薫空挺隊(台湾・高砂族特攻隊)

<薫空挺隊(台湾・高砂族特攻隊)>

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


薫空挺隊
平成26年11月18日 平成28年4月26日一部追加
大東亜戦争において我が国の為に戦い散華されたのは日本民族だけではない。当時、併合していた朝鮮半島の朝鮮人、植民地であった台湾の台湾人。
散華された方々は神として靖國神社に祀られています。
これらの方々は我が国にとり間違いなく護国の英雄です。
その台湾人特攻隊として有名な薫空挺隊についてです。
台湾高砂族義勇隊について
高砂族挺身報国隊
昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が勃発すると、台湾軍はバシー海峡を越えて、ルソン島に進攻しました。この時高砂族に対し軍需品の輸送に従事する軍夫を募集した処、約五千人の応募者がありました。この中から五百名を選んで「高砂族挺身報国隊」を編成しました。昭和十七年三月二十二日この隊は高雄よりルソン島に向かいコレヒドール要塞戦、バターン半島作戦に従事しました。昭和十七年九月二十九日、比島派遣軍司令官田中静壱中将の賞状には高砂挺身報国隊と誌されています。しかしこの報国隊は最南部のパイワン族百名を残し、約四百名は台湾に凱旋しました。
残った百名は、昭和十七年七月ミンダナオ島ダバオに移住したのち、独立工兵第十五聯隊に配属され、七月二十一日ニューギニア北岸のバサボアに上陸し、オーエンスタンレー山脈を越えて陸路ポートモレスビーに向かい、南海支隊の先鋒を務めました。
昭和十八年五月十五日、ニューギニア方面陸軍最高司令官名(氏名なし)の賞詞には、宛名が第一次高砂義勇隊となっていて、昭和十七年二月、南海支隊に配属されて、ニューギニアに上陸以来、一時はポートモレスビーに迫ったが、後にニューギニア北岸で行われた戦闘に抜群の功績を挙げたと誌されています。
高砂義勇隊はその後第八回迄募集され、主としてニューギニアで善戦して終戦を迎えました。

陸軍特別志願兵
昭和十八年十月十五日高砂青年五百名を、始めから特別志願兵として徴募し、訓練を施しました。この中には第一回高砂挺身隊員も多数含まれていました。
昭和十九年三月、高雄発マニラへ。後第二遊撃隊として、モロタイ島へ、他の一隊は第一遊撃隊として末期のレイテ戦線に薫空挺隊として投入され、全員散華して一人の生還者もいません。>
あけぼの会(代表門脇朝秀氏)作成のパンフレットより
私は「特攻 四五号」田中賢一氏の文章より引用
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薫空挺隊は高砂族が大部分を占める特攻隊として有名ですが、以下の「薫空挺隊始末記」はあけぼの会(代表門脇朝秀氏)が高砂族日本兵及び御遺族十名を招待し、平地人でかって日本軍の一員だった方も加わり、一行二十一名が平成十二年四月三日より七日まで滞在した折に、五日に強い希望により靖國神社に参拝し、その後九段会館で懇親会があったが、田中賢一氏(陸士五十二期)が「薫空挺隊始末記」を書いて主催者の一人である植田弘氏(陸士五十七期)を介し台湾の皆さんに贈呈したものを会誌「特攻」に掲載したものです。
以下、引用先に断りがない限り田中氏の「薫空挺隊始末記」よりの引用です。
<薫空挺隊の特異性
今次対戦中に存在した日本の空挺部隊は、陸海軍別個に持っていたが、何れも正規の編成部隊だった。海軍が持っていたのは落下傘部隊であり、進行作戦にあたり、十七年一月十一日にセレベス島のメナドに、ついで二月二十日にチモール島クーパンに、それぞれ落下傘降下作戦を行った。陸軍は初めは落下傘部隊だけで、十七年二月十四日にスマトラ島のバレンバンに降下作戦を行った。十八年の後半になると、編成部隊の比重は落下傘部隊よりもグライダー部隊の方へ移っていった。
ところが薫空挺隊は編成部隊ではない。当時第十四方面軍に所属していた遊撃第一中隊の一部と、第四航空軍に属する飛行第二百八戦隊の一部を組み合わせて現地で編成した部隊であり、落下傘降下の能力は持っていなかった。
もう一つの特色は、遊撃第一中隊の兵の大半は台湾の高砂族だったので、薫空挺隊も主体は高砂族の兵士だった。

