工藤俊作
工藤俊作
平成21年9月28日追記
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成18年10月24日火曜日
現在の我国には軍人を必要以上に悪くいったり、蔑視する人が多くいます。しかし、世界の方々に尊敬されている我国のりっぱな軍人も多くいらっしゃったのです。
当店のホームページを御覧になってくださり、東京にお仕事でいらした時に御来店いただいた事もある「学習者」さんがメールでお教えくださった「敵兵を救助せよ」という本に書かれている工藤俊作海軍中佐もそうです。
著者の恵隆之介氏は一九五四年沖縄コザ市生まれ。七八年防衛大を卒業した後、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校を経て護衛艦勤務のち退官(二等海尉)された方です。
以下、特に表記のない場合は手元にある恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」(草思社平成十八年刊)によります。
平成十五年十月十九日、一人の元英国海軍士官が日本の土を初めて踏んだ。元海軍中尉サムエル・フォール卿である。
フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、その功績によってサーの称号を受けている。外交官を定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓しているが、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と銘記し、顕彰した。
英国海軍士官がこれほど敬服した工藤俊作海軍中佐とは。(写真は海軍少尉のころの工藤俊作 恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」より)
大東亜戦争が始まってまもなくの一九四二年二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊一五隻との間で行われた海戦で、日本艦隊は三月一日までに、十五隻中一一隻を撃沈(四隻は逃走)した。三月一日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名は漂流を続け、翌二日彼らは生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していた日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。
この時英国海軍中尉だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。
ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
(一九九八年四月二九日付「英タイムズ紙」フォール卿投稿文より)
戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。もちろん艦長の英断であった。
略)
フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきた。そして、昭和六二年、工藤中佐が八年前に他界していた事を知った。
しかし、自身の齢も八十四歳を数えるようになってきたため、ついに意を決し、「人生の締めくくり」として来日したのである。
フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚部は、観艦式に卿を招いた。それも海上自衛隊最精鋭の艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」にである。(写真はフォール卿 恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」より)
フォール卿を迎える「いかづち」では、一行のため、へり格納庫上に設置されている搭乗員待機室を休憩室として提供し、海上幕僚部から士官二名を世話係に配置するなど万端の準備にて迎える。
平成一五年一〇月二六日午前九時五〇分、横須賀より出港し、観閲艦隊随伴艦の二番艦として観艦式に参加。
「いかづち」艦長は高草洋一二佐(四九歳)、フォール卿のエスコートは外務省欧州局西欧第二課長市川とみ子。
フォール卿は迎えいられた「いかづち」の士官室にて、同席した方々に戦時中を振り返り、そして、「自分や、戦友の命を救ってくれた『雷』艦長御遺族を始め、関係者に会ってお礼が言いたい。できれば工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語っている。
観艦式航海中のフォール卿は、海上自衛隊の指揮統率能力の高さに感嘆し、また後部の飛行甲板で音楽隊が演奏の初めに英国国歌を演奏した時、不自由な身体を押して直立不動の姿勢をとり、その後姿に何度も同行した者たちを「英国紳士とはかくなるものか」と感嘆させたそうです。
フォール卿は「いかづち」が帰港し、岸壁から外務省が手配した車に乗り込むまでの間に要所に配置された自衛隊の下士官にたいしても、不自由な身体でありながら、いちいち立ち止まり、彼らに、「ありがとうございました」とたどたどしい日本語でお礼を言い、丁寧にお辞儀をされたそうである。
フォール卿の来日の目的は、かなうことなら艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げることであった。ところが、来日してみたもののその願いはかなえられず、フォール卿は恵氏に艦長の墓と遺族を探し出すことを依頼して帰国する。
どうして、工藤俊作中佐をフォール卿は探し出せなかったのであろうか。どうして堀内豊秋海軍大佐のように世に知られなかったのであろうか。
じつは昭和五四年八月一四日には、遠洋航海で英国ポーツマスに寄港した海上自衛隊の練習艦隊司令官植田一雄海将補(海軍少将相当、海兵七四期)は、英海軍連絡士官から工藤中佐の消息を探してくれるよう正式な要請を受けていた。
ところが、植田海将補は帰国後、諸般の事情より「調査は無理」と断念していた。その事情とは
一、工藤元艦長は戦後、海軍兵学校のクラス会にほとんど出席していない。このため、クラスもその消息を掌握していなかった。
二、「雷」は、昭和一九年四月一四日、ウォレア近海で、米潜水艦「ハーダ-」(一五二五トン)の雷撃を受けて轟沈しており、艦長生永邦夫少佐(海兵六〇期)以下全員が散華している。
三、「雷」に乗艦していた元士官二名が存命しているが、先任で「雷」元航海長だった谷川清澄少佐(海兵六六期)に対しては、どうしても尋ねる雰囲気になれなかった。谷川は終戦直後、自決する覚悟であったが、寸前に思い止まっていた。同時に、戦前戦中の思い出と決別するつもりで、すべての写真、資料を焼却してしまっていたのである。
もう一人、田上俊三大尉(海兵六七期)はこの美談を都合よく解釈し、ともすれば自分自身の存在を誇示するかのような言動を繰り返し、協力する気配が見られなかった(階級はいずれも終戦時)
田上氏はフォール卿が来日時にもゲストで観観式に招かれているが見苦しい話題を残している。
