今田真人というアホの著書「吉田証言は生きている」の違和感 吉田清治
今田真人の著書「吉田証言は生きている」の違和感その一
平成27年8月5日水曜日晴れ✖️
今田真人
<(略歴)
1955年8月 広島市生まれ。
1980年3月 名古屋大学文学部史学科(西洋史専攻)卒業。
1980年4月 全国紙の新聞記者になる。政経部、社会部、経済部などの各部の第一線の記者を歴任。
2011年5月31日 同上の記者を55歳で退職。
2011年6月1日 フリーの経済ジャーナリストとして活動を始める。
専門分野
経済の各分野。とくに国際経済や外国為替、貿易、金融、財政、税制、企業会計など。社会分野では、貧困問題や非正規雇用問題、路上生活者と生活保護問題、汚染米や輸入食品の安全問題など。
〈主な論文〉
①「アジア通貨危機の本当の原因は何か――『タイ中央銀行調査報告書』についての考察」(『前衛』2000年4月号所収)
②「日本資本主義発達史と三回の『デフレ』現象」(新日本出版社『経済』2002年10月号所収)
③「日本の産業空洞化と為替調整――『人民元・円問題』を中心に」(新日本出版社『経済』2003年7月号所収)
〈主な著書〉
①2012年2月、『円高と円安の経済学――産業空洞化の隠された原因に迫る』(かもがわ出版)を発行。
②2015年4月、『緊急出版・吉田証言は生きている――慰安婦狩りを命がけで告発!初公開の赤旗インタビュー』(共栄書房)を発行。>
以上今田氏のホームページより
今田氏の著書『緊急出版・吉田証言は生きている――慰安婦狩りを命がけで告発!初公開の赤旗インタビュー』には
<かって吉田氏を直接取材したジャーナリストの一人として、私には吉田証言がどうしても、嘘だとは思えないからだ。>
①p六
<吉田証言の信憑性は慎重に、かつ組織的に検討され、信頼できるものという判断があったことは間違いない。
当時、吉田氏をめぐっては、日本の侵略戦争の事実を否定することに躍起になっていた右翼タカ派の論客達が、吉田氏のプライバシーまで徹底的に暴いて攻撃した。
略)
その内容は、済州島での慰安婦狩り証言の真偽の検証というよりも、日本共産党への偏見を利用し、吉田氏の人格を貶めるものだった。
例えば、吉田氏が戦後直後、山口県の下関市議選に日本共産党公認で立候補したことをあげへつらい、「元・共産党員、吉田清治氏の従軍慰安婦狩り証言は、真実か。その証言を検証しつつ、その『偽証』実態を明確にする」(雑誌『自由』九十二年九月号所収の上杉千年論文「総括・従軍慰安婦狩りの『作り話』)といった共産党への偏見と憎悪を煽るような文章であった。
私を含め当時の赤旗記者は「産経新聞なんて信用できない」とほとんど相手にしなかった。
略)>
①P九十八〜九十九
<吉田氏は生前、九十二年に突如として始まった産経新聞などによる「吉田証言は虚偽だ」とする攻撃に、朝日新聞などのメディアの取材では、今回の赤旗取材を除き、一切反論しなかった。それは当時の時代状況が、吉田証言を事実上裏付ける勢だったからでもある。
この構図は、今でも変わっていない。公文書の発掘でいえば、当時よりも現在の方がむしろ吉田証言を事実上、広い意味で裏付けるものが多く出ている。
少なくなっているのは、加害者や被害者、つまり当事者である。吉田氏も二〇〇〇年七月に死去し、「慰安婦」被害者の女性も次々と他界している。安倍政権を震源とする今回の吉田証言否定の動きは、そういった当事者の相次ぐ死去につけ込んだ卑劣な策動と思えてならない。
今回発表の吉田証言には、産経新聞などの攻撃に反論する新たな事実もいくつか盛り込まれている。当時、私はこの事実を記事にしなかった。裏付けが取れないだけで吉田氏を「詐欺師」とし、その証言を「虚構」だとレッテルを貼る秦郁彦氏や産経新聞などの批判の手法は、あまりにも低劣で非論理的であり、反論する価値もないと思ったからである。
しかし、現在ではそうは言っておれない。吉田証言のインタビュー資料全文を公表するのは息を吹き返したかに見える産経新聞らの卑劣な攻撃に徹底的に反論するためである。>
①P〜百二〜百三
と書く。
この今田真人氏の著書の内容についての違和感はなんだろうと思っていたのですが、すぐに判りました。
今田氏は吉田清治の証言に対して検証というものをしていないというかしたつもりになっている自己満足の典型です。
なにしろ、<「裏付け得られず虚偽と判断」という認識論は大きな誤り>として、
<裏取りとは、それができなければ、その証言が嘘になるという性質のものでもない。矛盾した証言が別の当事者から出たら、今度は、どちらが正しいかを検討し、必要なら、さらに別の当事者を探す。それが真実を追求するジャーナリストの取材方法である。
だから、済州島に行って慰安婦狩りの裏付け証言が得られなかったということは吉田証言が嘘という証明に全くならない。
もし、住民の中に「(そんなことは)聞いたこともない」という人だけでなく(当事者でなければ、聞いたこともない住民が圧倒的に多いのは当たり前だ)、「そのようなことはない」と言い切る住民がいたらどうなるか。十四年十二月二十二日発表の朝日新聞社第三者委員会の報告書(三十一頁)には、そう言い切った老人がいたというが、それなら今度はなぜ、そう言い切れるのか、その人の経歴を調べ、その証言の信憑性を調べなければならない。
朝日の検証は、約四十人の住民に取材して「(慰安婦狩りは)聞いたこともない」という人がほとんどだったというものだ。これでは吉田証言を虚偽と証明していることにはならないだろう。なぜなら、今後、一人でも「慰安婦狩りがあったことを知っている」という関係者が出て来れば、「虚偽」だとする検証結果は全てひっくり返るからである。その可能性は依然として存在する。朝日の検証は、認識的にいって、実に危うい。>
①p百五〜百六
と書いているが、真実を追求するジャーナリストの取材方法であるという今田氏自身がその吉田証言の裏付けとなる取材を全くしていない。あるのは吉田清治の証言のみである。
つまり、朝鮮人戦時売春婦ババアが言ったのだから事実であるとほざいている気違いどもと同じである。
だから、吉田証言?の「分析と解説」とほざいて下記のような戯けたことも平気(わざと?)で書く。
<第一は、植民地朝鮮の人々は、終戦二、三年前から、男も女も老いも若きも軍用産業などの戦争遂行の労働力として徹底的に徴用されていた。このため、植民地朝鮮も深刻な人手不足になり、慰安婦にするための若い女性も、最終的に強制連行していた男性と同様、強制連行するほかなかったということだ。
「(昭和)十七年以降、つまり真珠湾攻撃があってアジア全域を占領した時の労務者不足と、慰安婦の不足に対処する為に、強制連行、朝鮮半島からの強制連行は、奴隷狩り中の奴隷狩り(になった)」>
①P百六〜百七
この今田氏が書く吉田清治のインタビュー部分は下記の箇所です。
吉田清治の証言(一九九三年十月四日初インタビュー)
<(昭和)十七年以降、つまり真珠湾攻撃があってアジア全域を占領した時の労務者不足と、慰安婦の不足に対処する為に、強制連行、朝鮮半島からの強制連行は、奴隷狩り中の奴隷狩り(になった)>
①p二十一〜
<私が受けた、その徴用命令は、無茶苦茶な数字の南方送りの命令を、西部軍司令部命令で、西部軍司令部というのは山口県と九州全部を統括しているわけで、ついでにいいますと昭和十九年頃は、十八年頃だったか、日本列島を五つか、軍管区に分けて、東部軍管区とか、分けて、県知事もなんにも、その軍司令官が命令を下して、事実上の軍政を日本列島に敷いていたわけなんです。
略)
その命令が、県知事宛に何月何日まで、正式な名前は、皇軍慰問が頭につくんです。皇軍慰問、天皇の軍隊の慰問、皇軍慰問朝鮮人女子艇(ママ)身隊の動員に関する件と。そういう、命令書。一つ。なになに。という命令書。陸軍用便箋に手書きした奴です。
ゴム印に西部軍(司令部)と、ただ、それだけです。そのゴム印がポンと押してあるだけです。そして、誰かの係りの将校のハンコ。それも階級も何も軍事機密だから、なんもない。なんかハンコが一つ置いてある。
>
①p二十七
<西部軍派遣軍から県知事宛になんかきて、県知事のところに西部軍司令部の、福岡にありますが、そこから幹部候補生のいわゆる招集された将校が、中年将校が、民間人のような将校でしたが、戦争に使えないよなののが、まあ、事務屋ですね。それが県庁に電話掛けてきて、そして県に明日来るとかいって県に来る。そして私も県庁に行って待っている。
そこで命令伝達がある。宛名は県知事だ。すぐ書類だけで、形式的に知事、そこで労務報国会の私達に直接話をする。だから書類上では、軍司令部の政府軍司令官の大田?県知事宛の陸軍便箋に黒いインクで書いたやつですよね。手書きの。そしてゴム印の「西部軍司令部」とかいた、そのハンコだけ。横に誰か個人のハンコがあるだけなんです。
階級も何もない軍事機密ですから、それで「極秘」というハンもある。そして、一つ何々、一つ何々。決まり切った形になるんですね。
(本の後ろに講演記録として付いている記述にある)家内の日記になんとかということ、あれは誰でも、もう丸暗記していますよ。この形式しかなかったんですから。その程度のありふれた形式なんです>
①p五十九〜六十
以下、これらの吉田氏の証言その他の矛盾点を私の手許にある本「朝鮮人慰安婦と日本人」(吉田清治著 人物往来社 昭和五十二年刊)より引用させていただく。
以下引用
< 十五、朝鮮女子挺身隊
昭和十九年
私は「朝鮮人女子挺身隊」の動員命令書を県庁の労政課で中村主事から手渡された。当日は定例の県内労報支部の日備労務者動員会議が午後五時過ぎに終わり、下関労報の私だけが残るように言われた。
略)
中村主事は書類ばさみから動員命令書をはずして、無造作に差し出した。
「朝鮮人だけの女子挺身隊です。南支の陸軍部隊への派遣で、期日は四月十日です」
「職種は何ですか」
「皇軍慰問の勤労奉仕。南支の兵隊さんも長期戦でだいぶ女に不自由しているらしい」
「慰安婦ですね。軍はどうして商売女をつかわんのですか」
「あんたはその方面にうといが、このごろのの遊廓は年増の女郎しか残ってないですよ。若い子はみんな産業戦士になって、赤たすきかけて軍需工場で働いてるんだから。朝鮮総督府の女子挺身隊は、大陸で兵隊さんに評判がいいそうですよ。若くて日本語がうまいから、クーニャンとかちがって、情がわくんでしょうな」
「労務報国会に、慰安婦の動員までやらせるようになったんですか」
「動員署は去年から、日本人の慰安婦の徴用をやっていますよ。実は課長が県内の事情を話して、こんどは朝鮮人を出すことで話がつきました。それで課長がこの動員は下関労報にと言いましてね」>
②p百五十〜百五十一
今田氏の著書の吉田証言には
<西部軍派遣軍から県知事宛になんかきて、県知事のところに西部軍司令部の、福岡にありますが、そこから幹部候補生のいわゆる招集された将校が、中年将校が、民間人のような将校でしたが、戦争に使えないよなののが、まあ、事務屋ですね。それが県庁に電話掛けてきて、そして県に明日来るとかいって県に来る。そして私も県庁に行って待っている。
そこで命令伝達がある。宛名は県知事だ。すぐ書類だけで、形式的に知事、そこで労務報国会の私達に直接話をする。>
①p五十九
となっているが、吉田氏の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」では
<動員命令書を県庁の労政課で中村主事から手渡された。>
②p百五十
となっている。
どこにも、西部軍司令部の将校がどこにも出てこない。
