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飲んべえ日記平成20年9月分

日本のためにならない事はなんでもやる
9月30日火曜日くもり一時小雨 ×××

 河野太郎氏が外務委員長に就任した。できれば、親父の河野洋平氏のようにならないでほしいものです。
 河野洋平氏は我が国のためにならないことだったらなんでもやった人でした。宮沢喜一内閣総辞職のわずか五日前の平成五年八月四日、「河野官房長官談話」を発表し、北朝鮮には 平成一三年一〇月四日に、「自分が全責任を取る」と述べて、北朝鮮に五〇万トンの米支援を決定しました。金額にして一二〇〇億円もの金を犯罪国家にただでくれてやったのです。もちろん、責任も何もとることなく、衆議院議長にまでなっています。支那における遺棄化学兵器についても、武装解除で引き渡されたことを証明する書類がないことを理由に、日本による化学兵器の処理を推進しました。
 そして、引退の花道としての九月一日、二日のG八議長サミットでは各国議長の国内輸送の手段として天皇、皇后両陛下や首相の海外訪問で主として利用される政府専用機を国内移動で初めて政府専用機使用し、そのことにより、運航費用はすべて空自予算で賄われるため、各国議長の搭乗代も空自持ちとなり、燃費高騰の影響で訓練時間の短縮に悩まされている空自にとっては、大きな痛手となりました。
 民間航空機をチャーターした方が割安であるのに、ただただ自分の見栄のためだけに、両陛下、首相の利用に限られてきた政府専用機を使用したのです。

 我が国のためにならない事だったらなんでもやる河野洋平。まさに売国奴という呼び名がこれほどぴったりとくる人間も珍しい。この人間が存在していなければ我が国はどれほど助かった事か。早く消えてくれ。

 Yさん来店。風邪のせいで体調がイマイチだそう。小胡子さん、BOOちゃん、三名様で来店。Oさん二名様で来店。体調のせいでしょうが、今日は三日ぶりの酒で、サルになるまえにタコになっていました。ドンチャン。記憶なし・・・・

ピースボート
9月29日月曜日晴れ ○

 今日は昼過ぎより銀行と本屋さん古本屋さんに出かける。古本屋さんでは「写真で知る韓国の独立運動」(李圭憲著 国書刊行会一九八八年刊)などを購入。
 昨日のスポーツセンターでの影響で、体中が痛い。

 今週号の週刊新潮にピースボートの記事が掲載されていました。内容はピースボートの客船の整備・設備不良によるトラブルに関する記事です。
以下引用

 「一人三〇〇万円以上支払って夫婦で参加したのですが、様々なトラブルのおかげで、結局、帰港したのは予定よりも一〇日も遅れた九月四日だったのです」と不満をぶちまけるのは、元会社役員の國枝金司さん(七〇)である。
 「乗船するといきなり、廊下のカーペットを張り替えている工事の人がいた。そのまま出航しましたが、要は最初から不完全な状態のままだった。大丈夫かなあと不安な思いで部屋に入ると、案の定、設備が不備だらけ。水漏れが酷く、ユニットバスでも漏れているからトイレットペーパーもビチョヒチョで使い物にならない。おまけに、エアコンのダクトからホコリが舞い出るし、シャワーを使うとお湯が突然、水になるノ。挙げればキリがないほど酷い状態でした」
 すぐさま担当者に苦情を言うべくレセプションに駆け込むと、すでに同様の客が大勢詰め掛けていた。 
 「他にも、トイレが流れない、エアコンが壊れている、部屋に鍵がない、二段ベッドなのにハシゴがついていないし手すりもないので落下した等々、トラブルだらけ。エアコンの不調で風邪を引く人が続出し、ピーク時には、食事の際に食堂にいた半分くらいがマスクをしていたほどです。中には、風邪が酷くなって、ヨルダンで泣く泣く旅を断念して帰国した人もいました」
(中略)
 ある会社経営者の女性(六二)も、こう憤慨する。
 「デッキの板が腐っているのか、歩くとブヨブヨする。部屋の蛇口からは茶色い水が出るし、バーで出る飲料水も濁っている。それを飲んで下痢する人も多かったです。何より唖然としたのは、避難訓練をした際、救命胴衣のベルトが壊れていたり、用具の部品がなかったりしたこと。あんな状態でもし事故が起きていたらどうなったのかと思うとゾッとしますよ」

 トラブルは、その後も続出した。再び國枝さんの話。
 「五月三一日、突然、4基あるエンジンの一基が故障したと発表されました。お陰で次の寄港地への到着が遅れ、一日滞在の予定がわずか三時間程度。七月一三日にはニューヨークに帰港し、二日滞在の予定でしたが、当日になって今日は出港しないと言う。 説明を求めてもメ分からないモというだけ。翌日も翌々日も同じ。出港するかもしれないから夕方には船に戻らなければならず、ただ外出したというだけでした。そうこうしていると、メUSCGというロゴ入りの服を着たアメリカ人が何人も入ってきた。実は、米国の沿岸警備隊でした。何と、船底に亀裂が入っていて、他にも防火装置や救命ボートの破損など六〇ヵ所以上もの安全上の問題があると指摘されていたのです」
(中略)
 六〇代の元会社員の男性もこう怒りをぶつける。
 「ニューヨークの一件のため、ベネズエラ行きは中止。さらにフロリダでも、ドッグで修理するから二日滞在と言ったのに一週間に延びた。アラスカでも予定外に寄港。何より私が頭にきたのは、ピースボートも旅行社もその都度、謝罪やお詫びがまるでないのです。しかも、フロリダで旅行社の社長が説明した際は、お詫びどころかいきなり弁護士が契約約款を読み上げ、メ旅行会社には何の責任もありません。船の問題ですからモと言い放ったのです。社長自身も自分らに非はないの一点張りで、話し合いさえも拒絶する始末です」

ソース(週刊新潮 一〇月二日号 p五四〜五五)

 記事の中で、ピースボート共同代表の野平晋作氏が「乗客の皆様に御迷惑をかけ、誠に遺憾に思っております。現在、船会社に抗議と今後の改善を強く求めております」と言っているのに、ピースボートのホームページにあったその六二回クルーズレポートにはそのような事は一切触れていない。
http://www.peaceboat.org/cruise/62nd/index.html
http://www.peaceboat.org/cruise/62nd/sitemap.html

<五月三一日、突然、4基あるエンジンの一基が故障したと発表されました。お陰で次の寄港地への到着が遅れ、一日滞在の予定がわずか三時間程度。>
 この五月三一日のエンジントラブルについては当日のレポートには何も書かれていない。
http://www.peaceboat.org/cruise/62nd/lob/14.html

<七月一三日にはニューヨークに帰港し、二日滞在の予定でしたが、当日になって今日は出港しないと言う。 説明を求めてもメ分からないモというだけ。翌日も翌々日も同じ。
略)
USCGというロゴ入りの服を着たアメリカ人が何人も入ってきた。実は、米国の沿岸警備隊でした。何と、
船底に亀裂が入っていて、他にも防火装置や救命ボートの破損など六〇ヵ所以上もの安全上の問題があると指摘されていたのです>
 この記事にあったニューヨークでのトラブルについては、一切触れられていない。
『ニューヨーク(米国)寄港(1)』 7月13日(日)〜16日(水)
http://www.peaceboat.org/cruise/62nd/lob/41.html
『ニューヨーク(米国)寄港(2)
 「PEOPLE BUILDING PEADE」』7月13日(日)
http://www.peaceboat.org/cruise/62nd/lob/42.html
そしていきなり七月一七日のレポートとなる
『ラテンアメリカに捧げた42年』7月17日(木)/サウスパシフィックラウンジ
http://www.peaceboat.org/cruise/62nd/lob/43.html

 修理のために寄港したフロリダのリポートでは
『タンパ(米国)寄港(1)/ケネディ宇宙センター』
7月21日(月)〜28日(月)
 急きょ寄港した米国タンパ港。まずは、ケネディ宇宙センターへの訪問レポートから。入り口の「NASA」の看板にも、わくわくさせられます。
http://www.peaceboat.org/cruise/62nd/lob/46.html
と一切修理にかんするレポートはなし。

 そして、驚く事に、この同じボロ船ですでに九月七日に第六三回クルーズに出港していることです。九月四日に帰港してたった三日間で、問題点がすべて改善されたのでしょうか。もし、改善されないで出航したのであれば、大きな問題ではないでしょうか。

 そして、この船の中で行われていたのはあの中帰連メンバーのひとりによる洗脳講座などです。
『三光作戦と撫順管理所の奇跡』
9月11日(木)/マイフェアレディラウンジ 企画:水先案内人、板倉清さ
ん http://www.peaceboat.org/cruise/63rd/lob/05.html
 