元海軍中尉サムエル・フォール卿が英タイムズ紙に投稿し掲載された一九九八年四月二九日とは、翌月に予定されている天皇の英国訪問が公表され、それに対してかつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちが中心となり反対運動が起きていた。捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。
しかし、「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったこのフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。
米海軍機関紙「プロシーデングス」昭和六二年新年号にも、フォール卿は「騎士道(Chiv-alry)として工藤艦長の行動を執筆した論文を七ページにわたって掲載し、米海軍軍人をも驚嘆させている。
どうして、国際法上昭和二七年四月二八日の講和条約成立によって解決済みのこのような事が英国などにてぶり返されるようになったかというと、アホ首相のひとりである細川護煕が謝罪をした以降、バカ売国奴村山冨市が平成七年八月一五日にいわゆる村山談話を出し、平成八年一月に、これまた支那のハニートラップに引っ掛かった色気違い売国奴の橋本龍太郎が、英国大衆紙「サン」に、大東亜戦争の英国人捕虜の扱いに関する謝罪文を寄稿するなど、アホがアホなことをなんどもやったからである。
では、この腐れ売国奴どもはつぎの言葉をどう聞くのであろうか。
「アジアの国々における脱植民地運動は、日本のお陰で勢いづいた」と断じ、「東南アジアで日本軍がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの植民地を素早く撃破したことこそ、戦後に欧米列強が再びアジア(植民地支配)に戻ることを困難にしたのである」
<平成一七年五月、インド国防省元次官で国際政治学者K・サプラーマンヤム氏がインドの有力紙「ヒンドゥスタン・タイムズ」に、小泉首相がバンドン会議で胡錦濤首相に謝罪したことについて。P一一>
フォール卿の工藤俊作海軍中佐についてのエピソードとして、平成四年、スラバヤ沖海戦五〇周年記念式典がジャカルタで行われ、インドネシア海軍将官および同盟国各国武官が参列した。
また、翌日は同地で英国関係者二〇〇人が集まって「トラファルガー・デイ」(戦前日本の「海軍記念日」に相当)が催された。
二つの式典で、フォール卿は記念講演を行い、ここでも工藤中佐の功績を称え、「日本武士道の実践」と強調した。いづれの会でも、万雷の拍手とスタンディングオベーションが起こったという。
とくにインドネシア国民は、日本海軍軍人に対し特別敬慕の情をもっている。
インドネシア政府は、独立の最高功労者として、昭和五一年八月一二日、元海軍ジャカルタ武官府長官前田精中将(鹿児島県出身、海兵四六期)に対して最高位のナラリア勲章を贈っている。
昭和二〇年九月一九日、スカルノが初代大統領として独立宣言を発した際に、警備を受け持った日本陸軍代一六軍は、独立を阻止しようとする連合軍から「発泡しても集会をさせるな」と命じられていたが、それを無視し、独立宣言を行わせた。当たり前である。「われわれインドネシア民族は、ここにインドネシアの独立を宣言する。権力の移行、その他に関する事項は適当、かつ迅速に処理される 17・8・05
」という独立宣言文を作る現場には 前田精海軍中将だけでなく、吉住留五郎氏(新聞記者)、三好俊吉郎氏(陸軍司令官通訳)、西嶋茂忠氏(海軍嘱託)の四氏がいたのである。
当時、第十六軍の参謀をしていた 前田精海軍中将と同郷の宮元静雄陸軍中佐は、独断で演説を許可したばかりでなく、スカルノを護衛するために彼の隣に座った。
大東亜戦争後、オランダとの間で戦われたインドネシアの独立戦争に元日本兵約二〇〇〇名が加わり、多大な犠牲をだし、そのご遺骨は、インドネシア英雄記念墓地に埋葬されている。
そのような国情にあって、フォール卿によって語られた工藤艦長の行為は、大きな感動をインドネシア国民にもたらした。
<恵氏の指摘「現在の自衛隊教育に対しての懸念」>
恵氏は著書で、指揮官の判断の対照として、工藤俊作海軍中佐の行動と平成七年一月一七日の阪神・淡路大震災の時に、現地の惨状の把握しようともせずに、あろうことか東京で財界関係者と朝食をとっていた陸上自衛隊最高指揮官である歴代最低のボケ首相の村山冨市とともに、自衛隊法を墨守し部隊行動を即座に起こさず、多くの住民の方々が犠牲になったとして陸上自衛隊中部方面総監松島悠佐陸将(防大五期)をあげています。
そして、恵氏は現在の自衛隊幹部教育が術科教育(実務教育)偏重に陥っている事をも指摘し、有事に際し工藤艦長のようなリーダーシップが的確に発揮されるかどうか疑問視されていると書いています。
その象徴的な出来事として、海上自衛隊幹部候補生学校で、校長が帝国海軍出身者から防衛大学出身者に引き継がれて以来の出来事として、各自習室に掲示されていた三人の写真の撤去をあげています。その三人とは東郷平八郎元帥、広瀬武夫中佐、佐久間勉大尉であり、いずれも帝国海軍の象徴的人物であるだけでなく、我国だけでなく列強海軍軍人より今でも敬意を払われている人物なのです。
佐久間勉大尉(三十一歳、海兵二十九期)は、明治四三年四月十五日、広島湾で潜水訓練中の第六号潜水艇(五七トン)が事故で沈没した時の艇長であった。
酸素が消耗していく艇内で遺書をしたため、天皇に対し、潜水艇を沈めた責任を詫びた後、「部下の遺族をして窮するものなからしめ給わらんことを」と結び、さらに事故の原因、改良すべき点について呼吸が停止するまで記録していたのである。これを読んだ明治天皇は、感泣されたという。
当初海軍は、事故後、艇を引き揚げハッチをあける際、凄惨な状況が呈されているものと恐れていた。ところが、艇内には、艇長以下十四名全員が各配置についたまま従容と最後を遂げていたのである。
英国海軍でも同様な事故が起きていたが、水明かりの洩れる窓の下に士官兵が折り重なって死んでいた。
佐久間艇の船体は、海軍潜水学校に運ばれたが、関係者は、御神体に触れるかのように船体を神妙に扱った。
この模様は全国に伝えられ、公開された佐久間艇長の遺書は我国国民の胸をうった。また、日本帝国海軍は、海軍礼装を着用した佐久間大尉生前の写真を公表した。
このことは昭和二年以降終戦直後まで、「尋常小学校終身教科書六」の「第八科・沈勇」に掲載されていた。
ところが、日本が再起できないように、日本人の精神面よりの破壊をするために、戦後進駐軍により削除され、潜水学校に展示保存されていた佐久間艇は解体された。
昭和三十一年、「ニューヨーク・タイムズ」記者で、ピュリッツアー賞受賞作家、米国海軍兵学校出身の軍事評論家ハリソン・ボールド・ウィン氏による、その著書「海戦と海難」の中に「日本六号潜水艇の沈没」として章を設けて佐久間艇長の遺書を紹介し、「佐久間の死は、旧い日本の厳粛なる道徳、サムライの道、または武士道を代表したもの」と強調したのである。
このことによって、カリフォルニアの高校教科書「リーダーシップ」の項にこの佐久間艇長の行為が引用された。
下記はその佐久間艇長の遺言です。
『佐久間艇長遺言』
小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す,誠に申し訳なし。されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着にことを処せり。我等は国家のため職に斃れしと雖も唯々遺憾とする所は天下の士はこれを誤り以って将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるやを憂ふるにあり。希くば諸君ますます勉励以ってこの誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされんことを。さすれば我れ等一も遺憾とするところなし。
