紋が広がっている。
略)
(共同通信) - 10月8日10時42分更新
引用終わり
本当のところはわかりませんが、世の中にはくだらん占いで大金をだまし取っている輩が大勢いることも確かです。テレビによく出ているらしい神楽坂に事務所がある鬱陶しいオバハンもそうでしょう。他人を不安にすることによって、銭を得ています。あのようなオバハンに頼って視聴率を稼ぐ、もっとクダラン腐れマスコミが一番の問題かも知れませんが・・・・
Tさん二名様で来店。オガピー来店。Sさん来店。初めてのお客様Wさん二名様で来店。
今日も早い時間から飲む。遅い時間に仕事したく無い・・・・
李さんが二週間の上海出張より帰ってきて、久しぶりに「青葉」さんで飯。
メロンの若芽
10月7日金曜日くもり一時雨 △
以前にYさんの奥さんからいただいたメロンを食べたあとにその種を店の前にある花壇に蒔いておいたら、芽が出てきましたので今日のお通しに使わせていただきました。
(サンマのソテーパイナップルソースかけ)
Sさん4名様で来店。ケイザブロウさん来店。初めてのお客様来店。金沢出身だそうで、話が盛り上がる。Hさん来店。
飲む。ドンチャン。でも記憶あり。
畜養と養殖
10月6日木曜日はれ×
よく養殖マグロというのを聞きますが、これはほとんど築地などでは畜養といわれているマグロです。完全養殖は世界でも和歌山にある近畿大学水産学部が数年前に成功しただけのはずです。
全身トロ!!のそのマグロは結構高値で取り引きされるそうです。
(酒いわしや時代に当店のお客様の仕事の関係で、お手伝いで一度だけこれで寿司を握ったことがあります)
畜養はスペイン、メキシコなど世界各地で行われています。養殖との違いはまき網船等で捕獲したマグロの幼魚を養殖地に移送して飼育すると言うものです。まき網のまま移送するので大変みたいです。
写真は築地で写した畜養マグロ(シッポまでトロ)と天然マグロ(左)です。
ただ、エサのためでしょうか、食べた時に残る香が独特です。今後は改良されていくと思いますが・・・・
昨日の予算委員会で中川経済産業相は北朝鮮への経済制裁を可能にする改正外国為替・外国貿易法について、「主務大臣としては、拉致問題の一日も早い解決のために機能するのであれば、一刻も早く発動すべきではないかという考えだ」という考えを述べたそうです。ぜひ実行していただきたいものです。
今日の救う会全国協議会ニュースで、国民大集会などのお知らせがありました。
以下転載
■12月22日に国民大集会(東京)、大阪は12月16日に
救う会・家族会は、12月22日(木)夜、東京・日比谷公会堂で国民大集会を開催します。従来通り、拉致議連に共催を依頼します。また、大阪では、12月16日(金)夜、大阪国際会議場(グランキューブ大阪)で、近畿圏救う会等が協力し合い開催します。
政府は、昨年12月24日、細田博之・内閣官房長官が「(北朝鮮が)迅速かつ誠意ある対応がなければ、厳しい対応をとらざるをえない」と制裁を予告しましたが、それから1年目直前の時期に、「厳しい対応」の発動を求めて東京・大阪で開催するものです。
詳細は後日ご案内させていただきます。
その他、東京連続集会は以下の通り。10月20日は会場に変更があります。
◆韓国人拉致被害者も救うぞ!東京連続集会12
10月20日(木)午後6時半〜8時半 開場6時
韓国家族会の崔佑英代表らを招き、韓国の拉致問題を語っていただき、西岡副会長が解説。
日本青年館5階「501会議室」(03-3401-0101) 神宮球場隣新宿区霞ケ丘町7-1 、地下鉄銀座線外苑前駅3番出口・大江戸線国立競技場A2出口より徒歩7分、JR千駄ヶ谷・信濃町より徒歩10分、車で5分
◆救出のために日韓米連帯を!東京連続集会13
11月23日(水・祝)午後2時〜5時 開場1時半
9月に活動を開始した米国のレフコウィッツ北朝鮮人権問題担当特使等米政府要人に増元照明家族会事務局長、横田拓也同事務局次長、島田洋一救う会副会長が訪米、面会し、報告。また、韓国の金聖浩・朝鮮戦争拉北人士家族協議会前理事長、李美一・同理事長等が韓国の救出運動について報告。
友愛会館9F:三田会館隣(03-3453-5381 港区芝公園2-20
都営地下鉄三田線芝公園A1出口1分JR田町徒歩10分
