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平成19年5月

5月31日木曜日雨
五月二九日に父の葬儀などを済ませ、三〇日夜に東京に帰ってくる。
今回の父の葬儀では従兄弟、御近所の隣保の皆様にお世話になる。
 本日より営業。
 ケイザブロウさん来店。Sさん、マルガリータさん来店。Hさん御夫妻来店。Hさん、Kさん来店。Mさん二名様で来店。Kさん御夫妻来店。

5月27日日曜日
本日、淡路島より緊急の電話あり。
夕方の新幹線で帰省するため、
しばらく、メール及びホームページの更新はできません。
よろしくお願いいたします。


朴一氏は単語の意味が理解できない
5月22日火曜日晴れ △

 朴一氏は専攻は朝鮮半島の政治、経済、日韓、日朝関係論だそうで、現在は大阪市立大大学院教授でありながら、算数もできないし、朝鮮関係の基礎知識も欠落しているという素晴らしい方ですが、もう一つ、日本語の単語の意味も理解できないようであります。
 朴氏は在日朝鮮人の年金問題について
日本国憲法には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(第二五条)と明記されている。にもかかわらず、日本政府は当初から国民年金法の対象を日本国籍を持つ者にに限定し、外国籍の人たちを長らく国民年金の加入対象から排除してきた。>(p一四七)

 この人は国民の意味を御存じなのだろうか。国民とはその国家を構成し、その国の国籍を有するものであり、国政に参与する地位があるものをいう。日本国憲法の「すべての国民」とは日本国民を指しているのであり、外国人である在日朝鮮人の人々は当然、日本国民では無い。
 朴氏の著書にも<
これまで祖国に帰国した在日コリアンのなかで、祖国からこれほど熱烈な歓迎を受けた人物がいただろうか>(「在日コリアンってなんでんねん」P一二六)
金嬉老のこうした闘いは、日本人以上に在日コリアンの問題に関心を持つ本国>(P一三二)
 このように著書に「祖国に帰国した」と朴氏が書いているように、在日朝鮮人の人にとっての祖国、本国とは南北朝鮮です。在日朝鮮人が海外に出かける時は、日本国のパスポートではなく、南朝鮮、北朝鮮のパスポートで出国する。南朝鮮の民団のホームページには 民団の綱領として「大韓民国の国是を遵守する」「在日韓国国民として大韓民国の憲法と法律を遵守します。」と書かれている。つまり在日朝鮮人はみな朝鮮(この場合は大韓民国)の国民であるはずです。彼らにとっての祖国とは南北朝鮮であり、我国では無い。
 日本人でない外国人である在日朝鮮人がどうして日本憲法に書かれている「すべての国民」になるのであろう。
 この人は本当に大学教授なのであろうか。
アホ過ぎる。

 S@名古屋さん来店。鮪・松長のサカモトちゃん来店。ガンガン飲む。しみずさん来店。ふじなみさん来店。磯自慢の金賞受賞祝い???とかで磯自慢35・・・・Kさん二名様で来店。一名様来店。二名様来店。
 火曜日というのに大忙し。
 ドンチャン。

朴一 歴史捏造 米の収奪
5月21日月曜日晴れ ○

 同じく朝鮮人のつく大嘘のひとつ「米を収奪された」というのもあります。
御多分にもれずに、この大学教授サマもその大嘘をかましています。
以下引用
一九二〇年代に入ると、朝鮮人労働者の日本への渡航はさらに増加する。その背景には、一九二〇年から朝鮮半島で開始された産米増殖計画が、朝鮮農民に及ぼした深刻な影響があった。
一九一八年の米騒動を契機に、日本で顕在化した空前の食糧危機を回避するために打ち出された産米増殖計画は、一九二〇年から一五年で朝鮮半島のおよそ四〇万町歩を土地改良し、約九〇〇万石の米の増収を図って、日本の米不足を補おうとするものであった。この計画によって、朝鮮における米の生産高は飛躍的に上昇したが、増加分をはるかに上回る朝鮮米が日本に移出されたため、朝鮮人自身の米の消費量は年々減少していった

引用終わり(P三九〜四〇)

 そして、朝鮮人やアホな反日日本人がよく使うレトリックをこの在日朝鮮人大学教授サマも使っています。
さて、表二を見てみよう。表からわかるように、一九二〇年から三六年まで朝鮮における米の生産高は二〇%上昇しているが、対日移出高が四〇〇%以上膨れ上がったことで、朝鮮人一人当りの米の消費量は四〇%近く減少している。>(P三九〜四〇)

表二

年次

生産高(A)


実数(千石)・指数

対日移出高(B)


実数(千石)・指数

B/A(%)

朝鮮人一人当年間消費量


実数(石)・指数

日本人一人当り年間消費虜


実数(石)・指数
1915〜19年平均 13,978 (100) 1,930 (100) 13.8 O.707 (100) 1.117 (100)
1920〜24年平均 14,421 (103) 3,299 (117) 22.9 0.638 (90) 1.130 (101)
1925〜29年平均 14,821 (106) 5,850 (303) 39.5 0.512 (72) 1.117 (100)
1930〜36年平均 16,842 (120) 8,160 (423) 48.5 0.426 (60) 1.076 (96)



 その表とは、上に示したように中塚明「在日朝鮮人の歴史的形成」より引用しているものですが、一九一五年から一九三八年までの朝鮮米の生産高の推移をあらわしたものです。
 これも「
米の収奪のウソ」に書いていますが、一部こちらにも転載させていただきます。
 朴氏は我国の朝鮮併合は一九四五年まで続いているはずなのに、一九一五年から三六年までの米の生産高しか表示していません。
 どうしてその後の統計を示さないのであろうか。我が国にとっても一番食料事情が悪い時であり、食料が欲しい時である。
それは、一九三七年を境に一九三八年からは朝鮮内の米の消費高、人口一人当りの消費高が大きく増えているのである。このような事実を隠すためにこのような書き方をするのです。
いかにも、嘘つき在日朝鮮人、反日日本人らしい姑息なやりかたです。

表三(最終桁数は四捨五入)

?

生産高(万石)

移出高(万石)

朝鮮での総消費高(万石)

人口一人当りの消費高(石)

1912〜16年平均

1,230

106

1,111

0.7188

1917〜21年平均

1,410

220

1,171

0.6860

1922〜26年平均

1,450

434

1,061

0.5871

1927〜31年平均

1,580

661

967

0.4964

1932〜36年平均

1,700

876

845

0.4017

1937年

1,941

716

1,258

0.5679

1938年

2,680

1,070

1,578

0.7031

1939年

2,424

605

1,765

0.7761

1940年

1,436

43

1,398

0.6108

1941年

2,153

368

1,751

0.7285

1942年

2,489

564

1,912

0.7571

1943年

1,569

0

1,653

0.6246

 そして、その時代背景をも考慮しなければいけません。
 表三では一九二六年(大正一五年)から朝鮮での消費量が急減している。この時は昭和初期の昭和恐慌として名高い時期であり、農家が米を食べられなくなったのは朝鮮半島だけではない。日本の東北地方の惨状もすさまじい。その後の冷害では北海道、青森などを中心とした地帯に四五万人もの人々が餓死線上にたたされ、農村部では、役場の史員や学校の先生の給料までも払えずに、娘の身売りが続出した時代であった。
 しかし、朝鮮半島の米の生産量は大きく伸びている。これは日本が治水、品種改良などによる成果であるが、それ以上に移出が伸びているのは、米以外に換金作物がないために、日本に米を移出する事により農家が現金収入を得たいがためである。
つまり、自由経済の当時においての朝鮮半島の米の内地への移出は、すべて朝鮮半島の事情によるものである。
このために、朝鮮総督府は緊急に雑穀を輸入して、朝鮮人の食するカロリーに変化がないようにした。(歴史を偽造する韓国 中川八洋著 p六八)
 欧米の植民地主義とはまったく違う、日本民族の誇るべき善政である。

 なによりも、一九一八年の米騒動の時を例外として、昭和に入ってからの朝鮮よりの米は我が国にとってはもはや不要のものであった。考えてもみてほしい、朝鮮でさえ昭和に入ってからは大きく増産ができる体制になっているのである。朝鮮より早く近代化された我が国では一九二五年(大正一四年)から三一年(昭和六年)にかけて日本本土の米の価格が四〇%も暴落したのは朝鮮、台湾からの安価な米が無制限に入ることが原因であった。
そのために日本本土の農家は朝鮮米の移入制限を強く要求、農林省も内地農民の保護のために一九三四年には臨時米穀移入調節法案が策定されていたが、その法案の国会上程を陸軍の応援を得てまで阻止したのが、「朝鮮の二宮尊徳」とまで呼ばれる石塚俊と朝鮮総督府であった。

