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酒たまねぎや飲んべえ日記

この日記の文責は、すべて酒たまねぎや店主である木下隆義にございます。



忘れてはならない事

3月31日火曜日晴れ △

 イラン・イラク戦争とは昭和五十五年(一九八〇年)から昭和六十三年(一九八八年)にわたる戦争である。昭和六十年(一九八五年)三月一六日、イラン日本大使館は、イラン国内に滞在する日本国民に出国勧告を出した。

 二十日から現地の正月休みに入るため多くの日本人は出国する予定で航空機のチケットを買っていたが、イラクの爆撃でテヘラン発国際便の運行中止が相次ぎ、予定どおり出国できた日本人はごくわずかであった。

 そんな中、翌日三月十七日になって、イラクのフセイン大統領は、イラク軍は四十八時間後の十九日午後八時三十分(日本時間二十日午前二時)以降、イラク上空を航空禁止区域とし、上空を飛ぶすべての飛行機はたとえ民間機であっても無差別に攻撃すると宣言した。

 日本政府は、日本国民救出のための日本航空、自衛隊機などのテヘラン派遣を検討したが、結局救援機を派遣しなかった。

(日本航空は労働組合の反対、期日までの脱出が困難と判断。自衛隊は当時の社会党などの反対により、海外在住同胞のための法的不備などによる)

 どう言い訳しても、時の日本政府(中曽根康弘第二次内閣)は三百人以上の日本人同胞を見捨てたのである。

 

以下は手元にある「明治の快男児トルコへ跳ぶ 山田寅次郎伝」(山田邦紀 坂本俊夫 現代書館 平成二十一年刊)よりの引用です。

以下引用

 日本からの救援機がこない事を知ったイランの日本大使館員たちは、大使の野村豊を中心に、テヘランに航空機を乗り入れているすべての国の大使館や航空会社と連絡を取り始めた。すでに脱出し人を除き、この時点(三月十八日夜)でテヘランに取り残された在留邦人はまだ三三八人もいた。

 数十人はなんとか他国の航空機に乗せられるとしても、まだ二百席以上の座席が必要だった。大使館員たちは必死に掛け合ったが、どこも自国民の脱出で手一杯。逆に「どうして日本は救援機を出さないのか?」と質問される有様だった。

 もはや事態は絶望的だったが、そんなときに日本人のために救援機を出してくれたのがトルコ航空だった。親友である伊藤忠商事・森永堯(イスタンブール在住)のたっての依頼を受け、トルコのオザル首相(のちの大統領)が特別便を飛ばす事を決断したのだ。

 オザル首相の命を受け、トルコ航空ではすぐさま日本人救援機の整備が開始された。トルコ航空特別便に乗るパイロットを募ったところ、全員が手を挙げたという。トルコ航空では十九日に最終定期便を飛ばす事にしていたが、もう一機を臨時に飛ばして日本人を救うというのがトルコ航空の計画だった。

 イラク軍の設定した安全運行の最終日である三月十九日、テヘランのメヘラバード国際空港は各航空会社の最終便に乗ろうと一〇〇〇人以上が詰めかけ、空港ビルはごったがえした。ソ連のアエロフロート二機は自国民、東欧諸国の人たちを優先したため、せっかくアエロフロートのチケットを手に入れながら搭乗を断られる日本人も大勢いた。

 そうなると、エールフランス(パリ行き)の最終便、ルフトハンザ航空(フランクフルト行き)の特別便、オーストリア航空の定期便と特別便(ともにウィーン行き)、そしてトルコ航空の定期便と特別便(ともにイスタンブール行き)が搭乗の最後のチャンスとなる。

 オーストリア航空やエールフランス、ルフトハンザ機のチケットを持っていた日本人およそ五十人はこれらの航空機で出国していったが、あとの日本人はトルコの救援機を待っていた。

 野村以下、大使館員たちも空港にかけつけてトルコ機を待っていた。大使館員たちは全員イランに残る事を決め。日本人を脱出させるために全員徹夜で仕事をしていた。

 うち二人はトルコ航空機に乗れることを知らせるためにテヘラン中を駆け巡り、日本人を探し出してはそのことを知らせて回った。大使館員の中には死を覚悟し、両親に遺書を残した人もいた。

 ようやくトルコ航空の一番機がメヘラバード国際空港に到着したのは十九日午後三時。すぐさま給油作業が始まった。燃料補給が終わったのは午後四時三十分。残り時間は後四時間だ。一番機(日本人乗客は百九十八人)が飛び立ったのは五時十分。続いて二番機が着陸。給油を終えて飛び立ったのは一番機に遅れる事二時間二十分後の七時三十分(日本人乗客十七人)。撃墜予告まであと一時間しかないという際どさだった。

引用終わり

(「明治の快男児トルコへ跳ぶ 山田寅次郎伝」(山田邦紀 坂本俊夫 現代書館 平成二十一年刊)P二百九〜二百十一より

 その後、平成九年一月の産経新聞に掲載された記事で元駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏(ネジャッティ・ウトカン氏)は次のように語られた。

 

 <勤勉な国民、原爆被爆国。若いころ、私はこんなイメージを日本に対して持っていた。中でも一番先に思い浮かべるのは軍艦エルトゥルル号だ。

一八八七年に皇族がオスマン帝国(現トルコ)を訪問したのを受け一八九〇年六月、エルトゥルル号は初のトルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。

 悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関係の始まりでもあった。この時、乗組員中六〇〇人近くが死亡した。

しかし、約七十人は地元民に救助された。手厚い看護を受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。

エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。>

 この記事の後、平成十一年(一九九九年)八月十七日、死者一万七千人以上を出したトルコ北西部大地震があった。

 それに対して、我が国から神戸の仮設住宅五百戸を載せた海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」が掃海母艦「ぶんご」、補給艦「はやせ」とともに九月二十三日、大震災に見舞われたトルコに向けて出港。その後、十月中旬に五百戸が民間商船によって運ばれた。

 その仮設住宅の建ち並ぶ西部サカリヤ県アドリエ村は別名「日本トルコ村」と呼ばれ、ピーク時に約五〇〇〇人の人びとが身を寄せていた。移設の際にはドアに日の丸が張られ、路地は「東京通り」「神戸通り」などと名付けられたという。

 巨額のODAに対しても支那からは感謝の言葉すらない。四川の地震の時の我が国からの救助隊に対して支那政府の対応も醜いものであった。

 我が国からの援助に対しては隣の南北朝鮮も同じである。

 北京空港、ソウルの地下鉄等の例をみるまでもなく、支那、南北朝鮮は国民にさへ我が国からの援助ということを知らせないようにしている。同じ援助にしてもこのように対応が違う。

 

 どうせだったら、普通の国に対して援助をしたいものである。

 先の日記にも書きましたが、トルコの人びとは百二十年も前の出来事を覚えていて恩を感じてくれているが、

我が国はたった二十四年前の恩すら忘れようとしている。

 このような国の人びとから忘恩の民と言われないようにしたいものです。

 別の意味で、支那人の長野での行動も子孫のためには忘れないようにしたいものです。

 

 小胡子さん来店。Iさん来店。Kさん来店。Mさん来店。

 飲む。ドンチャン。記憶あり。


ない

3月30日月曜日晴れ ○

 当店のお客様のKくんは「みずほちゃん、かわいいじゃあないか」とか言っていたが、Kくんのセンスには私にはついていけません。

 その「カワイイ」(オェ・・)福島女史が三月二十六日の予算委員会で

「迎撃ミサイルが目標に当たったら残骸(ざんがい)が落ちる。当たらなくともミサイルは向こう(国外)へ行ってしまう。国内外の市民に被害はないといえるのか」

「当たらない場合は国益を侵害し、当たった場合でも単なる人工衛星だったらどうなるのか」

と発言して、世の中に土井たか子前党首から続く社民党党首の伝統芸を披露してくださいました。

(ちなみに、土井たか子ダイセンセイは初めて海上保安庁が不審船に威嚇攻撃したときに

「逃げてる船に追いかけ、あろうことか、威嚇攻撃までするとはなんたることですか!」

とすばらしい発言をされ、心の祖国である北の将軍様を喜ばせていらっしゃいます 。)

 

 今日配信されてきた「福島みずほの国会大あばれ2009/03/30号」(まあ、この題名もいかがかと思いますが)に、

その事がどう書かれて居るか楽しみだったのですが、

ないんです・・・・・・・・・

一言もないんです・・・・・・・

その伝統芸が

「3月26日(木)

 予算委員会と厚生労働委員会。

 国会見学に来てくれた生徒さんたちが、両方の委員会を膨張をしてくれる。

 雇用保険法の改正など、細かい議論もあるので、面白くなかったのでは心配

をしたが、「面白かった。」「身近に感じた。」と言ってくれた。

 予算委員会での質問が続く。 

 夜は、派遣法の抜本改正を求める集会。

 派遣切りの現場の話などが相次ぐ。

 今、社民党と民主党と国民新党で、派遣法の抜本改正案を巡って、1週間に

1回のペースで、勉強会をしている。

 今、国会に出ている政府案は、ひどいものである。事前面接解禁がはいって

おり、規制緩和である。

 

 政府に対して、この法案を取り下げるべきだとせまっているが。

 こんな法案でいいわけがない。

 派遣切りが横行をしているのに、なんの反省もない法案である。

 この政府案に対抗をして、法案を出し、なんとしても抜本改正案を成立をさせたいものである。」

これがすべてです。

ミサイルのミの字もありません。

念のため、「福島みずほのどきどき日記」http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/

(この題名も如何かと思いますが、なにしろ平成十四年九月、北朝鮮の拉致が明らかになり、それを否定してきた社会党への批判がある中、十月に銭集めパーティを開いて天使のコスプレをやったような人ですからしゃーないのかも)

も確認してみましたが書かれていません。

 福島センセイ、せっかくの質問をどうして書かないのでしょう。

もったいない。

偉大なる将軍様ががっかりされますよ。

あほらし

 今日はゴミを出しに外に出ただけで、

あとは部屋でマンガを読んだりして一日中ゴロゴロしていた。


カレラ・ジャンセン1987

3月29日日曜日晴れ △

 Tさんと「カヴェルナ」さんに伺う。

 御願いしてあったオーナーの森さんのコレクションの中から「カレラのジャンセン一九八七」を開ける。

 私は、カレラのセレックが好きでしたが、

一九八〇年代のカレラはここ十年ほどは飲む機会がほとんどなかったです。

 ほんとに久しぶり。

そのあとは、ポートワイン、マディラワイン、シングルモルトなど。

ただ、テランテス一八八〇が底に残った部分で、澱が多く、商品として出せませんということで、サービスで出していただきましたが、

残念でしたが、ある意味貴重な経験。

ありがとうございました。

テランテス一八八〇はこのボトルが最後とのこと。

このカヴェルナさんでテランテス一七九五をいただいたのは、もうずいぶん前。

その後、これも、今はボトルの在庫が無くなってしまったが、

マルヴァジア一八三四、一八七五、一九〇一なども楽しませていただいたのもこのお店。

この店で、マディラワインの楽しみを教えていただいたと思います。

今日は、マルヴァジア一九〇〇、ヴェルデリヨ一九六六などを飲む。

日本酒とはまた違った楽しい夜でした。

今日、千秋楽だった大相撲は、優勝した横綱白鵬は君が代を歌ったのだろうか?

歌っても、どうせ、NHKだと映さんでしょうね。

競馬の中継の時に、君が代が流れている間、ず〜と馬の尻を映していた放送局ですから。


 

根三つ葉

3月28日土曜日晴れ ×

 昨年暮れに使った後の根三つ葉が今回初めて根腐れしませんでした。

いっしょに買ってきた二つの根三つ葉。

容器が関係あるようで、右のように浅い容器の方が元気みたいです。

右の容器の三つ葉の根は新しい根が多く出て元気だが、左の容器の根は元気が無い。

左の二つのコップは昨年も使いましたが、すぐに根腐れしてダメでした。

右の二つが今回使用した容器です。

 

   午後よりスポーツセンターに行く。

高校生の連中が来ていたが、なに部が知らないが、これがまた規律も何も無いアホ高校生連中ばかり。

 Yさん来店。Kさん二名様で来店。マルガリータさん、Sさん来店。一名様来店。Oさん来店。マロさん来店。

 ドンチャン。

 今日も電話で予約しておきながら、来なかったアホがいた。ナンバーディスプレイを知らないのだろうか。

電話かけたろうか。


お役所仕事

3月27日金曜日晴れ △

 曽野綾子さんが、Voice平成二十一年四月号に、掲載している「私日記 第百十二回」に今年の一月十五日に外務省の飯倉別館でおこなわれた中曽根外相のレセプションに招待された時の事を書かれている。

「ご招待を頂いておいて申しわけないが、私への招待状は三年も前に辞めた日本財団に今回も届けられた。この三年間に何回か、私はもう日本財団に務めておりません。今後は個人の住まいにご連絡ください、と外務省に通知したのだが、それでも訂正はできていない。つまり外務省というところはこんな素朴な情報さえ扱えないところなのだ。」

p二百五十三

 これは、外務省に限ったことではないのではないでしょうか。

 恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」(草思社 二〇〇六年)には「序章 日英海軍のきずな」のその一に「英国のもと外交官、日本の海軍士官の消息を尋ねて来日する」として、元英国海軍中佐サムエル・フォール卿が命の恩人である工藤俊作中佐の消息を捜し続けてきたが、昭和六十二年に八年前の昭和五十四年に他界した事を知った。その墓参りをし、遺族に感謝の意を表明したいと平成十五年十月に来日したが、墓所さへ判らずに失意のうちに帰国した。