◆主催 救う会東京・救う会全国協議会 参加費千円
参加方法 当日直接会場にお越し下さい。
お問い合わせ 救う会事務局 03-3946-5780 FAX03-3946-5784
〒112-0013東京都文京区音羽1-17-11-905
info@sukuukai.jp http://www.sukuukai.jp
転載おわり
犯罪国家北朝鮮に拉致されている我が国国民を救い出すために、一人でも多くのみなさまの参加をお願いいたします。
今日も築地の鮪屋さんでバカッ話をしていると知らないあいだに時間が経つ。
尼崎から出張の帰りにとIさんがわざわざ寄ってくださる。いろいろとお話をして9時18分の新幹線にて帰られるということで30分ほど前に当店を出られる。こういう時は神楽坂は便利。Kさん二名様で来店。Sさん来店。今日はIさんと早い時間から飲む。その後も飲む。いつもどおり・・・・
ATMのトラブル
10月5日水曜日はれのちくもり ○ S
午後よりスポーツセンターにいく途中、高田馬場にあるみずほ銀行のATMで入金しようと思ったら、お金と通帳をATMに食べられてしまいました。備え付けの電話で管理センターに電話すると、「申し訳ございません。管理センターからまいりますので30〜40分ほどお待ちください」とのこと。30〜40分もここで待っていろという事ですかと聞くと、「そうです」そんなに待てねエから近くのみずほ銀行の支店から人を寄越せばいいだろうというと、「それは・・・」あんたところはこういうトラブルの度に客をATMの前で30〜40分も待たせているのか。そういう対応を当然と思ってやっているのかといっても、「申し訳ございません」と繰り返すだけ。無理矢理近くの支店に対して人を寄越すように言うと、それから支店に交渉の電話・・・。で、待たされて「15分くらいで高田馬場支店から」とのこと。仕方ないので、「5時にもう一度ここのATMに来るから、その時までに処理してここで金と通帳を持って待ってろ」というアホみたいなトラブルのお陰で、10分以上時間をとる。
スポーツセンターにいって、帰りにATMに寄り、待っていたみずほ銀行の人から無言で金と通帳を受け取り、入金。
殿様商売ではなく、もう少しこういったトラブルに対して迅速な対応をとってももらいたいものです。
Kさん来店。Hさん二名様で来店。Aさん来店。
飲む。でも少しだけ。
洪思翊日本帝国陸軍中将についての追記
平成17年10月4日火曜日くもりのち小雨×
創氏改名は強制などと南朝鮮がいろいろと理不尽な言い掛かりを言ってきています。
相変わらずの民族です。しかし、下記のような場合はどう言いか掛かりをつけるのでしょう。
朝鮮半島出身の人で洪思翊という名前の日本帝国陸軍中将がいました。明治40年9月(1909)に純宗は大韓帝国の軍隊の解散を命じ、明治42年9月、36名を選抜し日本の中央幼年学校に入学させました。その中のひとりが後の洪中将です。その1年後に日本に併合されましたが、36名はそのまま訓練を続け、任官してから出処進退をきめることにしました。この時の一人池晴天(のちに池大亨と改名)は大正八年、3・1独立事件後陸軍中尉のときに脱走して上海の金九の上海の大韓民国臨時政府に馳せ参じ、重慶に移動して光復軍の司令官となりました。
しかし、洪氏は亡命せずに当時のエリート校であった陸軍大学校に進学し、中将にまで栄進しました。
終戦時には南方軍総司令部の兵站(へいたん)総監を勤め、戦後、捕虜虐待の罪を問われてフィリピンで刑死しましたが、もちろん洪中将が捕虜を虐待したという事実はなく、当時現地で行われたB・C級戦犯の裁判は、東京裁判と同様、被告に不利な証言だけが証拠として採用された。はじめから結論ありきの、戦勝国による"復讐"裁判でした。
山下奉文大将に続いて、絞首刑の判決を受けた後、しばらくして周りの人に「絞首合格だったよ」と語り、平然として処刑台に向かったと言われる。もちろん、徴兵検査の「甲種合格」にかけた言葉である。
昭和21年9月26日、処刑される時に現在西鎌倉在住の牧師であるクリスチャンであった片山弘二氏に「旧約聖書の『詩編』第51編を開いて読んでほしい」と依頼して、13階段の下まで歩いてゆくと「片山君、元気で帰るんだよ。君にも神様が何か使命を与えている。その使命のためにいきるんだよ」と肩を叩き、13階段を登りながら一時振り返り「神の国で待っているよ」と言い残したそうです。これが、中将の最後の言葉となりました。
