アーロン収容所にみるイギリス人
アーロン収容所にみるイギリス人
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成19年8月27日月曜日晴れ ○
会田雄次氏はその著書「アーロン収容所」の前文に、捕虜生活においてイギリス人については下記のように感じたと書いている。
以下引用
<この経験は異常なものであった。
略)
私たちも終戦になったとき、これからどういうことになるだろうかと、戦友たちと想像しあった。ところが実際に経験したその捕虜生活は、およそ想像とかかけちがったものだったのである。
想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑的な仕返しをうけたというわけでもない。それでいて私たちは、私たちといっていけなければ、すくなくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反応と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。
略)
私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それはおそろしい怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。>p四~五
会田氏が「全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきた」と書くイギリス人の正体とはどういったものだったのでしょう。戦時中に捕虜となったもの、あるいは投降者した者を、会田氏のように非武装解除軍人と連合軍は区別していたが、その一人から会田氏が聞いた話として
<「私はミッチーナで重傷を負い、倒れていて英軍に収容されました。意識を失っていて収容されたのです。でも、それはどうでもいいのです。私たちは帰れないかもしれません。ですから、この話だけはしておきたい。日本の人にしらせてください」
「英軍はひどいことをします。私たちは、イワラジ河のずっと河下の方に一時いました。その中州に戦犯部隊とかいう鉄道隊の人が、百何十人か入っていました。泰麺国境でイギリス人捕虜を虐待して多数を殺したという疑いです。その人たちが本当にやったのかどうか知りません。イギリス人はあの人たちは裁判を待っているのだと言っていました。狂暴で逃走や反乱の危険があるというので、そういうところへ収容したのだそうです。でもその必要はありませんでした。私たちは食糧がすくなく飢えに苦しみました。ああ、あなたたちもそうでしたか。あの人たちも苦しみました。あそこは毛ガニがたくさんいます。うまい奴です。それをとって食べたのです。あなたもあのカニがアミーバ赤痢の巣だということを知っていますね。あの中州は潮がさしてくると全部水に没し、一尺ぐらいの深さになります。みんな背嚢を頭にのせて潮がひくまで何時間もしゃがんでいるのです。そんなところですから、もちろん薪の材料はありません。みんな生のままたべました。英軍はカニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという命令を出していました。兵隊たちも食べては危険なことは知っていたでしょう。でも食べないではいられなかったのです。そしてみんな赤痢にやられ、血便を出し血へどをはいて死にました。水を呑みに行って力つき、水の中へうつぶして死ぬ。あの例の死に方です。看視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していました。全部死んだのを見とどけて、『日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを補食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である』と上司に報告したそうです。何もかも英軍の計算どおりにいったというわけですね」
とにかく英軍は、なぐったり蹴ったりはあまりしないし、殺すにも滅多切りというような、いわゆる「残虐行為」はほとんどしなかったようだ。しかし、それではヒューマニズムと合理主義に貫かれた態度で私たちに臨んだであろうか。そうではない。そうではないどころか、小児病的な復讐欲でなされた行為さえ私たちに加えられた。
しかし、そういう行為でも、つねに表面ははなはだ合理的であり、非難に対してはうまく言い抜けできるようになっていた。しかも、英軍はあくまで冷静で、「逆上」することなく冷酷に落ち着き払ってそれをおこなったのである。ある見方からすれば、かれらは、たしかに残虐ではない。しかし視点を変えれば、これこそ、人間が人間に対してなしうるもっとも残虐な行為ではなかろうか。>P七三~七五
