本多勝一の精神構造 生年月日、学歴
本多勝一の精神構造
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
その一 生年月日
平成18年7月3日月曜日 晴れのち一時大雨 ○
今発売中の「Will」に「本多勝一 疑惑だらけの履歴書」(朝日新聞を正す会)と題された文章が掲載されている。これによると、本多氏の生年月日が「一九三一年」「一九三二年」「一九三三年」とバラバラなのである。私の手許にある数冊の本多氏関連の著書を見てみると、確かにバラバラである。ましてや、目まぐるしく変わっているのである。
今、私の手許の本多氏の著書(共同執筆を含む)を年代別にあげてみると
著書名 | 発行年度 | 著書に記された生年月日 |
中国の旅 | 一九八一年刊 | 一九三三年生まれ |
殺される側の論理 | 一九八二年刊 | 一九三三年生まれ |
南京への道 | 一九八七年刊 | 一九三一年生まれ |
裁かれた南京大虐殺 | 一九八九年刊 | 一九三三年生まれ |
天皇の軍隊 | 一九九一年刊 | 一九三二年生まれ |
南京大虐殺の研究 | 一九九二年刊 | 一九三三年生まれ |
貧困なる精神Z集 | 一九九三年刊 | 一九三二年生まれ |
ジャーナリズムと歴史認識 | 一九九九年刊 | 一九三一年生まれ |
同じく手許にある「中国の日本軍」「南京大虐殺否定論13のウソ」という著書は生年月日も学歴も記してはいません。
裁判において生年月日について指摘された事を「体験的本多勝一論」に殿岡昭郎氏が書いたそうである。
以下は「Will」平成十八年八月号よりの引用
佐藤「・・・あなたの身上、経歴に関してですけれども・・・あなたは・・・一九三一年の十一月生まれということですね」
本多「そうですね」
佐藤「これは本当の生年月日ですか」
本多「少なくとも戸籍上ではそうですね」
佐藤「・・・これまで刊行してきた著作物には一九三三年生まれというふうに記していますね」
本多「そういうのもありますね」
佐藤「あなた自身一九三三年生まれだと考えているわけですか」
本多「という可能性もあるということです」
佐藤「一九三三年の何月何日ですか」
本多「四月二八日ですね。その可能性があるということですね」
佐藤「戸籍上は十一月何日ですか」
本多「二十二日ですね」
引用終わり
本多(当時朝日新聞編集委員)が殿岡昭郎元学芸大助教授、堤尭「諸君」編集長(当時)、株式会社文藝春秋を京都地裁に提訴し、一九八七年三月三日に行われた原告本人尋問においてのものです。
文中にある佐藤とは被告側の弁護士、佐藤博史氏です。
先に書いたように、一九三一年だけでなく、一九三三年もあれば、裁判でいっていない一九三二年まであるのです。「一九三一年十一月二十二日」に生まれたという出生届が役所に受理されてから二年も経った「一九三三年四月二十八日」に生まれたという可能性があるとはどういうことなのでしょう。わけがわからんです。まして、どうして生年月日をめまぐるしく変える必要があるのでしょう。カツラとでかい似合わないサングラスで素顔を隠しているのと何か関係があるのでしょうか。
ちなみに本多氏は一九九二年に朝日新聞社を定年退職している。
「このたび私は、三三年間つとめた新聞社を、定年にともなう規約で退職した」
貧困なる精神Z集 p190
本多勝一の精神構造その二 最終学歴
7月4日火曜日くもり一時雨 △
最終学歴として本多氏の著書のひとつである「アラビヤ遊牧民」には「一九三三年、長野県生まれ、京大農林生物学科卒」と記されているそうである。私も本多氏の著書に京大探検部時代の事が書かれている事などから、てっきり本多氏は京大卒と思っていたが違うようです。本多氏が係わった先の裁判でそれを指摘され下記のように答えているそうです。
以下引用
佐藤「あなたの経歴として『京都大学教養学部入学』というのが記されておりますけれども、卒業した時期がかいていないのですが、京都大学を卒業していないのですか」
本多「厳密に言えば卒業していません。だからそのように書いたことはないはずですね」
佐藤「そうするとあなたの最終学歴は、千葉大学の薬学部卒業ということですね」
本多「卒業という意味ではそうですね」
引用終わり「Will」平成十八年八月号より