遊撃中隊の編成と出動
十七年末から十八年にかけてガダルカナルで敗れ、ニューギニアで敗退を続けている時、南方のジャングル内で遊撃戦を行う専門部隊を正式に編成することになった。
昭和十八年十二月二十四日、台湾軍は、遊撃第一中隊、同第二中隊の編成を命ぜられた。
この第一中隊の一部が後に「薫空挺隊」となるのだが、両中隊とも総人員百九十二名、兵の人数は百五十二名だった。その百五十二名の兵のうち、通信、衛生の特技者を除き、台湾の高砂族をもって充てた。従って高砂族の兵は一個中隊に百四十人ほどいたと思われる。
略)
(高砂族は)台湾でも山の中で首領や原始的農業に従事しているので、ジャングル内の行動に長じていた。
それに部族ごとの抗争を事とした先祖の血を受け、尚武の気性に富み、ジャングル内の遊撃戦兵士として、うってつけの素質を持っていた。
そのようなことから、陸軍では高砂族を主体にしたジャングル内専門の遊撃部隊を作る事になった。先にも述べた通り、将校、下士官と通信手や衛生兵は内地人をもって充てた。しかも将校、下士官の大部は、陸軍中野学校で遊撃戦を専攻してきた者だった。
台北の台湾歩兵大一聯隊の補充隊で、部隊を編制し、湖口の演習場で訓練に励んでいたが、十九年五月戦場に出る事になった。
五月二十八日高雄出港、このとき第二方面軍の令下に入った。第二方面軍は西部ニューギニア以西、フィリッピンとインドネシアの間にある地域を作戦区域としていた。
大本営では、初めニューギニアで両中隊を使う考だったが、この頃は既に、焦点はビアク島から更にモロタイ島、ハルマエラ島に移ろうとしていた。
両中隊は六月二日にマニラに上陸したが、第二中隊は間もなくハルマエラ島に移り、大地中隊はルソン島に残った。第二中隊は九月から、モロタイ島で大活躍する。
ルソン島にノッこった第一中隊は、リパで訓練していた。この頃初代隊長の神田少佐が病で倒れ、中隊付の尾山大尉(陸士五十二期)が隊長となった。
略)
第四空軍では遊撃第一中隊の一部を、飛行第二百八戦隊の零式輸送機(DC-三)に乗せ、ブラウェン(南北)両飛行場に対し教区着陸攻撃を実施させることにした。
この命令が出されたのは、十一月二十二日で部隊名を「薫空挺隊」、作戦名を「義号作戦」と呼んだ。>

訓練
薫空挺隊の訓練について同盟通信記者であった大森建道氏の著書「比島従軍記」よりの引用として(私は田中氏の「薫空挺隊始末記」より)
<薫空挺隊はリパ飛行場から奥に入った、ニッパヤシで葺いた粗末な二軒の小屋で全員ひっそりと合宿していた。
早速隊長に会ったが、最初は「ここがよくわかりましたね」といって驚いていたが、当方の目的を知ると全将校を集めて詳しく話してくれた。
略)
訓練については到着以来毎晩休むことなくやっているという。各小隊の兵十二名、四小隊合わせて四十八名の兵は台湾高砂族の出身で、昨十八年来台湾の嘉義で特別志願の青年六十名ほどによる特殊訓練をほどこし、夜間でも目がよく見えるという。さらに普段からの山岳生活で敏捷な身体を特別に訓練した結果、五メートルぐらいまで飛び上がったり降りたりが自由にできるようになったので、そこから優秀な四十八名を選抜して連れてきたという。
そして、「今夜その訓練をするから、ぜひ見学していって欲しい」ということであった。
全員は夕刻、六時過ぎに食事をすませて休憩後、早速地図を広げて、隊長を中心に幹部が集合して作戦の検討を始めた。そして、あたりが真っ暗になった夜九時頃から厳しい訓練が始まった。箕浦君の撮影するカメラのフラッシュが時折光るぐらいで、あとは空一面の星空、わずかに三日月がジャングルに淡い光を投げかけているだけだ。
訓練は敵飛行場に強行着陸した飛行機から、転げ落ちるように飛び出して敵機に爆雷を仕掛けることを主眼に、曲芸のようなこの転げ落ち方(跳降という)の練習をまずやる。
ついで将校、下士官は日本刀、兵は蛮刀(義勇刀という)を振るっての突撃訓練。将兵がかぶっている鉄帽の星のマークのところに夜光塗料が塗ってあって、それを遠くから見ているとジャングルの中を無数の蛍が乱舞するようで、なんとも悲壮感の溢れる美しさ。
軍服は全員草色で、隊長と三人の小隊長は白ダスキを十文字に、下士官は肩から斜めに同じく白ダスキをかけ、兵は腕章をし、義勇刀(蛮刀)を背負っていた。
やがて訓練は夜十一時過ぎに終了した。全員ただちにニッパヤシの小屋に戻り、自分も箕浦君とともに隊長らと握り飯に味噌汁の夜食をすませ、そのあと恩賜の酒「菊正」で杯を交わし成功を祈る。ここで桐村中尉ら輸送隊の将兵たちが最後に低い声で合唱した「男なら」の次の一節が、粗末なベッドに身を横たえても中々耳を離れない。