「アーロン収容所」にみるイギリス人女性
8月14日火曜日晴れ 暑い
「アーロン収容所」(会田雄次著 中央文庫一九七三年初版)というこの本より一番多く引用されているだろうと思われる英軍女性兵士にとっての日本人およびアジア人。
以下引用
<英軍兵舎の清掃というのは、いちばんイヤな作業である。もっとも激しい屈辱感をあたえられるのは、こういう作業のときだからである。
略)
この雑用は、たとえば掃除にしてみても、便所掃除やゴミ捨場の片付けなど、いちばんひとのイヤがるところを、いちばん下等な監督者をつけてやらされるのがふつうだからである。便所につまった糞を手で掃除させるぐらい朝飯前であった。
略)
その日は英軍の女兵舎の掃除であった。看護婦だとかPX関係の女兵士のいるカマボコ兵舎は、別に垣をめぐらせた一棟をしめている。ひどく程度の悪い女たちが揃っているので、ここの仕事は鬼門中の鬼門なのだが、割当てだから何とも仕方がない。一カ月に一、二回はこの役目にあたるのである。
彼女たちの使役はじつに不愉快である。
略)
それはともかくとして、まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときは、たとえ便所であろうとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない格好をしているときなど身支度してから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。
ドアをあけ、ていねいに一礼し、掃き、腹這いになって床をふく。こういうとき、男であろうと女であろうと絶対にイギリス人を注視してはいけない。とくに目をあわせるといけない。大層な剣幕でどなられる。略)反抗心のあらわれと解釈されるらしいのである。
略)
タバコをお礼にくれたりするものがあるので、かえってこの仕事を喜ぶ兵隊もいたが、私は大嫌いだった。なぜなら、タバコといっても一本か二本をくれるだけなのだ。しかも、そのときサンクスなどということばは絶対に口にしない。もっとも私は捕虜の全期を通じ、たしかに私用だと思われる仕事をしたことがあっても、イギリス人からサンキューということばは一度も耳にしなかった。おそらくこのことばを聞いた兵隊はいないであろう。
しかも、タバコを手渡したりは絶対にしない。口も絶対にきかない。一本か二本を床の上に放って、あごで拾えとしゃくるだけである。もらわないと変にこじれて仕事が多くなると困る。仕方なしに拾うのだが、私の抵抗は、できるだけその女兵士の見ている前で、働きに来ているビルマ人かインド人の苦力たちにそれをやることである。「マスター、チェズテンマーレ(有難う)、マスター」とかれらは喜ぶ。マスターとよばれている私たちを見て、女どもは、不思議そうな不愉快そうな顔をする。せめてものうさばらしであった。
この女たちの仕事で癪にさわるもう一つのことがある。足で指図することだ。たとえばこの荷物を向こうへ持って行けというときは、足でその荷物をけり、あごでしゃくる。よかったらうなずく、それだけなのである。
その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったように髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終えると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。
入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし、日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視したのである。
このような経験は私だけでなかった。
略)
ところがある日、このN兵長がカンカンに怒って帰ってきた。洗濯をしていたら、女が自分のズロースをぬいで、これも洗えといってきたのだそうだ。
「ハダカできやがって、ポイとほって行きよるのや」
「ハダカって、まっぱだかか。うまいことやりよったな」
「タオルか何かまいてきよったがまる見えや。けど、そんなことはどうでもよい。犬にわたすみたいにムッとだまってほうりこみやがって、しかもズロースや」
「そいで洗うたのか」
「洗ったるもんか。はしでつまんで水につけて、そのままほしといたわ。阿呆があとでタバコくれよった」
略)
もちろん、相手がビルマ人やインド人であっても同じことだろう。そのくせイギリス兵には、はにかんだり、ニコニコしたりでむやみと愛嬌がよい。彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうしてもそうとしか思えない>P四五~五〇
