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渡辺淳一と田母神論文
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
渡辺淳一という人間のクズの歴史感
平成24年3月25日日曜日晴れ○
エロ作家渡辺淳一氏が週刊新潮に「あとの祭り」というコラムを連載しています。
この問題あるコラムについては過去に何度か日記に取り上げた事があります。
そのエロ作家が少し前の週刊新潮に書いていた事です。
以下引用
<南京虐殺に思う
このところ、河村たかし名古屋市長の発言が中国でとり上げられ、日中友好関係に大きな影を落としているようだが。
数字はともかく
ことのおこりは、河村市長が、南京大虐殺における死者が三十万人とされているが、それほどではなかった、これは中国人の過剰反応である、と述べたとか。
これに対して、南京がある江蘇省では、省政府職員へ、名古屋への渡航禁止通達をだしたことから、問題が大きくなったようである。
それにしても、河村市長がなぜ今頃、こんな発言をしたのか。
その真意はよくわからないが、今この問題をとり上げても、被害者数が正確にわかるわけはない。
それというのも、当時の生き残り者は今は皆無。改めて調べたくても調べようがない。いや、当時だって、はっきりわからなかったろう。
だから、三十万人というのは、被害者の概算というわけ。
これに対して、そんなに多くはないという加害者側、日本側の意見は以前からあった。
いずれにせよ、日本人として、あまり気持ちのいいデータではないことはたしかだが。
なにをやらかしたか
それにしても、当時の南京市内の様子を想像すると、身の毛もよだつ。
その時、勝ち誇った日本軍は南京市内に入城した。
こう書くと、「粛々と隊伍を組んで」、と思いたいところだが、その実、将校も兵隊も食うや食わずで、ようやく南京に到着して、一気に解放されたのだろう。
そこで、彼等がやらかしたことは、略奪と暴行。
日本軍は、そんなに統率がとれていない野蛮な軍隊だったのか、と悲しくなるが、かつて、中国を転戦していた親戚の叔父さんにきいた話では、街に入ると、それに近いことはやっていた、とのこと。
まして、南京のような大都市には、さまざまな食物があり、美しい女性も沢山いたに違いない。
それらに殺到し、邪魔する者を片っ端から排除する。
それは南京市民が憎いというより、長く抑制を強要されてきた兵隊たちが、獲物を目前にして舞い狂った瞬間、とでもいえばいいのかもしれない。
とにかく、当たるを幸い薙ぎ倒し、さらに女性たちを襲う。
南京市内では、そんな地獄絵がくりひろげられたのだろうか。
そして、その犠牲となった市民が三十万人であったと。
この数字が正しいか否か、わたしにはわからない。
しかし、のちに南京市が被害者を数えあげたら、三十万人に達した、というわけだろう。
当然このなかには、単純に殺された者以外に、暴行などを受けて半死半生のまま放置された婦女子も、さらにはそれらを目撃して、気の狂った人も含まれているかもしれない。いや、実際そこまで含めたら、三十万人はゆうに超えていたかもしれないが。
いずれにせよ、集団虐殺の数字ほど、正しく計算するのが難しいものはないだろう。
それはともかく、被害者側の南京市が、三十万人という数字を出しているのに対して、加害者側の日本人が、そこまではいっていない、というのはナンセンスな話。
その数字が正しいか否かより、まず、そういうことは断じてするべきではない。してはいけないことと、肝に銘じるべきである。
教訓として
それにしても、このような凄惨な事件を、かつての日本軍が、本当にしでかしたのだろうか。
今となっては、疑問に思う人も多いかもしれないが、わたしは、少なからずあったろうと思う。
