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藤田幸久

(日本人のカス第二の岡崎トミ子)


民主党「藤田幸久」というカス

平成21年6月23日火曜日晴れ暑い ×

「2009年6月12日」の日付で、

「88歳の元麻生鉱業の捕虜が、豪州から来日  6月14日から21日まで、戦時中麻生鉱業で使役されていた元捕虜とその家族が豪英両国から来日されます。

 一行は、オーストラリアから3人、英国から1人で、14日夕刻到着し、戦時中抑留されていた福岡県飯塚市、長崎・神戸を訪ねる予定です。飯塚では、麻生本社も訪問、炭鉱跡などを見学する予定です。東京滞在中は、豪・英大使、参院議長、国会議員、市民団体との面談・懇談のほか、日本外国人特派員クラブでの会見も予定しています。麻生首相にも面談を申し入れてあります。

 私も、市民グループの皆さんと共に、捕虜の皆さんに同行します。」

と御自身のホームページ上に喜々として書いているのは、民主党の藤田幸久議員です。

http://www2.y-fujita.com/cgi-bin/index.php

 そして藤田議員は外人記者クラブにおいて下記のように述べています。

 (これも藤田議員のホームページに誇らしげに掲載されていたものの引用です。)

ジャパン・タイムズ(200927日)和訳

麻生鉱業捕虜たちは償いを求めるオーストラリア人たちは、殴打、飢え、衣類ではなくボロであったと証言

 第2次大戦中、麻生太郎首相の親族経営の会社で強制労働に従事させられた元連合軍捕虜たちは、ほんのわずかな食物と衣類で、非常に危険な状況におかれていたと語った。

 日本の民主党藤田幸久議員は、近頃3人の麻生鉱業で労働した豪捕虜たちを電話インタビューし、金曜午後、その会話記録を発表した。彼ら3人は麻生鉱業で労働した。彼らの受けた苦難を認め、謝るよう藤田氏は麻生氏に求めた。

略)

 記者会見に出席した専門家のひとりは、麻生鉱業では他の収容所と比較すると暴力事件は少なかったようだが、捕虜たちが労働した過酷な状況は、「強制労働」とみなされるべきだと説明した。

 藤田氏によれば、3人の退役軍人は、彼らが麻生鉱業で忍んだ苦難と、この炭鉱における捕虜労働をこれほど長期にわたり無視してきた事実にたいして謝罪を求める手紙を、麻生氏と日本政府に送る予定だという。労働に対してて受け取るべきだった賃金をも要求する計画とのこと。

 藤田氏もまた、麻生氏は元労働者たちにたいして遺憾の意と謝意を表すと同時に、労賃の支払いを証明できないのであれば、賃金をも支払うべきだと述べた。3人のオーストラリア人たちは豪政府からは補償を受けたが、日本からも麻生鉱業からは何も受けていないと述べている、と藤田氏は言う。

 藤田議員が提出した一連の質問に応えて、金曜日、政府は1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約に基づき、国際赤十字を通じて連合軍捕虜たちにたいし日本政府は償い金を支払ったと述べた。

「その支払いは、連合国の元捕虜が日本国の捕虜であった間に不当な苦難を被ったことに対する償いをする願望の表現として行ったものであって、労賃の支払ではない」と回答のなかで政府は述べ、その金は豪を含む14カ国に分配されたが、各国がどのように現金を配分したかは知らないと付け加えた。

 過去何度も麻生氏は連合国捕虜たちと麻生鉱業における待遇について質問を受けたが、幼い子どもであった彼は何が起こっていたかは覚えてはいないと回答するのを常とした。

「それ(麻生氏の言い分)に従えば、首相というものは彼の任期以前、そしてその後のいかなる出来事にも責任も負う必要がないことになります」と藤田氏は述べた。

「ある国を代表する一国の総理として、麻生氏は未来と同様、過去にも責任をとる必要があります。」

引用終わり

 そして、このホームページにはこの藤田議員が御先棒を担ぐことにより来日した元捕虜のプロフィールも書かれています。

その中の一人ジェームス・マクアナルティ(James McAnulty)氏のプロフィールは下記のようになっています。

以下引用

 福岡第26分所(麻生炭鉱)のイギリス人元捕虜・故パトリック・ジェームス・マクアナルティ(Patrick James McAnulty、1971年62歳で逝去)の息子。62歳。英国スコットランド在住。