 結局一九三四年に「朝鮮から移入される米は内地では拒まない。しかし、一時に移出されると困るから月ごとに平均的に移出する事」とし、京城、台北にも農林省の米穀事務所を設置することで合意が成立した。しかし、石黒忠篤農林次官は「このような状況では朝鮮米移入問題は解決できない」として辞任している。植民地朝鮮の研究(杉本幹夫著 展転社)p七四
 米騒動のあった大正時代と違い、昭和に入ると各地に増産体制が整い、不況による消費の減少もあり、米余り時代となったが、朝鮮の農家は米にかわる換金作物がなく、また内地に移出した方が高く売れるために移出を続けたのである。
石塚や朝鮮総督府は内地より朝鮮半島、朝鮮人を第一にかんがえたのである。
 その証拠に、朝鮮の教科書やバカ日本人どもが提示しない表三にあるとおり、朝鮮半島が一九四〇年の大干ばつで前年比約一〇〇〇万石減という大凶作になったときは、日本本土への米の移出を前年の六〇五万石からわずか四三万石にまで制限した。
 朝鮮農家にとり米は日本本土に売った方が何倍も儲かるから、総督府が移出制限をしないと、朝鮮半島が深刻な米不足に陥るためである。それは、生産量の大きな落ち込みに比べて、その時の人口ひとりあたりの米の消費高が大きく減っていないのでもわかる。内地以上に食料事情がよかったのである。
 朝鮮における一九四一年の米価設定は、生産者の手取り価格は一石五〇円にたいして、消費者価格は四十三円の完全な逆ざや政策であった。 以下引用および参考文献
歴史を偽造する韓国 中川八洋著 徳間書店
植民地朝鮮の研究  杉本幹夫著 展転社
韓国は日本人がつくった 黄文雄 徳間書店
続く

 今日は食事と夕方より古本屋さんに出かけた以外には部屋にいた。テレビを見ていたら、林警部のお通夜を放送していた。犯人の命乞い・・・
 三社祭で神輿に乗るアホウが逮捕されたというのもやっていた。
 私の田舎の部落の祭では、神輿を担ぐ者は部落の男でその年により決まっており、前日から小屋に泊まり生臭ものを絶って過ごしす。当日は暗いうちに海に行き、日の出の海の水で水ごりをしてから祭で担ぐ。それも八幡神社からまっすぐ数百メートル伸びた道の先にある台座に置き神事をおこない帰ってくるだけ。
 女性は神輿に触ることもできない。ましてや、神輿の上に乗るなどということは考えられない。
 N23で引き裂かれた人々というのをやっていたが、どういうわけか悪いのは日本で北朝鮮が悪く無いというような構成であった。
「この海によって引き裂かれた」「送りだした日本がどうして何もしないのか。どうして黙っているのか」
 あの井筒和幸氏も同じような構成で映画を作っていたが、悪いのは我国では無く北朝鮮だろう。相変わらず腐れ放送局のTBSらしい醜い構成だった。


朴一 歴史の改竄
5月20日日曜日晴れ○S

 朝鮮人のつく大嘘の一つに「土地を収奪された」というのがあります。
 この大学教授様の朴氏もその大嘘を「在日コリアンの来歴」として著書に書いています。
以下引用
当時の多くの朝鮮人が「故郷の朝鮮半島を捨て、豊かな日本に移住せざるをえなくなった」歴史的背景と日本の植民地開発政策との因果関係
である。
略)
 それは、併合後に実施された日本の植民地開発政策と深い関係がある。まず、日本政府は、一九一〇年から一八年まで、植民地朝鮮で大規模な土地調査事業を実施した。「土地所有権の調査、土地価格の査定、地形調査」の目的で開始されたこの事業は、当時の朝鮮社会に根づいていた地慣例を一方的に破棄させるとともに、日本の法律に無知な朝鮮農民から土地を収奪し、彼らの多くを小作農に転落させた。土地を奪われた農民の一部は、地主層の新たな賦課もあって生活が徐々に困窮し、離農を余儀なくされることになった。
 やがて農村から排出された没落農民の中から、日本や中国へ出稼ぎに出る者が現れ、年々その数も増加していった。

引用終わり(在日コリアンってなんでんねん P三七〜三八)

 この朴氏の書く嘘については「
土地収奪の嘘」として既に書いていますので、詳しくはそちらを御覧下さい。
 しかし、他の朝鮮人と同じくこの在日朝鮮人教授もあまりにも醜いウソを平気で書くのには呆れる。
 土地調査事業は日本人が日本人の税金で、当時のお金として二〇四〇万円という大金を使い、朝鮮人のための土地調査を一九一〇年(明治四三年)〜一九一八年(大正七年)まで八年もかけて実施したものです。当時の朝鮮総督府のおこなった法律万能主義による土地調査事業が完璧だったとは私も思いませんが、少なくとも、前近代的な李朝の土地制度を改め、近代的な土地台帳を無償で朝鮮は手に入れたのです。これがどれほど朝鮮半島の近代化に役立つものか少し考えればどんなバカでもわかりそうなものです。
朝鮮総督府の接収した耕作地は三%強にしかなりません。
続く

 店を片付けた後にスポーツセンターに行く。久しぶりなので、体が重い。
一応有酸素運動以外の一通りのメニューを消化。店に一度戻り生ゴミを出してから帰宅。

やはり売国奴の公明党と創価学会
5月19日土曜日くもり ×

 公明党が「秋のGW」構想というのを進めているそうな。(五月一八日、一九日の産経新聞)
 一一月三日の「文化の日」の前後に一〇月第二月曜日の「体育の日」と一一月二三日の「勤労感謝の日」を移して三連休とするという考えだそうだが、流石は売国奴政党らしい考えです。
 五月四日の日記に、西村慎吾議員のメルマガを引用させていただき祝日について書きましたが、祝日とはその日付けに意味がある。勤労感謝の日は皇室神事の新嘗祭。体育の日は昭和三九年の東京オリンピックの開会式の日。そして、文化の日は明治天皇のお誕生日です。そういう意味では文化の日という呼び方もおかしい。明治の日とすべきでしょう。
日本民族の歴史の中で生まれたこれらの日を変え、我が国の歴史を消し去ることに一生懸命な公明党。
 また、公明党は在日朝鮮人の走狗としても頑張っています。

以下引用
外国人参政権付与法案、冬柴氏「1日も早く成立を」
 冬柴鉄三国土交通相は13日の参院予算委員会で、公明党が提出し、継続審議となっている永住外国人参政権付与法案について、「相当程度に採決に熟した状況にある。1日も早く成立させるべきだ」と述べた。民主党の白真勲氏への答弁。法案は平成17年秋の特別国会に提出されたが、自民党側に抵抗感があり、現在も審議の見通しは立っていない。
(2007/03/13 19:06)産経新聞


 いままで何度も書きましたが、外国人と国民との差別はあたりまえであり、同一の権利ということがおかしいのです。世界のどの国であっても自国国民と外国人が同じ権利を有している国は絶対にありません。
 南朝鮮において、外国人の在留は三年までと制限され、その延長はその都度の審査により決定されています。外国人の土地の取得は二〇〇坪以下です。
 それに比べて、在日朝鮮人は外国人として世界中のどの国の外国人より特権を有しています。無期限の日本在留。無制限の就労、商業活動。人殺しなどの凶悪犯罪によって国外退去させられることは殆ど無い。こんなに権利を有していながらもっと寄越せ、もっと寄越せとどん欲な在日朝鮮人。
 しかし、この破格の待遇に対してどん欲な在日朝鮮人が我が国に感謝することはない。
 在日朝鮮人がすべきことは、己が外国人であると自覚することであり、その外国人を受け入れてくれている日本という国家への感謝である。
 日本に住みながら日本という国家に対して感謝もない外国人はさっさと母国に帰ってもらいたい。
 諸悪の根源は日本国民でない在日朝鮮人という外国人が外国人と意識しない元になっている特権である「特別永住者」という制度であることは明らかであり、この特別永住者制度を即時廃止にすべきです。

 散歩されていて偶然外の酒メニューを見てという初めてのお客様来店。Oさん来店。先日御来店頂いたお客様来店。二名様来店。HIROKOさん来店。わ。さん来店。
 ドンチャン。記憶ありと思ったが、やっぱりあやふや・・・・