 また、お約束の在日朝鮮人による講座も行われているようです。
『日本+アイヌ+在日=JAPAN』
8月14日(木)/サウスパシフィックラウンジ
企画:水先案内人、酒井美直さん+チームブルー
http://www.peaceboat.org/cruise/62nd/lob/65.html

 「日本+アイヌ+在日=JAPAN」というこのような書き方だと、まるで、我が国は日本人と在日朝鮮人で構成されているような書き方です。我が国は日本人以外は朝鮮人しか外国人が在住しているわけではありません。このような表現の仕方をしたら、大騒ぎするのはこの人たちではないでしょうか。

9月28日日曜日くもり一時小雨○
 今日の新聞に、大相撲の安馬が負けたコメントとして「手をつかずに立ったので、止められると思った」と言っていたのには笑った。普段から手をつかない立ち会いが多いなんとも安馬らしい呆れたコメント。

店を片付けてから久しぶりにスポーツセンターに行く。今月は結局四回しかスポーツセンターに行けず。
 店に寄って、ゴミを出してから帰る。

9月27日土曜日晴れ ×
 Cさん二名様で来店。Oさん来店。初めてのお客様二名様で来店。早大棒術会の中島さん大勢様で来店。部屋を片付けていたら昭和六二年度の棒術会の手書き名簿がでてきて持ってきていたので見せたら、その時の主将である矢カ部さんも来ていて大受け。
ドンチャン。記憶は今日はあり。サルよりまし。
 

9月26日金曜日くもり一時小雨 ×
 バンブーさん来店。相撲観戦帰りというアンナさん、まゆなさん来店。岡部ちゃん来店。二名様来店。Iさん二名様で来店。Tさん二名様で来店。Kさん来店。ドンチャン。記憶なし。

9月25日木曜日晴れ× 
 西村眞悟氏が改革クラブに加わったというニュースがありました。私は、てっきり平沼氏が新党を立ち上げ、西村氏はそれに合流すると思っていました。
 
 しみずさん来店。小胡子さん、BOOちゃん来店。Kくん四名様で来店。マロさん来店。ドンチャン。記憶無し。

林えいだい
9月24日水曜日晴れ △

 林えいだい氏はノンフィクション作家という肩書きですが、過去に朝鮮関係で、朝鮮人の嘘をそのまま掲載したフィクションとしかいえない本を多く書いています。
 たとえば、林氏の著書である「朝鮮海峡」(明石書店 一九八八年刊)には下記のようなでたらめな記述が溢れています。
三浦兄弟の仕打ちに反対して面事務所(村役場)に訴えると、日本人の面長は怒って巡査を呼んで全員に暴行を加えた。>P二〇
その当時はどんな小さい面でも面長は日本人、そして巡査、校長も日本人で占められ、行政から教育の面に至まで徹底した植民地支配が行われた>p三三
 当時、日本の村長にあたる面長、その上の郡守は原則朝鮮人である。警官も半数近くが朝鮮人である。
参考
朝鮮半島において、日本人より偉かった朝鮮人

 いわゆる三・一暴動についても
驚いた総督府と日本政府で、軍隊と警察を総動員して民衆の鎮圧に乗り出した。武器などを持たない民衆は、無差別に発砲する軍隊の銃弾に弊れ、警官のサーベルに蹂躙された。>p二七
「三・一独立運動の時、ここで大勢の人が首吊りされたところだよ。手足を縛られて、そこを日本の兵隊が来て機関銃で銃殺したんだ。その銃声が聞こえるたびに、わしは両手で耳を塞いだものだ。」>p二八
 我が国はこの三・一暴動においてさえ、公平な裁判を行っている。
参考
講談社による三・一運動の描き方
三・一暴動について
「水源郡堤岩里教会事件」の真相

 先日、週刊ポスト(平成二〇年一〇月三日号)において、コメントを寄せていましたが、このような程度の歴史認識しか無いというか偏った歴史認識の林氏が、ノンフィクション作家として生きていけ、またその程度の男のコメントを掲載する日本の腐れマスコミ。

 店が開店してすぐに、ナベちゃん、王ちゃんとニコニコ来店。王ちゃんは最近ゴルフにハマっているそうな。ゴルフは私は今後もやることないでしょう。小胡子さん二名様で来店。先日、小胡子さんからいただいた「雨後の月 月光」(山田錦・千本錦 四〇%)を開けていただく。
 今日はヒマ。さっさと寝る。


9月23日火曜日晴れ○
 今の所に住んで結構な年月が過ぎているのに、いつも総会が週末の夜とかが多く、参加する機会に恵まれず、今回、初めてマンションの総会に出席させていただく。
 午前一〇時開会〜一二時閉会の予定が一四時前に閉会。今回参加し、理事長、その他建物内にお住まいの方だけでなく、管理会社の担当の方と直接話しをさせていただくなど、今回はいろいろと面白くありがたかった。
 私の部屋がある建物の近所にも猫が結構多く、それによるトラブルもあるようで、元々、今のマンションの建物内での犬猫の飼育は禁止なのだが、今回の総会で敷地内での餌付けの禁止も明文化され追加されることとなった。

 その後は、食事がてらに出かける。古本屋さんに寄るとこれまた偶然に、探していた福岡良男氏の著書「軍医のみた大東亜戦争」(暁印書館刊)があり購入。福岡氏のお名前は三年前に元インドネシア残留日本兵の皆様の会である「福祉友の会」が出版された「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声」(福祉友の会・200号「月報」抜粋集)に掲載されていた「巡回医療で知った堀内豊明海軍中佐の善政と民族意識」と題された文によってです。その他に「毎日新聞秘蔵 シリーズ二〇世紀の記憶 不許可写真1・2」などを購入。

週刊ポストの記事より
9月22日月曜日雨のちくもり○

 週刊ポスト(平成二〇年一〇月三日号)において、「麻生太郎の『部落差別発言』『強制労働』という問われる過去」という記事が掲載されていました。部落差別については野中広務氏と麻生氏の事が書かれていて、朝鮮人強制連行については、林えいだい氏のコメントが他の方のコメントとともに掲載されている。
 林えいだい氏については、別の機会に、手元にある林氏の著書よりの引用などをもとにして、問題点などを指摘したく思います。
 今回のこの記事において、ライターか小学館社員かわかりませんが、下記のように書いています。
<ご承知のように日本国内では、強制連行の有無については専門家の間でも議論が分かれるところだが、韓国メディアでは、麻生氏の首相就任が有力になると、麻生家の炭坑経営を問題視する報道が増えている。
 略)
 無論、幼かった麻生氏に責任があるというつもりはない。ただこの事が、日韓、日朝関係に新たな火種になる可能性があるわけで、ましてや首相となるのであれば、国益のために歴史認識を披瀝し理解を求める姿勢が必要となるはずだ。
 しかし、麻生氏は「創氏改名は朝鮮の人たちが『苗字をくれ』といった」「ハングル文字は日本人が教えた」といった相手国民の感情を逆なでする発言で批判を浴びる一方、麻生炭坑の強制労働問題について本誌が問うと、「日韓基本条約などで、法的な決着はついており、私的決済は必要ないことで合意を結んでいる」(麻生事務所)と、建前論に終始している。
 麻生事務所はこうも話した。
「ご指摘の件が起きた時、麻生は主体的に知る立場にありませんでした。その後、会社の経営を引き継いだとしても、どこまで責任を負うべきか簡単に答えが出せる問題ではありません」
 簡単に答えが出せる問題ではないからこそ、こじれたときの災いの根は深くなる。そこから逃げているかぎり、麻生氏の「過去」と「宰相の器」とが、問われているのである。>
「週刊ポスト」(平成二〇年一〇月三日号)p二九

  このポストの記者は、<「議員の資格なし」の声も>、<社史に残る「強制ですよ」>と小見出しを書き、<「創氏改名は朝鮮の人たちが『苗字をくれ』といった」「ハングル文字は日本人が教えた」といった相手国民の感情を逆なでする発言で批判を浴びる>と記事内容を書いているが、麻生氏の発言内容が事実ではないとでもいうのだろうか。朝鮮人がいやがる事は真実でも言ってはいけないと言いたいのだろうか。
 創氏改名については
創氏改名の誤解
創氏改名とは
朴一の著書に見る創氏改名
ハングルについては
ハングルは日本が普及させた
どこに麻生氏の発言に誤りがあるのであろうか。