それを不思議とも何も思わない御仁である。
今田真人の著書「吉田証言は生きている」の違和感その二
8月6日木曜日晴れ◯
吉田氏の著書の年月日について今田氏は
本に書いてある年月日は事実か
<だいたい、当時、書く時に相当部下と相談して書いているから、間違いないです。>
①P八十四
このように吉田氏が間違いないと今田氏に対して断言している年月日についての矛盾点。
吉田清治の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」によると、斉州島での、「慰安婦強制連行」は一週間にわたり、十人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいたと書いています。
場所は、帽子工場の女工から八人、貝ボタン工場で十六人、乾魚工場から二十七人、ソーセージ製造所から五十人、西帰浦の海女を五十人など合計二百五人を連行するなどナマナマしい情景が活写されている。
城山浦の貝ボタン工場での連行の様子を下記に引用します。
<女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。
「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。
若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。>
秦氏は吉田が、「昭和十八・十九の二年間で千人以上」(赤旗一九九二年一月二十六日)
「吉田さんらが連行した女性は少なくみても九百五十人」(朝日新聞一九九二年一月二十三日夕刊)
この非人道的行為による強制連行がおこなわれたのかどうか疑問に思い、一九九二年三月二十九日より済州島に渡り実地検証をしています。
当時、七十八歳の吉田に秦氏は連絡をとり「裏付けをとりたいので済州島の慰安婦狩に同行した部下の誰かを紹介して欲しい」と頼みましたが「本を書く時に二、三人に会って記憶を整理した」ことは認めたが「あちこちから聞かれるが、絶対に教えられない」と拒絶したそうです。
そのために秦氏は日付と場所が特定されている済州島・城山浦まで行き実地検証をおこなっています。
吉田氏の著書が一九八九年に翻訳されて南朝鮮(韓国)で出版された時に、その記述内容に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査し、一九八九年八月十四日付で同紙に著名入りの記事として下記のような内容の記事を書いています。
済州新聞の許栄善記者による一九八九年八月十四日の記事
<解放四十四周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用していたとの記録が刊行され大きな衝撃をあたえている。しかし裏付けの証言がなく波紋を投げている。
(吉田著の概要を紹介)
しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で十五~十六人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏ずづけ証言する人はほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「二五〇余の家しかないこの村で、十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。>
以上
郷土史家の金奉玉氏は「一九八三年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。
これだけで、吉田の著書の内容について全面否定に近いが、現地調査を行った秦郁彦日大教授も、海女の研究家でもある康大元氏(慶応大学出身)の通訳により城山浦の老人クラブ、四、五ケ所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認した。
「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と、今は『済民新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、「有名な南京虐殺事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります」と答えるのが精一杯だったと秦氏は著書「昭和史の謎を追う 下」(p四百九十八)に書いています。
同じ著書で秦氏は続けて、下記のように記している。
くだんの吉田も何回か韓国へ謝罪の旅に出かけ、土下座したり慰安婦の碑を建てたり、国連の人権委員会に働きかけたりしているようである。しかし彼の申し立てには、本名や経歴をふくめ、他にも不審な点が多い。
たとえば
一)慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄管理下にあり、内地から出張しての狩りこみはありえず、もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずと述べている。
二)第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社一九七七)には、四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、第二作「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」(一九八三)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する
三)第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。
以上の事について私なりに説明を加えさせていただくと、
「朝鮮人慰安婦と日本人」(吉田清治著 人物往来社 昭和五十二年刊)より。
以下引用
< 十五、朝鮮女子挺身隊
昭和十九年
私は「朝鮮人女子挺身隊」の動員命令書を県庁の労政課で中村主事から手渡された。
略)
「慰安婦ですね。軍はどうして商売女をつかわんのですか」
「あんたはその方面にうといが、このごろのの遊廓は年増の女郎しか残ってないですよ。若い子はみんな産業戦士になって、赤たすきかけて軍需工場で働いてるんだから。朝鮮総督府の女子挺身隊は、大陸で兵隊さんに評判がいいそうですよ。若くて日本語がうまいから、クーニャンとかちがって、情がわくんでしょうな」
「労務報国会に、慰安婦の動員までやらせるようになったんですか」
「動員署は去年から、日本人の慰安婦の徴用をやっていますよ。実は課長が県内の事情を話して、こんどは朝鮮人を出すことで話がつきました。それで課長がこの動員は下関労報にと言いましてね」 >
②p百五十~百五十一
動員命令書
(注 原文は縦書き)
(県労政発第○号)
動員命令書
陸軍○○部隊の要請に基づき左記の通り労務動員を命ず
昭和十九年四月三日
山口県知事 ×××× 印
山口県労務報国会下関支部長 ×××××殿
記
一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊百名
一、年齢十八歳以上三五歳未満(既婚者にても可、ただし妊婦を除く)
一、身体強健(医師の身体検査及び花柳病検診を受け、診断書を要す)
一、給与 一個月金三十円也
支度金として前渡金二十円也
宿舎・食糧・衣服等を現物支給す
一、派遣期日 昭和十九年四月十日午後一時
一、集合場所 下関市細江町下関税関庁舎前
一、輸送指揮 陸軍○○部隊依託長谷川勇殿>
②p百五十一~百五十二
これが、同じ吉田氏の著書「私の戦争犯罪」になると下記のようになる。
<動員命令書
(注 原文は縦書き)
一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊二百名
一、年齢十八歳以上三十歳未満
一、身体強健なる者(特に花柳病検診を行うこと)
一、期間 一年
一、給与 一個月金三十円也
支度金として前渡金二十円也
一、勤務地 中支方面
一、動員地区 朝鮮半島全羅南道済州島
一、派遣期日 昭和十八年五月三十日正午
一、集合場所 西部軍第七四部隊>
③p百一
このように吉田氏は
「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」には一九四三年五月十五日に発令された軍の命令書の内容について、吉田の妻が当時(一九四三年五月十五日)の日記に内容を書き残したと書いている。しかし、第一作『朝鮮人慰安婦と日本人』では吉田氏は一九四四年四月三日付けの動員命令書により女子挺身隊として慰安婦を徴用したのが最初であり、結婚はその二か月前、つまり一九四四年二月になっている。御丁寧にその動員命令書もその著書に書かれている。
第一作である著書『朝鮮人 慰安婦と日本人』に
<動員部長として、私は朝鮮人の徴用には慣れていたが、慰安婦の動員命令だけは不満で腹立たしかった。私は朝鮮人の男に徴用をかける時は、炭鉱や戦地に送られて彼等がどんな悲惨な目にあうか知っていても、戦時下の労務動員だから仕方がないと考えることができた。もし朝鮮人の女を慰安婦でなく、本当に雑役婦としてなら、どんな危険な前線でも、どんな苦しい作業でも、決戦下の労務動員だと考えて平気で女の動員業務をやっただろう。私が朝鮮人の娘や女房に徴用をかけて軍の慰安所へ送る仕事がいやだったのは、朝鮮人の女がかわいそうだと思ったからではなく、この徴用が売春にかかわる仕事だったからだ。私は二月上旬に結婚して、まだ二か月しかたってなかったので、売春婦を不潔に思い、嫌悪感をもっていた」>と書いています。
②p百五十五~百五十六
吉田氏は新婚だから、売春婦を不潔に思った。それだけでなく、慰安婦=売春婦だから、それを集めるのはいやだと言っているわけです。
他にも
<男の「朝鮮人狩り」ばかりやらされている動員係の連中は、女の朝鮮人狩りははじめてだったので、おもしろがってよくしゃべった。>
②p百五十四
「私の戦争犯罪」の引用部分でも出てきた「山田」と称する部下に対して、
<「短気をおこして狩り出しはやるなよ。志願した女も恐れてやめたりしてめんどうになる」
「だいじょうぶです。今日は大きな声はださないようにしています」>
②p百六十
と、「朝鮮人慰安婦と日本人」では済州島での慰安婦狩りより一年も経っているはずなのに下関での慰安婦の徴用は「狩り出しはやるな」と命令しています。
同じ吉田氏の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」に書かれてている朝鮮人慰安婦の斉州島での、いわゆる「慰安婦強制連行」とは大きく違う。
ましてや、一年も前に斉州島で「慰安婦強制連行」をやったと書いているのである。
このような吉田氏の著書の時系列の矛盾点について、今田氏は一言も言及していない。
そして、「吉田調書は生きている」には西部軍司令部の「ゴム印」が押した命令書だっったのが、「朝鮮人慰安婦と日本人」では、陸軍○○部隊の要請に基づいた山口県知事よりの命令書となっています。
<もう丸暗記していますよ。この形式しかなかったんですから。その程度のありふれた形式なんです>
①p六十
と吉田氏は証言していたが、吉田氏自身の著書に記載された違う命令書が存在するわけである。
だいたい、西部軍司令部の公印に「ゴム印」を使うか?
