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倉沢愛子の醜いウソ(イギリスによる日本民間人強制収容所)

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成19年10月18日木曜日晴れ △
 倉沢愛子女史は他のその手の人間と同じく、自分のイデオロギーのためだとウソをついて人を騙すのも何も思わない人間です。
 それについては今までも指摘してきましたが、倉沢女史の著書にはまだまだ多くの歪んだ書き方がされている箇所があります。
 
 <終戦から何十年もたって、外交的には両国の関係は非常に良好になっているいまでも、オランダやイギリスの一部の人たちは日本に対して非常に悪い感情をいだいているのよね。それは単に、かって戦火を交えた相手国だからということではないようよ。ひとつには日本との戦争がきっかけとなって、広大な植民地を失った(とくにオランダの場合)という恨みもあるんだろうね。ただ、それ以上に強いのは、これらの国の少なからぬ人たちが、戦争中日本によって収容所に入れられ、言語に絶する悲惨な目にあったという。個人的体験からくる恨みだと思うの。骨身に染みるような恨みが、いまだにその人達の対日イメージを形作っているのね。>P一一八
 <日本がオランダ人やイギリス人の恨みをかったもうひとつの要因は……………実はこの方がより深刻な意味をもっていたようだが………、戦闘員だけでなく、占領地に居住していた民間人も含めて、すべての敵性国人を収容所に隔離したという事実である。これはそれまでの戦争ではあまり例をみないことであった>P一二一
「『大東亜』戦争を知っていますか」講談社現代新書

 収容所での醜い行いは他国でもあった事は今まで書いてきたが、それ以外にもいかにも我国だけが、占領地において民間人を収容所に入れたような書き方である。
インドネシアにおいてオランダ人などの非戦闘員に対する我国の扱いについては倉沢女史自身がその著書に書いているが、下記のようなものであった。
 <当時の今村均司令官が民間人は拘束しないという方針をとり、一九四二年四月一日付けで公布を出し外国人に登録をさせ、日本軍に忠誠を誓った者には自由を許した。>P一二二
略)
 <最終的にジャワ抑留所が開設されたのは、一九四四年三月になってからのことで、それまでは、さまざまな形で居住の制限がおこなわれていた>P一二三〜四

 これに比べて、東南アジアにいた民間人の日本人、そして当時日本であった台湾・朝鮮の人々が、男女そして子供までもが昭和一六年一二月八日以降どのような目にあったかを意図的か?倉沢女史は正確に書いていない。
 倉沢女史はその著書で「捕虜になった日本人」という箇所に、下記のように書いている。
<ビルマ、マラヤ、シンガポール、インド、セイロンなど、英領に住んでいた日本人の場合は、インドで抑留生活を送った。当初は、蘭領東インドの場合と同じように、それまでの移住地の地元の学校や刑務所に収容されていたが、日本軍の侵攻の前に徐々にインドのキララプラナに移送された。その数、約三〇〇〇人といわれる。その後デオラリー、そして最終的には亜ジュメールへ移され、ここで終戦までを過ごした>P一〇〇
と、これだけしか書かれていないが現実はどうであったか。 

 私の手元にある「インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった」(峰敏朗著 朝日ソノラマ 一九九五年刊)によると、シンガポール、マレー半島などの日本人は早朝に連行されたり、街を歩いていてそのまま連行されたり、婦女子も途中で荷物を取られたりして、着の身着のまま収容所に送られている。
(この同じ強制収容所に入れられた日本人インド在住者だけは、自分の手荷物をそれなりに所持して入所してきたようです。)

 著者の峰敏朗氏は昭和四八年四月から三年間、インドのニューデリー日本学校に教論として勤務し、その時の住まいの近くに古城「プラナキラ」があったが、そこに大東亜戦争中に東南アジアの各地、インド、イギリス、アフリカに居住していた日本の民間人を強制的に収容されていたことを知らなかったが、その後、滞在記を出版をした後に、その存在を知る事となる。
 当時の収容者のひとりである木村次郎氏の手紙によってである。
 木村氏は全国に散らばった非収容者を掘り起こし、親睦の連絡誌「インドワラ通信」を年に二回発行していた。
 小林博氏が作成した書類を元に名簿も作成していたので、それを元に取材を始める。
その中で、このインドの収容所にもブラジルと同じような「勝ち組」「負け組」による争い。暴動、そして、イギリス軍による銃による鎮圧。そして犠牲者があったことが書かれている。

 倉沢女史が書いているインド・プラナキラ(倉沢女史はキララプラナと表記)の収容人数約三〇〇〇人のうち一〇〇〇人は婦女子であったが、倉沢女史はそれを表記していない。決して、日本だけが、敵性国の一般人を強制収容したのではないのです。
 そして、「インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった」には下記のような記述がある。
<英国官憲は、シンガポールおよびマレー半島で一二月八日、一斉に日本男子を逮捕した。そして各地の警察署に留置した。女子供は各地で異なっているが、数日遅れて捕らえられている。>P四四
 明らかになっているだけでも、二九九四名の日本人の方々が抑留されそのプラナキラ抑留生活四百一〇数日間にでも、一一七名の方が亡くなっている。
それ以前、昭和一六年一二月八日の囚われの日から、プラナキラに到着するまでの死者も四名ある。
 それは英国軍の日本人の扱いを物語るものです。その状態は下記のようなものでした。
ポート・ステイハムでは
<監獄当局は、戦時中であること、材料の入手困難を理由に、十分な材料を支給しなかった。そのため、当収容所の食事は劣悪なものだった。以後続く一連の収容所生活を通じて、この食事が最悪であったと、三宅定次は記憶している>p五一
 ポート・ステイハムからシンガポールのチャンギー監獄までの移動の船中では、四〇時間も狭い船底に押し込まれ、食事はもちろん、ひとり一杯の水しか与えられなかったことが書かれている。

