日本による朝鮮の土地の収奪というウソ
日本による朝鮮の土地の収奪というウソ
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
<李朝時代の土地制度>
我が国の土地調査事業においてどうして耕作農地が増えたのか。それは、それまでの朝鮮における土地事業のいいかげんさを物語っています。
耕地面積を測る統一単位すらないのです。朝鮮の土地面積の単位は「結負(キヨルブ」と呼ばれ、それが課税単位として使われていました。
結(キヨル)=100負 1負=10束 1束=穀物10把だそうです。
結は土地の生産性に応じて一等地は約一町歩から六等地約四町歩まで6つのランクに分けられて、二十年ごとに見直されることになっていましたが、ほとんど行われなかったそうです。
李朝時代には、耕地面積に「斗落マジキ」または「日耕イルキヨン」という単位を用い、「1斗落」とは五穀の種一斗を播種できる広さの土地を指し、もっぱら水田の広さを数える時に使用。実際は種の播き方でどうにでもなるために、土地や時代により異なり約100坪から200坪といい加減。
「1日耕」とは牛一頭を使役して一日耕作できる広さの面積とされるが、これまた牛と農夫によりいくらでも変わってくるためにいい加減。つまり、前近代的ないい加減なものだったのです。
そして、1894年の公簿には140万3171結が記録されているが、課税結数は75万9979結のみで、約半数が脱税地となっていたわけです。公簿に記録されていない土地も多く、これは隠結つまり隠し田となっていました。
そのために、朝鮮総督府がおこなった朝鮮半島の土地調査により隠田が一掃され、調査開始時には272万余町歩とされていた耕地面積が、調査の結果、所有者が確定した総面積487万町歩。そのうち耕作面積は424万9000町歩~450万町歩と増大したのです。
しかし、それにより隠し田にて甘い汁を吸ってきた者たちなどが困り、朝鮮総督府の調査に不服申し立てをし、そのために高等土地調査委員会が1920年まで受理し審査しました。件数は2万148件にも達したそうです。
朝鮮および台湾の近代化にもっとも貢献した事業のひとつが、この我が国がおこなった科学的土地調査です。この事により、前時代的な土地制度を廃し、近代的社会基盤を建設する基になりました。
ちなみに、朝鮮の旧宗主国様である支那は1996年にやっと検地が完成し、それにより、既存の耕地に対して40%が隠し田であることがわかり、それまで全国の土地面積の10%といわれていた耕地が、急に14%になったそうです。つまり我が国の面積以上の耕地が突然増えたそうです。
さすがは、宗主国様あって万年属国とは規模が違います。毛沢東がバカをやらかし、自国民を3000万人殺しても平気な国だけあります。
下記の文三つの引用はいずれも南朝鮮の教科書などの書籍より、我が国と朝鮮が併合していた時の土地政策についての引用です。
日本は、韓国で近代的土地所有制度を確立するという名目で、土地の面積と所有者を徹底して調べる一方、土地調査令を宣布して、時価に基づいて税金を納付する制度をつくった。この過程で、膨大な土地が朝鮮総督府と日本人の所有になった。また、長い間農民が小作してきて耕作権が強かった官有地と開墾地などでは、国家と地主の所有権だけが認められた場合もあり、農民はいっそう苦しい立場におかれた。「若者に伝えたい 韓国の歴史」明石書店P93~4
土地調査事業によって不法に奪い取られた土地は全国農地の40%にもなった。「韓国の歴史 国定韓国高等学校歴史教科書」明石書店1997
朝鮮総督府は、これらの没収した農地を、東洋拓殖株式会社などの日本人が経営する土地会社に払い下げたり、韓国に渡ってくる日本人に安価で引き渡したりした。その結果韓国の農民たちはいっそう貧しくなり、土地を失った農民たちは深い山の中に入り火田民となったち、・・・・満州など国外に移住する人々も多くなった。「入門韓国の歴史 国定韓国中学校国史教科書」明石書店p327
<土地の面積と所有者を徹底して調べる一方、土地調査令を宣布して、時価に基づいて税金を納付する制度をつくった。>これは国の運営上当たり前のことだし、一坪たりとも農地を没収していないのに<膨大な土地が朝鮮総督府と日本人の所有になった>と記されるにおいては理解に苦しむ。