「ゴム印」と吉田氏が言った時点で、今田氏は「?」と思って、問い直すのが普通のインタビュアーではないのか。
今田真人の著書「吉田証言は生きている」での違和感その三
8月7日金曜日晴れ△
吉田氏は著書の中に書いてある「家内の日記」について
<(本の講演記録に「家内の日記」伝々あるのは)
どっかの大阪の活動家の新聞が勝手に書いた。私は一度も公式に言っていない。そういうものを出版社がページ数が足らんという。あの原稿、二百枚そこそこだった。三百枚ほしいということでなんやかやひっつけたんです。序文なんて私、知りませんよ。全然、知らない。だから抽象的こと書いているでしょう。>
①p六十〜六十一
これについて今田氏は、下記のように朝日新聞の記事を引用し、
<「吉田氏は九三年五月、吉見義明・中大教授らと面会した際『(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある』と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は「証言として使えないと確認するしかなかった』と指摘している。」
①P百三十三
吉見義明氏の記述内容について否定する形で下記のように書いている。
<「強制連行した日時や場所を変えた」とは書かれていないし、「強制連行した」というカッコ内の記述は原文では「回想には」とあり、不正確だ。吉見氏が「証言として使えないと確認するしかなかった」というのも、学者のそれぞれの研究方法の問題であり、証言として使えると思う学者も当然いるだろう。
今回公表の吉田インタビューでは、『私の戦争犯罪』百五十六ページの「家内の日記」伝々の記述は、吉田氏が書いたものではないことが明らかになっている。>
P百三十九
そして、同書の別の箇所では
<吉田証言が「ウソ」だという「ゆがめられた言説」に反論して、吉見教授は次のように書く。
「吉田清治さんは、『私の戦争犯罪』(一九八二年)という本の中で、軍の動員命令により、徴用隊十名の一員として朝鮮の済州島にいき、現地の陸軍部隊とともに、華中(中国中部)方面に送る慰安婦として二百五名の女性を捕まえて、『女子挺身隊』の名目で輸送した、と記している。だが現在、朝鮮で強制連行があった証拠として、この本をあげる人はいない。いまでは研究がずっとすすんでおり、これに寄らなくても、強制連行や強制使役があったことは説明できる。」
「(動員命令書が、奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開したらどうかなどとの要請に対して)吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できないと答えた。そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。
そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言として使えないと確認するしかなかった」
吉見教授の著書は、吉田氏が本に書いた核心的事実である「朝鮮で慰安婦の強制連行があった」ということを、いまでは、吉田氏の本によらなくても、証明できるとのべているのだ。そして、吉田氏に、その正しさがすでに実証されているので、名誉回復のために、幾つかの疑問に反論すべきだと忠告しているにすぎない。吉田氏はその忠告に「家族に脅迫が及ぶ」というもっともな理由で拒否したわけだ。
したがって、吉見教授の著書は、吉田証言を否定するものではなく、むしろ、「ウソだと証明された」という「ウソ」に反論し、吉田証言を「真実」として擁護しているものだ。>
p百四十五
正確には下記のように吉見義明氏は著書で吉田氏に直接会って反論を勧めたことを書いています。
<吉田清治さんは、『私の戦争犯罪』(一九八二年)という本の中で、軍の動員命令により、徴用隊十名の一員として朝鮮の済州島にいき、現地の陸軍部隊とともに、華中(中国中部)方面に送る慰安婦として二百五名の女性を捕まえて、『女子挺身隊』の名目で輸送した、と記している。だが現在、朝鮮で強制連行があった証拠として、この本をあげる人はいない。いまでは研究がずっとすすんでおり、これに寄らなくても、強制連行や強制使役があったことは説明できる。
では、この証言自体の信頼性はどうか。これに疑問をいだいた秦郁彦教授は、済州島にいって調査したが、現地で得られた証言は否定的なものばかりだったと言っている。そのほか、この証言に対する多くの疑問がだされているが、吉田さんは反論していない。
一九九三年五月に吉田さんを訪ね、積極的に反論するよう勧めた。また、誇張された部分があれば、訂正すべきだと申し入れた。特に、この本の中にある動員命令書がキーポイントとなるので、吉田さんがいうようにもしそれが奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開したらどうか、もしそれがないのなら訂正すべきではないかといった。
これに対し、吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できないと答えた。そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。
そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言として使えないと確認するしかなかった。なお、私は一九九一年から慰安婦問題の研究を始めたが、この間、吉田さんのこの証言は一切採用していない。
証言として肝心な点となる場所や前後関係に変更が加えられているとしたら、済州島での慰安婦「徴用」に関する吉田証言を、事実として採用するには問題が多すぎる、というほかない。吉田さんには、慰安婦徴募に関する自らの体験を伝聞特別して正確に証言されるよう望みたい。
しかし、だからといって、朝鮮で強制連行がなかったといえないことは、七で述べた。また、戦争末期に済州島を含む朝鮮で、どのような徴募がおこなわれたかという実態解明は、今後の課題として残っている。
吉見義明>
「従軍慰安婦」をめぐる三十のウソと真実 吉見義明・川田文子著 大月書店一九九七年刊 p二十六〜二十七
このように吉田氏は吉見氏に対して、日記の存在を否定せずに、日記の公開を否定しているのである。
その吉田氏がたった五ヶ月後の九十三年十月十八日の今田氏への証言では、日記の存在そのものを否定しているのである。
あまりにも発言に一貫性がなく、吉見氏が「吉田さんには、慰安婦徴募に関する自らの体験を伝聞特別して正確に証言されるよう望みたい」というのは当然のことである。
それを、「学者のそれぞれの研究方法の問題であり、証言として使えると思う学者も当然いるだろう。」「吉見教授の著書は、吉田証言を否定するものではなく、むしろ、『ウソだと証明された』という『ウソ』に反論し、吉田証言を『真実』として擁護しているものだ。」と書き、吉田氏の証言を「命がけの告発」(表紙より)とする今田氏の頭の中は腐っているとしか思えない。
あほらし。
今田真人の著書「吉田証言は生きている」での違和感その四
他にも吉田氏の証言のおかしいところは、
吉田清治の証言(一九九三年十月十八日)
「嫌がらせ」
<過去十五年間に、前に住んでいた所に、何か元軍人と称する者が五、六人、七、八人、マンションのドアをノックしてですね、そして、私がこうドアを開けたら、私も過去、戦場に行っているから、経験があるから連中が殺気立っているのが、すぐ分かります。「吉田清治さんか」という言い方で、なんかスパッとわかりますよね。
私の所へですね、無断で、予告なしに、五、六人、七、八人の年配の男ばかりが。訪問者であるわけないですよ。
これは、もう七、八年ぐらい前です。その頃から、行われていたわけです。その時は、すぐ閉めて、そうすると、表で叫んでいたら、マンションの隣の人が、すぐ一一〇番したために、なんか救急車?が連れて行った。私はすぐ、ベランダ伝いに、隣にすぐ身を隠しました。そうすると、別の隣から近所の者が一一〇番したらしくて、後から聞いた話なんですが。ですから一一〇番でみんなで一緒に行った。それで、そして私には支持者もいますからね。それが警察で調べたあとですね、何日化してから、その報告が。「危なかったですね。刀持っていたんですよ」と。小刀を持っていた。ところで、それは捕まっただけか、いや、それはちゃんとした、名刀かなんか届けて本人が所持の許可を持つと、なんとか文化財で、ちゃんとした許可証を持っていた。だから、そんなのを持っているといや、社会的に一人前の人間ですよね。
東京の目黒駅の近くの警察のこと。それいっぺんじゃない、二、三回、あすこで襲われたことがあるんですよ。
嫌がらせは横浜時代からありましたし、それが全部、警察に残る証拠がない。いわゆる訪問したというのは、なんということじゃあない民事なんです。軍服を着ているわけはない、普通の年配の大人だ。
なんの予告もなく、ドアをドンドンたたいて「吉田清治さんか」という言い方で、いきなりですよ。そんな失礼なやり方はない。
それ、何回か経験していますし、それ以外に、この脅しはきりがない。
連中は金で動く。バックにいるのは、自民党の政治家ではない。外務官僚だということが、ごく最近わかった。外務官僚がバックで操って圧力かけたことが最近わかった。マスコミ操作の張本人だ。
嫌がらせの張本人は、旧軍人達だ。靖國の遺家族のあの集団の一派だ。遺族会の地方の幹部達が、何かしてマスコミになるような、何かしてやりたかった。それが東京に上京したついでに来る。昼間に来る。>
①p五十六〜五十八
<「危なかったですね。刀持っていたんですよ」と。小刀を持っていた。ところで、それは捕まっただけか、いや、それはちゃんとした、名刀かなんか届けて本人が所持の許可を持つと、なんとか文化財で、ちゃんとした許可証を持っていた。だから、そんなのを持っているといや、社会的に一人前の人間ですよね。>
アホかと。
我が国では刀剣所持に必要なのは「登録証」であり、銃砲刀剣類登録証が付属していない日本刀は所持できない。そして、刀剣を譲ってもらった時に、付いている登録証の県の教育委委員会宛に、「登録証」に記載されている記載事項を葉書に転記し、自分の住所、氏名を記入捺印して「名義変更」を届け出るだけである。
ただそれだけである。教育委員会から、登録しましたという返事も何もない。
そして、登録証に記載されているのは種別(刀・脇差し・短刀など)、刃渡り、反り、目釘穴の数、刀工の銘などであり、別に文化財であろうがなかろうが関係ない。もちろん、社会人としての地位も関係ない。
刀の価値うんぬんというのは「折紙」「極書き」と言われる鑑定書であるが、別に刀の所持に鑑定書は関係ない。
ちなみに、折紙付というのは刀の折紙つまり鑑定書付きという事からきている。
これだけでも、今田氏が「私には吉田証言がどうしても、嘘だとは思えないからだ。」というこの吉田清治の証言のいい加減さが分かります。
ましてや、あくまで武器としてではなく美術品として所持する場合のみ問題ないのであって、銃刀法では、日本刀が文化財であろうがなかろうが、武器として護身用などは許されるはずもなく、包丁、ナイフ、カッター、ハサミ、アイスピック、その他なんでも、武器として所持した場合は全て容疑がかけられる。当然、鑑賞目的、研ぎに出すなど日本刀を持ち歩くには正当な理由が必要になる。
この吉田氏の証言では到底日本刀を持ち歩く正当な理由たり得ない。
こんな事さへも検証していない。
脅しているのは外務官僚だという元になるものとして
<たった三千部しか発売していない本を探し出して攻撃材料に使うのか。
これは、誰が見つけ出すのか。その本を訴訟のときに韓国の従軍慰安婦の支持する支援団体が、ソウルの日本大使館に陳情する時に、こういう事実、本も出ていますといって、それを話したらしいです。
それで外務省が知ったわけです。それ以外、あの本のことを知った最初は外務省しか知らないですよ。だから、政治家なんかはね、あんな本読む奴は一人もいないですよ。
だから、こんなもの、いまだかって自民党の議員で、一人も私の本を読んだ人はいない。
党本部の諸君も誰も読んでいない。
そうすると、外務省の連中だけなんです。これを知り、これを掴み、これを問題視し、だから、それが外政審議室以外にないのです。これは、私の支持者の仲間たちは、学者もいますし、在日韓国人の大学の先生もたくさんいますから、そういう連中が非常に調べて、外政審議室以外にはありえないと、結論が最近、そうなった>
①P八十一〜八十二
どこでどうすれば、こういった結論が導き出されるのか。
その理由さへ吉田氏の証言からも、今田氏の検証?からもこの今田氏の著書は記されていない。
あほらし
今田真人の著書「吉田証言は生きている」での違和感その五
慰安婦狩りで武器は何との質問に吉田氏は
<女なんてみんな腕力で。けとばしゃ。だって女ですよ相手は。あの頃の日本人が朝鮮人を大の男でも、朝鮮人に向かう時、日本人の迫力は下郎の扱いですから。残酷なんて言葉は連中の意識の中にないですよ。
