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嘘つき朝鮮人対しての反論資料

戦後、北海道における残留朝鮮人の送還についての資料

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

戦後、北海道における残留朝鮮人の送還についての資料

平成23年2月7日月曜日晴れ風が強い ○

 随分前に「日本占領と軍政活動 占領軍は北海道で何をしたか」(西川博史 現代史料出版 平成十九年刊)という本を古本屋さんで購入いたしました。

 これには北海道における朝鮮人、支那人、台湾人の送還についても書かれています。

以下、その文献よりの引用です。

 連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)

 公安セクションの朝鮮人・中国人の送還事業として

<SCAP指令「日本よりの外国人の送還に関する覚書」(四十五・十二・十二)以降、外国人の送還は、指定された港より指定船によって指定された検疫を受けるなどの規則に則り実施された。

 朝鮮第二十九軍団軍政司令部連絡将校L.Rowe大尉一行の使節団が本軍司令部に到着した。この使節団の任務は、送還事業を援助するために朝鮮から来た朝鮮人代表団を監視することにあった。>

同書p九十七

 そして、同書に掲載されている帰国者数は下記の通り。

<道庁「長官事務引継書」(昭和二十年十月)によれば、敗戦直後、北海道より直ちに朝鮮人労務者及び家族七万八四八六人(他に先住民として約二万五千人が居住)に優先帰国の処置がとられ、一万四一三二人が十月二十九日までに北海道から陸・海路で釜山に向った。

 また、中国人労務者一万一〇二六人(他に先住民として二百十人が居住)のうち一五三四人が十月二十日室蘭港から辰日丸にて塘沽へ向けて出発した。

 (注 中国人については、其の後、室蘭港から青島・上海への送還が計画されたが、朝鮮人については、配船の目処がつき次第計画された。また、十月六日以降、毎日九百名の列車による送還があったが、九州における輸送逼迫のため十月二十一日よりこれを停止した。)

 軍政報告によれば、北海道からの中国人の本国送還は四十五年中にはほぼ完成し(四十六年一月には十五名の中国人を送還)、朝鮮人については四十六年二月に事実上完成した。

(一月に一万四二五二名の朝鮮人が帰国し、二月末には帰国の意思を示す一部のグループ及び個人が残っているだけであった)。

 道内に居住する朝鮮人の数については、道庁の数値と軍政報告の数値に相違があるが、SCAP指示の下に第八軍司令部が朝鮮人送還計画の為に収集した資料によれば、次のようであった。(十二月三十一日現在)

 

 (A) 北海道に居住する総朝鮮人    一一万二四〇六人

   敗戦後送還意志を表明した朝鮮人   十万八四〇六人

   四十五年十二月末までに送還した総数 八万一九一一人

   (内訳) 直接釜山へ送還      三万五八六二人

        列車で九州へ       四万六〇四九人

   送還されるべき残留朝鮮人      二万六四九五人

 (B)北海道に居住する総中国人     一万二四八八人

    敗戦後送還意志を表明した中国人  一万二四二三人

   (内訳) 直接中国へ送還        一五三四人

        列車で九州へ       一万八八九人

   送還されるべき残留中国人         六十五人

(C)北海道に居住する総台湾人          一〇三人

   敗戦後送還意志を表明した台湾人        九六人

   送還されるべき残留台湾人           九六人

 (なお、其の後の送還人数については、軍政報告の数値には整合性が認められないので、以下では残留者のみを示すことにした。)

 朝鮮人の鉄道・船舶による移動は、第八軍の命令によって四十五年十二月三十一日に一時停止されたが、四十六年一月四日に第九軍は軍政司令部にその再開を指示した。一月九日に再開第一船が函館港に入り、また、鉄道での輸送を保護するための準備がG―3とRTO(鉄道輸送事務所)において行われた。道庁も朝鮮人労務者の優先的送還に引続き、四十六年一月中旬に先住朝鮮人の送還に輸送の重点を移し、更に軽犯罪行為ないしその罪で訴えられている朝鮮人を解放・送還するためのリストを第九軍団に提出した。

