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林えいだいの著書にみる在日朝鮮人鄭正模の大ウソ(強制連行)
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
10月10日金曜日晴れのち雨 ×
_「韓国:強制連行被害者への慰労金申請の受付開始 」というニュースがありました。
以下引用
韓国政府は1日、日本植民地時代に海外に強制連行された韓国人被害者に対する慰労金や未払い賃金支給の申請受付を開始し、1300件余の申請があった。
昨年12月に制定された「国外強制動員犠牲者等支援法」に基づく措置で、2010年6月まで申請を受け付ける。在日韓国・朝鮮人は対象外。
「強制動員被害真相究明委員会」によると、初日の申請は、死傷者や行方不明者の家族らに対する慰労金(最高2000万ウォン=約200万円)が412件未払い賃金(1円当たり2000ウォンで換算)が168件生存者に対する医療支援金(年間80万ウォン=約8万円)が730件。
支援法は盧武鉉(ノムヒョン)前大統領が05年、日韓条約関連の外交文書を全面公開し、70年代に韓国政府が行った補償を補てんする人道措置として推進された。
ただ、申請には「(韓国政府に補償を求める)訴訟など追加請求をしない」という文書に署名が必要なため、被害者団体の一部は反発し、憲法訴訟を準備する動きも出ている。
【ソウル堀山明子】
毎日新聞社 2008年09月01日
引用終わり
朝鮮人がいう強制連行とはどういうものでしょうか。林えいだい氏の著書で、在日朝鮮人の鄭正模氏はどのようにして日本に連れてこられたか。下記のように証言しています。
<「私は一九四〇年、慶尚南道固城郡下二面徳明里から三千浦邑の市場へ三人の友人と行く途中、路上にて日本人警官から逮捕されてトラックに積まれ、九州の福岡県飯塚市のナマツタ炭坑へ強制連行されました。一ヶ月足らずのうちにそこを脱走して、東京で朝鮮独立運動の地下組織に入り、常磐、仙台、北海道と、朝鮮から強制連行されて来た同胞を救い出す仕事をした。一九四四年には盛岡警察署で拷問を受け、同士二人が警官から虐殺され、私は釈放されて、働きながら宇都宮までくると、今度は東京憲兵隊に捕まりました。
そこで厳しい訊問と拷問を受け、残ったもう一人の同士も虐殺され、一九四五年の解放まで二度の生地獄を体験しました。
韓国で妻子の消息がわかり、一九六四年に帰国しましたが、二二年間にわたって家族が強制連行されたことを知らず、探し続けていたということです。それまで私は何度も故郷に手紙を出しましたが、それには返事がもらえず、朝鮮動乱で行方不明になったとばかり思っていました。当時、私の家は部落では中流農家であったけど、私が突然いなくなったため農業が不可能になり小作に出したため、解放後も戻してもらえなかった。私が帰国すると家族は生活難にあえいでいました。
長いこと家をあけたため家族からは生活に困ったとなじられ、親戚からは冷たい目で見られました。これは果たして私の責任でしょうか。
そのことを私が生きているうちに、どうしても日本政府と国家に問いたいのです・・・・」>在日朝鮮人鄭正模の証言
(「朝鮮海峡」林えいだい著 明石書店 一九八八年刊)P三〜四より
まるで、職業詐欺師の吉田清治と同じ証言です。この鄭正模という嘘つき在日朝鮮人は、一九四〇年、昭和一五年に路上で拉致されて強制連行されてきたのに、余裕をぶっこいて、早稲田中学夜間部第四年生に編入手続きをとって、大学をめざし、最初の帰国したのが終戦してから一九年も経った一九六四年。その間、正子という日本名の朝鮮人女性と暮らし、妊娠させ、どういうわけがその女性がいきなりいなくなったので、女性不信におちいる。(P二八〇〜二八一)。二百通以上も手紙を出した(P二八七)が、家族から返事がこずに、自称「強制連行」されてから二二年めの一九六二年暮れに突然、南朝鮮の長男より手紙が届く。探し続けていたというその差出人である長男の住所は、この鄭正模氏の朝鮮の実家の住所。それが、二〇年以上その住所に二〇〇通以上出した手紙の唯一の返事。(P二九三)そして、朝鮮に家と広大な農地を買った(P三〇二)後も、一九八八年時点で我が国に住み生活しながら、文句を言い続けている。