まるで、先日引退を表明した売国奴の河野洋平氏のように、嘘でも何でも支那、朝鮮の言うままになっているのが、よい政治家だとでも言いたげである。

 麻生総理実現を阻止するために一生懸命前回も動いた野中氏ですが、今回の記事にも掲載されている麻生氏の発言に対しても下記のような記述が手元の雑誌に掲載されています。
<神田(全国紙政治部記者=仮名)かつて自民党総務会で、野中広務が、「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言した麻生太郎を吊るし上げたことがある。でも当時はまだ奥野誠亮がいて、
「野中くん、きみは若いから知らないかもしれないが、麻生君が言うことは100%正解だよ。朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。判子をついたのは内務官僚、この私なんだ」と言ったら、野中はそこで中座して出ていってしまった。
横で聞いていた野呂田芳成が、「いや、奥野先生、今日はホントにいい話を聞かせていただきました」と。奥野のような本当の保守政治家がいなくなったことが残念でならないね。
 大門(月刊誌編集者=仮名)自民党の実力者にのし上がった野中の歴史観は旧社会党と変わらない。
 神田 そうですね。野中は京都の蜷川虎造府政を潰した経験が原体験になっていて、そのとき野中は共産党を潰すために、闇社会から極左集団、朝鮮総連を含めた大連合軍をつくったと言われている。
 だから自社連立は、野中にとっては至極当たり前で、原体験にしたがった動きだったと思います。しかも、思想は左翼だけれど、手法としては、目的のためにあらゆる勢力と連立を組む柔軟性がある。>
「別冊正論Extra.01」 「永田町に巣くう媚中政治家たちの呆れた言動」〈覆面座談会〉全国紙政治部記者・月刊誌編集者・週刊誌記者 より P一六五〜一六六

 今日は朝まで時間を気にしなくて、ゴロゴロしながら本を読んだりしながら、一日中部屋にいた。

松の司の会
9月21日日曜日くもり一時大雨 ×

 昨日の酒が残ったまま「松の司」の飲んべえの会に突入。多くの方に御参加いただく。デジカメでの撮影を忘れる。気がついた時には、酔狂師さん、Sくんなど多くの方がお帰りになった後。
 結局、六時に終わる予定が、それなりの時間。

淡路から
9月20日土曜日晴れ ×××××

 開店早々に赤城神社のお祭り帰りというIさん御夫妻がチビちゃんを連れて「一杯だけね」と来店。赤城神社のお祭りは悲惨なものだそうです。私の町内会のおつき合いということで、氏子会費や酒を奉納させていただいたが、ほんとは神様を神様と思わないようにしかとれない宮司の神社など詣りたくもない。

 初めてのお客様二名様来店。初めてのお客様二名様来店。横浜よりNさん御夫妻来店。大台さん二名様で来店。野球観戦帰りという二名様来店。昨日につづきOさん御夫妻来店。偶然、来店いただいた野球観戦帰りという二名様というのは淡路島の方。そして、女性の方の出身校ははなんと私と同じ洲本実業。もちろん卒業年は全然違いますけど。私が卒業した年には彼女は生まれてもいない。そして、中学の教師をしている私の同級生も知っているそうで、マエタツと言われて人気があったそうな。そういうわけで、いなかの話で大盛り上がり。淡路島でまた飲みましょうということに。当然、今日もドンチャンで、朝までそのままカウンターで寝ていた。大ヨッパライなれど最後まで記憶はあったように思ったが、朝、洗い物をしようとしたら全部洗ってあった。おまけに包丁まで研いであったし。洗った記憶は全然無い。ましてや包丁まで・・・やっぱサル・・・・・・・・


松の司
9月19日金曜日くもり一時雨 

 松の司の蔵元である松瀬社長より、今度の「飲んべえの会」用にとお酒が二本いただく。
 「松の司 大吟醸純米 二〇〇四年」(山田錦四〇%精米)
 「松の司 大吟醸純米 special 二〇〇五年」(山田錦四〇%精米)

これで、出品予定酒は
 NO.1 平成20年 松の司 鑑評会出品酒(大吟醸)
 NO.2 平成19年 松の司 大吟醸 斗びん取り
 NO.3 平成20年 松の司 大吟醸純米 黒

 NO.4 平成20年 松の司 大吟醸 雄町   
 NO.5 平成16年 松の司 大吟醸 愛山  
 NO.6 平成20年 松の司 純米吟醸AZOLLA (アゾラ)
  
 NO.7 平成20年 松の司 純米吟醸 渡船
 NO.8 平成20年 松の司 大吟醸 35% classic seizaburou seto
 NO.9 平成20年 松の司 大吟醸純米 二〇〇四年」(山田錦四〇%精米)
 NO.10 平成20年 松の司 大吟醸純米 special 二〇〇五年(山田錦四〇%精米)
 と、豪勢なラインナップ。そして随分な量。


 今日は世間一般は金曜日でさぞかし忙しいだろうに、当店はヒマ。遅い時間になってから、Kくん、Nさん、Nさんの三名様来店。Yさん来店。Oさん御夫妻、三名様で来店。
 結局、今日もドンチャン。Kくんからラーメンを食いに行こうと誘われ、Nさん、Yさん共々深夜にラーメン屋さんへ。健康には絶対悪いだろう。そこでもビールをグビグ
ビ。今日は記憶あり。めずらしい。

知らなかった。
9月18日木曜日くもり一時雨 ×××××

 河岸に「山ブドウ」があったので購入。一・五キロで一五〇〇円。山形産だそうな。
 ところで、今年の四月三〇日から自分で漬けた梅酒などを、開始申請すれば営業場内でお客様に飲用として出す事ができるようになったということを、今日、国税局のホームページを見ていて初めて知る。
http://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/qa/06/33.htm 

 漬けてはいけない物は変わらないようです。
<1 米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん又はこれらのこうじ
2 
ぶどう(やまぶどうを含みます。)
3 アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料又は酒類のかす>

 初めてのお客様二名様来店。同じく初めてのお客様二名様来店。副店長さん、大台さん来店。Tさん来店。
 営業終了後、「エムズバー」さんに伺う。
 大ヨッパライで、記憶無し。サル・・・・・・・・

9月17日水曜日晴れのち遅く小雨 ×
 初めてのお客様二名様来店。Oさん三名様で来店。小胡子さん、BOOちゃん三名様で来店。HISAEさん二名様で来店。
 ドンチャン。

尹奉吉と森一敏(社民党)金沢市議会議員
9月16日火曜日小雨のち晴れ ×

 朝鮮人テロリスト尹奉吉については、金沢市の議員で頭が腐っている人はまだ健在なようで、金沢市議会議員の森一敏(社民党)議員はご自身のホームページで、
下記のようにこの朝鮮人テロリストへの心酔ぶりを書いています。
http://www.kazutosi.jp/sigikai/izen/kankokuhomon.html
はじめての韓国訪問記
以下森氏のホームページよりの引用です。
訪韓の主な目的は、金沢市の野田山に眠る抗日運動の英雄ユン・ボンギル(尹奉吉)義士の生地礼山郡で、彼が創始した農村自立復興団体月進会と交流することだった。併せて、板門店の視察、植民地時代の日本帝国主義の罪業を告発する紀年館を参観すること、略)
 参加者は、団長に、
ユン・ボンギルの顕彰と史跡保存に90年代初頭金沢市の協力を引き出した平田誠一金沢市議、通訳兼添乗は、ユン・ボンギルの歴史発掘と顕彰運動に生涯を賭けてきたパク・インジョさん、宮下登詩子県議、浅野俊二羽咋市議、古河尚訓松任市議そして私の6人である。
社民党や市民グループがとりくんできたユン・ボンギルを通じた交流共同事業は、その土台を築くものとして新しい意義を持った。私も、議員としてその列に加わりたい。ついにチャンスがやってきたと心が踊った。
 
北朝鮮の脅威については
半島は終戦しておらず、米韓軍と北朝鮮軍が38度の軍事境界線を挟んで対峙している状況であることはまちがいない。しかし、有事法制論議で言われた「北朝鮮の脅威」とはこういうものだったのか。一同同じ思いを抱いたのが正直なところである。韓国内では、金大中以来の太陽政策が支持され、平和的統一とそれに向かう南北交流が促進されているという。日本の人々の意識とのギャップは大きい。

 赤い大統領盧武鉉は昨年、北朝鮮への二〇〇〇億円もの援助をしていましたが、今の李明博大統領になり、それが停止しています。南朝鮮の金大中、盧武鉉と続いた親北政権による太陽政策といわれる北朝鮮に対しての盲信的援助が何の役にも立たず、金正日政権の延命にしかならなかったことは明白です。
 

(2)李熙子さんとの再会と「太平洋戦争被害者補償推進協議会事務局との交流」として、
 <
「イラク派兵反対運動にももちろん関わっている。韓国世論では半々である。日本では世論はどうか。民主党と自由党が合併し、衆議院選挙があると聞いている。日本の自衛隊はアジア最大の軍事力だ。憲法9条の改正はアジアの緊張を高める。中国を刺激する。北朝鮮に対しては、経済が苦しく、軍も弱小で、韓国民は誰も本気で北朝鮮軍が韓国に攻め入ってくるとは考えていない。むしろ、離散家族の行き来が活発になるなど人々の交流は進んでいる。最大の脅威はアメリカ軍との認識が拡がり、多くの若者は反米軍基地のたたかいに参加している。2005年は1905年の対日不平等条約押しつけから100周年、植民地支配の責任を経済援助で帳消しにした韓日条約締結(1965年)から40年に当たる。韓日間で文化交流のイヴェントをしたい。民間交流こそが平和友好を創る。」
 
