日本による朝鮮の米収奪のウソ
日本による朝鮮の米収奪のウソ
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
朝鮮人がよく書くウソ
鉄道や港湾は充実しましたが、それは朝鮮半島の資源を日本に運ぶためでした。米の生産高は増えましたが、多くは日本に運ばれたため、朝鮮は食糧難に陥りました。
「一気にわかる朝鮮半島」鄭銀叔著 池田書店 p二四
だいたい、この本自体が、李朝時代の悲惨な統治を書かずにいきなり日韓併合から書いています。朝鮮人はこれと同じレトリックを使い、平気でウソをつきます。もし、鄭銀叔というこの著者がウソをついているつもりもなく、捏造に気がつかないでそういった間違いを本気で書いているのでしたら、この鄭銀叔という朝鮮人は単なるバカです。
朝鮮農民は我が国の統治により<農民はいっそう苦しい立場におかれた>などという事はない。ましてや朝鮮人の書くような「日帝は彼らの食料不足を解決するために、韓国から米を略奪することに力を注いだ。そのため韓国の農民は彼らが生産した多くの米を日本に奪われ、飢えを免れなかった」などということも絶対にない。
まず下記の3つの表を見ていただきたい。
たとえば、朝鮮半島から米を奪ったという悪質宣伝によく使われているのが表一と表二である。この表により河井塾の青木裕司氏などは「生産高は増加していますが、日本への移出が激増していることがわかります。つくったそばから取られてしまうという状況ですね」<青木裕司著(知識ゼロからの)『日本・中国・朝鮮 近代史』幻冬社>P六九などとアホらしいことをいっている。
これは、あの問題山積みの教科書をだしている山川出版の「朝鮮史 世界各国史一、二」糟谷憲一 から引用しているのですが、大きなごまかしがあります。
表二も韓国の教科書からの引用です。(「韓国の歴史 国定韓国高等学校歴史教科書」明石書店一九九七)
これにより、同様「増産量を遥かに超過した量を収奪していったのである。そのため我が農民の大多数は飢餓線上にある」などというウソをならべています。
このごまかしを解くカギは、いずれも三三年、三七年までしかのデーターしか示していないことにあります。表三は「歴史を偽造する韓国」 (中川八洋著 徳間書店)p六九よりの引用ですが、中川氏は大蔵省管理局「日本の海外活動に関する歴史的調査」通巻第十一冊/朝鮮篇第十分冊、三十三~四十頁より引用しています。
この3つの表を比べていただきたい。
ウソつき朝鮮人や先にあげた青木裕司などというアホどもは、その時代背景、朝鮮の食料事情も説明せずに、表一、表二など一九三三~三七年までの統計しか示さずに収奪だと騒ぐ。日帝三六年とか言いながらどうしてその後の統計を示さないのであろうか。我が国にとっても一番食料事情が悪い時であり、食料が欲しい時である。
それは、一九三七年を境に一九三八年からは朝鮮内の米の消費高、人口一人当りの消費高が大きく増えているのである。このような事実を隠すために三七年までのデーターしか示さないのです。
いかにも、嘘つき朝鮮人、そして反日日本人らしい姑息なやりかたです。
時代背景
表二、表三では一九二六年(大正一五年)から朝鮮での消費量が急減している。この時は昭和初期の昭和恐慌として名高い時期であり、農家が米を食べられなくなったのは朝鮮半島だけではない。日本の東北地方の惨状もすさまじい。その後の冷害では北海道、青森などを中心とした地帯に45万人もの人々が餓死線上にたたされ、農村部では、役場の史員や学校の先生の給料までも払えずに、娘の身売りが続出した時代であった。