 パトリックは英重巡洋艦「エクゼター」の一等機関兵。1942年3月艦は日本軍に撃沈され、救助されてセレベス島(現スラウェシ島)のマカッサルに送られ、半年余りを過ごす。同年10月に長崎県香焼島の福岡第2分所に移送、川南造船香焼造船所で使役される。1945年6月に福岡県桂川町の福岡第26分所に移送、麻生鉱業吉隈炭鉱で使役される。帰国後1971年に逝去。物心ついた6歳頃から、父の捕虜体験を毎週のように繰り返し聞かされた。多くは、過酷な労働、飢え、日本人による絶え間ない残虐行為についての話で、明らかにトラウマがあり、日本に関するあらゆるものを忌み嫌っていたが、庭仕事に没頭したり、体験を息子に語ることによって心の傷を癒していたように思う。今思えば、自分は父のカウンセラー役を務めていたように思うと語る。5月に麻生首相に手紙を送って謝罪と補償を求めている。

引用終わり

 このジェームス・マクアナルティ氏の父親である故パトリック・ジェームス・マクアナルティ氏が乗船していた英重巡洋艦「エクゼター」の艦名を覚えている方も多いと思います。

   <この「電」による救助活動によって助けられた元英海軍士官二人が、平成一六年六月現在、英国に御健在だそうで、現地で恵氏のインタビューに「日本海軍は偉大だった」(グレム・アレン元英海軍大尉)>

 これは私が恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」(草思社 平成十八年)を読ませていただき、それを基に書いたこのホームページ上にある「工藤俊作旧帝国海軍大佐」の中の一文です。

http://www.tamanegiya.com/kudoustunsaku.html

 この証言者であるアレン元英海軍大尉が乗艦していたのが、英国重巡洋艦「エクゼター」であり、大東亜戦争中、昭和十七年二月七日に始まった日本海戦以来、三十七年ぶりの我が国帝国海軍とのスラバヤ沖海戦において、三月一日に駆逐艦「電(いなづま)」に撃沈され、グレム・アレン元英海軍大尉を初め多くの乗組員がその駆逐艦「電」および「雷(いかづち)」に救助されます。

 これについて、恵氏はこの著書「敵兵を救助せよ」の「第六章スラバヤ沖海戦」においてその時の状況を書いています。

 以下の文章はこの恵氏の著書を基にしていますため、重複いたします記述が多いですが、いつ敵潜水艦に襲われるか判らない状況下において行われた我が国旧帝国海軍による「エクゼター」乗組員救出の場面です。

 

 二月二八日、スラバヤに帰投していた英国重巡洋艦「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、午後六時、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。

 北西側より重巡「足柄」「妙高」に、南東側から重巡「那智」「羽黒」に挟撃される格好となったのだ。しかも双方に二隻ずつ随伴している駆逐艦(「足柄」「妙高」側は「曙」「電」)、(「那智」「羽黒」側は駆逐艦「山風」「江風」)が猟犬のように連合軍艦隊に対し、魚雷線を挑むことになる。

午後一二時三五分、「電」は距離一五〇〇〇メートルに接近、十二・五センチ主砲の砲撃を開始した。攻撃は、指揮官旗を翻す「エクゼター」に集中した。砲弾はボイラー室に命中し、さしもの歴戦の巡洋艦も航行不能に陥った。

 午後一時一〇分、高木司令官より「撃ち方止め!」の号令が下され、艦長オリバー・ゴードン大佐に対し降伏を勧告する信号が発せられた。

 しかし、「エクゼター」は降伏せず、自沈作業を開始した。

 この海戦で、「足柄」は主砲を合計千百七十一発発射し、「那智」と「羽黒」は二百八十八発発射している。とくに後者二艦の残弾はゼロとなっていた。

   やがてマストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げ、僚艦に自艦を見捨てるよう指令した。

 原因は後に述べるが、ここで信じられない光景が発生した。

「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。

   午後一時三〇分、「電」が接近して魚雷二発を発射、間もなく「エクゼター」は右舷に傾き、艦尾から沈んでいった。

 駆逐艦「雷」の当時の状況を、師範徴兵一期で一番砲砲手として同艦に乗艦していた岡田正明氏(平成十八年現在八十四歳、騎西町立騎西小学校校長、教育委員会教育長歴任。平成十三年十二月八日に、手記『海の戦記(抄)』自費出版)の証言として、海軍時代の最高の思い出はこの「沈み行く敵艦に対し敬礼」の号令が下されたシーンであったと語っている。