それに反抗したら殺されるというのは、日韓併合中からもう先祖から、もうそういう目にあってますから。だって日本人と喧嘩して、日本人に怪我させたら、殺されてますよ。
朝鮮半島全部、日本人と喧嘩して日本人を怪我させたら警察に連れて行かれて、みんな殺されている。そんなの裁判なんかしやしません。
だから、日本人が徴用ということは、彼らにとって逃れる道はない。これは連行以外の何物でもない。>
①p七十五
もう証言がメチャメチャである。
我が国が「併合」した朝鮮半島においては、日本人も朝鮮人も同じ「日本人」であったから裁判も公平に行われた。
たとえば、朝鮮併合時代の最も大きな暴動と言われる三・一事件。
その三・一事件の前となる「二・八事件」は朝鮮半島よりの留学生による東京などでの独立宣言で、東京集会では二十九名が逮捕された。しかし、独立宣言に署名した一一名中、九名を除き釈放。起訴された九名は、弁護士として当代の第一人者であった花井卓蔵、布施辰治らが無報酬で弁護を引き受け、内乱罪などに問われる事なく、文書の無断配布を問う出版法第二六条に問われ、最高九カ月の判決が下っただけでした。
そして、三・一運動という暴動ともいえるものに対しても我国は法治国家として公正な裁判を行いました。
朝鮮人暴徒は棍棒、鎌、鍬、竹槍または稀に拳銃を使って軍隊、警察に抵抗した。さらに官公署や学校を襲い、放火、破壊を行ない、内地人の家産あるいは巡査補、憲兵補助員(朝鮮人が担当)の居宅を犯し、日本人の憲兵六名、警察官二名を殺害したが、被疑者に対しては朝鮮固有の拷問は皆無で、証拠主義に徹し、多くの被疑者が無罪放免となった。
さらにこのような暴動なのに死刑も無期も一人としてなく、軽罰の判決しか出さなかった。とくに、四月三日に水原郡雨汀面(村)花樹警察官駐在所(日本人巡査一名、朝鮮人巡査補三名が勤務)の川端豊太郎巡査を石と棍棒で殺したうえに、(創痕五一ケ所)、耳と鼻をそぎおとし陰部を切断した惨殺事件があったが、裁判は報復的な事は一切しなかった。
官公署の被害(四月二五日現在)は、朝鮮総督府の調査によれば、面事務所(村役場)全壊一九ケ所。うち放火によるもの五。同じく面事務所の窓硝子破壊、器物・書類の焼却など一部破壊二八ケ所。警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遣所・同駐在所については全壊一六ケ所、一部破壊二九ケ所。郵便局の全壊二ケ所、一部破壊九ケ所。
前述の川端巡査殺害と放火で起訴された被告五二名につき、予審を担当した京城地方院(地方裁判所)は半数にもなる二五名を証拠不十分で免訴かつ放免を決定。高等法院(最高裁判所)に刑法七七条該当として送致されたのは二七名のみであった。
五月八日まで送検された一万二六六八名のうち、その時点で三七八九名を不起訴処分。一一五一名については取調中。この時点で起訴されたものは六四一七名の約半分に過ぎなかった。検事もまた裁判官と同様、行政(警察、憲兵)から完全に独立して、朝鮮人に対して日本国内の日本人被告と同一の扱いをしたのである。
検察に起訴されても裁判に於いて無罪となるものも多かった。この暴動の被告に対する五月二〇日時点までの第一審判決は、有罪が三九六七名、無罪が五八名、免訴が一名。
有罪にしても死刑がなし。無期もなし。一五年以上もなし。一〇~一四年以下が六名。七~九年以下が一名。五~六年以下が二三名。三~四年以下が五〇名。
三年以上の禁固刑となったものは、有罪となった三九六七名のうち僅かに八〇名しかおらず、二%に過ぎなかった。また、よく記述される死者七五〇九名などという数字がいかにでたらめな数かわかります。
三・一事件をもって朝鮮総督府が朝鮮人を弾圧したという記述がいかにいい加減なものか。この公正な裁判による事実がすべてを現している。
(日韓共鳴二千年史 名越二荒之助 明成社 p三二八~三三〇)
(「歴史を偽造する韓国」中川八洋 徳間書店p九二~九四 中川氏はこれらを「現代史資料 朝鮮2」みすず書房、近藤釼一編「万歳騒擾事件1」友邦協会より引用)
吉田氏が「証言」するような
「だって日本人と喧嘩して、日本人に怪我させたら、殺されてますよ。
朝鮮半島全部、日本人と喧嘩して日本人を怪我させたら警察に連れて行かれて、みんな殺されている。そんなの裁判なんかしやしません。」
などということは絶対にないのである。
それを検証もしない今田氏
脳みそはゴキブリ以下である。
こんな御仁が記者をやっていた「赤旗」のレベルがよくわかる。
あほらし
今田真人の著書「吉田証言は生きている」の違和感その六
8月10日月曜日晴れ×
「命令書など、戦後直後の焼却の経過」として吉田氏は
<焼却を何をしたかということは、これ、大事なんですが、八月十五日以前に、すでに情報として、この南方でどんどん負けていっているでしょ、それ、みんな戦争犯罪で処刑されたニュースは、当時、新聞には出ていないが、警察関係者には情報として、みんな入ってますから。
八月十五日まで、捕虜になったり、処刑されたり、絞首刑になったり、銃殺されたりしてますからね。だから、その全て戦争に関わった将校たちが、軍の動員業務なんて重要なものは、関与した、これは罪になる、と、誰でも怖いですから、軍のそういう業務をやったと。警察の治安だけなら、言い訳もたつが、軍の仕事を日本の警察官はやらされてますので、だから、警察署長も全部、自発的にみんな、証拠隠滅を破壊をいたしてますよ。そして八月十五日に、すぐに県の警察、いまでいう県警本部長ですね、当時は警察部長、労務報國会の副会長でした、その警察部長からの極秘の命令が、警察電話で署長あてにあって、それを内務省内務次官通牒によって秘密の極秘通牒だからということで、全ての動員業務、ことに朝鮮人に関する動員業務は、完全に私物にいたるまで焼却処分をすること、とくに写真、記念写真、これは文書とか、みんなのですね、いわゆる勤務報国会とかなんとかですね。それから突貫工事成功した時とか、落成式とか、記念撮影がありますよね、そうしたものに朝鮮人が写っていますからね、朝鮮人の班長クラスが、そういう全ての、特に慰安婦の事は、動員業務に関わる朝鮮人に関する、カッコしてですね、その写真を特に、とか、箇条書きみたいにですね、県の方からきて、これは文章がきまして、ほんで警察署長のところに焼却処分をと、それで警察署長は八月十五日に実行する事になるんですよ。もう、みんな残った数少ない署員たちと、もう、下関もあっちこっち戦災の後で、みんなどうしようもない時期ですから。そういう時で、とにかく残った署員で、これを焼却して海に流せと、いうことでですね、焼却する方法は、ドラム缶で、特殊な油がありましたからね、特に、そういう油を使って、ドラム缶の下の方に穴を開けて。そういうことは、みんな心得ていますよ。
そして、ドラム缶を並べて、警察署の裏はすぐ岸壁で海ですから
略)
焼けませんわ、油で焼こうたって。一日中かかった。
略)
それで、かれこれ一週間かかりました。完全に処分するには。そして、その焼却したということを警察署長が支部長ですから、労務報国会下関支部長、横に労務報国会下関支部動員部長の私と、二人で責任者として、証明してハンコついて、その書類を県の警察部長あてに報告書を書きました。>
①P六十一〜六十三
<みんな戦争犯罪で処刑されたニュースは、当時、新聞には出ていないが、警察関係者には情報として、みんな入ってますから。
八月十五日まで、捕虜になったり、処刑されたり、絞首刑になったり、銃殺されたりしてますからね。>
P六十
「戦争犯罪」とは、
<戦争犯罪(せんそうはんざい)とは[1]、戦時国際法に違反する罪のことで交戦法規違反をさす。
通常は戦闘員や司令官(交戦者)、あるいは非戦闘員の個人の犯罪行為を対象とし、交戦規則を逸脱する罪が問われる。国際軍事裁判所条例制定に関わる議論のなかでこの概念は拡張されており、国家犯罪(国際的懸念事項)としての平和に対する罪や人道に対する罪が創設された。>
戦争犯罪 – Wikipediaより。
八月十五日以前に吉田氏は我が国軍人が「戦争犯罪」で処刑されていると言っているのである。はあ?
よって、朝鮮人「強制」連行に関する写真など全てを処分せよという命令がきたと言っているのである。はあ?
これについても、今田氏は何の疑問を持っていない。
徴用についてはいくらでも写真が残っている。
手元にあるどうしようもない嘘つき朝鮮人・鄭正模の著書にも「強制連行記念写真」が掲載されている。
「朝鮮海峡」林えいだい著 明石書店 一九八八年刊 p二百十四
こういった事さへ今田氏は吉田氏に質問していないし確認もしていない。
あほらし
今田真人の著書「吉田証言は生きている」での違和感その七
8月14日金曜日雨×
吉田氏自身の身分についても同様です。
<これは、今の内閣調査庁(ママ)かなんかの、ずっと運動してですね。
略)
前歴がこんな特高畑の人間だったら。>
①p八十七
<戦後直後の活動については、関係者には死んだ党員の名前も出てくるし、それを傷つけることは言いたくない。あの非合法時代に経歴伝々なんて言えない。戦前、戦後の私的なことは言わない。
下関の新富座で山本利平さんと野坂参三さんと話した。初めて下関に野坂さんが来た時だ。その時、戦後すぐで私は特高、憲兵の肩書きのままだった。秘密の会議だった。これが戦前の私の活動の証明である。>
①P八十九
<私は特高、憲兵の肩書きのままだった。>
このように書くが、特高とは特別高等警察のことであり、無政府主義者、共産主義者、社会主義者などを取り締まる政治警察であるし、憲兵とは大日本帝国陸軍における軍事警察である。
吉田清治はその特高と憲兵の肩書きを持っていたというのである。
あり得ないだろうに、それに対して、著者の今田氏は吉田に問いただしも検証していないが、この今田氏の著書には下記のように書いている。
<陸軍の特務機関なら、ある時は「特高」の肩書で動き、ある時は「憲兵」の肩書で動く事ができただろう。吉田氏は、自身が特務機関の人間だったとは明言していないが、その話にはそれを示すものが随所に出ていると思う。
「(慰安婦狩りは)初めから、狩り出す時から、朝鮮半島で連れ出す時から、国家そのものの力です」という言葉と「(労務報国会の動員部の)責任者を、公務員にしていたら、この徴用、動員業務が直接、労務報国会の会長、支部長が直接、やっていたとしたら、県知事、首が飛ぶ」という言葉の矛盾は、「陸軍の特務機関」ということが実態なら、解くことができるのではないか。>
①p百十四〜百十五
アホかと。
特務機関とは特殊軍事組織であり、諜報・宣撫工作・対反乱作戦などを占領地域、或いは作戦地域で行う組織であるから当時我が国の一部である朝鮮半島において特務機関が活動する理由は無い。
ましてや、今田氏は資料解説として、
<吉田氏の本名について問いただしたものだ。吉田氏は「吉田清治」が通名であり、秦郁彦氏や右翼タカ派雑誌がいうような「虚偽」の一つでない事を強調している。
「私は経歴なんか公表したこともないし、その義務もない」
吉田氏のこの主張は、まったく、その通りである。>
①p百二十一〜百二十二
もうどれだけアホなかと。証言者のどのような職務でどの地位にいたかというのは非常に大切なことである。当事者であると言って証言している証言者の経歴が信用できなければ、その証言も信用できないのが普通だろうと思うが、今田氏は違うようである。
あほらし
今田真人の著書「吉田証言は生きている」での違和感その八
8月16日日曜日晴れ◯
今田氏自画自賛の「(論評)秦郁彦『慰安婦と戦場の性』の検証」としてそこには下記のように書かれています。
<朝日や赤旗は二千十四年八月五日付と同年九月二十七日付のそれぞれの紙面で、朝鮮の済州島などでの「慰安婦狩り」を証言した故・吉田清治氏とその証言について、「偽証と判断」(朝日)とか、「信ぴょう性がない」(赤旗)とかの理由で、その発言や活動に関するすべての記事を一挙に取り消した。そのやり方は、個々の証言部分の真偽を科学的に検証し、誤りだと判明した個所を正確に訂正するという厳密なものではない。吉田氏の発言や活動に関する記事は、どんなものであれ、すべて取り消すという、乱暴極まりないものである。あたかも吉田氏という人物全体が「信用できない大ウソつき」だと判明したかのような措置だが、検証記事はそんなことはまったく明らかにしていない。
朝日や赤旗が検証記事で、「吉田証言」を否定する最大の根拠にしているのが、歴史家・秦郁彦氏の「研究」である。しかし、この「研究」は本当に吉田氏や「吉田証言」を全面否定するだけの内容なのだろうか。朝日や赤旗の検証記事を検証するうえで、秦氏の「研究」の検証は欠かせない。
秦氏の「研究」の代表作、『慰安婦と戦場の性』(千九百九十九年、新潮社)を中心に、その「研究」の信ぴょう性を検証していきたい。>
①p百五十八
そして、
一、自分を棚に上げ、相手の人格を貶める手法
二、ウソをつきながら、相手を「ウソつき」と断定する手法
三、裏どり証言がないだけで、証言を「ウソ」と断定する手法
四、電話取材での言質を証拠に、「ウソつき」と断定する手法
五、白を黒といいくるめるための、引用改ざんの手法
六、何人もの研究者が秦氏の著作のデタラメさを指摘
七、戦中の特高警察の流れを汲む反共謀略組織の代弁者の疑い
八、買春した「ホテトル嬢」にだまされた怨みが動機?
