関東大震災朝鮮人虐殺公権力陰謀説の嘘
関東大震災朝鮮人虐殺公権力陰謀説の嘘
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
「ソウルに刻まれた日本」
「関東大震災朝鮮人虐殺公権力陰謀説」と中塚明
平成21年11月4日水曜日晴れ
この「ソウルに刻まれた日本」には、関東大震災の時のいわゆる「朝鮮人虐殺」について下記のように書かれている。
<「朝鮮人が井戸の中に毒薬を入れた」、「朝鮮人が集結して火をつけて回った」などといって、罪のない数万名の朝鮮人を虐殺した。ところで、このような「朝鮮人暴動説」を流布させた張本人は、他でもない、当時内務大臣であった水野錬太郎であった。
水野錬太郎は政務総監として、斉藤総督と一緒に京城に赴任し、南大門駅で姜義士の爆弾の洗礼を受けた。斉藤と共に無事であったが、彼はそのとき受けた衝撃と恨みがとても深く、朝鮮人に対する恨みを晴らす機会を狙っていた。
そんな中、彼は内務大臣となり、関東大震災が起ると、その機会を利用して「朝鮮人暴動説」というとんでもないものをでっち上げたのである。
これをそのまま信じた日本人は手当り次第に朝鮮人を殺傷した。虐殺は九月三日深夜から七日まで続いたのだが、当時これを目撃したある朝鮮人の証言によれば、殺傷はだいたい次のように行われた。
「初めから住所、氏名も聞かないまま、事の正否も聞かず、順々に引きずられて殺されていった。初めは銃で殺したが、銃声が付近一帯の民家に聞こえるのを恐れ、後には銃剣で刺し殺した。真っ暗な庭の中に、裸にして立てては、銃剣を両手で掴んで、兵丁fが、横ではもう一つのやや低めの声の号令によって何度も刺して・・・・・。このようにして、一つ一つの黒い影は、言葉なく倒れていった。」
このようにして、虐殺された朝鮮人の数は一万名を超えるともいわれるが、いまだに正確な事はわかっていない。日本人ひとりの恨みが、数多い善良な朝鮮人の命を奪ったわけである。>
(同書p八十五~八十六)
手元に「台湾少年工と第二の故郷」(野口毅 展転社 平成十一年刊)という本がある。
大東亜戦争末期に、志願により試験を受け台湾で選抜された八千四百名もの優秀な十五歳前後の少年たちが、高座海軍工廠において極地戦闘機「雷電」の製造に関わっていたが米軍の攻撃により五十二名の方々が犠牲になられた。
この方々は靖國神社に英霊として祀られているが、靖國神社に確認をお願いした時に、二五〇万柱もの英霊の名簿の中より四十名が祀られていることが報告された野口氏は散華された台湾少年工が英霊として、靖國神社に祀られている事に涙を流されている。
そして、散華されたすべての台湾少年工を靖國神社に英霊として合祀していただくために、氏名を確認する過程において、野口氏は著書に我が国の役人の優秀さと戦時中というにもかかわらずその記録の保存の確かさについて書いている。
鄭雲鉉氏は、水野錬太郎内務大臣が「朝鮮人暴動説をでっちあげた」と書いているが、そうであれば、当然、何かその証拠なり、記録が残っているということになるが、この鄭という朝鮮人はそれを確認したのであろうか。
何も確認せずにこのような事を書くのであれば、アホウとしか言いようがない。
まあ、これと同じような記述が「これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史」(中塚明 高文研 平成十四年 )などにも見られます。
<日本の支配者は、日本人の労働者と朝鮮人の労働者が、どんな形にせよ、手を取り合い腕を組むことを非常に恐れました。
あらゆる機会をとらえて、日本人には朝鮮人を軽蔑し、差別する思想を植え付け、日本人と朝鮮人を敵対させようと計ったのです。
一九二二年(大正十三年)九月、関東大震災が起りました。地震と火災で数百万人が路頭に放り出され、死者・負傷者が続出しました。
そのとき朝鮮人が暴動を起こしたとか、井戸に毒を投げ入れて日本人を殺そうとしているなどのうわさがひろまりました。根拠のないデマ・流言でした。日本政府は軍隊を出して警戒を厳しくすると同時に、「朝鮮人暴動」のうわさが事実無根であることを知りながら、それをはっきりと打ち消しませんでした。そればかりか、かえってそのデマを助長し、軍隊・警察が一体となって、多数の朝鮮人を逮捕し殺害したのです。それにあおられた一般の日本人も、各地で自警団をつくり、見境もなく朝鮮人を虐殺したのです>
(私は「日本から観た朝鮮の歴史」(熊谷正秀 展転社 平成十六年刊)P二百十四より引用
この中塚明氏も同じく、日本人と朝鮮人が対立する事による施政の利点というものはなんであるかという事が書かれていないし、具体的なその証拠も何も提示されていない。
このような中塚明氏の文書に対し、熊谷正秀氏は、
<「関東大震災」(姜徳相 中央公論社 昭和五十年刊)、「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」(姜徳相・琴 みすず書房 昭和三十八年刊)、「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植 未来社 昭和四十年刊)には「震災の混乱の中で自然発生的にデマがながれたのではなく、日本政府関係者があえてデマを流し、朝鮮人を殺害した」と記述されている。