おまえは、日本軍を犬畜生のごとき卑劣な軍隊と思うのか、と責められそうだが、正直いって否定はできない。
なぜなら、かつての軍隊や兵士の横暴さと身勝手さを見て、子供心に呆れていたからである。
内地の日本でさえ、当時の日本人は中国人や韓国人にあれほど威張っていたのだから、敵地の都市で、抵抗できない中国人を見たら、なにをやらかしたかわからない。
幸か不幸か、その頃、わたしはまだ小学生だった。
だが、子供は子供なりに、さまざまなものを見て、感じていた。
たまたま、親戚がいた炭鉱町に行ったとき、そこの谷底にある外人労働者の飯場では、立ったまま食事をさせられ、殴られて「アイゴーアイゴー」と泣き崩れている労働者がいるから、行ってはいけない、といわれていた。
しかも、そこの残忍な棒頭をやっていた男が、私の祖母の家に間借りしてた、気のいいおじさんであったことに二度おどろいたけど。
こういうことは、わたしの近著「瓦礫の中の幸福論」で書いたが、日本人はこの時代の日本を、あまりに知らなすぎる。
いや、学校で意企的に教えなかったようだが。
それにしてもいま、穏やかで良識あふれるように見える日本人のなかにも、いつ、悪魔にならないともかぎらない血がひめられている。
一人のおじさんのなかに、天使のような優しさと、悪魔のような非情さと両方秘められていて、それが人間なのである。
南京大虐殺の記念館は、そのための教訓だと思えば、とくに騒ぎ立てることもないと思うのだが。>
引用終わり
(「週刊新潮」平成二十四年三月十五日号p六十四〜六十五)
いかがであろう。
この渡辺淳一の文章は今まで何度か取り上げてきましたが、何も変わっていません。
「加害者」である日本人は
<その数字が正しいか否かより、まず、そういうこと(は断じてするべきではない。してはいけないことと、肝に銘じるべきである。>
と断じています。
アホかと。
このエロ作家は
<それにしても、当時の南京市内の様子を想像すると、身の毛もよだつ。
その時、勝ち誇った日本軍は南京市内に入城した。
こう書くと、「粛々と隊伍を組んで」、と思いたいところだが、その実、将校も兵隊も食うや食わずで、ようやく南京に到着して、一気に解放されたのだろう。
そこで、彼等がやらかしたことは、略奪と暴行。
日本軍は、そんなに統率がとれていない野蛮な軍隊だったのか、と悲しくなるが、かつて、中国を転戦していた親戚の叔父さんにきいた話では、街に入ると、それに近いことはやっていた、とのこと。
まして、南京のような大都市には、さまざまな食物があり、美しい女性も沢山いたに違いない。
それらに殺到し、邪魔する者を片っ端から排除する。
それは南京市民が憎いというより、長く抑制を強要されてきた兵隊たちが、獲物を目前にして舞い狂った瞬間、とでもいえばいいのかもしれない。
とにかく、当たるを幸い薙ぎ倒し、さらに女性たちを襲う。
南京市内では、そんな地獄絵がくりひろげられたのだろうか。
そして、その犠牲となった市民が三十万人であったと。
この数字が正しいか否か、わたしにはわからない。
しかし、のちに南京市が被害者を数えあげたら、三十万人に達した、というわけだろう。
当然このなかには、単純に殺された者以外に、暴行などを受けて半死半生のまま放置された婦女子も、さらにはそれらを目撃して、気の狂った人も含まれているかもしれない。いや、実際そこまで含めたら、三十万人はゆうに超えていたかもしれないが>
と書く、我が国軍隊の「虐殺」をやった根拠というのは、
<なぜなら、かつての軍隊や兵士の横暴さと身勝手さを見て、子供心に呆れていたからである。
内地の日本でさえ、当時の日本人は中国人や韓国人にあれほど威張っていたのだから、敵地の都市で、抵抗できない中国人を見たら、なにをやらかしたかわからない。
幸か不幸か、その頃、わたしはまだ小学生だった。
だが、子供は子供なりに、さまざまなものを見て、感じていた。