インドなどアジアにおける欧米の植民地統治下で、現地人が下級将校になった例はありますが、将官にまで栄達した例はありません。日本と朝鮮との場合は、併合ですので、少し違うかとおもいますが(しかし、日韓併合を植民地支配と過って認識している場合が多々あります)日韓併合の後、朝鮮半島を支配していた李王家の貴族は、日本の華族に列せられたが、洪中将は李王家の縁戚でもなんでもない。それでも中将にまで出世した理由は、身分や家柄とは関係なく、ひとえに個人の能力であった。
その才能は並大抵のものではなく、四書五経から英語にまで精通し、戦史・戦術の専門家であった。
まだ大尉であったころ、息子の洪国善が近所の悪童から「チョーセン、チョーセン」とからかわれたとき、大英帝国に虐げられても誇りを失わないアイルランド人の例をひき、「どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言いなさい。決して『朝鮮人の』を略してはいけない」と諭したという。
そんな信念の人だったから、日本風の姓に改名などもちろんせずに一生を終えました。
指揮官になると常に日本兵の前で、 「自分は朝鮮人の洪思翊である。唯今より天皇陛下の御命令により、指揮をとる。異義のあるものは申し出よ」と初訓示したそうです。
辞世の歌は
「昔より冤死せしものあまたあり われもまた これに加わらんのみ」
しかし、このような立派な方も朝鮮においては「親日派の巨魁」「民族の裏切り者」「反逆者」と罵られ、先妻の長男洪国善氏は早稲田大学卒業後、朝鮮銀行に勤めていましたが、李承晩大統領の直接命令によりやめさせられ、未亡人(後妻)の李清栄さんはお茶の水女子大の前身である東京女高師の文学科卒業であるに関わらず、一切の職業から閉め出されてしまい、韓国にすむことができずに、無一文で日本にやってきました。
それに対して、日本の政財界の人たちは、手をさしのべたそうです。
来日する直接の動機は、日本文化連合会の小見山登氏らが昭和43年12月8日、京都市東山霊山観音廟の境内に「韓国人犠牲者慰霊塔」を建設し、その除幕式に招いたからでした。この慰霊塔には、日本軍人・軍属として処刑された23柱を中心に、日韓併合から敗戦までの犠牲者が祀られています。
その除幕式には、洪思翊中将の遺族(未亡人と長男)をはじめ10名の遺族代表が招かれました。その慰霊塔除幕式の模様はNHKで全国放映されたそうです。
帰国に当たって三菱電気の前社長・関義長氏と久保田鉄工会長(当時)小田原大造氏が全員にテレビ一台と農機具一式を贈りました。遺族たちは全員感激のあまり頬をぬらしたそうです。洪思翊中将の遺族は日本に留まり、その年の12月26日、小野田セメントの安藤豊禄氏の世話で、当時の佐藤栄作首相に会いました。
佐藤栄作首相は、昭和12年鉄道監察官として、上海から南京までの華中鉄道の建設に当たっていた。その時に興亜院調査官として華中連絡部(上海)にいた洪思翊中将には、公的に世話になったという因縁がありました。
佐藤首相は遺族の未亡人と長男に会うと同情し、
「大陸時代の洪氏への誼み にこたえる唄別として些少だが受け取っていただきたい」
として、自分の私財 百万円を贈与したという。
佐藤首相は当時現職であり、おおぴらに支援できなかったという。
遺族はその後、安藤氏や小見山氏の世話で六年間、日本に留まったが、五十年三月、未亡人は次男の顕善氏の留学先であるロスアンゼルスへ旅立ったという。
その年の5月、築地の料亭・喜楽で佐藤氏を囲む会が開かたおり、知人の安藤氏から遺族の近況を聞いた。知人曰く「遺族は総理からいただいた百万円は定期預金にしておいたので数十万の利息がつき、そのお金をもって未亡人は無事渡米し、次男宅
に落ちついた」と、報告をした。
すると佐藤首相は「安藤さんありがとう、気にかかりながらも立場上、充分なこと ができず、申し訳なかった。これで私も忘恩の徒にならずにすんだ」と人情味溢れる言葉で述懐したという。その直後、少し離れた席にいた福田聳夫氏と二言三言話した佐藤首相は安藤氏のひざの横に倒れてしまった。それ以後、佐藤首相は意識を回復
