日本における自衛隊という軍隊
日本における自衛隊という軍隊
文責はすべて、<a href=”/kako//”>酒たまねぎや</a>店主の木下隆義にございます。
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平成20年7月8日火曜日くもり
七月四日金曜日の産經新聞に興味深い二つの記事が掲載されていた。ひとつは、野口裕之氏の「『信賞』なき自衛官の名誉」と題されたコラムであり、もうひとつは「『海ゆかば』が聞こえない」と題された湯浅博氏のコラムです。
野口氏はこのコラムで、英国国営放送であるBBC放送がおこなった、英国の「英雄である」戦死者にたいする厳かな放送シーンを書き、それと比べて、我が国の「軍隊」である自衛隊の殉職者の扱いを書かれています。
野口氏は平成一九年四月に、視界二〇〇メートルしかない海上濃霧警報のなか、緊急患者空輸のため、大型ヘリで離島にむかう途中に墜落し殉職した陸上自衛官四名の葬送式について書かれています。参列された野口氏の手元にある式次第に掲載された遺影は、所属部隊が徹夜で作ったそうです。4名の階級特進による階級章を変えるためだけでなく、「せめて」、「顕著な功績」があったとして贈られた「メダル」の「防衛功労章一級」と「防衛記念章一級」で胸を飾りたいと願ったからだそうです。
続いて、野口氏はその「せめて」の意味を書かれています。それは、我が国では、他国の軍人に武勲、功績に応じて贈られる国家からの勲章というものはなく、防衛省よりのメダルでしかない。そして、他国では礼装につける勲章代わりに、軍服には勲章の略章を着けるが、我が国の自衛隊では、メダルに対しての、略章であり、自衛隊内でも「グリコのおまけ」と揶揄されているそうです。
そんな我が国の現役自衛官が、もし、着けている勲章があれば、海外勤務などのおりに「他国」より授与された勲章しかなく、英国が「英雄」の死に対し、国営放送が特別番組を組み、生前から叙勲の栄に浴しているのに対して、我が国では「英雄」の死に対して、放送はおろか、胸に飾る勲章さえ無い。
四人が属した鹿児島・奄美以南と沖縄全域の急患空輸を担う陸自第一混成団第一〇一飛行隊の出動は、荒天も含め八〇〇〇回近いそうで、厳しい訓練、過酷な出動を重ねる軍隊では平時でも殉職者が多い。半世紀の間に、我が国の自衛隊員も一八〇〇人が公務中に殉職されている。
自衛隊員は入隊時に「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂につとめ、もつて国民の負託にこたえる」という「服務の宣誓」を、法で義務付けられでもいるが、そんな自衛官が、インド洋、イラクなどでテロの危険にさらされ任務を遂行しても、現役中は叙勲されないそうで、四名の殉職自衛官の皆様に、正5位・旭日小綬章や従5位・旭日双光章、旭日単光章が国より贈られたのは、葬送式後であった。
そればかりか、退官しても下士官・士(兵)には叙勲はない。
野口氏は海外勤務が増え続ける現在、犠牲への覚悟も必要とし、その大前提が「現役自衛官の叙勲制度」制定であり、「公」に殉じた自衛官を遇する「勲章・恩給制度」の確立である。組織には「信賞」があるから「必罰」がある。法による「罰則」の一方で、栄典制度による「顕彰」があるが、現役自衛官には「必罰」だけで「信賞」がないどころか、イラクに派遣される時に、国内航空会社から制服での搭乗を拒否され「必罰」に加えて「屈辱」まで受けながら、旺盛な士気を保っていると書かれています。
他国においては、軍人に対して、英国「功績勲章」「大英勲章」、フランス「レジオン・ド・ヌール勲章」「国家功労勲章」、スペインは三軍別「功労勲章」、イタリアは「イタリア共和国功績勲章」、米国は民間人向けの「大統領自由記章」以外の多くは軍人向けに制定されているそうです。
以前に西村眞悟議員がメルマガに書いておられましたが、石破防衛大臣は「自衛隊は軍隊でありません」と安全保障委員会で言い切ったそうです。
野口氏がコラムで書かれていることは、そのような人間でも防衛大臣を勤めることができるという喜劇というか悲劇に通じるものがあり、それが、先の七七五〇トンの「軍艦」であるイージス艦に対して、その千分の一にも満たない七トンしかない漁船を「避けろ」などということを命じ、その結果にあのアホな事故につながっていると思います。