たまたま、親戚がいた炭鉱町に行ったとき、そこの谷底にある外人労働者の飯場では、立ったまま食事をさせられ、殴られて「アイゴーアイゴー」と泣き崩れている労働者がいるから、行ってはいけない、といわれていた。
しかも、そこの残忍な棒頭をやっていた男が、私の祖母の家に間借りしてた、気のいいおじさんであったことに二度おどろいたけど。
こういうことは、わたしの近著「瓦礫の中の幸福論」で書いたが、日本人はこの時代の日本を、あまりに知らなすぎる。
いや、学校で意企的に教えなかったようだが。
それにしてもいま、穏やかで良識あふれるように見える日本人のなかにも、いつ、悪魔にならないともかぎらない血がひめられている。
>
としています。
<それというのも、当時の生き残り者は今は皆無。改めて調べたくても調べようがない。いや、当時だって、はっきりわからなかったろう。>
と書いていますが、多くの兵士、報道人の証言があります。
このエロ作家が購読しているであろう当時の朝日新聞記者の証言もあります。
<南京大虐殺の記念館は、そのための教訓だと思えば、とくに騒ぎ立てることもないと思うのだが。>
とまで書いています。
支那の南京郊外の江東門近くにある「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」いわゆる「南京虐殺記念館」は、当時の日本社会党、今の社民党の田辺誠(田邊 誠)が、わざわざ二度も支那に頼みこんで総評の金で作ったものです。
日本人が設計までして作った「大虐殺記念館」ですが、資金として提供した三〇〇〇万円も、実際には八〇〇万円しかかからず、残りは支那人が分けてしまった。
展示してある資料も総評など日本側がそろえた物がほとんどであり、この建物に描かれた三十万人と言う被害者数も、支那側は、「政治的数字だ」と返答しています。
つまり、「三十万人」と言う数字は「歴史的事実」では無く、「政治的数字」であると、支那が自ら認めている訳です。ここに展示されている「証拠写真」といわれているものもやらも、ほとんどがやらせ写真あるいは合成写真などです。
このエロ男は何も自分で調べようともしないで自分で勝手に想像しているだけのアホウです。
それは、この男の在日朝鮮人について書いてある事でもわかります。
こんなアホウ男の文章を銭を払ってまで掲載している新潮社のレベルを疑います。
「中国の戦争宣伝の内幕」(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著 田中秀雄訳 芙蓉書房出版 平成二十一年刊)
に下記のように書かれています。
<満州の湊天で日本人は六百人の朝鮮人、満州人、中国人に対して医者にするための教育をしている。たぶんそれは世界でも最も大きく立派な学校である。怠情きわまる中国を救おうと、日本人の内科医や外科医を先陣にし、その後ろに医学生の軍団を準備して送り届けようとしているのである。
私は以前、中国の疫病が流行している地域に入って行ったことがある。そこには西洋人がまるで弾丸で撃たれるかのように倒れて死んでいるところだった。そこで私はいつも日本人の病院と医者を見つける事が出来た。自国民だろうがそうでなかろうが関係なく、彼らは快くワクチンの接種をしてくれた。中国人も同じサービスを受けていた。
日本人に対する盲目的な偏見を持っている西洋の人々や国々は、日本が文明のために極東で、本当はどんなことをしているのか苦心して知ろうとは少しもしない。一部の宣教師はさておいて、これらの国々は中国人や満州人がコレラやチフスその他の沢山の病気で死んでいこうがいくまいがちっとも気にかけない。東洋では何百年もこれが続いているが、彼らは貿易で金を持ち出しているだけなのである。しかしながら日本人は気にかけていたのだ。それだけでなく世界のどの国よりもこれらの疫病を制圧したし、あるいは医師や看護婦団、近代医学と衛生設備によるチェックと監視を続けるということをやっているのである。>
