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杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成26年6月分

 

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


Facebook(木下隆義)、Twitter(@saketamanegiya)を始めました。でも、いまいち使い方がよくわかりませんのでちびちびやって行きます。よろしければ、友人リクエストをお願いいたします。

Mixiでの当店のコミュニティは「神楽坂のお洒落でない一杯飲み屋」

管理人はめぐろのしみずさんです。

Mixiでの私自身のハンドルネームは一合です。

一合とっくりのつもりですが、酒はそれでは終わりませんのでいろいろと問題が・・・・・最近は時事的な事は書き易いので、ついついMixiの日記の方に書いております。よろしければ、ご覧下さい。もっと、よろしければ、当店のコミュニテイに参加してください。もっと、もっと、よろしければ、マイミクに。


元特務機関員門脇朝秀

6月30日月曜日くもりのち晴れ△

 下記は本日の西村眞悟先生の「西村眞悟の時事通信」ですが、西村先生の文章にある特務機関員であった門脇朝秀氏の映像が稲川和男氏よりいただいた手元のDVDにありますので、それを西村先生の文章に勝手に入れます。

 以下引用

<西村眞悟の時事通信

━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━

百歳と九十歳の旅、台湾とシベリヤ

                                  No.982 平成26年 6月30日(月)

    語らざる 悲しみもてる 人あらむ 

           母国は青き 梅実る頃

   英国にて元捕虜の激しき抗議を受けしより、

   かつて「虜囚」の身となりしわが国人の上も

   しきりに思はれて

 これは、皇后陛下の御歌である。

 平成十年五月、天皇皇后両陛下は、英国を御訪問された。

 その時、沿道に日本軍の捕虜であった元イギリス軍老兵士が立ち並び、抗議のプラカードを掲げ尻を向けて両陛下を出迎えた。

 この時に、皇后陛下は、抗議をするイギリスの老兵を眺められながら、イギリス軍の虜囚となった元日本軍兵士のことを思われていたのだった。

 

 他方、わが国内では、何を思っていたのか。

 橋本総理が、イギリスの大衆紙SUNに日本軍の「蛮行」を謝る謝罪文を寄稿していた。

 イギリスからそのSUNを取り寄せると、次の通りの大見出しがあった。

「Japan Says Sorry To The SUN」(日本は、サンにごめんなさい、と言った)

 そして、その裏ページ一杯には裸の女の子のカラー写真があり「私は食べ頃よ(Dishy)」と書いてあった。

 この情けなさ、今も心に甦る。

 

 私は、ビルマでイギリス軍の虜囚となった会田雄次氏の実体験を書いた「アーロン収容所」を引用して、ここまでわが虜囚はイギリス軍から残虐なことをされ続けたのに、何故、それを無視してイギリスに謝るのか、と予算委員会で総理大臣に質した。

 会田氏が書いていた二つの例を挙げた。

1、イギリス軍は豚小屋に接して日本軍虜囚の小屋を造った。そして、ブタの餌を虜囚より上等にした。

 将校が代表してイギリス軍にせめてブタ並みの食糧を支給してくれと要請すると、次の通り答えた。

「イギリス人は、人道意識に富んでいる。人間にブタと同じものを食わせることはできない」

2、イギリス軍は、一日一回は水没するイラワジ川の中州に日本軍捕虜を閉じ込めた。水没中は、捕虜は皆、衣服を頭に乗せて腰から下を水に漬かりながら立っていた。夜は水浸しの中に寝た。

 イギリス軍は、日本軍捕虜に食糧を与えず、

「赤痢になるから中州の蟹や魚は生で食べるな」

という標識を中州に掲げていた。

 しかし、水没を繰り返す中州で火をおこすことは不可能だった。

そこで、飢えた捕虜は、我慢できずに生の蟹を食べた。そして次々倒れていった。

 イギリス軍は、その有様を岸から望遠鏡で観察していて、最後の一人が倒れたのを見届けてから、次の通り、布告した。

「我が軍は捕虜の健康を維持するために配慮を怠らず、生食はするなと表札を立てて注意していたが、日本人は衛生観念に乏しく、我々の注意に背いて生で蟹を食べて赤痢にかかって全員亡くなった。まことに遺憾である」

 さて、現在、敗戦後の満州に於いてこの事態を経験した二人の方々が、それぞれ台湾とシベリアに行っておられる。

 このお二人の旅をご紹介し、我々戦後の者が失った視野と、この世代の「語らざる悲しみ」をお伝えしたい。

 (門脇朝秀さんの台湾)

 蕨市在住の門脇朝秀さんは、本年百歳であるが、本日(六月三十日)、台湾の台北から東海岸の花蓮に入られる。

そして、台東、潮州、高雄を時計回りに廻られて七月中旬に帰国する予定だ。

 その目的は、戦前から結ばれていた台湾の原住民である各地の高砂族との人脈を、我が国の宝として大切にする為である。

 国民党蒋介石の四十年に及ぶ戒厳令下、高砂族は「語らざる悲しみ」を秘めて生きてきたが、門脇さんに会うと、その瞬間に、高砂義勇隊の日本軍兵士に戻る。彼らは、日本軍兵士としての誇りを失っていない。

 

 二年前に、門脇さんに同行して台湾の東海岸を旅したが、その時会った二人の元日本軍兵士は、まさに今も日本軍兵士だった。その方々を紹介したい。二人とも、日本名を名乗って日本語しか話さなかった。

 

 九十歳を超える岡田さんは、フィリピンのモロタイ島から戦後三十年経って生還してきた高砂義勇兵の中村さんの上官で同じ村から出征した。

 岡田さんは、門脇さんを家の前で待っていて、車から降りた門脇さんの肩に顔を埋めて泣いた。門脇さんはその時九十八歳だから、明らかに岡田さんは、上級者に対する礼儀を維持していた。

 食事の前に、岡田さんは「海ゆかば」を歌った。食事中の歓談の時には、耳が遠いこともあってあまり話さなかった。ジーッと黙って皆を見ていた。何か凄味があった。

 彼らは夜目がきく。それ故、ニューギニアのジャングル戦でアメリカ軍が最も恐れた。それで、岡田さんの仕草と小柄ながら剽悍な体つきを見ていて、九十歳を超えた今でも、この人と夜のジャングルで遭遇したら、確実に殺されると思った。

 岡田さんに聞いてみた。

「モロタイ島から村に帰ってきた中村さんに会ったか」と。

彼は答えた。「会ってない」。

何故ですかと再度聞くと。

「彼は歩哨に立っていたときに脱走したんです。歩哨の交代要員を連れて歩哨地点に行くと彼は脱走していなかった。脱走兵とは会わない」ときっぱり答えた。

 次の宮本さんも九十歳を超えた方だった。腕を骨折したのできれいな娘さんに日常の世話をされていた。温厚なお年寄りだった。

 門脇さんが、「あなた方には、ずいぶんとご苦労をかけたのに、何も日本は報いていない。

 これは、私がもっている天皇陛下からの勲章だが、貴方が、高砂族の部下を代表して持っていてくれないか」

 と言って、宮本さんに勲章を渡すと、

 宮本さんは、勲章を押し頂き、額に掲げ頭を下げて肩を振るわせて泣いた。

 家の壁には富士山の額が飾られていた。

 この宮本さんは、既に亡くなっているという台湾からの知らせが今朝入った。門脇さんが気を落としているという。

 心からご冥福を祈るとメールを返した。

 

 この度の門脇朝秀さんの台湾行きには、私は都合がつかず同行できなかったが、二年前と同様に、私と共に記録担当で尖閣諸島魚釣島に上陸した映像教育研究所主催の稲川和男さんが同行し、門脇さんの動向を撮影している。

 その貴重な記録であるDVDができあがったら、ご紹介する。

 

 この度は、同行できなかったが、出発に当たって、蕨のご自宅から羽田までお見送りした。

 お嬢さんが私に言った。

「父は、毎回、毎回、これがこの世で最後の旅だというんです。」

 羽田で、稲川さんが航空会社の女性に、門脇さんに車椅子を持ってきて欲しいと言った。女性が車椅子を必要とする理由を尋ねた。

 稲川さんが理由を言った。

「百歳だから」

 直ちに車椅子が来た。

 なお、門脇朝秀さんは、如何なる人物か。自らは語らない方なので記しておく。

 関東軍特務機関員として満州で終戦を迎えた。

 その時、関東軍は直ちに武装を解除したので、在留邦人をソ連軍から守る術を失い、数十万の満州の邦人はソ連軍による虐殺と迫害に曝され多くの悲惨な犠牲者がでた。

 これに対して、西隣の駐蒙古軍の司令官である根本博中将は、邦人を守るために、断固としてソ連軍に屈しないと決意し、武装を解かずに追撃してくるソ連軍を撃破しながら南下し、四万の邦人を無事日本に帰還させてから、北京で武装解除に応じた。

 しかし、武装解除した満州にも、身に寸鉄を帯びずとも、断じて邦人を日本に帰還させるために命の危険を顧みず行動を起こした人物がいた。

 それが門脇朝秀特務機関員だった。

 門脇さんは、その時、大連にいた。従って、大連から船に乗り日本に帰還することは容易だった。そして、大連には、へとへとになりながら大勢の邦人が日本へ帰ろうと続々と逃れてきていた。

 しかし、門脇さんは、ただ一人、北上して奉天に向かう。

 そして、どういうルートであるか聞いていないが、奉天に来ていたアメリカ軍司令官に面談し、邦人を速やかに帰国させるよう説得し、司令官にその措置を執らせた。

 その結果、アメリカ軍にはソビエト軍も逆らえず、大連の数万の邦人が日本に帰還できた。

 これが、門脇さんの語らざる偉大な功績である。

 (荒木正則さんのシベリア)

 荒木正則さんは、本年九十歳になる。

 本日から七月十六日まで、シベリヤのハバロフスクより北に三百キロのコムソモリスクとハリガンに行き、

「今年も戦友の屍を我が手に抱いて祖国に連れ戻さんと」される。本年でシベリア行きは十一回になる。

 

 このコムソモリスクは、関東軍兵士であった荒木さん等が、ソ連軍に抑留され、シベリヤ第二鉄道建設に従事させられたところで、荒木さんが、「伐採作業で頭部裂傷の血の海で気絶し、重自動車に轢かれ、かかれば必ず死ぬという盲腸炎に罹り、三度も死の淵を彷徨ったところ」である。

 この度の出発に際して、荒木さんから私に送られた手紙を氏には無断ながら次に紹介する。

 世の中、小理屈等何の必要な無いと思います。

 只、悠久、幾千年と続く大和民族の歴史、伝統、道徳・・・、

之に仇なす輩は、先生の日本刀で叩き斬ってくださいませ・・・

 どう足掻きましても、残り幾ばくも無き人生、

1、あの大東亜戦争に於いて、日本民族の若い男達総て七百八十万人が世界を相手に闘った。男子の本懐そしてその栄光。

2、民族屈辱苦難「シベリヤ強制抑留」たるものは、国家領土と引き替えに行われた生け贄の悲劇である。

3、戦後祖国というものは、常に一貫して「棄兵棄民の政策」をとり続け、更にそれらの一日も早い風化消滅を積極的に計り執り続けてきた実態というものは・・・

 栄えある大和の民族としては、決してこれ等は許されまじき破廉恥な醜態と、心中、耐え難きものがあり、私、不肖一回の素浪人にしか過ぎませんが、向後とも、命ある限り、これら反軍反日の輩と戦い抜く所存でございます。

 この文面にも顕れているように、荒木さんと話していると、内面に帝国陸軍兵士としての激情が煮えたぎっているのが分かる。

 それを煮えたぎらせている火は、極寒のシベリヤで倒れた戦友への変わらざる思いと「語らざる悲しみ」である。

 先年、マレー沖で帝国海軍に撃沈されたイギリス海軍の巡洋艦から海に投げ出されて泳いでいた多数のイギリス水兵を救助した帝国海軍の駆逐艦艦長のことが「海の武士道」として紹介され、この艦長が賞賛された。

 このことが話題になった時、

 荒木さんが、目に涙をためて声を挙げた。

「我々は、敵を撃滅せよ、敵を殺せと教えられ、

 敵を殺す猛烈な訓練を受けていた。

 それを、何かーーー!

 敵を助けた奴だけが、褒め称えられるのかーー!