 工藤俊作中佐(のちの大佐)の消息とはそれほど判りにくいものであったのか。

 フォール卿は昭和五十四年八月十四日には、遠洋航海で英国ポーツマスに寄港した海上自衛隊の練習艦隊司令官植田一雄海将補(海兵七十四期)は、英国海軍連絡士官より工藤俊作元中佐の消息を探してくれるように正式な要請を受けていた。

 しかし、植田海将補は帰国後「調査は無理」であると判断し断念していた。

 その断念した理由の一つに「雷」の生存者のうちの一人である元士官谷川清澄元少佐(海兵六十七期 戦後海上自衛隊海将)に対して、どうしても尋ねる雰囲気になれなかったとある。

 ところが、来日時約束したフォール卿の願いをと恵氏は工藤元中佐の消息を探し、この谷川元少佐に会い、協力を約束され、同六十七期、駆逐艦「野分」元水雷長青木厚一少佐を紹介された。

 恵氏は他にも山形銀行取締役安達忠陽氏にも調査を依頼しているが、結果として、青木氏が工藤元中佐の墓の所在地、ご遺族の甥の工藤七郎兵衛氏の所在が確認することができたと書かれています。(同書p十二〜三十)

 つまり、植田海将補から命じられた部下は、形だけの調査をしただけで、それを植田海将補に報告し「調査は無理」という結論になったとしか思えません。

 やっぱ、腐れお役所仕事

 今日は当店としては珍しくメチャ忙しい。

バンブーさん来店。中学の同級生の奥野の娘さんであるミカさん四名様で来店。同級生の娘さんが・・・・同級生には孫までいる奴が多いから当たり前だけど・・・・

 Nさん三名様で来店。Mさん四名様で来店。Fさん二名様で来店。Tさん来店。

営業終了後、Tさんと「エムズバー」さんに伺う。

 今日、予約しておいてこなかった人がいた。その人のおかげで、お電話をいただいた当店のお客様数名様に迷惑をおかけする結果になってしまった。


 

いまさらながらですか、

フジテレビドラマ「戦場のなでしこ隊」の醜い嘘 追記

3月26日木曜日晴れ ○

 昨年の十月にフジテレビドラマ「戦場のなでしこ隊」の醜い嘘というのを書いたが、その後、すぐにこのテレビドラマを録画したDVDを、親しくさせていただいているIさんというお客様から観せていただく機会がありました。

当時、Iさんと話をしていて、すぐに私が否定したことがあります。

 それは、ドラマにも登場する穴澤利夫少尉(二階級特進後大尉)の婚約者である孫田智恵子さん事です。

 このドラマを観ている人はほとんどは、穴澤少尉の婚約者であった智恵子さんという方が、戦後も穴澤少尉のことを思い続けて独身のままでいらしたと思っているのではないでしょうか。

 当然、Iさんもそうでした。

 Iさんがそう思ったその原因は、観ているものをそのように思わせるこのドラマの作り方にあると思います。

 残された孫田智恵子さんあての穴澤少尉の遺書には下記のような箇所があります。

「あなたの幸せを希う以外に何物もない。

 徒に過去の小羲に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。

 勇気を持って過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。

 あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。

 穴沢は現実の世界にはもう存在しないのだ。

 略)

今更何を言うかと自分でも考へるが、ちょっぴり欲を言って見たい。

    今後は明るく明らかに。

    自分も負けずに明らかに笑って征く

   

     昭和二十年四月十二日       」

 孫田智恵子さんは、この穴澤少尉が「あなたの幸せを希う以外に何物もない。徒に過去の小羲に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。」と遺書に書かれたように、昭和二十九年、友人の紹介により伊達亟夫氏と結婚して、孫田より伊達に性が変わっているのです。

 (昭和四十八年に夫である伊達亟夫氏はお亡くなりになっている。)

 ところが、婚約者である孫田智恵子さんの苗字、「孫田」という苗字が一度もこのフジテレビのドラマにはただの一度も出てこない。

 出て来るのは伊達智恵子という名前と「六十三年間ひとりの男性を思い続ける」というナレーション。
 「六十三年ぶりの対面」という穴澤少尉との軍服を抱いて嗚咽する場面でのナレーション。

 いずれも伊達智恵子さんと紹介されている。

 主人公のひとりであるなでしこ隊の前田笙子さんは、結婚して永崎笙子さんに変わったことなど、画面には何度も「永崎笙子(旧姓前田)」とわざわざ書かれている。

 昭和四十四年に永崎笙子さんを訪ねる場面では画面には下記のように

「穴澤の婚約者 伊達智恵子 (45歳)」と表示される。

 「永崎笙子(旧姓前田)」とは表示しているのに、「伊達智恵子(旧姓孫田)」と表示しないのである。

 

 伊達智恵子さんは、両足が不自由になった夫の伊達亟夫氏がお亡くなりになるまで一生懸命尽くしてこられたそうです。そして、その後の人生を、先の遺書の最後にあるように「智恵子 会いたい、話したい、無性に」と遺書に残された穴澤少尉との思い出に浸りながら生きてきたとしても何もウソはないでしょう。

 フジテレビのこのドラマは、そんな智恵子さんの結婚を隠すことにより、戦争の悲惨さを描こうとしたのかもしれないが、それは、知恵子さんの夫である伊達亟夫氏だけでなく、この遺書に記されている穴澤利夫少尉の思いを蔑ろにしているとしか私には思えない。

 

 このドラマが参考にしたという「特攻の町・知覧」の著者佐藤早苗氏は、続編である「特攻基地 知覧 始末記」(光人社 二〇〇八年刊)にあとがきとして下記のように書いています。

長くなりますが、その一部を引用したいと思います。

以下引用

<一番驚いたことは、日本人の変貌である。一分の隙もなく、今も厳然と存在しているのは、まさにぶれることなく敵艦めがけて目的を果たした特攻隊員たちだけだった。

 そしてそれをありのまま保ち、伝え続けているのは靖國神社や、特攻祈念館など、特別な場所だけだ。つまりそこに行って自分で確かめなければ、真実には出逢えないということだ。」

 この「変貌」は、決して歴史の風化でもなければ忘却でもない。明らかに人為的意図的改竄である。

 現代人が、自分たちの価値観や好みに合わせて勝手に「特攻」を作り替えてしまった、ということだ。

 人間一人の命の重さとか、あの戦争は間違っていたとか、これらは戦後の考え方で、当時はなかった価値観だ。

 それぞれの考え方で、戦争や「特攻」を論ずるのは自由だが、「事実」を歪曲するのは間違っている。恐らく戦後教育を受けた世代に迎合した小説や映画を作っているうちに、徐々に本来の真実の姿までねじ曲げてしまったのだろう。

 もっともわかりやすい例を一つあげると、「特攻隊員たちは、みんな嫌々出撃していった」という決めつけだ。これは、天皇陛下のためだの、国のためだの、肉親のために自分の命をかけて敵艦に突っ込むなど、絶対にできない現代人が、自分の能力で憶測し、作り上げたフィクションだ。

 平和な世の中に暮らす人たちが、たった六十三年前のこととはいえ、突然逆転した価値観を徹底的に植えつけられたことを思えば戦争中の切迫した状況は想像しにくいのは解る。

しかし、現実は現実として認めるべきだ。

 私も戦争には絶対に反対だし、まして特攻作戦などという無計画で刹那的な作戦は認めない。だが、それとこれとは別問題だ。いいことも悪いことも、納得できないことも、事実は事実として受け止め、公正な歴史を後世に伝えなければならない。どんな歴史であっても、それは決して切り離された「額の中の絵」ではない。時間は必ず繋がっていて、その上に新しい歴史を紡いで行くことになる。>

引用終わり

(「特攻基地 知覧 始末記」佐藤早苗 光人社 二〇〇八年刊)P二百二十五〜二百二十七

 このドラマのように「永崎笙子さんの証言と、当時の貴重な日記を元にドラマ化。ドキュメンタリーを織り交ぜながら、少女たちだけが見た封印され続けた特攻隊の真実に迫る。」といいながら、事実を隠し、なかった事を事実のように描くことが許される筈もありません。

 何度も書きますが、特攻という戦法については当然批判されるべきであるが、

国を守るために散華された先人については、その覚悟、生き様は事実を伝えるべきであると思います。

 Hさん来店。初めてのお客様女性の方が二名様。でっ、テーブル席に座られた後、「紹介された人から日本酒の店聞いていたのですが、すみません、あとで来るひとりが日本酒全然飲めないのです。出直してきていいですか」「どうぞ、どうぞ」と言ったもんの、うちの店、どんな紹介のされ方したんでしょう。

Tさん四名様で来店。銭湯帰りのマロさん来店。Mさん来店。

今日も、結局飲まず。


雁屋哲

3月25日水曜日雨 ○

 下記は雁屋哲氏の雁屋哲の美味しんぼ日記「野球は戦争じゃないよ」と題されたホームページの3月24日の日記の一部です。

以下引用

いや、どうせ韓国に勝てっこないし、原稿も一杯一杯でな」

「ふうん、今、2点差で日本が勝ってるよ」

「どうせ、逆転負けするさ」

「あ、今一点入れられた。一点差になっちゃった」

「ほらな」

「じゃ、最初のところを見てないな」

「何かあったの」

「開会式のセレモニーでさ、国旗掲揚とか国歌斉唱とかするだろう。その時の日本の選手たちの態度が実にだらしないんだ。 ガムなんかくちゃくちゃ噛んでさ、だらだらしてんだよ。

 それに引き替え韓国の選手たちは、姿勢はぴちっとしてるし、実に引き締まった、礼儀正しい態度なんだ」

「ガムかあ」

「おれ達が子供のころ学校でガム噛むなんて許されなかっただろう」

「そりゃ、そうだ」

「人前でくちゃくちゃやるなんて最低じゃないか。それも、開会式のセレモニーでだぜ」

「まあな。君が代を歌うのがいやなら、控え室にいればいいんだし、ただ、黙っていてもいいわけだしな。他人にとっては大事なセレモニーを汚すことはないよな」

「だろう、見てて凄く不愉快だった」

だから日本は韓国に勝てないんだよ。ソニーだってサムソンにこてんこてんだしな」

「どうして日本はこんなになっちゃったんだろうな。腹が立つよ」

略)

 私は君が代も日の丸も大嫌いだ。

 だが、サッカーの国際試合の時に両国の国旗掲揚、国歌斉唱となって周りの人間が立つと、みんなの雰囲気を壊すと悪いから一応は立つ。国旗は別に見ないし、君が代なんか、ああいう音楽的に劣悪な物を口にすると、せっかく歌は上手だとみんなに讃められているのに、その歌が下手になるおそれがあるから、死んでも歌わない。

 大体、あのあほらしい文句を口にする勇気がない。

略)

 あ、WBC では、日本が勝ってしまったようだね。

 日本ではただ喜んでいるようだが、韓国は大変みたいだね。

 韓国では、これは野球の試合ではない。韓国を植民地化した最悪の人間、伊藤博文(言っておきますがね、韓国にとってだけでなく、日本にとっても最悪の人間だったんですよ)と、伊藤博文を殺した安重根をとりあげ、伊藤博文をイチロー、安重根を韓国の投手に見立てて、この試合は単なる野球の試合ではなく戦争だ、などと物騒なことを韓国の有力な新聞で言っておりました。

略)

 私が、何時も言っている愛国心とは、自分の育った国に対する感謝の念と、その地方で、その文化を共有する人間にたいする愛情だ。

 他国にたいする、敵愾心などとは無縁の物だ。

 敵愾心ではない。自分のひいきのチームが勝ったら気持ちがいい。

 それだけの話だ。

略)

 韓国残念。

 でも、過去の戦績を見てご覧なさい。韓国の圧倒的勝利の記録。

 今回日本が勝てたのは幸運の限りであって、次に試合をすれば韓国が勝ちますよ。

 チームというか、一つの団体になったときの韓国人の力は凄いんだから。

引用終わり

いかがでしょう。

<「いや、どうせ韓国に勝てっこないし、原稿も一杯一杯でな」「ふうん、今、2点差で日本が勝ってるよ」「どうせ、逆転負けするさ」「あ、今一点入れられた。一点差になっちゃった」「ほらな」>

< あ、WBC では、日本が勝ってしまったようだね。>

<韓国残念。

 でも、過去の戦績を見てご覧なさい。韓国の圧倒的勝利の記録。

 今回日本が勝てたのは幸運の限りであって、次に試合をすれば韓国が勝ちますよ。

 チームというか、一つの団体になったときの韓国人の力は凄いんだから。>

 私は、疑問に思うのは、雁屋氏はどうして我が国が南朝鮮に勝った事をこのように書けるのだろうか。

 まずそれが不思議でならない。

 祖国が勝つ事がうれしくないのであろうか。

 雁屋氏の書く<敵愾心ではない。自分のひいきのチームが勝ったら気持ちがいい。 それだけの話だ。> とは、南朝鮮のチームを贔屓にしていて、負けたから喜べないということなのだろうか。