一同大いに共感し、今後の交流を約束しながら分かれた。李熙子さんとのおつきあいはこれからも続く。
 李熙子氏とは朝鮮人遺族が分祀を求めている靖国訴訟の朝鮮人原告のひとりです。神様として祀られているのだから騒ぐ事も無いと思うのだが。
 ところで、まだ位牌を返せとか言っているのだろうか・・・・
しかし、<最大の脅威はアメリカ軍との認識が拡がり、多くの若者は反米軍基地のたたかいに参加している。2005年は1905年の対日不平等条約押しつけから100周年、植民地支配の責任を経済援助で帳消しにした韓日条約締結(1965年)から40年に当たる。>に大いに共感ってすごいです。朝鮮が我が国との併合、そして日韓条約締結とともに、当時、我が国の外貨準備高が一八億ドルの時に、国家予算が三・五億ドルの南朝鮮に対して、当時三億ドルもの無賞金、二億ドルもの円有償金、そして、三億ドル以上の民間借款がなくて、今の南朝鮮があると思っているのであろうか。
 

西大門刑務所歴史館見学では 
 <
旧日本統治下、主に抗日運動の政治犯を収容する監獄であった西大門刑務所跡の歴史館だった。監視するために放射状に配置された獄舎は、レンガ積みの堅牢なもので、当時行われていた苛烈な拷問や取り調べの状況を人形、ドラマ映像などで再現している。韓国民衆は植民地となることを歓迎していたかのような発言を耳にすることがあるが、あらゆる醜い拷問は、統治した日本の側がいかに韓国民衆の抗日運動を恐れ、憎悪し、敵視していたかがよく分かる。それは、日本の統治が強要するものであったことの裏返しであり、何よりの証左である。認めたくない人には、韓国を訪れ、歴史館や独立記念館を見学し、韓国の人々と直接対話することを奨めたい。
 朝鮮の拷問の醜さは当時朝鮮について書いた外国人の文献でも証明されている。それを再現したものが、この展示である。つまり、李氏朝鮮時代のものを我が国との併合時代のものとして偽って展示しているのです。森氏はこれらの文献の記述内容を意図して遠ざけているのであろうか。

尹奉吉(ユン・ボンギル)墓所参拝として、
 <
向かって右から白貞基義士、尹奉吉義士、李奉昌義士(皇居桜田門事件実行)の墓標が並び、左端には墓石のない安重根の土饅頭がある。韓国で4大義士と並び称される抗日闘争の英雄たちの墓である。略)
 静かな墓所内で、我々は献花し、植民地支配の不当を想い、歴史の事実の継承と、戦後責任・補償の前進、そしてアジアの平和共存・共生への課題に思いを馳せた。

 テロリストしか英雄として祀られていない朝鮮。私は、朝鮮戦争の軍人が護国の英雄として祀られるべきだと思いますが、それどころか、親日法などという法律の対象になっています。

ソウル梅軒尹奉吉(ユン・ボンギル)義士記念館では
 <
義士と讃えられる韓国独立運動の英雄尹奉吉(ユン・ボンギル)が、韓国の歴史上いかに大きな存在であるかをこの記念館は知らしめてくれる。

(4)独立紀念館(記念館の間違いと思われる)では
 <
パクさんがユン・ボンギル顕揚会の名刺を駐車場管理人に提示すると、彼はいんぎんな態度で城内に招き入れ、館に横付けの駐車位置へと案内してくれた。ユン・ボンギルとパクさんの威力に一同敬服。
 略)
 意外なほど歴史が新しいのは、建設が日本での植民地支配の歴史歪曲の動きへの憤激がその動機になったからだと説明された。中国の抗日戦争紀念館や南京大虐殺紀念館建設と同様の建設経緯である。アジアにおける信頼されない日本の位置がここでも浮かび上がる。
 豪壮な資料館全体を参観するのは余りに時間が無く、日本語解説員の女性(名前はメモ漏れ)と駆け足で回った。印象に残る彼女の言葉は、日帝侵略館での「日本がいかに悪いことをしたか次々に展示していますが、罪行を暴くのが目的ではなく、事実を学び、未来の教訓としたいのです。どうか理解してください。」であった。
 ユン・ボンギルの時代、つまり1930年代の地下臨時政府の抗日運動の時代が近代韓国の再スタートであり、植民地支配で奪われた民族文化、誇りの回復により民族意識を高揚を目指し、苦難の抗日闘争を民族的団結・国家統合の根源とする歴史観が紀念館を貫徹している。

 支那の「南京大虐殺紀念館」といわれるものは、森氏とおなじ旧社会党時代に田辺誠などが建設資金から、設計まですべて提供し建設されたものだ。知らないのであれば、仕方ないが、知っていながら隠しているのであれば、不誠実きわまりない。

(3)尹奉吉祈念堂、生家、紀念館訪問
 <
夕暮れが迫る時間になっていたが、尹奉吉が生まれ、育ち、決起していく当時の空間を時間を隔てて共有している特別の感慨が湧いてくるのだった。
http://blog.goo.ne.jp/kazu3333m/e/e02140d4d00c408c37162b0fe1834680

 ここまで、心酔してくれれば、爆弾テロリストも本望だろうが、こんな日本人がいるとは、恥ずかしさを通り越してあきれるしかない。

第35回祭享、禮山郡平和友好訪問として、
 <
韓国独立運動の英雄ユン・ボンギル(尹奉吉)(初訪韓報告参照)生誕百年を記念する第35回祭享(さいりょう・祈念式典)に参加する韓国訪問から帰沢しました。
略)
 6年連続、6回目の禮山郡訪問で認識を新たにと言うか、確信を持つことが出来たことがありました。それは、尹奉吉義士のたった一人での抗日戦闘行為に、どんな意味が見いだせるのか、そして頭の片隅で考え続けてきた民族主義の象徴としての彼の存在をそこから解き放つ普遍性の獲得という問題についてでした。
 略) 
 蹂躙した側の日本でもまた、彼をテロリストと呼び(因みに上海爆弾事件での白川大将は戦死とされ、逮捕された尹奉吉は軍法会議で銃殺刑に処された。日本軍自身が戦闘行為と認定したことになる。)、民族主義に立った感情的な反応を示す向きも少なくありません。ですから、
あの植民地と軍事占領の時代に、民衆が世界の解放を求めて闘ったという意義付けを現代から未来に向けて見いだすことは重要なことではないでしょうか。もちろん、先駆的な憲法第9条をもつ私たちは、世界平和を獲得する方法を武力に求めないことを選択しました。今日にあっては、彼の時代の方法までを肯定するわけにはいきませんが、民族主義からインターナショナルな地平に尹奉吉の解放の理念を位置づけ直す認識作業が私たちにも求められていることを、他でもない尹奉吉義士の最大の顕彰者月進会会長からメッセージとして受け取ったことは大きな収穫でした。
http://blog.goo.ne.jp/kazu3333m/e/984e96e7e70247f489ef0138b94be6c7

 森氏はテロリストの碑を守るだけでなく、平成一二年(二〇〇〇年)に石川県の都市公園だった県護国神社の境内に建立された大東亜聖戦大碑の撤去を求める会を結成が翌年五月に結成しています。
 醜いものです。


 森氏は平成一六年六月の金沢市定例議会においての質問として、
4番目に、韓国独立運動の英雄、尹奉吉の殉国記念碑、暗葬の跡地が野田山に整備されて12年が経過しました。韓国ジョンジュ市訪問団も昨年、そしてつい先日と当地の訪問を熱望し、レセプションでは尹義士の話題に身を乗り出すほどでした。韓国自治体関係者、教育文化人、留学生、在日の方々を初め、日本人も含め、今日まで推計 7,000人が野田山を訪れていると聞きます。韓国の学校では必ず学習するというこの尹奉吉ゆかりの場所は、日本の中でここ金沢にしかなく、金沢市は韓国の人々にとり特別な存在となっております。ジョンジュ市との姉妹都市提携がきっかけとなり、これまで以上に韓国の政治、経済、学術文化各界との交流が盛んになるでしょう。尹奉吉ゆかりの野田山は、地方における日韓親善外交の要所となっていくに違いありません。
 先週末も尹奉吉生地の韓国禮山郡から議会副議長を初め14人の訪問団が金沢を訪れました。市当局の理解に感謝しつつも、現在は雨をしのいだり、腰をおろして懇談する場もない現地に対し、せめて休息のできる小屋の設置など史跡整備を懇請する声が上がりました。私も未来志向の日韓親善という大局からの市長の英断を期待しますが、いかがでしょうか。