p一〇二〜一〇三
この本の原本は一九三八年十一月にアメリカで刊行されています。
我が国が現地においてどのような統治をしていたかを現す一つの例だと思います。
参照
こうやって歴史は歪められて行く
http://www.tamanegiya.com/asahitohonnda21.5.24.html
戸井田とおる議員の答弁より見える真実
http://www.tamanegiya.com/toidagiinnnotoubenn19.3.15.html
百人斬りのウソと本多勝一、朝日、毎日の厚顔さ
http://www.tamanegiya.com/hyakuninn.html
今日は店を片付けた後、部屋に帰り一日中ゴロゴロと漫画や雑誌を読んで一日が終わりました。
酒は飲まず。
猿でもエビでもない。
渡辺淳一という人間のクズの書く嘘
平成23年5月30日月曜日雨のち晴れ ○
渡辺淳一という醜いエロ作家がいる。
このエロ作家が週刊新潮に掲載している「あとの祭り」というエッセイに「わたしが体験した戦後 加害者と被害者」として下記のような事を書いていた。
以下引用
< 前略)
札幌の私の家の近くに住んでいた、佐藤のおじさんは以前、仕事の関係で一度、韓国に行ったことがあるらしい。
そこで改めてきいてみると、いまの韓国人のほとんどは日本語が話せるという。
すでに二十世紀初めに、日本は武力で韓国を併合し、植民地化していた。このため、朝鮮人は強制的に日本人として組み込まれ、日本語を覚えるように強要され、さらに、彼らが本来もっていた姓や名前も、日本式の名前に改めらえたとか。
そんなことが、韓国で現実に行われていたのか、わたしが不安になってきくと、おじさんは「もちろんだよ」とあっさりうなずいた。
「日本人にしてやったんだから」
おじさんは当然のようにいったが、彼等にとっては、喜ぶべき事ではないのではないか。
実際、このあと朝鮮人の一部は日本軍に組み込まれて戦地に送られ、朝鮮の女性の一部は従軍慰安婦として、戦場にも駆り出されたらしい。
さらに日本各地に労働力として送り込まれた韓国人の総数は、二〇〇万とも三〇〇万ともいわれている。
略)
やがて戦争が終わり、韓国は独立したが、日本にはなお沢山の韓国人が残って、生活していた。
彼等は其の後の日本を、そして日本人をどう思っていたのだろうか。
戦後、日本は戦争に負けたのに、韓国蔑視はなお根強く残っていて、戦後も韓国の人は日本の一流企業の社員や公務員になることはできず、多く芸能人やスポーツの世界で才能を伸ばしていった。。
さらに、わたしの知っている韓国の女性は「どんなことがあっても、日本の男性と結婚してはいけません」と、厳しく母親に言われているといっていた。
加害者は安易に過去を忘れても、被害者は容易に忘れることはない。
実際、今の韓国人のなかには、かつての日本の圧政に恨みを抱いている高齢者は、かなり多いに違いない。
それを思うと、韓国人が日本人の拉致問題に手を貸そうとしないのは、当然といえば当然なのかもしれない。>
週刊新潮 平成二十三年五月五・十二日ゴールデンウイーク号p八十〜八十一
嘘を平気で書く。まるで辛淑玉女史、井筒和幸氏、朴一氏なみの男です。
<いまの韓国人のほとんどは日本語が話せるという。>
これについては既に書いたが、
朝鮮における日本語普及率
「一九四二年には全人口の二〇%に当たる五〇〇万人強の朝鮮人が日本語を解したのである」
中川八洋『歴史を偽造する韓国』のP五八(中川氏は森田芳夫『韓国における国語・国史教育』からの引用)
http://www.tamanegiya.com/tyousennnoyougatkou20.10.html
ましてや、