(注 三月、第八軍の解放指令により刑務所に入所していた三人を除いて全員送還された。)

 この注は木下によるP一二六よりの引用

 しかし、帰国意志を表明しても「気まぐれや意志の変化」など自己の便宜を図る風潮が生じ、それが送還事業の促進に支障をもたらすまでになった。

(注 軍政報告によれば、「多くの朝鮮人は気候が暖かくなるまで、あるいはまた朝鮮の条件が噂で聞くよりもよくなるまで帰国を見合わせようとしていた」

 送還後、北海道に戻った朝鮮人もおり、彼等は日本の条件が朝鮮より良いと言い、こうした事が噂の根拠の一つになっていた。 

 日本側は彼等を帰国させようと送還日程を公開し、新聞報道するなど努力した。それは日本政府や連合国が彼等を日本に留まらせようとしていると誤解されるのを避けようとしたからであった。

 これに対して朝鮮人は、日本側は送還事業をいつでも完了できると脅しているとか、逆に輸送計画は当分の間継続されるとかの噂を流し、いつでも好きな時に帰国すればよいという風潮を作り上げていた。なを、SCAP総司令部は四十六年三月十六日に朝鮮人帰国者の再入国を禁止した。)

この注は、木下による同書P一二六よりの引用

 こうした事に対して、一月二十二日、軍政司令部は送還事業を二月十五日迄に完了するよう道庁関係部署に指示した。

(木下注 この指示は軍政報告にはなく、長官事務引継書より昭和二十一年二月 内政部民政課)同書P一二七より

 二月中旬、SCAP指令「朝鮮人、中国人、琉球人及び台湾人の登録に関する覚書」(四十六年二月十七日)が発令され、三月十八日までに朝鮮人、中国人、琉球人及び台湾人は帰国か残留かの意志を登録しなければならなかった。道警はこの登録を二月二十日から開始した。

(木下注 長官事務引継書より昭和二十一年二月 内政部民政課より。軍政報告には、登録は三月十二日に開始され、十八日までに終えると道庁から報告があったとしている)同書P一二七よりの引用

 当初、北海道に残留した朝鮮人七四〇五人のうちわずか九三二人が帰国意志を示したに過ぎなかったが、三月の送還事業を経て、登録締切日までに残留する朝鮮人七一一八人、中国人二〇七人、台湾人六二人のうち、朝鮮人二二三一人、中国人四一人、台湾人全員が帰国意志を表明した。

 琉球人は大まかな統計で一七八人が北海道に居るとされたが、最終的には帰国の意思を示した。

 三月二十二日、引揚救護院は函館援護局に正式に朝鮮人の引揚(送還)を指令し、朝鮮人帰国希望者を送り出す手続関係の準備に取掛かった。しかしながら、函館への集結生成機は振るわず、人員はわずか一一一名(一一八名中事故不参加七名)に過ぎなかった。

 このため、函館援護局は軍司令部及び函館軍政分遺隊と協議し、予定していた引揚船新興丸を釜山から急遽佐世保に回航させ、四月十一日に集結者全員を青森港へフェリーで送り、翌十二日青森から列車で陸路仙崎へ輸送した。

 この間に送還期限延長に関するSCAP指令「中国人、台湾人、朝鮮人の引揚に関する覚書」(四十六年四月九日、四月十三日)が発出され、中国人は四十六年五月十三日、台湾人は五月十一日、朝鮮人は八月末(後に九月末に変更)に延期された。

 函館援護局には四月十五日に再度一航海限りの朝鮮人送還指令が届き、函館援護局は新聞・ラジオ等の協力を得て送還促進の処置を採ったが、集結した人員は二〇五名(二一八名中事故不参加十三名)に過ぎず、ともかく新興丸に乗船させて送還事業を完了した。