 ましてや、

<私が、何時も言っている愛国心とは、自分の育った国に対する感謝の念と、その地方で、その文化を共有する人間にたいする愛情だ。

としながら、

<私は君が代も日の丸も大嫌いだ。 だが、サッカーの国際試合の時に両国の国旗掲揚、国歌斉唱となって周りの人間が立つと、みんなの雰囲気を壊すと悪いから一応は立つ。国旗は別に見ないし、君が代なんか、ああいう音楽的に劣悪な物を口にすると、せっかく歌は上手だとみんなに讃められているのに、その歌が下手になるおそれがあるから、死んでも歌わない。

 大体、あのあほらしい文句を口にする勇気がない。>

と書く。

 我が国の歴史を捏造してまで、そして、現在の事実までも捏造してまで、雁屋氏にとっては祖国である日本の歴史、現状を歪め、否定するのはどうしてでしょう。

参考→雁屋哲「美味しんぼ」のウソ 朝鮮編

   雁屋哲「美味しんぼ」のウソ オーストラリア編

 私には、雁屋氏が書かれているような「自分の育った国に対する感謝の念」があるとは到底思えない。

 我が国の国旗、国歌は大嫌いであるという雁屋氏はいったい国旗とは国歌とはどのようなものと考えているのであろうか。

 日本は好きだが、日の丸、君が代が嫌いなだけだとおっしゃるかもしれませんが、日の丸のどこが嫌いなのであろう。

 遠くからみても一目で分かるシンプルでいて、デザインとしてもすばらしい。どこかの国旗のように、間違った国旗を書かれる事も無い。(自国民でも間違っている輩が居る)

 日の丸にまつわる歴史が嫌だというなら、支那、朝鮮、米国、英国、ドイツ、ロシア、オランダ、スペイン、

どこの国でもいいから、もう少し歴史を学ばれた方がよろしいかと思う。

 午後からスポーツセンターに行く。昨日出来なかった肩、腕、下半身などのメニューを消化。

 Tさん来店。Eさん二名様で来店。マロさん来店。

 今日も飲まず。う〜ん・・・・・


 

なるほど

3月24日火曜日くもり 寒い ○

 産経新聞の「断層」というコラムはいろいろな人が書いているなかなか面白いコラムです。

 で、三月十九日は、呉智英氏が福田和也氏が絶賛していた桐野夏生氏の「グロテスク」という小説が醜かった、

今、週刊新潮に連載中の「ナニカアル」もそうであると指摘していた。

  私は新聞のもそうですが、週刊誌に連載している小説はほとんど読まないまま、その週刊誌を少しとっておいてから捨ててしまう。

 部屋に帰って、その少し前の週刊新潮を探して読んでみた。

 呉智英氏の指摘されている桐野氏の小説は、週刊新潮平成二十一年三月五日号のP七十五〜七十七に掲載されていたが、なるほど、ひどいものである。

 時代背景は昭和十七〜八年になっている。林芙美子のこと題材に書いているのだが、呉氏が指摘していたように

<もし、誰かが起きだして来たら、トイレに行く、というしかなかった。>

<トイレに行って、帰って来た振りをして>

<食事の後、トイレに行こうと白衣を羽織ろうとしたが>

 と、文中に何度も「トイレ」という単語が複数の人間の言葉の中に出てくる。

<昭和十七年に「トイレ」なんて言葉があったか。便所、御不浄、手洗い、だろう。英語は敵性語だぜ。「トイレ」が広まったのは昭和四十年頃からだ。>

と、呉氏がコレムに書いているように、そんな時代に「トイレ」などという単語が一般化している筈もない。

 そしてこれも呉氏が指摘していたが、牧野伊三夫氏のイラストも醜いもので、

旭日旗を書いているイラストの地図には、「中国」と書かれている。当時であれば、当然「支那」であろう。

 支那の事を中国などと言っていた日本人は皆無でしょう。

 シンガポールを「昭南」などという現在では使われていない地名で描かれているのですから。

 他には「病院船を表す赤い十字に点ったイルミネーション」「下から見上げる酒井の顔が、イルミネーションで赤く染まり、全く違う男に見える」というのもどうなんでしょう。

「病院船を表す赤い十字に点った電飾」あるいは「病院船を表す赤い十字に点った電球」とかいう方が、当時としてはぴったりときそうに私などは思うのですが。

そんな言葉の小さな違いはどうでもいいんだ、現代人に読み易く、分かり易く書いているのだというのでしょうか。

「飢えて」というところに、わざわざ「かつえて」という振仮名をわざわざふっているのであるぐらいですから、桐野氏には当然、表現にそれなりのこだわりがあると思うのですが。

 当店にもいろいろな出版社の人がいらしてくださるが、そのうちの御一人がおっしゃっていた事を思い出します。

 「編集者が作家の言いなりになったら、その作品は面白くなくなる」

 この桐野夏生氏の担当編集者って、きっと、桐野氏のお気に入りなんでしょうね。

 イエスマン・・・・・・いいなり・・・・

 なるほど・・・・・・

 うちのお客様のKさんは、編集者のころ、手塚治虫氏に「原稿を直してください」と御願いして、

目の前でその原稿を破られて、真っ青になったことがあるそうです。

 でも、手塚氏は結局原稿を書き直してくださったそうです。

 河岸に行った後、仕込みを終えてからスポーツセンターに行く。

 というより、WBCが終わったからスポーツセンターに行く。

 スポーツセンターでもやはり同じ状況。

 三時まではガラガラだったのが、それからゾロゾロと。私が帰る四時半ごろには平日としては多い人数の人がいらしていました。

 店の方はヒマ。

 「エムズバー」さんのご紹介という若いカップルの方が来店。

 小胡子さん、BOOちゃん来店。

 今日は飲まず。というか、ヒマなので、タレを作ったりしていたら、そのまま営業時間が終わっちまいました。

 タマタマですが、今日で四日続けて飲んでいないことになる。


3月23日月曜日晴れのち曇り 風強し ○

 朝起きると、足は当然ながら背中、肩、二頭筋、前腕などが痛い。

 午後より銀行に寄り記帳、携帯電話のクレジットカードの手続きなどした後に、古本屋さんに寄る。

今日の一番の収穫は「私が朝鮮半島でしたこと」(松尾茂 草思社 二〇〇二年刊)。

 松尾氏は昭和三年、十八歳の時より終戦まで養父松尾梅次郎氏の属していた中村組において土木工事の責任者として終戦まで朝鮮半島にて過ごしている。

 当然、松尾氏は朝鮮人を部下に使い仕事をしている。そして、この著書には当時の貴重な写真が豊富に掲載されている。

 同時に購入した「カンボジアはどうなっているのか?」(本多勝一 すずさわ書店 一九七八年刊)はお笑い本。

 部屋に帰ってきてから、いつものとおり、ジーパンを繕おうかと思ったが、

あまりにも広範囲にわたり生地が薄くなっているので、諦めて捨てることにする。

 今日も酒は飲まず


柏崎市の醜い行為

3月22日日曜日雨 ○

 URAホームページの掲示板への投降で知った柏崎市の会田等市長によるトルコ文化村処理は、親日国トルコに対する侮辱であり、我が国の恥であると思う。

 とくにトルコ政府より寄贈されたトルコの初代大統領ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ)の銅像に対しての行いは醜すぎます。

 トルコは約一〇〇年前の一八九〇年のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号の事は忘れずに、イラン・イラク戦争下の昭和六十年(一九八五年)三月にテヘラン空港に取り残された二百人以上の日本人を救うためにトルコ航空は救援機を出してくれた。

 

 我が日本国の国民と政治家は、たった二十四年前の事すら忘れているのである。

 来年は「トルコにおける日本年」だそうだ。それに合わせていろいろな行事が予定されているそうだが、

両国友好百二十年を記念する我が国の現状は御寒い限りである。

 これが、支那や朝鮮相手だったらどうなのだろう。

 トルコにおいては現在でもこの軍艦エルトゥールル号の事は教科書に掲載されている。

トルコ航空の日本人救出のための救援機に乗るパイロットを募ったところ、全員が手を挙げたという。

 我が国では、トルコの近代のこの命がけの救出劇を教えないばかりか、この柏崎市の会田市長のように我が国の恥を曝して平気な輩もいる。

 今日は起きると肩、胸部、三頭筋などが痛い。

 夕方にスポーツセンターに行く。

 昨日できなかった腕、下半身のメニューを消化した後、有酸素運動。

 帰りに、高田馬場にある芳林堂さんに寄り「昭和東北大凶作」(山下文男 無明舎出版)などを購入。

 店に寄って生ゴミを出してから帰宅。

 今日は酒を飲まず。


 

鵜飼哲

3月21日土曜日晴れ ○

 古本屋で購入した「石原都知事『三国人』発言の何が問題なのか」(内海愛子、高橋哲哉、徐京植編 影書房 二〇〇〇年刊)を読む。

 内海愛子、高橋哲哉、徐京植の三氏編となっている時点で、香ばしさ満点。

 その中に鵜飼哲氏(一橋大学教員)の文章が掲載されています。

以下引用

 今回の石原発言で、私は、「自衛隊」という呼称が、「自警団」とほぼ同義であることに気がついた。「自衛隊」とは国営「自警団」なのだ。だから、わたしたちは、「自衛隊」の国軍化に反対するだけの護憲運動に満足してはならない。 今回の石原発言に含まれている思想と対決するには、「自衛隊=自警団」の<自>とはいったい何のことなのかを実践的に問う必要がある。 この国ではこれまでまれだった<沖縄戦など、けっして皆無ではない>が、世界の近代史は「自」国の軍隊による民衆虐殺を頻繁に目撃してきた。「騒擾」鎮圧の名目で自衛隊が出動するという、あってはならない事態が将来起きてしまったとき、私たちは、決然として、銃口を向けられた外国人の前に立たなくてはならない。私たちは、そのときはじめて、「自」国の治安部隊に対峙する民衆という・・・・あえて言おう・・・・栄光の歴史に連なることになるのだ。

 外国人を「自」宅にかくまい、必要とあれば外国人と「自」衛隊との間に割って入り、外国人のかわりに我が身を危険にさらすこと。

 私たちが「国民」であることをやめ「市民」になり始めるのは、おそらく、その時である。

引用終わり

 「石原都知事『三国人』発言の何が問題なのか」P七十六〜七十七

 しかし、醜い文章です。暴徒鎮圧もしてはならない。暴徒を匿おうと言っているのです。鵜飼氏は関東大震災の時にあったという「理由なき」朝鮮人虐殺を頭においているのかも知れませんが、どのような国でも治安のために暴徒を鎮圧するのは当たり前のことです。

 鵜飼氏の心の祖国でも同じでしょう。

 関東大震災においては、地震発生後すぐに一部朝鮮人が暴徒化し、下記のような記事が出ました。

<主義者と鮮人一味  上水道に毒を撒布  警戒の軍隊発見して発砲

 囚人三百名脱獄し、  鮮人と共に大暴状  混乱の横濱山下町付近に於いて  強姦略奪殺人をなす  静岡聯隊出動す  横濱刑務所の囚人三百名は脱獄し不逞鮮人とともに大集団となつて山下町付近に強姦、略奪、殺人を擅にしあらうる暴虐を遑しふして居る之れがため静岡歩兵三十四聯隊は出動した。>

下越新報 大正十二年九月三日 附録 

<不逞鮮人各地に放火  石油缶や爆弾を携へて>

 小樽新聞号外 大正十二年九月三日

<朝鮮人の暴徒が起って横濱、神奈川を経て八王子に向って盛んに火を放ってるのを見た。>

大阪朝日新聞 大正十二年九月三日号外

<不逞鮮人益々擴大  王子横濱方面に於いて軍隊と衝突

 不逞鮮人及び主義者の一派は其の後猖獗を極め、三日午前十一時三百余名手に手に爆弾を携え之を投じ或は放火し近衛師団の三個中隊と王子付近に衝突乱闘の結果三十余名捕らはる。尚○日午前四時四百名の○鮮人爆弾を持ちて横濱方面より襲来 討伐の一個中隊は少数の為に全滅の恐れあり、3聯隊の二個中隊急遽自動車に分譲して應援に向ふ 尚越後高田十三師團にも出動命令下り直に東京に急派>

荘内新報 大正十二年九月三日号外第十八報

<不遜鮮人一千名と横濱で戦闘開始  歩兵一個小隊全滅か  更に麻生聯隊から  一個中隊を派遣    鮮人の陰謀 震害に乗じて放火  東京に三千名蠢く  逮捕は頗る困難 

 発電所を襲ふ鮮人団  朝鮮人二千人 戸塚、大船、藤沢、○○、○○、○○の発電所を襲ひ>

 新愛知 大正十二年九月四日号外

<屋根から屋根へ 鮮人が放火して廻る  婦人凌辱 略奪>

 新愛知 大正十二年九月四日号外

<唯氷峠の上から列車爆破を企つ  松井田驛で逮捕された不遜鮮人の自白  爆弾を所持せる鮮人七八名が七時十三分松井田驛に下車せるを警戒中の巡査に逮捕され目下厳重取り調べ中であるが彼等と行動を共にする二三ものが爆弾を携帯して唯氷峠より同山麓を通過の列車を目掛けて>

<鮮人 浦和高崎に放火 高崎にて十余名捕らはる>

名古屋新聞 大正十二年九月四日号外第二

<鮮人一部の暴挙は既に完全に取締を遂行した

  警視庁の急告通達(三日付け)>

大阪毎日新聞 大正十二年九月四日号外第二

<政府の震災対策  政府は今回のさあ意外対策を講ずるため毎日午前九時および午後四時の二回閣議を開き善後策を討議決定することなつたが四日の閣議で決定した事項の主なるもの左の如し