 それでは、敵を殺しに行って任務を果たして亡くなっていった、

 俺たちの戦友は、どうなるんだ!」

 荒木さんと話していると、昔の日本人と帝国陸軍が如何に強かったかが実感できる。

 以上、百歳と九十歳の方々が、

 現在、台湾とシベリヤを旅されていることをご紹介した。

 このことをお知らせせずにはいられなかった。>

引用終わり。

 

 このように多くの勇かんなる戦士により我が国は守られてきたのである。   

 そのことを感謝せねばならない。

 靖國神社に我が国国民が、ましてや政治家が参拝することは当然のことである。

 参拝出来ない我が国国民は少なくとも頭の中は我が国国民ではない。

 

 

 今日は店の片付けを終えた後はカミさんと合流し、近所のお店で飯。

 

 一応、二人とも記憶あり。

 サルよりマシ。


 

土井たか子 学歴詐称問題追記

6月29日日曜日晴れのち豪雨のちくもり△

 以前に気違いの集まりである社民党の元党首土井たか子の学歴詐称について書きました(平成十六年一月二十日、平成二十五年二月七日の日記)が、それに追記させていただく形での日記です。

 同志社大学は、あの気狂いの集まりである社民党の土井たか子女史の母校といわれています。(あくまで、いわれています)

 宝島の「社会党にだまされた」の中に土井女史の学歴詐称に関する記事があり、それによると、もう一つの母校?である当時の京都女子専門学校、現、京都女子大学は電話の問い合わせに「土井たか子さんは間違いなくうちの学校の卒業生です。当時は専門学校だったのですが、今でいう文学部のような学科を専攻していました」卒業年度は「昭和二十年入学の二十三年卒業です。その後二十九年まで当校の講師をしておりました」と丁寧に答えてくれたそうで、当時の同窓生にもお話を伺う事ができたそうです。

 ところが、現在の土井たか子女史のホームページ、選挙ポスターなどの経歴からは、卒業高校は書いてあるのに、この京都女子専門学校の事は書いてなく、同校で講師をしていた事も記されていません。また、同校の同窓会には一度も出席していないのだそうです。

 自分の母校の一つである、この京都女子専門学校、現・京都女子大学とは関わりたくないのでしょうか???

 http://www2.ocn.ne.jp/~shamin/kinki/doi.htm

 土井たか子氏の公式ページにあるプロフィール

兵庫県第三神戸高等学校(現御影高校)卒業。

同志社大学大学院法学科卒業。

 このように、卒業大学も表示せずに、いきなり第三神戸高等学校(現御影高校)卒業後に同志社大学大学院法学科を卒業した事になっています。

 土井たか子の学歴詐称疑惑について、産経新聞の阿比留瑠比氏のブログ「国を憂い、われとわが身を甘やかす」平成十八年六月二十三日には下記のように書かれています。

<兵庫県選挙管理委員会が発行した衆院選挙公報、昭和四十四年

兵庫県立第三神戸高女卒業

京都女子大学外国語学科卒業

同志社大学法学部卒業  

同志社大学大学院法学研究科修了

となっていたのが、

昭和四十七年の公報の略歴欄の学歴には

京都女子大・同志社大学大学院卒

 

昭和五十一年の公報には。  

同志社大学卒  同志社大学大学院修了

同志社大学卒は復活した。 しかし、今度は京都女子大がなくなった。 不思議だ。

昭和五十四年の公報。

兵庫県立第三神戸高等女学校卒 同志社大学大学院法学研究科卒

今度は京都女子大と同志社大学の両方が消えた。 昭和五十五年の公報も五十四年と同じ記述。 昭和五十五年、六十一年、平成二年、五年の公報からは略歴・学歴欄そのものがなくなった。 途中から同志社大学卒と書かなくなった理由が知りたいと思いませんか。 補足、これでも『公式プロフィールを信じろ』はおかしい。 学歴詐称は、公職選挙法違反です。>

産経新聞の阿比留瑠比氏のブログ「国を憂い、われとわが身を甘やかす」平成十八年六月二十三日より抜粋。

 写真は手元にある「社会党に騙された」P二十六に掲載されているその昭和四十七年と昭和五十五年の選挙公報です。

 

 

 

 では、同志社大学の方はというと、先ほど書きましたように、卒業年度さえ簡単には答えてくれないのだそうです。個人のプライバシーだそうです。でも、どうしてもというと「じゃあ答えますよ。昭和二十六年に法学部に編入して昭和二十八年卒業、そのまま大学院に進みます。修了は三十年です。これでよろしいですか」という答えにたいして「ありがとうございます。ただ、昭和二十九年まで、京都女子専門学校の講師をなさっていたそうですが?」

「そんなの私は知りませんよ!とにかくこういう問い合わせはこまるので、いいですか」と電話は切られたそうです。どうして土井たか子という公人についての問い合わせがだめなのでしょう。

その後、同志社大学法学部OB会である「政法会」に問い合わせても、土井たか子女史と同期であるはずのOB会長に対しての取材すら断わられたそうです。 

同窓会はというと、これまた、土井女史は一度も大学の同窓会にも出席した事がないといわれ、その時一緒に学んだはずの同窓生にも、知らないといわれている希有な方です。

普通、中学であれ、高校、大学であれ、同じクラス、ゼミなどになれば、どんな大人しくて、目立たない人でも、覚えているものです。

それが、土井女史を知っている人は一人もいないといわれています。

 ただし、卒業名簿にはしっかりと名前が載っているのです。一九九七年には同志社大学から、名誉学位まで贈呈されています。まあ、恩師として有名な田畑忍教授はその後、同志社大学学長までつとめています。いろいろできるでしょうね。

 「社会党に騙されたに」には取材結果として、下記のようにまとめられている。

 <*昭和二十年京都女子大学文学部入学、昭和二十三年卒業

 *京都女子大学卒業後、昭和二十九年まで同大学にて講師を務める。

 *昭和二十六年度、昭和二十八年度の同志社大学法学部には女子大生は数名程度で、OBは皆、この中に土井氏は「いなかった」と断言する。

 *しかしながら「卒業生名簿」には、「法学部卒業・土井多賀子」と記載されている。

 *「土井氏は昭和二十八年頃より同志社大学大学院(法学科)の田畑忍教授の部屋に出入りしていた」と、OBの話はすべて一致している。>

 

 

 <土井たか子が、衆議院議長席に座ったとたん、議場がぱあっと明るくなり、にわかに華やいできた。その瞬間、古い社会党が死滅し新しい社会党が生まれたと私は感じた。

 ただ単に美人政治家であるだけでない。ぴーんと立てた背筋、きりりとひきしまった顔、張りのある声は、日本の政治の新たな門出を象徴しているように思えた。>P十一

 と書く典型的な腐れヨイショ本である「希望の革命 土井たか子の挑戦」板垣英憲著 DHC 平成五年十一月十五日刊には下記のように書かれている。

 <一九四九年(昭和二十四年)春に京都女子専門学校を卒業すると、同志社大学と京都大学の編入学の「検定試験」を受け、軽々と両方とも合格した。

略)

 土井はまよわず同志社大学の門をくぐり、法学部に入ることを決めた。同期生は二百人で、そのうち女性はわずかふたりだった>P六十二〜六十三

 <なせば必ずなるという土井の自信は、同志社大学時代、ラグビー部のマネージャーになって身に付いたものだという。

 「同志社頑張れーっ」

 土井は、試合の度に応援団をかってでて、大声を張り上げた。土井の黄色い声が選手達を励まし、勝利の度にチームメートから感謝されることがとてもうれしかったという。

 土井の声援が功を奏し勝利につながったといえば、いささか大げさに聞こえる。だが感謝されれば、誰でも悪い気はしない。

略)

 「大学のラグビー部の女性マネージャー第一号かもしれない」と土井は、ラグビー部マネージャーになれたのを今でも誇らしく思っているようだ。>P六十四〜六十五

 <土井は一九五一年(昭和二十六年)、同志社大学大学院法学研究科へと進んだ。>P七十三

 <一九五六年(昭和三十一年)に同志社大学大学院修士課程を終了し、法学部講師として母校の教壇にたち、憲法学をおしえるようになった・・>P七十九

  公式プロフィール 「社会党に騙された」 阿比留瑠比氏のブログ 希望の革命 土井たか子の挑戦
京都女子大学入学、卒業年度 なし

昭和二十年入学、

昭和二十三年卒業

不明 昭和二十四年卒業
同志社大学入学、卒業年度 なし

同志社大学によると

昭和二十六年に法学部に編入、昭和二十八年卒業、

不明

昭和二十四年同志社大学と京都大学の編入学の「検定試験」合格。

 

同志社大学大学院入学、卒業年度 なし 同志社大学によると昭和二十八年進み修了は三十年 不明

昭和二十六年同志社大学大学院法学研究科

昭和三十一年同志社大学大学院修士課程終了

その他 同志社大学ラグビー部マネージャー

 

 つまり、京都女子専門学校卒業年度、同志社大学編入試験年度、同志社大学大学院進級年度、終了年度において一致するものは一つもありません。

 江戸時代じゃあないのですから、学生生活を数年間おくっていれば、卒業アルバムとか、普通は当時の写真の一枚でもあるでしょうし、それを公開する事は、土井女史にとって、何も支障のない事でしょう。

 ましてや、土井女子は歴史ある同志社大学ラグビー部の女性マネージャー第一号だったそうですので、青春時代の一場面としてきっと大勢のお知り合いがいても不思議じゃあ無いと思いますし、その時の合宿、試合の写真ぐらいあると思いますが、自分の卒業した学校の事をどうして隠したがるのでしょう。

 社民党としても長い間党首だった人間に学歴詐称などというくだらない?疑惑がつきまとうのはマイナスイメージだしかないと思いますし、本人が本当に大学を卒業しているのであれば、簡単に証明できる事でしょう。

 自分の卒業した学校の事をどうして隠したがるのでしょう。

 どうしてでしょう?????????????

 ちなみに、『公法研究』 第二十號 (一九五九年四月号) に掲載されていた「日本公法學會會員名簿」には、

氏名 : 土井多賀子

勤務先・地位 : 同志社大學

住所 : 神戸市長田區二葉町九ノ八

勤務先・地位に大学名だけ

『公法研究』 第二十五号 (一九六三年一〇月号)の「日本公法学会会員名簿」では

氏名 : 土井多賀子

勤務地・地位 : 同志社大学大学院

住所 : 神戸市長田区二葉町九の八

 学術論文は

両議院の国政調査権に関する憲法論的一考察

同志社法学.一〇(六)[一九五九 〇三]

判例にあらわれた憲法第31条違反の問題点

公法研究(通号二十二)[一九六〇 0七]

 まさか、天下の土井たか子が学歴詐称なんてことはないですよね!

 土井さん!!!!!!!

 ちなみに、私も社民党にこの事について、メールで問い合わさせていただきましたが、しっかりと無視されました。

 天下の社民党の名誉党首の「名誉」などどうでもいいのでしょうか?

参考・引用

「社会党に騙された」(宝島社 平成十五年十二月二十七日発行)

産経新聞の阿比留瑠比氏のブログ「国を憂い、われとわが身を甘やかす」平成十八年六月二十三日より抜粋

「希望の革命 土井たか子の挑戦」板垣英憲著 DHC 平成五年十一月十五日刊

 

 今日は店の片付け。その後、合気道の練習から帰ってきたカミさんと店で合流して飯。

 朝ビールを飲んでないカミさんは、早速ビールを開けて飲む。

 私は水。

 夜はカミさんと「一笑」さんに伺う。

 サルでもエビでもない。

 


 

松の司の会

6月28日土曜日雨 △

 今日のカミさんの朝ビール。

 今日は松の司の松瀬社長にもご参加いただき「酒たまねぎや飲んべえの会 松の司」

出品酒

NO.1松の司 鑑評会出品酒 大吟醸 斗瓶取り35% 平成26年(25BY)

  500ml 限定345本

NO.2 松の司 出品タンク 大吟醸    35%  平成26年(25BY)

   限定174本

NO.3 松の司 中取り純米吟醸    55%   平成26年(25BY)

NO.4 松の司 純米大吟醸 35%       平成25年 (24BY)

   限定1339本

NO.5 松の司 純米大吟醸 斗瓶取り 40%  平成23年 (22BY)

   限定220本

NO.6松の司 純米大吟醸 斗瓶取り 40%   平成21年 (20BY)

   限定320本 

NO.7松の司 大吟醸 斗瓶取り 40%     平成20年 (19BY)

   限定350本

NO.8 松の司 純米大吟醸 斗瓶取り 40%   平成19年(18BY)

   限定250本 

 

 

 

 ドンチャン。

 

 その後、一笑さんにて二次会。

 

 一応、カミさん共々記憶あり。

 サルよりマシ。


6月27日金曜日雨○

 今日のカミさんの朝ビール。

  

 女性の方三名様で来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 今日は飲まず。

 サルでもエビでもない。


青葉慈蔵尊 堀喜美子(喜身子)の疑問点のついでに小名木善行氏について

6月26日木曜日雨のちくもり×

 青葉慈蔵尊について小名木氏は「実話です」として<本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただきました。>と書いている。

 元に書いているということは、そのままコピペということであろうか。

 たとえば、

 <調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は、長春第八病院に勤務せよとの命令を受けます。>

となっている。そして、九名がソ連軍の病院に行ったので、残りは二十五名のはずであるが、

<残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他、22名です。>

となっている。小名木氏は矛盾と考えなかったのであろうか。

 小名木氏のブログに下記のような記述がある。

<大島花枝、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てる、の3名の看護婦を選びます。

略)

日本側は、荒川静子、三戸はるみ、沢田八重の3名を、第二回の後続としてソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送った。

略)

やむなく、井出きみ子、澤本かなえ、後藤よし子の3名を送り出します。>

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1184.html

そして、下記のような記述もあります。

<地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。

(五十音順)

<荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子

看護婦長 堀喜身子>

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1186.html

 先に書きましたが、これはどういうことでしょう。

 ソ連軍に慰み者にされたとされる九名のうち細井たか子、澤田八重子、荒川静子、後藤よし子の四名は小名木氏が引用している慰霊碑に刻まれたとされる中には見当たらない。

 小名木氏は不思議に思わないのだろうか。

 