「強制連行」され後、たった数カ月後に、当時、日本人の初等教育から中等教育への進学率がたった二五%しかない時代に、早稲田中学夜間部第四年生に編入手続きをとって、毎日、椎名町の下宿から早稲田に通学し、大学をめざし勉強し、我が国で五年も過ごし、戦後、一年も経たないうちに、朝鮮人女と暮らし、三人の子供を残してきた朝鮮の家族には、二百通以上も手紙を出したが、どういうわけか、唯一の返事は「強制連行」されてから二二年め。その手紙の差出人は二〇〇通以上出した「はず」の手紙がつかない「はず」の、これまた行方不明の「はず」の家族の実家の住所。そして、どういうわけか、朝鮮に家と広大な農地を買った後も、憎い強制連行された「はず」の我が国に住み生活している。
我が国は、強制連行してきた朝鮮人を大学入学を目指して勉強するような環境に置いていたのです。なんと、すばらしい。
こんな嘘つき朝鮮人の言う事をそのまま書いて、ノンフィクション作家などと名乗っている林えいだい。
嘘つき在日朝鮮人についてはまだまだ続きます。しかし、流石は偽証が我が国の六〇〇倍以上の民族だけのことはあります。
鄭正模という在日朝鮮人のウソ2
10月11日土曜日雨のちくもり ○
一九一八年二月二三日南朝鮮で生まれ、その子供のころ兄が大阪に行ったそうですが、一九一八年生まれの鄭正模氏が子供のころはまだ、我が国は朝鮮に対して渡航制限をしているころではないでしょうか。そのお兄さんはどういう経過で日本に渡ったのでしょう。
固城の普通学校に六ヶ月通学したのち、五年生の秋より増築した下二面の普通学校に通った。そして、一九三〇年一月、当時高級品であったであろう自転車で通学している日本人小学生の自転車を「おい、お前、自転車を降りろ。そうしないとぶっ殺すぞ」とすごんで、取り上げて、日本人からの分捕品だといって乗り回す。
光州事件のあった小学生の時から独立運動に参加しているという自負があった。P四四
二月他の小学生と一緒に巡査につかまり六人で手錠をかけられて数珠繋ぎにされたままトラックで固城警察署の留置所に入れられた。P四五
当時、高価であった自転車を三台も窃盗し、それに乗っているところを警察官に止められ、二回も警察官に捕まって留置所まで入れられていながら、盗難品とも咎められずに、無事出されて、小学校では英雄として全校生徒の前で「先輩たちのお陰で釈放されました。こんなことではへこたれません。これからもがんばります」と挨拶する。P六四
このように、鄭正模氏は独立運動で小学校時代に二回も留置所に入れられています。すばらしい、朝鮮人魂です。W
そして、大邸師範学校を受験するが五年生のときに授業ボイコットしたので、勉強不足と受験生が殺到したことで、不合格。
京城の中学を受験し合格したが、どういうわけか、「どうせ日本人学校に行くなら広島高等師範学校へいけ」と父親の反対にあうのだそうです。
一九三一年三月、広島県西条の伯父を頼り、私立松本学園へ入学。
その伯父さんは三・一運動で朝鮮を「脱出」して、日本に渡り、その後、百姓をしながら飯場を経営。生活は豊か。
一二月初めに、父親の危篤ということで、帰国すると結婚式だった。
生活が豊かなところほど早婚。典型的な朝鮮の結婚である。P六〇
鄭正模一四歳、妻一七歳。
一九三三年五月一日、二年生のときに広島市でおこなわれたメーデーに参加。
その後、京都大学でおこなわれた「反戦大会」に出席した時に逮捕され、
移送された境の「少年刑務所」で土・日をのぞき毎日特高の取り調べを受けた。だが、検事が「もう面倒くさいから、帰れ」と釈放される。
刑務所内で拷問を受ける。
P六一〜六二
いくら戦前とはいえ、我が国において、取り調べがいきなり、警察署ではなく、「少年刑務所」。お笑いですか。そして、もう面倒くさいといって釈放・・・あほらし。
それが元で、私立松本学園を退学。
中学校を卒業しないで帰ることは、父親と新妻に恥ずかしいので、夜間中学に行く事に決め、浪速中学夜間部に行く。
マルクスやレーニンの思想的な本を読むようになり、学校へ通うのを億劫になり、
一九三六年秋、独立運動を目指し大阪を去る。P六三
どういうわけか南朝鮮の徳明里の実家に帰り、この時に初めて新妻を抱く。
妊娠中の妻を残し、革命軍に入りたく、ソウルの親族を訪ねて、三ヶ月間土木工事人夫をして旅費を稼ぐ。
一九三七年四月、ソウルから吉林を目指す。
石油精製工場の雑役夫として夏過ぎまで働く。
その後、土方現場で働く。
一九三八年 革命軍?に入隊を断られ、(このとき、履歴書をハングルで書くように言われる)一年数ヶ月ぶりに実家に帰る。
一九三九年春の田植えが済んだ後、トランクひとつで行き先も告げずに家を出る。
広島の伯父を訪ね、呉に行ってトラックの運転手助手となり、その後、運転を覚え、免許をとり、呉海軍工廠の運搬の下請けをした。