機長・建村善知一佐(五四歳・鹿児島県徳之島町出身)
副操縦士・坂口弘一二佐(五三歳・佐賀県出身)
整備員・岩永浩一曹長(四二歳・長崎県出身)
藤永真司曹長(三三歳・大分県出身)
機長の建村一佐は、平成一四年「第一回国民の自衛官」を受賞したこともあり、退官間近。藤永曹長は入籍して一年だったそうな。
せめてもの救いは、この勇敢なる四名の殉職者に対して、徳之島では慰霊碑を建立ししたそうです。
(写真は健立に携わった福島グループのホームページより)
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そして、沖縄県那覇市で行われた、葬送式に安倍晋三総理大臣が参列されたそうですが、このような葬送式に総理大臣の参列は初めてだそうです。写真は官邸ホームページより。<A
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我が国も早く普通の国になってほしいものです。
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日本航空機長アナウンス
平成23年6月2日木曜日雨×65
今日発売の週刊新潮に掲載されている高山正之氏のコラム「変見自在」は「ぼろは着てても」と題したものでした。
以下引用
<「変見自在」 高山正之
「ぼろは着てても」
一昔前になる。熊本県水俣市で鉄砲水が出て十九人が死んだ。
それを伝える共同通信の記事は「もっと捜して」の見出しで「(身内がその辺に埋まっている。自衛隊員に)もっと捜してと言っているのに」と視察に来た県知事に訴える被災者の言葉を取り上げている。
記事に添えられた写真は横隊で泥沼の中を遺体捜索に当たる自衛隊員を手前から中年の女性二人が手持ち無沙汰にしゃがんで見つめている図柄だ。
何とも違和感が残る。
身内が埋もれているなら自分達で探すのが家族というものだ。少なくとも日本人はそうしてきた。
そこに災害派遣の自衛隊員が来てくれた。語る言葉はまず「ありがとう」だろう。そしていっしょに泥沼を懸命に探す。
しかし共同の記事は違う。被災者はご主人様で、泥まみれで仕事をするのが自衛隊員。それが写真の構図。そのご主人様がここを掘れと言っているのに言うことを聞かない。「奴隷のくせに許せないと不平を洩らす被災民」としか読めない。
朝日新聞と共に共同が常々張ってきた自衛隊蔑視キャンペーンはこうした一般記事にも盛られ、ある種サブリミナル効果として人々の心に浸透させていったように思える。
それが端的に出たのが今回の三・十一大震災だ。
新聞には毎日、震災死者数と行方不明者の数が載る。死者数は増え、その分不明者が減るのは遺体が新たに発見されるからだ。
だれが発見するのか。被災者の身内ではない。彼らは「外は臭くて」(朝日新聞)とかいって日がな一日避難所に籠ったままだ。
ここも水俣市と同じ。泥沼を、そして逆巻く波の打ち寄せる海岸を捜索しているのは自衛隊員で、彼らは2ヶ月以上休暇なしの連続勤務に耐え、風呂も被災民に譲って汚れた体のまま雑魚寝を続ける。共同の主張は被災地に根付いていた。
自衛隊蔑視論は官僚世界にも根を張っていた。
90年代半ば、ルワンダ内戦で難民が出ると外務省はその救済に自衛隊員派遣を言い立てた。
難民キャンプにも武装ゲリラが出没する。エイズは流行る。危険千万で、内戦に責任のある西欧諸国もしり込みしていた。
で、米国が安保理常任理事国入りを餌に日本に派遣を要請してきた。
外務省は喜び、派遣部隊に被害が出ればより外交効果があると読んで、装備は小銃のほか機関銃1丁とほとんど丸腰で送り出した。
自衛隊はそんな悪条件下でも任期を無事務め上げたうえ、武装ゲリラに襲われたNGOの日本人医師の救出もやってのけた。
外務省には期待外れだった。お前らは死ねばいいのに、なに勝手をやるのか。共同も朝日新聞も自国民救済など自衛隊の越権行為だと非難した。
期待に背いたことへの報復は陰険だった。任務終了後、帰国には民間機を利用し、その際は征服の着用は仰々しいので認めない。各自私服で帰れと。
お前らは目立つことは無いという意味だ。
誰もましな着替えなど持っていない。年の押し詰まった十二月二十七日、ロンドンから日航機に搭乗した時周囲の乗客は酷い身なりの集団にちょっと驚いた。