朴一 金嬉老と在日差別×
5月18日土曜日雨のちくもり

 同じ朴氏の著書「在日コリアンってなんでんねん」にはあの金嬉老について「在日の視点から過去を見つめる」として、その事件背景から法廷での裁判の進め方、そして、一九九九年九月に仮釈放され南朝鮮で英雄として迎え入れられたかを朝鮮人差別とからめながらP一二五〜一三四の一〇ページにもわたって詳しく書いている。
そして、この元在日朝鮮人殺人鬼について、
<金嬉老は法廷においても事件の背後にある民族差別を訴え続けた。
略)
 まさに「金の戦争」(注、映画)は金嬉老事件の背後にある日本の深刻な民族問題を抉りだしながら、そうした差別となんらかの方法で闘わざるをえなかった金嬉老の苦悩を描くことに成功している。少なくともこの映画を見たものは、金嬉老を「犯罪者」という一面で捉えることが誤りであることに気づくだろう。韓国の人々が金嬉老を「在日韓国人差別と闘った英雄」と見なすのは、彼らが金嬉老事件の背後にあるこのような「日本人の嫌韓意識」を嗅ぎ取っているからにはほかならない>

(P一三二)
 このように書きながら、朴氏はこの昭和三年、静岡生まれの元在日朝鮮人殺人鬼が、金嬉老と本名の権禧という二つの名前以外にも近藤安広、金岡安広、清水安広 と多くの通名を持ち、詐欺・窃盗・強盗を繰り返しては刑務所に入れられるという生活を送っていたどうしようもない犯罪者であった事も書いていないし、南朝鮮政府から助力を得て釜山に渡って高級マンションを与えられ結婚もしたが、その移住からたった一年後の平成一二年にその本性を現して、愛人の夫への殺人未遂と放火容疑で再度南朝鮮でも逮捕され服役したということについては何も書いていない。
 つまり、書けば、金嬉老という元在日朝鮮人殺人鬼は民族差別のために戦った英雄などではなく、在日朝鮮人という立場に居直り、自分の犯罪も全て周りが悪いと差別、差別と騒いでいただけの只の卑しい人間であり、在日朝鮮人の人々にとっては恥ずべきどうしようもないクズ人間だったということがわかるために、それを書いていないのです。
ここにも朴氏の御都合主義が現れている。

 この金嬉老という元在日朝鮮人殺人者が南朝鮮に帰ったことについても、
<これまで祖国に帰国した在日コリアンのなかで、祖国からこれほど熱烈な歓迎を受けた人物がいただろうか。三〇〇〇本安打という日本のプロ野球界で不滅の金字塔を打ち立てた張本勲、芥川賞など数々の文学賞を受けた作家の柳美里、映画「月はどっちに出ている」で日本映画の映画賞を総なめにした映画監督の崔 洋一、日本のそれぞれの分野で頂点を極めた彼らでさえ、祖国からこんなVIP待遇を受けはしなかった>(「在日コリアンってなんでんねん」P一二六)
<金嬉老のこうした闘いは、日本人以上に在日コリアンの問題に関心を持つ本国の>(P一三二)

なのに、この人は別の著書(共著)で下記のようなアホな事も書いている。
「ディアスポラ(Diaspora)」という言葉があり、これはなんらかの理由で祖国を奪われた異国の地で、その逆境を跳ね返しながら新しい文化を創っていく人たちのことです。在日コリアンはまさにこの「ディアスポラ」であり
(「歴史教科書 在日コリアンの歴史」明石書店p一二五)

また、講演では下記のような事も言っている。
<我々は、サンフ ランシスコ講和条約の時点で、日本国籍を一方的に剥奪されたわけです。>
<在日朝鮮人をはじきだすために、国籍を剥奪した。>
一九九五年一一月一一日「在日韓国・朝鮮人の未来と人権 」研究集会(於東京・池袋)講演での発言
<こうした通達は、在日朝鮮人本人の意思を確認して行われたものではなく、日本政府の一方的な処置であった>
(「在日コリアンってなんでんねん」p八八)

 「在日コリアンってなんでんねん」に「祖国に帰国した」と朴氏が書いているように、在日朝鮮人はみな南北朝鮮(大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国)の国民であるはずです。彼らにとっての祖国とは南北朝鮮であり、我が国から出国する時にはその祖国の発給するパスポートを持って出国する。もちろん、その偉大な祖国に帰る事も自由である。決して「祖国を奪われた」わけではない。
また、我が国政府が一方的に日本国籍を剥奪したわけではない。→
在日朝鮮人のつく大嘘「日本国籍を強制的に収奪された」
それなのに我が国にいて、差別だ差別だと騒いでいるだけなのです。
それを「祖国を奪われた」「日本国籍を一方的に剥奪され」などと宣うドアホ在日朝鮮人教授。
続く

 今日は世間一般は忙しい金曜日というのに、ヒマ。
 一名様来店。二名様来店。
 営業終了後、李さんと飯

朴一通名2
5月17日木曜日曇り一時大雨 ×××
~
朴氏は松坂慶子の父親の著書『娘 松坂慶子への「遺言」』(光文社)より
 <
ワシ坂慶子の父、英明さんが生まれたのは朝鮮半島の大邱だった。
略)日本の植民地政策によって韓英明という姓名は日本風の岡本英明に改名され、日本語の教育を受けた。しかし、決して日本人とは認めてもらえなかった。学校では「朝鮮人は日本人より劣っていると教えられ、朝鮮人の誇りは踏みにじられた。「このままでは駄目だ」ということで日本行きを決意した。一九三八年、一五歳のときだった。
>(朴氏の著書「在日コリアンってなんでんねん」P45〜46)
 と引用している。

 また、「なぜ日本名を名乗るのか」として二〇〇二年の調査結果として、七〇代以上で二六・五%、六〇代で六四・八%が生まれた時から使っていると答えたことについて、
ヰeの最初の世代である七〇代と六〇代が日本名を「生まれたときから使っている」のは、日本植民地時代の創氏改名政策の結果である。
略)
「生まれたときから使っている」のは、基本的に民族差別から回避するためだったと考えてもよい。とすると、七〇代、六〇代が日本名を名乗る理由は、ほとんど民族差別に起因しているといえる。
略)
「生まれたときから使っている」という回答は、在日コリアンに対する民族差別を否定するものではなく、むしろ民族差別を背景として語られたものと言えよう。
B>(P一〇〇〜一〇一)
と書いています。

 一九四〇年、朝鮮総督府の塩原時三郎学務長と南次郎総監という二人の国賊によっておこなわれた「創氏改名」については、私も朝鮮の人々の歴史や伝統に対する侵害だとおもいます。
 朝鮮総督府は、朝鮮人が勝手に日本名を名乗らないように、朝鮮併合直後の一九一一年一一月に日本式の氏(姓)を禁ずる、朝鮮総督府令第一二四号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を定めている。
 名に関しては、日本式の名を用いたいという朝鮮側の要望に屈して、新生児のみ例外的に認めたのは一九三七年である。
 つまり、朴氏が著書に引用している一九三八年に一五歳で日本に来たという松坂慶子の父親が「日本の植民地政策によって韓英明という姓名は日本風の岡本英明に改名され、日本語の教育を受けた」というのはウソであるし、在日朝鮮人の二〇〇二年の調査結果として、七〇代以上で二六・五%が生まれた時から使っていると答えた在日朝鮮人もウソをついているのである。六〇代で六四・八%が生まれた時から使っていると答えたうちの少なくともこの時点で六五歳以上の在日朝鮮人はウソをついている事になる。
そんなウソつき在日朝鮮人に対して、基礎知識もなく、
<親の最初の世代である七〇代と六〇代が日本名を「生まれたときから使っている」のは、日本植民地時代の創氏改名政策の結果である。>と書くアホ在日朝鮮人教授。なんでも民族差別にしたがるアホ在日朝鮮人教授。
すごいよなあ〜こんなんでも教授様だもんな。大阪市立大学教授てこの程度なのか?こんなアホでも教授????
続く

 
 Iさん、SAKURAさん来店。カトリーヌさん三名様で来店。サンフランシスコ在住で単身赴任で神楽坂にお住いというお客様来店。Nさん二名様で来店。
 営業終了後、「ひげ」さんが開店一周年ということで、お祝に初亀出品酒を持って伺う。マスターの武田さんとドンチャン。


日本キリスト教議会
5月16日水曜日晴れ一時曇り 
 
@河岸から帰って来て仕込みをしていると、「エホバの証人」とかいう宗教を布教している御夫人が二人いらっしゃる。
まあ、当然、「すみません、興味ありませんので」とお帰りいただく。
 信教の自由が保証されている我が国ですが、キリスト教の布教率は一%を越えていないだろうと言われています。南朝鮮では五〇%もの布教率だそうです。
 