この八つをあげている。
私の指摘できる範囲で矛盾点について指摘したいと思います。
<一、自分を棚に上げ、相手の人格を貶める手法
秦氏の『慰安婦と戦場の性』を一読して気付くのは、相手の証言を否定するのに、真正面から論理的に立証するのではなく、相手の人格を貶めて、それで証言の信ぴょう性をなくそうという手法をとっていることである。>
p百五十九
として、
<同書の第七章は「吉田清治の詐話」と題され、まるまる二十ページを「吉田証言」否定のための論述に当てている。
その論理構成は、「日本軍が犯したとされる戦争犯罪がマスコミで取りあげられると、必らずと言ってよいぐらい元日本兵の『ザンゲ屋』ないし『詐話師(ウソつきのこと)』が登場する」→「有名な南京虐殺事件にも、この種の人物が何人か登場する」→「(秦氏は)その一人とニューヨークで同宿したことがある」→「(その一人は)ホテルに帰ると私に『カン・ビールを買ってこい』と命じ、モロ肌脱ぎになって飲みながら『強姦した姑娘(クーニャン)の味が忘れられんなあ』と舌なめずりした」→「同類の『詐話師』に何度か振りまわされた経験をつんで、私は疑ぐり深くなっていたのかも知れない」→「吉田清治の言動に私が疑惑を感じたのは、こうした苦い体験のせいもあったと思う」→〝裏付けをとりたいので旧部下を紹介してくれと電話で吉田氏に言ったら旧部下に迷惑をかけるのでと断られた″→〝決め手が見つからないので済州島の現地調査をした″→〝済州島の新聞で「吉田証言」の裏どりをした記事を発見し、そこには「裏付け証言をする人はほとんどいない」と書かれていた″→〝この記事を書いた記者に話を聞くと「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と問い詰められ「答に窮した」″云々と続く。
この立証の論法は、予断と偏見に満ちた非科学的なものだということが、一見して明らかである。まず、指摘したいのは、ニューヨークで同宿したという南京虐殺事件の加害者が、強姦した女性の「味が忘れられんなあ」と言った(これは裏が取れない、秦氏との密室の会話)という「事実」から、すぐに彼を「詐話師」と断じている論法の非科学性である。百歩譲って、この人物が「詐話師」だと立証できたとしても、この人物とはまったく別の吉田氏を「詐話師」と疑うのはおかしい。こんな理屈は、通常の歴史研究では通用しないであろう。
まがりなりにも「立証」されているのは、この人物の戦争犯罪を謝罪する姿勢の真剣さに疑問があるという程度のことであろう。この秦氏が体験したウソかホントかわからない個人的エピソードをもって、この人物を「詐話師」というのは、大変な論理の飛躍である。一種の詭弁というべきだ。>
①p百五十九〜百六十一
< 別の角度からも検討しよう。秦氏の個人的エピソードを仮に「事実」と考えても、秦氏の言い方は、戦争中の残虐行為を感情的に肯定してしまうことがある加害者の矛盾した心理(精神的後遺症と思う)を道徳的に非難するものだ。その人格を貶め、その証言そのものを「ウソ」とする。仮にこの論法を秦氏自身に当てはめて、秦氏がそういう道徳的批判をするにふさわしい人物かどうかも検討しよう。
秦氏の著作の第六章「慰安婦たちの身の上話」には、佐竹久憲兵准尉の戦争中の回想が紹介され、慰安所がないので憲兵による強姦が多発したとしている。それについての秦氏の感想がとんでもない。いわく「強姦する憲兵もいたくらいだから、末端部隊のお行儀はかなり悪かったのかもしれない」(P百九十八)。占領地フィリピンでの日本軍兵士の強姦の横行という、残虐な戦争犯罪を「お行儀はかなり悪かった」としか認識できないモラルこそ、秦氏の人格の下劣さを象徴している。秦氏には、戦争犯罪を謝罪する人物を道徳的に批判する資格はない。秦氏の論法を当てはめれば、秦氏自身が「詐話師」になってしまう。
道徳性の比較でいえば、吉田氏は、その著書の「あとがき」などを一読すれば、秦氏とは比べ物にならない。若干の紹介をしたい。
「朝鮮民族に、私の非人間的な心と行為を恥じて、謹んで謝罪いたします。吉田清治――私はこの文を三十年前に書くべきだった。戦前、朝鮮民族に対して犯した人間としての罪を、私は卑怯にも三十年間隠蔽して語ろうとしなかった。その結果、第二次大戦で外国人(朝鮮人・台湾人・中国人…等)を一千万人も殺した戦前の私たちと同じように、現在の日本人も排他的な国益の概念を愛国心だと盲信して、人類共存の理念に反する諸法令をつくり、弱肉強食の獣性に堕ちている。…在日外国人を尊敬しないで、日本人が外国で尊敬されるはずがない。在日朝鮮民族への排外思想を矯正するように、日本人の青少年に対して正しい人間教育を、各界の識者にお願いする。戦前戦後を通じて、私は民族的悪徳をもって一生を送ってきたが、老境にいたって人類共存を願うようになり、人間のすべての『差別』に反対するようになった。日本人の青少年よ、願わくは、私のように老後になって、民族的慙愧の涙にむせぶなかれ」(千九百七十七年『朝鮮人慰安婦と日本人』の「あとがき」から)>
①p百六十一〜百六十二
どうして、先の大戦で我が国が他国の人々を一千万人殺したと書くこの吉田氏の著書のあとがきが吉田氏の優れた道徳性になるのか、理解出来る人間は何人いるのであろうか。
秦氏の吉田氏に対しての「詐欺師」呼ばわりの否定にも何もなっていない。
今田氏は秦氏の嘘として
<二、ウソをつきながら、相手を「ウソつき」と断定する手法
ところで、『慰安婦と戦場の性』の論理構成は、吉田氏を初めから「詐話師」と疑う非論理的なものだが、それでも、秦氏が、どの段階で吉田氏を「詐話師」と断じたのかを探ると、また発見がある。
論理構成の最後に出てくる場面、すなわち、済州島の記者・許栄善女史に秦氏が問い詰められ、秦氏が「答に窮した」と書く段階がそうだと思われる(同著P二百三十三)。同著には「答に窮した」とあるが、実際には秦氏はとうとうと答えている。つまり、同著のこの部分は明らかなウソである。
何と秦氏が答えたかは、済州島の調査を秦氏が初めて記述した論文「昭和史の謎を追う――第三十七回・従軍慰安婦たちの春秋」(『正論』九十二年六月号所収)にある。
そこの記述をそのまま紹介する。「『何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか』と、今は済民新聞の文化部長に移っている許女史に聞かれて私も窮したが『有名な南京虐殺事件でも、この種の詐話師が何人も現われました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります』と答えるのが精一杯だった。聞くところによると、くだんの吉田氏も何回か韓国へ謝罪の旅に出かけ、土下座したり慰安婦の碑を建てたり、国連の人権委員会へ働きかけたりしているようである」。
この秦氏の許女史への回答は、済州島の記者が「吉田証言」を「作り話」と言った(彼女の記事にはそう書いてない)ことをそのまま肯定し、「彼らは土下座してザンゲするくせがあります」といって吉田氏を「詐話師」の一人に加えていることがわかる。しかも、この秦氏の回答を記述した、この論文の一節の小見出しは「慰安婦狩の虚構」である。
秦氏は「答に窮した」のではなく、許女史の詰問に「窮した(困ったという意味)」というのが本当だ。どうも、秦氏はそれとなくウソをつく「くせ」があるようだ。ウソをつきながら、相手を「ウソつき」と断定する手法も、詭弁の一種に違いない。>
①p百六十三〜百六十四
<秦氏は「答に窮した」のではなく、許女史の詰問に「窮した(困ったという意味)」というのが本当だ。どうも、秦氏はそれとなくウソをつく「くせ」があるようだ。ウソをつきながら、相手を「ウソつき」と断定する手法も、詭弁の一種に違いない。>
これのどこが秦氏の嘘になるのであろうか。
書き方の違いだけであろう。
これだけで、秦氏を「嘘」をつく癖があると言っているのである。
このようなおかしい指摘は下記のように続く。
<三、裏どり証言がないだけで、証言を「ウソ」と断定する手法
秦氏がずるいのは、この論文の最後の記述である。「もちろん済州島での事件が無根だとしても、吉田式の慰安婦狩がなかった証明にはならないが、いまのところ訴訟の原告をふくめ百人近い被害者側から該当する申告がないのも事実である」と書いている。秦氏は、〝どうしてこれが「吉田証言」を否定する根拠になるのか″という専門家筋の批判を予想して、あらかじめ自分の論文は「吉田証言」を「否定する証明にはならない」と、予防線をはっているのだ。
しかし、この秦氏の論文は、産経新聞が九二年四月三十日付で、「吉田証言」の信ぴょう性に疑問をつきつけたものとして、裏づけ取材もされないで大きく報道された。その見出しを紹介しよう。
「朝鮮人従軍慰安婦 強制連行証言に疑問 秦郁彦教授が発表――加害者側の〝告白″ 被害者側が否定」。
おいおい、である。秦氏が「貝ボタン組合の役員をしていたなどという何人かの老人たちと会い、確かめたところ、吉田氏の著作を裏づける証言は得られなかった」ということや、「吉田証言」について、済州島現地の新聞記者が一部の地元民を調べ、裏どり証言をする人が「ほとんどいない」という結果だったということだけである。いわば、歴史研究者として証拠が見つからなかったといった、あまりニュース価値のない研究失敗の「発表」である。なのに、「強制連行証言に疑問」という見出しはないだろう。〝裏づけ証言が得られなかった″〝秦氏が不明を恥じる″、という見出しの方が適切ではないか。
もう一つの見出しの「被害者側が否定」も、意味が分からない。済州島の老人や新聞記者は「被害者側」なのか。
この記事には、産経記者の電話取材による、吉田清治氏の次のようなコメントを掲載している。「私は事実を書いた。…儒教の伝統が強い韓国では仮に強制連行であっても一族に従軍慰安婦がいたということは末代までの名折れであり、本当のことを言うはずはない。被害者の家族が名乗り出ないのは当然であり、済州島の古老の人たちが本当に(秦教授らに)事実を話したかどうか、分らない。私は済州島の被害者の家族からお礼の手紙ももらっている」
秦氏のコメントも併せて掲載してあるが、自らの不明を恥じるのではなく、あたかも「吉田証言が疑わしい」といえる発見があったかのように言うところが彼らしい。「今回の調査結果によって、吉田氏の〝慰安婦狩り″が全否定されたことにはならないが、少なくとも、その本の中でかなりの比重を占める済州島での〝慰安婦狩り″については、信ぴょう性が極めて疑わしい、といえる」
ただし、産経新聞と言えども当時は、この程度の現地調査で、「吉田証言」を「ウソ」とか「虚偽」などと全面否定しない見識を持っていたことがわかる。
ところが、いまの産経新聞の見地は違う。この論文は、最近の産経新聞社発行の月刊誌『正論』十四年十一月号に再録されているのだが、その前文には「九十年代に猛威を振るった『慰安婦強制連行』説。その根拠だった吉田証言の嘘を見抜き、ついには朝日新聞に白旗を上げさせた重要論文!」とある。いつのまにか、この論文は「吉田証言の嘘を見抜いた」論文にされている。
裏どり証言が、いろいろなやむ得ない事情で得られないことをもって、その証言を「ウソ」と断定する手法は、やはり詭弁の一種だ。
この詭弁だが、実は朝日の検証記事にいたるところで見受けられる。「『済州島で連行』証言、裏づけ得られず虚偽と判断」「読者のみなさまへ――吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏づける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました」。朝日は、ジャーナリズムの実証的手法を投げ捨て、このいかがわしい詭弁の手法まで、受け入れてしまったのだろうか。
