西郷菊次郎

西郷菊次郎顕彰碑(西郷廳憲徳政碑)
「日台を結ぶ武士(さむらい)の絆」
平成24年3月26日月曜日晴れ ○ 30年11月二22日一部追記

週刊新潮の櫻井よしこ氏のコラム「日本ルネッサンス」に「日台を結ぶ武士(さむらい)の絆」と題されたコラムが掲載されていました。
以下引用
<日台関係の堅密さは人間同士の親和性から生まれている。そう実感させたのが一月十四日の台湾総統選挙の取材でお会いした白井真由美さんだった。台湾出身の彼女は数奇な人生を歩んで日本人となり、現在は日系米国人と結婚。カリフォルニアで小さなテレビ局を運営している。
白井さん一家の物語は古き良き日本人と台湾人の物語だ。それは「立派な日本人として生きたい」と自身を鍛錬した父の物語から始まる。
父の生年月日を尋ねると、「大正十年」と即答した白井さんは一九四七年生まれ、台湾名は林彗珍である。
「父は日本統治下の台北州宜蘭郡生まれです。宜蘭庁長は西郷隆盛の子息、菊次郎さんでした。そのせいで、父は自分の事を『おいどん』と呼ぶ『九州男児』でした」
聞く次郎は西郷が奄美大島に遠島にされた折、名門龍家の娘、愛加那との間に生まれた。西南戦争では一兵卒として戦い、右足を失った。
『西郷菊次郎と台湾』(南日本新聞開発センター)を著した佐野幸夫氏は、菊次郎の足跡を十三歳で留学した米国、西南戦争後に入省した外務省、台湾宜蘭庁長、京都市長と辿り、菊次郎が父の「敬天愛人」を実戦したことを丁寧に描写している。同書の序で、台北中日経済文化代表処元代表の羅福全氏が「宜蘭の近代化建設の基礎を確立した」菊次郎を台湾人が追慕して建てた記念碑「西郷庁憲徳政碑」を紹介している。
菊次郎の宜蘭赴任は明治三十年(一八九七年)から明治三十五年(一九〇二)年末まで、白井さんの父林栄峰氏が生まれた大正十年(一九二一)年のかなり前だ。だが、林氏が自らうぇお「おいどん」と呼んで親愛の情を示す程、菊次郎に代表される日本の台湾統治は台湾人を大切にした。