現実に慰霊碑に刻まれている氏名は先日の日記に書きましたように、

<荒川さつき 井出きみ子 大島花枝 川端しづ 相楽みさえ 澤本かなえ 杉まり子 垂水よし子 林千代 細川たか子 吉川芳子 

 池本公代 稲川よしみ 大塚てる 五戸久 澤口一子 三戸はるみ 杉永はる 中村三好 林律子 森本千代 渡部静子

 石川貞子 井上つるみ 柿沼昌子 坂口千恵子 沢田八重 柴田ちよ 田村馨 服部律子 古内喜美子 山崎とき子>

の三十二名であり、婦長の堀喜身子氏の名前はありません。

 そして、小名木氏の引用した氏名のうち

<坂口千代子 滝口一子 澤田一子 服部きよ >

 が、私の確認した碑に刻まれた氏名の中にはみあたらない。

 それらしき氏名は

<坂口千恵子 澤口一子 沢田八重 服部律子>

 であろうかと思います。

 

 

 小名木氏は後日、青葉慈蔵尊に参った事をブログに書かれていますが、小名木氏にとって青葉慈蔵尊に参ったという事実が大切で、その時もおそらく、ご自身ではこういった事は確認はされてないのでしょう。

 小名木氏は多くの話題でブログを書いていらっしゃるが、その引用先、参考文献が記してないあるいは不明なものが多い。

 私も書かせていただいた台湾新竹省に神として祀られている廣枝音右衛門(広枝音右衛門)についてもそうです。

 私が書いているブログ。

廣枝音右衛門(広枝音右衛門)

小名木氏のもの

部下たち二千人の命を守った警部・・・廣枝音右衛門

http://megalodon.jp/2014-0626-0819-10/nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-747.html

 小名木氏の廣枝音右衛門についてのブログは引用先も参考文献も無く、掲載された顕彰碑の写真も不思議と同じ場所で撮ってフラッシュの光のまで同じ箇所です。

私の写した顕彰碑
小名木氏のブログの写真

 

 不思議な事があるものです。

 あほらし

 Oさん御夫妻来店。

 営業終了後、カミさんとオブデュモンドさんへ。

 その後、エムズバーさんへ。

 ドンチャン。

 夫婦揃ってサル。

青葉慈蔵尊 堀喜美子(喜身子)の疑問点その五

および小名木善行氏について

6月25日水曜日

 有名なブロガーであるねずさんこと小名木善行氏 「満州従軍看護婦実話」として「以下は、すべて実話です。」として肯定的に取り上げています。

満州従軍看護婦実話(1)

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1184.html

満州従軍看護婦実話(2)

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1185.html

満州従軍看護婦実話(3)

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1186.html

 そして、小名木氏は青葉地蔵尊の矛盾について、は御自分のブログで下記のように書いています。

<青葉慈蔵尊の物語でいえば、命を捨ててまで仲間たちを守ろうとした大島看護婦の勇気、操を命より大切なものとして集団自決の道を選んだ22名の乙女たちの心、半分死んだようになっていた拉致被害者の乙女たちを必死で救おうとした掘婦長の誠実さ、「日本に帰れる」そのことが本当に嬉しかったからこそ、現地で死を選ばざるを得なかった彼女たちの愛国の情、帰国後、何年かかかっても、彼女たちの冥福のために人生を捧げた掘元婦長の優しさ、その行動を意気に感じて名を捨ててまで「自分でできることで」全力で支援しようとした浪曲師、事態を知ってお地蔵さんを建立してくれた青葉園の創立者の心、私たちがこの物語を通じて「学ぶ」ことはたくさんある。

歴史を学ぶというのは、そういうことなのではないかと思うのです。

検証作業は、学者や、そういうことが好きな人に任せればよい。

私たちにとって必要なことは、どこぞのサイトに否定の文書が掲載されていたという「理屈」ではなく、この物語を通じて何かを得ることなのではないかと思うのです。

ですから、この物語を否定する人がいるというのなら、それはそれで良い。

その人には、そういう捉え方しかできなかったのだな、とボクは思うだけです。

もっと、はるかに大切なことを、その人は感じ取ることができなかった、かわいそうな人だとボクは思うだけです。

略)

「仮に」と申し上げました。青葉慈蔵尊にまつわる乙女たちの物語が、単に浪曲のための創作であったとしても、その物語は、終戦直後の国家を喪失したとき、すなわち「ゼロ時」の出来事として、国を考えるときの重要なメッセージが含まれている物語として、伝えていかなければいけない話である、と思うのです。

従軍慰安婦のような、単に欲ボケの利権屋のねつ造物語と、国を大切にすることの重要性や、その他多くのことを教えてくれる物語と、一緒にされては困る。

それこそ、勉強不足というものです。

三つ目に、真実かどうか疑わしいから「広めるのはどうかと思う」という議論です。

ま逆です。

この物語は、広めなければならない。

ボクはそう思っています。

この物語の論拠となっているのは、掘元婦長の話だけです。

伝えられている事件が、あまりにも悲惨で酷い物語であるだけに、これを否定する論が出てくるのは当然のことと思いますし、そうした論調があることも十分承知しています。

それでも伝えなければいけない。

物語として、ボクはこのお話をご紹介しています。

いまとは比較にならないくらい貞操観念の強かった時代です。

大陸で強姦されたの性的おもちゃにされたの、梅毒に罹患したの、自殺したのとなれば、彼女たちだけなく、そのご家族の苦しみは想像を絶する。

もし、ご自分の愛娘が、この当事者であったのなら、ご遺族としてはどうするでしょう。

真岡郵便局事件のように、関係者全員が、ソ連兵に強姦される前に自決した、というのなら、合同法要もありかもしれない。

けれど、仲間のうちの何人かが、ソ連兵に拉致され、性的おもちゃにされた揚句、梅毒に罹患し、死んだとなれば、そのことについて住所、氏名を公表し、ご自分がご遺族として世間の前に晒されるという選択を、果たして望まれるでしょうか。

もちろん中には、靖国合祀となれば、氏名住所本籍の公表を受け入れようというご遺族もおいでになるかもしません。

けれど、ご遺族の何人かが「それは困る」と申し出れば、おそらく事態の悲惨さから、事件そのものについて、合祀さえもお断りする。

もし、ボクが彼女たちの誰かの親なら、拒否します。

なぜなら娘の恥を、世間に晒してなどしてほしくないからです。

靖国合祀などされなくても、関係者や「わかってくださる人」が、お地蔵さんを建ててくださったのなら、それだけで十分です。

毎年欠かさず、そこにお参りする。

鶴を持っていく。綺麗な花を手向けてくる。冥福を祈る。次に生まれてくるときには、絶対に絶対に幸多かれと祈る。

それが普通の日本人の感覚なのではないかと、ボクは思います。

それを、逆手にとって、靖国合祀されなかった、住所氏名本籍の公開がなかった、だから事実ではない、と声高に主張する人の方の心が、ボクには、逆に理解できません。

それが論理的帰結というのなら、その論は、あまりに人間を知らなすぎる。人の心を知らなすぎる。日本人としての心を失っている。そのようにボクは思います。

論理というのは、単にどこぞにこう書いてあるとか、どこかの学者がこう言っているというのが論理ではありません。

事実の積み上げが論理です。

そして青葉慈蔵尊の物語でいえば、その物語が事実であったかなかったかということよりも、もっと大切なメッセージがそこに込められている。

その「メッセージがこめられている」という事実を除外しては、それは論理にはならないとボクは思う。

百歩譲って、そのブログのように、この悲劇が単に浪曲の創作話にすぎなかったとしても(ボクはそうは思っていませんが)、この青葉慈蔵尊に関する物語は、語り継ぐべき内容と持った物語であるとボクは思います。

なぜなら、ゼロ時、すなわち国家というものがなくなったとき、私たちの同朋がどのような目に遭わされてしまうのか。

けっして能天気なお花畑ではすまない現実がそこにあるからです。

唯物史観などというもっともらしい言葉がついているようですが、証拠というものは客観的なものです。

けれどそれをつなぎ合わせて、どういう事実をそこに見出すかは「解釈」の問題であり、その「解釈」には、解釈する人の知識や人生観や主観がはいります。

だから対立や論争が起こる。

ボクは学者ではありませんし、歴史家でもありません。

そこいらにいるただのオヤジです。

そしてこのブログも、ねずきちの「ひとりごと」です。

そこに書かれた「物語」が史実であるかどうかなどということは、ボクにとっては問題ではない。

略)>

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1232.html

<真岡郵便局事件のように、関係者全員が、ソ連兵に強姦される前に自決した、というのなら、合同法要もありかもしれない。>という。

 確かに、多くの先人がソ連により醜いめに遭ったのは事実である。このような事もあったであろうことは想像できる。しかし、その中の「事実でなかったこと」を「事実として」後世に伝える事とは決して我が国のためにならないと思う。

 ましてや、この青葉慈蔵尊が「大東亜戦争においてソ連に蹂躙された従軍看護婦の慰霊碑」ではなく、「大東亜戦争終了後昭和二十一年六月二十一日に自らの命を絶った二十二人の従軍看護婦の碑」として建てられているのである。

 二十二人、いや、記されている三十二人の非業の死を遂げられたとされる方の実在さへ確認出来ず、十九人の遺骨を返還したという御遺族さへ確認出来ていない。このような状態確認出来ない三十二人の犠牲者の氏名を事実として伝えていく事の方が問題であろう。

 

 それだけでなく小名木氏は<そこに書かれた「物語」が史実であるかどうかなどということは、ボクにとっては問題ではない。>とこのように書くが、果たしてそうであろうか。

 多くの悲劇があったのは事実であろうが、事実と確認出来ない事を事実として伝えていいものだろうか。

 私は決してそうは思わない。

 事実は事実として伝えていく必要があり、事実でないものを事実として伝えれば、支那や朝鮮と同じになる。

 何度も書くが、この青葉慈蔵尊が「大東亜戦争においてソ連に蹂躙された従軍看護婦の慰霊碑」ではなく、「大東亜戦争終了後昭和二十一年六月二十一日に自らの命を絶った二十二人の従軍看護婦の碑」として建てられているのであるから記されている従軍看護婦の存在が問われているのである。しかし、慰霊碑では二十二人自決したなかで名前が特定されているのは井上鶴美さんおひとり。あとはソ連軍に蹂躙された九名のうち五名のみ。三十二人の中でこの六名しか氏名さへ特定出来ないのである。つまり、二十二人のうち二十一人が名前を特定出来ないのである。

 中川八洋氏は著書「歴史を偽造する韓国」に職業詐欺師である吉田清治と千田夏光について数字を駆使していることを指摘し、「日本人は嘘数字に弱い」と書いていますが、これと同じように堀氏自身従軍看護婦の「実名」を書きながら、その御遺骨を渡された御遺族は最低十九家族いるはずなのに、誰も名乗り出ていません。どなたか、慰霊祭に出られたのでしょうか。

 少なくともこの二十二人は自らの純潔を守る為に、自ら命を絶った悲劇の方々のはずです。名乗り出ない理由などないはずです。慰霊祭に出席しない理由など無いはずです。靖國神社に祀られる事を拒む理由など無いはずです。

 

 だいたい、「満州従軍看護婦実話」として「以下は、すべて実話です。」としていながら「物語として、ボクはこのお話をご紹介しています。」とはどういうことなのでしょう。

 私程度の頭では理解出来ません。

 

 

 カミさんの朝ビール。

 メチャヒマ。

外国の方二名様来店。

Mさん来店。

 

営業終了後、Mさんとカミさんと三人でオブデュモンドさんへ。


青葉慈蔵尊 堀喜美子(喜身子)の疑問点その四

6月24日火曜日雨のちくもり△

 青葉慈蔵尊に祀られている従軍看護婦の皆様が靖國神社に祀られていない事についてはいろいろと批判されている方も多いです。

 この青葉慈蔵尊が「大東亜戦争においてソ連に蹂躙された従軍看護婦の慰霊碑」ではなく、「大東亜戦争終了後昭和二十一年六月二十一日に自らの命を絶った二十二人の従軍看護婦の碑」として建てられている。

 昭和二十一年六月二十一日に自ら二十二人の従軍看護婦が命を絶ったその為に毎年六月二十一日に慰霊祭が執り行われているのである。

 それが、二十二人の氏名も確認出来ないで事実とされている事が問題だと思う。

 靖國神社に祀られていないのもその為である。

  つくる会山形支部にて青葉慈蔵尊について中村武彦氏は下記のように書いている。

<最後に特記しておく。  この日本魂の権化と仰ぐべき女性たちは日本赤十字より派遣されて「満州赤十字」に所属していたというだけの理由を以て「日本」の従軍看護婦として扱われず、靖国神社にも祀られず、国から何の援助も弔意も受けていない。それでよいのか。法律とはそんなものか。彼女たちの祖国はそんな国であったのか。耐え難い悲しみと憤りをもって国民同胞各位にご報告申し上げる。>

同じく

< 六月二十一日、青葉慈蔵専の前で、自決した従軍看護婦さんたちの五十一回命日の慰霊祭が営まれた。多くの心探き男女が参列して、あらためて遺烈を賛仰し後に続くことを誓ったが、その場で、松岡喜美子さんが挨拶に立ち、厚生省や総理府に陳情しても官僚的な対応を受けただけだった経過を報告し、せめて大臣・局長でなくてもよい、当局の誰かから、「看護婦諸君よくやってくれた、有難う」とか「相済まぬ」という一片の暖かい言葉を霊前に供えてやっていただけませんかと嘆願したが、それでも聞き入れてて貰えなかったと、涙ながらに訴えておられた。  なんという政府の冷淡と不条理。あきらめてはっておけることではないと痛感した。

