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西野留美子の嘘
売春婦
平成18年1月9日月曜日晴れ ○ 平成18年1月18日URAに掲載
西野留美子という反日活動家がいます。今はあの松井やより女史の跡をついで一生懸命に反日活動に余念がありません。昨年から戦時売春婦記念館というべき恥ずかしい所の館長を務めています。
この人の「従軍慰安婦のはなし」(明石書店1993年刊)という著書が100円で少し前の古本市で売られていましたのを買ってきてあったので読みました。まあ、この手のアホな本らしく突っ込み所満載でした。
あの有名な朝鮮人売春婦の金学順についての記述はこうです。
以下引用
家は貧しくて、私は四年生まで通っていた普通学校をやめ、子守りや手伝いにいくことになったんだ。
そのうち、金泰元という人の養女になって、十四歳から三年間妓生学校(妓生=古くは歌やおどりなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)に通ったけれど、十七歳になった春だったかね。『お金がもうかる』といわれて、一歳年上の女性といっしょに養父に連れられて中国にいったのさ。
平城から三日間軍用列車に乗り、それから何度も列車を乗りかえてね。中国北部の『鉄壁鎮』という小さな部落に着いて、養父とはそこで別れたんだよ。
それから私たちは日本軍の将校に連れられて、中国人の家に案内された。そして部屋に入るなり、いきなりカギをかけられてしまったんだ。
となりの部屋にはすでに、私と同じ朝鮮人の女性が三人とじこめられていたよ。
そのとき私は『しまった』とおもったけれどもうおそく、逃げ出すことはできなかった。p32〜33
以上引用終わり
この金学順など朝鮮人戦時売春婦の証言については、湊郁彦氏が著書「昭和史の謎を追う」(文春文庫)、杉本幹夫氏の著書「植民地朝鮮の研究」(展転社)など数々のみなさんがそのウソについて指摘しています。
韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編『証言集 強制連行で連れて行かれた朝鮮人慰安婦達』(一九九三年発行)には四十人の聞き取り調査がなされていたが、その内二一人が前後でつじつまが合わなかったり、混乱していたりで、証言として収録されなかった。残り十九人のうち十五人が貧しさによる人身売買のケースであった。そして残り四人のうち二人はそれぞれ富山と釜山の従軍慰安所で働いているとなっていたが、富山はもちろん当時我国であった朝鮮の都市である釜山にわざわざ軍が強制連行してまで、いわゆる従軍慰安所を作る必要などないわけです。我国には当時は合法的に営まれている多数の売春宿はあったわけです。
のこりの二人、この金学順と文玉珠ですが、金学順は訴状(全文は平林久枝編『強制連行と従軍慰安婦』日本図書センター一九九二年刊収録)では「一九二三年生まれ。金泰元の養女となり、貧しさのため十四歳で四十円で養父に妓生として売られ、妓生学校で踊りなどを仕込まれた後、養父に連れられ、北支のカッカ県鉄壁鎮に行き慰安婦になった。朝鮮人の男と上海に逃げて夫婦となり、終戦まで質屋をやり帰国」としているのに対し、証言集では「養父に連れられて北京に行き、市内の食堂で昼食を取っていた時、日本軍将校に襲われ、連行された」となっています。
文玉珠は訴状では「一九二四年貧家に生まれ、女中をしている時、宋という朝鮮人から『食堂で働かないか』と誘われ、四二年釜山から船でビルマに渡った。慰安婦として働いて、ためた一万五千円のうち五千円を実家に送った。日本軍下士官を刺殺したが、軍法会議で正当防衛と認められ、無罪になった。四五年末帰郷」と書いているが、証言集では「友達の所へ遊びに行った帰り、日本の軍服を着て、長い刀を差した男に拉致され、約一年、中国東北の逃安城で慰安婦をさせられた。その後帰国し、一年ほど女中をしていた時、友人から『お金を沢山くれる食堂があるので一緒に行かない?』と誘われビルマに行った」と書いている。ところが九六年梨の木社から出版された『ビルマ戦線楯師団?慰安婦だった私』では「妓生出身だった」と書いているのである。
要するに誰一人強制連行されたことを立証できた人はいなかったのである。
更に文玉珠は戦前の日本円で二万六千円の多額の貯金を持っていたことが明らかになった。一九九二年五月十二日の毎日新聞に、文玉珠の預金通帳についての記事が載っている。その通帳によれば、一九四一二年から一九四五年の間十二回振り込みがあり、その預金残高は二万六一四五円に上っている。これは今の金額にすると数千万円に相当する。当時日本軍の陸軍大将の年俸は六千六百円だった。従って文玉珠は陸軍大将の約二倍稼いでいたことになる。