しかし、朝鮮半島の米の生産量は大きく伸びている。これは日本が治水、品種改良などによる成果であるが、それ以上に移出が伸びているのは、米以外に換金作物がないために、日本に米を移出する事により農家が現金収入を得たいがためである。
つまり、自由経済の当時においての朝鮮半島の米の内地への移出は、すべて朝鮮半島の事情によるものである。
このために、朝鮮総督府は緊急に雑穀を輸入して、朝鮮人の食するカロリーに変化がないようにした。(歴史を偽造する韓国 中川八洋著 p六八)
欧米の植民地主義とはまったく違う、日本民族の誇るべき善政である。
なによりも、一九一八年の米騒動の時を例外として、昭和に入ってからの朝鮮よりの米は我が国にとってはもはや不要のものであった。考えてもみてほしい、朝鮮でさえ昭和に入ってからは大きく増産ができる体制になっているのである。朝鮮より早く近代化された我が国では一九二五年(大正一四年)から三一年(昭和六年)にかけて日本本土の米の価格が四〇%も暴落したのは朝鮮、台湾からの安価な米が無制限に入ることが原因であった。
そのために日本本土の農家は朝鮮米の移入制限を強く要求、農林省も内地農民の保護のために一九三四年には臨時米穀移入調節法案が策定されていたが、その法案の国会上程を陸軍の応援を得てまで阻止したのが、「朝鮮の二宮尊徳」とまで呼ばれる石塚俊と朝鮮総督府であった。
結局一九三四年に「朝鮮から移入される米は内地では拒まない。しかし、一時に移出されると困るから月ごとに平均的に移出する事」とし、京城、台北にも農林省の米穀事務所を設置することで合意が成立した。しかし、石黒忠篤農林次官は「このような状況では朝鮮米移入問題は解決できない」として辞任している。植民地朝鮮の研究(杉本幹夫著 展転社)p七四
米騒動のあった大正時代と違い、昭和に入ると各地に増産体制が整い、不況による消費の減少もあり、米余り時代となったが、朝鮮の農家は米にかわる換金作物がなく、また内地に移出した方が高く売れるために移出を続けたのである。
石塚や朝鮮総督府は内地より朝鮮半島、朝鮮人を第一にかんがえたのである。
その証拠に、朝鮮の教科書やバカ日本人どもが提示しない表三にあるとおり、朝鮮半島が一九四〇年の大干ばつで前年比約一〇〇〇万石減という大凶作になったときは、日本本土への米の移出を前年の六〇五万石からわずか四三万石にまで制限した。
朝鮮農家にとり米は日本本土に売った方が何倍も儲かるから、総督府が移出制限をしないと、朝鮮半島が深刻な米不足に陥るためである。それは、生産量の大きな落ち込みに比べて、その時の人口ひとりあたりの米の消費高が大きく減っていないのでもわかる。内地以上に食料事情がよかったのである。
朝鮮における一九四一年の米価設定は、生産者の手取り価格は一石五〇円にたいして、消費者価格は四十三円の完全な逆ざや政策であった。
以下引用および参考文献
歴史を偽造する韓国 中川八洋著 徳間書店
植民地朝鮮の研究 杉本幹夫著 展転社
韓国は日本人がつくった 黄文雄 徳間書店
鮮半島日本統治時代における餓死者と強盗件数の変化
植民地朝鮮の研究 杉本幹夫著 展転社 p76より
杉本氏は朝鮮総督府統計年報より作成
餓死者データー1911、1912、1923年欠
我が国と併合後、それまで、世界最貧国であった朝鮮では餓死者が激減したのである。
そして、これによって、朝鮮人がよくいう米を取られたからではないことがわかる。
ましてや、朝鮮半島の人口は1906年の980万人からたった30年後の1938年の2400万人と2・5倍近くにも急増しているのである。
もし、本当に朝鮮人たちが主張してきたように、我が国に食料、その他を奪われた状態でも餓死者数が急減し、逆にこのような人口の急増がみられるのであれば、朝鮮人という民族はゴキブリ以上の生命力と繁殖力をもつ驚異的な民族といえる。