一、千葉県習志野、下志澤の兵廠内へ負傷者約一万五千人を収容すること

略)

一、鮮人は警察力を以て一まとめとなし保護すること。

略)

一、宮内省の木材を一般的材料として建築に使用すること。>

大阪毎日新聞 大正十二年九月五日号外第二

<閣議決定の善後策  鮮人一萬五千名は習志野兵廠に之を収容し百名に付き一名づつの警察官を附して護衛すること。>

東京朝日新聞 大正十二年九月六日特報第三

 つまり、大正十二年九月一日午前十一時五十八分ごろに発生した関東大震災時において、

一部朝鮮人が社会主義者といっしょになり、暴徒化して放火、略奪、強姦などを繰り返したことは事実であり、

それに対して当時の我が国政府が迅速な軍隊の即時派遣による鎮圧したことは事実である。そして我が国は平穏を取り戻したことも事実である。その地震発生より三日目には一般の朝鮮人の保護を閣議決定し、即座に保護したことも事実である。

 

 

 そして、帝国海軍軍艦による食糧輸送が行われ、マニラ駐泊中のアジア米国艦隊が命令により、救援のために横濱へ回航という記事が掲載されています。(下越新報十二年九月三日付け)

 阪神淡路大震災に対する、時の政府であった村山富市、土井たか子、河野洋平らの対応と比べてもらいたい。

 どちらがまともな政府であるか。

 まあ、国民が苦しんでも平気でイタリアンピザの店を作る「偉大なる」首領様の国もありますけど。

 この鵜飼哲氏などは、災害のおりには暴徒化した一部外国人と一緒に暴れ回るつもりなのであろうか。

 普通の日本人では到底考えつかないことです。

 まあ、この本に書いている人たちは普通の日本人じゃあないから仕方ないですかね。

 普通の朝鮮人じゃない人も・・・・・・

 スポーツセンターに行く。 今日は時間がなかったので、上半身のみ。

 予想通り、ヒマ。

 横浜からお客様来店。Oさん二名様で来店。


東一の飲んべえの会

3月20日金曜日 晴れ △

 昨日の酒が残ったまま飲んべえの会に突入。

 出品酒
NO.1 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 選抜酒 平成20年 (19BY)
NO.2 東一   大吟醸 斗瓶取り 選抜酒 平成20年 (19BY)

NO.3 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 生   平成21年 (20BY) 
NO.4 東一  大吟醸 斗瓶取り 生   平成21年 (20BY)
NO.5 東一 純米大吟醸   生   平成21年 (20BY)
NO.6 東一  大吟醸 斗瓶取り 生   平成21年 (20BY)
 
NO.7 東一  大吟醸     平成16年 (15BY)

NO.8 東一 純米大吟醸 ワイン樽貯蔵   平成20年 (19BY)

 

営業終了後、Tさんと「カヴェルナ」さん、そして、もう一件はしご。

今日は珍しく最後まで記憶あり。


天に唾するアホ朝鮮人

3月18日水曜日晴れ △

 先週の産經新聞のニュースで国連の潘基文事務総長が十一日、米下院外交委員会のメンバーとの会合で、国連分担金を滞納

している米国を「最大の踏み倒し屋だ」と発言し、議員側から猛反発を受けたというのがありました。

 この方は、南朝鮮出身ですが、南朝鮮が国連分担金だけでなく、ODA、スマトラ沖地震義援金などどのような事をやってきたかご存じないようです。

 ましてや、国連分担金については、この人の祖国である南朝鮮の滞納率が常にトップということをご存じないようです。

 自称先進国である現在においても売春婦の輸出大国であり、それでいて、大東亜戦争中の慰安婦を非難し続けている朝鮮人らしいといえばそれまでですけど。

 Mさん二名様で来店。バンブーさん来店。玉城ちゃん四名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。Sくん来店。Tさん来店。Mさん来店。Mさん来店。KくんNさんと来店。二名様来店。Kさん来店。

今日はどういうわけか大忙し。

営業終了後、KくんとMさんと一緒に「カヴェルナ」さんへ伺う。その後、Mさんと中野の「石松」さんに伺う。

帰りは朝・・・・・・


アホ記者とアホジャーナリスト

3月18日水曜日晴れ △

 早々と削除されてしまったのか?元記事が見当たりませんが、

<麻生首相の無知が久々に炸裂!「ずかい」

 麻生太郎首相が、「言葉の問題」で久しぶりにミソをつけた。

13日、バレンタインデーのお返しとして女性番記者へ渡した直筆の手紙に、「御心ずかい」という一文があった。「ずかい」ではなく「づか(遣)い」が正解。 日ごろ、麻生氏の漢字間違いをチェックしているだけに、 すぐに「間違いだ」「心遣いと漢字で書けなかったのか」と、話題になった。

 麻生氏は贈呈の際、「男性は関係ない。女性!」「ジャーン!」とご機嫌で、ホワイトデーにちなんで白いICレコーダーも添えられた。一言一句を厳しくチェックする「武器」を贈られた番記者の発言チェックには、今後さらに熱が入りそうだ。>

日刊スポーツ平成二十一年三月十四日 

http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20090314-470958.html

   今日発売の週刊文春でも、ジャーナリストの藤本順一氏が、

「麻生首相 なぜひらがなも間違える」と題して

<「ひらがな」さえ間違えるというのだから、新聞にとっても絶好のネタに思われるが、これまで「漢字が読めない首相」とさんざんコキ下ろしてきた一般紙が、不思議なことに今回の事件には一行も触れていないのである。>

(週刊文春 平成二十一年三月二十六日号P百八十より)

と書いている。

「心づかい」が正解とか、「心づかい」「心ずかい」のどちらでもいいとかいろいろあるようですが、

それよりも、首相からのプレゼントに添えられていたメッセージを晒して喜んでいるアホ女性記者とアホジャーナリスト(自称)の頭の中身の方が問題ではないでしょうか。

 実家が淡路島の同じ部落。小・中学校と同じだった柏木がHさんと来店。

 小胡子さん二名様で来店。Tさん来店。Bさん来店。

 今日は早い時間からドンチャン。


3月17日火曜日晴れ あったかい △

 今日の産經新聞に「金賢姫は死ねない」と題されたソウル支局長・黒田勝弘氏のコラム【から(韓)くに便り】に下記のような文章がありました。

以下引用

 <その彼女について日本のほとんどのメディアは「金賢姫・元死刑囚」という奇妙な呼び方をしている。不思議な“肩書”だ。

背景には、赦免されているとはいえ、事件の重大性から「さん」には違和感があり、かといって呼び捨てにするのもまずい…といったことがあるようだ。

 しかし彼女はすでに罪を悔い、金日成・金正日崇拝から完全に転向している。

北朝鮮の驚くべき実態を世界に明らかにし、さらに日本人拉致問題解決への協力など北の「体制変化」に向け余生を捧(ささ)げようとしている。もう「金賢姫さん」でいいのかもしれない。

 それでも違和感があるとすれば「金賢姫・元工作員」が正確だろう。彼女は「死刑囚」ではなく北朝鮮の「工作員」だったことに、より大きな意味があるのだから。>

 黒田氏の書かれていることはごくごく普通の事だと思います。

ところが、あの在日朝鮮人の人々にとっての恥さらし以外の何ものでもない金嬉老については、

マスコミは

「金嬉老さん仮釈放 日韓の落差大きく」1999106日 (毎日新聞 東京朝刊・「記者の眼」)

 と仮釈放の時点でさっさと「さん」付けで書いているのです。

 この差はなんでしょう。

   営業中に托鉢で回っているという「どうみてもホームレス」としか思えないオヤジが来た。

 どうせだったらもう少しマシなウソをついてほしいものです。働けよな。

 小胡子さん来店。ナベちゃんワンちゃんとニコニコ来店。Sくん来店。Nさん来店。マロさん来店。金ちゃん来店。

 ドンチャン。記憶はあり????? かな・・・・・・????


3月16日月曜日晴れ △

 今日は必死こいて青色申告。今年もギリギリに間に合う。

 毎年の事ながら、サル。

 夕方、店を片付けてから、マルガリータさんの退院祝いで生まれ年(?年)のカルバドスを持って、Sさん、ミナちゃんが一緒にドンチャンやっている高円寺のイタリアンまで。

 一緒に持って行った「Kurni 2005」のこのボトルは評判のわりには微妙な味。

 同じヴィンテージがもう二本あるので比べてみるつもりですが、個体差????どうなのでしょう。

 体調がいまいちなので、あまり飲む気にもなれずに早い目に帰宅。

 帰宅後は、風呂に入り、さっさと寝る。こんなに早い時間に布団に入ったのは久しぶり。

 


3月15日日曜日晴れ ×

 午後よりスポーツセンターに行く。

 夕方より香港のミナちゃんが友人のよし子さんと来店。

 美丈夫 うすにごり 夢許、初亀の亀、東一 純大選抜、磯自慢いろいろなどの酒の後はシャンパン。

「グラシアン キュヴェ・パラディ」と「アンドレクルエ2000」

 その後、高円寺のイタリアンにお酒を持ち込みドンチャン。

 記憶はあったつもりがやっぱ、タクシーにどこで乗ったか覚えていない。

 サル・・・・・・・

 

 


小林丘氏

3月14日土曜日晴れ △

 今日、午後に美丈夫の濱川社長に電話をした時、栃木県「大英勇」の蔵元であった小林丘氏が御亡くなりになったと聞き、驚いた。

 昨日が告別式で多くの蔵元さん、酒屋さんがいらしていたそうな。

 大英勇は一昨々年に廃業されてたが、Googleで「大英勇」を調べると、まだいっぱい紹介記事がある。

  ご冥福を御祈りいたします。

 当店に残っている大英勇も昭和四十九年、五十三年の大吟醸二本になってしまいました。

 二名様来店。Oさん来店。五名様来店。テーブル席に座ったその団体さんの中の仲卸の鮪屋のおかみさんらしい方が、けたたましい声で「私は目をつぶっていても、マグロの違いはわかる。

 うちはインドマグロを扱っている。インドマグロはインド洋で捕れたマグロを冷凍したもので、本マグロは生で氷詰めにしたもの・・・・・・」とウソ八百をしゃべっている。

 インドマグロ(ミナミマグロ)と本マグロの違いはマグロの種類の違いだと、いっしょにいらした方は誰なぜ指摘してやらないのだろうか。

 浦井さん来店。今、東京で仕事をされているそうな。

 ドンチャン。記憶はあり。


「なぜ犯罪者が犠牲者なのか」

3月13日金曜日雨 ×××

 下記はカルデロン一家についての各紙の社説です。

以下引用

  強制退去処分を受けた日本生まれのフィリピン人、カルデロンのり子さんと母親サラさんの仮放免期限が16日に迫った。  先に父親アランさんを強制収容した東京入国管理局は、「両親が自主的に帰国する意思を表明すればのり子さんの在留を認め、表明しなければ3人とも強制送還する」と通知している。入管当局なりの妥協案かもしれないが、脅しとも映る対応を潔しとしない。諸事情を勘案し、一家に在留特別許可を与えるべきケースではないか。

略)

  一家が地域社会に受け入れられている様子は、蕨市議会が在留特別許可を求める意見書を採択し、2万人を超す住民らが法務省への嘆願書に署名したことでも明らかだ。一家が引き続き滞在することが、社会に害を及ぼすとは考えにくい。逆に、 一家が強制送還されれば、日本語教育を受けてきたのり子さんは言葉と文化の壁に直面する。

 出入国管理は厳正に行われるべきだ。が、実務上あいまいな面もあり、毎年1万人近くが日本人の配偶者となったことなどを理由に在留特別許可を受けてもいる。単純労働は認められないのに、実際には来日外国人の労働力を当てにしている職場が少なくない。不法滞在の取り締まりを徹底する態勢が整っているとも言いがたい。のり子さんが教育を受けてきたのも、行政が不法滞在を容認していたからだとも解釈できる。

 一家のように犯罪集団などと無縁に勤労、就学を続ける来日外国人については、不法入国・滞在をいつまでも問題視せず、一定のルールを作って正規に受け入れるべきではないか。国際化時代の社会の要請にも合致しよう。真実の権利関係と違っても一定期間継続した事実があれば、法律効果を認める民法の時効の考え方を援用すればいい。

 善良な市民として長年居住する来日外国人は、在留を認められてしかるべきだ。

 法務省入管局長が81年、衆院法務委員会の答弁で長期滞在について人道的配慮から特別に在留を許可する方向を示唆したことも想起したい。ヨーロッパの国々が、一定期間居住した外国人に在留許可を与える法制度を設けていることも参考にしたい。

 今回、入管当局が「両親の意思表明」にこだわるのは、子どもの権利条約に反して親子を引き裂きたくないからだろうが、同条約が掲げる子どもの利益を最優先とする原則こそ尊重されるべきは言うまでもない。

引用終わり 平成21年3月13日毎日新聞社説

同じく以下引用

 これは政治決断が必要なケースである。不法滞在で東京入国管理局から強制退去処分を受けた埼玉県蕨市のフィリピン人一家が、家族そろって日本にとどまりたいと在留特別許可を求めている問題だ。

 略)

 たしかに不法滞在者には厳格な対応が欠かせない。しかしこの一家の場合、両親は地域社会に溶け込んで平穏に暮らしてきた。のり子さんもすっかり日本人として育ち、級友に囲まれて学校生活を送っている。