また元海軍中佐重村実は彼女らの前借金が四千円から五千円であったと言っている。そして彼女らはこの前借金を三カ月から半年で返し、平均的な貯蓄額は五〜六千円から一万円持っていたと言っている。その中には三万円も持っている人も居て、皆驚いていた。アメリカの反撃が予想以上に早く、彼女らの中には爆撃で死んだ人も居た。また前借金の返済が終わったにもかかわらず、船がなくて帰ることが出来ず、前線で亡くなった人も居る。しかし終戦と共に彼女らの大半は日本に帰った。千田夏光の『従軍慰安婦正篇』には一九三七年(昭和12年)位の話として、内地にて前借金千円で集めたとしている。そして彼女らは遅くても数カ月で借金を帰し、自由の身になったが誰もこの商売を止めなかったと書いている。
以上参考引用
植民地朝鮮の研究 (P114〜116)
昭和史の謎を追う 下(p508〜509)
ちなみに、2万6千円とは、当時では家が数件も買えた金額だそうで、これが、虐待されたと騒いでいる朝鮮人自称慰安婦の実態です。何度も書きますが、この朝鮮人たちは売春婦だっただけなのです。
土地調査
1月11日水曜日晴れ ××× S
この反日日本女性の嘘については多くありますが、「従軍慰安婦のはなし」(明石書店1993年刊)の文章を見れば分かるように、子供向けに書かれていることが余計に許せません。
その嘘のひとつは多くの朝鮮人と同じく土地調査に関してです。
以下引用
支配するというのは、じっさいどういうことだったのでしょうか。
まず手はじめに、土地調査(一九一〇年から十八年にかけて行われた土地の所有にかんする調査。自分の土地であることを申告させ、申告がない場合は国有地とされた)が行われました。自分の土地であると申し出る手続きがふくざつだったこともあり、たくさんの田畑が農民からうばわれました。
そのころ朝鮮の人びとのほとんどが農民でした。農民の八割近くが自分の田畑を失い、日本人の小作人ととなって小作料をおさめなければならなくなりました。生活は苦しくなる一方で、たくさんの人びとが仕事を求めて、寒さの厳しいシベリヤや中国東北地方に移り住むようになりました。また、仕事を求めて日本にわたった人びともいました。
引用終わり p66
土地調査の嘘についてはすでに書いてありますので、重複はなるべく避けたいと思いますが、まず、最初に考えなければならないのは我国と併合する前の朝鮮の農民と農業についてです。
そんなに裕福だったのでしょうか。
李朝時代の朝鮮では、技術的に米作が極めて不安定、不確実なために、資本投下をしない地力のみに頼る略奪農法ともいえるものをやり、気象条件に頼り切っていました。「朝鮮農業発達史」の発達編(友邦協会)によれば、李朝時代に直接農作物の作況と関係のあった記録では、干ばつ四八二年間に八九回(うち五一回が被害の甚大な旱害)、水害三三九年間に二四回、霜害三五四年間に二十二回、雹害四七四年間に十八回となっています。(二ページ)
三月から六月までは食料が不足する春窮期であった。当時の人口の八割は農民でしたが、朝鮮総人口の約六割が山野で草根樹皮を採集して生命をつなぐという状態でした。
そのうえ、両班と官吏に食い物にされて、慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいました。
そのような農民でしたが、我国の土地調査により、長年自分のものとして耕作してきた農地が両班のものとなり自作農が小作農に転落するケースもありましたが、それは朝鮮人の問題であり、日本は一坪の土地も得ていません。国有地となった朝鮮総督府が管理することとなった農地の小作人の耕作権は百パーセント保障されました。そのために農地を追われた朝鮮人はひとりもいません。
これはすでに土地問題に記していることです。
朝鮮統治時代の教育
1月13日金曜日くもりのち雨 ×
西野瑠美子の嘘の続きです。
以下引用
そんな中で、「朝鮮教育令」(一九一一年公布。朝鮮人を「忠良なる国民」にすることを目的とした)という法律が作られました。自分の国である朝鮮の歴史や地理を教えてもらうことができなくなったのです。また「国語」は、自分の国のことばである朝鮮語ではなく、日本語になったのです。学校でも子どもたちに日本語を使うことが強制されました。
引用終わりp67〜8
まあ、よくもこれだけ酷い嘘を平気でつけるもんです。
そもそも、我国に併合される前に朝鮮にはほとんど小学校すらありませんでした。
南朝鮮の国定教科書の訳本である「入門韓国の歴史」明石書店 P305にも下記のような嘘が書いてあります。