男なら 男なら 未練のこすな浮世のことに
死ぬが男の意気地じゃないか
抱いた爆弾体当たり 男ならやってみな

略)

薫部隊の壮途を見送る
十一月二十六日
略)
自分らは午後から空襲の隙を見て「薫部隊」宿舎を訪れ、写真を撮ったり取材したりしたが、兵士らは予想される今夜の出撃に備えて横になっている人が多かった。自分は中重男隊長の部屋で作戦と全く関係のない話をした。隊長の机には「文藝春秋」が一冊置かれ、横光利一の「旅愁」のところにしおりがはさまれていた。少し前の号だから、中尉が内地から持って来たものだろう。「こういうものがお好きですか」と聞くと、中尉は「ええ、まだ未完のままなので、生きていたら最後まで読めるのに、それができず残念です」とつぶやくように言って、恥ずかしそうに微笑した。その顔を見て、本当によい顔だなァとしみじみ思った。
そして、こんな立派な若者をむざむざ殺す戦争の冷酷さを思った。
夕食後「薫部隊」は服装を改めた後、全員で壮途の成功を祈って乾杯した。
船員が爆発缶一キロと破甲爆雷六七十グラムを携行、それに軽機関銃という身軽な服装である。携行食料は乾パン、コーヒー、ビスケット、バター、コンビーフなどの三日分である。>
薫空挺隊の訓練について同盟通信記者であった大森建道氏の著書「比島従軍記」よりの引用として(私は田中氏の「薫空挺隊始末記」より)

薫空挺隊猛訓練
 
薫空挺隊の兵士故郷台湾から運んできた豚や鶏を陣中で飼育。

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薫空挺隊の編成
薫空挺隊の編成については、多くの方が不明とか「半分が高砂族だった薫空挺隊」(「朝鮮人特攻隊」P百)「薫空挺隊の隊員約八十人の大半が、台湾先住民、高砂族で構成されていた」(P百二)とか書いてあったが、薫空挺隊の編成を田中賢一氏は丹念に調べられてまとめてくださっています。

指揮官 中勇男中尉(陸士五十五期)
第一小隊
小隊長  中勇男中尉(陸士五十五期)兼務
甲斐将夫曹長
清水敏次伍長
石川正信上等兵
岡野弘 上等兵
山下登 上等兵
藤野秀夫上等兵
宮崎一郎上等兵
西村秀夫上等兵
西山義一上等兵
河井東男上等兵
徳永正利上等兵
本多純一上等兵
西村照秋上等兵
上田初喜上等兵
第二小隊
小隊長 須永富蔵少尉
石田歳徳曹長
八木橋俊曹長
森田実 上等兵
稲田茂 上等兵
池田三郎上等兵
井手敏 上等兵
草田良夫上等兵
有村※ 上等兵
結城文男上等兵
前田隆男上等兵
栗原二男上等兵
東山晴夫上等兵
津村重行上等兵
田村幸吉上等兵

第三小隊
小隊長 川原英雄 少尉
浜田新 軍曹
金原庚鎮軍曹
石川正義上等兵
大橋要英上等兵
高橋金三郎上等兵
伊藤秀雄上等兵
矢野秀雄上等兵
菊田光治上等兵
永野賢龍上等兵
田中幸徳上等兵
金川見洙上等兵
瀬ノ口信男上等兵
金重信男上等兵
三浦豊之上等兵

第四小隊
小隊長 加来隆少尉
木下敏一軍曹
中村寛 軍曹
藤川光三上等兵
甲斐亘 上等兵
久川勝康上等兵
石井誠 上等兵
齋藤新三郎上等兵
石建美水上等兵
小野寺清一郎上等兵
実田健吉上等兵
林吉則 上等兵
手島進 上等兵
青木達一上等兵
保浦久良上等兵

飛行部隊
編隊長 桐村弘三中尉(小候二十二期)
一番機 桐村弘三中尉(小候二十二期)
田中正澄軍曹(小飛十期)
二番機 五藤武準尉 (昭九)
北 史 軍曹(仙七)
三番機 大沢正弘中尉(陸士五十六期)
塚田弘治曹長(小飛五期)
四番機 寺島近馬準尉(昭十)
高木弘 軍曹(小飛七)

各上等兵は全員高砂族出身
※については、靖國神社御祭神名簿に有村晴夫と有村繁敏の二名があり、どちらが薫空挺隊に入ったか不明。

これによって、薫空挺隊は隊長、下士官計十二名中十一名と飛行部隊八名が日本人。朝鮮人一名。隊員四十八名高砂族 合計六十八名の構成とわかります。
以上、「特攻 第四十五号」(平成十二年十一月)
ルソン島ルバ飛行場の宿舎 出撃前のひととき 右が中重男隊長
 
