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土屋康夫の醜い歴史観


昭和二十六年(1951年)生まれ。竜谷大学卒業。岐阜新聞社報道部部長。


2冊の本

平成21年12月7日月曜日晴れ 風強し ○

 「職ニ斃(タオ)レシト雖(イエド)モ」(片山利子 展転社 平成二十一年刊)と「和解の海」(土屋康夫 ゆいぽおと平成二十一年刊)を読む。

 どちらも潜水艦に乗り海軍軍人としての職務を全うし、軍神と呼ばれた先人を題材に書いているが大きく読後の感じが違う。

 片山氏は艇長であった佐久間勉大尉と六号艇の乗組員、土屋氏はシドニー湾へ攻撃後戦死された松尾敬宇中尉など特殊潜航艇について書いている。

  

 「和解の海」にはこう書かれている。

<当時、オーストラリア国内での最大関心事は日本が豪州捕虜をどのように取扱うかであったという。一九四二年一月、ラバウル・トルで豪兵約七十人が日本兵に惨殺され、二月十七日にはシンガポールが日本軍によって陥落し、守備についていた多くの豪兵が日本軍の捕虜になり、泰緬鉄道建設現場の強制労働に送られた。

 オーストラリア国民の日本軍に対するイメージは、その残虐性だった。

P百十六

<しかし、オーストラリアでは戦時中の日本軍による捕虜虐待の傷は癒えていなかった。反日感情のくすぶるなか、まつ枝の振る舞いは好意的に報道された>

P百四十二

さらにエピローグとして

<まつ枝さんやホーク元首相がまいた平和の種は確実に芽生えている。

 それに反して戦時中、日本軍が犯したオーストラリア兵捕虜への虐待、豪による特殊潜航艇乗組員の遺骨送還、海底に眠る伴艇の保存などについて、日本政府はけじめをつけていない。遺憾である。>

p二百十八

 このように一方的に我が国を非難している。

 では、豪州が我が国の捕虜に対して何をやったか。

 もう何度か書いている事だが、リンドバーグ日記をはじめ、過去に多くの本に書かれている。

 

オーストラリア軍の不法行為について

 「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなった時の話を覚えているかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ 捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」(リンドバーグ日記八月六日)

 ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によって、日本軍捕虜に「死の行進」が課せられた。

 ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇名がトロキナの仮収容所に移送されることとなったが、栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、気温三五〜三八度の中を一〇マイル行進させられた。翌日、到着の一二五〇人も同様であった。豪州軍の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。

 体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、川の両側に並んだ豪州軍将校たちが水を飲ませまいと、足で水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。一〇月八日に着いたナウルからの七〇〇人とオーシャンからの五一三人も同じ扱いを受けた。

 くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、マラリヤに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。捕虜のほとんど全員が感染、約七〇〇名が死亡したとみられる。

以上「日本の反論」米田健三著 p一六五およびp一七一〜一七二よりの引用ですが、米田氏はリンドバーグ日記および「軍事史学 第三五巻第二号」喜多義人論文より引用されています)

会田雄次氏の著書「アーロン収容所」(中公文庫)の中にはオーストラリア兵の残虐さについての記述もあります。

以下引用

 <その中でも豪州兵は目立って程度が悪かった。その兵舎を膝をついて雑巾がけしていると、いきなり私の額でタバコの火を消されたことがあった。くそっと思ってにらみつけると平気な顔で新聞を読んでいる。激しい憎悪がその横顔に浮かんでいる。ドスンと目の前に腰をおろし、その拍子のようにして靴先でいやというほどあごを蹴り上げられたこともある。私をひざまずかせ、足かけ台の代わりにして足をのせ、一時間も辛棒(ママ)させられたこともあった。

 ある日K班長が、青ざめ、顔をひきつらせて豪州兵の兵舎作業から帰ってきた。聞くとかれは、豪州兵の便所で小便をしていると、入ってきた兵士にどなられ、ひざまずかせて口をあけさせられ、顔に小便をかけられたという。日本兵は便器でしかないという表示である。そのすこし前に配達された妻からの便りを手にしていなかったら、このおとなしい兵隊は、死刑覚悟でその豪州兵を殺していたかもしれないほどの形相であった。>P七〇〜七一