 あの売国奴である故松井やより女史もキリスト教信者だったそうで、「 朝まで生テレビでは「日本の兵隊達をですね、殺人鬼って言われたり強姦魔って言われたり、強盗ってね、 アジア行ったらみんな言ってますよ。そういうようなことをさせるような状況にしたのは 誰なのか、どういう行動なのか、その責任者を私たち自身の手で問うてないわけでしょ。
 うちの父はね、どういうふうにしたかって言うと、殺さなくていいように、 ハンストみたいに非常にこう、抵抗をしてですね、それはこっそりですよ、で、通信部隊 っていうそのぜんぜん殺さなくていいところに行って」
とアホ丸出発言していますが、そんなアホの松井やより女史の仕事場を保存してある所が早稲田にあります。
u女たちの戦争と平和資料館ル」という戦時売春婦記念館です。ここに場所を提供しているのが、A日本キリスト教議会?ニいう反日団体です。
ここのホームページを見れば判る事ですが、数々の反日活動を展開しています。

以下引用

河野談話」を継承し、見直し・撤回をしないよう求める声明        日本キリスト教協議会(NCC)女性委員会は、日本軍「慰安婦」(=日本軍性奴隷制の犠牲者となった女性たち)問題の解決のため、1992年以来、日本国内のさまざまな女性団体、また被害国の女性たちと手を携えて活動してきました。その間に私たちは何人もの被害者の方々や現地の支援団体の方々に直接出会って証言を聞き、日本政府による公式謝罪と法的賠償を求める被害者の願いを支持しています。
略)
 今、日本政府に求められているのは、河野談話に真摯に向き合い、談話の中にある「同じ過ちを繰り返さない」という決意にもとづいて、高齢の被害者たちが健在の間に、被害者の求める公式な謝罪と法的な賠償をもって真に解決することであると信じます。日本が国際的な信頼を回復するためにはそれが唯一の道であると考えます。            
2007年3月13日
  日本キリスト教協議会(NCC)
  女性委員会委員長 松浦順子  
  NCC総幹事 山本俊正

「君が代伴奏拒否訴訟」最高裁判決に抗議します
 この度、東京都内の小学校の音楽専科のF教諭が原告となり、東京都教育委員会を相手取り最高裁判所に上告申し立てしていた戒告処分取消請求訴訟に対して、2月27日、最高裁は、上告棄却の判決を下しました。最高裁判所が、人間としての基本的人権に関わる「思想・良心の自由」に対して、法的な洞察を深めることなく、F教諭の上告申し立てを棄却した判決を下したことに対して、抗議の意を表明いたします。
 略)
 この判決が、将来私たちキリスト者の「信教の自由」に対しても同じような制限が加えられることを強く危惧いたします。
 私たちは、公立学校の教師・生徒に対してであろうと、一般市民に対してであろうと、憲法や子どもの権利条約に保障された「思想・良心・信教の自由」を制限する一切の企てに反対します。
 私たちは、今回の最高裁判所における判決が、法の番人としての極めて中立性を欠いた不当な判決だと考え、判決に異議をとなえ、抗議を表明します。
2007年3月1日
日本キリスト教協議会(NCC)
総幹事 山本俊正

在日外国人の人権委員会
 在日外国人の人権委員会の前身は、1967年に発足した少数民族問題研究委員会です。この委員会は1972年に現在の委員会名に名称を変更しましたが、当初から一貫して在日韓国・朝鮮人の人権獲得をその中心的課題として活動してきました。1970年前後の出入国管理法案への反対闘争をはじめとして、就職差別や民族教育の保証を求める闘い等が行われてきました。
略)
また、韓国NCCの人権委員会など、韓国とも在日の人権をめぐって長い共闘の歴史があり、1999年6月には外キ協等6団体と共催で「21世紀アジアにおける日本-在日-韓国教会の共同課題」を主題に、東京において第7回外登法問題国際シンポジウムを開催したり、韓国教会在日同胞苦難の現場訪問(同年8月 於:京阪神?広島)を受け入れるなど、関係を深めています。


以上日本キリスト教協議会のホームページより

 平成九年には木邨健三日本キリスト教協議会(NCC)靖国神社問題委員らが北朝鮮にいき、最高人民会議常任委員らにコメその他の支援を申し出ると共に現金一〇〇〇万円を手渡し、その場で実際に土下座までしたそうです。(国民新聞より)
 これがこの組織の実態です。

 一神教のキリスト教で平和を叫ぶ・・・・・・

 今日はどういうわけか大忙し。uさん二名様で来店。那須よりEさん御夫妻わざわざ来店してくださる。Kさん二名様で来店。二名様来店。Wさん来店。一名様来店。
営業終了後、李さんと飯。


朴一4 通名その1
5月15日火曜日晴れ一時雨 △

 朴氏の著書には通名については下記のように書いている。
以下引用
 通名は「偽名」だと言っているが、この「通称名」は決して偽名ではなく、日本政府から公的に使用を認められた名前である。たとえば、印鑑登録や不動産登記、商業登記、運転免許証、あるいは学校の卒業証書にも通名は使用できるし、法的な証明書にすべて通用する、政府に正式に認知された名前で、決して偽名ではない。
 もし、このような日本政府が正式に認知した名前さえ使うなということであれば、もともとそういった名前を使わざるをえない状況に追い込んできた日本社会が、このような「偽名」を名乗らなくともよい、差別のない社会にしなければいけないということではないか。したがって、こういう人たちに対し、たとえ罪を犯したからといって、「出自暴き」をするということは、犯罪に犯罪を重ねているという気がするのである。
引用終わり
(「在日コリアンってなんでんねん」P三二〜三三)

 通名という偽名を名乗っているのは多くは在日朝鮮人です。朴氏は書いていないが、通名を使う事により、貯金通帳なども本名と二つ持つ事ができる。それにより、相続税なども免れる事が可能となる。外国人登録証の通名は簡単に変更できる。その事により、過去には下記のような犯罪も起きている。
以下引用

【健康保険証の通名変更悪用し携帯売りさばく】

外国人登録証の通名が容易に変更できる
驍アとを悪用して名前の違う保険証を約30枚取得、その名義で大量の携帯電話を買って売りさばいていた、として京都府警は3日、京都市の在日韓国人の男(32)について詐欺容疑で逮捕状を取った。
男はパチンコ店などで顧客を広げ、1台5万円程度で売却を繰り返していたとみられる。2000/09/04 読売新聞

引用終わり
 この通名の変更は実際にその名前で社会生活をしているというような、例えば銀行の名義だとか、会社の給与明細などその名前が実際に通用してるという証明がないと変えられないことになっているが、朝鮮系の銀行においては通名により通帳を作ることができ、その通帳により通名を登録できる。そのことにより、実際はこの記事のように
ノ外国人登録証の通名が容易に変更できる驍アとを悪用し、A三〇回変えた在日朝鮮人がいるわけで、在日朝鮮人の犯罪における通名の報道が意味がない事が判るし、犯罪の温床にもなっている。
そして、通名は七〜八年使用すれば、外国人登録の本名を通名に変更することもできます 。この場合、元の外国人登録証が他人から買ったものであれば、それを通名に変える事で、正規の外国人登録証とすることができます。法的な証明書が通名で通用すると朴氏は書いているが、犯罪の温床のひとつとなっているのも通名なのです。通名を禁止すべきという人が多いのは、このような背景によるものです。

 そして、朴氏だけでなく、多くの在日朝鮮人の方々に問いたい。一番の疑問は誇り高いはずの朝鮮民族が我国において名前を二つ(以上)持つ事の意味を。そして、それを、差別によるものだという言い張りながら、海外においてさえ、日本人と偽る事の多い事がまた差別によるものなのかどうかを。

 この朴氏も、差別差別と騒いで在日を商売にしている辛淑玉女史などと同じ臭いがするのは気のせいでしょうか。
続く

 出かける時はいいお天気だったのに、河岸に行った帰りに雨。
 昨日スポーツセンターに行った反動で、肩、胸、背中、腕などが痛い。
 ナベちゃん、王ちゃんとニコニコ来店。酔狂師さん来店。わ。さん来店。
今日も一通りは飲む。鑑評会出品酒がいろいろと入ってくる時期になった。