<朝鮮人は強制的に日本人として組み込まれ、日本語を覚えるように強要され、さらに、彼らが本来もっていた姓や名前も、日本式の名前に改めらえたとか。>
我が国の統治によりがハングル文字を普及しただけでなく、一九一〇年(明治四三年)併合後の日本は学校教育で朝鮮語を必修課目とした。この教科書の作成を通じ、綴字法の統一、標準語の制定、普及が進んだのである。
勿論韓国教科書で主張する朝鮮語研究会、朝鮮語学会が大きく貢献した事は言うまでもない。
朝鮮語は一九三七年(昭和一二年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。併合時書道を含め、十%程度だった就学率は一九三七年には三六%に達している。これと共にハングルは普及したのである。ハングルの普及に最も貢献したのは、朝鮮人自身としても、日本の貢献も合わせて評価すべきである。
(中略)
なお毎日申報は終戦までハングル文字の新聞を発行していた。 『「植民地朝鮮」の研究』(杉本幹夫 展転社、二〇〇二年、p.七九)
日本統治下の朝鮮における教育
http://www.tamanegiya.com/tyousennnoyougatkou20.10.html
<彼らが本来もっていた姓や名前も、日本式の名前に改めらえたとか。>書くが、届けを出して「氏」を日本式にするか、そのままの「法定創氏」とするかは自由であった。二割がそのままの「金」「朴」といった姓を氏として使った。
有名な洪思翊将軍などはそのよい例ですし、衆議院議員までなった朴春琴、貴族議員の尹徳栄も日本名では無い。終戦時には朝鮮半島の一三の道のうち五人が朝鮮人であったが、その五人の朝鮮人道知事のうち二人が朝鮮式の姓のままであった。
その二人の国会議員も創氏改名には反対していない。 本当に朝鮮人が創氏改名に反対であれば、朝鮮人の国会議員が二人もいるのであるからそれを阻止することは容易かったはずです。そもそも、警察も創氏改名には反対していたのです。
朝鮮総督府道警察部長であった坪井幸生氏によると、創氏改名について下記のように述べています。
「警察は反対的でした。この制度が始まった時の警察局長は三橋孝一郎という人でした。その三橋さんが局長会議で創氏改名に反対したそうです。警察の立場からすれば、朝鮮人は朝鮮人の名前のままにしておいてもらったほうが都合がいいわけです。朝鮮人か日本人か分からなくなってしまっては、第一線の仕事がやりにくくなる面があります。そういった事情もあって、警察は創氏改名を推奨する立場をとらなかったのですが、当然のことです」 (「月刊正論」平成一五年八月号より)
ましてや、<徴兵するためには、人間の管理をきちんとしなければならない。「朴」とか「李」とか「洪」という同じ朝鮮の姓名では管理しにくいから>ということも無かった。二割の朝鮮の人がそのままの名前であったのだから。
因に北朝鮮では「族譜」の全面破棄を断行している。これは日本統治時代の間はその「族譜」が存続していた証明にもなる。
朝鮮総督府は、朝鮮人が勝手に日本名を名乗らないように、朝鮮併合直後の一九一一年一一月に日本式の氏(姓)を禁ずる、朝鮮総督府令第一二四号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を定めている。
名に関しては、日本式の名を用いたいという朝鮮側の要望に屈して、新生児のみ例外的に認めたのは一九三七年である。
創氏改名の誤解
http://www.tamanegiya.com/sousikaimei19.9.12.html
この渡辺淳一の一番醜いところは、こういった歴史的事実を隠匿するだけでなく、現在の事実をも正視しないというところである。
<やがて戦争が終わり、韓国は独立したが、日本にはなお沢山の韓国人が残って、生活していた。>
と書きながら、どうしてその朝鮮人が残ったかを書かない。