ちなみに赤旗の検証記事は、こう書いている。「この『吉田証言』については、秦郁彦氏(歴史研究家)が九十二年に現地を調査し、これを否定する証言しかでてこなかったことを明らかにしました(『産経』九十二年四月三十日付)」。ここには、右翼論客である秦氏への批判的見地も、右翼紙・産経新聞に対する警戒もない。諸手を挙げての賛美である。しかも、朝日や秦氏と違って、赤旗は、裏づけのための済州島の現地取材さえ、やった形跡がない。秦氏の一回だけの現地取材をもって「(済州島では)これを否定する証言しか出てこなかったことを明らかにしました」という、みずからが報道機関であることさえ忘れた断定である。あきれるばかりである。
話はそれるが、一つだけ、注目すべき吉田氏の発言部分を強調したい。「私は済州島の被害者の家族からお礼の手紙ももらっている」という部分だ。産経新聞は「吉田証言」を虚偽だとキャンペーンをしながら、この発言をいまだに(十一月二十二日現在)取り消していない。朝日に対して〝裏どりをしないで吉田証言を掲載した″と徹底的に非難する産経新聞だから、当然、この発言部分も裏どりをして掲載したものと思いたい(笑い)。産経新聞紙上ではこの「吉田証言」は生きている。なお、手紙の当時の差出人は、済州島の住民だとは限らないことに注意を喚起したい。そこに今後の裏づけ調査の手がかりがあるのではないか。>
①p百六十四〜百六十九
まさに、おいおい、である。
<秦氏が「貝ボタン組合の役員をしていたなどという何人かの老人たちと会い、確かめたところ、吉田氏の著作を裏づける証言は得られなかった」ということや、「吉田証言」について、済州島現地の新聞記者が一部の地元民を調べ、裏どり証言をする人が「ほとんどいない」という結果だったということだけである。いわば、歴史研究者として証拠が見つからなかったといった、あまりニュース価値のない研究失敗の「発表」である。なのに、「強制連行証言に疑問」という見出しはないだろう。〝裏づけ証言が得られなかった″〝秦氏が不明を恥じる″、という見出しの方が適切ではないか。もう一つの見出しの「被害者側が否定」も、意味が分からない。済州島の老人や新聞記者は「被害者側」なのか。
この記事には、産経記者の電話取材による、吉田清治氏の次のようなコメントを掲載している。「私は事実を書いた。…儒教の伝統が強い韓国では仮に強制連行であっても一族に従軍慰安婦がいたということは末代までの名折れであり、本当のことを言うはずはない。被害者の家族が名乗り出ないのは当然であり、済州島の古老の人たちが本当に(秦教授らに)事実を話したかどうか、分らない。私は済州島の被害者の家族からお礼の手紙ももらっている」>
<「吉田証言」の信ぴょう性を検証するなら、何はさておき、その核心である南朝鮮での従軍慰安婦狩りの事実こそ、調査すべきであろう。秦氏の「研究」は、そうした現地調査は適当に済ませて、>
①p百九十三
吉田氏証言を否定する秦氏の済州島おける実地調査を否定するのであれば、今田氏自身がその証明をしなければならない。
では、<赤旗の検証記事は、こう書いている。「この『吉田証言』については、秦郁彦氏(歴史研究家)が九十二年に現地を調査し、これを否定する証言しかでてこなかったことを明らかにしました(『産経』九十二年四月三十日付)」。ここには、右翼論客である秦氏への批判的見地も、右翼紙・産経新聞に対する警戒もない。>と書く今田氏は秦氏の証言を否定できるだけの材料があるのかといえば何も示していない。
吉田氏がいう被害者からのお礼の手紙の事実を秦氏がしなければいけないのか。吉田証言が「事実」であると信じている今田氏こそ、吉田証言の裏付けを取らなければならないはずである。
あほらし
今田真人の著書「吉田証言は生きている」での違和感その十
8月18日火曜日晴れ×
< 五、白を黒といいくるめるための、引用改ざんの手法
秦氏の著作は、「吉田証言」を否定したという2人の研究者の著作を紹介している。一人は戦争責任資料センター会員の西野留美子(「西野瑠美子」と書かれた著作もある)氏、もう一人は中学教諭の久保井規夫氏である。
略)
次に、久保井規夫氏の著作『教科書から消せない歴史――「慰安婦」削除は真実の隠蔽』(1997年、明石書店)を、秦氏は次のように紹介している。
「久保井規夫のように『吉田証言は信憑性がないことは(秦氏によって)立証された』『私は朝鮮では公然と暴力を振っての……強制連行は少なかったと判断』と書く人もいる」(秦『慰安婦と戦場の性』P243)
この秦氏の著作の引用を素直に読めば、久保井氏が吉田証言をやはり否定したとしか思えない。しかし、実際の久保井氏の著作には次のように書かれている。
「『自由主義史観研究会』の藤岡信勝氏は、日本軍『慰安婦』を娼婦と決めつけ、次のように主張する。…日本軍『慰安婦』を娼婦と決めつけた誤魔化しには次の説で改めて反論する。藤岡氏の主張を続けよう。『強制連行を主張している人々は何を根拠にそう言い立てているのだろうか。自分が強制連行したと称する日本人の証言である。他ならぬ実行犯の告白であり、しかも一見した処自分に不利な事実の暴露なので信用できると思われるのがねらいである。吉田清治著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房、1983年)がその証言である。しかし、この本は既にその虚構性が完全に暴露されており、このような資料に基づいて強制連行があったかのように教える事は、言わば史実の捏造をもとにした教育を行う事を意味するのである。』と言う(藤岡信勝著『汚辱の近現代史』徳間書店)。この吉田証言が崩せた事で彼らは勢いづいたようである。吉田清治氏…の証言の『虚構性を暴露した』のは『つくる会(筆者注=新しい歴史をつくる会)』の賛同人の1人でもある秦郁彦氏(千葉大学教授)の調査である。彼らが吉田証言を虚偽とした調査の経過は、板倉良明『検証「慰安婦狩り」懺悔者の真贋 阿鼻叫喚の強制連行は本当にあったのか』(文芸春秋『諸君』1992年7月号)に詳しいので要約してみよう。……吉田氏の証言は、秦郁彦氏の現地調査によって否定された(『産経新聞』1992年4月30日付)とする。……長々と紹介したが、要するに、秦氏の現地調査では、貝ボタン工場での、『慰安婦』の暴力的な強制連行の裏づけはとれなかったので吉田証言は疑問である(此処までは良いが)。
だから、『慰安婦』の強制連行は一切が『史実の捏造』だと曲論するのである。私も、現場教師であるとともに、歴史家の端くれと思っている。率直に私自身の判断を述べよう。必ず、証言・資料についての検証は大切であり、吉田氏自身のきちんとした釈明・反論がなし得ない限り、吉田証言については、誇張・創作・増幅された形跡があり、秦氏の調査・指摘で信憑性がない事は立証されたと見る。吉田証言は、歴史資料としては採用できない。…吉田証言が否定されたとしても、すべての『慰安婦』の証言に見られる、数々の強制された史実をすべて否定できるとするのは暴論の極みであり、歴史家とは言えない。1で百を否定はできないのである」(P97~101)
これも長い引用になったが、要するに久保井氏は「秦氏の調査・指摘で(吉田証言が)信憑性がない事は立証されたと見る」と言うものの、その文章の直前に「吉田氏自身のきちんとした釈明・反論がなし得ない限り」という留保条件をつけている。秦氏は、この留保条件を引用せず、久保井氏が無条件に「吉田証言は信憑性がないことは(秦氏によって)立証された」と記述しているようにみせかけている。この著作は吉田氏が死亡したとされる2000年7月(朝日14年8月5日付)より前の97年に刊行されており、吉田氏の釈明・反論を促したものでもあったかもしれない。秦氏の留保条件を無視した引用は、我田引水という。これも引用の改ざんの一種である。
ついでにいえば、「私は朝鮮では公然と暴力を振っての……強制連行は少なかったと判断」という久保井氏の記述は、ここでは紹介しないが彼自身の独自分析による「判断」であり、吉田証言を虚偽としたものではない。「(朝鮮では)強制連行は少なかったと判断」と言う慎重な記述にそれが表れている。
以上のように、秦氏の著作は、吉田証言を否定していない研究者の著作を、あたかも否定しているように見せかける巧妙な引用の改ざんをしている。まさに白を黒といいくるめる手法である。>
P百七十二〜百七十九
手元に西野氏の著書がないので、久保井氏のみに限って、書かせていただきます。
久保井氏については、私も過去に指摘していますが、吉田清治氏と五十歩百歩という程度の人間ですが、それにまた同程度の今田氏がアホを書いていると思ってくださればいいのかなと。
今田氏が秦氏が留保条件を抜いて引用した事を「改ざん」したと言っているが、吉田氏の慰安婦強制連行について疑問を呈した久保井氏の下記の記述を抜いて引用している。
<更に、私は、次の三点の理由を加える。
一、すぐに分かったが、「動員命令書」の昭和十八年五月十五日はおかしい。「皇軍慰問朝鮮人女子挺身隊二百名」と記されたと言うが、「女子挺身勤労命令」の法令が施行されたのは、翌年の昭和十九年八月二十二日であり、女子挺身隊の「動員命令書」などありえない。日記にまで記したと言いながら、虚偽か思い違いである。
二、吉田氏の虚偽性については、既に福岡県の朝鮮人強制連行に関わっている人々が指摘しており、検証中であった。吉田氏は動員の最前線にあった事は確かだろうが、でも、動員された者の行き先や実態を把握できる地位になかったし、把握しようともしなかった。吉田氏は、自らが動員した者の状況を戦後になって調査を始め、結果を証言と絡ませてまとめたようである。だから、最大の強制連行先の福岡県筑豊を上辺だけ見て、「未だに朝鮮人の遺骨も粗末に扱われた筑豊のアウシュビッツ、私が全国慰霊祭をやる」とか「資料を売って欲しい」などと、地元の朝鮮人強制連行と関わる取り組みを否定して反発を招いていた。
三、私は、朝鮮では、公然と暴力を振るっての日本軍「慰安婦」の強制連行は少なかったと判断する。特に、吉田証言のようなやり方は、日本の兵站基地、あわよくば運命共同体と目されて「徴兵」「徴用」政策が取られた朝鮮・台湾では難しい。ほとんどは「徴用」か「挺身隊」・「軍属(看護助手・雑役)」の名目や軍需工場の応募工員等の誤魔化しで、故郷の朝鮮から徴発・募集して、その後に日本軍「慰安婦」を強制するやり方であろう。韓国「併合」以後の植民地支配で、反日独立の戦いや、千九百十年の三・一独立運動での朝鮮民衆の抵抗を前に、日本は皇民化政策を第一義の政策としていた。さらに戦時には、徴兵・徴用による国家総動員を日本内地に続けて実施し始めていたのであり、朝鮮民衆の総反発を招くような暴力的な手段によって朝鮮女性を「慰安婦」として公然と連行する事は困難だったとみる。>
⑤P百〜百一
今田氏が<ついでにいえば、「私は朝鮮では公然と暴力を振っての……強制連行は少なかったと判断」という久保井氏の記述は、ここでは紹介しないが彼自身の独自分析による「判断」であり、吉田証言を虚偽としたものではない。「(朝鮮では)強制連行は少なかったと判断」と言う慎重な記述にそれが表れている。>とすっぽりと抜いて書いている久保井氏の著書の記述こそは、久保井氏による吉田氏の著書の完全否定であり、それを省いて引用している今田氏こそが久保井氏の記述を省いて都合よく書いているのであり、これを読んで久保井氏が吉田氏の著書を肯定していると思うバカはいないであろう。