引用終わり

 

 私は第二の岡崎トミ子女史である藤田幸久民主党議員のところでも書きましたが、

http://www.tamanegiya.com/fujitayukihisa21.7.3.html

収容所においての食糧、衣服などの不備はあったであろうが、我が国国民も同じ状況下に置かれていた時代です。

  英国、豪州の捕虜収容所において、我が国の軍人がどのような醜い扱いを受けたか。

それは、先人の数多くの手記にも明らかです。

 また、戦場においてはどうだったか。

 あの雁屋哲氏が出典を自分の著書以外に明らかにしていない我が軍の豪州軍看護婦殺害事件を書いていたが、豪州軍ではないが米軍が赤十字のマークの入った病院船に対してどのような事をやったか。

<昭和十八年十一月二十七日、ニュー・アイルランド島カビエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵千百二十九名を乗せた病院船「ベノスアイレス号」(九六二五トン)は、米軍B24に爆撃され撃沈する。

 患者、看護婦、乗組員は十六隻の救命ボートと発動機艇二隻で漂流するが、十二月一日、同じくB24に発見された、

 この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む百五十八名が戦死している。

 昭和二十年四月七日、軽巡「矢矯」(六六五二トン)の測的長として戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦に参加した池田武邦大尉(海兵七二期)も、同様に米軍の不法行為をこう証言している。

「乗艦沈没後洋上を漂流したが、米軍艦載機の執拗な銃撃を受けた。敵パイロットのゴーグルがはっきり見えるぐらい肉迫攻撃を何度も受けた」>

以上二つの史実は「敵兵を救助せよ」(恵隆之介 草思社 平成十八年)P二四三 より

そして、英軍は

<「川沿いの道に移送を待っていた重傷者三十人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。焼けつくような日差しだった。

 おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。

 次の瞬間、担架が燃え始めた。

 見る間に黒煙が上がり辺りは火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」

 インパール戦においての昭和十九年六月二十二日第十五師団栃平主計曹長の証言 同じく六月二十二日、インパールのミッションヒルで島田上等兵は英軍戦車隊が日本軍野戦病院を砲撃後、英印軍兵士が這って逃げた傷病兵を道路に並べ、英軍士官が検分する。

 将官クラスは尋問するのかインド兵にトラックに運ばせた。選別が終わると「路上に残った傷病兵にガソリンがかけられ、燃やされた。その悲鳴が聞こえた」>

「WiLL 7月号別冊 歴史通」(ワック出版 平成二十一年七月)P二百一

 

 豪軍はそもそも捕虜はとったのか。我が軍は多くの捕虜に苦慮した。

 連合軍捕虜は、

 フィリピン方面、日本軍七万人に対して捕虜七万人

 マレー半島方面、日本軍一二万五千人に対して捕虜一三万人

 蘭領東インド方面、日本軍四万五千人に対して捕虜六万人

 

 私の手元にある「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード著 二〇〇五年原書房刊)という題名の本があります。

 オーストラリア人によって書かれたこの本はオーストラリア軍によって無実の罪を着せられて処刑された西村琢磨中将について書かれています。著者のイアン・ウォード氏はその著書で「はじめに」として次のように書いています。  

 <その名をよく知られた無実の日本の将軍を、オーストラリアが恥ずべきは不正な裁判の後、意図的に処刑したということは、オーストラリア国民が声高に掲げる太平洋戦争の正当性とうまく折り合いがつかない。

略)

 ここから得られる教訓があるとすれば、オーストラリアは、そして英国も、少なくとも誤った戦争犯罪裁判の記録を正す道義的責任があることだ。裁判の原則を支持しながら、同時に過ちがあっても責任を無視することは、原則をばかにすることになる。また日本に戦争中の行為を反省するよう繰り返し求めている政治家や社会の指導者たちの声も、もし自らの反省を拒否するなら、空しいものに聞こえる。>

 そして、この本の中には下記のような記述があります。

 以下引用

 <公刊戦史はムアル戦線でオーストアリア部隊と遭遇した日本軍負傷兵の運命について、はっきり書いていない。

略)