引用終わり
<彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。> 多くの国を植民地にしていたイギリス人がどのような感情でその植民地の住人に接していたかがよくわかる事例です。
イギリス人にとってのアジア人とは
8月29日水曜日くもりのち一時小雨
会田氏の著書「アーロン収容所」には、ラング-ンにあった元競馬場を使った英国軍の食糧集積場において、ある時、ビルマ人の泥棒が死んでいた事に対しての英軍軍曹のとった態度として下記のような記述がある。
以下引用
<若い軍曹が面倒くさそうについて来た。屍体がうつぶせなのを見て、靴の先で激しく蹴りあげるように額を持ち上げる。首の骨が折れる。私はハッとしたが、泥まみれの顔にはどこにも生気はなかった。
「死んでいる」(フィニッシュ)気のなさそうに彼はつぶやいた。
略)
私にはガクンと仰向けられた屍体の顔と、ちょっとそれを見ていて冷たく「フィニッシュ」と言った軍曹の声と、蹴られた屍体ががっくり頭を落とした状態が、いまも目に見える。
明らかにここでは一匹のネズミが死んだのであって、人間が死んだのではなかった。ヨーロッパ人がヒューマニストであるならば、いったいこれはどういうことなのであろうか>p六四~六五
続けて、これらのイギリス人と日本人との違いについて、会田氏は下記のように書いています。
<私たちは戦争における非戦闘員や捕虜に対する処置によって、戦争犯罪を追求された。そして日本人の残虐行為が世界中に喧伝された。全部がウソだとは言わない。しかし日本人の行為が残虐であって、この英軍軍曹の行為は残虐ではないといえるだろうか。いわゆる残虐性のなかには習慣の相違、それも何千年もの間のまったく違った歴史的環境から生まれた、ものの考え方の根本的な相違が誤解を生んだということが多々あるように思われる。
私の言いたいことはこうである。日本人は何千年来、家畜を飼うという経験をしなかった。とくに食糧としての家畜を飼うことをまったく知らなかった。つまり日本人は一般的に家畜の屠畜というものに無神経な珍しい民族なのである。同じアジア人でも、中国人やビルマ人は屠畜になれている。それ以上にヨーロッパ人は慣れている。
略)
私たちは捕虜を捕まえると閉口してしまうのだ。とくに前線で自分達より数の多い兵隊をつかまえたりしたら、どうしてよいか茫然としてしまうのだ。
しかし、ヨーロッパ人はちがう。かれらは多数の家畜の飼育に慣れてきた。植民地人の使用はその技術を洗練させた。何千という捕虜を十数人で護送していく彼等の姿には、まさに羊や牛の大軍をひきいて行く特殊な感覚と技術を身につけた牧羊者の動作が見られる。日本人にはそのようなことができるものはほとんどいないのだ。
残虐性の度合いや強弱などというものは、一般的な標尺のあるものではない。それは文化や社会構造の型の問題で、文化や道徳の高さなどという価値の問題ではない。ヨーロッパ人が自分達の尺度で他国を非難するのは勝手だが、私たちまでその尺度を学んだり、模倣したりする必要はないと思う。
>p六五~六八
そして、こういったヨーロッパ人の屠畜とキリスト教との関係については
<しかし、生物を殺すのは、やはり気持のよいものではない。だからヨーロッパではそれを正当化する理念が要求された。キリスト教もそれをやっている。動物は人間に使われるために、利用されるために、食われるために、神に創造されたという教えである。人間と動物との間にキリスト教ほど激しい断絶を規定した宗教はないのではなかろうか。
ところでこういう区別感が身についてしまうと、どういうことになるのだろう。私たちにとっては、動物と人間の区別の仕方が問題になるだろう。その境界線はがんらい微妙なところにあるのに、大きい差を設定するのだから、その基準はうっかりすると実に勝手なものになるからである。信仰の相違や皮膚の色がその基準になった例は多い。いったん人間でないとされたら大変である。
殺そうが傷つけようが、良心の痛みを感じないですむのだ。冷静に、逆上することなく、動物たる人間を殺すことができる。
ビルマ人の泥棒の屍体を扱った軍曹の姿の中に、私がそういう「冷静」を見たと思ったのは誤りであろうか。
ヨーロッパ人が、人間と動物との境界をずいぶん身勝手なところで設定するのではないかと私が考えたのは、勝手にそう思ったのではない。次のような体験があるからである。