と驚くべき質問をしています。
そして、今年の三月に「世界都市金沢の創造について」として下記のような議会質問をされています。
以下引用
 <
野田山のユン・ボンギル史跡を金沢と韓国、ひいては中国・アジアを結ぶ近代史の歴史的なかけはしとしてプロモーション事業に組み込み、情報発信するとともに、同史跡に資料館の性格を持たせ、野田山の拠点施設の一つとして再整備してはいかがか。>
という森氏の質問に対して、山出金沢市長は
<史跡を訪れる方々は、亡くなった人とのつながりの場として訪れていると思う。敬虔さ、静溢さを大切にしたい。したがって、観光プロモーションの手段にはしたくない。資料館整備は考えていないが、むしろ、日韓親善、世界平和の啓発に努力していきたい。

(金沢市議会ホームページ議事録より)
という至極まともな答えでした。


 亡くなった方を埋葬し、そのお墓などを後世の人間が荒らす事なく、保存するのは当たり前の事であるが、朝鮮人テロリストの尹奉吉の顕彰碑を建てる必要などあるとはとても思えません。
 同じ金沢市議の山野之義(ゆきよし)氏はご自身のホームページで
http://yamano4455.jugem.jp/?eid=543
<そのようなテロ行為を称えるような石碑が、金沢市が所有する墓地に建てられているのか。金沢市はテロリズムを肯定しているととられてしまうのではないか。
 私が先に述べたように、何人もの地元の墓守や市民の方が懸念している所以である。その不安、不満は、漠としたものであっても、行き着くところは、まさに、ここに尽きる。>
この朝鮮人テロリストの石碑について批判されています。

 私も、このような朝鮮人テロリストの顕彰碑が我が国に存在し、そして、それを守ろうとする日本人がいることが信じられません。
一刻でもはやく、このような朝鮮人テロリストの顕彰碑が撤去されることを望みます。

 相模原のKさん来店。四名様来店。初めてのお客様来店。江上さんにご紹介いただいたSさんご夫妻来店。K@京城さん来店。マロさん来店。Tさん来店。
 日曜日、月曜日と酒を飲まなかった反動でもないでしょうが、ドンチャン。気がついたら、カウンターで寝ていました。


北朝鮮による拉致への抗議集会
9月15日月曜日くもりのち一時小雨

 午後、古本屋さんに寄った後に、午後六時より星陵会館で開かれる「家族会、議連、救う会の三団体」による 緊急国民集会に参加させていただく。
 横田早紀江さんの「今、溺れている人がいる時に、何か用があるといって、助けない人はいない。今すぐ助ければ救える命がある」という言葉は重い。
 残された御家族が、北朝鮮にいる拉致された方への呼びかけを聞いていたら、涙が出てきて仕方がなかったが、御家族の方が、「長い間、助けられなくてごめんね」というのは間違っている。御家族の方には責任はない。この言葉は、国民を守る事ができなかっただけでなく、北朝鮮による拉致を長い間放置してきた政治家を含め、我々日本人すべてが言わなければいけない言葉であると思います。

 今日、日本政府が拉致被害者と認定していない「特定失踪者」のお一人について、具体的に北朝鮮で会った事があるという元北朝鮮工作員の証言があった。
 拉致議連幹事長である西村眞悟代議士は今月十一日に、平沼赳夫拉致議連会長とともに、「特定失踪者」のご家族のみなさんと面談され、我が国政府の意思と能力は、世界にある諸国のなかで最低の水準であるとして、御自身のメールマガジンで下記のように書かれている。
 
<昭和四十九年八月十五日に、北朝鮮工作員である在日韓国人文世光による韓国の朴大統領狙撃事件が起こった。日本政府は、この事件の三ヶ月前に韓国政府から日本国内にいる北朝鮮の対韓工作員の取り締まりを要請されておりながら何もしなかったのである。
 さらに、石川県警は昭和五十二年九月に能登半島から日本人を拉致した北朝鮮工作員を逮捕しており、日本政府は遅くとも同月末日には北朝鮮が組織的に日本人を拉致していることを知っていた。
 しかし、内閣は、日本人保護のための厳戒態勢を何らとろうとせずに漫然と過ごした。その結果、同年十一月十五日の新潟における十三歳の横田めぐみさん拉致をはじめとする日本人拉致が人知れず続くことになる。この時の内閣は、福田赳夫内閣、その総理大臣秘書官は今の総理である福田康夫氏。
 また、平成十四年十月に日本に帰国できた五名の被害者の内には日本政府が全く拉致被害者とは思ってもいなかった曽我ひとみさんが含まれていた。政府は、帰国した五名の被害者の内、一名を知らなかったのである。
 これらを総合すると、我が国歴代政府の国家主権を守り、国民を守ろうとする意思は極めて脆弱で最低に近く、その能力も乏しく、さらに国民の安否に関する情報収集能力にも極めて乏しいことが分かる。
 従って、この能力の乏しい政府が、えらそうに拉致被害者と「認定」する数の数十倍の被害者が存在すると思われ、事実、数百名の被害者の家族が救出を訴え出ているのである。
 しかし、政府の拉致被害者担当大臣は、未だ彼ら被害者に直接会おうとはしていない。その理由は、政府が、被害者と「認定」していないからである。
 政府は、自らの意思と能力の欠落を棚に上げて、「政府認定」の有無を金科玉条としている。
 略) 
 そして、全家族を覆っていたのは、前日の自民党総裁選挙立候補者のうちの誰一人として拉致被害者救出を訴えた者がいないという失望と落胆であった。
 平沼会長は、五人の総裁候補に拉致問題に言及するように伝えると応えられた。
 これらご家族の話を聞いていて、平沼会長も私もこみ上げてくるものを押さえきれなかった。>
(メールマガジン 西村眞悟の時事通信 涙して聞く特定失踪者家族の訴え No.373 平成20年 9月12日(金))より

 今日の集会においても平沼代議士が指摘されていたが、今の自民党総裁選で誰も拉致解決を言っている人はいない。そして、小沢民主党党首は「生活が第一」だそうである。

 一日でも早く拉致問題が解決するように、少しでも自分なりにできる事を。

 金正日のついては症状については長い時間かけて詳しく伝えながら、「拉致への抗議集会」については取材映像を流しながらも「今日、開かれた集会では」とかしか伝えない「N23」。校舎の窓ガラスが割られた事、三浦容疑者移送についての話題は報道するのに、「拉致への抗議集会」とは報道しないなんとも判りやすい腐れ番組。



9月14日日曜日くもり ○
 店を片付けた後、スポーツセンターに行く。今日は時間があるので、一通りのメニューを消化。芳林堂さんで「知られざるインド独立闘争」(A・M・ナイル著 風濤社刊)を購入。


9月13日土曜日晴れ ×
 今日、仕込みを終えて、店を片付けていたら、トイレの便器から水洩れを発見。並べてある酒瓶を落っことした人が何人かいらっしゃるが、小さなヒビが入って、随分前から少しずつ洩れていたのを私が今まで気がつかなかったようです。ちなみに、一番最初にカラ瓶を落っことして便器にヒビを二ケ所も入れたのはナナちゃんです。それも、二回も落っことした・・・・・

 初めてのお客様四名様来店。Oさんご夫妻来店。Y@横浜さん来店。

訂正
9月12日金曜日晴れ×

 「救う会全国協議会ニュース(2008.09.10-2)」によりますと、先日引用させていただきました「日朝国交正常化推進議員連盟」名簿に掲載されていた外山斎参議院議員は入会していないとのことです。訂正させていただきます。
 ちなみに、この議連は、民主党を中心に国民新党の議員も加わる「朝鮮半島問題研究会議員連盟」で、「北朝鮮との『交流の促進』によって拉致、核・ミサイル問題の解決や日朝国交正常化を目指」しています。

 西村眞悟代議士のメールマガジンで知りましたが、「家族会、議連、救う会の三団体」による 緊急国民集会が開かれるそうです。
 日時 平成二十年九月十五日(月、祝日)
    午後六時から八時
 場所 星陵会館大ホール(03−3581−5650)
    国会議事堂駅5番出口から徒歩5分
 司会 櫻井よしこ氏