沈没の原因
瓦素林潜航の際過度深入せしため「スルイスバルブ」をしめんとせしも途中「チェン」きれ依って手にて之れをしめたるも後れ後部に満水せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり。
沈据後の状況
一,傾斜約仰角十三度位
一,配電盤つかりたるため電灯消え,電纜燃え悪瓦斯を発生呼吸に困難を感ぜり。十五日午前十時沈没す。この悪瓦斯の下に手動ポンプにて排水に力む。
一,沈下と共に「メンタンク」を排水せり,灯消えゲージ見えざれども「メンタンク」は排水し終われるものと認む。電流は全く使用する能わず,電液は溢るも少々,海水は入らず「クロリン」ガス発生せず唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。
(后十一時四十五分司令塔の明りにて記す)
溢入の水に浸され乗員大部謂?[ふ。寒冷を感ず。
余は常に潜水艇員は沈置細心の注意を要すると共に大胆に行動せざればその発展を望む可からず,細心の余り萎縮せざらんことを戒めたり。世の人はこの失敗を以って或いは嘲笑するものあらん。されど我れは前言の誤りなきを確信す。
一,司令塔の深度計は五十二を示し排水に勉めども十二時迄は底止して動かず,この辺深度は十尋位なれば正しきものならん。
一,潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す,かかるときに困る故。幸ひに本艇員は皆よく其職を尽せり,満足に思ふ。
我れは常に家を出づれば死を期す。されば遺言状は既に「カラサキ」引出の中にあり(之れ但私事に関すること,いふ必要なし,田口,浅見兄よ之れを愚父に致されよ)
公遺言
謹んで
陛下に白す 我部下の遺族をして窮するものなからしめ給はらんことを,我が念頭に懸るもの之あるのみ。
左の諸君に宜敷(順序不順)
斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将
(気圧高まり鼓膜を破らるる如き感あり)
小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜) 松村少佐(菊)
(小生の兄なり)
船越大佐
成田鋼太郎先生 生田小金次先生
十二時三十分呼吸非常にクルシイ
瓦素林ヲブローアウトセシシ積モリナレドモ,ガソリンニヨウタ
中野大佐
十二時四十分なり
英国海軍はこの佐久間大尉の遺書を英訳し、現在も潜水艦乗組員の精神教育のテキストとして使用している。
恵氏自身も、一米海軍大佐より「私は幼少の頃から、軍人だった父親から、日本海軍について敬意をもって教わった。ところが、海上自衛隊士官に戦史を尋ねてみると、まったく知らない、いったいどういう将校教育をしているのだ」と質問された事があったそうです。
<工藤俊作の生い立ち>
工藤俊作は、明治三十四年一月七日、山形県東置賜郡屋台村竹森、現在の高畠町大字竹森で父七次三十三歳(大正十一年、七郎兵衛襲名)、母きん二十九歳の次男として生まれた。
(七歳年上の兄新一、十歳年上の姉きんがいた)
工藤の幼年期に最も影響を与えたのは、祖父七郎兵衛であった。
祖父は寺子屋で教育を受けており、士族に負けないほどの博学であった。算術と漢学が得意で、とくに漢学は武田竜湖の薫陶を受けていた。
この祖父は、明治十九年八月、長崎に入港した清国海軍水兵が市民に暴行をはたらいた事件と、五年後、清国海軍の軍艦六隻が神戸と横浜に入港したことを知った時「日本は、本格的海軍を持たないと、隣邦にさえバカにされる」と発言していたという。
その後、日清、日露の両戦争で、海軍が勝利の決定的要因を占めたことを知って、自分の考えに間違いなかったことを確認した。そして、孫の俊作を何としても海軍に進めたいと思うようになった。
祖父が幼少の頃、アジアは列強の侵略を受け、蚕食され尽くしていた。わが国も列強から不平等条約を押し付けられて、辛うじて独立を維持する状態にあった。
祖父九歳の時、幕府は、ペリー提督率いる米国艦隊の威嚇に屈して日米和親条約に調印、その結果権威を失墜した。
祖父二十二歳の時大政奉還、これに続いて発足した明治新政府と、東北諸藩が対立して戊辰戦争が勃発する。まさに動乱の時代を祖父は生きてきた。
一方、ロシアは満州を占領し朝鮮半島に迫ったため、明治三十七年二月十日、日本はロシアに宣戦を布告、翌年五月二十七日、東郷平八郎大将(英国ウ-スター商船学校卒)が指揮する日本帝国連合艦隊は日本海においてバルチック艦隊を破り、一躍世界五強国の一つになった。
工藤俊作は明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学。明治四十三年四月十五日に先に書いた佐久間艇長乗り組む第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、佐藤貫一校長が、佐久間艇長の話を朝礼で全校生徒に伝え、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。
佐久間艇長の遺書を読む佐藤校長の声は涙で途切れ、校内は厳粛な雰囲気に包まれたという。
工藤はこの朝礼の直後、担任の淀野儀平先生に「平民でも海軍仕官になれますか」と尋ねている。淀野先生は「なれる」と言い、米沢興譲館中学への進学を勧めた。
この時代、小学校の身上書には「士族」か「平民」かを記載する欄が設けられていた。
工藤は、三学年後半から、猛然と勉強するようになり、屋代尋常小学校創立以来の高得点を維持し続け「神童」と称されるほどになっていた。
大正四年三月、屋代尋常小学校高等科卒業時には、同期三十六名代表として答辞を読んでいる。
工藤は米沢興譲館中学に大正四年四月七日に合格順位三位で入学した。(正式名称は山形県立米沢中学校)米沢興譲館中学はその元を旧米沢藩の名君第九代藩主鷹山(上杉治憲)により明和八年(一七七一)に藩校として設立されたもので、「興譲館」と正式に命名されたのは、創立から五年後の安永五年(一七七六)九月一九日である。
明治に入り山形県立米沢中学校となり、米沢士族の学校としてステイタス・シンボル的な学校で、海軍大将三名、中将一六名、少将一二名を輩出している。この数は旧制中学では群を抜いている。軍人のみならず戦前財界のトップリーダーであった池田成彬、民法学者の我妻栄、国際ジャーナリストのカール・カワカミなどである。
工藤は五年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約三キロの道のりを徒歩で通学した。
工藤は兵学校進学希望者の進路指導担当であった英語教師の我妻又次郎(我妻栄の父)の熱心な教えもあり、難関中の難関である海軍兵学校には興譲館の入学成績が一位、二位の級友の小林英二、近藤道雄とともに進んでいる。
当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。
日本の兵学校の凄さは、欧州のそれが貴族の子弟しか入校できなかったのに比べて、学力と体力さへあれば、誰でも入校できたことである。しかも、入学資格は、中学四年終了程度とされていたが、戦前義務教育課程であった高等小学校しか出ていなくとも(現在の中学校卒業相当)、専検に合格さえすれば受験できた。