まず、土地調査事業は日本人が日本人の税金で、当時のお金として2040万円という大金を使い、朝鮮人のための土地調査を1910年(明治43年)~1918年(大正7年)まで8年もかけて実施したものです。当時の朝鮮総督府のおこなった法律万能主義による土地調査事業が完璧だったとは私も思いませんが、少なくとも、前近代的な李朝の土地制度を改め、近代的な土地台帳を無償で朝鮮は手に入れたのです。これがどれほど朝鮮半島の近代化に役立つものか少し考えればどんなバカでもわかりそうなものです。
1歴史を偽造する韓国 中川八洋著 徳間書店
2日本植民地経済史研究 山本有造著 名古屋大学出版会
3-A、3-Bは朝鮮近代社会経済史 全錫淡他著 龍渓書舎
(上記の表における1と2の接収耕作地の違いは総督府に接収された土地は11万7000~12万町歩、定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明できなかった為に接収された耕地が2万7000町歩あり、それを含めるかどうかの差となっています)
1919年に測量された土地面積などは引用文献により多少の差が生じます。手許にあるものを記しておきます。それ以外に調査面積の中に未墾地90万町~100万町歩があったため接収されていますが、これはあくまで、未墾地であり、耕地面積にはふくまれません。そして、土地調査の結果、権利関係が極めて不明確な土地などを総督府は数百年の故事来歴などをさかのぼり調査し、裁定した結果、総督府に接収された土地は11万7000~12万町歩、定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明できなかった為に接収された耕地が2万7000町歩あり、結果として合計11万7000~14万7000町歩として当時の耕作面積の424~450万町歩の2・7~3・26%の割り合いしかありません。
ではどうして「土地調査事業によって不法に奪い取られた土地は全国農地の40%にもなった」などというウソを平気で書くのでしょう。
それについて杉本氏は「著書植民地朝鮮の研究」の中で
北朝鮮の経済史の第一人者である全錫淡他著である「朝鮮近代社会経済史」よりの引用として
「駅屯土として国有地に編入された耕地面積は13万4000余町歩で、全耕地面積の5%に当たり、この駅屯土の小作人は33万2000余人に達した。この他にも田畑及びその他各種の土地90万余万町歩を、いわゆる国有未墾地の名目で大量略奪した」と引用していています。②p56
13万4000町歩が5%ということは、逆算して全耕地面積を268万町歩とし、それをもとに未墾地90万町歩に13万4000町歩を足して103万4000町歩が38・6%となり韓国の教科書の40%を収奪したとしているわけです。
でも、同じ全氏の著書のすぐ後に「土地調査事業の結果、課税地総面積は424万9000余万町歩となり、従来の課税地総面積の286万7000余万町歩より46%増加した」という記述がしっかりとあるそうです。
こら~なんじゃ、と思ういかにも朝鮮人らしい本の内容です。
つまり、138万2000町歩も耕地面積が増えたわけです。未墾地を計算にいれたとしても24・3%としかなりませんが、先に書きましたように未墾地はあくまで未墾地であり、耕地面積には含まれませんので、朝鮮総督府の接収した耕作地は3%強にしかなりません。
さすが、ありもしない被害をつくり出し、騒ぐことにより相手に集るということが上手な朝鮮民族というか、やっぱ白髪三千丈の国です。
ただ、先に書きましたように、この土地調査による総督府の接収、公正な裁判によるものとはいえ不満を残したことは事実の様ですが、朝鮮総督府の管理地となった農地の小作人の耕作権については、杉本氏は著書で小作権を認めてもよかったのではと書いていますが、中川氏は自作農と思っていたのが土地調査により、小作農に転落するケースがかなり多かった。しかし、小作権は保証されていたので、農地を追われた朝鮮人農民はいませんと書いています。