「一九〇五年以後、普成、養正などはじめ数多くの学校が建てられ、一九一〇年頃には全国の学校数が五〇〇〇余となった」
これは朝鮮の得意とする大嘘です。
我国の近代小学校第一号は京都に明治維新一年後の一八六九年にでき、それより遅れること二六年後、当時の「大韓帝国」政府が一八九五年に国立(朝鮮では官立というそうです)の四校(壮洞、卓洞、桂洞、紬洞)を開校。入学者数はそれぞれ二三名、七六名、四〇名、四八名の合計一八七名です。
そして、日本から学部(日本の文部省にあたる)顧問として一九〇〇年に渡韓していた弊原垣(のちの東京帝国大学教授、台北帝国大学総長)が一九〇五年二月に学部の「学政参与官」となったとき、日本の「朝鮮教育代行」という、朝鮮のための日本の国家事業が始まりました。そして、弊原案の「普通学校令」が一九〇六年八月公布。一九〇五年一一月に我国の保護国となり、日本の総督府が翌年二月設置されたためにこの「普通学校令」は我国により推進されることになった。
総督府は学校を可能な限り大規模に朝鮮全土に設置する方針を定め、日本が持参した一九〇六〜八年の三カ年で五四万円が普通学校の新築、改築の費用の中核的な予算として投入された。(当然、大韓帝国は不返済)この予算で、官立九校(すべて当時の首都の漢城)のほか、各道の主要都市での公立五〇校がまず整備された。
教科書は、一九〇八年八月末までに、修身、国語(ハングル)、漢文、日語(日本語)などがつくられ出版された。朝鮮の教育を我が国が我が国の人材と財力によりおこなったのです。
そもそも、それまで、自国である朝鮮の歴史など学んでいませんでした。その事大主義により支那の歴史を一生懸命学んでいました。日本において在日朝鮮人が店名にまで使っている朝鮮人あこがれの両班の科挙の試験の方法はどのように行われていたのでしょう。宗主国支那への崇拝思想がきわめて強いために、漢字を使い「四書五経」を学び、朝鮮史ではなく支那史を学ぶことが教養とされていました。ダレ神父の「朝鮮事情」の中に書かれている下記の文章がそれをよく表している。
「中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において二つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問はまったく民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体制は中国のものである。
写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは当然の帰結である。
これよりもっと大きな差違は、朝鮮では自らの特権に過度に執着し、特権維持のために絶対権力を発揮する多くの両班が、国王と人民の間に存続していることである」(p131)
世宗がせっかく創ったハングルですが、暴君といわれる第十代の燕山君により正音庁(諺文庁)などに所蔵してあった諺文口訣がことごとく焼き払われてしまいました。それだけでなく、一五〇四年には、ハングルの教授と学習を禁止し、学問の府であった成均館が遊蕩の場とされてしまいました。次代の中宗は一五〇六年、即位するとすぐ諺文庁まで閉鎖してしまい、ハングルは完全に廃止されました。
ハングルは我が国が朝鮮を併合する事により普及したのです。
西野留美子が歪めて書いている朝鮮教育令により実際は我国が朝鮮においてどのような教育をしたか。日韓併合の一九一〇年から一九三七年(昭和十二年)頃まで、国語である日本語と共に朝鮮語も学校で必修科目として教えていました。それによってハングルは朝鮮に普及したのです。総督府に朝鮮の固有の文化を尊重しようという姿勢があったためです。はじめての本格的な朝鮮語辞典は総督府が明治45年に編纂に着手し、大正九年に刊行、「朝鮮語奨励規定」を大正十年に設けて日本人官吏に朝鮮語の習得を奨励しています。帝国大学である京城大学に大正十三年に法文学部には朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の講座を開設したりまでしています。大東亜戦争中もこれらの講座には何も制限が加えられていません。
大東亜戦争中に「国語(日本語)常用運動」が開始され朝鮮教育令の改正により内鮮一体の見地から朝鮮語(ハングル)を正課(必修科目)から外し、朝鮮語の授業を行うか行わないかの判断を各学校の校長に一任しました。
逆にいえば、それまで必修科目として朝鮮語が教えられて来ていたのです。
百歩ゆずって、併合、あるいは植民地として統治された国がその宗主国の言葉を覚えるのは当たり前のことでしょう。もし、我国が清、ロシアに負けていれば、支那語、ロシア語を覚えさせられたでしょう。