高木惣吉少将(海兵四三期)は専検合格の学歴で入学した。
その所在地より英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていた。
<工藤俊作の生い立ち 海軍兵学校の教育>
工藤俊作は海軍兵学校五一期として大正九年に入校する。この時代は八八艦隊構想により、入学人員の大幅な増員により二九三名だった。
海軍は徴兵制の戦前においても、一水兵に至まで志願制で、海軍独特のリベラリズムの気風があった。とくに海軍兵学校は「士官たる前に紳士たれ」とされ昭和二十年十月に閉校するまで継承されたライフスタイルは、長髪をゆるされ、英国流で洗練されていた。
この「敵兵を救助せよ」の著者である恵隆之介氏が引用されている写真集に書かれている言葉がある。幸いなことに私もこの写真集を持っているので、恵氏の引用文より少し長くなるが引用させていただく。「海軍兵学校」(真継不二夫 国書刊行会 昭和五三年 初版は大東亜戦争中に出版されたものであり、これは回天の考案者のひとりである仁科関夫中尉の遺筆となった書き込みをそのまま復刻させたもの)には、海軍兵学校生徒の印象について真継氏は次のように書いている。
「兵学校に来て、私が強く印象づけられたのは、生徒の顔の端正なことである。これほど揃って、整った容貌を持つ生徒が、他の学校にいるであろうか。眉目清秀の謂いではない。精神的なものの現れた、きびしい美しさである。鍛えたものの美しさだといってもよい。無垢で、清純で、玲瓏である。そして、ここには一号、三号、四号の段階を、明瞭に現している。清純なうちに可憐さを残す四号生徒に比して、一号生徒には鍛えたものの美しさが一層強く現れている。環境は人をつくるというが、私は兵学校へ来て、男の男らしい美しさを見た」
(「写真集 海軍兵学校」あとがき 海軍兵学校を撮る p一二八)
鈴木貫太郎中将(海兵一四期)が校長として赴任し、約半年の十一月末までであるが工藤たち五一期はその影響を強く受けていくこととなる。
海軍兵学校校長に着任した鈴木は、大正八年十二月二日、兵学校の従来の教育方針を大改新を敢行する。
・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
日露戦争以降、兵学校の校風は、スパルタ式訓練が定着し、上級生による鉄拳制裁が恒常化していた。
ロシア革命の原因を引用し、「ロシア軍将校による兵への慣習化した殴打が主因であった」と強調して、将来、部下指導の際の戒めとした。
そして、こう力説した。
「日本の下士官兵は諸外国に比べて品行方正、優秀である。また、日本古来の武士道には鉄拳制裁はない。これらの観点から、部下指導には公務のための威厳を主とする時は別として慈愛をもって臨め、鉄拳制裁は一種の暴行である」(要約)
工藤ら五一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。
鈴木中将は、大正八、九年の両年にわたって、明治神宮鎮座祭当日に「明治天皇の御遺徳を偲び奉る事に就いての訓話」を行っている。この祭、
明治天皇御製、
「 四方の海皆はらからと思ふよに
など波風に立ちさわぐらん」
を披露し、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。
鈴木中将はこの時、明治天皇が、水師営の会見の際、「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語っている。
大正六年三月八日、ロシア黒海艦隊で水兵の反乱が起きた。その際に水兵が、司令官アレクサンドル・コルチャコフの指揮刀を取りあげようとしたところ、「旅順で自分を捕らえた日本軍でさえ、この刀を取り上げはしなかった」と発言、直後に自らそれを海に投げ捨てている。
昭和一九年夏、海軍兵学校を訪ねた鈴木は、時の井上成美校長に「井上君、兵学校教育の本当の効果があらわれるのは、君、二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」と繰り返し言っている。
井上も敗色濃厚な時代ではあったが、兵学校のカリキュラムを普通学に重点を置いたエリート教育を行った。恵氏は、工藤俊作の兵学校在学中に最も影響を与えた人物は、この鈴木貫太郎中将をあげ、その発言したとおりに、二十年後、大東亜戦争中に開花し、それを最も具体的な形で示したのが工藤俊作であると書かれています。(p九一)
ちなみに、いわゆる「五省」
一ツ 至誠に悖るなかりしか
一ツ 言行に恥ずるなかりしか
一ツ 気力に欠くるなかりしか
一ツ 努力に憾みなかりしか
一ツ 不精に恒るなかりしか
満州事変勃発から七カ月後の昭和七年四月二十四日、軍人勅諭下賜五十周年を記念して、生徒自習室に東郷平八郎元帥謹書の勅諭を掲げた。これと同時にこの五省が始められたので、工藤俊作の在校時にはなかった。
工藤俊作 駆逐艦「雷」艦長に着任
工藤俊作は駆逐艦「雷」の艦長として、昭和十五年十一月一日として着任する。工藤の艦長としての勤務は駆逐艦「太刀風」に昭和十三年三月に就任して以来四隻目となる。
工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されていった。
身長一八五センチ、体重九五キロと大きな体に、柔道三段で得意技は跳ね腰の猛者でありながら丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしていた。とても猛禽類のような目をした駆逐艦艦長のイメージでなかった。
着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。乗組員は目を白黒させる。
乗組員たちは当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑った。ところが工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。しかも辺幅を飾らず、些細なことにはこせこせしなかった。
洋上訓練が終了し単艦行動に移った時には「ようそろー横須賀」と号令し、速力を上げて寄港した。そして下士官兵を労り、接岸すると非番下士官兵を即座に上陸させた。
しかも、酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。
酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。 好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。
工藤は日頃士官や先任下士官に、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていた。
見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。
このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。工藤艦長の指導の結果、見張りには、四〇〇〇メートル先の潜望鏡を識別できるベテランが続々と誕生する。当時、これほどの識別能力を確保していれば潜水艦の電撃を充分回避できた。
(当時世界最強といわれたわが国の九三式酸素魚雷の性能は速力五〇ノット、射程二万メートル。他国の魚雷は速力二〇ノット、射程八〇〇〇メートルであった)
二ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。
駆逐艦「雷」
「特型駆逐艦」または「吹雪型」と称される大正十二年度の建艦計画で設計され、大正十五年から昭和八年まで二四隻が就航した、日本海軍建艦史の中で最多のシリーズである。
「雷」は特型?型、二三番艦として造られた。
基本排水量一六八〇トン 全長・全幅一一八・五メートル 一〇・三六メートル
速力三八ノット 機関艦本式タービン二基二軸
主要兵装 一二センチ砲六門 一三ミリ機銃二挺 六一センチ魚雷発射管九門、魚雷一八本
(「日本海軍総覧」新人物往来社 一九九四年刊より)
<工藤俊作 日本海軍の武士道精神>
昭和一六年一二月四日午前、工藤は高雄港に錨泊中の「雷」の前甲板に全乗組員を整列させた。マストには、日本海海戦で初代「雷」が使用した軍艦旗がひるがえる。
工藤は、海軍少佐の礼装で、勲四等旭日章をつけ全員に開戦を告げた。
昭和一六年一二月八日に大東亜戦争開戦。その大東亜戦争開戦の二日後、昭和一六年一二月一〇日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。
駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。
工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。
昭和一七年二月一五日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦五隻、駆逐艦九隻からなる連合部隊を結成した。
そして、二月二七日午後五時にスラバヤ沖海戦が始まった。
当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦二隻、哨戒艇一隻撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。
そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。
敵艦隊は重巡「エグゼタ-」「ヒューストン」、軽巡「デ・ロイテル」(旗艦)「バース」「ジャワ」、駆逐艦米四隻、英三隻、蘭二隻に対して、日本艦隊はこの連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡二隻、駆逐艦十四隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。日本海海戦以来、三七年ぶりの艦隊決戦である。
そして、午後六時三〇分頃、巡洋艦「エグゼタ-」が被弾し、艦隊最後尾にいた蘭駆逐艦「コルテノール」に軽巡「神通」が発射した魚雷が命中し、轟沈した。この海戦において英海軍の英雄的行動もあった。被弾損傷した「エクゼター」を守ろうとして、英駆逐艦「エレクトラ」が「エクゼター」の日本艦隊側側面に進出してきて、「朝雲」「峯雲」の二艦がこれに至近距離から集中砲火を浴びせ撃沈した。
「英駆逐艦「エンカウンター」は、被弾損傷した「エクゼター」を護衛し、かつ「コルテノール」の乗組員百十五名を救助してスラバヤに帰投した。
この救助活動は地上基地から発進した偵察機から視認されていたが、日本海軍は一切妨害しなかった。
<工藤俊作 駆逐艦「電」>
二月二八日、スラバヤに帰投していた「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、午後六時、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。
まもなく、日本の探索機によりこの艦隊を発見する。そして、三月一日には別行動をとっていた「雷」第六駆逐隊第二小隊の僚艦「電」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。
北西側より重巡「足柄」「妙高」駆逐艦「曙」「電」、南東側から重巡「那智」「羽黒」駆逐艦「山風」「江風」に挟撃される。
午後一二時三五分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」に距離一五〇〇〇メートルにまで接近して砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、航行不能に陥った。午後一時一〇分、高木司令官より「撃ち方止め!」の号令が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、自沈作業を開始した。やがてマストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げ、僚艦に自艦を見捨てるよう指令した。
その時「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。
午後一時三〇分、「電」が接近して魚雷二発を発射、間もなく「エクゼター」は右舷に傾き、艦尾から沈んでいった。そのとき「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。
この海戦で、おびただしい数の連合軍将兵が乗艦を撃沈され、漂流することになる。
「エクゼター」では、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあったのだろう。
まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出された。(恵氏は発令者は第三艦隊司令部と思われるとしている)
それにより、救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜びの笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってくる者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と助け出された。
甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は三七六名に上った。
また、恵氏は「電」艦長竹内一少佐は救助の命令を受ける前から、脱出した「エクゼター」の乗組員の状況を司令部に発信し、救助の許可を仰いだものと推測しています。
恵氏はその理由として、旗艦「足柄」は、「エクゼター」沈没以前に、「エンカウンター」と「ポープ」攻撃のため高速で東方に移動しており、「エクゼター」のその後を視認することはできなかった。要するに、時間的に見て「エクゼター」の乗組員である敵兵救助命令は「電」からの許可の要請がない限り出せないものと思われると書いています。
この「電」による救助活動によって助けられた元英海軍士官二人が、平成一六年六月現在、英国に御健在だそうで、現地で恵氏のインタビューに「日本海軍は偉大だった」(グレム・アレン元英海軍大尉)と答えています。
<工藤俊作 「雷」による敵兵救助>
駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止した時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたので、こう決断したのである。
しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、八千メートル東方の海域で、三〇分後に撃沈された。この時、二〇歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。
「艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。」(昭和一七年三月一日、午後二時過ぎ)
「間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。」(恵氏は駆逐艦「曙」と推定)
この時期には、米蘭の多くの潜水艦がジャワ海で行動しており、わが国の艦艇も犠牲になっていた。三月一日には、この海域で輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受け沈没。船長であった工藤の兵学校時代の教官であった清水巌大佐(海兵三九期)が船と運命を共にしている。
戦闘詳報には二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ海で「敵潜水艦合計七隻撃沈」の報告もなされている。それほど危険な海域なのである。敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。
「エンカウンター」の乗組員たちは、約二一時間も漂流し、「エクゼター」の場合と異なり、沈没艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなる。
フォール卿の証言では
「救命浮舟に五、六人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から一五〇海里も離れ、食糧も飲料水もない有り様でした。この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合軍艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な情況に置かれていました。」
「私は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信しておりました。
ところが一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていたのです」
「一九四二年三月二日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。
仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行しておりました」
このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。二番見張りと四番見張りからそれぞれ、「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者四〇〇以上」と次々に報告がはいる。工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午後一〇時頃「救助!」と命じた。
再びフォール卿の回想
「午前一〇時(正確には午前一〇時一〇分頃とおもわれる)、突然二〇〇ヤード(約180メートル)の」ところに日本の駆逐艦が現れました。
当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」
「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、第三艦隊司令部高橋伊望中将宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発した。
敵潜水艦に攻撃されるおそれのある中での救助である。それも、その救助する対象は敵将兵である。
工藤は、日本海軍史上極めて異例の号令をかける。
「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」
(しばらくして、前甲板に敵重傷者のための日よけの天幕が張られたために、一番砲塔も使えなくなる)
工藤は先任将校(浅野市郎大尉海兵六三期当時二九歳)に救助全般指揮をとらせ、航海長(谷川清澄中尉二五歳)に後甲板を、砲術長(田上俊三中尉二四歳)に中甲板における救助の指揮をとらせた。
佐々木確治一等水兵(二一歳)の回想
「筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。
敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。
その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。
この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました」
「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。
その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました」
浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、
ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、独断で海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。
艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断した。
「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」
もう、ここまで来れば、敵も味方もなかった。まして海軍軍人というのは、敵と戦う以前に、日頃狭い艦内で昼夜大自然と戦っている。この思いから、国籍を超えた独特の同胞意識が芽生えたのであろう。甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。
フォール卿の回想
「私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです」
「駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです」
「艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。
それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。友情あふれる歓迎でした。
私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです」
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。
「すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。」
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。
You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.