国民党軍の横行に愕然

立派な日本人でありたいと欲した林氏の教育は厳しく、妻や娘の家事にも規律を求めたという。
「たとえば洗濯物は男物と女物は一緒に干してはならない。男は寡黙で責任感が強くあれ、女は礼節を守り愛情深く他者への配慮を心がけよと言われてきました」と、白井さん。
林氏は昭和十三年、十七才で日本軍に志願した。台湾語、日本語、中国語が達者なため、軍の通訳となり、貧しかった一家を支えた。入隊後すぐに、日本軍が占領した南京に派遣された。この時氏は頭部に傷を負い、治療のため大阪に送還された。その後台湾に戻った氏は高雄の台湾製糖に入社し、日本人技師、天野温四氏と運命的な出会いを果たす。
天野氏は明治四十二年、兵庫高校を卒業後、台湾に渡った進取の気性に富んだ人だ。当時、台湾の産業は製糖と米作が主で、日本人がすでに幾つか小さな製糖所を作っていた。氏はそのひとつで技師として働き,やがて製糖の機械を作る台湾製鋼所の工場長、更に常務取締役となる。昭和十六年に日米開戦。日本はフィリピンに進出し,マッカーサー撤退後の各工場を管理運営するために天野氏は軍令で昭和十七年、マニラ入りした。
その工場で二十四歳の林氏と、後に林氏夫人となる李蘭玉さん二十歳が働き出したのが,昭和十九年四月だった。
「でもその年の十二月二十七日には軍から非戦闘員に疎開命令が出て、台湾鉄鋼所の、今風に言えばOLだった私達女性五人が一足先に疎開したのです」と蘭玉さん。天野氏ら男性陣は米軍と戦う為に残ったが、彼らもひと月余り後に山中に逃げた。両者は合流し終戦後の九月まで,北部ルソン方面の山中を逃げ続けた。
昼間は身を隠し、移動は夜間、食糧は山芋とその葉っぱとトカゲだった。逃避行の間、林氏は五十歳を過ぎた天野氏に負担をかけないよう二人分の荷物を背負い天野氏を守り続けた。ある時、天野氏が言った。
「林君、君は戦死した僕の一人息子のようだ。生還出来るかわからないが、縁があったら親子になろう」
九月、一行は投降した。DDTを振りかけられ、男女別別に収容所に入れられ、消息は互いに知る事もなかった。林氏と蘭玉さんは、台湾帰国のための船が博多から出るのを知って乗船した際に再会し、やがて結婚する。
台湾に戻った林氏は、蒋介石の国民党軍の横行に愕然とした。
故伊藤潔氏の「台湾四百年の歴史と展望」(中公新書)によると、一九四七年二月末までに国民党が接収した日本軍の資産は土地を除けば、公的機関五九三件、二九億三八五〇万円。民営企業一二九五件、七一億六三六〇万円。民間私有財産四万八九六八件、八億八八八〇万円。計五万八五六件、一〇九億九〇九〇万円に上る。実に膨大な資産である。
『みな武士』
国民党は台湾を占領し日本の資産を接収すると、台湾と日本の関係を断ち、台湾人を弾圧し搾取した。こうして四十七年二月二十七日、煙草売りの未亡人が銃で頭部を殴打され所持金を取り上げられた事件を切っ掛けに二・二八事件が起きた。国民党の発表でも二万八〇〇〇人が殺害された大殺戮だったが、国民党は此の時、台湾社会の知識人や指導者の名簿を作成し、皆殺しを図ったといわれる。
リーダー層を消し去りその民衆の力を殺ぐのは、同じ漢民族の中華人民共和国がチベット、ウイグル、モンゴルの各民族に使った手法でもある。
林氏は台南に移り、四人の子供を育てようとした。しかし、日本を愛する氏は国民党政権下で警察の監視対象となった。白井さんが語る。
「台湾ではもう暮らしていけないと考えた時、父は天野さんとの約束を思い出したのです。でっ、行方も知れない天野さんについて、婦人倶楽部の尋ね人欄に投稿しました。すると、判ったんです。居所が・・・」
林氏は天野氏に一家で養子にして欲しいと便りを書いた。天野氏はすぐに応えた。「一晩で四人も孫ができてこんなにうれしい事はない」
一家は取る物も取り敢えず、来日した。六五年(昭和四十年)のことだ。船で神戸に着くと、税関の担当者に言われた。
「養子で来たのに観光ビザでは入国で来ません」
「日本の法律に背いて入国するつもりはありません。このまま戻って出直して来ます」と林氏。
しかし、戻れば、国民党政権が一家の脱出を容認するとは思えなかった。
その時、税関の局長が、待っていなさいと言った。局長は即上京し、法務大臣石井光次郎に掛け合った。
一部始終を聞いた石井は即断した。
「特別許可でいいんじゃあないか」
こうして林家の六人は一家挙げて天野家の養子となり、日本人となった。白井さんがしみじみと語る。

「天野のおじいちゃんも武士(さむらい)、
税関の局長さんも石井法務大臣もみな武士。
私の父も武士になろうとした」

林家の人々は全員天野姓となり、雅智と改名した栄峰氏は九六年(平成八年)に亡くなり、養父の分骨と共に岡山県東山墓地に眠る。日本名静江となった夫人は今も岡山県に健在である。>
引用終わり。
櫻井よしこ「日本ルネッサンス 日台を結ぶ武士(さむらい)の絆」
週刊新潮平成二十四年二月九日号P百三十四~百三十五

私は櫻井氏最後の方の文章である
<天野氏はすぐに応えた。「一晩で四人も孫ができてこんなにうれしい事はない」
一家は取る物も取り敢えず、来日した。六五年(昭和四十年)のことだ。船で神戸に着くと、税関の担当者に言われた。
「養子で来たのに観光ビザでは入国で来ません」
「日本の法律に背いて入国するつもりはありません。このまま戻って出直して来ます」と林氏。
しかし、戻れば、国民党政権が一家の脱出を容認するとは思えなかった。
その時、税関の局長が、待っていなさいと言った。局長は即上京し、法務大臣石井光次郎に掛け合った。
一部始終を聞いた石井は即断した。
「特別許可でいいんじゃあないか」
こうして林家の六人は一家挙げて天野家の養子となり、日本人となった。白井さんがしみじみと語る。