 過去には中学生になった子どもを持つ家族には在留を認めた例もある。しかし法務省や入管当局は、一家に退去命令が出たのがのり子さんの中学入学前だから特別扱いはできないという。前例に固執した、あまりにもかたくなな姿勢ではないか。

 欧州諸国などでは、不法滞在でも平穏に過ごして子どもを育てている場合は柔軟に対応している。それだけに今回の問題には海外メディアも関心を示し、国連の人権理事会が調査を進めるなど国際社会も注目していることを忘れてはならない。

 不法滞在の取り締まりと例外との兼ね合いは難しいテーマだ。制度改革や運用の改善は今後の課題だが、今回はまず人道的な立場から一家の在留を許可すべきである。これを認めたからといって、入管行政の根本が揺らぐわけではないだろう。

 もう時間がない。ここは政治家の出番である。森英介法相、そして麻生太郎首相は一家が日本に残れるよう決断を下してほしい。 平成21年3月13日日本経済新聞社説

以下引用

 略)

 どこにでもいそうな3人家族。フィリピン人のカルデロン一家である。

 略)

 法務省の姿勢はこうだ。極めて悪質な不正入国だ。十数年滞在した事実はあるが、ほかの不法滞在者への影響を考えると厳格な処分で臨むべきだ。裁判所も退去処分を認めている。

 法律論はその通りだ。だが、だからといって子どもの幸福をないがしろにしていいわけはない。

 彼女は日本で生まれ育ち、日本語しか分からない。「母国は日本。家族とも友だちとも離れたくない」という。思春期のごく普通の女の子だ。

 同じようなケースで、子どもが中学生以上だった場合には在留が認められたことがある。

「処分が出た時に長女は小学生。中学生になったのは訴訟で争ったからで、すぐに帰国した人との公平を欠く」という法務省の説明に、説得力はあるだろうか。

 法務省も、近所の親類に預けることを前提に長女だけに在留許可を出し、両親が会いに来るときは再入国を認めるとの案も示した。そこまで配慮できるのなら、森法相はいっそ一家全員に在留特別許可は出せないものか。

 彼女の望みをかなえることが、日本社会に不利益を及ぼすとは思えない。

 長女の学校の友人や地域住民らからは、一家の残留を求める嘆願書が約2万人分も集まっているという。蕨市議会は「長女の成長と学習を保障する見地から一家の在留特別許可を求める」との意見書を採択した。

 一家はすでに地域社会を構成する隣人として認められ、職場や地域に十分貢献している。一人娘は将来、日本を支える一人になってくれるはずだ。

 日本に不法に残留する外国人は約11万人とされる。日本社会に溶け込み、いまさら帰国しても生計が立たない人々は多いだろう。在留特別許可も年1万件前後認められている。

 日本社会ではすでに外国人が大きな担い手になっている。今回のようなケースはこれからも起きるだろう。いまの入管行政でそれに対応できるのか。社会の一員として認めるべき外国人は速やかに救済する。そんな審査システムをつくることが検討されていい。 平成21年3月12日朝日新聞社説

以下引用

【主張】フィリピン人一家 同情と法の運用は別問題

略)

 母親が買い物途中に警官の職務質問を受けて逮捕され、裁判でも執行猶予付きの有罪となった。一家は強制退去処分の取り消しを求める訴訟を起こしたが、裁判所はこれを認めず、昨年9月に最高裁で一家の退去処分が確定した。

 その後、一家は再三にわたり、在留の特別許可を東京入管に申請している。そのつど、同入管は、のり子さんが日本育ちであることなど、人道的な面を考慮して、申請のたびに1カ月程度の短期間の滞在許可を出してきた。

 異例の措置を取ってきたわけだが、法務省は13日までに両親が自主的に帰国する意思を示さなければ、17日に家族全員を強制送還すると通知した。その一方で、森英介法相は、のり子さんのみの在留を認め、両親はいったん帰国し、日本に1人で残ったのり子さんに会うために短期間の再入国許可を出すと表明するなど、最大限の配慮も見せている

のり子さんは「3人一緒に日本に残りたい」と涙ながらに訴える。その気持ちは、痛いほど理解できる。同情もしたい。のり子さんには何の責任もない。

 しかし、両親は偽造旅券という悪質な手口で入国した。日本に不法入国する外国人は、年間約11万人いるといわれる。年々減少はしているが、日本は欧米に比べまだまだ、入国管理が緩やかだとする指摘もある。

 温情を優先するあまり、あしき前例をつくるのはまた問題だ。違法を見逃した場合、それがアリの一穴となり犯罪を呼び込むことにもなりかねない。

引用終わり

平成21年3月13日産經新聞社説

 いかがでしょう。

 各紙はヨーロッパの例などを出しているが、現在ヨーロッパでは不法移民が問題化していることを指摘していない。

朝日新聞も日経新聞も醜いが、一番醜い社説は下記のように書く毎日新聞だろうと思います。

「のり子さんが教育を受けてきたのも、行政が不法滞在を容認していたからだとも解釈できる。  一家のように犯罪集団などと無縁に勤労、就学を続ける来日外国人については、不法入国・滞在をいつまでも問題視せず、一定のルールを作って正規に受け入れるべきではないか。国際化時代の社会の要請にも合致しよう。真実の権利関係と違っても一定期間継続した事実があれば、法律効果を認める民法の時効の考え方を援用すればいい。 善良な市民として長年居住する来日外国人は、在留を認められてしかるべきだ。」

 と、まで書いている。

 現在、我が国が進めている現行の外国人登録に替わる新たな外国人在留管理制度法案に対して、差別なき共生社会実現に逆行などとほざいて反対している朝鮮人犯罪者擁護団体である民団などと同じ姿勢です。

  今回のこれらの社説の比較においては、産經新聞がごく普通の事を書いていると思うのは私だけだろうか。

 本当に日本語だけしかわからないのだろうか。ご両親は家庭内で日本語だけで会話していたのだろうか?

 わたしは、「なぜ犯罪者が犠牲者なのか」という佐藤貴彦氏の下記の文章を思い出しました。

 <日本のジャーナリズムの明らかな特徴は、「国家権力」への激しい憎悪と、その「犠牲者」への盲目的崇拝である。

このような心理構造から言えば、本来加害者であるはずの犯罪者の方が、逆に「国家権力」の「犠牲者」ということになってしまう。>

「本当は恐ろしい『平和』と『人権』というファシズム」(佐藤貴彦 夏目書房 一九九九年刊)p一〇〇より

 今日は金曜日だというのにメチャヒマ。バンブーさん来店。十一時ごろYさん来店。

 営業終了後、酒を持って中野の「石松」さんでFさんと合流し、朝までドンチャン。記憶は完全になし。サル・・・・・


今更ながら祝日の意味

3月12日木曜日晴れ ○

 今更ながらあらためて、祝日とはなんでしょう。何のためにあるか。

 現在の祝日といわれるものは、戦後まだ我が国が独立できていない占領下の昭和二十三年に「国民の祝日に関する法律」によって定められものが基になっています。

  アホな一部の国会議員により、日曜日にくっつけて連休を増やすために使われている日もありますので、本来、その日がどうして定められたか不明の祝日も出てきています。

 来週は春分の日がありますが、祝日法では「自然をたたえ、生物をいつくしむ」となっている。これがどうして祝日になるのか。意味が理解出来る人はいるのだろうか。

 ところが、五穀豊穣を祈る皇霊祭、すなわち春季皇霊祭・秋季皇霊祭といえば、意味が通じる。

 どうしてそうしないのか。それは、意味が通じないほうが「都合がいい」と考える人たちがいるわけです。そのために、占領下において憲法改正が行われ、各法律が変えられました。何のためか。日本人としての歴史を認識させなくし背骨を溶かすためです。

 たとえば、国として最も大切な祝日のひとつである建国記念日について、その意義を報道した大手新聞社はわずかに産經新聞のみであり、朝日新聞などは、期待通りに朝鮮人作家の朴慶南氏の「田母神論文を受け入れる日本社会の土壌を問題視し、『戦争に向かっていく怖さを感じている』と話した。」という記事を掲載している。我が国の建国記念日に、その意義も掲載する前に、どうして朝鮮人の言葉を掲載するのか。この新聞社の体質というものがよくわかる。


 祝日について清水幾太郎氏は下記のように書いています。

<それにしても、戦後の日本人にとって、元旦とは何なのであろう。私は、お正月がくる度に、「国民の祝日に関する法律」(昭和二十三年)のことを思い出して腹が立つ。覚えておられる読者もいるであろうが、それによると、「第一条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い・・・・」まるでテレビのコマーシャルのような文章である。

 まあ、こんな小学生のような文章がよく書けたものである。

 へえ、そうですか。マージャンやパチンコでもやっていろ、というのですか。

 時間とは何か、と聞かれたら、「時計で測られる量」とでも答えるほかはないが、もともと、時間は何の意味もないもので、それに人間的な意味を与えるのが、暦というものである。各民族の暦には、必ず特別の祝祭の日が定められている。それが定められているのは、私たちに或る大いなるものを更めて思い出させるためである。大いなるものとは、第一に、私たちを包む自然の循環であり、第二に、私たちが負う歴史の運命であり、第三に、私たちに伝えられた信仰の遺産である。

 平素は忙しく仕事に明け暮れている人間も、この日だけは、大いなる自然、大いなる歴史、大いなる信仰の前で、服装を整え、襟を正して、民族固有の特別な儀式を執り行う。万事、人間は形から入るもので、儀式というのは、人間の感情に美しい形を与えるために祖先が作り上げた智慧である。如何に敗戦のドサクサとはいえ、それがすべてガラクタのように捨てられてしまったのだ。

 かって、少年の私には、本当の正月があった。元旦には、学校で式が行なわれ、みんなで、「年の始めの 例とて、終わりなき世の めでたさを ・・・」で始まる「一月一日」(出雲大社宮司、後の司法大臣、千家尊福作詞)を歌い、紅白の餅を戴いた。男の先生は、モーニング・コートやフロック・コートを着ておられた。トックリ・スェーターの先生などいなかった。幼いながら、厳粛な空気の中で、私たちは、何かを感じ、何かを考え、何かを決心した。>

「戦後を疑う」(清水幾太郎 講談社 一九八〇年刊)P一八二〜一八三

 清水氏について、江藤淳氏は「戦後知識人の破産」(一九六〇年十一月)で、自己分裂がもっとも深刻にあらわれていたのは、「安保闘争」の後で書かれた清水幾太郎氏の「安保戦争の『不幸な主役』という文章であると丸山真男氏と比して書き、丸山氏と清水氏は「思想」的に対立しているなどという見方ほど知的ジャーなリズムの浅薄さを露呈しているものはない。両氏は「事柄の本源」を八月十五日に求めようとするところで一致し、少なくとも政治に道徳の中心を見ようとするところで一致している。と書いています。

(私は「落葉の掃き寄せ 一九四六年憲法 その拘束」江藤淳 文藝春秋社 昭和六十三年刊P五〇六より引用)

 清水氏と丸山氏を同列に見る事のできない私も、江藤氏が指摘する「浅薄さを露呈している」ものの一人には違いないでしょうが、清水氏のこの祝日について書いている文章においてはなんら違和感がなく、むしろ、よくぞ私などにも判りやすく書いて下さったと感謝です。

 日本政府として、建国記念日の催し物も何も行わないということは、清水氏が書かれている「私たちに或る大いなるものを更めて思い出させるためである。」という事をなくし、「幼いながら、厳粛な空気の中で、私たちは、何かを感じ、何かを考え、何かを決心した。」ということもない。つまり、日本民族の歴史という背骨が溶解していくのを早くしているとしか思えません。日本人がその民族の歴史を忘れる時は日本人が日本人でなくなった時であり、この日本という国は滅びるしかない時です。

 小胡子さん二名様で来店。Mさん二名様で来店。マロさん来店。

 今日は飲まず。


 

朝鮮総連とウソ

3月11日水曜日晴れ △

 我が国には嘘を吐きつづけて生きていながらも、それを恥とも思わない輩が住んでいます。

 朝鮮総連のホームページをご覧になれば、連中がどのような嘘でも平気でつける腐れクズ人間の集まりである事がすぐに理解できます。

 朝鮮人が我が国にいる理由として

<日本帝国主義が朝鮮を植民地支配していた時期に「徴用」、「徴兵」によって日本に強制的に連行されたか、過酷な略奪によって生きるすべを失ってやむをえず日本に渡った人びととその子孫である。>

 我が国の朝鮮統治について、

<日本は、朝鮮人民のあらゆる権利と自由を剥奪した。「土地調査令」(1912年8月)、「森林令」(1911年6月)、「鉱業令」(1915年12月)などによって、土地と天然資源を収奪した。>

自称「盛んだった」という独立運動について

<日本は、朝鮮の各地で盛んに繰り広げられた反日独立運動を弾圧し、何の罪もない人びとを逮捕、投獄、虐殺した。

  1919年に朝鮮の独立を求めて起きた3.1人民蜂起の時には、朝鮮人民を銃剣で突き刺し、首に縄をかけて絞め殺すなど、3か月間にじつに7,500人余りも虐殺した。>

 < 日本は、植民地支配の初期から働きざかりの男子と幼い少年少女まで「人夫斡旋」、「職業紹介」など様々な名目で日本に連れて行った。>

以上、朝鮮総連ホームページより

 http://www.chongryon.com/j/cr/index.html

 これだけでまかせが、今の時代でもよく言えるものです。

 在日朝鮮人が我が国にいるのは、ほとんどが自主的に入国(戦前だと移入)していたものである。それは、今でも多くの不法滞在、不法入国による不法就労の多さでも判る事です。

