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朝鮮半島日本統治時代における在内地朝鮮人の各種議会立候補者数

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


朝鮮半島日本統治時代における在内地朝鮮人の各種議会立候補者数

平成22年10月26日火曜日くもり ○

「定住外国人の地方参政権」(徐龍達 編 日本評論社 平成四年刊)

 この本には相変わらずの朝鮮人による醜い嘘が平気で書かれているが、非常に興味深い記述もある。

 それは、下記に引用させていただいた十二ページに掲載された旧内務省警保局資料と記された在内地朝鮮人の各種議会立候補者数です。

種別
衆議院
県会議員
市議会議院
区会議員
町会議員
村会議員
その他
合計
1929年

立候補

落選

1931年

立候補

落選

1932年

立候補

当選

1933年

立候補

当選

落選

15(3)

11

27(3)

16

1934年

立候補

当選

落選

1935年
立候補

当選

落選

1936年
立候補

当選

落選

12(1)

10

10

29(1)

23

1937年
立候補

当選

落選

43(2)

37

6(1)

10

17

12

82(3)

25

54

1938年
立候補

当選

落選

13

11

1939年
立候補

当選

落選

21

16

1940年
立候補

当選

落選

28

23

44

44

74

68

1941年
立候補

当選

落選

1942年

立候補

当選

落選

66

13

50(3)

17

12

117

38

76(3)

注)表における( )内の数字は立候補したが、棄権した者

 旧内務省警保局よるこの資料は、我が国において国会議員として二回当選している朴春琴氏以外にも立候補した朝鮮人がいた事、地方議会にも朝鮮人が議員として進出していた事が判る貴重な資料だと思います。

 ましてや、以前にも書きましたが、朝鮮半島においては朝鮮半島においては、警察官は、警務官→警視→警部→巡査→巡査補となっていたが、併合間も無い一九一〇年末における日本人と朝鮮人との割合は下記の通りであった。

 朝鮮半島においては、警察官は、警務官→警視→警部→巡査→巡査補となっていたが、併合間も無い一九一〇年末における日本人と朝鮮人との割合は下記の通りであった。

?

警務部長

警務官

警視

警部

巡査

巡査補

合計

日本人

一三 

三〇

一六七

二〇五三

二二六五

朝鮮人

〇 

一四

一〇一

一八一

三一三一

三四二八

合計

一三

四四

二六八

二二三四

三一三一

五六九三

「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店(中川氏は「総監府時代の財政」友邦協会p一二二より引用)

 つまり、上級職である警務官と警視の三割は朝鮮人であった。これは先の官吏について同じ事であるが、日本の朝鮮統治が「日本の警察による支配」といく批判が的外れであることを意味する。このように、併合間も無い時期ですら警察幹部の三分の一が朝鮮人であり、その朝鮮人幹部の下に日本人警察官の警部、巡査がついていた事がわかる。また、警察の末端だけが朝鮮人であったということも間違いである事がわかる。

 武断政治といわれている我国の朝鮮統治がウソである事が良くわかる。

 朝鮮には一三の道(県)があり、知事ポストの約四割が朝鮮人でした。(終戦時には五)

 例えば、江原道の知事ポストは李圭完から終戦時の孫永穆まですべて朝鮮人でした。一三道の日本統治時代の全知事総数一二五名のうち日本人知事は七六名、朝鮮人知事は四九名と三九%が朝鮮人が占めていました。 ちなみに、知事に直結して朝鮮の民情をすくいあげ具申する任務の特殊副知事ともいうべき参与官は一三道すべてが朝鮮人でした。

 慶尚北道の一九三二年(昭和七年)一月現在の県知事は朝鮮人であり、四名の部長(内務部、産業部、財務部、警察部)のうち産業部長は朝鮮人。そして、四つの部にいた部長以外の日本人官吏は一九四名。つまり、三名の日本人部長もその他一九四名の日本人官吏も、朝鮮人知事に仕えていた。

 一九四〇年の朝鮮総督府における朝鮮人高級官吏の実態として  内務局には局長以下三一名の高級官吏のうち三名が朝鮮人。財務局は局長以下一三名のうち一名が朝鮮人。学務局は局長以下一九名のうち三名が朝鮮人であった。学務局の三名の朝鮮人高級官吏のうち一名は視学官という高官であった。

 その他の例として京城履審法院の一三名の判事のうち二名が朝鮮人、京城地方法院二八名の判事のうち三名が朝鮮人、京城地方法院検事局の検事一四名のうち一名が朝鮮人であった。

 学務局の最高ポストである学務局長として李軫鎬が一九二四年から二九年まで就いている。

 朝鮮半島における地方行政機構は、道知事の下に、日本の市にあたる府、日本の町と村にあたる邑と面、邑と面を統括する郡があった。一九一七年において、一四府、一二八郡、五一邑、二三七四面であった。済州島と鬱陵島のみ島庁をおき、島司を任命していた。この島司は郡守と同格であった。

 準・議会が道、府、邑にそれぞれあり、一九三一年(昭和六年)より府会、邑会、一九三三年(昭和八年)より道会といった。議長はそれぞれ道知事、府?(市長)、邑長が兼ねるために完全な三権分立的な議会でないが、議決機関であった。村にあたる面の面協議会は諮問機関であり、準々・議会といってもよいものであった。

 道会議員の三分の一の議員は官選、三分の二の議員は、府会、邑会、面協議会の議員が選挙した。道会議員の内訳は日本人が四分の一、朝鮮人が四分の三がおおむね基準であった。

 例えば、一九三二年における京幾道の道会議員三七名中、日本人は一〇名で朝鮮人が二七名であった。

 このように朝鮮半島における地方議員の多くは朝鮮人であり、朝鮮人対日本人というような多数決になれば日本人は敗れるしかなかった。

 郡守、邑長、面長は、ほぼすべて朝鮮人であった。(郡守、邑長にごくわずかの例外あり)

 朝鮮半島に移民してきた日本人は朝鮮人の郡守、邑長、面長の統治下にあったといってよい。

  このような状態で、強制連行が行う事ができたと思う方が狂っている。

 朝鮮半島における在日本人は特権というものが無かった。一九三七年より配給制と朝鮮半島もなってきたが、塩、砂糖などの配給で日本人と朝鮮人との差別はなかった。キムチのために朝鮮人に塩を多くし、日本人には砂糖を多くするなど公正な調整がされていた。

 配給の行列ですら日本人、朝鮮人の区別なく一緒に並んだ。

 

 国会議員、県会議員、などの特権を朝鮮人が有していたのである。

 そして、朝鮮半島においてはその地方自治体のトップである知事の四割が朝鮮人だった。

 当然、日本人はその下に使えていたのである。

 朝鮮人が一方的に差別されて来たというのは間違いである事がよくわかる。

 参考文献

「定住外国人の地方参政権」(徐龍達 編 日本評論社 平成四年刊)

「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店

「別冊一億人の昭和史 日本陸軍史」毎日新聞社昭和五四年刊

「月刊正論」平成一五年三月号 p五二〜五三

 

 写真は今日の築地本願寺の蓮と日刊ゲンダイ

  

 

 

 今日は木枯らし一番が東京でも吹いたそうで、遅い時間は冷え込んだ。

 一名様来店。

 Hさん二名様で来店。

 今日は飲む元気もなく、サッサと寝る。


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