(木下注 在日朝鮮人連盟小樽支部もこの帰国輸送を同胞に呼びかけている。 北海道新聞四十六年四月二十九日)同書P一二七より

(木下注 函館からの朝鮮人送出は合計三一六名で、当初指令による一日二五〇〇名に比して実績はあまりにも小さいが、「我が函館援護局が取扱った非日本人に対する集団移送の最初にして同時に最後を兼ねる意味深き業務であった。この業務は四十六年十二月限り廃止となり、爾来他の送出局への少数宛の移送が、現地軍の指令に基づき屡次にわたって取扱われた」海外引揚関係資料集成一『函館引揚援護局史』三一頁。

軍政報告では三一九名。『引揚検疫史』第一巻七頁では二四四名)同書P一二七より

 これ以降、軍政における送還業務は公安セクションから社会福祉セクションに移され、朝鮮人は四月に三一六人、六月に十二人が送還された。

(木下注 軍政報告の数値では、最終的に朝鮮人六七九〇名が北海道に残留した事になるが、道庁警察部の数値によれば残留朝鮮人は六八四四名であり、「一部朝鮮人中には闇取引等悪性インフレを助長する背反者あるも朝鮮本国の実情に鑑み日本在住を希望する者多く必然的に協力的態度に出つつ」長官事務引継書昭和二十二年二月)同書P一二七より引用

 

 帰国を希望した中国人四一名のうち六名が五月に函館から本州の各指定引揚援護局に移動し、台湾人は三八名が帰国希望を登録し、そのうち二名が呉の引揚援護局に移動した。

 他方、残留した外国人は、関係引揚援護局への移動という日本政府の指示を拒否した者として送還特権を剥奪され、道庁に於いて作成される非日本国籍者名簿に登録された。

 また、道内のドイツ人四八名、オーストラリアないしチェコ人三名、全員は帰国を希望しないという報告を四月に道庁から受けた。

 (北海道に残留した中国人は移入労務者三五名(病気ならびに残留希望者合計)のほか、在住希望の先住中国人二〇〇名ほどがいた)同書P一二七

 以上、明記のない限り「日本占領と軍政活動 占領軍は北海道で何をしたか」(西川博史 現代史料出版 平成十九年刊)P九六〜一〇〇より引用

以下続く

 

 昨日、一昨日と久しぶりにそれなりのメニューを消化したので、朝起きたら、あちこちが筋肉痛。特に両手の肘から前腕の筋肉がバリバリに張っていた。

 昨日、ワインを飲んでいて、左手でワイングラスを落としそうになった。

 今日はどこにも出かけずに、一日中部屋でゴロゴロして、漫画や雑誌、本、買って来たDVD「東洋宮武が覗いた時代」、「442」を観て過ごす。気がついたらそのまま寝ていました。

 酒は飲まず。


嘘つき朝鮮人どもへの反論資料

戦後、北海道における残留朝鮮人の送還について2

2月8日火曜日曇りのち雨風 ○

 昨日よりの続き

 以上よりわかる事は、

<「朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは、総数一〇〇万に近く、その約半数は不法入国であります。

 これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。

 その理由は、次の通りであります。

 現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。

 米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。

このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。

 朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。

 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。

 

さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。

 彼らの多くは共産主義社およびそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時七千名以上が獄中にいるという状態であります。

 戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次のとおりです。

(詳細省略、一九四八年五月末までで、九万一二三五名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている)

 さて、朝鮮人の本国送還に関する私の意見は次のとおりです。

 上述のような見解を、原則的に閣下が御承認下さるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的処置を提出するものです。

敬具 

                        吉田茂

連合国最高司令官 

 ダグラス・マッカーサー元帥>

「在日外国人」(田中宏 岩波新書 平成三年刊)p七十一より

 

 という吉田茂よりマッカーサーに宛てた書簡だけでなく、我が国は必死に残留朝鮮人を帰国させたかったのに「自分の意志」により多くの朝鮮人が残り、そして、「帰れなかった」と現在も被害者面をして騒いでいる厚顔無恥な姿です。