 李氏朝鮮の時代はどうであったか。我が国に併合され四十%の朝鮮人が奴隷から解放されただけでなく、飢えからも逃れる事が出来、人口が二倍にも増えた。

 では、その強制連行されたという在日朝鮮人に対して、「偉大な」はずの将軍様が統治している母国の北朝鮮政府がどうして我が国に対して、「強制連行した同胞を返せ」と返還を求めないのでしょう。我が国は、北朝鮮が拉致した同胞の一刻も早い返還を求めています。

 強制連行された筈の在日朝鮮人が、どうして自由に帰れる祖国に自ら帰らないのか。

 自ら、国際社会に強制連行の不当性を訴え、帰国する事も可能だった筈である。

 こんな厚顔無恥なクズ連中の集まりが朝鮮総連という団体です。

今さらですが、一応参考に

講談社にみる三・一運動の描き方

宇都宮太郎大将の日記にみる三・一運動と朝日新聞

土地の収奪というウソ

李朝時代の土地制度

米の収奪のウソ

 

 久しぶりにスポーツセンターに行く。調子がいまいち。

 Sくん来店。小胡子さん来店。Oさん、Kさん、Yさん来店。Tさん来店。初めてのお客様来店。Mさん来店。

 ドンチャン。記憶あり。 


ウィキペディア(Wikipedia)における捏造記述

3月10日火曜日晴れ ×

 ウィキペディア(Wikipedia)という「フリー百科事典」なるものがある。編集をある程度インターネットを使って自由におこなえるために、便利な反面、一部に捏造などがはびこっている。

 国会議員の西村眞悟氏の場合、現在、下記のように書かれている箇所があります。

 以下フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(本日現在)よりの引用

 < 1997年5月6日 - 「日本固有の領土である」として、尖閣諸島魚釣島に親しい暴力団住吉連合会組員3人と視察を行う。

となっているが、これは、意図して行われている悪質な捏造記述です。

 西村眞悟議員は、同士三人とともに平成九年五月六日、午前八時三十分に我が国固有の領土である尖閣諸島に上陸した。

 その三人とは仲間均氏、宮嶋茂樹氏、稲川和男氏の三人である。

仲間氏は石垣市議会議員、宮嶋氏は今でもマスコミに何度も登場している有名なフリーカメラマン。そして、私も何度かお会いさせていただいているが、稲川氏は映像教育研究会の代表であり、西村議員とともに犯罪国家北朝鮮に拉致された同胞奪還のために奔走されている方です。

 この三人が約十年前には暴力団の一員だったとでもいうのであろうか。

 アホを言うな!

西村眞悟議員にとって、尖閣諸島上陸は平成八年十月二十日の総選挙での公約です。

 この上陸に対して、当時の橋本内閣は種々の嫌がらせ、妨害をしている。

 石原慎太郎氏が乗船していた五百五十トンの船(外国船籍)に対して、上陸を海運事務所が出さず、結局、多くの人員の上陸を諦めることになるのもそのひとつです。

そのため、西村議員は四人だけのアタック隊のみ上陸する事とし、外洋の荒海の中、四・五トンの漁船に乗って向かう。

 その漁船よりゴムボートに乗り移って、懸命に四人でオールを漕いで、県と石垣市が建てた「八重山郡尖閣群魚釣島」と刻まれた古い石柱のある魚釣島に上陸した。

  西村議員はこの上陸の際、四月二十二日、午前八時、靖國神社の春期例大祭に出席したときに戴いたお神酒一升を、尖閣諸島にある開拓民の皆様の慰霊碑に捧げている。

 朝鮮の金泳三大統領(当時)に臣下の礼をとり、我が国固有の領土竹島のを守らなかったばかりでなく、支那人を愛人にしていたとまでいわれた橋本龍太郎氏は、西村眞悟議員ら四名の行動に対して、地主の意思を無視したと非難し、池田行彦外相、梶山官房長官(いずれも当時)は、「中国の感情を害した」と非難した。「支那命」で日本のためにならないことだったらなんでもやった橋本内閣らしいといえばらしい行動です。

 

 ちなみに、日本人の尖閣諸島上陸に関して、鳩山由紀夫氏にとっての宗主国様(かもしれない)支那の政府要人に対して、北京で

「あれは日本の一部の右翼がやったこと」などと説明していたそうです。

 これも、あの検察による小沢氏の秘書逮捕に対して「陰謀だ」というメイゲンを吐いた鳩山由起夫氏らしいと言えばらしい。

 以上、「誰か祖国を思わざる」(西村眞悟著 クレスト社 平成九年刊)を久しぶりに読み返してみて、同書よりの引用によりウィキペディアの捏造を否定。

 河岸で土曜日の不始末を謝りまくる。「よっ、中川(酒)さん」などと今回もあっちこっちからアタタカイお言葉。

 中川議員といえば、一緒に酒を飲んだ読売新聞の越前谷知子記者のプロフィールが突然消されて話題になったが、まだそのままのようです。

取材対象と一緒に同席するなど、記者として当たり前のことだから堂々と掲載すればいいと思うのだが、プロフィールまで消去するとはどこか後ろ冷たいことがあったのだろうか。

 Yさん息子さんと来店。Iさん来店。一名様来店。当店より一番近い場所にお住まいのカトリーヌさん三名様で来店。Kくん、Hさんと来店。マロさん来店。

ドンチャン。今日こそ「最後まで記憶あり」と思ったが、いろいろと覚えていないことをやっていた。やっぱサル・・・・・


3月9日月曜日くもりのち夜になり雨 ○

 朝、起きてシャワーを浴びてロビーに降りて行くと、醴泉の山田社長、大阪の酒販店の乾社長がすでにロビーにいらっしゃる。しばらくバカ話をしてから、山田社長に乾社長といっしょに名古屋駅まで送っていただく。

 

 午後一時過ぎに東京駅着。店に寄り、空瓶などの資源ゴミを出してから帰宅。

 車中で、今回持って行った本のうち「水子の譜」(上坪隆 社会思想社 一九九三年刊 譜にはうたと読みがながついている)を読み終えた。戦後の引揚者の皆様の苦労をドキュメント番組として放送したものをまとめたものである。

  他に満州からの同胞の引き上げについて書いた本は、手元に「満州 開拓民非史」(高橋健男 批評社 平成二十年刊)がある。この本の参考文献にも「水子の譜」が記載されている。

 泉靖一氏の作文と伝えられる新聞に出された同胞婦人がソ連軍、支那人、朝鮮人による強姦などにより妊娠、梅毒などの性病をうつされ悩んでいる方むけに出された「外地引揚のご婦人方に告ぐ」と題された、略されている広告文が掲載されている。それが、「水子の譜」には全文が掲載されているなど貴重な資料には間違いない。

 しかし、流石は佐高信氏が監修だけあって、随所に「悪いのは戦前の日本 そのための犠牲者」という思想がありあり。

 もし逆に、我が国から外国人を帰国させる時に、その子供を売れとか、外国人収容施設を毎日強奪・強姦のために軍人が行くと思っているのであろうか。 戦後の日本人と戦前の日本人が違うとでもいうのであろうか。まあ、同じ事が、外国人にも言えるだろうが。

 以前にも書いたことがありますが、中国残留孤児について、「敵国の子供を引き取って育てた温かい思いやり」によりなどと無条件でほめ讃える人がいるが、支那という国の歴史を少しでも知っていれば、そのようなことばかりではない。いや、現実はそういう話こそは例外的だという事を理解しているはずである。

 一時的に見かねて預かるのであれば、どうして戦後何十年も経ってから問題化したのか。国交が無くても支那政府がその気であるなら帰還は可能だったはずであるし、国交再開後にすぐに支那側から返還が提起されなかったのか、あれだけの人数しかどうして名乗り出てこないのか、などいろいろと疑問点が浮かび上がるはずである。

 ただ、もう少し当時の政府に国際法に関しての知識があれば、終戦後、あれほどの混乱は無かったのではないだろうか。

次回の蔵元さんでのドンチャンは五月二十日の醴泉さんの利き酒W


「羲侠」の利き酒

3月8日日曜日くもり △

 「羲侠」蔵元である山忠本家酒造の利き酒に参加させていただく。

 朝、シャワーを浴びて、スーツに着替えて新幹線で名古屋まで。

 途中、車内販売で買った「鳥の唐揚げ弁当」が激マズ。あんなん売るなよ!マジ死ぬかと思った・・・

 名古屋から名鉄に乗り換え津島まで。

 午後二時前に到着。蔵元の山田社長と奥様にご挨拶させていただき、お茶をいただきながら一休みしたのち利き酒。

 今回は二十BYが精米七十%〜三十%まで十四本。古酒が十一BY〜十九BY。六十%〜四十%まで三十三本。

 私の場合は、新酒と当店が扱わせていただいている四十を中心に利き酒。

 醴泉の山田社長の車に酒販店の乾社長、清原社長と同乗させていただき、宿泊する名古屋東急ホテルまで。

 夕方、五時より懇親会。蔵元さん、酒販店さんの皆様のなかにどういうわけか、神楽坂の一杯飲み屋がひとり参加。

 二次会は長谷川社長、館社長などと久しぶりに土手焼きのお店。最初にお邪魔したのは十年以上前。

 三次会は、地元の方の紹介で久しぶりにオネーチャンの居るお店で軽くドンチャン。

 四次会は、醴泉の山田社長、清原社長と台湾料理屋さんで紹興酒のボトルをとってドンチャン。

 夕方五時から夜中までドンチャン。最後まで、記憶があってよかった。

 今日はサルよりは少しまし。


3月7日土曜日晴れ ○

 昨日というより今朝までの酒で、二度寝してしまい、マルガリータさんからの電話がなければもっと寝ていて大変なことになるところだった。

 結局、鮪屋の慎吾ちゃんところと一吉の社長に電話をかけ、一吉の社長に魚を配達してもらうことに。

 持つべきは友人です。(ちょっと、違うようにも思うが)

 

 Nさん二名様で来店。Gさん来店。初めてのお客様二名様来店。Sさん、マルガリータさん来店。金ちゃん、マロさん来店。

 Mさん二名様で来店。Eさん三名様で来店。WBCの観戦帰りの塩月さん二名様で来店。

 めちゃ忙しい。明日が義侠さんへの?き酒という事もあり、今日は飲まず。

 店を片付けてから遅い時間というか早い時間というか朝方に帰る。

 


3月6日金曜日くもり ×××

 バンブーさん来店。松原さん三名様で来店。初めてのお客様二名様来店。初めてのお客様Iさん三名様で来店。

小胡子さん、BOOちゃん来店。二名様来店。Yさん来店。

 営業終了後、松原さんと酒を持って高円寺のイタリアンに行きドンチャン。松原さんはおそらく一番「強い」東大の教授。

その後、中野の「石松」さんに行く。

最後は、石松のマスターと一緒の電車で帰る。

 サル。


謝罪屋というアホどもの精神分析

3月5日木曜日晴れ ×

 西野留美子氏の著書「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」には、林えいだい氏の著書「朝鮮海峡」の主人公として掲載されていたあの嘘つき在日朝鮮人鄭正模が登場している。西野氏が林氏の著書から鄭氏に繋がるらしい。

 

 この久保井規夫氏、西野留美子氏、吉見義明氏、林えいだい氏のようなアホな日本人がどうしたらできあがるのか。斉藤貴彦氏は著書「本当は恐ろしい『平和』と『人権』というファシズム」において下記のように書いています。

  <「原罪」がキリスト教を支えているように、「戦争犯罪」は日本の平和主義を根底から支えている。そして、「キリストの犠牲」がキリスト教を支えているように、「戦争の犠牲」は日本の平和主義を根底から支えているのである。

 戦後民主主義は「過去が悪かったこと」の「反省の上」から成り立っている。したがって、原理的に日本の過去は罪悪でならねばならないのであり、日本の過去が少しでも悪くなかったとすれば、戦後民主主義はその存在意義そのものが危うくなってしまうのである。自由主義史観やリビジョニズム(歴史修正主義)といったものが厳しく禁忌されるのも、そのためである。「事実」が社会のコンセンサスを形成するのではない。社会のコンセンサスを形成するために、一定の「事実」の共有が必要なのだ。それが「神話」と呼ばれるものである。日本が悪い事をして神に懲らしめられたのだ、という神話・・・・そういった意味で、戦後民主主義は一種の宗教であり、「犠牲者」への贖罪は一種の宗教儀式である。「犠牲者」の体験は絶対である。「日本は悪くなかった」などと主張するのは「犠牲者」への冒涜である。「犠牲者」への冒涜は神への冒涜に等しく、決して許されるものではない。

 日本において顕著にみられる「犠牲者への贖罪」という構図は、心理学的にも、社会・人類学的にもきわめて重要なキーポイントである。>

「本当は恐ろしい『平和』と『人権』というファシズム」(佐藤貴彦 夏目書房 一九九九年刊)p八四〜八五

<「犠牲者」への謝罪には際限がない 

 もしも自虐派の贖罪行動がナルシスト特有の内なる罪悪感に基づくものであるとするなら、その「謝罪したい」という欲求には際限がない。しかも彼らは(じつに卑劣な事に!)それを自身の罪としては引き受けず、母国日本の罪として謝罪したがる。つまり内なる贖罪衝動を満足させるために、なるべく沢山の「日本が悪いことをした事実」を発掘しようとするのである。