 お一人でも多くの方が参加していただければと思います。

 「醴泉」社長の山田さんと電話にてお話させていただき、一一月の飲んべえの会は九日に開く事に決まりました。

 バンブーさん来店。二名様来店。Oさん三名様で来店。Oさん来店。二名様来店。大台さん来店。Kさん来店。チャリンコでYASUKOさん来店。
 ドンチャン。

9月11日木曜日くもり一時雨 △
 今週号の週刊新潮のB級重大ニュースに「幻の山ぶどう酒」が発売というのがありましたので、ネットで検索してみると北海道新聞の下記のようなニュースがありました。
以下引用
「幻の山ブドウ」と呼ばれる高品質の改良種「岩松」で醸造した赤ワインを、空知管内長沼町のワイン醸造会社「マオイワイナリー」(向井隆社長)が発売した。一本(七百二十ミリリットル)三万円(税抜き)と国産ワインとしては破格の値段だが、愛好家の間で話題となっている。
 「岩松」は、秋田県の鹿角市農業研究所元所長で、ブドウ研究家だった故・岩松清四郎さんが、国内や米国などの天然種四種類を交配して開発した。
 濃厚な味わいと濃い色合いが特徴だが、収量が少なく、搾汁効率も悪いため、現在は全国的にもほとんど栽培されておらず、幻の山ブドウと呼ばれる。
 向井社長は、岩松さんが亡くなった後、十年前に知人を通じて遺族からブドウの枝を譲り受け、自身の畑で挿し木で増やした。現在は三十アールで栽培し、昨年六十キロ収穫できたため、初めて醸造した。
 「岩松」を100%使ったワインは、名前もずばり「岩松」。やや辛口で酸味があり、山ブドウの濃厚な味わいが楽しめる。向井社長は「味はフランスの高級ワインにも劣らない」と、価格を三万円に設定。三十本限定で発売したところ、口コミなどで評判が広がり、これまでに七本が売れた。
 向井社長は「岩松を原料にしたワインを作っているのは全国でもここだけ。ぜひ試してほしい」と話す。問い合わせは同ワイナリー(電)0123・88・3704へ。

北海道新聞平成二〇年九月一日
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/115064.html

 私も一四〜五年ほど前に、山形のお客様が、お父様が造られた「山ブドウワイン」を店に持ってこられて、それを飲ませていただいた事があります。野生の山ブドウで仕込むために、ある程度の量の果汁を集めるのが大変だそうですが、二年ほどたったそのワインは濃厚で、バランスが良く、美味しかったことを覚えています。
 もちろん、密造酒です。(ちなみに、そのお父様は校長先生)

河岸から帰ってきて、当店の大家さんが育てている月下美人の蕾のひとつが、昨夜咲いてしまっていたのを発見。残りは今夜咲きそうということで、御来店頂いた小胡子供さん、Sさんにお伝えするとおふたりで酒を片手に御覧になったようです。その後はヒマ〜で、このままお終いかなと思っていたら、遅い時間に大台さん来店。

日本残酷写真史
9月10日水曜日晴れ ×

 先日、古本市で購入した「日本残酷写真史」(下川耿史著 作品社 二〇〇六年刊)を読む。この本に挟まれていたパンフレットには「写真は、日本人の残酷さを写し出してきた。」と書かれている。この本を読んで、気になるのはこのパンフレットにあるような著者の偏った考え方による文章です。
 <
つまり名称は日清戦争でも、狙いはあくまで朝鮮支配であった。だから戦場となったのも朝鮮半島がほとんどで、清国内で戦場になったのは朝鮮半島に隣接する遼東半島と、黄海をはさんで対岸にある山東半島のみにすぎない>P四八

 <
要するに「朝鮮支配」という日本の近代化の大命題はこういう形でスタートし、以後八〇年近く続くのである。それは必然的に見せしめとしての残虐行為を乱発させることにもなった。>P六〇

 我が国にとって、地政学的にも朝鮮が独立国として存在した方が、我が国の防衛、そしてアジアの安定からも、最も望ましいとして、当時の総理大臣である山縣有朋の明治二三年一二月六日の衆議院第一回通常会議における「利益線を保護すること」との演説にもあるように、我が国政府の一貫した姿勢です。

日清戦争から一〇年目の一九〇四年(明治三七年)二月、日本は、今度はロシアを相手に戦争を始めた。
 略)
 しかし、この戦争も朝鮮を抜きには語れないことを、いくついかの資料によって知る事ができた。そのポイントは二つある。第一に日本は日清戦争後、国家的命題である朝鮮支配をますます押し進めた。一方、ロシア側は満州の市場独占を図ってどんどん南下してきた。日本とすれば朝鮮支配を確立するためには、ロシアの圧迫を食い止める事がなんとしても必要だったのである。この見方に対しては、「いや、日本も満州の経済的利権を狙っていた」とか、「この頃、ロシアの侵略の意図はかなり露骨で、朝鮮から日本を排除することを目論んでいた」といった主張もあるようだが、それは政治史の論題であって、「われわれの内なる残酷さとは、どんなものか」という私のテーマからはずれるので、ここでは問題にしない。
>P六二

ところで残酷性という観点から日露戦争を見直すと、その特徴は日清戦争で見られたような、あるいは、のちの満州事変や日中戦争、太平洋戦争では当たり前のようになった虐殺行為が起こらなかった事である。
 略)
 日露戦争では、どうして虐殺が起こらなかったのか、その理由についてはいくつかのことが推測される。
略)
 虐殺しようにも相手がいなかったということもあるだろう。
 略)
 あまりにも戦死者が多いところから、戦闘を一時中止してお互いに友軍の遺体を収容した事が記録に残っているし、
略)
 つまり戦争中にタンマの時間が生じて敵味方の区別がなくなり、ただ死者を悼む感情だけが戦場に流れたのである。こういう状況下では、とうてい虐殺という気分にはなれないのだろう。
>P七〇

日本がロシアと対決したのは、アジアの心意気を示すためではなく、
 略)
 具体的には朝鮮を植民地化することを世界に認めさせるためだったからである。
>P七一

 そして、写真のキャプションの違いとして。
 
<処刑された人々。総督府は運動を徹底的に弾圧するため正規軍を投入。デモ隊に無差別発砲する事件が相次いだ。>
 「目録20世紀 1919」(講談社 平成一〇年)P三
<日本の警察によって公開処刑にされた、朝鮮の「抗日義兵」。逮捕するや裁判もなしに直ちに処刑した、とされている>P七二

 かたや大正八年(一九一九年)の「三・一暴動」(三・一運動と書いてますけど)の時の写真として掲載し、この本では、「写真で知る韓国の独立運動」(高柳俊男・池貞玉訳 国書刊行会 一九八八年)よりとして、日露戦争のころの話としています。
同じ写真なのに、この違いは何でしょう。


 また、著者は
三・一運動では一ヶ月で七九〇九人を殺害し、その中には京畿道水原郡で教会堂を焼き払って住民数十人を虐殺し、その痕跡を隠すため堤岩里という村全体を焼き払ったこともあった。教会堂の中にいたのはほとんどがキリスト教の信者だったので、アメリカやヨーロッパの宣教師に事件を知られるのを恐れたのである。>P一一二

 これについては、すでに
「宇都宮太郎大将の日記と朝日新聞」 、 「講談社にみる三・一運動の描き方」において、その犠牲者数、堤岩里協会事件の背景などについて書いております。少なくとも、この七九〇九人という犠牲者とされる数値について調べるとそのいい加減さに気づくはずです。

 また、「日中戦争と虐殺の広がり」というコーナーでは、<
中国人に対する虐殺を南京に限定して語る事ができるかどうかという点である。当時、従軍していた人々の手記や戦記を読むと、中国の他の戦場では虐殺や私刑は日常的に行われており、それだけで分厚な「虐殺辞典」ができるほどである>とまで書いて、
 それはあくまで<日本人の残酷さ、日本人が遭遇させられた悲惨さを、残された写真によって振り返るというのが目的の本書>P一七五
と書きながら、保護された朝鮮人慰安婦の写真、ナチスによるユダヤ人虐殺の写真、そして、我が国への米軍による無差別爆撃による写真、米軍のイラク人捕虜の虐待写真まで掲載しているのに、支那人による通州虐殺事件などには触れてもいない。

 今日は築地が休市で、午後よりスポーツセンターに一週間ぶりに出かける。
 Iさんが会社の人たちと釣りだったそうで、大漁ということで、いろいろな種類の魚を持っていらっしゃる。
 Iさんの和歌山の従兄弟さんも来店。Sさん来店。中島さん、棒術会の皆様来店。芍薬の蝶さん来店。マロさん来店。
ドンチャン。記憶あり。