「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」
フォール卿はさらに、目を潤ませて語った。
「『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました」
「雷」は午前中だけで四〇四人を救助した。午後は十八人を救助した。(水没したり甲板上で死亡した者を除く)
ちなみに、駆逐艦「雷」の乗組員は約150名である。
この頃、我国にとってはまさに「石油の一滴は、血の一滴」といわれた時であり、また艦内の真水をつくるために造水装置も作動させるにも燃料を消費する。そのため、直接燃料を制御する機関長以下の機関科員は、絶えず燃料節約に努力し、また乗組員は真水を節約するため、洗面や飲料水にも細心の注意を心がけていた。
それを、工藤艦長は、敵兵救助のために艦の停発進を繰り返して燃料を激しく消耗し、重油で汚染された敵兵を洗浄するため、アルコールやガソリンを使い、さらに真水まで使用している。
海の中から上がった喜びも束の間、今度は赤道直下の灼熱の太陽が容赦なく敵兵を襲った。一時間も経過すると、身体の重油を落とすために使用したガソリンやアルコールが災いして、今度は彼らの身体に水泡ができた。
そこで工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。
「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではなかった。
「雷」の上甲板面積は約一二二二平方メートル、この約六〇%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、四八八平方メートル前後である。そこに、約三九〇人(約二〇人から三〇人は士官で、艦内に収容)の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。
蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。
高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。
この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。
高橋中将は「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。
工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可した。
高橋中将の命により、翌三月三日午前六時三〇分、パンジェルマシンへ入港し、救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。
「エグゼタ-」の副長以下重傷者は担架で移乗した。とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼタ-」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。
捕虜を移乗させた後「雷」は復旧作業が大変だったようだ。以下は当時の乗組員の回想による。
「前甲板の上はビスケットの粉々になったのが彼らの垂れ流した小便でこびりついてつるつる滑る。素足になって海水を流し、デッキブラシでゴシゴシやって、やっと元の甲板に戻りました」
フォール卿はその後どのような捕虜生活を送ったのであろうか。以下はそのフォール卿自身の証言です。
「オランダの病院船からマサッサルの捕虜収容所まで徒歩で行進しました。路上でみた住民たちはかなり親日的で、軒ごとに日章旗が掲揚されていました。それに反して、彼らは自分たちをかなり敵愾心をもって見ているようでした。
捕虜収容所はオランダ軍の施設でした。当初は鉄条網もなく、さほどの束縛もありませんでした。土間に寝起きさせられましたが、後に、小さなベットと蚊屋が支給されました。ここには、英海軍、オランダ海軍、少数の米海軍(撃沈された潜水艦乗組員)の士官を含め兵卒もまじって収容されていました。
ある時、オランダ海軍士官が脱走を試みました。ところが、買収したはずのインドネシア人が日本軍に通報し、それは失敗に終わったのです。これ以降、自分は英国海軍の上級士官から二度とこういう行為はするなと言われました。
日本兵はわれわれが勉強することを許してくれました。そのため、私はこの環境を利用してオランダ語、マレー語、インドネシア語を学んだのです。このことは戦後自分の外交官活動に大変役立ちました。
一九四二年の暮れ、ある日本人のジャーナリストが捕虜収容所を訪問し、私は取材を受けました。彼は長年の滞米経験があり、われわれに同情的でした。彼は私にインタビューし、その内容を東京放送で必ず放送すると約束してくれました。その時、私が語ったのは次のようなことでした。
一、両親あて、私は現在日本の捕虜になっている。日本の処遇はいい。現在語学を懸命に学んでいる。
二、恋人メレーデ(現夫人)へ、私の愛を君に送る。
戦後になってわかったことですが、この放送はロンドンのアマチュア無線家によって受信され、両親に電話で知らされていました。
両親はすぐにこれが偽物でない事を確信しました。なぜならメレーデは、私のフィアンセの愛称だったからです。これは、当時スウェーデンにいたメレーデの兄にも伝えられました。
その後、捕虜は分けられて、セレベスの東岸にあるパマラに移され、そこで終戦を迎え、一九四五年一〇月二九日にリバプールに帰還したのです」
先に書いたようにフォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、平成八年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
平成一五年一〇月、フォール卿は日本の土を踏んだ。八四歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。部下であった田上俊三大尉などは「戦後間もなく病気で死んだ。子供もいないから、その後どうなったかわからない。墓もわからない」と語気強く言い切ったそうである。それでいて、自分はテレビ局(あのNHK)を連れてきて「救助隊で活躍した」「工藤艦長の兵学校のクラスは大量採用の時代であった」とかたり、それだけでなく兵学校出身者と思えないぐらいの偏った歴史観をもち、それだけでなく、自分自身とフォール卿とは孫をホームステイさせるほどの仲と吹聴している。
田上のそれは平成一五年十一月二一日午前五時三八分に放送された「おはよう日本」のなかで「半世紀を超えた友情」と報道された。
その中で、田上は工藤艦長の名前は一切語らず、いかに自分が敵兵救助に活躍したかを言った。その後、こう熱弁を振るったそうである。
「絶対戦争をしてはいけないということは、この時すでに考えていた。こういうバカなことをやってはいけないと思いながら戦っていた・・・・」