そして、「日本海軍に、武士道を見た」とさえ強調している。

 岡田氏の回想を紹介する。

「一三一〇(午後一時三十分)砲撃は止んだ。一〇一発の連続猛射で砲身の塗料はげ落ちている。汗びっしょりのまま上甲板に出る。約一時間にわたる砲撃戦により戦闘能力を失った英国重巡洋艦『エクゼター』が灰色の巨体を横たえている。機関室や缶室に命中したらしい」

 「本艦による魚雷発射は一条、二条、白い航跡を残して一直線に進む。物凄い水柱があがった。

 見事命中、重巡『エクゼター』は右舷に傾きはじめた。一秒、二秒、刻一刻と傾いていく。艦尾から沈んでいった。『沈みゆく敵艦に敬礼』、艦内放送によって甲板上にいた私達は、一斉に挙手の敬礼をした。

 忘れられない一瞬だった。友軍機が二機、三機、沈みゆく敵艦の上空を低空で飛んでいた。

そして、(間もなく)『海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ』の命を受けた。」

(恵氏は発令者は第三艦隊司令部と思われるとしている)

 「雷」は単艦、新戦場(注・「エンカウンター」「ホープ」撃沈)に向わず敵兵の収容にあたる事になった。

    岡田氏は当時の状況を鮮明に記憶していて、そのことを恵氏に語っている。

 「立派な浮舟に乗っている者、救命用具を身につけている者等、多くの敵兵が近くの海面で助けを求めている。直ちに縄梯子、ロープ、救命浮標などで、救助にあたった。」

「『サンキュウ』と、蒼白な顔にも救出された喜びの笑みをたたえ、敬礼して甲板にあがってくる敵兵、激しい戦闘によって大怪我をしている者、シャツは着ていてもパンツのない者等服装もまちまちだ。ズボン、靴下等彼らが身につけているのは純毛だった。『持てる国イギリス』の感を強くした」

 ここで、重要なことは「エクゼター」の乗組員で「電」に救助された兵士がこう証言していることだ。

 「『エクゼター』では、士官が兵に対し、『万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる』といつも話していた。

  恵氏はこの「電」の行動について

 「こうした動きからすると、「電」艦長竹内一少佐は司令部から救助の命令を受ける前から、脱出した「エクゼター」の乗組員の状況を司令部に発信し、救助の許可を仰いだものと推測される。

 そうでなければ、旗艦『足柄』は、『エクゼター』沈没以前に、『エンカウンター』と『ホープ』攻撃のため高速で東方に移動しており、「エクゼター」のその後を視認することはできなかった。

 要するに、時間的に見て「エクゼクター」の敵兵救助の命令は『電』からの許可の要請がない限りだせないものと思われる」 とこのように書いています。(同書P二百四十七)

 甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。

「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は三七六名に上った。

ちなみに、「エクゼター」艦長ゴードン大佐、重傷を負った副長(氏名不詳)は二十一時間もの漂流後に、同じく撃沈された駆逐艦「エンカウンター」艦長モーガン少佐などとともに、駆逐艦「雷(いかづち)」に救助されている。

 この時、「雷」は午前中だけで、敵兵を四百四名、午後は十八名を救助している。

 以上、恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」(草思社 平成十八年)を引用、参考させていただきました。

 ジェームス・マクアナルティ(James McAnulty)氏の父親である故パトリック・ジェームス・マクアナルティ氏は、この恵氏の著書にあるように駆逐艦「雷」か「電」に救助された可能性が高いのです。

 それは、いつ潜水艦の攻撃を受けるかわからない状況下において、決死の救助作業において行われたものです。

 その後の収容所においての食糧、衣服などの不備はあったであろうが、我が国国民も同じ状況下に置かれていた時代です。

 連合軍捕虜は、

 フィリピン方面、日本軍七万人に対して捕虜七万人

 マレー半島方面、日本軍一二万五千人に対して捕虜一三万人

 蘭領東インド方面、日本軍四万五千人に対して捕虜六万人

  英国、豪州の捕虜収容所において、我が国の軍人がどのような醜い扱いを受けたか。

それは、先人の数多くの手記にも明らかです。

 また、戦場においてはどうだったか。

<昭和十八年十一月二十七日、ニュー・アイルランド島カビエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵千百二十九名を乗せた病院船「ベノスアイレス号」(九六二五トン)は、米軍B24に爆撃され撃沈する。