ところが、本多氏の著書「アラビヤ遊牧民」だけでなく、人名事典類の「現代日本人名録87年版」(日外アソシエーツ)には「京都大学農学部農林生物学科卒」となっているそうです。
ちなみに本多氏が裁判において、証人尋問に際して法廷に提出した「原告本多勝一の略歴等」とする文章は下記のようになっているそうです。
「原告本多勝一の略歴等」
一、 経歴
一九三一年一一月長野県下伊那郡大島村に出生
一九五四年三月京都大学教養学部入学
一九五六年四月京都大学農林生物学科応用植物教室へ
(中略)
一九五八年一〇月朝日新聞社に入社、
東京本社校閲部勤務
普通は最終学歴は「千葉大学卒業」あるいは「京都大学中退」と書くと思うのですが、本多氏の場合は違うようです。まるで、勝手に勘違いしている方が悪いのだと言わんばかりです。それだけでなく、著書、人名事典まで「京都大学卒業」と書いてあるのは学歴詐称と言われても仕方ないでしょう。生年月日といい自分の卒業した母校といいこのように表記する必要性はなんなのでしょう。結果的に本多氏の人間性に関わってくる事と思えます。
生年月日だけでなく、学歴を偽り、裁判所に提出した書類に記載した現在の住所さえ嘘を書く。(朝日新聞本社になっていたそうです)
こんな男のどこを信じればいいのでしょう。
それなのに、この本多勝一氏は他人を「文書詐欺師」などと名指しで罵っている。天に唾するとはまさにこのような男の事をいうのでしょう。
本多勝一の精神構造その三 その悪質性
7月6日木曜日晴れのちくもり △
「その文章のないように間違いがあるかどうか、あるいは事実を土台にしているか虚偽かが問題なのだ。たとえば南京大虐殺についてのルポタージュ(拙著『南京への道』)に問題があるとすれば、このルポに間違いや虚偽があるかどうか、それだけである。これまでのところ間違いは認められなかったし、むしろ南京大虐殺の証拠(第一級資料)は日本側からも続々出てきて、これを否定する側の論客はすべて敗退した」
貧困なる精神Z集 p11~12
これについてはすでに多くの方々が書いておられますが、Will十八年八月号においても、稲田朋美弁護士が「本多氏の行為の悪質性」と題して下記のように本多氏の行為を批判しています。
以下引用
本多勝一が一体どのような資料や調査をもとに「百人斬り」が真実であり、しかもその実態は「捕虜すえもの斬り」だった、などと書いたのか。少なくともこれだけは明らかにすべきことなのです。本多氏の行為の悪質性を知るためにも、本多氏の証人関門をするべきでした。
引用終わりWill十八年八月号p208
稲田氏が指摘している「本多氏の悪質生」とは、本多氏の著書「中国の旅」では、朝日新聞「中国の旅」連載中に取り上げていた「百人斬り」の記事にはなかった「殺人ゲーム」という表現まで加わっているだけでなく、後に、多くの方から「日本刀で戦闘において一〇〇人も斬れない」「両少尉は立場上、直接白兵戦の戦闘の前線には参加することなどない」などと指摘されたりしたために、追記として「捕虜すえもの斬り、百人競争」と内容をすり替えたのです。
以下引用
「向井敏明」と「野田毅」の二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの一〇キロの間に、一〇〇人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。
二人はゲームを開始した。
引用終わり 「中国の旅」p234
同じく「中国の旅」の追記より
月刊誌「中国」(徳間書店)の一九七一年十二月号では、野田少尉が故郷の小学校をたずねてこのときのことを語った自慢話が、直接きいた志々目彰氏(中央労済組織推進部)によって紹介されている。それによると、野田少尉は次のように語っている。
「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四,五人しかいない。占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびけけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろ出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る。百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆どだ」p264
これは私の手許にある本多氏の著書「南京への道」p130、「南京大虐殺否定論13のウソ」p102においても書いています。
「南京大虐殺否定論13のウソ」ではこの文に続けて、同じページに
<こういうことが真相だったのであろう。これでは、あの武勇伝も実は「据えもの百人斬り」であり、ようするに捕虜(または『捕虜」とされた一般民衆)虐殺競争の一例にすぎなかったことになる。実際問題として、宮本武蔵や佐々木小次郎が少尉クラスにざらにいたともおもわれず、白兵戦のような状況で自分が傷つかず一〇〇人も斬るというようなことは、常識的には無理なはなしであろう。>
p102
なんという卑劣さでしょう。
ましてや、本多氏は著書「中国の旅」および「中国の日本軍」などに掲載している写真は支那政府の提供したものを、何の疑問も抱かずに使用している。それらはすでに、多くの方々の検証により偽写真という指摘がある写真である。
たとえば、「強姦記念に、その相手と一緒に自分も写真をとる」(中国の旅)「やはり強姦記念に、自分自身も並んで記念撮影」(中国の日本軍)と本多氏がキャプションを入れたた写真などもそうである。
その他、「集団で輪姦のあと皆殺しにした現場」「強姦したばかりか、あとで腹を切り裂いた」などという写真はすべて支那が本多氏に提供したものである。
本多氏らは御丁寧に売国奴が集まり「南京事件調査研究会」などというものを作っている。「南京大虐殺否定論13のウソ」の中で、写真についても書いている。それを書いているのが、「南京事件」(岩波新書)に朝日新聞のアサヒグラフ昭和十二年十一月一〇日号に掲載された、「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群」とキャプションがはいった写真を、「日本兵に拉致される中国女性たち」と書いた笠原十九司都留文科大学教授というのも笑えるのだが、その笠原氏は「批判され気付いた時点で誤用写真を改めれば、著書全体の信憑性はより高くなるのである」と開き直って書いている。
この写真については笠原氏も、「南京大虐殺否定論13のウソ」に書いた「日本兵に拉致される中国女性たち」(南京事件・岩波新書)というキャプションが、実は「日本兵に拉致される江南地方の中国女性たち、国民政府軍事委員会政治部『日冦暴行実録』一九三八年発行所蔵」というキャプションであったことを隠して書いている。当時の支那の宣伝部である「国民政府軍事委員会政治部」によるプロパガンダ写真と分かっていて使用していたといわれても仕方ないのである。そうでなければ、都留大学教授という職にあるこの笠原という人は何も考える事のできない単なるバカ、脳みそが腐っていると言われても仕方ない。当たり前である。これらの写真は本人も書いていたように一九三八年に支那から出されている写真集である。普通は戦時中の写真は自軍にカメラマンが同行して自軍の方から写真を写す。ところが、日冦暴行実録のうちの多くの写真は、これらの写真を写した「日本人」の側にいる人間が「日本」が行ったはずの「蛮行」を、まるで記念写真、スナップ写真のように真直で写しているのである。当然、野蛮なはずの「日本」軍と行動を共にしている人間でなければ不可能なのである。そんなことが可能な「支那」人がいるとも思えない。ましてや、戦時犯罪の決定的な証拠となる「はず」の「日冦暴行実録」に掲載された写真が元になって、戦後、連合軍にB・C級戦犯として裁判にて断罪された日本軍人はいるのであろうか。私は知らないので、笠原、本多両氏にはぜひお教えいただきたいものである。(同じ写真が「中国の日本軍」には「日冦暴行実録」ではなく、南京市より提供されたもので、それは日本軍捕虜が所持していたものと書いてある)
本多氏の他の著書にもこのような事がすぐに見つかる。
何の検証もせずに支那の言った事をそのまま垂れ流すだけ。これが偉そうな事をいっている本多勝一という男の姿です。
何にしても「強姦記念に写真」というキャプション・・・アホ過ぎます。強姦という犯罪を犯して、それをわざわざ自分で証拠として残す・・・・。まったく同じ写真を何の考えも無しに自分のマンガにそのまま使った、あのクサレ漫画家の本宮ひろ志なみの頭です。そんなクサレ漫画家を後生大事に今でも使い続ける出版社には感心する。