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薫空挺隊決行
<義号作戦は、二十六日に決行された。
中重夫(重男?)中尉以下四十数名の薫空挺隊は、第二百八戦隊桐村浩三中尉以下八名の操縦する輸送機四機に搭乗、夜間リパを離陸、ブラウェンに向かった。
月齢は十日である。零時頃ブラウェンに着陸する計画だったが、その後の行動は不明な点が多い。
一機はバレンシャに不時着し、搭乗員は、第二十六師団と行動を共にしたことは確かだ。
零時過ぎ頃、オルモックの軍司令部から東方の山系を望むと、盛んに火の手が上がるのが見えたというし、一時過ぎ、ブラウェン上空に我が偵察機が侵入したが、いつもの激しい対空砲火はなかったという。
これだけの微行では、ブラウェン飛行場に着陸成功し、戦果を挙げたと断定する事は出来ない。
米軍の記録によれば、ドラック海岸付近に二機着陸し、乗員が闇の中に消えて行ったという。多分これが、脊陵山脈を越えた三機のうちの二機であろう。
その人々がどのような活躍をしたのか、残念ながら詳かではない。
敵飛行場を襲撃した後、ダカミ付近に潜行し、第十六師団に合流するよう命ぜられていた。ジャングル内の行動に長じていた高砂族の兵だったから、何人かはダガミまで辿り着いたのかも知れない。第十六師団は、義号作戦から十日後にブラウェン北飛行場に突入した。そのとき高千穂部隊が飛行場に降下し、一〇〇人以上の者が第十六師団に合流しているが、この人々の最後も明らかではないほどだから、二、三十名の最後は知るすべも無い。
それほど、レイテで戦った部隊の末路は悲惨だった。
最後は全員戦死だとしても、どんな活躍をしたのか、_____当時のフィリピン駐在村田大使の日記が、「村田省蔵遺稿比島日記」と題し出版されている。これをみると、十一月十三日に寺内元帥を訪問した時、航空特攻や人間魚雷と並んで、この高砂兵の部隊の事が話題に出たように書いてある。
必要があれば爆薬を背負い敵中に突入するのだと。
これほどの意気込みを持った部隊だったから、唯では死ななかっただろうと思うだけである。>
津村重行上等兵

薫空挺隊最後の記念撮影


中重男中尉
加来少尉

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薫空挺隊の朝鮮人軍曹
高砂族が大部分を占める特攻隊として有名な薫空挺隊に朝鮮人軍人がいる事を知ったのは「朝鮮人特攻隊」を読んだ時です。

<今回の特攻空挺隊の初陣に当って特記すべきは、半島ならびに本島出身者の勇士がたくさん混じっていることである。大東亜戦争勃発以来、東亜諸民族の結束が愈々昂揚されてきているが、この皇民化されたる半島ならびに本島出身者勇士の参加によって決行された内鮮台一体の決死斬込隊こそ、大東亜諸民族の中核たる我ら一億同胞の鉄火の決意を最も端的に表すものである>
昭和十九年十二月三日付朝日新聞(私は「朝鮮人特攻隊」p百一

この記事に出てくる朝鮮人特攻隊の氏名は、
金原庚鎮(かねはらこうちん)軍曹 軍歴不明 慶道北道尚州郡出身。
貧しい小作農出身で、父親は訪ねてきた記者に対して、たどたどしい日本語で、
「あれがほんとうにそんな立派な働きをしてくれましたか。もしそうなら、これで本当に世間様へ顔向けができます」
と答えたそうである。
(「京城日報」昭和十九年十二月五日付)(私は「朝鮮人特攻隊」p百四~百五

公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会会報「特攻 第四十五号」(平成十二年十一月)には金原庚鎮軍曹は第三小隊の下士官として十二名の高砂族上等兵とともに散華された事が記されています。

追記

http://www.taiwancon.com/15108/近代歷史-最強悍的叢林戰士-台灣高砂軍.htm

20121230145048 0650239lw
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065025Sow 065026ZJT
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http://www.taiwancon.com/15108/近代歷史-最強悍的叢林戰士-台灣高砂軍.htm
引用、参考文献
「朝鮮人特攻隊」※淵弘(ぺ ヨンホン)著
「写真集 特別攻撃隊」図書刊行会 昭和五十五年刊
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」毎日新聞昭和五十四年刊
公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会会報「特攻 第四十五号」
http://www.taiwancon.com/15108/近代歷史-最強悍的叢林戰士-台灣高砂軍.htm
第二次世界大戰 太平洋戰爭 台灣軍 ‧ 大和魂