ましてや、無理矢理連れてこられたのであれば、戦後に恋しい故郷に帰るであろうに。
それだけでなく、平和で発展している現在の南朝鮮から多くの朝鮮人が不法入国してまで我が国に来ているのは何故なのか。
その戦後入国してきている朝鮮人どもがどうして偽名である日本名を名乗っているのか。
我が国および我が国国民を一方的加害者とし、朝鮮および朝鮮人を一方的被害者として書くこの渡辺淳一という人間のクズ。
当時の新聞に見る朝鮮人の不法入国
http://www.tamanegiya.com/fuhounyuugoku19.9.12.html
日名子暁の書く嘘「在日朝鮮人いわれなき偏見」
http://www.tamanegiya.com/iwarenakisabetu22.8.1.html
嘘つき朝鮮人対しての反論資料「戦後、北海道における残留朝鮮人の送還についての資料」
http://www.tamanegiya.com/usotukityousennjinn23.2.7.html
大村収容所
http://www.tamanegiya.com/oomurasyuuyoujyo19.1.22.html
<韓国人が日本人の拉致問題に手を貸そうとしないのは、当然といえば当然なのかもしれない。>
こんな事を平気で書く人間のクズは早く死んでほしいものである。
ところで、この人間のクズは朝鮮人の事を「韓国人」としか書いていないのは南朝鮮人はいいだろうが、北朝鮮人には失礼だろうに。
今日は午後に古本屋さんまで出かけただけで、後は部屋でゴロゴロして一日が終わる。
昨日、久しぶりにスポーツセンターへ行き、一通りのメニューを消化したので、朝起きてみると身体のあちこちが筋肉痛。
酒は飲まず。
渡辺淳一と田母神論文
平成20年11月19日水曜日晴れ ×
コンビニに行くと、連休なので一日発売日が早まったみたいで、週刊新潮と文春が並んでいる。購入して読んでみると、週刊新潮に渡辺淳一というエロ作家さんが「あとの祭り」というコラムを書いている。
見開き二ページのコラムなので全文を掲載いたします。
以下引用
あとの祭り
なぜ田母神論文が生まれたか
このところ、田母神前空幕長の話題が新聞やテレビで大きく取り上げられている。
この男が発表した論文。たしかに狂って的外れだが、それを取り上げるマスコミの意見も、同様に少し的を外れているように思うのだが。
知らないだけ
日本は朝鮮半島や中国大陸に相手国の了承を得ないで、一方的に軍を進めたことはない。我が国は蒋介石により、日中戦争に引きずり込まれた。日本が侵略国家だというなら、当時の列強で侵略国家でなかったのはどこかと問いたい。アジアの多くの国が大東亜戦争を肯定的に評価しているのに、日本が侵略国家だというのは濡れ衣である。
以上が田母神論文の要旨だが、これが誤りであることは明白である。
事実、一九九五年に発表された村山談話で、昭和期の戦争について、日本が国策を誤ったこと、植民地支配と侵略により、アジア諸国の人々に損害と苦痛を与えたことを明確に認めている。
だが田母神氏は、これは誤りだという。日本はアジア諸国、朝鮮も中国も侵したことはなく、侵略は濡れ衣だという。
なぜ空幕長の要職にいた男が、こんな馬鹿げたことをいうのか。
理由は簡単である。日本の過去の事実をほとんど知らされず、体験もしていないからである。
非道の数々
日本が戦争に敗れたとき、わたしは小学六年生であった。
当時、わたしは札幌に住んでいたが、その前、小学校低学年のときは北海道でもっとも大きな炭坑があった砂川に住んでいた。
ここで、私は信じられない、恐ろしい状景を目撃した。
まず砂川の市街を外れた丘の下、山峡を流れる川のほとりに炭鉱労働者の飯場があった。たまたま親戚がその丘の上で新聞販売店をやっていたので、ときどき遊びに行ったが、「下の川べりに行ってはいけない」と厳しくいわれた。