「守勢にあるので捕虜をとる状況に無く、今までの経験からして敵の負傷兵をそのままにはできない。死んでいると思われるか負傷している敵兵に近づくときは最大限の注意を払い、銃剣を使え。要するに命令は『捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな』というものであった」

略)

 もちろん大隊の戦場日誌にはアンダーソン(引用者注 直接指揮していた第一九大隊長チャールズ・G・W・アンダーソン中佐)が正式にそのような指示をしたとは書いていない。しかしムアル戦線で戦ったオーストラリア兵の間では、状況の緊急性から考えて「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」というのが少なくとも公式に認められた『指示』だったということは、広く受けいられてきた。指示がどこから出たかについて不安な人たちでさえ、これらが一月一九日から二二日までの絶望的な七二時間に採用された戦術であったことは認める。>

(P二〇七〜二〇八)

 <否定できない事実は、マレー作戦の中で最も激しかった四日間と半日の戦闘のあと、オーストラリア軍は一人も捕虜をとらなかったということだ。白兵戦により日本軍は二千人の死者を出し、ほとんどは近衛師団だった。もう一つの否定できない事実は、戦闘の状況からして、オーストラリア部隊は日本の負傷した兵士をその場で殺したことだ(みかたによっては処刑したことになる)。さらに、命令ではないにしても、捕虜をとらず負傷兵をそのままにしないというのは、少なくとも一般的な了解だった。>

(p二一八〜二一九)

引用終わり

 

 つまり、オーストラリア軍には、戦場においての非常事態であったとはいえ「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」という命令が発せられていたのです。

 日本軍も捕虜を殺害したこともあるでしょう。

 しかし、日本軍だけがそのようなことをしたわけではない。

 勝ち戦だからという人もいるだろうが、捕虜がゼロということはどういうことか。

 日本軍捕虜の反乱で有名なオーストラリアのカウラ収容所では千百人が収容されていた。これは日本軍捕虜が千百人しか収容されていないとも言える。

 歴史の一断面だけを捉え、片方の国を一方的に断罪出来るものではない。

 

 だいたい残虐性について、

先住民を狩りの獲物としてきたオーストラリア人、

お前らだけは言われたくはない。

 

 

 土屋氏は此の著書の巻末に掲載されているあまり多くない参考文献を拝見する限り、連合軍による日本軍人捕虜に関係するものが一切掲載されていない。

 これは読む必要がない、知る必要がないということであろうか。

「和解の海」に違和感を感じたのはそれだけではない。

<この碑は太平洋戦争が終わった翌一九四六年四月、地区で健立したという。

 一九一七(大正六)年十月十六日に生まれた。

 一九二四(大正十三)年、荒城尋常小学校に入学した。

 一九三〇年(昭和五)年小学校を卒業した。

 一九三五(昭和十)年十一月、三等水兵に昇進。

 一九三六(昭和十一)年十一月、二等水兵に昇進。

 一九三八(昭和十三)年五月、広島・呉の海軍潜水学校に入校した。

 二〇〇八年二月二十四日、呉海兵団で都竹の五年後輩にあたる・・・・>

 このように、年代表記は元号よりも先に西暦を表示している。そして、戦後は昭和、平成ともすべて西暦表示となっていて、昭和、平成という元号が書かれていない。

 戦後は戦前とは違うということであろうか。

 そして、辻元清美女史、本多勝一氏などもよく平気でウソを言うが、この著者である土屋氏も

<和子らが訪豪したころ、文部省が旧日本軍の「侵略」を「進出」と書き改めさせた、歴史教科書問題が再燃し、中国などから猛反発を受けていた。>

p百六十七〜百六十八

と、書くのは本当にそう思っているからだろうか?

 それとも、このような事実がないのにそれを事実としたいだけなのだろうか。

 今日は午後より銀行に寄ったあと古本屋に寄るがあまり収穫なし。

 風呂に入り、布団の中で本を読んでいたらそのまま灯をつけっぱなしで寝てしまった。

 酒は飲まず。



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