それが異郷の地で頑張りぬいた自衛隊員と知るのは機が公海上に出てからの機長アナウンスでだった。
「このたびは任務を終え帰国される自衛隊員の皆様、お国のために誠に有難うございました。国民に成り代わり機長より厚く御礼申し上げます。当機は一路日本に向かっております。皆様故国でよいお年を迎えられますよう」
異形の集団を包むように客席から拍手が沸き、その輪がやがて機内一杯に広がっていった。
機長は乗客リストを見て自衛隊員の帰国を知り「日本人として当然のことをしただけ」と語る。
成田に着いた後六十五人の隊員はコックピットの見える通路に整列し機長に向かって敬礼した。
被災地はともかく日本人はまだまだ一杯いる。>
引用終わり 週刊新潮 平成二十三年六月九日号 P一三八
<img src=”/kako/images/sinntyou23.6.3_000.jpg” width=”320″ height=”240″>
平成六年九月二十一日より十二月二十八日までルワンダ難民救援のために派遣された神本光伸一佐が率いる自衛隊について、此の時の防衛庁長官であった玉沢徳一郎氏は月刊「正論」平成十六年三月号で下記のように述べている。
<現地規律厳正で、地元民に尊敬される行動をとりました。任務のかたわら街の中の泥ばかりの側溝へ行って自ら泥をすくったんですよ、懸命にね。大量の難民が流入したショックで地元民たちは茫然自失していましたが、自衛隊員が泥を取り除き始めると彼らは花壇を作り始める。殺伐とした雰囲気が明るくなったのです。
毎朝、必ず国旗を揚げ、部隊指揮官に敬礼し、訓示を受けて行動する。服装もビシッと正している。もちろん犯罪者は一人もいません。現地民にとっては驚きなのですよ。
地元軍の中には、モブツ政権に対してクーデターを起そうとして失敗して追われた部隊もいて、給料も滞っている。国境を越えてくる難民のポケットにまで手を突っ込んで金品を奪っているのがテレビに映っていました。昼間でも酒を飲み、夜は民家に押し入り、非常線をはって外国の記者からも「通行料」を巻き上げる。
だから、自衛隊がいきなり現地入りしたら言わば「縄張り荒らし」と勘違いされて、言葉も通じず、何かあれば発砲されかねない雰囲気があったのです。
自衛隊が駐屯するうちに、そうした雰囲気がだんだん和らいでいったのです。やくざは会った瞬間に自分より強いか見分ける習性があるそうですが、武装勢力も同じなんですね。「この連中はどうも俺たちよりも強そうだ」と(笑い)。
だんだん尊敬の念に変わり、自衛隊員に会うと日本式の敬礼をするようになりました。
複雑な部族社会を形成する点は、イラクも同じです。それぞれが緊張関係にある。ルワンダでは、ツチ族とフツ族が国境を越えて対立していました。神本一佐は中立性を保ちよくやったと思います。>
月刊「正論」平成十六年三月号P九十四~九十五
<img src=”/kako/images/seironn23.6.6_000.jpg” width=”320″ height=”240″>
時の村山富市を首相とする政府は、このように立派に任務を果たした自衛隊に対して誇りある制服の着用を認めなかったのである。
<img src=”/kako/images/kamimotoitsa23.6.2.jpg” width=”346″ height=”240″>
(写真は旭川駐屯地での編成完結式で玉澤防衛庁長官から隊旗を授与される神本派遣隊長)
日本航空の機長アナウンスに尽きると思う。
<「このたびは任務を終え帰国される自衛隊員の皆様、お国のために誠に有難うございました。国民に成り代わり機長より厚く御礼申し上げます。当機は一路日本に向かっております。皆様故国でよいお年を迎えられますよう」>
Sくん来店。
「石松」でマルガリータさんから紹介されたというお客様一名様来店。
初めてのお客様Nさん二名様で来店。
酒いわしや時代に偽赤塚センセイといらしたというEさん二名様で来店。
ドンチャン。
営業終了後、シェフと「Arrivee」さんでドンチャン。
シェフはもう一件行くそう。
タフ。
私はコンビニに寄って帰ったようだが記憶にない。
サル。
でもエビではないと思う。
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