そこには、朝鮮人の飯場があって、腹をへらした労働者が「アイゴーアイゴー」といって泣き、ときどき殴られている、ときいていた。
またあるとき、表通りが騒がしいので出てみると、裸同然の朝鮮人労働者が、棒に両手と両足を縄で吊されたまま運ばれていた。大人たちの噂では、日本人の棒頭に逆らって制裁を受けたのだといっていた。
そしてある冬の日、わたしの家の屋根の雪下ろしにきた朝鮮人に、母があたたかいおにぎりを渡すと、涙を流して喜んでいた。
彼らはなぜ日本にきて、このような過酷な労働にたずさわっていたのか。理由はただ一つ、日本軍に一方的に捕らえられ、強制的に連行されたからである。
子供の世界でも、朝鮮人はすぐ泣くといって馬鹿にしていたし、中国人は「チャンコロ」と呼んでいた。
この傾向は戦後も続き、在日韓国人は公務員や一流企業に勤めることができなかった。
たしかに、欧米諸国もアジアを植民地化したが、日本は朝鮮人すべてに日本語を強要し、名前を日本式に変えさせ、文化まで破壊した。
敗戦まで、日本人はどれだけの朝鮮人と中国人を強制連行して、炭鉱などで過酷な労働をさせたのか。その数、百万とも二百万ともいわれているが、今、日本で生活している韓国系の人のほとんどは、この人たちの子孫である。
こんな過去があるかぎり、北朝鮮を巡る六カ国協議で、日本が訴える拉致問題に対し、中国や韓国が積極的に支援してくれないのは、当然といえば当然である。
教科書で教えろ
以上の事実にくわえて、戦時中の、あの異様な軍人の威張りかた。そして朝鮮や中国への蔑視教育を思い出したら、日本が侵略戦争をおこない、植民地やそこに住む人々に過酷な仕打ちをしたことは、疑いようのない明白な事実である。
この傾向は戦後も続いたが、幸か不幸か、田母神氏はそれを知らない。なぜなら戦争が終った時、彼はまだ生まれていないからである。
ならば、これらの事実をしっかり学ぶべきではなかったか。
しかし、彼が小学校から中学校にすすんだ頃、日本の歴史の教科書では、それらのことをまったくといっていいほど教えていなかった。教科書は明治維新までで、そのあと日韓併合や日支事変の実態についてはほとんど記されていない。
これでは、侵略戦争はなかった、と思い込むのも無理はない。
そして、彼の言動を批判しているマスコミも、かつての日本については、あまりよく分かっていない。
実際、今回の事件について新聞の社説などでは、「言論の自由をはき違えている」「歴史観を述べるのは空幕長の仕事ではない」「文民統制に問題がある」といった、現実離れした記述ばかりで、侵略は事実か否かについては触れていない。
要するに、今、マスコミの第一線にいる記者たちも過去、日本が犯した罪については何も分かっていない。
こんなピンボケ状態を正すにはどうするか。
もっとも重要なことは、歴史教科書にきっかり、かつて日本は侵略国家で、アジアの国の人々を苦しめたという事実を、明確に記すことである。
自分たちの国の犯した罪を子供にしっかり教える。それを知らされることは辛いことだが、そうすることでしか、アジア諸国との真の理解は生まれないだろう。
引用終わり
週刊新潮平成二〇年十一月二七日号p六六〜六七「あとの祭り 渡辺淳一」
いかがでしょう。
私は、渡辺氏のこの文章より我が国が侵略国家であったということがどうしても理解出来ません。渡辺氏は「日本人はどれだけの朝鮮人と中国人を強制連行して、炭鉱などで過酷な労働をさせたのか。その数、百万とも二百万ともいわれているが、今、日本で生活している韓国系の人のほとんどは、この人たちの子孫である。」とし、在日朝鮮人が我が国にいる理由について「理由はただ一つ、日本軍に一方的に捕らえられ、強制的に連行されたからである。」と断定し、続いて、
「戦時中の、あの異様な軍人の威張りかた。そして朝鮮や中国への蔑視教育を思い出したら、日本が侵略戦争をおこない、植民地やそこに住む人々に過酷な仕打ちをしたことは、疑いようのない明白な事実である。」と断定して書いています。