平成九年六月十日付け「新日本」第949号より転記 >

 このように書くが、従軍看護婦殉職者として靖國神社に祀られる「はず」であったが、それを拒んだのはほかならぬ堀喜美子氏自身である。

 これについては「日心Oを糺す会」と題したブログに他よりの引用として下記のような事が記されています。

<「日本の正しい歴史を学ぶ会」の会長、渡井昇が纏め、1998年6月21日の供養祭で参加者に配布したらしい『青葉慈蔵尊』と題された小冊子を得て、もう少し詳しいことが分った。興味深い内容を含んでいるが、自殺した看護婦の遺族ということでは、渡井昇らが既に調査をし、そして結局何も分らなかったということが書かれてあった。そのあらましはこうである。

 渡井昇らは、集団自殺した看護婦たちは靖国神社に祀られるべきだと考えた。1997年の供養祭の主催者挨拶の後でその事を話し、参列者の同意を得た。その中に冨士信夫がいた。その日から十日程経った頃、冨士信夫から「先日の青葉慈蔵尊の靖国神社合祀のことだけれどね」と電話があった。その内容は、次のようなものだった。靖国神社で行なわれたある会合に官民の著名な方々が集まっていたが、そこで冨士信夫が青葉慈蔵尊のいわれと、その霊を靖国神社に合祀して頂くことはできないかということを現地関係者の希望として話をした。小田村四郎や中曽根康弘が出席していたが、「それは尤もな話である。この席に権宮司の三井さんもいらっしゃるのだから、後日その関係者が神社に三井さんを訪ねて話を薦めてもらってはどうか。」ということだった。それで、早急に資料を持参して靖国神社の三井権宮司を訪ねてお願いしてくれないかという。

   渡井昇らは、靖国神社に訪問の日時を申し入れ、松岡喜身子に事情を知らせたが、その時の松岡夫妻の反応は意外にあっさりしていた。渡井昇と森哲也〔「日本の正しい歴史を学ぶ会」事務局長〕は指定の日時に靖国神社に権宮司の三井勝生を訪問した。三井勝生は快く面談に応じ、途中からは当時企画室長だった大東信祐も同席した。靖国神社としての合祀に関する見解は、戦争に関わったことの証明は省略として、「そのご本人の住所、氏名が国籍上確認できる者であること」が前提の条件という。

 ところが、青葉慈蔵尊に祀られている看護婦の場合、住所氏名は全く確保されていなかった。松岡寛が浪曲の全国行脚で判明した十九人の身元も、その遺族の家庭の氏名を書いて、徳山市の堀家の菩提寺の住職に、預けている遺骨の中からその一部を送ってほしいと、そのつど連絡をしたもので、その控えも取っていなかった。

 

 「それはその時の控えぐらいはあった筈」と言って責められても仕方はありません。でも、実際のところは「ああこれで、あの子も実家が解って良かったわね。早く帰ってご先祖のお墓に入れてもらって楽になってね。と安堵するのが精一杯で、後々のために記録を取っておくことなど、私たちには考えつきませんでした。」というのが、堀喜身子の「開き直った告白」である。

   こういう次第で、渡井昇らは靖国神社への合祀を諦めた。  堀喜身子は、意外にこの件に付いてはサバサバとした表情で、それは、過去、何度となく、この話を伝え聞いた方々が、政治家を始めとするツテを頼りに、厚生省その他の関係団体へ陳情をしたが、その結果が靖国神社合祀の条件のカベ(そのご本人の住所、氏名が国籍上確認できる者であること)を崩せなかった、と述べた。

 そして現在、松岡喜身子さんは次のように語るのでした。「今はこうして、毎年大勢の皆様方が青葉園まで来て頂いて、立派に供養祭をして下さいます。事件の概要を伝える石碑も建てて頂きました。私はもうこれ以上は望みません。満州の地で亡くなったあの娘たちの霊も、きっと喜んでくれていると私は信じています。」と言って涙ぐむのでした。・・・>

http://blog.livedoor.jp/t6699/archives/1263063.html

 このように書いているが、お亡くなりになった方の氏名がいいかげんでどうやって遺族を探すのでしょうか。

 また、これほど有名になったのちも、靖國神社にはひとりも祀られておりませんが、ご遺族の方は一人も名乗り出ておりませんのはすべて堀氏自身が望まなかった事です。

 

 今日のカミさんの朝ビール。

 

 江上さんの奥様のご実家よりサクランボ。

 メチャ美味い。

 Tさんがスペインのワイナリー関係者をお連れいただきドンチャン。

 マロさん来店。

 学生時代の同期だった帯脇来店。

 ドンチャン。

 一応、カミさん共々記憶あり。

 サルよりマシ。


青葉慈蔵尊 堀喜美子(喜身子)の疑問点その二

6月23日月曜日晴れ 

 堀氏は満州より昭和二十三年九月に帰国し、従軍看護婦として悲惨な最期を遂げられてた皆様のご遺族を捜したとおっしゃってます。

 しかし、従軍看護婦については、顕彰碑にも<従軍看護婦三十四名>と記され<【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺>では

<従軍看護婦の召集令状が舞い込み>となっている。青葉慈蔵尊由来記には<彼女たちが満州に渡る直前二週間幕舎生活をして訓練を受けた思い出の地、群馬県吾妻郡大泉村>となっているから彼女達は我が国国内で訓練を受けた従軍看護婦であるので、当然、その住所氏名が国にて管理されているはずであるが、その住所が不明で下記のように浪曲によって遺族探しをした事になっている。

<松岡寛さん。やがて結ばれて夫婦になるのであるが、春日井梅鴬の門下で若梅鴬と名乗る人気の高い浪曲師であった。堀さんの話しに感激し、『あゝ従軍看護婦集団自殺』と題する浪曲を作って全国を巡業したが、それによっても、奇跡的にも、まったく手掛かりもなかった十九人の遺族が名乗り出ることになるのである。>

 国の命令で従軍看護婦として出征したものに対して、まったく手がかりがないはずなどあろうか。

 

 また、 自決した二十二人の遺書に  <たとい命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の土に止り、日本が再びこの地に還って来る日、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にしてください。>とあったものを、

わざわざ、<葬儀資金にも困ったが、張さんが「火葬、分骨して故郷の両親に届けてあげなさい」と、一人当たり当時の金額で千円もする火葬代を払ってくれた。>

と、産經新聞の記事にございますが、当時の金で一人当たり千円もの金額というと百万円にも相当するのではないでしょうか。それを二十二人分二千二百万円分もポンと支那人(病院の人事課長、張宇孝)が出してくれたと書いています。

 支那での火葬代がそんなにするのかは置いときましても、これ以外にも堀氏の著書、証言にはこのように多くの矛盾が見られます。

 普通に考えて、<満州の慣習に従い、土葬の野辺送りをすませ、髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納め>と大島はなえさん「だけ」を「満州の慣習に従い」埋葬しておきながら、どうして二十二人を今の金額にして二千万円以上も支那人が出してくれたからといって火葬にするのでしょう。

 どうして、大島はなえさんのように髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納めなかったのでしょう。

  <満州から一緒に引き揚げてきた軍医の平尾勉なる人物と相談して、冥福を祈るため毎月二百円ずつ貯金を積み立てる計画を立てたが、それではとても間に合わぬので、自分の持ち物一切、子供のものまでも質に入れて、五万八千円という大金を工面して平尾元軍医に預け、七回忌までに、彼女たちが満州に渡る直前二週間幕舎生活をして訓練を受けた思い出の地、群馬県吾妻郡大泉村に慰霊の御地蔵さんを建てることにした。堀さんは自分は現地に行けないが、平尾が当然実行してくれたものと信じていた。

 しかるに数年後、当時堀さんの話に感動して浪曲にし、仝国を巡演していた松岡寛さんがお詣りをするつもりで大泉村に行ってみると、何も建っていない。平尾が堀さんの信頼を裏切り、金を着服してしまっていたのである。堀さんの受けた傷心は察するに余りあるが、しかし苦労し抜いた彼女の心は正に地蔵様のように思いやりと慈愛に満ちていた。「こんな時代です。みんな苦しいのです。平尾さんは決して悪い人ではないけれど、家族を養うためにどうにも仕方がなかったのでしょう」といって、もう何も責めず、愚痴も言わなかった。>

 と、青葉慈蔵尊由来記に記されている平尾勉元軍医は本当に実在するのであろうか。

 

 証言者が総て正しいという事も無いと思います。

続く。

 カミさんと久しぶりに「加賀屋」さんへ。

 その後「アンブラ」さんへ。

 二人とも記憶あり。

 サルでもエビでもない。


青葉慈蔵尊 堀喜美子(喜身子)の疑問点その一

6月22日日曜日くもり一時雨△

 おそらく、六月二十一日には今年も埼玉県さいたま市の青葉園にあるに青葉慈蔵尊ていろいろな行事が催されていると思います。

 その顕彰碑には下記のように刻まれています。

 「昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国の新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受けその九名の消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた  拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看浅婦が満身創痍瀕死の身を以て逃げ帰り全員堪え難い陵辱を受けている惨状を報告して息絶えた 慟哭してこれを葬った二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べて自決した  先に拉致された同僚たちも 恨みを呑んで自ら悲惨なる運命を選び満州の土に消えた  二十三年の暮れ 堀婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は幾辛酸の末 漸く青葉園園主の義侠により此地に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた 九名の友の霊も併せ祀られ 昭和三十年六月二十一日開眼供養が行われて今日に至った  凛烈なる自決の死によってソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純血を守り抜いた白衣の天使たちの芳魂とこしなえに此処に眠る  合掌」

 

 この青葉慈蔵尊についてのエピソードを多くの方が「事実」として書いておられますが、多くの矛盾点がございます。その中の最大の矛盾点は、青葉慈蔵尊の設立者である堀喜美子(喜身子)氏自身が著書などに書かれている肝心のお亡くなりになったとされる従軍看護婦の氏名もいい加減で、顕彰碑に刻まれていた氏名と堀氏の著書の氏名が一致しなかった事は私も確認いたしております。

 

 私が確認した顕彰碑に刻まれたお名前

 

 荒川さつき 井出きみ子 大島花枝 川端しづ 相楽みさえ 澤本かなえ 杉まり子 垂水よし子 林千代 細川たか子 吉川芳子 

 池本公代 稲川よしみ 大塚てる 五戸久 澤口一子 三戸はるみ 杉永はる 中村三好 林律子 森本千代 渡部静子

 石川貞子 井上つるみ 柿沼昌子 坂口千恵子 沢田八重 柴田ちよ 田村馨 服部律子 古内喜美子 山崎とき子

 顕彰碑に書かれている氏名は以上三十二名です。

 

 そして、<【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺>では

二十一年春ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に行かされたのは大島はなえさんら三人の看護婦。続いて一週間後、再び命令が来て三人の合計六人です。

 

 これが、青葉慈蔵尊由来記によると

<最初は大島はなえさん、細井たか子さん、大塚てるさんの三名。予定の一ケ月を過ぎてた後、荒川静子さん、三戸はるみさん、澤田八重子さんの三名が第二回目の後続として送り出された。第三回目の命令井出きみ子さん、澤本かなえさん、後藤よし子さんの三名を送った。>

となっている。合計九名である。

 そして、四回目の要請を受け、人選を終えたのちに大島看護婦がソ連軍から逃れてきて亡くなるとなっている。

 二名については何も記されていない。

 青葉慈蔵尊由来記にはソ連軍に慰み者にされ国際梅毒?をうつされた六名の事が下記のように書かれている。

 <私たちは毎晩七八人のソ連の将校に犯されたので、すぐに国際梅毒をうつされてしまいました。私も看護婦です。今では大分悪化していることがわかります。こうなっては自分の体は屍に等しいのです。  どうしてこの体で日本に帰れましょうか。仮に今後どのような幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、この体では日本の土が踏めません。この性病がどんなに恐ろしいものか十二分に知っています。暴行の結果うつされたこの性病を私はソ連軍の一人でも多くうつしてやるつもりです。今は歩行も困難なくらいですが、それでも頑張って一人でも多くのお客をとることにしています。これが敗戦国のせめてもの復讐です」>

 <コンジロームが局部一杯に広がってその先が全部化膿して膿が流れ、無花菓(いちじく)の腐敗したのを見るような感じに、長年看護婦をして馴れているはずの堀さんも全身総毛立ちの寒気がしたという。>

 これがソ連軍に犯された約四ヶ月後、五ヶ月のことである。

 梅毒とは四〜五ヶ月で歩行も困難になるものであろうか。そして、そんな見て判る女性を梅毒が伝染する危険を承知で抱きたいと思うであろうか。

 帰国の際について、<【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺>では

 <二年あまり過ぎた二十三年十一月、喜身子さんらが日本へ引き揚げるとき、五人は稼いだお金を駅まで持ってきた。「旅費にしてください」と無理やり渡し、話も交わさずに去った。そのうち三人はピストルで自殺したという。>

 つまり行方不明者はいない。これによると持ってきたのは食べ物ではなくお金であったし来た人数は五人であった。

 青葉慈蔵尊由来記では

<この六人のうち四人は、堀さんたちの引き揚げに際しては、ハルピンに身売りまでしてその費用を稼いでくれたという。>

となっている。拳銃自殺した事は書かれていないし、四人も身売りしてまで金を作ってくれたことになっている。

これが、堀喜美子著「従軍看護婦の集団自殺」では下記のようになっているそうである。

< 昭和二十三年九月のある朝、その日午後七時、南新京駅に集結という、突然の帰国命令が出た。堀婦長は子供たちに準備を言い残すと走り出していた。そうです。ダンスホールで働いている、あの六人の看護婦、細井たか子・後藤よし子・荒川静子・澤田八重子・井出きみ子・澤本かなえさんらの所です。「みんな帰れるのよ。帰国命令が出たのよ、今夜七時、南新京駅へ集まるのよ」と話した。  彼女たちの言葉は、「七時までに準備して必ず参ります」というものだった。