つまり、今田氏こそが、自分に都合よく改ざんしまさに白を黒といいくるめる手法をとっているのである。
あほらし
今田真人の著書「吉田証言は生きている」での違和感その十一
8月20日木曜日晴れ△
六、略
<七、戦中の特高警察の流れを汲む反共謀略組織の代弁者の疑い
秦氏の著作には、研究者とは思えない杜撰な叙述がある一方、公安警察など、反共謀略組織しかわからないような吉田氏の経歴について、不自然に詳細な暴露がある。
それをよく示しているのが、二百四十五ページに掲載された「吉田清治の証言――虚と実の比較」と題した十三項目の一覧表である。
左の「本人の陳述」という項目をみよう。一、氏名、二、生年月日、三、本籍地、四、学歴(A)、五、学歴(B)、六、職歴(A)、七、職歴(B)、八、金永達、九、入獄、十、結婚、十一、労務報国会、十二、済州島の慰安婦狩り、十三、戦後の略歴。
右に「実際」とあって、左の「本人の陳述」の真偽が書かれている。
問題なのは、十一と十二を除き、あとの十一項目が吉田氏のプライバシーに属するものであることだ。それを秦氏は「嘘で固めたライフ・ヒストーリー」といいながら、プライバシーを暴こうとしている(P二百四十三2~)。
この姿勢に大変な違和感を持つのは、私だけであろうか。
「吉田証言」の信ぴょう性を検証するなら、何はさておき、その核心である南朝鮮での従軍慰安婦狩りの事実こそ、調査すべきであろう。秦氏の「研究」は、そうした現地調査は適当に済ませて、そのエネルギーのほとんどを、吉田氏の身辺調査にあてている。何のための調査なのだろう。
十一項目のプライバシーにかかわる経歴の中で、事実と違うと確認されているのは、一、氏名、三、本籍地、四、金永達、十結婚の四つだけ。氏名はペンネームなので、それがウソだと言っても意味がない。本名をなぜ、暴かなければならないのか。本籍地が山口県とある(吉田氏の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』P十九)のに、本当は福岡県だったというのも、ペンネームを使った趣旨からいって、本人が隠そうとしているものであり、それをどんな調査をしたのかはわからないが、本人に了解もなく暴いている。吉田氏の同上の著作に出てくる金永達氏についても、本名を暴露したりする目的がわからない。
同様な朝鮮人を養子にしていることが確認されただけでも、吉田氏の著作の信ぴょう性は高い。吉田氏の結婚の時期が、数カ月ずれているというのも、どうでもいい枝葉末節のことである。
吉田氏は2作目の著作『私の戦争犯罪』の「まえがき」で次のように書いている。「私のこの記録は、四十年近い過去の事実を、現在まだ生きている当時の部下たち数人と何回か語り合って思い出したり、現地から亡妻や親戚友人たちへ、労務報国精神を誇示して書き送っていた私の手紙を回収したりして、記憶を確かめながら書いたものである」(P四)。また、最後の章の末尾の「付記」には「文中の氏名は、本人や遺族から公表することを拒否され、すべて仮名にしました」と書かれている。
こうした断り書きを吉田氏がしたのは、吉田氏以外の関係者は、証言や事実を公表されるのを嫌がっていたということを示している。
それはなぜか。秦氏の著作にも、それが書かれているではないか。「(裏づけをとりたいので、旧部下の誰かを紹介してくれとの秦氏の要求に)この本を書く時、十人ぐらいの旧部下に一緒に書こうと誘ったが、怖がって断られた。それで二、三人に話を確かめたのち、私一
人の本として出したのだ。絶対に教えられない」と吉田氏は答えている。
吉田氏は、旧部下の所在や氏名を詮索されないように、その部分をフィクションにしたと示唆している。これは、戦争犯罪の加害者が、あえて体験を証言する際、当然の配慮であって、それを「ウソ」だとあげつらう方がどうかしている。
吉田氏が八十二歳になった晩年の九十六年、『週刊新潮』記者の電話取材に対して、次のように言ったという。「秦さんらは私の書いた本をあれこれ言いますがね。まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もあるんですよ。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしょうがない(『週刊新潮』九十六年五月二・九日号)。
このくだりは、秦氏や赤旗などが自分の論旨に都合のいい部分だけを引用し、吉田氏が自身の証言を「ウソ」と自白した決定的な証拠にしているが、曲解もはなはだしいと言わざるを得ない。
ちなみに、この『週刊新潮』記者の取材は、例の電話取材だったのだが、九十六年五月二・九日号の記事では明らかにされていない。あたかも記者が吉田氏に面会取材した際に、吉田氏が語ったように書かれている。天網恢恢疎にして漏らさずというべきか、秦氏の『慰安婦と戦場の性』で、「週刊新潮九十六年五月二・九日号」が「吉田氏は電話インタビューで『本に真実を書いても何の利益のない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか』と弁じた」(P二百三十八)と明らかにしている。
『週刊新潮』記者も秦氏と同様、吉田氏と面談もできないくせに、あれこれと誹謗中傷を書いているのだ。メディアとしては最低である。
ところで、秦氏が詮索している「十三項目の一覧表」の中で、吉田氏が「陳述」もしてないのに、詳しく暴いている経歴がある。それは十三戦後の略歴である。「四十七年下関市議に共産党から出馬して落選、七十年頃門司の日ソ協会役員をしていたほかは、職歴不明」というものだ。いったい、これは誰が暴いた「実際」なのか。一覧表の脚注の「(注二)」にこうある。「『実際』の諸事実は、一九九三-九六年にかけ、秦、板倉由明、上杉千年らが、下関を中心に吉田の縁者、知人などを通じ調査した結果である」。
板倉由明氏とか、上杉千年氏とかいう人物は何者か。国会図書館で、その名前で関連論文・著作を探った結果が、以下のものである。
★板倉由明「朝日新聞に公開質問!阿鼻叫喚の強制連行は本当にあったのか?――検証『慰安婦狩り』懺悔者の真贋」(『諸君!』九十二年七月号)
★上杉千年「吉田『慰安婦狩り証言』検証・第二弾――警察OB大いに怒る」(『諸君!』九十二年八月号)
★上杉千年「総括・従軍慰安婦奴隷狩りの『作り話』――元・共産党員、吉田清治氏の従軍慰安婦狩り証言は、真実か。その証言を検証しつつ、その『偽証』実態を明確にする」(『自由』九十二年九月号)
★上杉千年「連載五、作り話『南京大虐殺』の数的研究」(『ゼンボウ』九十二年十月号)
★上杉千年『検証 従軍慰安婦――従軍慰安婦問題入門』(九十三年七月二十四日、全貌社発行)
★上杉千年「(「虚報と反日に踊る日本」特集)日本人として『教育を受ける権利』は何処へ、『従軍慰安婦』が教科書に」(『ゼンボウ』九十三年九月号)
『諸君!』『自由』『ゼンボウ』という月刊誌は、いずれも現在は廃刊になっているが、少し古い共産党関係者なら、だれでも知っている反共謀略誌である。
秦氏は、板倉氏と上杉氏とどういう関係なのか。秦氏の著作のP二百四十三にはこうある。「私は済州島から帰ったあとも、ひきつづき自伝風に書かれた吉田の第1作を手がかりに、彼のライフ・ヒストリーを洗った。知友の板倉由明、上杉千年や出身地の方々なども協力してくれた」。彼らは秦氏の「知友」なのである。
彼らの論文や著作を読めば、彼らが日本共産党を攻撃することを主な仕事とする「研究者」たちであることは明らかである。だから、吉田氏が共産党の候補者だったことを取り立てて問題にする。
彼らの論文などを読めば、その「研究」が公安警察の手法と変わらないものであることがわかる。吉田氏が戦後直後に下関市議選で共産党の候補者として立候補して落選したという「事実」は、公安警察が最も興味を示すテーマだが、「従軍慰安婦狩り」の証言の真偽にはまったく関係はない。吉田氏にとって、最も公表してほしくない思想信条の自由に属する問題である。
そういう問題を彼らは必死になって調べている。初出を探したが、どうも上杉氏の「吉田『慰安婦狩り証言』検証・第二弾――警察OB大いに怒る」(『諸君!』九十二年八月号)がそのようだ。
そこには次のような記述がある。「(九十二年)七月号(板倉論文掲載)の発売と同時に、編集部には吉田氏の戦前の活動の舞台であった下関・福岡方面から、若干の情報が寄せられてきた。筆者上杉と(『諸君!』の)編集部が、山口県下関方面に取材の足を向けたのは、その幾つかの情報に促されてのことである。…まず、寄せられた情報を頼りにたどり着いた吉田氏の妻(故人)の実家、および幼い頃他家の養女となった吉田氏の実姉、さらに地縁のある人々の遠い記憶から、氏の最初の著書に描かれた戦前のドラマの虚と実が、一部ではあるが明らかになったことをまず報告しておくべきであろう。板倉氏が前号の公開質問の第一に挙げていた吉田清治氏の本名は『吉田雄兎』であった。おそらく『清治』はペンネームなのであろう。…ところで、ここに興味ぶかいデータがある。昭和二十二年四月三十日に投票の行われた下関市市会議員選挙の開票結果である。『吉田雄兎百二十九票』。最下位当選者の六百五十八票に遠く及ばぬ落選であったが、吉田氏は戦後一転、共産党から市議に立候補していたのである。この転身が、いわゆる戦後百八十度の転向を意味するのか、それともその源は朝鮮人を養子にした若き日に求めるべきなのか。吉田氏の経歴への疑念は深まるばかりである」
これが、上杉氏の調査だというが、よく読めば、「ここに興味ぶかいデータがある」というだけで、上杉氏らは「寄せられた情報」を鵜呑みにしている。それはなぜなのか。だれが、この「情報」を彼らに渡したのか。それは、そういう調査を得意としている公安警察以外にないだろう。彼らは公安警察情報を裏づけも取らずに信じる「研究者」なのである。
ところで、私は最近、山口県下関市の選挙管理委員会事務局から「昭和二十一年~昭和五十五年 選挙の記録(下関市選挙管理委員会)」という冊子の該当部分をFAXで送ってもらった。そこには昭和二十二年(四十七年)四月三十日の下関市議会議員一般選挙の得票結果が示されており、落選者の中に日本共産党・吉田雄免、百二十九票という記述がある。しかし、それは、上杉氏の論文が言うように「吉田雄兎」ではない。「吉田雄免」だ。名前が一字でも違えば、本人かどうかは確認できない。なぜ、上杉氏は、これを吉田雄兎氏=吉田清治氏だと断定するのか。ここにも上杉氏は「研究者」とは別の顔を持っていることがうかがえる。
公安警察は、戦中の特高警察の流れを汲む反共謀略組織である。秦氏たちは、特高警察の代弁者として、戦時中から共産党員であったかもしれない吉田清治氏の人格を必死に貶めようとしているのではないか。安倍首相ら保守政治家が吉田清治氏を「眉唾もんだ」などと目の敵にするのも、特高警察流の「共産党憎悪」の思想が底流にあると思えてならない。
p百九十二〜二百一
このように、今田氏は「秦氏たちは、特高警察の代弁者として、戦時中から共産党員であったかもしれない吉田清治氏の人格を必死に貶めようとしているのではないか。安倍首相ら保守政治家が吉田清治氏を「眉唾もんだ」などと目の敵にするのも、特高警察流の「共産党憎悪」の思想が底流にあると思えてならない。」と物事を先入観で判断し、秦氏の些細な文章の違いを指摘しておきながら、今田氏本人は秦氏について「買春した「ホテトル嬢」にだまされた怨みが動機?」として下記のように書いている。
< 八、買春した「ホテトル嬢」にだまされた怨みが動機?