野中広務氏も朝鮮半島に対する関心と親近感を感じるゆえんとして、「少年期から青年期にかけて、当時自宅の近くにあった造兵所で、朝鮮半島から連行されてきた人たちが、重い石を背負い日本人からムチを打たれながら働いている姿や、隣町のマンガン鉱の採掘場で朝鮮人や同和の人たちが劣悪な環境で働いている姿を目にしてきた」と似たような事を講演会で語っていたそうですが、同じようなものと思います。(2006年十一月二九日東京ウィメンズプラザ)
現実に朝鮮半島において行われた統治についての知識も無く、調べようともせずに渡辺氏はご自分が子供のとき見た記憶と思い込みにより、我が国が朝鮮に対して醜い事をしたに違いない、侵略国家であると断定しているだけなのです。「日本は朝鮮人すべてに日本語を強要し、名前を日本式に変えさせ、文化まで破壊した。」と書く渡辺氏には、ぜひ具体的にその事について書いてほしいものです。
渡辺氏は以前も、アウシュビッツと我が軍を同列にみる醜い文章をこのコラムに書いていました。
渡辺氏は、当時より祖国が裕福であろう現在においても朝鮮人、支那人の不法滞在や不法就労が我が国に多い事にも当然触れていません。
このような現実を見ようともせず、村山談話の如何わしさを疑う事も無く、自分で調べようともしないこの程度の人間が偉そうに「かつての日本については、あまりよく分かっていない。」、「歴史教科書にきっかり、かつて日本は侵略国家で、アジアの国の人々を苦しめたという事実を、明確に記すことである。」とし、そうしないと、「アジア諸国との真の理解は生まれないだろう。」と書くことは、滑稽さを通り越して恐ろしさを覚えます。
渡辺淳一とアウシュビッツ
平成17年9月1日木曜日晴れ ×
週刊新潮の9月1日号の渡辺淳一の「あとの祭り」というコラムで、渡辺氏はアウシュビッツの悪夢としてNHKで放送された番組を取り上げて、その後に呆れた事を書いています。
以下引用
「もし第二次世界大戦中の日本軍がおこなった悪行を、このような映像で全世界に流されたとしたら、と想像したからである。
たとえば南京大虐殺や七三一部隊の正確な実態など、これらを新しい資料や、実写フィルム、CG、生存者たちの証言をもとに製作されたら。
もちろんホロコーストと南京大虐殺は、違うといえば違うが、虐殺であることに変わりはない。それをわれわれはどんな気持ちで見るだろうか。いや見ていられるだろうか。
あれは古い日本の軍隊がやったことだ、と逃げても、それはナチと同様、われわれの夫であり、父であり、祖父たちがやったことである。
そう思うとき、はたして平然としていられるか。
(略)
そういえば、かってのどいつは、今回の「アウシュビッツ」だけでなく、映画やドキュメンタリーなど、多くの作品で悪役にされ、目の敵にされてきた。
(略)
それに比べて日本は、第二次世界大戦のもう一方の悪役であったのに、幸か不幸か、世界的に上映された映画で悪い日本人がでてくる作品はきわめて少ない。
この背景には、中国、韓国はじめ、東南アジアが、戦後の疲弊いちじるしく、くわえて内戦などがあり、映画化や映像としておさめるだけの技術や人材がいなかったことが、大きな原因だろう。
これらの国が、もし現在のような経済力をもっていたら、日本軍の悪行を描いた映画や映像は、はるかに多く生まれたに違い無い。
そして、われわれ日本人は、それらをどのように考え、どのように立ち向かうか。
日本人の戦争認識の甘さは、こういう甘やかされた事実とも、関係があるのかもしれない」
以上引用終わり 週刊新潮2005年9月1日号 P65
戦争認識の甘さは確かにありました。そしてそれ以上に支那、南北朝鮮にたいしての甘さがあり、それは反省すべきところでしょう。もちろん渡辺氏とは違った意味ですけど!
まあ、醜い文章です。