呉軍港では日中戦争により、運搬の仕事が忙しく儲けた。
一九四〇年初秋、戦争が始まっても朝鮮にいれば安全だと思ったので、郷里に帰る。
それから二ヶ月後、慶尚南道固城郡下二面徳明里から三千浦邑の市場へ三人の友人と行く途中、路上にて日本人警官から逮捕されてトラックに積まれ、九州の福岡県飯塚市の鯰田炭坑へ日本強制連行される。
この時には三人の子供がいた。
そこで、一緒に拉致された同郷の鄭載模、ぐうぜんここで会った二歳年下の遠縁にあたり、小さい頃から兄弟のようにして育った鄭順模と三人いっしょに脱走する。この鄭順模は不思議とお姉さんが大阪に住んでいた。
広島の伯父は<「徴用で日本に来て脱走したとなると大変だ。家に手紙なんか出したらすぐに見つかるからな。脱走したら憲兵が銃殺する時がある。大阪に二人置いてお前はすぐ東京へ行け」>p一二四
自称「強制連行」されたきたという鄭正模氏のギャグ人生はまだまだ続きます。朝鮮半島では一九四〇年当時まだおこなわれていないはずの「徴用で」来日。しかも市場に行く途中に自称「強制連行」された・・・・・・・
在日朝鮮人鄭正模のウソ
10月21日火曜日晴れ ××××
林えいだい氏の著書「朝鮮海峡」よりわかる事は、この在日朝鮮人鄭正模氏は、一九一八年二月二三日南朝鮮で生まれた後、一三歳の時、一九三一年三月、広島県西条の伯父を頼り来日し、私立松本学園へ入学。一九三六年秋に独立運動を目指し大阪を去るまでの五年半日本に滞在。
その後、朝鮮に二年半だけ住む。一九三九年春の田植えが済んだ後、トランクひとつで行き先も告げずに家を出て再来日し、呉に行ってトラックの運転手助手として働き、日中戦争により、運搬の仕事が忙しく儲けたのち、一九四〇年初秋、戦争が始まっても朝鮮にいれば安全だと思ったので、郷里に帰るまでの一年半日本に滞在。
それから二ヶ月後に市場へ三人の友人と行く途中、路上にて日本人警官から逮捕されてトラックに積まれ、九州の福岡県飯塚市の鯰田炭坑へ日本に「強制連行」されたとなっています。
このように、鄭正模氏は二二歳の時、一九四〇年に自称「強制連行」されるまでに、一三歳のときから都合七年以上我が国に滞在して中学進学、そして、働いています。(儲けたとまでいっています。)その間、朝鮮滞在はわずか三年弱だけのです。
その一九四〇年冬?の「強制連行」後も、「脱走」し練馬の飛行場建設現場で働き、そこの山本という親方のすすめで、神田の朝鮮学生会館に相談に行き、なんと、路上で拉致同然に強制連行されたはずの人間が、その翌年には早稲田中学夜間部第四年生に編入手続きをとる。(一九四一年?)そして、毎日三時に飯場から椎名町の下宿に帰って、それから池袋まで歩き、都電で早稲田に通学していた。下宿は三人部屋で、中国人の商人が同室だった。p一二七〜一二八
そして、
<私は中学を卒業して大学に行く目標があった。
略)
私自身強制連行されて来て、奴隷の屈辱を受けていますからね。脱走を助けて日本に打撃を与えること、これこそ抵抗運動ではないかとね。>p一三八
<生木を裂くように家族を引き離された怒りが、逆にその任務への新たな決意となった>p一四二
と語っています。
強制連行された人間の目標は故国への帰国ではないでしょうか。強制連行された人間の目標が大学卒業・・・・ギャグでっか!
強制連行されて奴隷の屈辱を受けてきた人間が、やっと脱走し、帰国もせずに大学を目指してがんばって働ける国ってどこですか。日本てなんとすばらしい国でしょう。
あほらし。流石は斜め上がお得意な方々だけのことはあります。
この在日朝鮮人のギャグ話はまだまだ続きます。「生木を裂くように家族を引き離された」というこの方の、戦後の生き方に御注目ください。思わず、「お前マジかい」とツッコミをいれたくなります。ところで、先日、本屋さんで立ち読みしていたら、あのアホな本(まあ、当店のホームページのネタ本)をいっぱい出している明石書店の出版物で「日本は朝鮮半島で何をしたの」(だったかな。正確にはちょっと?)という薄っぺらな本に、この鄭正模氏の証言?が写真付きで掲載されていました。我が国のためにならないことだったらなんでもやるアホ出版社は、このような在日朝鮮人ギャグ親父の証言でも喜んで掲載するというよい例でした。
在日朝鮮人鄭正模のウソ(戦後篇)
10月22日水曜日晴れ ×
「北海道炭砿汽船に強制連行された朝鮮人坑夫たち」とキャプションに書かれた写真が「朝鮮海峡」に掲載されている。P二一四
普通、強制連行していたものを整列して写真に写す意味はなんでしょうか?