映画
5月14日月曜日晴れ △ S

 昨日というか今朝まで部屋で古本市で購入した本を読んでいたが、九時頃に起きて、シャワーを浴びた後、食事をしてから昼過ぎに高田馬場のスポーツセンターに行く。
 昨日できなかった上半身のメニューを消化。ベンチは二人ひと組になったので、一分〜一分半のインターバルにて六〇?×八、九〇?×二、一〇〇?×八、一〇〇?×四、一〇〇?×四、九〇?×八、九〇?×四、八〇?×八、八〇?×四(最後だけスロー)

 店に寄り資源ゴミを出した後に、歌舞伎町の映画館の前にて李さんと待ち合わせて「俺は、君のためにこそ死ににいく」を観る。
 映画の中には手元にある鳥浜トメさんの娘であった赤羽礼子さんの言葉をまとめた「ホタル帰る」(草思社)に掲載されていたエピソードが、映画では実在の人物の名前こそ違いますが多く出てきます。
 鳥浜トメさんは、特攻基地のある知覧で軍の指定食堂をやって、出撃する特攻隊員のためにお金も取らないで家財道具を手放してまで一生懸命もてなした。終戦のころには、鳥浜トメさんの集めていた着物はもちろん、家財道具も小豆や砂糖、もち米、酒として消えてしまってガランとなってしまったそうである。
 映画の元になった特攻隊員のエピソードとしては、朝鮮人で毎日のように富屋に入り浸り、出撃前にアリランを歌っていった卓庚鉉光こと山文博少尉。ホタルになって帰ってくると言った宮川三郎軍曹。鳥浜トメさんに「人生五〇年というけれども、おれなんかその半分にもならない二〇年であの世に行っちゃうんだからな。おれの余した三〇年ぶんの寿命は小母ちゃんにあげるから」といって出撃した勝又勝雄少尉。海に突っ込みアメリカ軍に助けられ松葉杖をつきながら沖縄の島にひっそりと暮らしていると伝えられている南部吉雄少尉。出撃の前々日に東京より恋人である川崎渉少尉に会いに来て、どうしても川崎少尉の妻になって生きたいといった布施綾子さん。その川崎少尉の出撃を見送りに来た御両親に布施綾子さんと結婚したい事をつげた。しかし、死ぬとわかっている自分の息子に他所様の娘を嫁にもらうわけにはいかないと御両親のお許しなくそのまま出撃したが、二回搭乗機の故障にて引き返し、三回目の出撃で送電線に触れ事故死された。
 川崎少尉の恋人であった布施綾子さんを鳥浜トメさんはその後も手紙にて励まし続けた。

 「ホタル帰る」には宮川軍曹と仲のよかった滝本恵之助伍長が、豪雨の中の出撃し、帰還しようと合図したのに宮川軍曹はそのまま突っ込み、滝本伍長が引き返した。戦後、宮川軍曹の御実家を訪ねて宮川軍曹について話した時に、御両親は感謝し、涙ながらに話を聞かれたそうである。その後、一週間もしないうちに滝本伍長は亡くなったが、死因については誰も語りたがらないそうです。
 宮川軍曹も川崎少尉と同じく、一度出撃しながら機のトラブルにより帰還していた。映画の中に出撃した特攻隊が機のトラブルで帰ってきた時に、「なぜ、帰ってきた」と責める場面がある。
 我国は新鋭機などは本土決戦用に温存し、旧型機から練習機まで特攻機として使用した。事故のため手元にある「写真集 特別攻撃隊」(国書刊行会)にも掲載されていませんので、川崎少尉の搭乗機は何かわかりませんが、宮川軍曹の搭乗機は旧式の九九式だったそうです。知覧からの出撃した特攻機のうち後期開発機の三式戦「飛燕」は四九機、旧式の九七戦一七二機、九九式、双軽一一七機。そして、この映画に出てくる一式戦「隼」は一六六機の出撃です。宮川軍曹はせめて隼に乗って出撃したかったと語ったそうです。

 映画には、知覧より沖縄に向かう隼の編隊に気づいたその下を歩いていた一般の人が、土下座して見送る場面。富屋に特攻隊員が訪ねてくると、前にいた他の兵が身を正す場面。終戦後、米軍が残っていた隼などの飛行機を燃やし、そこで拾ってきた棒杭を鳥浜トメさんが地面に立て、それを特攻隊員の墓とする場面。生き残った特攻隊員の方が鳥浜トメさんの車椅子を押す場面などがあります。生き残った特攻隊員の方はひどい慚愧の念にさいなまれたそうで、中にはみずから命を絶った方もおられるそうです。そういった方を鳥浜トメさんは「神様があんたを残してくださったということですよ。残されたということは、何かやることがあるから残されたんだよ。」と励ましたそうです。

 特攻隊員の数だけ物語がある。それを我々は忘れてはいけないと思う。
それらは、決してあのアホの井筒和幸が言っていた「戦争の美化」などでは無いと思います。
 たった六〇年前にこの国と国民を守るために散華された多くの先人おられ、それにより今の日本がある。

 昨年、靖國神社に花見で行き、回天を見た時も言っていたが、今日も李さんは「昔の日本人は勇敢だったのね」・・・・映画のパンフレットを購入しようとしたが売り切れだった。

 久しぶりに四川料理を食べて帰る。

根三葉
5月13日日曜日晴れのちくもり S
?
 写真は当店の前にあるスペースで生ゴミで元気に育っている根三葉の採集
店を片付けてから、高田馬場のBIG-BOXで開かれている古本市に行く。三〇年以上続いてきたこの古本市も今回で最後だそうな。今日は「ハワイ日系米兵」「韓国・朝鮮と近現代史教育」「日本のアジア支配を考える」「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の四冊を購入。特に「ハワイ日系米兵」は探していた本の一冊でありありがたかった。「韓国・朝鮮と近現代史教育」「日本のアジア支配を考える」はネタ本。今さら丸山静雄でもあるまいが・・・・・
 スポーツセンターにいくが、イマイチ集中力が無いので、下半身のメニューと有酸素運動をして、帰宅。

引退
5月12日土曜日晴れ ××
~
 参議院議長の扇氏も引退表明したそうですから、衆議院議長である河野洋平もさっさと引退表明というか政治の世界から消えて欲しい。七〇歳になったのですからいい引き時でしょう。いっそ、世の中から消えてくれたら一番日本のためになると思います。
 支那がたよりにしている「七人のサムライ」の筆頭の河野洋平が引退したら、支那と朝鮮は悲しむでしょうが日本の国益にはなります。
 ちなみに、他の七人のサムライは福田康夫、野田毅、二階俊博、加藤紘一、山崎拓、高村正彦という面々。(平成十八年四月二日のサンケイ新聞より)

流石は偽物大国の支那。パナマでも一〇〇人以上もニセ風邪薬で殺すとは・・・・

 Sさん二名様で来店。Nさん二名様で来店。Nさん来店。
営業終了後、李さんと久しぶりに寿司屋さんで飯。


朴一3
5月11日金曜日 晴れ ××××
~
 朴一氏の著書「『在日コリアン』ってなんでんねん」には朝鮮人が日本にとどまることを余儀無くされたとして下記のようなことが書かれている。
以下引用
 
@一九四五年、祖国の解放を日本で迎えた在日朝鮮人は帰国を待ちわびた。とりわけ帰国者の経由地となった大阪には、帰国を望む一〇〇万人近い朝鮮人労働者が集まり、朝鮮海峡まで往来していた小型帆船に乗り込もうと、弁天埠頭や尻無川の河口に長い行列を作った。だが、帰国することは容易ではなかった。彼らを朝鮮半島に運ぶ船舶が絶対的に不足していたからである。GHQは米軍輸送船による在日朝鮮人の帰還輸送計画を発表したが、朝鮮南部で発生した伝染病でこの事業も中断されてしまう。こうした状況の中で、終戦時二三六万人いた在日朝鮮人のうち約一七〇万人は帰国を果たしたが、A六〇万人は日本にとどまることを余儀なくされた。B
引用終わり(P五五)

 つまり、朴氏によると、戦後、日本に残った朝鮮人は、朝鮮人自らの意志で残ったのではなく、あくまで「日本にとどまることを余儀なくされた」ものであると書いているのです。
 貧しい朝鮮半島より日本に押し寄せた朝鮮人が、我国が戦いに敗れたために第三国人として敗戦国民の日本人より上の地位だと威張り散らし、横暴な振る舞いをした。朝鮮人が終戦直後の我国においてどのようなことをしてきたか、一切この朴氏の著書には書かれていない。
 あくまで、朝鮮人は被害者であると書かれているだけである。本当に帰りたければその後も帰ることなどいくらでも出来たはずである。それを、このような書き方しかできない大学教授。