テロリスト尹奉吉と翫正敏氏
9月9日火曜日晴れ △

 得意そうに手榴弾を持ち写っているアホな男の写真は、朝鮮人テロリストである尹奉吉です。この尹奉吉は一九三二年(昭和七年)四月二九の日天皇誕生日である天長節の日に、上海の日本人街の虹口公園で行われた祝賀式典会場に爆弾を投げ爆発させる事件を引き起こしたテロリストです。この尹奉吉のテロにより、当時の上海派遣軍司令官陸軍大将白川義則、上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次が殺害され、第三艦隊司令長官海軍中将野村吉三郎、第九師団長陸軍中将植田謙吉、上海駐在総領事村井倉松、上海駐在公使重光葵、上海日本人居留民団書記友野盛ら多数が重傷を負いました。ミズーリ艦上で行われた降伏式典で降伏文書に署名した当時の外相重光葵が杖をついているのはこのテロにより片足を失ったためです。
 尹奉吉は上海で死刑判決を受けたのち、上海派遣軍の主力部隊であった、金沢に司令部を置く、陸軍の第九師団であったため、金沢市に連行され、銃殺刑に処され野田山の陸軍墓地に埋葬されました。      
 そして、金沢市は朝鮮総連施設に固定資産税を一部減免しているだけでなく、その朝鮮人爆弾テロリストの尹奉吉の「尹奉吉義士殉国碑」という石碑を平成四(1992)年四月、埋葬跡地のすぐ近くに建てる事を許可しています。
 当時の翫(いとう)正敏社会党参議院議員(真宗大谷派正光寺住職)が保存会会長として、保存会まで生まれていますが、その規約の第四条に「一九三二年、日本が尹奉吉義士を暗葬したことは、朝鮮植民地支配に抗した上海天長事件の証拠隠滅と、歴史からの抹殺が目的であった。義士の足跡を残す事によって、暗葬の事実を明らかにするとともに、日本による侵略戦争の歴史を風化させず、後世に伝えるため・・」となっているそうで、「日本人が暗葬地を保存する意義」と題した挨拶では
<かって日本は韓国・中国をはじめとするアジア太平洋地域を侵略し、幾多の人々に言語に絶する堪え難い苦痛と苦しみをもたらしました。この過ちは深く反省しなければならず、決して繰り返してはなりません。特に一九一〇年の日韓併合は、四千年以上の歴史を有し、日本文化の直接の先輩ともいえる隣国を植民地としたという点で、世界にも例をみないほどのことです。>
<この暗葬地を日本人として保存することは、ユン・ボンギル(尹奉吉)から爆弾を投げられた日本人ひとりひとりの責任であると思います>
「日韓共鳴二千年史」(名越二荒之助編著 明成社)P三七七〜三七八より

 これについては、名越氏が同書で「事件を当時、国際的にも大きく取り上げているので、暗葬することにより証拠隠滅とか歴史からの抹殺をはかろうとしたという解釈は、こじつけも甚だしい」「上海事変が終息し、外交交渉に委ねている時に、政治テロをおこした事が許されるか」「我が国として、武士の情で、絞首刑ではなく銃殺としたことに本人も感謝している」「墓標も用意したが、金沢の朝鮮人部落の動きを警戒し暗葬にした」「一方的な反省では歴史は生きてこない」と反論されている。
 私も、この翫氏の「日韓併合は、四千年以上の歴史を有し、日本文化の直接の先輩ともいえる隣国を植民地としたという点で、世界にも例をみないほどのことです。」という歴史に対しての一方的な解釈ぶりには驚くしかない。
 ましてや、当時の朝鮮がどのような状態であったか。我が国が併合しなければどうなっていたか。その併合のおかげでどのように変わったか。また、戦後から現在まで多くの朝鮮人が我が国に密航までし、不法滞在、不法就労、売春、そして、殺人、窃盗など多くの犯罪まで犯している事に対してどのように思っているのでしょう。
 この翫正敏氏は「朝鮮民主主義人民共和国民衆に食糧を緊急支援する石川県民の会」を組織し、北朝鮮に米を送って北朝鮮政権を支える役目も担っています。

 日本のためにならない事だったらなんでもやる連中・・・・・

 初めてのお客様二名様来店。Kさん来店。同じく初めてのお客様二名様来店。
 今日も飲むが一通りだけ。

偽名を名乗りながら
9月8日月曜日晴れ ○
 在日朝鮮人以外は通名などという偽名で我が国にて生活している外国人はほとんどいません。
 それは、あの関口宏のテレビ番組に出演し偉そうに「喝」とか叫んでいる張本勳という偽名で日本で経済活動をしている在日朝鮮人も同じです。
以下引用
「国籍は紙一枚で変えることが可能だが、民族の血は変えることができない。私は韓国人だ。私は韓国人ということを忘れた事がない。」
略)
 しかし、「張勳」と言う名前の韓国人で生活することは多くの困難があった。在日韓国人に対する差別が極端だった60、70年代。ただ帰化しない朝鮮人という理由であらゆる蔑視と冷遇を受けたが、決して帰化という楽な道を選択せず、韓国人であることに誇りを持っていた。
引退後も解説者として活躍しながら日本野球界で、生きている神話と呼ばれている張勳。日本の地で在日韓国人として生きて行っても韓国人であることをただの一度も忘れなかった。
略)

 ニュース・エン(韓国語)在日韓国人野球選手張勳メ私は永遠な韓国人モ
http://www.newsen.com/news_view.php?uid=200808261425311001

その他にもインターネットで検索すると
略)
張勳の人生は、苦難と忍耐の連続だった。中学校の頃には『朝鮮人』と後ろ指をさされ、高校では在日韓国人だっ為にしばらく試合に出る事が出来なかった。
競技場に出ても、壁に書かれた『張勳を殺せ』と言う落書きを見なければならなかった。
鬱憤と怒りをバットに込めた。彼は、「私が打つホームランとヒットは、誇らしい我ら朝鮮同胞達を差別する、卑劣な日本人に対しての冷ややかな復讐だ」と語った。
張勳(67歳)が自叙伝の『日本に勝った韓国人』を発行した。日本のプロ野球を熱くした、彼の神話と野球、人生をドラマチックに描き出している。

略)
死闘だった。張勳の両親は故郷が韓国だったが、
第二次世界大戦中に日本に行き、張勳を生んだ。貧乏と妬み中で、野球は唯一の希望だった。怒りと鬱憤を蹴散らす事の出来る解放口だった。小学校5年生の頃に初めて野球に出会い、それ以降野球の魅力に惹かれた

『日本に勝った韓国人』は、野球少年の夢と現実、新人王と首位打者になるまでの苦難、名門ジャイアンツ入団、3,000本安打の記録など、幼少時代に火傷をして右手に障害を持っている人間が、どの様に苦痛と絶望を乗り越えて進んで行ったのかを感動的に見せる。
NAVER/メイル新聞(韓国語)

http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=088&article_id=0000076762

 こんな在日朝鮮人は張本勳という偽名で、日本で下記のような講演をして生活しています。

 
張本さんは「日本・韓国・在日を架ける野球人生」を演題に講演。「子どものころに事故に遭いい、(朝鮮人であるために)病院で包帯をぶつけられたが、母が懸命に看病してくれた」と切り出し、
「プロ野球に入っても右手指にハンディがあったからこそ、人一倍努力した」と、
数々の日本記録を打ち立てた裏での厳しい練習を振り返った。

さらに「人間が月に行く時代に区別や差別があってはならない。永住権はもらえたが、参政権は祖国にも日本にもない」と語気を強め、参政権問題を訴えた。

日本海新聞
http://www.nnn.co.jp/news/071104/20071104005.html
 
 ちなみに、根っからの犯罪者でありながら、民族座別を訴えていちやく朝鮮人の英雄となった金嬉老は、金嬉老と本名の権禧という二つの名前以外にも近藤安広、金岡安広、清水安広 と多くの通名という偽名を使っています。
 
「民族の誇り」などは張本勳をいう偽名で生活しながら、何を言っても説得力ゼロです。本当に民族の誇りがあるのであれば、どうして、他の外国の方々のように本当の名前で生活しないのでしょう。
 偽名で生活しながら「民族の誇り」などと言うのは、チャンチャラ可笑しいです。戯言以外の何ものでもありません。


 今日は午後より食事に出かけただけで、後は一日中部屋にてゴロゴロ。


「静岡県地酒祭り」へ
9月7日日曜日晴れのち一時雨 △

 午後より、竹橋にある如水会館で開かれる「静岡県地酒祭り」へ。
 会場ではわ。さん御夫妻、いそうろうさん御夫妻、Hさんを始め、多くのみなさんとお会いすることができました。会場で写した写真はヨッパラッテいなかったと思ったのですが、どれもピンボケ。
 一時からの会は今年も大勢の人が来場されていました。お料理が運ばれてくると、ピラニア状態で、本能丸出で醜さ全開の人が大勢。これには男女は関係ないという事がよくわかりました。
 終了時間前の三時過ぎに退場し、Sさん、マルガリータさん、豊田のマスターといっしょに「酒たまねぎや」にて軽く飲んでから解散。
 私は、みなさんと飲みに行く元気もなく、店を片付けた後はそのまま帰宅。

 写真は今日の月下美人のつぼみ。


 9月6日土曜日晴れ×××
 二名様来店。一名様来店。二名様来店。三名様来店。金チャンが教え子と来店。野球部のエースというその教え子は礼儀正しい。水で最後までおつき合い。調理人志望だそうで、経験を積んで、いずれは海外で働きたいそうな。
 金チャンと営業終了後にドンチャン。