 患者、看護婦、乗組員は十六隻の救命ボートと発動機艇二隻で漂流するが、十二月一日、同じくB24に発見された、

 この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む百五十八名が戦死している。

 昭和二十年四月七日、軽巡「矢矯」(六六五二トン)の測的長として戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦に参加した池田武邦大尉(海兵七二期)も、同様に米軍の不法行為をこう証言している。

「乗艦沈没後洋上を漂流したが、米軍艦載機の執拗な銃撃を受けた。敵パイロットのゴーグルがはっきり見えるぐらい肉迫攻撃を何度も受けた」>

以上二つの史実は「敵兵を救助せよ」(恵隆之介 草思社 平成十八年)P二四三 より

<「川沿いの道に移送を待っていた重傷者三十人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。焼けつくような日差しだった。

 おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。

 次の瞬間、担架が燃え始めた。

 見る間に黒煙が上がり辺りは火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」

 インパール戦においての昭和十九年六月二十二日第十五師団栃平主計曹長の証言 同じく六月二十二日、インパールのミッションヒルで島田上等兵は英軍戦車隊が日本軍野戦病院を砲撃後、英印軍兵士が這って逃げた傷病兵を道路に並べ、英軍士官が検分する。

 将官クラスは尋問するのかインド兵にトラックに運ばせた。選別が終わると「路上に残った傷病兵にガソリンがかけられ、燃やされた。その悲鳴が聞こえた」>

「WiLL 7月号別冊 歴史通」(ワック出版 平成二十一年七月)P二百一

 そして、下記は当ホームページにある英国人、豪州人の我が国先人に対しての虐待についての箇所です。

アーロン収容所にみるイギリス人の残忍さ

「降伏日本軍人」という身分と英軍による捕虜虐殺

インド日本人民間人強制収容所にみるイギリスの残忍さ

オーストラリア軍の捕虜虐殺

アーロン収容所でのオーストラリア兵

 

 国会議員の仕事とはなんであるかを考えた時、この民主党藤田幸久氏という人の行動については疑問だらけである。

 「我が国としては、先の大戦に係る賠償並びに財産及び請求権の問題については、日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号。)及びその他関連する条約等に従って誠実に対応してきたところであり、これらの条約等の当事国との間では、個人の請求権の問題も含め、法的に解決済みである。」

という条約上においての我が国の立場を護るどころか敵対する藤田氏の行為は決して英国、オーストラリア両国と我が国との友好関係に寄与する行為とは私には思えない。

 「ある国を代表する一国の総理として、麻生氏は未来と同様、過去にも責任をとる必要があります。」

という藤田氏は先人の英雄的行動をひたすら無視し、なんの検証もなしに、被害者とされる元捕虜の言い分をきいただけなのか。

 我が国の先人が米国、英国、蘭国、豪州、ソ連、支那、朝鮮人などから受けた扱いに対して藤田氏は調査し、そして抗議する気はあるのか。

 私はあの売国奴の倉沢愛子女史のところでも書きましたが、戦争という平時と違う状態において、我国国民も異常な体験を強いられたのです。何度も書くように、日本だけをいかにも異常な行動、非人道的な事をしたと攻めたて、反省しろ、謝れと自虐を強いるだけでは物事の解決にはなりませんし、なによりも事実を語っていません。

 私にはこの藤田幸久氏という国会議員は我が国の国益ではなく、自身の益としての政党闘争にのみ一生懸命としか思えない。

 我が国の国会議員であるはずなのに、公の精神というものが何も感じられない。

 腐れ国会議員は早く消えてほしいものです。

 今日は今年一番の暑さだそう。

 Iさん五名様で来店。小胡子さん来店。Sさん、マルガリータさん来店。横浜からAさん来店。

 明日は河岸が休みということもあり、早い時間からドンチャン。

 記憶なし・・・・・サル


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