 しかし、その約束には衝撃的な永遠の別れが堀婦長を待っていた。約束の時間の二時間前に行き、六人の来るのを待ったが細井さんらの姿は見えなかった。  そのうち引揚げ用の貨車が入り、堀婦長は二人の子供らと共に貨車に乗った。  そして目線は六人の姿を求めて遠く近くをさまよった。その時、意外に近くに制服制帽の荒井、細井、後藤さん三人が貨車に向かって来るのが見えた。  三人を貨車に引っ張り上げ、堀婦長は「あとの三人は?」と問うと、「あとから来ます。これ、食料の足しにしてください」と言って抱えていた大きな包みを差し出し、「婦長さん、私たち澤本さんたちを探してきます」と言って貨車を降り始めた。

 飛び降りた三人の姿が堀婦長の視界から消えてものの一分もしないうちに、「バーンという銃声、続いてもう一発」の銃声が鳴った。誰かが、貨車の下の方だ、と叫んだ。  何事かと堀婦長が立ち上がろうとしたその時、「婦長さぁん、さようならぁ・・・」と言う細井たか子さんの声が聞こえると同時に三発目の銃声が鳴った。  堀婦長は反射的に貨車を飛び降り自分の乗っていた貨車の下に目を注ぐと、「うおぅー」と狼のような声を上げて走り寄った。後藤さんと荒川さんの身体を覆うようにして倒れていた細井さんの右手には拳銃が握られていた。

 おそらく、気丈な細井さんが先に二人を射殺し、最後に自分のコメカミを撃ったことが、堀婦長にはわかった。当然即死であった。 「わかる、わかるよう。あんたたち、こうする外なかったのね。こうしなければあの忌まわしい記憶から逃れる術がなかったのね。ごめんね。・・・早く、楽になってね。今度はもっと強い運をもらって生まれてくるのよ」 堀婦長はそう言って線路の砂利の上に座っていた。 嗚咽の中で冥福を祈り、もう一度合掌してさて遺髪をと、思いついた矢先引揚げ列車は無情にも、発車の汽笛を鳴らし、堀婦長は車上の人となった。

 結局、澤本かなえ・澤田八重子・井出きみ子さんの三人は姿を見せなかった。  また、ソ連の病院に派遣された九人のうち、二人の行方は杳(よう)として知れずに終わった。>

  堀喜美子著「従軍看護婦の集団自殺」より

http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/aoba.htm

 集団自決二十二名、ソ連軍に呼び出され蹂躙された方は六〜九名となっているので、最大三十一名だが、三十二名の氏名が記されている。

 つまり、ソ連軍に恥辱された看護婦の人数は六〜九人、その方達の最後は、お一人が大島はなえさんで逃亡後死亡、ダンスホールで働いていた細井たか子・後藤よし子・荒川静子・澤田八重子・井出きみ子・澤本かなえさんの六人

 行方の判らないのは大塚てる、三戸はるみさんの二名である。

 その六人のうち荒井、細井、後藤の三人は堀氏の前で拳銃自殺する。四人の身売りは何も出てこない。

  この結果、下記の事が判る。   

青葉慈蔵尊の顕彰碑に刻まれた氏名 「従軍看護婦の集団自殺」
井上つるみ 井上鶴美 集団自決
大島花枝 大島はなえ ソ連軍より逃亡後堀氏に見とられ死亡
三戸はるみ 三戸はるみ ソ連軍に連れ去られるその後不明
大塚てる 大塚てる ソ連軍に連れ去られるその後不明
澤本かなえ 

澤本かなえ、ダンスホールで働かされる 最後は不明

細川たか子  細井たか子? ソ連軍によりダンスホールで働かされる 拳銃自殺
沢田八重  澤田八重子? ダンスホールで働かされる 最後は不明
井出きみ子  井出きみ子、ダンスホールで働かされる 最後は不明
  後藤よし子 ダンスホールで働かされる 拳銃自殺
  荒川静子 ダンスホールで働かされる 拳銃自殺

 

 このように顕彰碑に刻まれた氏名のうち、堀氏の著書と名前が一致するのは六名。そのうちソ連軍に慰み者にされたという九名のうち五名。自決したとされる二十二名のうち一名のみ。

 遺書に連名で記されてあったとされるが、井上つるみさん以外不明。

 ソ連軍に慰み者にされた五名のうちかりに細井たか子さんが細川たか子さん、澤田八重子さんが沢田八重さんとしてもあと荒川静子、後藤よし子さんの二名は慰霊碑に氏名さへ見つからない。

 続く

 

 店の片付けが終わり、カミさんと合流して残りもんで飯。

 刺身は蛸、ツブ貝、しめ鯖、小豆ハタ、鮪のきれっぱし。

 汁物はカンパチの中骨。

 スパークリングと白ワイン。

 

 今日、開けたスパークリングワイン、白ワインともイマイチ。

でっ結局、最後はカミさんのお気に入りの「三井の寿 Miyabi selection 」

 二人とも一応記憶あり。

 サルよりマシ。


6月21日土曜日晴れ△

 今日のカミさんの朝ビールの残骸。

 今日はカミさんは朝から池袋で行われた「全国日本酒フェア」にカピ友(カピパラ好き繋がりの友人)と行く。

 午後はカミさんは神楽坂のよく行くお店で開かれているビールの会に出る。

 夜は腹が減ったと「一笑:さんへ

 結局、今日は私のみでチンタラと営業。

 二名様来店。

 Kさん来店。

 秋田からSさん来店。

 ドンチャン。

 サルよりマシ。


6月20日金曜日晴れ△

 アホマスゴミに対して「親善」をつけろとすぐに突っ込みが入ってました。

 >パラオ大使に22歳・藤本さやかさん

 バンブーさん来店。

 Sさん来店。

 Uさん二名様来店。

 二名様来店。

 四名様来店。

 Sさん二名様で来店。

 ハナちゃん来店。

 Sさん来店。

 今日はいろんな意味でいろいろなお客様来店。

 でっ、最後は内々のお客様でドンチャン。

 一応、カミさん共々記憶あり。

 サルよりマシ。


6月19日木曜日晴れ△

 次回予定している飲んべえの会鑑評会出品酒。

 今日は唱和六十一年に早稲田で「酒たまねぎや」を開いた日。

 何もうちの店としてはイベントをやらなかった。

 同じく今の「酒たまねぎや」を開いた五月三十日も同様。

 まあ、いいかなと。

 でっ、今日のお客様はMさんお一人様。

 オチャッピーでなくてよかった。

 ドンチャン。

 サルでもエビでもない。

 今日のカミさんの朝ビールの残骸。


 

茂木健一郎2

6月18日水曜日晴れ△

 銭のためかなにか知らんが創価学会の池田豚をヨイショする茂木氏はパチンコ屋のほとんどを占める在日朝鮮人相手に講演会をやったりしている。

 そして、過去にもこのようなツイッターをやっていた。

 フジテレビ不視聴運動に対して

<地上波テレビ批判と、これは別。幼稚すぎる。韓流のどこが悪い。グローバリズムの時代だぜ。幼稚な自国文化主義は、アホなだけでなく、日本をますます弱体化させるだけです>

<もう、みんな、レベルの低いたわごとはいいから、猛勉強しようよ。日本は、このままだと、三流国になるよ。いつわりの愛国主義、くだらない自己主張、誰もついてこない事大主義、ぜんぶ捨てないと、もう愛する日本はダメだ。とりあえず、東大と文科省をぶっつぶそう。おやすみ>

<8月8日、みんなフジテレビみろ! おやすみ>

https://twitter.com/kenichiromogi/status/476513235751817218

茂木健一郎?@kenichiromogi

ネトウヨ諸君は、中国や韓国にも、ものすごく魅力的でかわいい女の子がいる、ということを考えたことがあるのか? ネトウヨなんてやっているより、日中、日韓友好した方が人生のためだぞ。それから、北朝鮮にも、ものすごく魅力的な女性、たくさんいるらしいぞ。

8:56 - 2014年6月11日>

 でっ、茂木氏ついに下記のようなツイッター。

 <貼り紙、つくった。全国の温泉、公衆浴場関係の方、ぜひ、ご活用ください!!!! pic.twitter.com/muPpReF1jx

 

 うちの店の近所にあるお風呂屋さんでも刺青背負ったおっちゃんが入っているがだれ〜も何も言わん。普通に接してる。

 このアホは刺青をいれている事を見せびらかしているものどもを差別するなとホザイているのだろうか。

 普通、刺青いれている人間は、刺青は恥である。恥を背負っていると夏でも透けない服を着て隠しているものである。うちの店の近所にも元ヤクザで組を構えていた人がいて、会った時に立ち話とかするが、その人は刺青を他人に見せないために夏でも必ず長袖を着ている。

 恥を他人に見せびらかしているのはこんな連中だけである。

 

 こんなどうしようもない連中を差別するなと言っているのか。

 頭腐っとるだろう。

 ほんまあほらし

 二名様来店。

 小胡子さん、BOOちゃん、Kさん来店。

 Kさん、クリスチャンさん来店。

 Oさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

 


茂木健一郎

6月17日火曜日晴れ ×

 私はテレビを持っていないので知らないのですが、「茂木健一郎」という御仁はあの反日放送局のNHKなどに出演している有名人だそうです。

 この御仁は平成二十二年二〇一〇年、カルト宗教である創価学会の池田大作との往復書簡とやらを中央公論に掲載していました。

 その第一信で茂木氏は

「日本で最大級の仏教信徒の組織において長年にわたって指導的立場にあり、また世界各国の知識人との対談を重ねてきた池田大作さんに、お伺いしたい。人類の現在の知のフロンテイアにおいて、仏教を始めとする宗教はどのような役割を果たしていて、また果たし得るとお考えでしょうか? また、知的探究における誠実さを貫くということと、生活者の苦しみ、悩みを救うという問題との間には、どのような関係があるとお考えでしょうか? 

 ドーキンスの批判については、どのような感想を抱かれますか?

 もし、池田さんの思索の一端でも御教示くだされば幸いです。」

 と、池田大作氏がまともに今まで自分の著書、対談をおこなって来たような事を書いてヨイショしている。

 池田氏が何かと引用する事も多いトインビー博士との対談で、現にこの往復書簡でも「歴史学者のトインビー博士と私が語り合った『究極の精神的実在』とも深く重なります。」(第二信)

「私が対談したトインビー博士は、「悩みを通して智は来たる」との箴言を大切にされていました。」(第四信)

「トインビー博士が、オックスフォード大学に一時亡命していたアインシュタイン博士の逸話を紹介されたことがあります(『交遊録』、長谷川松治訳、社会思想社刊)。

 ──ナチスとの戦いの渦中にあっても、あまりにも自由闊達なアインシュタイン博士に、ある教授は思わず尋ねた。「何を考えているのですか」。すると、アインシュタイン博士は答えた。「この地球は、要するに、きわめて小さな星にすぎない、ということです」と。

 ともあれ、私たちの生命が、本来、どれほど、伸びやかな広がりをもっていることか。

 ゆえに、どんな困難な壁に直面しても、決して押しつぶされない。いかなる壁も勝ち越えゆく智慧と力を、人間は「心の宇宙」から湧きいだしていくことができる。」(第六信)

 

 しかし、池田代作とのその対談はとても対談といえる程度のものでなかった事をトインビー博士の孫娘であるポーリー女史が、

もし、祖父があれほど年老いていなかったら、また、もし祖父が池田氏のあの異様な取り巻きと雰囲気の中で会っていたならば、けっして池田氏に力を貸すようなことにはならなかったと思います。

 祖父は当時、とても弱っていましたし、人を信じて疑わない、生来からお人好しの性格だったのです。

 もし、私達の招待旅行が、祖父トインビーと池田氏を、よりしっかりと結び付けようとして企てられたものでしたら、それは、まったくの逆効果に終わったといえるでしょう。>

厳しく批判されています。

 茂木氏は創価学会が出している「第三文明」という怪しい雑誌の平成二十三年七月号より「茂木健一郎の人生問答」なるものを連載しています。

 茂木氏は池田大作氏に対して、

「人生の大先輩である池田さんとこうして対話させていただくことは、私にとってかけがえのない学びの機会となっています。改めて心からのお礼を申し上げます。」

「大きな物語だけが人生ではないと考えます。日常こそが、底光りしている。池田さんが日々の生活の中でどのようなことを考えていらっしゃるのか、大変関心があります。

 池田さんにとっての、日々の小さな喜びとはどのようなものですか? どんな時に、生きていることの充実を感じますか? お忙しいスケジュールの中で一人の人間に立ち返る、その私秘的な時間の一端にでも触れることができましたら幸せです。」(第三信)

「池田大作さんは、世界のさまざまな方々との対話を重ねることによって、日本という社会を実質上『脱藩』されたのではないかという思いがよぎります。今回、お手紙をやりとりさせていただくことで、池田大作さんの肉声、一人の人間としての息づかいのようなものを受け取ることができたことは、幸せなことでした。」(第五信)

 と、普通の感覚を持った人間だったら絶対に言う事のできない事を平気で言って、創価学会に取り入って、飯のタネをもらっていると言ったら何処か間違っているのでしょうか。

 

 あほらし

 Hさん三名様で来店。

 二名様来店。

 Mさん二名様で来店。

 台湾からアレンさん来店。

 営業終了後、カミさんとエムズバーさんへ。

 その後、うどん屋さんへ。

 ドンチャン。

 記憶無し。

 夫婦揃ってサル。

 あかんやろw


 姜尚中氏の招待客リスト

 6月16日月曜日晴れ○

 姜尚中氏は南朝鮮のなかでも左巻きのバカ大統領であった金大中を高く評価し、二〇〇五年五月に東大に招いて講演会を開いています。

 

 ちなみにこの時の姜尚中氏の肩書き

<シンポジウム共催団体「東京大学東北アジア研究会」

        共同代表・情報学環学際情報学府教授>だそう。

 その時の招待客のリストの一部です。

招待客リストのめぼしい方々。

「メディア・出版関係および知人」

 

薬師寺克行 朝日新聞東京本社「論座」編集長

高橋伸児  朝日新聞東京本社「論座」副編集長

李水香 TBS外報部

伊藤友治 TBS外報部

岡本朋子 NHKエンタープライズ21  

豊田恵子 NHKエンタープライズ21 

岡部ひとみ 講談社 

岩城浩幸 TBS 

岡本 厚 「世界」編集長――岩波書店

北村 肇 週刊「金曜日」編集長 

小林和子 週刊「金曜日」編集委員    

本田雅和 朝日新聞東京本社

姜徳相 

「友人」

岡崎トミ子

石坂 啓

辻本清美(辻元清美?)