することなく、延々と眠り続け、六月三日に永眠したという。
佐藤栄作首相の陰徳
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社 p492より
このような方が戦後の朝鮮において健在ならば、日本との関係も違ったものになっていたでしょう。
1914(大正3)年 陸軍士官学校(26期)卒
1923(大正12)年11月 陸軍大学校(35期)卒
1939(昭和14)年9月28日 支那派遣軍御用掛
1940(昭和15)年8月1日 留守第一師団付
1941(昭和16)年3月1日 陸軍少将 第108旅団長
1942(昭和17)年4月17日 公主嶺校付
1944(昭和19)年3月2日 比島俘虜収容所長
10月26日 陸軍中将
12月30日 第14方面軍兵站監
1946(昭和21)年9月26日 フィリピン・マニラにて死去( 刑死)
洪思秣中将の墓は大韓民国安城市の街外れにある。洪総本家の墓所の一角に黒御影石の墓標が立ち、正面に「南陽公洪思翊・配漢陽趙之墓」の文字が刻まれている。他の人たちと同じく中将の御遺体も返還されなかったので、その中には愛用の聖書を除く遺品が納められている。
先妻の漢陽趙夫人は永く病床にあり、昭和18年9月13日没。その後、洪思翊中将は周囲の勧めで李清栄夫人と再婚。結婚生活数カ月で、身重の夫人を残して19年3月フィリピンに出陣。
李清栄夫人は昭和50年5月から、実子の次男顕善氏とロスアンゼルスで暮らしていましたが、3年後に交通事故でお亡くなりになっています。長男の国善氏は昭和59年、郷里安城市で急死されています。
参考・引用文献およびホームページ
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社
国際派日本人養成講座 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog190.html
日本海新聞ボツ投稿 http://www.chukai.ne.jp/~masago/botu.html#013
Sさん来店。Iさん4名様で来店。Y岡さん来店。ホロン部員Yさん来店。遅い時間にIさん二店をハシゴした後に4名様で再来店。
飲む。ドンチャン。
酒友へ
10月3日月曜日くもり △
今日は夕方より出かける。今週からは当店としては初めての日月の定休日。渋谷はめちゃ久しぶりなので、渋谷駅の変わり方にアゼン。渋谷からタクシーで六本木にある「酒友」さんまでいく。ここはお世話になっている長谷川酒店さんの直営店。でっ、今日からオガピーこと緒方さんが店長を勤めることになっているということで、大台さん、副店長とお店で待ち合わせ。店について見るとカウンターは俊の高木社長。磯自慢の寺岡社長、大ちゃんこと生駒の駒井大社長、雑賀の雑賀部長、醴泉の山田社長、相定酒店の相川社長などなど今日の顔見知りの皆様がずらり。でっ、テーブルには長谷川さんをはじめ、百年の孤独の黒木社長、東洋美人の澄川専務、伊勢勇の一歩社長など大勢様。結局は身内ばかり二十一人も入ったので、お断りしたお客さまもいたそうです。
酒友さんにお邪魔するのはまだ2回目。今日は刺身、おでん、真子鰈の空揚げ、春巻き、サラダをいただく。お酒は東一大吟醸、醴泉本醸造、九平次火と月の間になどいただき、今日は副店長から重大な?お話というか、ユエユエちゃんの弟か妹が来年に誕生というおめでたいお話が飛び出したので、ポメリーのシャンパンでお祝。
(大台さんごちそうさまでした)
帰りは副店長と池袋まで一緒。私は最終電車でした。
今日はチャンと記憶あり。
長谷川酒店蔵元を囲む会
10月2日日曜日 晴れ 暑い ×××
今日は店を片付けてからスポーツセンターにいく。胸、背中など部分的にメニューを消化。
夕方よりイースト21で開かれた「蔵元を囲む会」に参加。多くの蔵元の皆さん、酒屋さん、そして当店のお客様も大勢さまいらしていました。
その後、2次会はみなさんで高田馬場にあるカヴェルナさんにてドンチャン。3次会は当店にてドンチャン。
今日はタクシーで帰る事になりました。
めちゃヨッパライ・・・・・記憶はあると思う・・・
? |
? |
漫画家高信太郎氏にみる歴史観
10月1日土曜日 晴れ
高信太郎氏の著書「おもろい韓国人」(光文社)に例によって強制連行の事が書かれています。