 例えば、犯罪者が校長を務める事ができる朝鮮高校の教科書である「現代朝鮮歴史 高級1」では「解放後の在日同胞の志向と立場」にて「解放後の米日当局の在日朝鮮人政策」としてどのように書かれているか。

以下引用

<異国の地であらゆる民族的蔑視と虐待を受けながら生きてきた在日同胞が祖国解放を迎えたときの感激は並み外れて大きかった。彼等は「金日成将軍万歳!」、「祖国解放万歳!」を声高らかに叫び、抱き合って喜びの涙を流した。

 解放された民族の堂々たる地位を占めていた在日同胞たちは一日も早く家族親類の待つ懐かしい祖国に帰って、新しい祖国の建設に貢献しようとした。しかし在日同胞の期待と願いは米日当局の不当な策動によって思い通りに実現出来なかった。

 日本当局は敗戦国になったにもかかわらず、アジア人民に及ぼした犯罪的行為を隠すのに汲々として、在日朝鮮人を解放された民族として処遇しなかった。

 一九四五年八月十五日にはたくさんの朝鮮人、中国人強制連行関係資料を燃やしてしまった。

 また敗戦後の苦しい経済的混乱の中で在日朝鮮人に食糧や未払い賃金を与えないために、そして強制連行や「徴兵」問題が日本の犯罪行為になる場合もあり得るということで、強制送還式の帰国処置を講じた。>

P五七

「帰国の為の在日同胞の闘争」として

<在日同胞は米日当局の不当な策動に屈せず祖国へ帰るための活動を頑強に繰り広げた。たくさんの同胞が住宅や所帯道具を整理して、下関、博多、仙崎をはじめとした西日本の港町へと集まって来た。

 彼等は公共建物や埠頭倉庫、あるいは路上で生活しながら帰国の日を指折り数えて待った。

 こうした中で日本当局の無策によって食糧が尽き病気にかかって命を落とすか、危険を冒して小舟で帰国しようとして、風浪の中で犠牲になる同胞が少なくなかった。

 このような状況で在日同胞は1945年9月朝鮮人帰国救護会を作って帰国活動を自分たちの力で可決する為に尽力した。

 一方で、帰国を保障し食糧や未払い賃金を支払うことを日本政府に強く要求した。しかし、米国と日本当局は在日同胞の帰国活動を「不法行為」、「治安びん乱」と称して妨害し続けた。

略)

 在日同胞は米日当局の妨害策動に不屈の闘争と努力によって帰国の道に拍車をかけた。そうして1946年3月迄に実に140万人の同胞が故郷へ戻っていった。>

P五九〜六十

「現代朝鮮史 高級1」(朝鮮高校への税金投入に反対する専門家の会編 星への歩み出版 平成二十二年刊)

 矛盾という言葉を知らない朝鮮人。

 厚顔無恥で嘘が国技のひとつである朝鮮人はこんな嘘を教えても恥ずかしくはないのでしょうね。

 

 ゴミはゴミ箱へ。

 朝鮮人は朝鮮半島へ

 

 という当時の政策の正しかった事が今、証明されています。

 支那人、朝鮮人は今からでも遅くないから帰って欲しいものです。

 

 Yさん来店。

 Sさん来店。

 Fさん二名様で来店。

 お連れ様は、Fさんがグラスの酒を楽しんでいるのに、さっさと立ってコートを着て「ごちそうさん」と宣うお人。

 「お連れさんがまだ、お酒を楽しんでらっしゃいますから」と注意して座ってもすぐ同じ事をやり、また同じ注意をさせ、それを聞こうともしない大バカヤロウ。

 いくら酔っぱらっているにしても、お連れさんに対して最低限の心配りもできらんし、食い方もてめえのかじったものをお二人でつまんでいる元の器に平気で戻す。

 こんなアホは二度と来て欲しくないものである。

 Fさんもせっかく飲むのだったら御一人で飲むか、このアホ以外の別の方と飲んだ方が楽しいだろうに。

 今日は飲まず。


 



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