石松へ
9月5日金曜日晴れ ×
 下記は、今日発売のフライデーに掲載されていた「池田大作氏の納税額の推移」です。すげ〜と思うかふ〜んと思うかは人それぞれでしょうが。

池田大作氏の納税額の推移
年度 納税額 四谷税務署内順位 都内順位 全国順位
1995年度 2億4109万円

4位

91位

185位

1996年度 2億1206万円

4位

106位

219位

1997年度 2億3751万円

4位

77位

155位

1998年度 1億7200万円

5位

133位

273位

1999年度 1億5396万円

5位

162位

318位

2000年度 1億1883万円

1位

258位

481位

2001年度 1億3616万円

2位

214位

428位

2002年度 1億1537万円

7位

285位

532位

2003年度 1億2774万円

4位

238位

435位

2004年度 1億2895万円

5位

245位

465位

 金曜日なのに予約も無く、ヒマかな〜と思っていたら、バンブーさん来店。Yさん三名様で来店。三名様来店。小胡子さん、BOOちゃんと来店。二名様来店。二名様来店。二名様来店。二名様来店。一名様来。店金ちゃん、マロさん来店。Kさん来店と大忙し。
 飲み始めも遅く、一二時頃から。でっ、営業終了後、Kさんと中野の石松さんでドンチャン。相変わらず、千客万来。


9月4日木曜日晴れのちくもり △
 河岸から帰ってきて、仕込みを終えてから早稲田にある新宿区役所榎町出張所まで住民票を取に行く。歩いて五〜六分でしょうか。
 出張所には新宿ニュースが英語、支那語、朝鮮語で出されていて、至れり尽くせり。そのまま、新宿スポーツセンターまで歩いて行く事にする。途中、早稲田の酒屋さんに寄って、ワインを見せてもらうが、おばちゃんの態度めちゃ悪し。二〇〇三年のラフィット・・・少し迷ったが、結局、買わずにその店を出る。増水時の調整池の建物がある公園を突っ切って、スポーツセンターまで神楽坂から寄り道をしながらでも約三〇分少々で着きました。
 ただ、おかげで、時間が少なく、今日もセット数はそれぞれ三セットのみ。



  オガピー、龍星さん来店。二名様来店。小胡子さん二名様で来店。Hさん、大台さん来店。二名様来店。Sさん二名様で来店。今日はテキーラを飲まれる。Iさん来店。お子さんの七五三は赤城神社にと思っていたそうですが、神様を踏み付けるようなマンションを建てるアホ宮司がいる神社ではやりたくないということで、迷っているそうな。ごもっとも。
 ドンチャン。記憶あり。

亀バック
9月3日水曜日晴れ ×

 福田首相は辞任表明をしたが、次の首相が決まるまでは、まだ我が国の首相つまり自衛隊の最高指揮官です。その最高指揮官が防衛省でおこなわれた自衛隊高級幹部会同を欠席したそうです。
 これは福田首相が国の安全、国民の安全というものをどう考えているかよくわかる事例ではないでしょうか。

 写真は先日、初亀の橋本社長が送ってくださった「亀袋(亀バック?)」。一升瓶がちょうど入る大きさで、使いやすく頑丈にできています。

 Nさん三名様で来店。三名様来店。Sさん四名様で来店。Bさん来店。Hさん来店。
 営業終了後、高円寺のイタリアンでドンチャン。珍しく記憶あり。


花の話題2つ
9月2日火曜日晴れ△

 土曜日にYさんの奥様からいただいたパーティでのお土産のバラですが、私の部屋にはどうも。かといって、このまま店においておいても開いてしまうので、帰る時に店の冷蔵庫に入れて帰ったら、開いてもいずに大丈夫でした。
 もう一つの写真は、日曜日に咲いてしまったであろう月下美人の新しい蕾。



 メチャヒマで、今日は今年二回目のオチャッピーかと思っていたら、遅い時間にSさんが二名様で来店。お連れさんは明日がテキーラパーティだそうで、Sさんはその前にうちの店でテキーラを飲ませたかったよう。御本人は酒ばかり飲んでましたが。まあ、当店で置いてあるテキーラは洒落ですので。

 こんなのどうでもいいことですけど、営業終了後に、産経新聞の阿比留瑠比記者の
「ブログ国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」を開いたら、福田首相が鰄年前に語っていた「辞め際」というものが書かれてあった。
 <総理大臣の場合は日本全体のリーダーですから、これは極めて重いものがあります。
そういう意味においてその、退陣の時期、決断をするって言うのは、大変重い決断だと思います。このことにですね、政治家は全てを賭けてもいいという風に思っているというところがありまして、これは自分の利益とか打算とかそういうことではこれは決断できない話でありまして、日本全体のリーダーシップとしてどうあるべきか、リーダーになる人はそのことは常日頃持っていなければいけない問題であると思います。>

 これがあの御仁の口から出たのですから、なんとも虚しい言葉です。

支那の日本人捕虜に対しての洗脳の実態
9月1日月曜日晴れのち一時小雨 ○

 <外国を侵略して千万単位の人々を直接・間接に殺し、その結果として原爆や大空襲で自国民の多数をも犠牲にした巨大な戦争犯罪。その責任者らを自らの手で裁かぬまま今なお権力の座におく無責任民族・破廉恥民族は世界に日本人だけである。旧日本陸軍将校・鵜野晋太郎氏は、そのようなかなしい日本にも良心的個人は存在することの証左を示した勇気ある真の「愛国者」といえよう。>
 これは本田勝一氏による本の帯に書かれた推薦文です。その本とは「菊と刀」(鵜野晋太郎著 谷沢書房一九八五年刊)ですが、本多氏が「真の愛国者」と絶賛する著者の鵜野氏は一九二〇年支那天津生まれ、一九四二年久留米第一陸軍士官学校卒業し、撫順戦犯監獄より一九五八年八月一九日出獄した人です。

 つまり、「延安レポート」にも書かれている典型的な支那共産党による対日プロパガンダや日本捕虜に対する"洗脳的教化”を受けたひとりです。
 リポートに書かれているように、優しく接し、教育し、一般の日本兵や日本人が戦争を遂行する指導部を憎悪し、「否定的な厭戦気分から積極的な反戦意識」を持つように教化した。後に支那側の九八人の日本兵捕虜に対し米側が行った「意識調査」では戦争や天皇制を否定する声が九割を超したほどである。

 この鵜野氏の著書にもその様子が書かれています。
<頬を熱いものが滂沱と流れ落ちた。K科長の温顔が涙でかすみ、ガッチリした手が私の手を握りしめて何度も強く握って下さった。その上、凶悪戦犯の私のために送別パーティを開いて下さった・・・・。一〇余年ぶりのウマ酒が奔流となって全身を駆け巡る・・・・。指導員、班長(下士官の看守)、軍医、看護婦、炊事長、理髪員の方々が入れ替わり立ち代わり、惜別と励ましの握手、握手、そして握手である。感激で頬がこわばり、涙が次から次へと溢れて来る。お礼をいいたくてもつまって声にならない・・・・。ただ心の中で叫ぶ・・・・。「済みませんでした・・・・。皆様の・・・・中国人民の・・・・毛主席の大恩は絶対に忘れません・・・・。これが戦犯に対する中国人民の心情なのか・・・・オレは一体何なのだ・・・・・オレは生きてる限り何をすべきか・・・中国人民は、被害者の方々はオレを憎まないのか・・・・。どうしてこんなに温かく遇するのか・・・」
略)
 長い獄中であげ膳、すえ膳の面倒をかけ、たたかれたことも、怒鳴られたこともなく、いつも笑っているような眼、カラリと明るい雰囲気のどこにも、いわゆる鬼のような看守といった影はなく、控えめに辛抱づよく、私が反抗し悪口をいっても、「戦犯を立ち直らさねば・・・」という思いをこめて、私のような鬼を温かく包み込んでくださったことを、ただ慚愧の念で想起するのである。>P二〜三

 すばらしいお言葉ですが、では、そのような大きな心をお持ちのはずの支那人が、戦後六〇年以上たった現在、支那の指導者が「日本には永遠に歴史問題を持ち出せ」「一〇〇年でも二〇〇年でも謝り続けさせろ」と言っているのはどうしてでしょう。
 そして、「日本人には何をしてもいい」と言っている支那人が多いのはどうしてでしょう。

 このような支那人にだまされ、その手先になって我が国で活動している戯けた売国奴も多いのです。
 アホな売国奴を知るネタにしかならない、こんなカスが書いた腐った本が定価三三〇〇円もするのです。古本屋さんでなければとてもアホらしくて買えません。

 今日はどこにも出かけずに一日中部屋でゴロゴロして終わる。
 夜、福田首相が辞任した事を夜遅くのニュースで知る。

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