ましてや、朝鮮総督府は国有地としたのは旧大韓帝国所有の国有地のみを引き継いだだけであり、その国有地は1920年より「東洋拓殖株式会社」(東拓)には売却せずに、12万町歩の田畑を朝鮮人の(従来からそこで耕作している)縁故小作人に安く直接売却した。つまり、朝鮮人自作農の育成に取り組んだのです。
東拓の持っていた土地も7万3千町~8万町歩で、総督府の国有地と東拓の耕作地を合わせても20万町弱であり、耕作地の4%強であるのに、日本統治下で開墾された新しい水田は22万町にもなり、これより多かった。
ちなみに、1922年末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5000町歩で東拓の持っている土地と合わせて25万5000町歩で全耕地面積の6%弱です。②p56ですが、著者は朝鮮総督府「調査資料2ー7朝鮮における内地人」より引用
以下引用および参考文献
①歴史を偽造する韓国 中川八洋著 徳間書店
②植民地朝鮮の研究 杉本幹夫著 展転社
③日本植民地経済史研究 山本有造著 名古屋大学出版会
④韓国は日本人がつくった 黄文雄 徳間書店
<我が国の朝鮮統治と小作農家>
土地調査をきっちりとやることにより近代的土地台帳を製作するということは、近代国家としての根幹に関わってくる問題です。朝鮮は小作農より自作農への「農地解放」の事ばかり騒ぎ立てますが、我が国においての農地解放は大東亜戦争終了後の1946年です。
朝鮮併合時1910年において我が国の全農家戸数541万6937戸のうち、自作農家177万6873戸と自作農兼小作農家213万9111戸を除く、小作農家は150万953戸もありました。
1927年でも148万8061戸もあり全農家の3割弱を占めていて、朝鮮より少しいいだけでした。同じく小作耕地は277万3236町で自作農地324万3170町の46%を占めていますので、同時期の朝鮮の小作農土地58%より少しだけ少ないだけです。
下記の表は1930年の朝鮮における朝鮮人地主と日本人地主との比較です。
ちなみに朝鮮人の反論の根拠によくなる日本人地主数についてはであるが、これらの日本人地主の多くは朝鮮併合以前に朝鮮に進出した者であって、朝鮮総督府の土地政策事業はもちろん東洋拓殖株式会社とは何も関係のない純粋な事業として李朝末期に進出したものです。
朝鮮における日本人の農家の総人口は4万人(約1万戸1922年)で同年の朝鮮人農民総人口1434万人のわずか0・3%であり、東洋拓殖株式会社の斡旋で移住した6000戸(1911~27年)のうち2000戸以上が帰国し、定着は38883戸に過ぎなかった。そのために東洋拓殖株式会社は1927年に移住斡旋事業を廃止した。日本人に不人気の最大の理由は、東洋拓殖株式会社(東拓)が日本人むけの土地価格は、1911年で水田反あたり15円、1927年で120円と、日本人に安く売らなかったからです。朝鮮人がよくいう安く斡旋したなどということがいつものとおり嘘だというまたまた一つの例です。
そして、朝鮮総督府は所轄していた「国有地」の田畑11万7000町(1918年末)を、1920年から東拓には売却せずに、朝鮮人の従来からそこで耕作している「縁故小作人」に安く売却した。
朝鮮総督府の「国有地」とは大韓帝国の国有地を引き継いだものであり、私有地を新たに「国有地」にしたものではない。
これらのことからだけでも、英国のアイルランド、オランダのインドネシア、フランスのアルジェリアなど他国の植民地政策と我が国の朝鮮半島における政策との違いがわかる。
(以上の主な引用先は「歴史を偽造する韓国」 中川八洋著 徳間書店P72~3、P78~80よりですが、中川氏は数値などは「現代日本農地政策史研究」細身大次郎著 御茶ノ水書房より引用)
<朝鮮における土地政策(農地改良)>
朝鮮は我が国と併合するまで、農地改良も品種改良もせずにいました。そのために下記の表にあるように、水田の8割が雨水に依存し、活けやダムなどの水利施設を利用したものではないというおどろくべき後進性です。