 それでは一方、朝鮮・中国など、かっての非侵略国といわれる国々の立場からすれば、どうだろうか。

 まず第一に、「犠牲者」であることは、相手国に「負い目を負わせる」という外交上の優位を与える貴重なカードであるから、彼らがこのカードを手放すことはない。少なくとも単純な補償問題には帰せられない。そしてさらには、彼らにとって「犠牲者である」ということは、そのこと自体に大きな意義があるのである。「犠牲者」であることは、それ自体が特別に尊い地位である。ゆえに「日本は悪くなかった」などという言説は、それが事実実証的に論ぜられる以前に、彼らの「犠牲者」としての名誉を痛く傷つけてしまう。彼らはこの名誉を決して手放さないのである。

 いかに謝罪しようとも、如何に補償しようとも、この問題が決着することは永久にあり得ない。>

「本当は恐ろしい『平和』と『人権』というファシズム」(佐藤貴彦 夏目書房 一九九九年刊)(p八八〜八九)

 わざわざ売春婦を見つけてきて、ウソの証言をさせて喜んでいるようなアホは死ななければ治らないようです。

 ジョバンナさん、フィリッポさんご夫妻、江上さん、中島さん来店。アンコウ鍋でドンチャン。今日も、帰りは監督自ら運転して迎えに来ていた。いくら武道系といえど、相変わらずすごい師弟関係。WBC観戦帰りということで、塩月さん二名様で来店。銭湯帰りでマロさん来店。

 ドンチャン。記憶あやふや。サル


アホが「従軍」慰安婦を崇める

戦時売春婦の証言比較

3月4日水曜日くもり一時雨 ×

 手元に西野留美子氏の著書「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」(明石書店 一九九二年刊)、「従軍慰安婦のはなし」(明石書店 一九九三年刊)の二冊の著書があります。

 この著書に掲載されている「従軍」慰安婦界のトップスターのひとり、金学順についての証言を久保井規夫氏の著書の証言とともに引用して比較してみます。

以下引用

<私は、満州の吉林で生まれました。私が生まれて百日もたたないうちに、父は亡くなりました。その後、母の生まれた韓国に行き、母の親戚をまわりながら、苦しい生活を送りました。大きくなるにつれ、私は教会に行くようになりました。今思うと、貧乏だったけれど、母と一緒で幸せなときだったかもしれません。

 その頃、十七歳になると女の子は日本の軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました。

 ある日のことです。部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。

「お金がたくさん稼げるところがある」  説得され、とうとうトラックに乗りました。同じ部落の一歳年上の友だちといっしょでした。トラックから軍用列車に乗りかえ、三日ほどして着いた所は、中国でした。(「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」)。

 反抗すると殴られるし、「殺す」と言われ、とにかくわけも分からないまま中国の家に連れて行かれました。そこで、まっ暗な部屋のなかに二人は入れられました。 「お姉さん、どうしよう・・・・・・」  部落からいっしょにきた友だちは一歳年上なので、お姉さんと呼んでいました。どうする術もなくただ暗闇のなかでおどおどしていました。するととつぜん、戸口から明るい光が入ってきました。昼間、私たちをトラックに乗せてここまで連れてきた日本人の将校でした。明りは、ろうそくの火でした。怖くて部屋の隅にうずくまっていますと、その将校は私の腕を引っ張りました。いやがる私を蹴ったり、脅かしたりして、となりの部屋に連れて行きました。  部屋といっても、壁もない、ドアもない。ただ、カーテンがわりの布一枚で仕切ってあるだけでした。将校は、私に言いました。 「服を脱げ!」  恥ずかしいし、話すのは辛いけど、正しく伝えなければなりませんから・・・話します・・・  私は怖くて、服を脱ぎませんでした。すると将校は私の服を破りました。

略)

 部隊が移動する時には、私達もいっしょにトラックに乗せられ、行く先々に連れていかれました。 略)  そんなある日、部隊にきた朝鮮人男性に助けを求め、いっしょに逃げ出しました。 >

「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」(P一一三〜一一六)

<私が生まれてまもなく、アボジ(おとうさん)は無くなってね。オモニ(おかあさん)が家政婦などして私を育ててくれたんだよ。家は貧しくて。私は四年生まで通っていた普通学校をやめ、子守りや手伝いに行く事になったんだ。

 そのうち金泰元という人の養女になって、十四歳から三年間妓生学校(妓生=古くは歌や踊りなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)に通ったけど、十七歳の春だったかね。『お金がもうかる』といわれて、一歳年上の女性と一緒に養父に連れられて中国に行ったのさ。

 平壌から三日間軍用列車に乗り、それから何度も列車を乗り換えてね。中国北部の「鉄壁鎮」という小さな村に着いて、養父とはそこで別れたんだよ。それから日本軍の将校に連れられて、中国人の家に案内された。そして、部屋に入るなり、いきなり鍵を掛けられてしまったんだ。

 隣の部屋にはすでに、私と同じ三人の朝鮮人の女性がとじこめられていたよ。そのとき私は「しまった」と思ったけどもうおそく、逃げ出す事はできなかった。

 将校は私に、「はやく服を脱げ」と言うんだ。なにがなんだかわからず、私はこわくてブルブルふるえていると、将校は私の腕をつかんで、私が着ていた服をビリビリ裂いたのさ。

 略)

 部隊が移動する時は、いっしょに連れていかれ、戦地で性の相手をさせられたこともあったさ。

 ある日、兵隊が二人の中国人を連れてきたんだよ。その人たちは目隠しされ、後ろ手に縛られていた。軍人は、私達が見ている前で、その二人の首を軍刀で切り落としたんだよ。 『言う事をきかないと、お前たちもこうなるんだ』

 軍人は、そういって私達をおどしてね・・。私はあまりに残酷な光景に、心臓がとまりそうだった・・。>

「従軍慰安婦のはなし」(P三二〜三四)

< 私は小さい頃、親と一緒に暮らしていた頃から、そもそも日本人とは仲がよくないという状態にあったのです。三・一独立運動に私の父親が参加した事で、朝鮮には暮らせなくなったので、『満州』の方に行ったのです。私は、『満州』の吉林で生まれたのですが、私の人生の険しさがその時から始まったのか、私が生まれて一〇〇日もたたない間に、父は日本軍の銃で撃たれて死にました。

 その後、母親と二人では『満州』で生活していけないので、二歳の頃また帰国して朝鮮半島で暮らすようになりました。 わたしが十四歳の時でした。母親が再婚する事になったのです。その時から母親と一緒にいたいという気持ちが全然わいてこないし・・・・妓生を養成するような学校に入ったのです。・・・・教えてくれる所の両親、実の親じゃあなくて、その教えてくれる人を実の親の様に思いながら、歌や踊りを勉強して、・・・それで、十七歳で、・・・・・養父と、一緒に学んだもう一人の子と三人で『満州』に行きました。  ご飯を食べる為に、ある食堂に入った所、そこで三人は日本の軍人に見つかったのです。

 そこにいたもう一人の将校が、『こいつらはどう見ても朝鮮人だ。スパイじゃあないのか』というような事を言って養父を連れていってしまいました。『こいつら連れていけ』と言ったのです。そこで養父と別れ別れになって、永遠にもう会う事ができなかった。私達が引っ張られて行ってみると、軍隊のトラックがあって、トラックに荷物を積むような形で私達を乗せました。  どれだけ行ったか分かりませんが、とにかく北京からずっとトラックに乗っていって最前線までいったみたいだったのです。真っ暗な所を何時間も行って、止まったところが集落みたいな所でした。

 将校がガッと来まして、私の腕をいきなり掴んで『こっちについてこい』というように引っ張っていったのです。『こんな服は此処は着れる所ではないんだ』と言いながら全部破ってしまって、女として一生一番初めに体験することをそんな状況でやられて恥ずかしくて声が出ません。  略)  軍人たちが作戦で出かけてしまったある日の夕方、朝鮮人の男性が突然入ってきました。

 私は、「このまま、此処にいたら死んでしまいます。一緒に連れて行って下さい」と頼みました。そのようにして二人で逃げ出して、彼も日本から逃げ回っている人だったし・・・>

「教科書から消せない歴史」(P一七一〜一七二)

 これらの証言を比べてみると、

慰安婦になるまで

<母と一緒で幸せなときだったかもしれません。

 その頃、十七歳になると女の子は日本の軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました。

<私は四年生まで通っていた普通学校をやめ、子守りや手伝いに行く事になったんだ。  そのうち金泰元という人の養女になって、十四歳から三年間妓生学校(妓生=古くは歌や踊りなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)に通った>

<わたしが十四歳の時でした。母親が再婚する事になったのです。その時から母親と一緒にいたいという気持ちが全然わいてこないし・・・・妓生を養成するような学校に入ったのです。>

 

慰安婦になった切っ掛け

<ある日のことです。部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。 「お金がたくさん稼げるところがある」  説得され、とうとうトラックに乗りました。

 トラックから軍用列車に乗りかえ、三日ほどして着いた所は、中国でした。(「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」)。 >

<十七歳の春だったかね。『お金がもうかる』といわれて、一歳年上の女性と一緒に養父に連れられて中国に行ったのさ。

 平壌から三日間軍用列車に乗り、それから何度も列車を乗り換えてね。中国北部の「鉄壁鎮」という小さな村に着いて、養父とはそこで別れたんだよ。

<、十七歳で、・・・・・養父と、一緒に学んだもう一人の子と三人で『満州』に行きました。 ご飯を食べる為に、ある食堂に入った所、そこで三人は日本の軍人に見つかったのです。

 そこにいたもう一人の将校が、『こいつらはどう見ても朝鮮人だ。スパイじゃあないのか』というような事を言って養父を連れていってしまいました。

軍隊のトラックがあって、トラックに荷物を積むような形で私達を乗せました。

 どれだけ行ったか分かりませんが、とにかく北京からずっとトラックに乗っていって最前線までいったみたいだったのです。真っ暗な所を何時間も行って、止まったところが集落みたいな所でした>

 

 手元にあるたった三冊の慰安婦についての本に掲載されている同じ金学順という朝鮮人慰安婦の証言でさえ、こんなに相違点がある。

 特に、西野留美子氏の著書は一九九二年と一九九三年と一年しか違わない同じ著者のものである。

 最初から結果ありきで、慰安婦の発言内容になんら疑問も持たず、検証も行なわないというこの阿呆二人の姿勢が良くわかる。

 そして、証言が新しくなるほど、無理矢理連れて行かれたことになっていて、ましてや、実父の死亡原因が不明→三・一独立運動に参加した志士で日本軍の銃で撃たれて死、最初の話で出なかった養父も「鉄壁鎮」という小さな村に着いて、養父とはそこで別れた」→「将校が、『こいつらはどう見ても朝鮮人だ。スパイじゃあないのか』というような事を言って養父を連れていってしまいました。」と激しく?なっている。第一、当時は支那、満州には朝鮮人は多く移住しており、ただ朝鮮人ということでスパイなどと疑いいう事はあり得ない。そんな事をやっていたら、きりがない。

 西野氏の著書にある(妓生=古くは歌や踊りなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)という説明は意図があまりにもミエミエ。なんで、現在、あるいは当時でなく、「古くは」という説明なのでしょう。久保井氏も著書に「韓国の妓生は本来そのようなものではなく、音曲歌舞に秀でた芸術家である。」と書くが、実際は妓生とは芸事もするが身体も売るという娼婦の事で、初潮前の少女を妓生にする事を禁じたのは我が国が朝鮮を併合したのちの事です。

 戦後、南朝鮮は国策として国営の娼館制度つまり妓生による売春により外貨を稼いだのです。辛淑玉女史などが非難するキーセン観光は南朝鮮の国策だったのです。

 ちなみにこの金学順は、あの吉見義明氏からも、その著書「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(吉見義明・川田文子編 大月書店 一九九七年)にて、

 「問題は慰安婦にされた事情だが、『証言』では、養父は北京で日本軍将校にスパイと疑われてつれて行かれ、彼女は別の軍人によって慰安所に連行されたと記されている。しかし、かせぐために中国につれて行かれたとすれば、養父に売られた可能性があるとみるのが自然だろう。」(P.七五)  とまで書かれている有名人です。

(この吉見氏の著書、一〇〇ページほどのうすっぺらな本ですが九〇〇円もするんです。バカらしくて古本屋以外では買えません。)

つづく

 初めてのお客様Kさん二名様で来店。Nさん三名様で来店。あとで、Kさん合流。

 ドンチャン。営業終了後、エムズバーさんに伺う。店では記憶があったのだが、どこでタクシーに乗ったか全然覚えていない。サル・・・・


アホが「従軍」慰安婦を崇める

久保井規夫編

3月3日火曜日雨一時雪 △

 大東亜戦争における朝鮮人慰安婦といわれる人たちの証言の嘘の数々が明らかになっている今日においても、それを認めようとせず、ひたすら謝罪を我が国に求める売国日本人が多くいます。

 久保井規夫氏は、著書で

<挙証責任などと自ら言いながら、貧しかった朝鮮人女性は「『慰安婦』に自発的になった」とか、「高給を受け取って、三年間で警察官が一生買えない家が二十軒近くも買えた。「奴隷とは言えない」と挙証もなく決めつけるのである。