私たちの食事に供された米はビルマの下等米であった。砕米で、しかもひどく臭い米であった。飢えている間はそれでよかったが、ちょっと腹がふくれてくると、食べられたものではない。そのう上ある時期はやたら砂が多く、三割ぐらいは泥と砂のある場合もあった。私たちは歯はこわすし、下痢はするし散々な目に会い、とうとう日本軍司令部に英軍へ抗議してくれと申し込んだ。
その結果を聞きに行った小隊長は、やがてカンカンになって帰ってきた。英軍の返答は、「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜用飼料として使用し、なんら害なきものである」であった。それもいやがらせの答えではない。英軍の担当者は真面目に不審そうに、そして真剣にこう答えたそうである。>p六八~六九
現在、我が国においてキリスト教信者は一%以下といわれています。その一神教であるキリスト教における問題点を会田氏は指摘し、いったん人間でないとされたものに対する区別感によるその醜さも書いている。
「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜用飼料として使用し、なんら害なきものである」という言葉の通り、イギリス人にとっては日本人、アジア人は家畜と同じように見ていたことがよくわかります。それは先に引用した英軍女性兵士の態度でもわかります。「人間でないとされたもの」「家畜のようなもの」に裸を見られても恥ずかしくはないのです。ですから、そのような「人間でないとされたもの」に負けたのが我慢ならないので、陰湿な復讐をするのです。
それについては、次回に書きます。
会田氏の書いている「残虐性の度合いや強弱などというものは、一般的な標尺のあるものではない。文化や社会構造の型の問題で、文化や道徳の高さなどという価値の問題ではない。ヨーロッパ人が自分達の尺度で他国を非難するのは勝手だが、私たちまでその尺度を学んだり、模倣したりする必要はないと思う。」というこの意味は重いと思います。
イギリス人の残忍さ
会田氏によると収容所の設置された場所は、これ以上の悪い設置条件がないというような場所だったようです。
以下同書よりの引用。
<私たちの部隊は、最初はイラワジ河岸のアーロン収容所、あとはヴィクトリア湖という人造湖畔のコカイン収容所におかれたわけであるが、前者はラングーンの塵埃集積所と道一つへだてたところであり、すさまじい悪臭と蝿が私たちを苦しめつづけ、後者は家畜放牧場に接し、とくに集中的な放尿所であった。他に空地は無限なほど多かったのに、どうしてこういう場所を収容所として選んだのか。朝夕、太陽にまぶしくシェターゴン・パゴタが金色にきらめく。その下の菩提樹の繁った丘、芝生で被われた広い原、牛が木鈴を鳴らして遊んでいる。そのような背景の中では、奇蹟のような汚い場所、そこにわざわざ私たちはおかれたのである。やはりそこには英軍当局の明確な目的があったようだと思うしかない。>P七〇
そのイギリス人の日本人捕虜の扱いについて下記のように書いている。
<これらの収容所の広さは七、八千坪、いやもっとあったかもしれない。いづれも土に柱をつきさし、屋根に葉っぱをのせ、周辺をアンペラでかこっただけの細長い小屋がその住居であった。
床はもちろんなく、ドンゴロス(麻袋)などをひいてねた。中央に三尺ぐらいの通路があり、その両側一間半ぐらいの空間にめざしのように並んで寝るのである。英軍からの支給は、ボロボロの衣服と寝具…………蚊帳は一人づりの新品、雨合羽も割合よいもの、この二つの支給が例外である………と食糧以外はなんの支給もなく、食器、床材料、タバコその他はみな自給した。自給とは英軍の倉庫などから調達してくること、つまり泥棒のことである。>P三九~四〇
<日本軍捕虜に対する英軍の待遇のなかにも、私たちには、やはり、これはイギリス式の残虐行為ではないかと考えられるものがある。そして、英軍の処置の中には、復讐という意味が必ずふくまれていた。
問題はその復讐の仕方である。日本人がよくやっていたような、なぐったりけったりの直接行動はほとんどない。しかし、一見いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような復讐がこめられていたように思う。>P七〇
<昭和二一年の初秋ごろだったか、雨季あけの心地よい季節であるのに、私たちの隊はとくに憂鬱だった。じつに嫌な仕事が廻ってきたのである。当時の兵隊たちの言葉でいえば「隠亡」作業、つまり英軍墓地の整理である。
略)
私たちに与えられたのは、棺を掘り出し、別の場所へ移す仕事である。英軍の埋葬は屍体を布でつつみ、寝棺に入れ、その上に英国旗をかけて五尺ほどの深さの穴へ水平に下ろす。
略)
棺が腐ったものは、塚の土がゴソリとなかへくずれている。全部くずれかけているものも多い。そういうのを堀かえし、埋めかえるのだ。