内田雅敏

小田実

落合恵子

加藤周一

大江健三郎

坂本義和

佐高 信

澤地久枝

金石範

徐京植

高崎宗司

辻井 喬

武者小路公秀

吉見義明

「外国の客員教員」

王曙光

「政治家」関係

加藤紘一

額賀福志郎

福田康夫

中曽根康弘

河野洋平

鳩山由紀夫 

横道孝弘 

菅直人 

枝野幸男 

土井たか子 

福島瑞穂

森喜朗

山本一太(参議院)

武見敬三

 

仙谷由人

首藤信彦

 

 大まかな順番はそのままです。

 中々興味深いリストです。

 論座編集長、世界編集長、週刊金曜日編集長、姜徳相などとともにしっかりと本田雅和朝日新聞記者が入っています。

 そして、友人としては香ばしい連中ばかりですが、当時政治家であった岡崎トミ子が政治家でなくて友人に入っています。

 その岡崎の住所は埼玉県桶川になっていて、岡崎と繋がりはあるのかと思って調べてみると、岡崎の私設秘書をやった北村あやこ元市議が桶川です。

 辻元清美(辻本となっています)の住所は石坂啓と同じになっていますが落選中のせいと思われます。

 政治家連中もいろいろありそうです。

 

 あほらし

 今日はうちの店が休みですが、いろいろと雑用があり、店にいます。

 でっ、ヒマなカミさんが店に来て昼ビールやってます。

 飲んでいるのは、カミさんが友人の北台湾ビールの醸造責任者からいただいたラベルの貼ってないボトルです。

 次から次へといろいろ出てきます。

 私はその後も店で酒の在庫整理。

 

 今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。


姜尚中という嘘つき
6月15日日曜日晴れ△
 また、あの嘘つきの姜尚中ネタです。
 まあ、せっかくネタのためだけに古本屋で買ってきた本ですのでつかわないともったいないです。
 以下引用
<朝鮮戦争の引き金を引いてた日本
姜 この時、朝鮮半島の内部には、明らかに「朝鮮人民共和国」ができあがりつつありました。
 まだ戦争状態にありましたから、日本の統治機構は健在でしたが、朝鮮総督府はソ連が北朝鮮まで占領した段階で南側も完全にソ連の勢力下に入るのではないか、と思っていた。そうすればその当時数十万人はいた日本の人々に危害が及ぶかもしれません。
 彼らをどうやって速やかに日本に移送させるか。そして、日本が作り上げたさまざまな財産を出来る限りダメージが少ない形で日本に移送出来るか。総督府は、ソビエトが三八度線を超える前にこの人民委員会の首脳達と交渉し、速やかに日本人を安全に日本に帰還させる。こういう工作を、かなり練っていました。その時の指導的な政治家であった呂運亨や金九は暗殺されてしまいます。
 残念ながら、アメリカが仁川に上陸するとわかったときに、総督府は完全に一八〇度手のひらを返し、今までの交渉相手との交渉を打ち切り、アメリカの占領下に入ります。そして、朝鮮半島についてまったく知識がなかったアメリカは、日本の旧体制の官僚機構を利用しようとしました。これは四八年以降の日本と同じです。
小森 朝鮮半島でも同じ手法をとったわけですね。
姜 その結果として、朝鮮半島内部に反米的な、人民委員会を中心とする,様々な反乱が起きます。これが済州島で起きた四・三事件です。四・三事件では一〇万人、あるいはそれに近い数の人が殺されたと言われています。
 略)
 熾烈な弾圧が行われ、弾圧の先頭に立ったのが旧日本の植民地支配でずっと温存されていた、いわゆる親日派の人々です。
 廬武鉉政権のもと、親日派に対する見直しが進んでいます。日本の中には「なんで今更・・・」「なんてかわいそうなことをするのか」と思う人が多くいる事でしょう。しかし親日派というのは、あの半島の分断に大きく関わっているんですね。その人たちに対する韓国の国民の意思は、これまでは冷戦の中で抑えつけられていましたけど、大きく変わりました。
 フランスを占領していたナチが崩壊して、その時にナチと親しかったフランス人女性たちはほとんどが髪を切られ、場合によっては虐殺されています。フランスがナチに支配されていたのはわずかな期間です。それでもフランスの国民側の怒りとルサンチマンはすさまじく、一貫して対ドイツ協力者に対する追求をやってきました。
 そこには確かに歪んだ面もあります。追求したレジスタンスの側だって、本当にナチに抵抗していたのか、怪しい面もある。しかし、フランスの場合には戦後一貫して、ナチ協力者への追求をやっているのです。ましてや韓国では、三六年の植民地支配の中で植民地権力と癒着し、南北分断にも関わり、その後、分断国家の中で独裁政治の庇護を受けてきた親日派の人々に対する国民の怒りというものが、途絶えることなく続いているのは当然だと思います。
小森 親日派への怒りの歴史は、日本ではまったく伝えられていません。>
「戦後日本は戦争をしてきた」姜尚中・小森陽一 角川書店 平成十九年刊
P一〇二〜一〇五

 アホかと。
 どうしようもないアホ大統領である廬武鉉時代に事後法である「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」いわゆる親日法ができたが、「親日」とは朝鮮人にとって売国奴、非国民という意味が強い。
 では、親日人名辞典編纂委員会が編纂したリストの中に含まれていた朝鮮戦争の三大英雄と言われた大韓民国陸軍参謀総長を務めた丁一権氏、白善(火に華)大将、大韓民国の陸軍金錫源少将がいなければ南朝鮮はどうなっていたのか。そして、大韓民国大統領朴正熙氏がいなければどうなっていたのか。
 ましてや、フランスにおけるナチ協力者狩りと朝鮮戦争の英雄と中興の祖を同じにする異常さ。
 姜氏は南朝鮮が北朝鮮により征服されていた方が良いとでもいうのでしょうか。
 
 
 あほらし。
 
 今日は店の片付けを終えて、店でカミさんと合流し残り物をつまみに飲む。  
 最初はワイン。次は酒。

 

 ドンチャン。
 記憶あり。
 サルよりマシ。


6月14日土曜日晴れ△

 眠いぞ

 カミさんの朝ビールの残骸。

 

 二名様来店。

 浜松よりTさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


6月13日金曜日晴れ△

 ネコダンゴ。

 ゴン太とトラ吉。

 カミさんの朝ビールの残骸。

 

 

今日より新しく当店のメニューに登場の「越乃白雪 弥彦愛國」

 好漢大井源一郎が戦前よりの酒造好適米・愛國を弥彦村で復活させ、弥彦桜より採集された東京農大弥彦桜5号酵母で仕込む酒で、ラベルも弥彦在住の書家の方、ラベルの紙も弥彦産と徹底的に弥彦に拘った酒です。

別に愛國というのに引かれたわけではありません・・・・

と、思う・・・・・

 バンブーさん来店。

 一名様来店。

 二名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

 

 金曜日なのにえらいヒマで、お客様をお送りしたら、気の毒がって、ガマくんが来店。

 お気持ちだけで結構です。

 銭持ってこいよな・・・・


李信恵という朝鮮人

6月12日木曜日雨のち晴れ

 <李信恵  ブラジルは出生地主義だしね。勤勉に労働し現地社会に多大なる貢献、在日と一緒だね。>

 

 アホか、先人をお前ら朝鮮人と一緒にするな。

 

 私は朝鮮人が嫌われている国は多く知っているが尊敬されているというのは聞いた事が無い。朝鮮人が尊敬されている国というおめでたい国があったらその国名をぜひ教えてほしいものである。

 以前に日記に書ましたが、外国人は、どのような国においてもそこの国民と同じという事はありえず、大なり小なり、必ず差別というものは存在します。日本人が海外で生活した場合でも同じです。

 多くの国々で日本人、日系人はその国の人々から信用され、尊敬されています。それは、外国人である、移民であるというハンディを背負ってその国の方々の何倍も、何十倍もの努力の結果です。

 短期間で築ける信用ではありません。

 長い間、日本人、日系人がその暮らしている国で築いて来たものです。多くの日本人、日系人は四四二部隊を例にとるまでもなく、移民しその暮らしている国に対して忠誠を誓い、その国を祖国として生きています。

 この李信恵女史が例に出したブラジルでは、「ジャポネス・ガランチード」(日本人的保証)という表現があります。これは、ブラジルに移民された方々が貧乏と苦労の中、マイノリティの立場でありながら、ブラジルの人々からこのような表現があるほどの信用を得たのです。ブラジル空軍の最高司令官にまでなっています。

 世界中で、日本人あるいは日系人でないのに「俺は日本人だ」「日系人だ」と偽る連中がいても、日本人、日系人で日本人、日系人ということを隠して生きている人などいないでしょう。隠す必要もないからです。

 それに比べて、トンスル人(朝鮮人ともいう)はどうでしょう。

 

 

 我が国においても普段は日本人のふりをして通名などという偽名で生活しながら、都合が悪くなるといきなり本名を使って朝鮮人ということを振りまわし、普段の自分達の生き方を棚にあげて、外国人として「人権」「差別」と叫び、被害者面をする恥というものを知らない朝鮮人。

 こんな恥知らずな民族が尊敬されている国があったら是非教えてもらいたいものである。

 我が国において朝鮮人どもが嫌われているのは朝鮮人自身の問題である。

 朝鮮人どもが己らの所行を顧みる事無ければ、人間のクズといわれることはあっても尊敬される事など永遠にない。

異国で「朝鮮人らしく」胸を張って生きるという事はどういうことか。

犯罪の王者・朝鮮人と強姦

売春輸出大国朝鮮

 知れば知るほど嫌になる我が国の寄生虫・朝鮮人

 あほらし。

 カミさんの朝ビールの残骸

 Sさん来店。

 大阪より出張ということでNさん来店。

 Yさん二名様で来店。

 

 今日はカミさんは元気よく飲みにいくが私は飲む元気も無くさっさと帰る。

 サルでもエビでもない。

 


酒たまねぎや 飲んべえの会 越乃白雪

6月11日水曜日雨×

 「酒たまねぎや 飲んべえの会 越乃白雪 弥彦酒造」

 出品酒

 純米大吟醸五年秘蔵酒 兵庫県産山田錦 精米歩合40% 新潟酵母

 

 純米大吟醸      弥彦村産山田錦 精米歩合40% 新潟酵母

 大吟釀        兵庫県産山田錦 精米歩合40% 新潟酵母

          

 純米吟醸 弥彦愛国  弥彦村産愛國  精米歩合55% 使用酵母東京農大弥彦桜5号

 純米吟醸       弥彦村産山田錦 精米歩合50% 新潟酵母

 吟醸         弥彦村産山田錦 精米歩合50% 新潟酵母

 特別純米       弥彦村産越淡麗 精米歩合50% 新潟酵母

 本生酒        弥彦村産山田錦 弥彦村産五百万石 精米歩合55% 新潟酵母

 合計八種類十六本

 

 

 

 終了後、みなさんとアンブラさんへ。

 ドンチャン

 記憶無し。

 サル以下


在日朝鮮人の反日は永遠に無くならない

6月10日火曜日晴れ × 

 在日朝鮮人という異常な存在の害人が我が国に存在する。

 我が国に住み三世四世の時代になっても、「外国人」のままで、その二本の足で立っている国に対し恩も感じなければ、貢献もしようとしない輩がいる。

 これがどれ程異常な事か。

 写真は在日韓国学生同盟による反日デモ。

 理由なき併合により、朝鮮を優遇し、「日本人より上の立場」の多く朝鮮系日本人エリートを日本人がつくった結果反日朝鮮人が量産された。

 それは現在の在日朝鮮人を見ていればよく理解出来る。

 在日朝鮮人は、世界中で一番恵まれた外国人としての待遇を受けているが、我が国に感謝することはなく、反日に邁進している。

 これについては、中川八洋氏は下記のように指摘しています。

<在日韓国人・朝鮮人(以下「在日」ともいう)は、今日の世界でいかなる国にも類例をみない破格の待遇を受けている“外国人”である。彼らの日本在留は無期限である。しかもビザなしで就労、商業その他の一切の活動ができ、それはまた無制限である。しかし、彼らは日本に感謝することはない。そればかりか、日本の過剰な寛大さが「特別永住者」の増慢を招き、ブーメラン的に日本は怨みを買っている。彼らが日本国民とほぼ同一に扱われて、差別が限りなくゼロであるそのことが、「反日」運動をし続けるしかない道においやっている。なぜなら、祖国は日本以外の国である(=日本国民でない)と、心理的に自らに証明していかない限りアイデンティティが定まらないのが、「在日」の実態であるからだ。ならば、「祖国」(朝鮮半島)に帰るべきである。