以下引用
「ドクター金のアボジ(父親)は、戦時中に強制連行によって無理やり日本に連れてこられた人でした。日本軍は、男が家にいる昼時をねらって村を襲ったのだそうです。そして、見せしめのためにいちばん腕っぷしの強そうな男の腕を折る。するとみんなおとなしくなって捕まる。捕らえられた男たちが、連行の途中で元気になると困るので、貨車にすし詰めにして、水も食料も与えず、半ば仮死状態のまま釜山港に連れていく。そして、船に乗せたら生き返らせるという、非常に残酷でまた合理的なやり方をしたということです。」
P178
引用終わり
そういった強制連行されたはずのドクター金のおとうさんはどういうわけか戦後は帰国せずに神戸に移り住んだそうです。不思議ですね。どうしてすぐに帰国しなかったのでしょう。こういった朝鮮人の方多いですよね。しかし、まるであの詐欺師として有名な吉田清治やバカとしか言い様のない山田盟子、松岡環なみの書き方・・・
そしてドクター金は神戸の灘高、東大医学部だそうです。日本はいい国だとおもいますよ。
またアメリカの朝鮮人と我が国の朝鮮人との違いについても
「チェーミ・キョツポ(在美韓国人)というのは、また在日とはぜんぜん違う人たちです。どういうふうに違うかというと、在日の場合は、無理やり連れてこられたという歴史的背景がある。なかにはそうでない人もいるんだけど、韓国人が考える在日韓国人というのは、もう全員が強制連行されてきたという被害者ですから。一方、在美韓国人の場合は、自分の意志ですね。アメリカが無理やり連れていった韓国人はいないわけですから。」p213
どうして、こう考えられるのでしょう。アメリカへは自分の意志でいってもっと近い我が国には強制連行された。どうして、朝鮮人が我が国にも出稼ぎできてそのまま居座ったと考えられないのでしょう。どうしてこれだけ単純に割り切って考えられるのでしょう。朝鮮人がウソをいっていると考えないのでしょう。
そして高氏によると
「(このドクター金が)韓国人と結婚するということは、日本人と結婚しない、つまり血を薄めないということですね。ちなみに、韓国の李王朝の最後の皇帝の后は日本人で、方子さんとおっしゃいました。穿った見方をすれば、日本が戦争に負けたとき、なぜ李王朝が復活しなかったかというと、日本人が奥さんになったことで、血が汚れてしまったと考えられたためではないでしょうか」P179
「よく思うことなんですが、朝鮮半島からは王様がなくなったけれども、残っていればちょっと違ったかもしれません。非常に個人的な見解なんですが、日本が戦争に負けたとき、大韓帝国をもう一回復活させればよかったと思う。ちゃんと子孫はいたんです。日本に連れてこれらていた方を帰国させて日本の象徴天皇制みたいなものを復活させればよかったのに。それがダメだったのは妃殿下が日本人の方子さまだったからかもしれないけど。」P133
だそうです。
まず、李殿下を戦後帰国させなかったのは当時の南朝鮮で政権を握った李承晩です。
ましてや、我が国の天皇家と、その時、その時の支配者が皇帝になる支那、朝鮮とはちょっとちがうとおもいますけど・・・・
それと同じでしたら、我が国は、羽柴、徳川家などが皇帝になっているでしょう。
また、ヤクザに朝鮮人が多いのも高氏にいわせると差別のせいだそうです。
「日本の社会に差別があって、つける職業に制約があった。ケンカの強いやつは、ボクシングとか、相撲とか、プロレスとか、プロ野球とか、スポーツの世界で活躍できますけれども、そこまでいけない人の中には、ヤクザの道に進む人もいるというわけです。
ある意味で、ヤクザの世界ほど、差別のない世界はないといえるかもしれません。日本人だろうが、韓国人だろうが、中国人だろうが、ケンカの強いやつがいちばんなわけで、徹底した実力主義ですから。そういう理由で、在日韓国人が、極道の世界でかなりのカオになっていることも、また事実です。」P185
ケンカが強ければ一番になれる・・・・なんと単純。これじゃあ獣なみですよ。まあ、この人の単純さはその他の歴史観にも十分現れているとは思いますけど・・・・
毒をまき散らさないで欲しいものです。
KAZUMIさん、HIROKOさん、MIKIKOさん来店。初めてのお客さま来店。Kさん来店。
飲む。