ほとんどの屍体は腐乱最中である。乾季中に腐ったものは、ミイラのようになっていてまだよいが、雨季か雨季直前に埋められたものはひどい。一種の蒸風呂のなかでの腐り方のようなものだからだ。戦時中の遺棄屍体の方が禿鷹や鳥が整理してくれていてずっと見やすかった。悪臭で目からボロボロこぼれる。ウジ虫のかたまりのようなのを素手ではこぼされるのである。この作業から帰った兵隊はコンビーフのまぜ飯を見てゲーッと言って当分それを食べられない。コンビーフは屍体の肉そっくり、飯はウジそっくりだからである。>P七一~七二
先の会田氏が聞いた日本人捕虜の証言として出てきた、潮が満ちてくると水中に没する中州に日本人捕虜を閉じ込め、食糧も与えず、カニを生で食うようにしむけ、赤痢にやられ、死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していたという英国軍人と同じ姿がここにあります。
会田氏は一九六二年にこの本を書くにあたって、当時トイレットペーパーに書き綴ったものを、取捨、配列、つぎあわせたものであり、できるだけ客観性をもたせるために、なるべく伝聞を避け、会田氏自身の体験を主にしたとその前文で書いている。
この項つづきます。
「降伏日本軍人」という身分と英軍による捕虜虐殺
平成19年9月24日月曜日曇り
「降伏日本軍人」とは
<この作業のとき、私は奇妙な一群を見た。インド兵のような服装をした日本兵の集団で、私たちと同じ作業をしている。なぜか私たちをさけている。ものも言わない。やがて私たちは気がついた。戦時中の捕虜、投降者たちである。それは、捕虜、または戦争捕虜(戦犯者ではない)として私たち降伏軍人または非武装解除軍人から区別され、中央監獄に収容されている人々であった。
私は、行き会った一人に「やあ」と声をかけてみた。顔をそむけて応答してくれなかった。
「話しようとしても物をいってくれないな。気の毒だから無理に話しかけることはないけれど、ひどくひがんでいる」
と小隊長は言った。日本軍の教育はおそろしい。「捕虜」たちは、戦争が終わったその時でも、私たちが軽蔑の目で見ているとうたがい、全身でそれに反撥している。しかも、自分を恥じている。私たちは、自分達を立派だと思っていない。ことにろくろく戦闘もしなかった渡しなど威張れるわけがない。しかい、こういう人たちを目の前にすると正直なところ、おれは投降はしなかったという気分がわき、優越者みたいな気になるのを抑えきれなかった。>(p72~73)と会田雄次氏の著書「アーロン収容所」にも書かれているが、これについて、「日本の反論」(米田健三著)には下記のように書かれています。
<英軍は国際法が定める捕虜の待遇を与えないために「降伏日本軍人」というあらたな身分をあみ出した。その日本軍人に対して、粗末な給養で、危険な、あるいは不潔な労働を強いられたのである。この問題については「軍事史学」(第三五巻第二号)に掲載された喜多義人論文に詳しい。
それによると、一〇万六〇〇〇名もの将兵が昭和二一年七月以降も「作業隊」として東南アジアに残され、昭和二三年一月の送還完了までに九〇〇〇人近い死者がでたという。>
自分達はシンガポールなどにおいてさっさと投降しておきながら、そんな事は忘れて、「アーロン収容所」に書かれているように、もともと、捕虜の立場を厭がる日本軍の意向が、逆手に取られたのである。
また、日本軍将兵が課せられた作業は、
<「弾薬の海中投棄、採石、樹木の伐採、下水掃除、糞尿処理、炭塵の立ち込める船倉内での石炭積載作業、一〇〇キロ入り米袋の運搬」などで、明らかにハーグ陸戦法規と一九二九年の捕虜条約が禁じた、過度で、不健康、危険な労働であった。まさに、緒戦で日本軍に敗れた怨念を晴らすための復讐に他ならなかった。
英軍についていえば、一九四四年六月二二日、インド・アッサム州のミッションで、一〇〇人以上の日本軍傷病兵が、英軍兵に焼き殺された(「世界戦争犯罪事典」文芸春秋)。アッサムの英軍根拠地インパールの攻略を目指した牟田口中将の第一五軍は、コヒマを占領したものの、英軍の猛反撃を受け後退を開始した。ミッションを防衛していた歩兵第六〇連隊も移動を始めたが、逃げ遅れて担架に乗せられたまま路上に放置された夜戦病院の重傷患者一五〇名は、英軍グルカ兵の手でガソリンをかけられ焼き殺されたのである。>
以上、引用および参考
「日本の反論」(米田健三著 並木書房)
「アーロン収容所」(会田雄次著 中公文庫)
戦場においては日本軍だけがいかにも残酷な行動を取り、連合軍が紳士的な行いをしたような事をいう人が多いが、決してそういうことばかりではない。どちらにも、英雄的な行動もあり、感動的な出来事もあるが、醜い行いもある。一方的に先人を断罪するような事は慎んでほしいものである。