 一般的にも、在日外国人のまま祖国の母国語すらうまく喋れなくなって、しかも日本人的な思考方法をするに至った二世以下にとって、帰化(日本国籍の取得)せずに自分は外国人なのだと自分に納得せしめる方法として「反日」運動ほど簡便なものはないだろう。特に日本という国家そのものを「簒奪」する気構えほど自己の存在を簡単に確認させてくれるものはない。

 だから、理論的には、日本が日本国でなくなって「多民族の共生」する無主のち、もしくは共同統治の地になるまで、「在日」の国籍差別撤廃闘争は決して終焉しない。>

「歴史を偽造する韓国」中川八洋著 徳間書店 平成十四年刊 p二五〇〜二五一

 特別永住権を即座に廃止し、在日朝鮮人を普通の外国人として扱う事が我が国にとって必要な事です。

 

 刺身盛り、焼き物と今日は珍しくメチャ忙しい。

 Nさん二名様で来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 Iさん四名様で来店。

 三名様来店。

 営業終了後、カミさんとアンブラさんへ。

 ドンチャン。

 記憶無し。

 サル以下。


6月9日月曜日雨 △

 今日、長崎のM氏が送ってくださった枇杷の種を黒糖焼酎に漬けました。

 

 黒糖、ラム、ラム、黒糖とこれで4年目です。

 杏仁豆腐のようないい香りがします。

 種の分ちょっと瓶からあふれますので、その分はいただきます。

 役得役得。

 今日は店に寄って資源ゴミを出した後、カミさんと合流し夕飯。

 私はあまり飲む気になれず、ビール一杯のみ。カミさんはガンガン。

 サルよりマシ。

 エビでもない。

 


支那朝鮮との理想的な関係とは

6月8日日曜日雨 △

 舛添要一は支那朝鮮との関係を下記のように言ったそうです。

以下引用

<「恥ずかしいとの感覚を」=国のアジア外交に苦言−舛添都知事

東京都の舛添要一知事は28日、都内で開かれた内外情勢調査会東京本部懇談会で講演し、日中、日韓関係が冷え込んでいることに関し、「日本政府の最大の問題は近隣の国々とうまくいっていないことだ」と述べ、国のアジア外交に苦言を呈した。オバマ米大統領の仲介によって3月に日韓の首脳会談が実現したことについても、「そういうのは(本来)恥ずかしいことだという感覚があった方がいい」と指摘した。

 舛添知事は4月、東京都の姉妹友好都市である中国・北京市の招待を受けて訪中。汪洋副首相や唐家※(※=王ヘンに旋)元国務委員(中日友好協会会長)、王安順北京市長と会談し、大都市が抱える幅広い課題で協力関係を強化することで同市と一致するなど、都市外交に力を入れている。講演では「ぜひソウルに行きたい」と述べ、訪韓への意欲を強調した。(2014/05/28-16:27)時事通信 >

引用終わり

 では、舛添氏のいう近隣の国々とうまくいっていないことは悪い事なのか。

 支那とは国交を回復後、莫大な援助、あらゆる技術を与えた。

 その結果はどうなったであろうか。

 反日朝鮮人を増やし、反日支那人を増やし、強大かさせ、世界中に迷惑をかけただけである。

我が国には過去に朝鮮人を人間扱いし朝鮮に対して莫大な国費を湯水のごとくつぎ込み、ある意味我が国国民なみいやそれ以上に優遇した。その結果はどうなったであろうか。

 

 これは鳩山由紀夫氏などがよくいう「東アジア共同体」などという売国構想と同じである、白人の侵略に対抗しアジア連合をつくるその第一番目として我が国と朝鮮との合邦を呼びかけ、白人同盟に対するために黄人同盟で対抗しなければならないと説いた樽井藤吉の「大東合合邦論」は結果として大きな間違いであった事を理解しない愚か者の一人がこの舛添氏である。

 支那、朝鮮と「仲良くすれば」国家の利害が一致するのであろうか。その根拠はどこにあるのであろうか。

 支那、朝鮮と断交、あるいは国交を限定することにより、我が国の国益を損なう不都合は具体的に何か生じるのであろうか。

 私は何も思い浮かばない。

 我が国は朝鮮を併合した事により大きく国益を損なった。

 朝鮮に投じた金、人材を他に投じていれば我が国の現在は違ったものになっていたであろう。

 支那人、朝鮮人は土人のままに置いておいた方が世界中が平和だったのである。

 あほらし。

 店を片づけた後、カミさんと合流しご近所で飲んでいたら、当店のお客様であるMさんとバッタリ。

 その後、ご近所というMさん宅にていただいた「カステッロ・ディ・アマ1989」

 うちの店の在庫などとっくの昔に無くなり、えらく久しぶりに飲むワインで、美味しかったです。

 一応、記憶あり。

 サルよりマシ。


6月7日土曜日雨 △

 河岸に行った時に築地本願寺の前で待ち合わせしていたのか歩道の真ん中で動かなかったアホ女。

 

 

  このアホ女の側を仕入れカゴを持って通る時に「もっと端に寄れよ。邪魔だろうに。アホが」と言ったがしら〜とされました。

  最近、邪魔な場所で平気で待ち合わせとかスマホをやっているアホが目につきます。

 Sさん来店。

 Kさん来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 Kさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

 先日、来店してくださった「北台湾ビール」の方よりのカミさんへのお土産。

 

 


6月6日金曜日雨△

 今日の産經新聞の記事です。

以下引用

<都知事、優遇措置を検討 大都市問題研究の留学生

産経新聞2014年6月6日(金)7時55分配信

 舛添要一知事は5日、中国人留学生らが住む東京都太田記念館(杉並区)を訪れ、「若者の交流は日中の友好につながる」と留学生を激励した。視察後に東京や北京にとって有益となる大気汚染をはじめ大都市が抱える問題について研究している留学生に対し、入居期間の延長や家賃の一部補助など優遇措置を検討する考えを示した。  太田記念館は、中国との親交が深かった太田宇之助氏が自身の所有地を都に寄贈し、遺志を受けた都が平成2年に北京市からの留学生向けの宿舎として開館。現在は他のアジア各国の留学生も受け入れている。  舛添知事は留学生と懇談後、記者団に対し、中国大使館と都生活文化局の双方に北京市と都が協議を進めるための窓口を設置すること、太田記念館が開館25周年を迎える来年に王安順北京市長や太田記念館の卒業生らを招き、記念式典を開く意向を示した。>

引用終わり

 そして、支那系メディアも下記のように伝えています。

<舛添要一東京都知事、中国人留学生と座談会=一部留学生に優遇措置検討―中国メディア

Record China 6月6日(金)8時44分配信

2014年6月5日、舛添要一東京都知事は東京都・太田記念館を視察、中国人留学生との座談会に出席した。新華社が伝えた。

太田記念館は中国人など留学生向けの宿舎として都が運用し、これまで824人の中国人留学生を受け入れてきた。 舛添知事は大気汚染など大都市の問題を研究している留学生に対して、入居期間の延長や家賃の一部免除など優遇措置を検討する考えを示した。(翻訳・編集/KT)>

<舛添都知事、東京の中国人留学生と交流、「日中友好でより多くの学生を」

サーチナ 6月6日(金)14時29分配信

 東京都の舛添要一知事は5日、中国人留学生らが住む東京都太田記念館(杉並区)を訪問し、留学生らと交流した。都知事は「日中の友好的な交流を促し、より多くの中国人学生が日本で学ぶようになってほしい」と話した。(写真は「CNSPHOTO」提供)(編集担当:古川弥生)>

 アホかと。

 支那人どもにこれ以上美味しい思いをさせてどうするのだ。

 そんな銭があるのであれば、東京で学んでいる支那、朝鮮以外の国々。何よりも我が国の苦学生にこそ使うべきだろうに。

 

 だいたい、支那との友好ってそもそもなんだ。

 一方的に銭を取られるのは友好とは言わん。

 我が国からの銭と技術によって支那は軍事大国となり、今アジアの国々はその支那の危機にさらされている。

 我が国がやるべき事は、その支那との関係を早急に見直す事である。

 こんなのに票を入れたアホどもは恥を知れ。

 あほらし。

 今日のかみさんの朝ビールの残骸。

 

 バンブーさん来店。

 Sさん二名様で来店。

 Kさん、Eさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

 帰ろうとしたら、入口にガマくん。

 もっと早く来てくれ。その時は銭もってね。

 


姜尚中という嘘つき朝鮮人

6月5日木曜日雨×

<姜 アメリカの冷戦下における、パワー・ポリティクスに基づく対日占領政策が一方的にあると同時に、日本国憲法を発案した人たちの中に「人間としてこれを作った」という思いがある。

 日本が占領地においてそれをやっていたら、つまり朝鮮半島において一九一九年の弾圧の弾圧をやった後、「これはむごい事だと」と認識していたとしたら・・・・・・。日本は、立憲君主制の明治憲法下でも許されていた大衆の社会権や自由を、異民族を支配する以上はそこにも認めなければならないと、いうところまでいけなかったわけです。

 ケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」という映画に描かれていますが、アイルランド支配の中でイギリスはちゃんと自由化政策を行っています。そうした自由化政策すらも日本はしなかった。ということは、いかに過酷であったかということです。それを考えると、残念ながらアメリカのほうがはるかに日本より進んでいた。>p九十四〜九十五

 「戦後日本は戦争をしてきた」姜尚中・小森陽一 角川書店 平成十九年刊

 

 例によって、どうしようもない嘘つき朝鮮人お得意の「日本の統治は醜かった」論ですが、現実にはどうであったか。

 姜尚中の観た「麦の穂をゆらす風」とはWikipediaによれば、一九二〇年代アイルランド独立戦争とその後のアイルランド内戦を背景に、英愛条約をめぐって対立することになる兄弟を描いた戦争映画となっています。アイルランド独立戦争と三・一運動(暴動?)とを一緒にしているのです。

 あほかと。

 三・一運動(暴動?)については過去に何度か書きましたが、独立運動でもなんでもないたんなる暴動です。

宇都宮太郎大将の日記にみる三・一運動と朝日新聞

講談社による三・一運動の描き方

「水源郡堤岩里教会事件」の真相

 朝鮮は我が国の統治時代に独立運動らしきものは起こしていません。それどころか、大東亜戦争まで日本人として戦っています。

 ましてや、アイルランドがどうして独立運動を起こしたか。

 それだけイギリスのアイルランド統治が過酷だったからです。

 中川八洋氏は著書「歴史を偽造する韓国」にて下記のように書いています。

 <日本の朝鮮統治は「植民地支配」などといわれるが、朝鮮は僅かも「植民地」として扱われてはいない。「植民地」であれば、日本は朝鮮統治から財政的・経済的メリットがあったはずであるが、そのようなものは皆無であった。逆に、日本は朝鮮統治のために巨額で過度な財政的負担を強いられた。七千万人の日本人は、その分増税を強いられた。マルクスの用語に従えば、日本人は朝鮮人に「搾取」された。

 世界史に例のない特異な他民俗統治である。日本の韓国併合の真実は、イギリスの「植民地」インド/アイルランド統治や、オランダの「植民地」インドネシア統治、あるいはフランスの「植民地」アルジェリア統治と比較すれば、簡単に鮮明になる。

 イギリスの「植民地」アイルランド統治で、アイルランド人はその収奪に耐えかねて、自らの国からの「集団脱走」である、国を棄てる「集団棄国」が実際に起きた。それほど英国の収奪は過酷を極めた。アイルランドの人口は、一八四一年の八二〇万人が一九一一年には四四四万人と半分になった。一八四七年から一九〇五年にかけて五〇〇万人のアイルランド人が国外に移民した。

 しかし、朝鮮は日本の統治によって年々豊かになった。人口は一九一〇年の一三一三万人が、一九四二年には二五五三万人と激増した。三二年間で倍になったのである。

 植民地アイルランドの逆である。しかも、一人当たりの国内総支出も一九一〇年の五十八円が一九三八年には百十九円と、二倍になった。人口が増えた上に所得がさらに増えた事実だけでも、朝鮮統治における世界史に例を見ない日本の「善政」は、一目でわかる。>

P十二〜十三

<英国のアイルランド統治の基本は、

一、土地の没収

二、無教養化

三、産業進展の抑圧

 の三つが柱であった。

 何から何まで日本の韓国統治とは百八十度逆である。

 その方法は狡智を極めていた。土地持ちのプロテスタントの女性がカソリックの男性と結婚した場合はその土地を没収。カソリック教徒の土地購入の禁止、プロテスタントからカソリック教徒への贈与の禁止、カソリック教徒の土地相続は均分相続のみで長子相続は禁止、などである。これらを定めたのが、「カソリック刑罰法」(一六九五年〜)である。カソリック教徒の土地所有率は、一七〇〇年頃にはあっという間に十二〜十三%まで激減した。