 そういえば、この朴という人は大学教授まで勤めながら、簡単な計算もできない。
 朴氏は「族譜」というものについて、
以下引用
韓国には、自分のルーツを明らかにするものがある。実は私の家にも族譜があり、毎年一一月になると故郷の慶尚南道で法事があり、そこに私も一族の長として参加する。わたしのところにはだいたい二〇〇坪ほどの墓に、先祖代々五〇の墓が集まっていて、そこに三〇代前まで遡って、密陽朴家の墓がずらりと並べてある。私も三五代目の朴家の長男であることが、族譜の中に書かれている。略)
 そうすると、ごくあたりまえのことですが、自分の存在の上には、お父さん、お母さんがいて、その上にはおじいちゃん、おばあちゃんが四人いるわけである。さらに、そのおじいちゃんとおばあちゃんの上には八人いて、さらにその上には一六人いる。それを三三代まで、私は名前を書きながらずっとたどっていってみたことがある、記録していったものが族譜です。そうすると
ニ自分の上には何千人もの人々がそびえ立っていることがわかる。
引用終わり(P三三〜三四)

 この「何千人もの人々」といういのを「ちゃうやろ」と突っ込まれたので別の朴氏の著書(共書)ではその数を増やしています。
(たしか、浅川彰広氏の突っ込みだったと思って、その書いてある箇所を探したのですが見つかりませんでした)
朴氏がその数を増やした箇所。
以下引用 

「韓国には、自分のルーツを確認する族譜(チョッポ)というものがあります。ごく当たり前のことですが、自分の存在の上には、アボジ(お父さん)、オモニ(お母さん)がいて、その上にはハラボジ(おじいさん)、ハルモニ(おばあさん)が4人いるわけです。さらに、ハラボジとハルモニの上には8人いて、さらにその上には16人いる。それを30代以上にわたってさかのぼり、記録していったものが族譜です。これをみると、
自分の上には何千何万もの人々Xがそびえ立っていることがわかります。」
引用終わり
「歴史教科書 在日コリアンの歴史」 在日本大韓民国民団 中央民族教育委員会企画 作成委員会座長朴一 明石書店刊 P一二四

 でもこれでもまだまだ増やし足りなかった事をこの大学教授ともあろうお方は気がついていません。
 朴大学教授サマ御自身が書いているように、朴氏の上にはお父さん、お母さんの二人、その上にはおじいさん、おばあさんが四人、そして、ひいおじいさん、おばあさんが八人と計算して行くと、この時点で、二+四+八の一六人。つまり朴氏のような書き方をすると、二の三〇乗は一〇億七千、そして、三四乗は一七一億というとんでもない人数が上にどっかと乗っかっていることになる。
 何千でも何万でも的外れな事がわかる。この朴氏の書いてある数字とは何なのだろう。

 だいたい朝鮮の人々のいう族譜って、なんななのでしょう。李氏朝鮮の社会構造として、国王、王族、両班、常民、賤民、白丁まであって、それが無くなったのは我国の朝鮮総監府から総督府時代のはずなのに、不思議と朝鮮の人々は皆が皆、何十代前までもの族譜といというものを誇る。李朝末期でも奴婢は人口の約半数を占めているままであり、家畜といったほうが近いほどの扱いを受けていたといわれている。
 つまり現在の朝鮮人の少なくとも半分の人々は、我が国の朝鮮半島統治により歴史上初めて奴隷の身分より救われたのです。
そんな家畜なみの扱いを受けていた奴隷が多かったはずなのに、みんながみんな族譜を持っていることになっている。家畜の血統書と同じ奴隷の族譜なのでしょうか。

あほらし。

 ちなみに、以前に書いた事がございますが、お寺さんに残されていた過去帳では、百姓であった当家の場合は一番古いご先祖様の名前は小太郎だそうで、名字はありませんので、朝鮮の方のように誇るべきほどのご先祖様ではありません。ちなみに、李朝末期は約半分が両班だったそう。ふ〜ん

 S@名古屋さん来店。バンブーさん来店。初めてのお客様二名様来店。マロさん来店。金ちゃん二名様で来店。大台さん二名様で来店。Sさん来店。Yさん来店。Tさん来店。
ドンチャン。珍しく記憶あり。最後に金ちゃんたちがお帰りになった時は、もう新聞が配達されてきていました・・・・


朴一その2
5月10日木曜日晴れ
?BR>  朴氏の御都合主義については、先の浅川彰広名古屋大学専任講師もその著書「『在日』論の嘘」(PHP)で、詳しく指摘しています。
 朴一氏は、著書「『在日コリアン』ってなんでんねん」にて「在日コリアンパワー人脈図」として、帰化し日本国籍をもつプロ野球の金田正一氏については「日本国籍を取得しているが、れっきとした在日コリアンである」(P一八)金本知憲選手も「日本国籍を取得しているが、在日コリアンである」(P一七)とし、日本人の父親と朝鮮人の母親との間に生まれた松田優作まで「多くの在日コリアンのスターたちの中で、最も輝きをもっていた俳優」(P二一)と書いています。
 有名人は朴氏にとってこんなに在日という定義の範囲が広く、そして、「その多くは日本の差別から逃れるために、日本の名前を使っているケースが多い。そうしたことから、非常に多くの在日コリアンが、いろんな分野で活躍しているにもかかわらず、日本人には見えにくい存在になっているのである」(P一四〜一五)と書くほど日本名を使うことに批判的な朴氏なのに「在日」の犯罪者については違うようです。
 有名人は在日コリアンパワーと書きながら、京都の強姦在日朝鮮人神父の永田保こと金保の犯罪報道について、「犯行と出自、国籍とは無関係である」「この事件を報道するにあたり、なぜ在日コリアンということがクローズアップされなければならないのか」として在日朝鮮人という事は隠さなければならないと言っているのです。
 この金保に関してのテレビでのコメントに対して「ご都合主義だ」というような抗議メールが山ほど届いたとその著書に書いていますが、ご都合主義、ダブルスタンダードそのままです。
それ以外にもその御都合主義が朴氏の著書には多く見られます。
まだまだ続きます。

 二名様来店。Hさん来店。
飲む。

朴一その1
5月9日水曜日晴れ ×××
~
  朴一。これで、「パク・イル」と読ませるらしいが、現在、大阪市立大学教授という肩書きを持っているそうな。しかし、この人もそうだが、在日朝鮮人の人々が自分の名前を漢字で表示し、それを向こうの読み方を我々に強要するのはやめてほしいものである。
 柳美里は「ユウ・ミリ」と読ませ、辛淑玉は「シン・スゴ」、姜尚中は「カン・サンジュン」と読ませるそうな。柳美里は「やなぎ・みさと」か「りゅう・みさと」だろうし、辛淑玉は「しん・しゅくぎょく」だろう。辛女史自身が著書「韓国・北朝鮮・在日コリアンがわかる本」(KKベストセラーズ)にその読み方で帰化申請したが、ダメだったという体験談が掲載されていますが、辛女史のこの帰化申請体験談の嘘臭さは浅川彰広氏に指摘されています。姜尚中にいたっては「きょう・しょうちゅう」ぐらいでしょうか。この朴一氏も「ボク・ハジメ」ぐらいだろうに。
どうしても、朝鮮語の発音で読ませたかったらカタカナ表示にすべきだろう。同じ漢字圏であるが、朝鮮語読みを日本人に強制させられるような理由はなにもない。

 このようなアホな事については朴一氏もその著書「『在日コリアン』ってなんでんねん」(講談社α文庫)にて、在日コリアンの自然消滅を防ぐことができることとして、在日コリアンが日本国籍を取得しても、民族的属性を維持したまま生きられるシステムを日本社会に創りだすことであるとしている。
そして、そのひとつとして、国籍収得後の氏名をについては、日本で使われていない漢字だけでなく、ハングルの使用も認めることと書いている。(P一〇二)
 
 アホかと言いたい。なんで、日本国民の名前に日本国民が読むことのできないハングルの使用を認めなければいけないのであろうか。一般の日本人が母国語以外にどうして朝鮮語を学ばなければいけないのだろうか。
 この在日朝鮮人はそういうことも何も不思議と思わないようだ。
続く