それを、わずか30年で水田の耕地面積を2倍以上にし、水利施設を利用した水田がその70%を占めるまでに改善したのは朝鮮総督府によるものです。それにより反当たりの収穫量は1910年の0・769石より1937年の1・635石とこれまた2・1倍以上に増えています。
これには水利の改善だけでなく、肥料、品種改良など種々の改善があって初めて成し遂げられたものです。
この朝鮮農業の立て役者は「朝鮮の二宮尊徳」といわれる石塚俊です。
水田面積の増加と水利(単位1000町)
(以上の引用先は「歴史を偽造する韓国」 中川八洋著 徳間書店)
こういった朝鮮総督府の水利事業も、北朝鮮人にはあの巨大な水豊ダムを作ったのは金日成となっているように、南朝鮮人もそれに負けずに笑わせてくれます
以下引用
「復元力が強いのは平衡川だけではなく、韓国の風土全体がそうだ。たとえば、典型的な韓国の冬の天気を『三寒四温』という。三日寒い日が続けば四日は暖かいというパターンだ。そのような韓国の風土条件、またそれによってつくられた社会形態は、単位地域の住民にひとつのまとまったタテ社会をつくらせなかった。とくに低山のあいだを縫う平衡川の流域は広く、全域にわたり土手を築き上げるのはほとんど不可能に近く、日本のタテ社会の作り上げた河川の性格とはまったく対照的であるといってよい。
現代化学技術を動員してやっと最近、画期的な治水工事がいくつか完成した。それは広い地域にわたる雄大な事業である。それに投入された莫大な経費・人員・重機の数量を考えたとき、韓国の地理的条件が、前近代社会においていかに治水工事をしにくくしているかがわかる。
それと風土に備わった自然の復元力である。韓国人には当然、大きい工事を夢みずに、じっとしていたほうがよい、という考えが生まれるのだ。実際、単位地域内において、住民を結束させる土木工事が、現代以前には皆無に近かった。昔からやっていた治水工事は、溜池がほとんどであったといっていい。その昔、百済の農民たちが日本でみせた水利技術の手並みは、ほとんどこれによるものであった。」
(「韓国人と日本人」金容雲著 サイマル出版 P79~80より)
私はこの文章を最初に目にしたときは驚きました。これほど、李氏朝鮮と朝鮮総督府の農政との違いを適格に表している文章を書くとは朝鮮人としては珍しく客観的に見ていると言えると思ったのですが、違っていました。我が国で生まれ、早稲田大学までいってのちに南朝鮮に帰って数学教授をやっている著者もやはり期待を裏切らないようです。
この著者の頭の中は李氏朝鮮からいきなり、大東亜戦争後に飛んでしまうのです。
以下引用
「山が低い広闊な平地を流れる幅の広い平衡川を管理するには、一地方の農民を集中動員させるだけで解決できる問題ではない。韓国においてこのような大土木工事が一応閑静されたのは、つい最近10年ほどのことであり、それまでほとんどの韓国農土はその歴史を通じて、自然のなすままに放置されていたといって過言ではない。
略)
朝鮮時代の中央集権性では、王と農民のあいだには、牧民官なる徴税人がいたにすぎない。
略)
牧民官の関心はつねに租税の徴集にあり、その税源を、治水事業や農地の整理など発展的な方向に拡大させる努力をするなどのことはありえなかった」
(同P84より)
期待を裏切らないというかもう絶句しかありませんが、この金容雲という日本生まれの朝鮮人の数学者である著者は、自分でこの本を書いている時に、原始的農業をやっていた李氏朝鮮の時代からいきなり大東亜戦争後に近代農業に変わった事をおかしいと思わないのでしょうか。
まあ、ソウル大学とは大東亜戦争後の1946年に膨大な蔵書とりっぱな建物とともに突然できた新設大学であるという歴史を持っているそうで、あの我が国6番目の帝国大学として1924年に作られたはずの京城帝国大学は、1945年の敗戦とともに消え失せてしまったという朝鮮の人たちにとっては当たり前の事であり、なんら不思議な事ではないのでしょう。
ちなみに、台湾大学の設立母体は1928年に作られた台北帝国大学とちゃんと大学のホームページに創立の経過が書いてあるそうです。
この金容雲氏というひとの著書も先の柳在順氏の著書と同じく突っ込み所満載ですので、後日にネタとして書かせていただきます。
*戦後、在日韓国・朝鮮人は何をし、何と言ったか(リンク)