 さらに、一七〇四年と一七〇九年の法律によって、カソリック教徒の土地の購入は全面的に禁止された。三十一年以上の借地契約も禁止となった。一七七八年頃になるとカソリック(アイルランド人)の土地の保有率は五%以下となった。

 九十%以上を保有し続けた朝鮮人とはいかに相違していることか。

 また、英国本国の大地主は、アイルランド農民から巨額の地代を「収奪」した。

 しかも、これらの大地主は、これらの収益から一ポンドすら農地の改良や農業技術の研究開発に使用することはなかった。アイルランド小作農は年々貧窮度を強め人間としても堕落していった。農村はいもを主食として、パンすらほとんど食することのない日々であった。一七四〇年〜一年の大飢饉において、餓死者四〇万人に及んだという。あれほどの餓死者を毎年出していた韓国が日本統治下においてはゼロとなったのと対照的である。

 英国は、アイルランドの人々を惨たる農業に縛り付けておくために、また貧困にとどめておくために、農業以外の産業に彼らが活路を求めないよう産業潰しを実行した。一六九九年、アイルランド唯一の成長産業で経済的発展の唯一の望みであった毛織物製品を輸出禁止とした。

 日本の朝鮮統治と英国のアイルランド植民地政策の、もう一つの決定的な相違は、日本は小作人の耕作権を「神聖不可侵」と考えて完全保証したのに対して、アイルランドでは地主は小作人を自由に追放した。一八四九年〜五六年、穀物耕地を牧草地とするため、アイルランドで追放された小作農家戸数は約五万戸(人口二六万人)であった。この追放された小作農家は米国に移住するか餓死した。なお、この追放された小作農家を含み、一八四五〜五三年の八年間のアイルランドの餓死者は六〇万人を超え、海外移住者は一四〇万人以上となった。

 アイルランド人口は、一八四一年の八二〇万人が一九〇一年には四四五万人と半減した。

 朝鮮は日本の統治の下で人口が一三一三万人(一九一〇年末)から、二五五三万人(一九四二年末)に倍増したのと逆である。そればかりか、朝鮮では餓死がなくなった。

 ちなみにアイルランドの自作農・小作農の比率は、一八七〇年で、自作農は全農家の三%でしかなかった。九七%を占める小作農のうち、耕作権の保証された小作農は二十%、六ヶ月前の通知をもって追放される小作農は七七%であった。かくも悲惨なアイルランド小作農を救済する英本国の動きは、ようやく一八八一年頃より始まった。実際に改善され始めたのは、二十世紀に入ってからだった。>

p八二〜八四

 アイルランドについて詳しく説明してくださっているホームページ『エールスクエア』には下記のように説明されている。

http://www.globe.co.jp/information/history/history-2.html

 イギリスが植民地であるアイルランドを併合したのは一八〇〇年であり、<その後一八〇一年から一九二一年まで、アイルランドは独自の議会を持たなかった。アイルランドの議員たちは大半をロンドンで過ごさねばならず、アイルランドを離れてイギリスで暮らす不在地主になり、商工業も急速に衰退した。現在共和国を構成する地域は産業革命もほとんど起こらず、不在地主制の下で貧しい農業経済に甘んじていた。>

 その併合後もイギリスの圧政に苦しんだアイルランド国民は何度も武装蜂起など独立運動がおこっている。

 <ダニエル・オコンネルは1823年、カトリック協会を設立しカトリックに対して完全な自由を求める立憲的な解放連動を展開した。>

<オコンネルはイギリスとの合併を撤廃しようとする運動をおこした。1830年の運動は強硬な鎮圧にあって失敗、1840年再び運動を開始した。アイルランド各地で大規模な集会を組織していた青年アイルランド党の指導者たちによって週刊誌「ネイション」が創刊されるなど運動は盛り上がった。しかし1843年、ダブリン集会が軍隊と大砲で鎮圧され、オコンネルや主要な指導者たちは投獄され、法の枠内での大衆運動というオコンネルのやり方は敗北をきした。>

<アイルランド人による政府を樹立するため1848年に武装蜂起を決行した。

<やがてアメリカに渡ったアイルランド人の移民の間で、イギリスの利益に打撃を与えることによってアイルランドの政治的自由を獲得しようとする革命的秘密結社フィニアン運動(IRB/Irish Republican Brotherhood/1858年)が組織された。ジェイムズ・スティーブンズやジョン・オレアリーをリーダーとするフィニアンは1867年に反乱を計画したが、行動をしめしただけで鎮圧された。>

 そして、姜尚中氏が<「麦の穂をゆらす風」という映画に描かれていますが、アイルランド支配の中でイギリスはちゃんと自由化政策を行っています。>

とホザイている時代(一九二〇年代前後)はどういう時代背景だったのか。

 <1916年4月24日、イースター祝祭週間にアイルランド義勇軍とアイルランド市民軍がダブリンの中央郵便局とその他の13の要所を占領し、臨時大統領としてパトリック・ピアースが『アイルランド共和国宣言』を読みあげた。2万人の英国政府軍に対しておよそ1600人のアイルランド軍は6日間の戦いの後捕えられ、主導者たちは処刑された。しかしその英雄的行為はアイルランド人の愛国心をよびおこし、独立の悲願を世界にむけて訴える結果となった。 略)

 アイルランドの政治的運動は激化し、アイルランド義勇軍やアイルランド共和国軍(IRA)は憲兵や武装警官に対してゲリラ戦を展開した。政府は非情な報復でもってこれに答えた(イギリスーアイルランド戦争)。1918年の総選挙で議席数の4分の3を得て圧勝したシン・フェーン党員は翌1919年ダブリンで一方的に第1回アイルランド国民議会(ドイル)を開催、独立を宣言した。略)

 宣言を認めないイギリスとの間に1919年から1921年まで猛烈な抗争が続いたが、ついに1921年の12月、「英愛(イギリス・アイルランド)条約」に調印し、イギリス連邦自治領としてカナダ、オーストラリアなどの他の英国自治領と同等の憲法上の地位が認められ、26の県がアイルランド自由国として自治権が認められた。>

 このようにイギリスの統治に対するアイルランド人の人々の勇敢な独立運動を戦いますが、かたや、朝鮮人はどのような独立運動を行ったのでしょう。

 ましてや、これも書きましたが、我が国の朝鮮半島統治において、日本人より偉い朝鮮人は山ほどいました。

 朝鮮半島に本土より移民してきた日本人は朝鮮人の郡守、邑長、面長の統治下にあったといってよい。

 アイルランドはそのような統治だったのか。

 確かに、我が国の朝鮮統治は間違っていた。

 ヒトモドキを人間扱いしたことは大きな間違いである。

 あほらし

 今日のかみさんの朝ビールの残骸。

 三井の寿の蔵元である井上専務よりいただいた博多麦酒。

 三名様来店。

 二名様来店。

 Aさん来店。

 ドンチャン。

 気がついたら店で寝てました。

 サル以下。


6月4日水曜日晴れ△

 またアホ朝鮮人がアホなことで騒いでます。

 以下引用

<ヘイトスピーチ根絶へ…要望活動など強化

人権擁護委第1回会議

民団中央本部人権擁護委員会(委員長=李根刀E前宮城県本部団長)の第1回会議が19日、韓国中央会館で開かれた。

人権擁護委員会は、在日同胞を主なターゲットに人種・民族差別を扇動するヘイトスピーチなどの根絶にむけ、対内外にきちんと情報発信をしていくために設置された。

このため、1,在日の人権状況のアピール2,マスコミ、ネット対策の講究3,市民団体との連携および支援の強化4,全国的なネットワークの設置などに努め、在日外国人の人権に関わる法制定を目指し、人種差別撤廃条約で日本が保留している条項の批准を日本政府に働きかける。

この日の会議には、呉公太中央本部団長が担当副団長の呂健二副団長とともに参加。

在日韓国人をはじめとする外国人住民の生命と安全を脅かすヘイトスピーチ・ヘイトクライムが一日も早く根絶されるよう、「人種差別を扇動するヘイトスピーチを禁止し処罰する法律の制定を求める要望書案」などについて検討した。

委員会は、毎月1回定例会議を開き、必要に応じては各種会議、集会などを開催するとともに全国各組織と連携して運動を推進する。

2014.5.28民団新聞

http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=19020

 引用終わり

 朝鮮人の事は批判する事は許さないつうことでしょうか。

 アホかと。

 何度も書いているように、なぜ、在日朝鮮人が嫌われるのか。

 それは、在日朝鮮人自身に原因があるからです。

 日本人は移民した国を「祖国」として、その国の為に尽くす。その国の為に働ける事を誇りにおもい、その「祖国」に殉じる覚悟を持って生きてきました。

 だからこそ、信用もされ、信頼もされる。

 朝鮮人のように、我が国において二世どころか三世、四世になっても、我が国に尽くそうともせず、我が国の為に働こうともせず、我が国の為に殉ずる事もなく、己らの権利だけを主張しているような輩は我が国国民から「寄生虫、ゴミ、クズ」と軽蔑される事はあっては、未来永劫、絶対に尊敬される事はない。

 

 参照→異国で、「朝鮮人らしく」胸を張って生きて行くという事とは

 http://www.tamanegiya.com/tyousenikirutoiukoto21.2.14.html

 在日朝鮮人と他の外国人との差別を一日も早く無くす事が在日朝鮮人どものためにもなる事です。

 浜松よりYさん来店。

 二名様来店。

 ユーさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

6月3日火曜日晴れ△

 二名様来店。

 台北で「常夜灯」というお店をされている張さんが社員旅行で来日中ですが、昨日スタッフ八名を連れて来店してくださいました。

http://ameblo.jp/joeyamakawa/entry-11826763375.html

 

 

 

 張さんのお店では当店の酒の会もさせていただきました。

 

 

 

 一応記憶あり。

 サルよりマシ。

 


6月2日月曜日晴れ△

 先日、産經新聞にあった記事です。

 以下引用

<【きょうの人】

トマ・シルデさん(34)15周年の仏「ジャパンエキスポ」創設

2014.5.27 08:10産經新聞

トマ・シルデさん

「友情の素晴らしさ、日本アニメで学んだ」

 日本のアニメや漫画を愛するフランスの若者3人が手作りで始めたイベントは、今や20万人以上を動員する世界有数の日本文化の祭典に成長した。

 「こんなに長く続けられるとは思っていなかった。大きく発展したことを誇りに思う」。今年で15周年を迎える「ジャパンエキスポ」。ポップカルチャーに限らず、和食や伝統芸能まで多様な日本文化を楽しめるイベントとして定着。日本からもきゃりーぱみゅぱみゅさんら多くのアーティストが参加しており、7月にパリ郊外で開かれる今回は26万人の来場が見込まれる。

 日本との最初の接点は、4歳で始めた柔道。だが、それよりもテレビで見た「ドラゴンボール」「めぞん一刻」といったアニメに夢中になった。「日本のアニメは主人公と年齢が近く、共感できた。特に『ドラゴンボール』は友情や力を合わせて戦うことの素晴らしさを教えてくれた」。アニメで垣間見た日本の日常や学生生活は、自国とまったく異なっており、魅力的に映った。「日本人がフランスのファッションに憧れるのと一緒。フランス人にとっては、今もエキゾチックな国なんです」

 1998年、日本の漫画やアニメを楽しむ同好会で、ともにジャパンエキスポの創設者となる2人の仲間に出会い、2年後に最初のイベントを開催。現在はパリだけでなく、ベルギーや米国でも同様のイベントを手がける。年に数回は来日し、好物のざるそばや日本酒を楽しむ。「日本について知れば知るほど新たな発見がある。グローバル化された日本文化を日本の方にも再発見してほしい」(戸谷真美)>

引用終わり

 この記事では何も触れていないが、南トンスルランド人どもがこのジャパンエキスポに進出し、好き放題やっていることはネットでは有名です。

 ジャパンエキスポに朝鮮人が寄生

http://blog.livedoor.jp/sonkotonews/archives/29208837.html

japan expo ジャパンエキスポの韓国ブースの酷さ

https://www.youtube.com/watch?v=QKcFpizzrco

 もっとも李信恵女史は「K−POPはフランスでも注目を集めているようだ。」と書いていますが、

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0606&f=national_0606_025.shtml

 「たった80人で"欧州でも大人気"?」

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20120124/Cyzo_201201_post_9671.html

 トンスル人どもは我が国の国旗を堂々とてめえらのブースに掲げています。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm18330415

 あれほど嫌っている我が国の名前を冠したイベントなどに出店せずにてめえらで「コリアエキスポ」でもやればいいのに。

 知れば知るほど嫌になる我が国の寄生虫・朝鮮人。

 あほらし

 都立家政の「hajime」さんにてユーさん御夫妻、一歩社長とカミさんとで飯というかドンチャン。

 

 一応記憶あり。

 サルよりマシ。


6月1日日曜日晴れ△

 暑い中カミさんはビールを飲みに埼玉のけやき広場へ。

私は店に行き後片付けをしていたら、「今から台湾の友達を連れて行っていいか』と連絡があり。

台湾のクラフトビール醸造責任者さんなどを交えて残り物を肴にドンチャン。

友人のクラフトビールは金賞、銀賞をとったそう。

気持ちのええ人たちでした。

 

 

 カミさんはその後みなさんとドンチャンの続きのため六本木のお店へ。

 私は後片付け続行。

 サルでもエビでもない。


 

 


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