「天野のおじいちゃんも武士(さむらい)、
税関の局長さんも石井法務大臣もみな武士。
私の父も武士になろうとした」>

この箇所で涙がとまりませんでした。

私はこの桜井氏の文章を読んで、次回、台湾を訪ねた時に宜蘭にあるという「西郷廳憲徳政碑」をお参りしたいと思い、雅ちゃんにお願いしました。

続く

今日は何処にも出かけずに、一日中部屋にいました。
酒は飲まず。

猿でもエビでもない。


西郷菊次郎顕彰碑(西郷廳憲徳政碑)
3月27日火曜日晴れ △
今月十七日よりの今回の台湾旅行の目的のひとつである雅ちゃん、ミミちゃん姉妹と一緒に行き、お参りさせていただいた西郷菊次郎顕彰碑(西郷廳憲徳政碑)に刻まれた碑文についての日本語訳が手元にある『西郷菊次郎と台湾』(佐野幸夫 南日本新聞開発センター 平成十四年刊)に掲載されていますので、引用させていただきます。

西郷廳憲徳政碑 (日本語訳)
昔から仁徳によって世を治めた人はいた。例えば漢民が良官黄覇の府門に登って引き留め、斉州では薛公を偲んで床を留め保存した。また繁地の楊君は天子の車で民に穀物を運ばせ、武陵では民衆の為に楽令の園を解放した。それらは盛徳が民衆の心に深く刻み込まれていたためであり、官職を去るとなったら、追慕する民心には切々たるものがある。いかなる場合でも誠を尽くし、民衆の心をつかみ、私利私欲のないことを示せば自然に民衆の心は安定するものである。我が前任の西郷菊次郎氏は仁徳によって民衆を教化させた。それはあたかも草の風に靡く、慈雨によって植物を潤した。君主の仁政によって人民が自然になびかれ教化されるよき例であるといえようか。

西郷公は華族の出身であり、一地方長官として要職を歴任し、責任を全うした人物である。宜蘭に赴任した当時は、政情は不安定で、盗賊がはびこり、人心は乱れたままであった。もしこの場で強行策を取ったならば、民衆は傷つき、生活は破綻してしまう恐れがあった。しかし、強行手段を、用いなければ、民の生活を得ることができたであろうか。そこで、公は考慮の末、善政策を採った。即ち、仁徳をもって民にむくい、凶悪なる民を信じ、従わせた。と同時に法を制定して、これを守らせ、尊敬と信頼の関係を勝ち取った。
赤子朱登の帰来を喜ぶの如く、慈愛にあふれた長官が宜蘭において善政をしくことは万民の喜びである。こうして今や宜蘭の地は平和に満ち、民衆の心は和らぎ、百年の計を定めた。即ち学問を興し、賢士を育て、田畑には均等に課税し、農民の労働意欲を促し、農業従事者を増やし、道路を整備して、交通の便をよくし、その上、堤防を築いて洪水を防いだ。以後、宜蘭は水害の知らない土地となったのである。

凡ての弊害をのぞき、悪を正し、善政を興すのは他人のいやがる事に挑戦し、他人の為になることを率先して行なうことである。西郷公という方はその清廉潔白、性情温厚なことはちょうど孟子のいう無私無欲と同じであり、その穏やかさと優雅さは※子賤が琴を弾いて自然無為の治のようで、道理を究めることは張九齢が記せる金鑑録のようで、士を愛するは桓公、武公が職を尽くした功臣のようである。西郷公は旧来の政策で、民衆の馴染んでいることを考慮し、廣く昔からの良いと思われる法を集め、常に大衆の意に添う法を選択し従った。(※変換出来ず 宀に必)
また公は徴税の際も強制的にせず、困窮する民を助け、厚く施したので、その徳行と勲功を成し得る結果となったのである。
そういう公であれば民衆はその誠意を感じ取り、慈悲の心に打たれ、暴力からの被害はすっかり姿を消した。五年来民衆は安心して耕し、此の地はたいそうすばらしく豊かになっていた。もし此の地の民が穎川の百姓のように倣って寇恂を挽けば、大官も先を争って朝廷に上奏し、公の官位の引き留めが実現したであろう。知らなかったのであろうか、もし引き留め成功すれば、功徳が益々広まり、土地が肥えれば草木は繁茂し、益々盛んな土地になったであろうに。