そして、戦争が終わったのにもかかわらず、「強制連行」されてきた「はず」の鄭正模氏は帰国もせずに、一九四七年秋より朝鮮人連盟千葉県本部の教育係の仕事につく。P二六九
その後、一九四八年 三〇歳の時に二〇歳の朝鮮人と結婚するが、三日目に家をでて帰ってこなかった。P二七二
「生木を裂くように」「強制連行」されたために、朝鮮に妻子を残しておきながら、帰国もせずに朝鮮人女性と結婚しているのです。
一九四八年春、日本橋の解放新聞社(後の朝鮮新報)に就職が決まる。P二七三
一年後、朝鮮人連盟千葉県本部に呼び戻される。
一九五〇年 朝鮮戦争が始まり、GHQにより朝鮮人連盟が解散させられる。
この時に、手紙で確認もせずに、千葉市の女占い師にどういうわけか家族の安否を聞き、戦乱に巻き込まれ全員死んだと言う言葉を信じる。
その後、一九四六年に母親といっしょに日本に渡って来た、慶尚道出身の朝鮮人女性と知り合い、その正子(どいうわけか日本名)という朝鮮人女性と暮らし始めるが、ある日、妊娠六ヶ月後ぐらいに突然いなくなる。
それ以降女性不振になる。P二八〇〜二八一
またも、妻子残しておきながら、朝鮮人女性と一緒になり、子供まで身ごもらせる。
外国人登録を済ませ、一九五二年〜一九五九年まで職業安定所に登録をした失対事業人夫として働く。
共産党に入党。
「木村」という日本名で部屋を借りる。P二八四
せっせと朝鮮の父親に手紙を書いたが、返事は無いP二八七
一九五九〜一九六二年 鉄屑回収業者として事業を成功させる。P二八八〜二八九
不動産屋を始める。
一九六二年暮れに突然、南朝鮮の長男より手紙が届く。二〇〇通以上出した手紙の唯一の返事。この時の長男の住所はこの在日朝鮮人鄭正模の故郷の生家の住所である。どういう訳か、二〇〇通以上出したはずの手紙が住所も変わっていないのに返事が無く、自称一九四〇年に強制連行されてから、二二年後にいきなり返事が来る。
一九六三年七月に北朝鮮籍から南朝鮮籍に切り替える。P二九三
終戦後、二〇年近くも経った一九六四年南朝鮮にやっと短期間帰国。
<帰国する時に千数百万円用意していたので、三千浦邑の守仙の家の近くに広大な農地を購入した。そこで農園でもやろうと>P三〇二
部落の中央に売り出されていた門構えの大きい家と、すぐ近くの田圃を五反買って、三千浦邑の土地は守仙にやってしまった。山林も二町歩買ってすべて長男の名義にし、二男には家を新築してやると約束している。P三〇二
一九六五年に南朝鮮へ二回目の帰国。
このように、一三歳の時に、伯父を頼って、中学に入学するために来日し、その後も早稲田中学に編入し、大学までめざし、そして戦後も帰国せずに、結婚までしているという在日朝鮮人の鄭正模氏の行動は、とても強制連行されて来たものとは思えないものです。この在日朝鮮人の吐いた言葉「私が日本に来たのは自分の意志ではないんです。
日本政府が強引に強制連行しておいて、解放になっても帰るだけの手だてもしなかった結果じゃあないか。私が日本の法律で罰せられる理由はどこにもないはずだ。むしろ日本政府と政治家の責任をはっきりさせ、その責任を問うつもりです。」(P一三)
まさに、在日朝鮮人の吉田清治版です。。
その嘘つき朝鮮人の言葉を検証もせずにそのまま書く林えいだいというノンフィクション作家。アホとしか思えません。
鄭正模という嘘つき朝鮮人とそれを煽る林えいだいというドアホウ日本人。
しかし、朝鮮人いくら国技の一つとは言え平気で嘘をよくつけるな。
矛盾という言葉を知らない朝鮮人。面の皮の厚さは一流です。