まるで、支那に洗脳された売国奴集団の腐れ「中帰連」なみのバカ男です。
フォール卿から依頼を受けて、著者・恵隆之介氏はわずか三ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作氏は終戦後、高畠にあったかよ夫人の実家にいた。苗木の挿し木などをして収入を得ていた。敗戦で、残念なことであるが陸海軍人に対する視点が一八〇度変わった。かっての職業軍人に戦争責任のすべてを転嫁する風潮が全国的に起こっていたのである。ところが、高畠や米沢にはこういった日和見な傾向は微塵もなかった。
工藤俊作の出身地である屋代村村民も同様、戦前戦後の価値観の価値観の転換はなかった。村民は、工藤が駆逐艦艦長時代、碇泊中に郷党の兵が表敬のため舷門を訪ねると、階級にこだわることなく艦長室に招き入れ、歓待してくれたことを決して忘れなかった。
とくに元海軍下士官の二階堂敬三氏は、戦後、何度も感激をもって次の話を村民にしていた。(平成一二年、八一歳で死去)
「水兵時代に『雷』を訪問し、『工藤艦長に表敬したい』と舷門にいる下士官に申告したことがあった。下士官は即座に『兵の分際で、艦長を表敬とは何事か』と怒鳴った。そこに、折良く工藤艦長が通りかかり、『二階堂君ではないか』と、艦長室に案内し、歓待してくれた」というのだ。
工藤は高畠から自転車で、屋代村の兄家族を度々訪ねているが、途中、村人たちは農作業の手を止めて頭を垂れていた。
昭和三〇年、工藤も敗戦のショックからようやく立ち直り、埼玉県川口市朝日に転居する。
かよ夫人の姪が、この地で医院を開業することになり、工藤は事務を、夫人は入院患者の賄い婦としての生活が始まった。
この頃になると、同期や、旧部下が、工藤の所在を探し当てて訪問するようになる。戦後まっ先に工藤を訪ねてきたのが、艦長伝令をしていた佐々木確治氏であった。その次が第一砲塔砲手の橋本衛氏であった。二人とも玄関で、「艦長、戦時中はお世話になりました」と発声するや、後は声にならずただただ、工藤に肩をたたかれて、涙を滂沱するだけであった。
近所もこの寡黙で長身の男が、かっての駆逐艦艦長で、兵学校出身であることに気づく。
少年たちは朝夕、挨拶し、工藤を畏敬するようになる。
海上自衛隊や、クラスが在籍する大企業からの招きも全部断わった。さらに戦後のクラス会には出席しようとしなかった。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや、部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まった。楽しみは、毎晩かよ夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、先輩、後輩の消息を知ることであった。
昭和五二年暮れ、病魔に冒される。胃ガンであった。
昭和五四年一月一二日、七八歳の生涯を静かに閉じた。いよいよ最後という時、クラスの大井薫氏や、正木生虎氏が病室を訪ねた。付き添い中の夫人が、「大井さんと正木さんですよ」と耳元で囁いた。
「ああ大井か、正木か。貴様たちはおおいにやっているようだが、俺は独活の大木だったなあ」と言いつつ、静かに目を閉じたという。
この七カ月後に海上自衛隊の練習艦隊が、英国ポーツマスに入港した。練習艦隊司令長官植田海将補が英国海軍連絡士官より工藤俊作海軍中佐の消息調査を依頼された。
著者の恵氏は同じ頃、英国海軍訓練支援艦L十一(一三〇〇〇トン)士官室で、リチャード・ウイルキモ海軍大尉から次の激励を受けていた。
「恵少尉、我々は日本海軍を尊敬している。ドイツが戦後海軍旗を変更したが、海上自衛隊は、帝国海軍旗を世襲した。われわれはこの事に最も敬意を表している」そして「米国にコンプレックスを決してもつな」と言われている。
そして、恵氏は後一年早く知っていれば、工藤元中佐、フォール元中佐の感激の再会が実現していたのにとこの著書に書かれています。
そして、工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。我国海軍のサイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
工藤中佐夫妻は川口市朝日にある薬林寺境内に眠っているそうである。
巡洋艦「羽黒」による敵兵救助
平成21年9月28日月曜日晴れ ○
昨日、読んでいた本の一冊に、恵隆之助氏の著書「敵兵を救助せよ」に書かれていたスラバヤ沖海戦においての工藤俊作中佐が艦長であった駆逐艦「雷」そして僚艦「電」による英国海軍将兵の救助以外に、巡洋艦「羽黒」による同じく英国海軍将兵の救助も掲載されていました。
以下引用
<「溺者あり、救助乞う」一番艦からの信号である。水兵でも落ちたのかと、内心思っていると救助に向ったボートから「敵兵は如何にすべきや」「全員救助すべし」という訳で、我が艦もやがて裸の白人兵二十名程収容する事と成った。
見ると大きな奴が鼻から重油を垂れながら、へたへたと上甲板に座って元気が無い。士官が多かった。オランダ人が多いが、英国人の中尉もいた。
さて、どう待遇するか。国際公法に則り、遺憾なきを期する事に成った。すなわち、士官には当方の士官の、下士官には下士官の、兵には兵の待遇を与えることである。
さて士官連中を何処に入れるか。まさか士官室に入れるわけにもいかない。幸い羽黒には司令部が乗っていないので参謀予備室が空いている。「参謀予備室のシーツを取り替えよ」。全部洗濯したての真っ白なシーツに取り替えられた。
軍医に見せたり、体を荒い、折り目のついた防暑服を支給した。食事も原則として士官と同じである。尤も日本食の時は困るだろうと、スープから始まるきちんとした洋食を支給した。連中はすぐに元気を取り戻した。
「この艦はどこに弾を受けたか」これが連中の最初の質問であった。全然被弾していない旨こたえると、「そんな筈はない」と頑張る。
上甲板につれて行って大体見せ、どの砲身も余り続けて激しく撃ったので熱の為塗料が殆ど剥げているのを示し「被害とはこの位のもの」と説明すると大いに感心したような、がっかりし様子であった。
連中も非常に良い所があった。礼に対しては礼を以て答えた。軍艦旗の上げ降ろしには、こちらは何も云わないのに、全員起立して敬礼した。>
「なぜ天皇を尊敬するか その哲学と憲法」(大野健夫 羽黒主計長著書より)
私は「(「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」潮書房 昭和六十三年刊)p四百二~四百三」
羽黒とか鳥海のプラモデルは小学校の時に作りました。まだ、淡路島の実家に残っているかな・・・・・・・・
引用文献
「敵兵を救助せよ」恵隆之介 草思社平成十八年刊
「日本海軍総覧」新人物往来社 平成六年刊
「海軍兵学校」(真継不二夫 国書刊行会 昭和五三年刊
「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」(潮書房 昭和六十三年刊)