西郷公は退任し、帰郷する事を知るやいなや、民衆は途端に養う者が無くなったような孤独感を感じた。植樹した木が年を経て広い木陰を作るように、氏の善政は長く此の地に残り讃えられるであろう。後日石碑に刻む事によってこの美談を記すことは、民衆の真心から発した適正な判断である。民衆の感謝の気持ちは誠に深く、慰留の望みは強いが、もうどうしようもない。馮意に例えるなら、誰しも彼が五彩飾り立ての馬に乗る雄姿を待ち焦がれ、いつかまた子供達が竹馬に跨がりて郭仍の到来を迎えられるか。
西郷公を偲ぶに糸を買って像を刺繍する事なかれ、家々に線香を立て供える事もしては行けない。最も相応しい事は晋人が羊祐を記念して彫った「落涙碑」のようにすることである。西郷公の栄光を永々に伝えるべく、ここに碑を健立し、公の徳を讃えるものである。
明治三十八年 月 日 吉日  宜蘭廳全各界士人健立

引用「西郷菊次郎と台湾」佐野幸夫著 南日本新聞開発センター 平成十四年刊 p百三十六~百三十八
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同じく「西郷菊次郎と台湾」より堤防工事の概略

宜蘭川堤防
明治三十三年四月着工 三十四年九月竣工(第一期工事)
長さ九三四間 工事費三万九千三百円
大正十三年西郷堤防と命名


工事そのものは、一機と二期に分けられ、西郷菊次郎在任中に第一期工事が完成し、第二期工事は西郷菊次郎退官後大正十五年まで掛かり完成している。

 

明治三十五年十二月上旬、叔父の西郷従道、母である愛加那の死をきっかけに退官を願い出て宜蘭を離れる西郷菊次郎をしたって宜蘭各地より多くの住民が駆け参じて、高恩に泣き、別れを惜しみ、いつまでも離れようとしなかった。住民の中には十里の道を追ってきたものもいたという。宜蘭の人々の慕う心情がのちに宜蘭川堤防の「西郷庁憲徳政碑」建立となった。
宜蘭はではタクシー運転手の林文※(火に然)氏に大変お世話になった。

 
林さんだけでなく、閉まっていた戦闘機格納庫をわざわざ開けてくださったボランティアの方など多くの台湾の方に日本人ということで、親切にしていただいた。
それは台湾において先人がどのように生きてきたかの証です。
すべて先人おおかげです。

これは何度か書いていますが、私は昭和五十四年から二年間北米を放浪している時に、多くの皆様にお世話になりました。
メキシコのグアダラハラにおいても、日系メキシコ人の方々から大変お世話になりました。
そのグアダラハラにおいて、お世話になった日系メキシコ人の方から、「木下さん、あなたは旅行者だから、メキシコを楽しんで帰ってくれ。酒を飲んで、恋をして、何をやってもいいから、メキシコを好きになって帰ってくれ」
と言われた後に、
「でも、何をやってもいいけど、日本人の恥になるようなことだけはやらないでくれ」
と言われました。

メキシコだけでなく、ブラジルでは、「ジャポネス・ガランチード」(日本人的保証)という表現があるほど信用されています。ブラジルの人々からこのような表現があるほどの信用を得ているのです。
現在、支那、朝鮮以外の世界のいろいろな国々を訪れた時に、日本人という事で不愉快な思いをする事はありません。
今現在、多くの国において、日本人が尊敬され、信用されているのは、我々の先人がそれぞれの国に日系人、日本人として外国人としてのハンディを背負いながら、その足で立っているその国に一生懸命尽くしてきた結果に他なりません。

けっして、今現在の日本人が尊敬されているからではありません。

これからも先人のように尊敬される日本民族でいられるであろうか。

それは、我々、今現在の日本人しだいです。

自分の立っている国に尽くさず、「権利」ばかりを主張しているクズどもはその国の国民より一生尊敬される事はありません。
それは、朝鮮人、支那人をみていれば明らかです。

G23、かな江ちゃん御夫妻、さぶちゃん、Kさん五名様で来店。
アンコウ鍋でドンチャン。
初めてのお客様Fさん二名様で来店。
Mさん来店。

ドンチャン。
記憶あり。
猿よりマシ。


 

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