 チャンギー監獄では
<朝の粥にはお菜一つつけられてはいなかった。また箸もスプーンもくれない。そのためインタニー(intemee非収容者)は飯盒の縁に口を当てて、粥を流し込まねばならなかった。冷めて糊のようになった白粥は、思うように喉を通らない。
多くの人はやむを得ず、人さし指をスプーン代わりにして、喉に流し込んだ。
 食事の前に一応手を洗うのだが、指は垢と脂汗で固めたように真っ黒である。伸びた爪の裏には、帯のように汚れが固まっている。しかし、監獄では爪切りはもちろん、金具類は一切持たせない規則だった。だから爪は伸び放題である。
不潔このうえない人さし指がスプーン代わりとなった。>p六二

 婦女子ばかり集められてカルカッタへ向かう船中では
<マレー半島とシンガポールの婦女子九一六名は、一二月一二日エチオピア号でカルカッタへ向かった。略)
 エチオピア号の船中では、パルソバ号やラジエラ号の場合と違って、極めてひどい虐待が行なわれた。英国人は婦女子には人道的に接するだろう、という男達の期待は完全に裏切られた。
 乗組員は英国人の監視兵が主だった。その中でも、特に上級監督官ミセス・ハミルトンと、係長のミス・ジンゲーは彼女たちを残酷に扱った。それに英国かぶれの中国人とアングロインデアン(英国の男性とインドの婦人との間にできた混血児)の付添い婦とが、この虐待に加わっていた。
 乗船の日、所持品はすべて取りあげられた。喫煙者が見つかると、その者は数日間、船底に監禁された。
 朝の点呼は厳重を極めた。何人も点呼から逃れる事は許されなかった。病人も同様だった。起きる事のできない病人は、枕を蹴って引き起こされた。そしてブイをつけさせ、甲板に引きずり上げて点呼した。
 
重病人がいて、入院を希望していた。その答えは「敵国人は入院させない」といういものだった。入院できないまま死亡した人がいると、橋本敦子は船中で聞いた。
 
食事は非常に少量であるうえ、不規則にしか配給されなかった。とくに一二歳以下の子供は一人前と認められず、ごく少量の食糧しか与えられなかった。三、四人の子供を持つ母親は、自分に食べずに、子供達に食糧を与えなければならなかった。その母親たちはみるみるうちに痩せていった。けれども、他の人たちもすべて空腹に悩んでいた。彼女たちを助けようとする者はいなかった。
 
赤ん坊の食べ物は考慮されなかった。船中で橋本敦子も赤ん坊の食べ物に悩まされた。多少の用意のあるものはよかったが、何もない者は途方に暮れた。>P八〇〜八一

 そして、婦女子が冬のプラナキラに到着した様子を下記のように書いています。
一一、二歳の女の子が毛布一枚にくるまって、素足でバスから降りてくる姿があった。衆人の中で身内のこのような姿を見るのは堪え難いことであった。
略)
 オーバーを着ているものは少なかった。
この寒空で浴衣の人が何人もいた。タオル地の寝間着の婦人もいた。多くの人は捕らえられた時、二、三日で帰宅できるという甘言を信じていたのだ。着の身着のままでインタニーになったのである。
 婦女子のテントでは、あるだけの薪を積み上げて焚き火をした。その焚き火は深夜から朝まで怨念のように天に向かって燃え続けていた。>P九二

 戦争という平時と違う状態において、我国の国民もこのような異常な体験を強いられたのです。何度も書くように、倉沢女史のように日本だけをいかにも異常な行動、非人道的な事をしたと攻めたて、反省しろ、謝れと自虐を強いるだけでは物事の解決にはなりませんし、なによりも事実を語っていません。


戦時における捕虜の待遇

平成23年1月7日金曜日晴れ 寒い ××××××

品目 捕虜 g 兵士 g 重労働 g 軽労働 g 一般 g
主食 705 705 570 390 330
10
30 30 10 10 10
野菜 400 400 200 200 200
味噌 50 50 50 50 50
15 10
砂糖
牛骨 100
熱量(kcal) 3000 3000 2200 1800 1400

捕虜給与規則(昭和十七年二月二十日陸軍大臣通達第八号)

捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金まで規定。署名は陸軍大臣東條英機。

表は昭和二十年、大阪俘虜収容所における比較表。

「戦争プロパガンダの嘘を暴く」(三好誠 展伝社 平成十七年刊)p百十八〜百十九

 多くの国民が飢えている時に、主食その他で皇軍兵士と同量だったのです。

 米国、英国、オランダ、ロシア、支那、オーストラリアなどは、多くの文献にあるように、我が国の軍人捕虜をどのように扱ったか。自国の軍人と同じ量の食事を捕虜である我が国軍人に与えたのか。

 私もこの三好誠氏の著書により初めて知る事が出来ましたが、なぜ、このような事実が今まで報道されてこなかったのか。

 我が国の戦後に行なわれたウオーギルトインフォメーションプログラムによる傷はまだまだ深いと思います。

 

 バンブーさん来店。

 Sさん二名様で来店。

 Nさん、真理子さんと来店。

 Kくん来店。

 ギリギリブラザース三名様で来店。

 今回が初めてギリギリブラザース勢揃い。

 Kさん、Sさんと来店。

 博子さん、幹子さん四名様で来店。

 アンコウ鍋。

 酔狂師さん来店。

 今日は早い時間から大忙し。

 どうしたんでしょう・・・・

 料理、洗い物その他に追われ、飲めなかった。

 でっ、遅い時間からドンチャン。

 結果、記憶なし。

 やっぱ、サル、猿、SARU、申・・・・・・


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