最後に、蛇足かも知れないが、やはり書いておいた方がいいことがある。それは、秦氏がなぜ、こんな著作を書いたかという動機である。
秦氏は、従軍慰安婦が国家によって強制されたという事実を絶対認めようとしない。著作の第六章「慰安婦たちの身の上話」で縷々書いているように、「慰安婦だった事実だけでも、立証困難な例が多いから、彼女たちが数十年の歳月を経て記憶だけを頼りに語る『身の上話』は雲をつかむようなものばかりである」という姿勢である。
元慰安婦の女性に対する思いやりは皆無で、むしろ蔑視する記述がいたるところに出てくる。例えば、「現在までに名のり出た慰安婦は三百人程度で、きわめて一部にすぎないが、次のように共通したパターンは見える」とし、四つの特徴の一つとして「知力が低く、おだてにのりやすい」と分析してみせる。ここまで、元慰安婦の女性を貶めようとする研究者が他にいるだろうか。
秦氏は、慰安婦たちが日本の軍や官憲に強制されたのではなく、売春婦として大金を稼ぐためにやったといいたいようだ。これは、第六章全体を読めば、明らかである。
秦氏にすれば、慰安婦を売春婦とみなすための最大の障害が、軍や官憲による慰安婦の強制連行の実行責任者として証言した吉田氏であった。だから、秦氏は、執拗な攻撃を吉田氏に向けてきた。
秦氏はなぜ、そんなに売春婦を蔑むのか。その答えが、著作に散見される。
P百七十七「昔から『女郎の身の上話』という言い伝えがある。純情な若者がすっかり信じこんでいるのを、年長者がからかい気味に戒めるときに引かれるが、最近だと女郎でなく『ホステス』や『ホテトル嬢』におきかえてもよい。当の私自身も若い頃に似たような苦い思いをかみしめたことがあるが、客を引き留める手練手管と割り切れば、さしたる実害はなかろう」
P二百七十四「昔から『女郎の身の上話』という諺がある。私も若い頃、ホステスの身の上話を聞かされ信じこんで先輩から笑われた経験がある」
つまり、秦氏は若い頃に買春をし、その時の売春婦にだまされて大金を失ったという体験を披露しているわけだ。
そういう過去の行為が大学教授や研究者のモラルとして許されるかどうか。それは、いまは問わない。
上に紹介した秦氏の個人的体験は、上段の部分は次のように続く。「しかし、国家としての体面や法的処理に関わるとなれば、検証抜きで採用するわけにはいかない」(P百七十七)。つまり、元慰安婦の証言は、売春婦の身の上話のようなものだから、それを検証なしに信じてはいけないという論理につながる。
下段の部分も「それにしても、裁判所へ提出する訴状なら弁護士が整理してくれるから多少はましかと思えば、高木健一弁護士らがついている慰安婦訴訟の訴状に添えられた身の上話は、お粗末なものが多すぎる」(P二百七十四)と続く。これは、元慰安婦の証言は、売春婦の身の上話のようなものだからウソに違いない、だから、裁判で元慰安婦の証言を採用すべきではないという論理になる。
秦氏がこのとんでもない論理を本気で信じていることを示すのが、この著作で元従軍慰安婦の証言を「身の上話」と一貫して書いていることである。
秦氏は、従軍慰安婦の国家による強制を否定することで、個人的な怨みを晴らそうとしているようである。これは、冷静で科学的、実証的な態度が要求される歴史研究にあってはならない態度である。これだけをとっても、秦氏の「研究」のデタラメさは明らかである。
ところが、秦氏はこうした批判を予想したのか、著作の「あとがき」で次のように言う。
「執筆に当っては、一切の情緒論や政策論を排した。個人的な感情や提言も加えなかった。事実と虚心に向きあうには、そうするしかないと考えたからだ」(P四百二十九・四百三十)
思わず「ウッソー」という言葉が出てくる記述だ。秦氏が、読者を煙に巻くためなら、どんなウソでも平気でつく、底知れないずるさを持った人物であることを示している。
以上、一から八に渡って、秦氏の著作を検証してきた。それは、様々な詐欺的手法を駆使し、詭弁をろうするものだ。その秦氏による「吉田証言」の検証は、とても信ぴょう性があるとは言えない。秦氏こそ、彼が吉田氏に当初から投げつけてきた「職業的詐話師」という言葉が、ぴったり当てはまる人物である。その「職業的詐話師」の「研究」に大きく依拠した朝日や赤旗の「検証記事」の信ぴょう性が、ますます問われている。>
①p二百一〜二百五
秦氏に対して
< P二百七十四「昔から『女郎の身の上話』という諺がある。私も若い頃、ホステスの身の上話を聞かされ信じこんで先輩から笑われた経験がある」
つまり、秦氏は若い頃に買春をし、その時の売春婦にだまされて大金を失ったという体験を披露しているわけだ。>
とこのアホは秦氏が言ってもいない買春話を自分で作っているのである。秦氏は「ホステスの身の上話」と言っているのであって、「売春婦の身の上話」ではないのである。
ホステスのいる店に行く事がどうして売春婦のいる店に行く事になるのか。ましてや、どこにも女性を買ったなどと書いていないのを<買春した「ホテトル嬢」にだまされた怨みが動機?>などと自分で勝手にそう解釈しているのである。
また、今田氏が「彼らは公安警察情報を裏づけも取らずに信じる研究者なのである」と言っている板倉氏が秦氏に関して「私記 南京虐殺 曽根一夫」の嘘をそのまま自分の南京事件に関しての著書「南京事件」に引用していることにより、板倉氏より『諸君!』一九八八年十二月号において、「『南京虐殺』のザンゲ屋、『曽根一夫』の正体」と題して、厳しく指摘している事など一切お構いなしなのである。
まさに自分こそが、裏付けも調査も何もなしに「吉田氏の発言が正しい」と信じる愚かものなのである。
今田氏は脳みそが腐っているとしか言えない。
あほらし
今田真人の著書「吉田証言は生きている」の違和感最終章
8月21日金曜日晴れ
<秦氏は、従軍慰安婦が国家によって強制されたという事実を絶対認めようとしない。>
①p二百一
だから、検証が大切であるのに、今田氏はそれをやった秦氏の検証を否定しながら、それを否定する資料の提示もしていない。
<秦氏は、慰安婦たちが日本の軍や官憲に強制されたのではなく、売春婦として大金を稼ぐためにやったといいたいようだ。>
①p二百二
今田氏は現実に、朝鮮人戦時売春婦であるが大金を返せと言ってきたことを無視している。
金学順など朝鮮人戦時売春婦の証言については湊郁彦氏が著書「昭和史の謎を追う」(文春文庫)、杉本幹夫氏の著書「植民地朝鮮の研究」(展転社)など数々のみなさんが強制連行についてそのウソについて指摘しています。
金学順は訴状(全文は平林久枝編『強制連行と従軍慰安婦』日本図書センター一九九二年刊収録)では「一九二三年生まれ。金泰元の養女となり、貧しさのため十四歳で四十円で養父に妓生として売られ」
文玉珠は訴状では「一九二四年貧家に生まれ、女中をしている時、宋という朝鮮人から『食堂で働かないか』と誘われ、四二年釜山から船でビルマに渡った。慰安婦として働いて、ためた一万五千円のうち五千円を実家に送った。」
となっています。
文玉珠という慰安婦は、平成四年に二万六千百四十五円の郵便貯金返還の訴訟を起こして敗れている。
連合国軍がビルマの朝鮮人慰安婦に尋問した結果 報告によると、「一カ月三百-千五百円の稼ぎを得て、 五〇-六〇%は経営者の取り分だった」
となっています。つまり、慰安婦としての稼ぎは月収にして百五十円から 七百円ほどにもなります。
当時の日本人の月収はどれほどだったか 。
警察官の初任給が四十五円、 大学の年間授業料は早大が 三百四十円、慶大が三百五十円
『値段の明治大正昭和風俗史』(週刊朝日編)
そして、下記にその慰安婦に対して料金を払っていたであろう我が国の軍人がどれだけ給料を得ていたかを記します。
「知識の宝庫」学習社 昭和一三年版二九九頁(私は「正論」平成一九年一〇月号P四〇九~四一〇より引用)
大将でも年間六六〇〇円の金額であった時代に、文玉珠という売春婦は二万六千百四十五円の郵便貯金を持ち、ためた一万五千円のうち五千円を実家に送ったのです。
ちなみに、郵便貯金の二万六千百四十五円は確認されたが敗訴になっている。つまり、間違いなく、その時代にその大金を慰安婦をする事により稼いでいたのです。
何度も書きますが、売春婦は歴史的にも今も世界有数の売春大国であリ続ける朝鮮はもちろんの事、我国にも存在します。需要があり、そして、お金になるからです。ましてや、今よりも貧しい時代であり、売春も合法であった時代ということを考えればおのずとわかることです。
アホの典型。我田引水、面の皮の厚さだけは一人前つうのが今田氏のようです。
あほらし。
参考文献
①「緊急出版 吉田証言は生きている 慰安婦狩りを命がけで告発!」今田 真人 共栄書房 平成二十七年刊
②「朝鮮人慰安婦と日本人」(吉田清治著 人物往来社 昭和五十二年刊)
③「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」吉田清治著 三一書房 一九八三年刊
④「昭和史の謎を追う 下」文藝春秋 一九九九年刊
⑤『歴史を偽造する韓国』中川八洋 徳間書店 二〇〇二年刊
「Will」二〇〇五年四月号
「諸君!」一九九八年十一月号
⑥『教科書から消せない歴史――「慰安婦」削除は真実の隠蔽』久保井規夫 明石書店 一九九七年刊
⑦「慰安婦と戦場の性」秦郁彦 新潮選書 一九九九年刊
「従軍慰安婦」をめぐる三十のウソと真実 吉見義明・川田文子著 大月書店一九九七年刊 p二十六〜二十七
秦氏に対しての今田氏の文章は今田氏のホームページで全文を読むことができます。
http://masato555.justhpbs.jp/newpage118.html
魚拓
http://megalodon.jp/2015-0710-0850-21/masato555.justhpbs.jp/newpage118.html