 今日は河岸が休みのため、午後より久しぶりにスポーツセンターにいく。時間が余りなかったので、それぞれのメニューをセット数を少なくして消化。

 Sさん女性お二人で来店。遅い時間にセッキ−六名様で来店。
 遅い時間からドンチャン。記憶無し・・・・・

在日朝鮮人の感覚
5月8日火曜日晴れ 暑い

 我が国の公立の学校が在日朝鮮人の入学を拒否しているわけではない。それなのに、在日朝鮮人が朝鮮学校に通わせるのは、我が国にありながら、我が国の監督下になく、戦後一貫して「北朝鮮国民」としての教育を子供におこなってきた学校だからです。我が国の中にあって、我が国の監督下にないイデオロギー性をおびた過激なナショナリズムの教育内容の学校に、当然、我が国が援助をする必要等ありません。
ところが、在日朝鮮人の感覚では違うようです。
以下引用
 
@朝鮮学校の児童・生徒の母親らでつくる「山口県民族教育を支えるオモニ(母親)ネットワーク」の趙真珠・下関支部代表らが7日、関谷博下関市議会議長を表敬訪問した。
 同ネットは民族教育の処遇改善や、地域間交流などに取り組んでいる。趙代表は「
u(自治体から補助金が少ないため)親の負担が非常に大きい。せめて初中級学校までは公立小中学校と同じように補助してほしい「」などと訴えた。関谷議長は「子供たちに視点を置き、6月議会などで所管の委員会で審議したい」と応じた。B
〔下関版〕毎日新聞 2007年5月8日
引用終わり

去年も同じような事をしています。
以下引用

下関朝鮮初中級学校の金鍾九校長と学父母ら7人が6月23日、江島潔下関市長と面会し、朝鮮学校の処遇改善と教育補助金の増額などを要望した。
代表らは、山口県弁護士会が4月に県と各市に送付した要請文書について言及し、 1
.補助金を私立学校または公立学校に準じて増額することニ、2.市有地についての有料貸借を無償にすることニ、 3.教員の資質向上のための研修費用を補助することニ、4.今年学校Z創立50周年を迎えるにあたり 「特別補助金」を給付tすることなどを求めた。
また、下関市が給付している補助金額と周辺の行政のそれとの格差が大きいことに対して、改善策を講じるよう求めた。
代表らは、市の「定住外国人」として在日朝鮮人が納税の義務を果たしていること、地域社会に貢献していることなどについても訴えた。
この日、代表らは下関市議会の小浜俊昭議長にも同様の趣旨の要望を行った。
下関初中の教職員、学父母らは学校創立50周年を迎える今年、教育権を拡充し記念行事を成功させようと一丸となって取り組んでいる。

[朝鮮新報 2006.7.6]
引用終わり

 こいつら、アホか、気狂いかと言いたい。
 なぜ、公立学校でもない「
u北朝鮮国民としての民族教育を行う専門学校Z」を日本の公立並に補助する必要があるのでしょう。好き好んでその犯罪国家専門学校に通わせているのに、「(自治体から補助金が少ないため)親の負担が非常に大きい。せめて初中級学校までは公立小中学校と同じように補助してほしい」とは普通の感覚でははずかしくてとても言えません。
ましてや、「50周年を迎えるにあたり 特別補助金を」などという発想は到底思い浮かびません。
 祖国である北朝鮮に言うべきものであり、偉大なる将軍様に恵んでもらうべきものでしょう。

 ただ、下関のような補助金を出しているバカな自治体も多く、たとえば、東京の中野区などは在日朝鮮人などの外国人に「授業料などの負担を軽くするため」という名目で、外国人学校に通っている外国籍の保護者に、月額七五〇〇円、一年で九万円の補助金を出している。しかし、同じ中野区に住む日本国民がお子さんを私立の学校に通わしている場合は補助金など出していない。
 どうして、日本国の国民より外国人が優遇されなければいけないのか。(中野区の住民の方怒った方がいいですよ)

 在日朝鮮人は彼ららしいやり方で、このような不当な補助金の維持に努めています。
 平成十六年に国立市が朝鮮学校への補助金廃止を表明した時に、在日朝鮮人とプロ市民は集団で執拗な抗議を行い、補助金存続を認めさせ、そんな在日朝鮮人に対して、あのプロ市民市長である上原公子女史は「「まずお詫びを申し上げたい」「市全体の予算が厳しいなかの緊急措置ということで予算を組みなおしていた。その対象に保護者補助金が入ったことで皆様に心配をかけ、(補助金廃止をカットする)運動が起きた責任を詫びたい。元来話し合いをしながら決める問題だった。真意を伝える間もなく、(補助金)ゼロとういうところから出発した。そのような意味から心配をかけたと思う。申し訳ありませんでした」、自らの決断として今回の措置を「白紙に戻し」ての補助金の継続支給を「予算に反映できるように」と言っています。在日朝鮮人とプ市民による圧力事件はこれだけではありません。
 埼玉県鴻巣市、大阪府堺市などでも補助金見直しに対して、朝鮮総連による電話、メール、ファックスによる迷惑戦術を展開し、撤回させています。
 小坂英二荒川区議も補助金廃止を主張した時には、荒川区の朝鮮学校校長から「このような記事は保護者や関係者、その知り合いの日本人も含めて大問題になる。多くの議員や酋長とも付き合いは長く、学校や保護者補助金のことは理解してもらっている。このままでは小坂議員の政治生命が危うくなりますよ」というもので、流石は過去に犯罪者としてにOBが何人もが名を列ねている朝鮮学校長の、ましてや現役校長だけあって腐れヤクザ顔負けの迫力あるセリフでございます。
 
 こんな学校と保護者に補助金を出している自治体はすぐに止めてもらいたいものです。

 今日も暑い。久しぶりの河岸。
 メチャヒマ。マロさん来店。


5月7日月曜日晴れ
?BR>  店に一度寄り、休みの間に配達されていた新聞を中に入れる。インターネットなどにより情報も入るので、古くなった新聞は連載されている特集記事などは読むが、他の記事はほとんど読むことはない。
 今日は暑いくらいの天候。午後より新宿にある金融公庫に寄る。
 その後は、四谷税務署まで歩いて行き、青色申告の不明個所など相談。いつか聞こう、いつか聞こうと思っていると、すぐに青色申告の時期。それでもって、ギリギリにしか申告しないので、ついつい適当に書いて申告する事になる・・・・。思い立った時が一番。若い所員の方が具体的な数値などをあげて親切に説明してくださる。

 夕方に会社が休みという李さんと新宿で待ち合わせて「蒙古苑」にて食事。今日食べたメニューは「カニの香味炒め」「マーラーロブスター」「野菜炒め」などは美味しかったが、「まながつお中国酒かけ」は魚の臭みが感じられいまいち。
 三日間飲んでいなかったが、今日は体調があまり良くないようで、生ビールを二杯飲んだだけで顔がゆでダコ状態。体調がいまいちと思いながら、もう一件。海外旅行のお土産でもらって以来というロイヤルサルート25年があったので、久しぶりに飲む。いろいろ飲んでいるうちに顔の赤いのがさめてきたようで、キューバリブレまで飲んでしまう。帰りの電車ではもう少しで乗り過ごすところでした。

5月6日日曜日雨
J
 今日も飯を食いに外に出た以外は、部屋でゴロゴロ。 

5月5日土曜日晴れ
?BR>  昨日と同じく部屋から出ずに、伝票整理。
 飲まずというか、元々部屋には今は酒を置いていない。

祝日
5月4日金曜日晴れ ○
(5月8日追記)
 ゴールデンウイークというか祝日について、西村慎吾議員がメルマガで<「祝日に関する法律」について思う>と題した文章を書いていらっしゃいます。
以下引用
 
しかし、考えてみれば、記念日とは「その日」に意義があるのではないか。アメリカの独立記念日やフランスの革命記念日を「○月の第三月曜日」とすればおかしい。
 そうであれば、我が国の国民の祝日の在り方もおかしいのではないか。歴史と伝統のない猿・エコノミックアニマルではあるまいし。
 このような改正が内閣委員会ですんなり通ったのは、委員の歴史意識が希薄だったからと思う。要するに、国民の祝日や国の記念日から国民や国が外れて、単なる休日となってしまったのである。
 この観点から「国民の祝日に関する法律」を眺めれば、歴史を消し去り、あたかも人工国家のような無色透明な祝日の日が羅列されている。建国記念日は「紀元節」で、文化の日や勤労感謝の日は、明治天皇のご誕生日である「明治節」と古来からの「新嘗祭」ではないか。
 思い返せば今の祝日の在り方は全て、日本に主権がなく占領軍に主権がある占領下の昭和二十三年に施行された祝日法によりなされている。ということは、占領政策の大きな柱である、「日本国民から歴史を奪い国家意識を無くす」為に、占領軍が「国民の祝日」から我が国の歴史を消し去るために制定されたのが現祝日法なのだ。
 よって、「国民の祝日」に歴史を取り戻す為に、祝日法全体の再度の制定を実現することは、我が国の形(国体)の確認と伝統的文化の自覚や教育の再建のためにも、重要な課題である。