自発的に「慰安婦」になって、大金持ちになった朝鮮人女性の事例等未だに聞いた事もない。聞こえてくるのは、日本軍によって「性奴隷」そのものの過酷な使役を強制され、戦場を引き回された女性の悲劇しかない>

p一六四

と書くが、慰安婦という商売が、当時として短期間で大金を金稼ぐ事ができた事は事実であり、不幸な事に故郷への帰還が遅れ、すべてを無くした人もいるだろうが、それは他の事業をおこなっていた日本人も同じである。 挙証を放棄しているのは久保井氏自身である。

 まあ <右派・国家主義者・「つくる会」たちの主張が史実を歪曲し、論理を繕う詭弁に過ぎないことは、既に明白である。 略)  本書では、一連の出尽くしたと見られる彼らの主張を整理して、第五章、六、七章で完膚無きまで論破しておいた。現象論議はこれで止めとなすことができよう。これが、本書を著した第三の目的であり、内容の特徴である。>P一八〜一九

と書く割には、全然論破していないし、所詮、私のような者にまで突っ込まれるようなお笑い本でしかないのですが。

 そして、「元慰安婦の証言を歪曲してはならない」として同じ著書に下記のように書いています。

 <右派・「つくる会」に集う人たちは、日本軍「慰安婦」は「自発的になった女性だ」「娼婦で商行為だ」「強制でも、業者の所為で国家に責任はない」と決めつけて、大々的に主張してきた。ここまで屈辱されると、元「慰安婦」の当事者とその家族は、「娼婦」への差別と「慰安婦」への誤解に曝されるため、よほどの決意を持たねば自ら名乗り出て反論する事は困難である。しかし、遂に、五〇年余を経て、余命少なくなった彼女たちが、死ぬ前に自らに加えられた屈辱を晴らさずに置くものかと立ち上がったのである。この元「慰安婦」たちの抗議と反論の告発・証言に対して、右派・「つくる会」の人たちは、それを「虚言」扱いしたり「歪曲」して誤摩化そうとしている。

略)

 西岡氏(木下注 西岡力氏)が、元「慰安婦」の証言から、抜粋し利用している箇所は、いずれも、「騙されて慰安婦とされた」事を述べた件の一部分だけである。

略)

 我が日本人は自己を偽り屈辱するものばかりではなく、良心をもって誤りを自浄できる清廉な民族である事を示す為に、彼女たち日本軍元「慰安婦」の証言を正しく聞き取っているページを割かせてほしい。>

p一六七〜一六九

「教科書から消せない歴史」(久保井規夫 明石書店 一九九七年刊)

 続いて、久保井氏はあの有名な嘘つきバカ朝鮮人売春婦である金学順の証言を著書のp一七一〜一七四に掲載しています。

 久保井氏自身が正しく聞き取っていると書いている金学順の証言ですが、掲載されているその証言は他の人たちから証言の度にコロコロと変わったたと指摘されている矛盾点を示していない。

 ところが、久保井氏は著書で

<以上のような金学順さんの体験は、誰が聞いても、日本軍により強制的に慰安所に入れられて、「慰安婦」として地獄の苦しみを受けたという話である。ひどいのは、少女の時に妓生にされた事を以て、妓生は「慰安婦」にされようと構わないと当然視する差別である。「つくる会」の人たちは、まず、金学順さんが養父から無理に引き離された事を、「もともと妓生だった者が慰安婦に売られたのだ」と体験を作り替えている。

略)

 金学順さんの証言では、どこにも人身売買の有無はないが、「つくる会」の人たちによって、人身売買の如く捏造された。金学順さんは、強制連行し性奴隷を強要したのは日本軍だと述べているではないか。そして、「つくる会」の人たちは、戦後、日本人が韓国に出かけて「妓生観光」なる買売春旅行なる恥ずべき行為をやらかした出来事を重ねたのであろうが、妓生を初めからすべて売春婦扱いして、日本軍「慰安婦」にして何が問題かと開き直るのである。もちろん、韓国の妓生は本来そのようなものではなく、音曲歌舞に秀でた芸術家である。そして、何度も言うが、如何なる立場の女性であろうとも(まして、親に売られた未成年の少女ならなおさら)、自己の意志に反して日本軍「慰安婦」という性奴隷の立場に追い込まれる筋合いはない。そのような日本軍「慰安婦」を制度として設けて、日々、その苦しみに女性を使役した国家組織の日本軍が間違っており、日本の国家責任の問題である。被害をうけた女性の所為にするとは言語道断である。>

P一七四〜一七五

 久保井氏も他の慰安婦被害者視している人たちと同じで、現実を直視できないようです。

 これについては、同じアホ系の西野留美子氏の著書よりこの朝鮮人戦時売春婦の発言を引用させていただき、問題点、矛盾点などを書かせていただきます。

続く

 夜に雨からみぞれ。  Kさん二名様で来店。小胡子さん来店。

 営業終了後に外に出ると、駐車場の車などが真っ白。ただ、天気予報ほど降らず。


 竹島そして対馬

 3月2日月曜日晴れ ○

 先日、産經新聞の記事に「南朝鮮(韓国)国防白書の表紙に”竹島” 軍事的関心を強調」というのがありました。

 以下引用

 韓国国防省は23日、「2008年版国防白書」を発表したが、表紙に日本と領有権紛争になっている竹島(韓国名・独島)のカラー写真を掲載するなど島に対する軍事的関心を強調した内容になっている。

略)

 関連の記述は「わが軍は西北5島と馬羅島、鬱陵島、独島などを含む東・西・南海岸のわが領土を確固と守護するために万般の備えを整えている」となっており、前回とほぼ同じ内容になっている。

略)

 韓国政府は日本の防衛白書発行に対しては昨年9月、竹島領有を主張した記述があるとして外交通商省が非難の論評を発表し駐韓日本大使館公使を呼び抗議している。日本政府の対抗措置が注目される。

 略)

引用終わり

 2009.2.23 18:48産經新聞

 

 この産經新聞の記事にある「わが軍は西北5島と馬羅島、鬱陵島、独島などを含む東・西・南海岸のわが領土を確固と守護するために万般の備えを整えている」ということはどういう事なのか。

 そして、我が国の対馬などに対する国境防衛の現実はどうなのか。

 下記は高井三郎氏(陸上自衛隊幹部学校元教官)が「軍事研究」に掲載された「考察 竹島奪回、対馬防衛作戦 対馬防衛体制を強化せよ」と題された論文の一部です。

 この論文において、高井氏は、

竹島について「高く評価すべき一般国民からの竹島攻撃案 ただし可能性の検証は必要」に続いて、「竹島攻撃要項の一案 電子戦支援下の不意急襲的な航空攻撃」、結論として、F2支援戦闘機四機、F−15J戦闘機四〇機及び電子戦機四機からなる航空攻撃が最も有効としている。

 しかし、その後の展開としての可能性として、竹島を失った韓国側の対応として

以下引用

<陸上戦力は、韓国軍の方が絶対優勢であり、特に離島進攻に適した空中機動・海上挺身各特殊部隊、海兵師団及び海兵旅団を有している。さらに、国家の動員態勢は日本側に勝る陸海空の人的戦力を増員し、補充する事ができる。

 最近、韓国軍は米国製地対地弾道ミサイル、ATACMおよび自主開発の巡航ミサイル玄武VBを実戦配備した。

 (木下注 これにより、南朝鮮は我が国の多くの自衛隊基地を悪天候の別なく攻撃する事ができる。)

略)

 政治家の多くは、世界有数の規模の防衛費に支えられ、先端技術装備を誇る自衛隊の戦力は世界一流と信じているようである。ところが、我が国の総合的な防衛態勢は、寒心に耐えないほど手薄である。

 先に触れたとおり、対馬に警備隊があるとはいえ、その実力は、普通科一個中隊に過ぎず、海空自衛隊はわずかな頭数の監視警戒部隊にとどまる。韓国軍が海空作戦基地を置く済州島と一衣帯水の五島列島及び対馬を支える壱岐は無防備に近い。

略) 

 西部方面隊は、二個師団、一個混成団基幹の約二万人に過ぎず、それも九州及び沖縄本島にわたり、広く分散配備している。四面環海の島国の日本こそ、海上機動による増援と反撃に適した海兵隊を持つべきであるが、積年にわたる防衛政策の不備が祟り、また侵略戦争の道具と中傷されて、いまだに持つ事ができない。
 護衛艦及び潜水艦は、韓国海軍より優勢とはいえ、何分にも体勢が不利である。

すなわち、長大な列島の各基地に分散し、あるいは別の海域の洋上任務に就いているので、戦場海域への集中には相当の時間を要する。韓国空軍のF−16よりも制空能力に優るといわれているF−15Jも列島各地に分散しているので、ATACMおよび玄武VBの阻止攻撃に遭って、移動集中が妨げられる恐れがある。このような全般体勢下では、我が方は、韓国軍による対馬への奇襲進攻に対し、即時有効な手を打つ事ができない。

 ちなみに、日露戦争において、我が軍がロシア軍に比し兵力や装備の総量が劣りながら、勝利を収めた要因は全般体勢の優位を利用した点にある。すなわち、ロシア軍は相対的に優勢な戦力を極東正面に徹底的して集中する事ができず、その一部が満州の戦場で、日本軍により各個撃破されたのである。以上の日露戦争の教訓から見て、戦力の量と質以上に態勢の優劣が対馬の紛争にも重大な影響を及ぼす。

 略)

「軍事研究」平成二十一年三月号(ジャパン・ミリタリー・レビュー)P三四〜三五

 高井氏は、昨年十一月初頭に防衛省の防衛政策局防衛計画課の主務省が、「日本を守るために行動する議員連盟」の各位に対して、「対馬の一個中隊は、有事に遊撃戦で対応できるので、防衛は万全」という趣旨の説明をしていることも同論文に記している。(P三七)この説明がいかに無責任な役人の説明かは明らかである。

  我が国は昭和二十七年に南朝鮮の竹島不法占拠に対し、その都度、古くは辻正信氏、最近では西村眞悟氏など一部の国会議員の問題提起に対しても何の具体的な対抗処置もとらずに今まで放置してきた。支那の我が国とのEEZの境界におけるガス田開発についても同様である。

 これについては、まず、政治家、政府の怠慢がある。そして、官僚による政府関係組織の怠慢がある。

 

 事なかれ主義の硬直した官僚主義が現在も続いている事は、昨年の田母神俊雄前航空幕僚長の更迭事件において、八面六臂の活躍した?増田好平事務次官など多くの事例が示すとおりです。

そして、高井氏は同論文で下記の用にも記しています。

<すでに一九五二年一月に李承晩大統領は、壱岐、対馬が韓国の固有の領土であると主張した。近年、ソウルで頻発した騒ぎでは竹島問題に連動し、対馬の領有権を主張する声が上がっている。

 したがって、韓国政府は、対馬の占領を我が方による竹島奪回に対応する有力な選択肢にする。壱岐及び五島列島の占領に関しては、有力な軍事力を背景にすれば、竹島の場合と同様に作り上げた如何なる理屈も弄することができる。

 元々、不利に傾く戦局ないしは劣勢な軍事力のもとでは、外交交渉をしても、一度失った領域を取り返すのは容易ではない。

 その真理は、ソ連軍に占領されたノモンハンのハルハ川東岸及び北方領土、さらにはイスラエル支配下のゴラン高原の史実が如実に証明する>(同P三五〜三六)

 おめでたい平和主義者の連中は、これらを是非解決してほしいものです。

 ナチスの台頭を許したのは、いかなる戦争にも反対した当時パシフィスと呼ばれた平和主義者のおかげで、ミュンヘン会議では英国首相チェンバレン、フランス外相ダラディエが毅然とした態度が取れずに、結果、ズデーテンラント(チョコスロバキア)のドイツ割譲を許して、ナチスの増長に手を貸します。

 まさに、戦いは何でも反対という無抵抗主義者というおめでたい我が国の平和主義者と同じです。

 「国家とは、国民がそれを守る気概を持った時(国家から言えば、守るに値すると国民から思われた時)のみ生き延びる事ができる存在である」

 「おめでたい日本人に教える虐殺の歴史」(小池透 飛鳥新社 二〇〇七年刊)p一二四より

 今日、部屋から出たのは午前中にジョギングを少しして、近所の公園で身体を動かしたのと、燃えるゴミを出しに出たのみ。

 後は、部屋でゴロゴロして一日が終わる


3月1日日曜日曇りのち晴れ ○

 午後よりスポーツセンターに行く。先週とは違って、入った時は空いていた。

 今日は時間があるので、インクラインベンチプレスをやったあとにベンチプレスなど予定していたメニューは消化する事が出来た

 ベンチプレスで久しぶりに一緒の組になった方は、体重は六十キロ以下だが今日の記録は一〇七・五キロ。約一・八倍のウエイトを挙げたことになる。夢の体重の二倍までもう少し。私の場合は体重の二倍というと百四十五キロ・・・・絶対に無理だな・・・

 帰りに高田馬場にある芳林堂さんにて「いたこニーチェ」(適菜収 飛鳥新社)など数冊購入。

 著者の適菜氏は当店にいらしてくださった事もある方。

 店に寄ってから帰ろうと駅に行ったら人身事故で電車が止まっていた。なんだかんだで、時間的には三十分ほどの遠回り。

 朝まで部屋でゴロゴロとお茶を飲みながら雑誌、マンガ、その他を読んで過ごす。

 


 

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