引用終わり
<西村慎吾の時事通信「祝日に関する法律」について思う No.285 平成19年 4月30日(月)>より

 どうして、その日が祝日となったか、その日が何の日かさえ考えない、思いもしない。
 祝いの意味ない・・・・・

 ところで、この祝日法を推進した議員って誰なんだろう。                       
イイお天気。今日は部屋でたまっていた伝票整理。
 部屋から外に出たのは夕食を食いに出た時だけ。


5月3日木曜日晴れ △

 へべれけさんにMさんから送っていただいたというK教授のメールデーターについてのダウンロードのことで、来ていただくが、結局、パスワードがどうしてもうまく入力できず。
 店を片付けてから、また残り物の刺身でへべれけさんとドンチャン。
 刺身は食いきれなかった・・・・・・
 二〇年前に早稲田に「酒いわしや」を開店して一年目の大晦日に、大野さんと残った刺身を二人で食いきれなかった時のことを思い出した。
 あの時はお互いに持って生まれた貧乏性のせいで、厚揚げとお豆腐を先に平らげたのが祟って、その後に出した刺身のうち、たったふた切れなのに、ふたりとも満腹で残してしまった。

5月2日水曜日晴れ ×××
~
 初めてのお客様一名様来店。同じく初めてのお客様二名様来店。同じく初めてのお客様一名様来店。初めてのお客様二名様来店。金チャン、マロさん来店。ドンチャン。
 営業終了後、李さんが刺身を食いたいということで、残った刺身で飯。その後、久しぶりに中野の「石松」さんにおじゃまする。今日も遅い時間に伺ったのに、後からお客様が続々来店。結局、朝までドンチャンで、帰りは「石松」のマスターともう動いていた同じ電車で帰る。完全な朝帰り・・・・

反日とテロ
5月1日火曜日雨 ×

 今日の「阪神支局襲撃20年―言論はテロに屈しない」と題された朝日新聞社説はいかにも朝日新聞らしいものでした。
以下引用

略)
 ◇靖国と教科書
 そんなテロと暴力の流れの中で、80年代に起きたのが赤報隊の事件だった。
 犯人は事件を起こすたびに声明文を通信社に送りつけたが、「50年前にかえれ」というぐらいしか具体的な要求を示さなかった。
 
@だが、犯行の引き金になったと思われる手がかりがある。首相の靖国神社参拝と復古調の教科書の問題だ。B
 88年3月、静岡支局に爆発物を仕掛けたとき、犯人は中曽根康弘前首相と竹下登首相に脅迫状を送りつけた。
 中曽根氏は85年の終戦記念日に靖国神社に参拝したが、中国や韓国の反発で、その後は取りやめた。中曽根氏は当時論議を呼んだ復古調の歴史教科書の検定でも、中韓の反発で再修正を求めた。
 そんな中曽根氏を赤報隊は「裏切りもの」とののしり、靖国神社に参拝しなければ処刑すると竹下首相を脅した。
 朝日新聞は当時も、首相の靖国神社参拝に反対し、教科書問題でも批判的な姿勢をとっていた。
 赤報隊は犯行を重ねることで恐怖をふりまき、新聞や政治家を自分の思う方向に持っていこうとしたのだろう。
 そうした犯行は過去のものではない。
 経済同友会の小林陽太郎元代表幹事の自宅に火炎瓶が置かれたのは05年1月のことだ。小林氏は当時の小泉純一郎首相の靖国参拝について「個人的にはやめていただきたい」と発言していた。
 昨夏には、参拝を批判していた加藤紘一元自民党幹事長の実家と事務所が放火された。靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)をめぐる昭和天皇の発言を報じた日本経済新聞社に火炎瓶が投げつけられた事件では、右翼の男が逮捕された。

 
@慰安婦問題を中学校の教科書に載せたことに対し、教科書会社幹部や執筆者に脅迫状が届いたことも忘れられない。
 気になるのは、テロや暴力に対し、政界や経済界の動きが鈍いことだ。加藤元幹事長の事件で小泉首相が犯行を批判したのは、ずいぶんたってからだ。
 それどころか、石原慎太郎東京都知事は、北朝鮮外交を進めていた田中均外務審議官の自宅に発火物が仕掛けられたことについて、「あったり前の話だ」とテロをあおるような発言をした。
 テロが起きた場合、政治家や経済人がすかさず強い姿勢を示す。被害者が自分と違う意見の持ち主であっても、である。それが暴力をふるう者を孤立させ、テロの芽を摘むうえで、欠かせない。メディアが暴力に敏感に反応しなければならないのはいうまでもない。

 
@◇レッテル張りの怖さ
 自由な言論を揺るがすのは、むきだしの暴力だけではない。
 地域や職場で、他人と違う意見を言うだけで奇異な目で見る。「ノー」と声をあげる人をつまはじきする。そんな雰囲気が広がっていないか。
 赤報隊が使った「反日」という言葉は、いまや雑誌やネットにあふれている。自分と相いれない意見を「反日」や「売国」と決めつける。そうした一方的なレッテル張りが、問答無用の暴力を誘い出してしまう。そんな心配がある。
 憲法施行から60年を迎えた今春、またも長崎市長が銃撃され、伊藤一長氏が亡くなった。
 「われわれは暴力を憎む。暴力によって筆をゆるめることはない」。小尻記者が凶弾に倒れたとき、私たちは社説でこう書いた。その決意を新たにしたい。
B
引用終わり
2007年05月01日(火曜日)付朝日新聞社説

 この朝日新聞の社説の「靖国と教科書」と書かれたところには、赤報隊の事件と「靖国参拝」「復古調の教科書の問題」と結びつけて書き、いかにもそれがテロや暴力の根源であるという書き方である。
 今までの教科書がいかにも現代にあっているという考えを導き出すために、つくる会の教科書を古臭い感じのする「『復古調』の教科書」という書き方をわざわざしただけでなく、「慰安婦問題を中学校の教科書に載せたことに対し、教科書会社幹部や執筆者に脅迫状が届いたことも忘れられない」「経済同友会の小林陽太郎元代表幹事の自宅に火炎瓶が置かれた」と一部のバカが起こした事を書きながら、同じ教科書問題といわれるものにおいて、平成一三年八月七日に革労協木元派革命軍が、つくる会事務所に放火というテロに対して犯行声明を出したことも書かれていなければ、翌年、平成一四年一二月に 公安調査庁が「つくる会」教科書の採択反対運動への過激派の関与を指摘し「内外の労組,市民団体や,在日韓国人団体などと共闘し,全国各地で教育委員会や地方議会に対して,不採択とするよう要求する陳情・要請活動を展開した」と記述した事を無視あるいは意図して書いていないし、平成一七年の都杉並区にての反対派団体による抗議行動が中核派活動家などが中心となりおこなわれたことなどが隠匿されている。

 反日という言葉についても、「自分と相いれない意見を「反日」や「売国」と決めつける。そうした一方的なレッテル張りが、問答無用の暴力を誘い出してしまう。そんな心配がある。 」といかにも「反日」「売国奴」と使っている人間がテロリストでもあるような書き方であるが、朝日新聞を「反日」や「売国奴」と思うのは、このように自分の都合の悪い事を隠して報道を歪めるという醜いイデオロギーに染まった朝日新聞というものを受け入れられない普通の日本人の感覚であると思う。
 普通の日本人の感覚とは自分の生まれたこの日本という国が好きだというごくごく当たり前の事だと思う。我が国を守るために戦ってくれた先人に感謝し、先人が築いた我が国の歴史、文化に誇りを持つという当たり前のその感覚を持った人々により、朝日新聞という報道機関が「反日」「売国奴」といわれている事を気付いていない、あるいは気付いていないふりをしているとしか思えない。
 ましてや「憲法施行から60年を迎えた今春、またも長崎市長が銃撃され、伊藤一長氏が亡くなった。」とまだ背後関係も不明な腐れヤクザの起こした事件を他の事件と同一視させるとは、言論機関による得意な歪んだ手法のひとつでしょう。

 この社説に書かれている<「われわれは暴力を憎む。暴力によって筆をゆるめることはない」。小尻記者が凶弾に倒れたとき、私たちは社説でこう書いた。その決意を新たにしたい。>という言葉がいかにも虚しい。

 Hさん二名様で来店。最初いらしてくださった時は東北大学の学生さんも今年から東京にお勤め。大台さん二名様で来店。
早い時間から飲む。
営業終了後、李さんと飯。


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