これらの書物は、関東大震災時の朝鮮人虐殺について様々な論文・テキストで引用されている。しかし、野牧雅子氏は、「関東大震災朝鮮人虐殺説への重大な疑問」(「現代コリア第四百十九号」平成十四年P六十七~六十八)で、「関東大震災」及び「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」は、筆者が引用文を部分的に削除して自分の解釈に合わせて本来の意味を歪曲しているといくつかの例をあげて批判している。
また、デマを故意に流したかについて、姜徳相氏が「権力が戒厳施行の名文として朝鮮人蜂起を利用し、流布し、国民の不満を凶悪な排外心にすりかえるため」としているのに対し、野牧氏は、そのような証拠が全くない上、震災時に発動された戒厳令は「軍事戒厳」ではなく、「行政戒厳」であることを指摘し、戒厳令発動決定の条件にデマは不要であったと反論している。
さらに、当時、一般の日本人や官側が朝鮮人をかばった話だけでなく、警察によって朝鮮人保護活動が組織的に行われていた事、関東戒厳司令部がまとめた調査票からも兵隊や巡査が朝鮮人を殺害した例はあるものの、それらは秩序を守るために行った単発の行為であること、刑務所に収監されていた囚人(朝鮮人を含む)が震災直後に解放されるや否や略奪をはたらいたこと、など具体的な例をいくつかあげている。>
(「日本から観た朝鮮の歴史」P二百十五~二百十七)
随分前にその内容のアホさを指摘しました「知識ゼロからの日本・中国・朝鮮近代史」(青木裕司 玄冬舎 平成十六年刊)には「関東大震災と朝鮮人虐殺」のところにしっかりと、「公権力があおったパニック、その悲惨な結末」として「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」(姜徳相他編 みすず書房P百四十五)よりの引用と明示しています。
青木氏も、その背景として中塚氏と同じく水平社などと結びつく可能性などをあげています。
中塚氏、青木氏両名とも関東大震災時の大混乱の中、朝鮮人の集団が日本兵、日本人を多数殺害した事実には一切ふれない。
ちなみに、この中塚明という人は、平成一三年七月七日に開かれた<「国民連合」主催の「7.7集会」-一日も早く日朝国交正常化を!>という集会において、「南北共同声明一周年と日朝関係の正しい歴史認識を」という題で講義し、その講義後、の北朝鮮による「拉致」被害者家族連絡会の増元照明氏の「拉致問題に関し如何お考えでしょう?」の質問に対し、「拉致そのものの証拠、根拠は?」と宣い、「シン.ガンス事案」と「李恩恵事案」をあげて説明した増元氏に対し、中塚氏は「もしそれが軍事政権下の裁判であったなら信頼性にかけますね」とほざいています。
続く
仕込みを終えてから、月曜日にパテで補修してあった皿のペーパーがけ。
Nさん四名様で来店。Nさん二名様で来店。Oさん来店。
一通り飲むが、今日はしっかと記憶あり。珍しい・・・・・
「ソウルに刻まれた日本」関連
「朝鮮人強制連行の記録」にみる「関東大震災朝鮮人虐殺公権力陰謀説」
11月5日木曜日晴れ △
昨日の日記に書いた熊谷正秀氏の著書「日本から観た朝鮮の歴史」(展転社 平成十六年刊)の中に出てくる三冊の朝鮮人が書いた著書のうち、あの悪名高い「朝鮮人強制連行の記録」だけが手元にありますが、それに関東大震災についてどのように書かれているか。
以下、
弟、義兄、そしてその従兄弟など同僚十五人で、日本に「観光旅行」で来ていたという慎昌範氏(千葉県在住)の証言として、
九月一日、上野の「昭和旅館」にて昼食をとっている時に地震に遭う。
二日、兵隊の配っていた握り飯で飢えを凌ぐ。
三日の夜、「津波が来る」という怒鳴り声で、京成電車の鉄橋の上に非難する。
四日、朝二時頃に「朝鮮人をつまみだせ」「朝鮮人を殺せ」という自警団の声が聞こえ、武装した自警団に近くにいた林善一という「荒川の堤防工事」で働いていた朝鮮人が日本刀によって斬り殺される。
鉄橋から飛び降りて逃げる。
五日、朝、自警団が三人乗った伝馬船をひっくり返すが、もう一隻に乗った自警団に捕まる。
日本刀にあっちこっち切られたり、竹槍で突かれ、気を失い、死体と思われて、足首を鳶口で引っ掛けられて、寺島警察署まで引きずられたのち死体置き場に放置される。
弟は頭に八の字型の傷を受け、義兄は無傷で寺島警察署に収容される。
巡査は、治療はおろか、水も飲ませるのを邪魔をした。
弟の四、五日間にわたる水を飲ませてくれた事により、一週間後には目が見え始める。
警察署は一切治療をしなかった。
九月末になって、自分で歩ける者は千葉の習志野収容所に移されたが、重傷者だった慎昌範氏は警察に残される。
寺島警察署には十月末までいる。
その後、日赤病院に入れられるが、患者同士の話を禁じられた。
手当は、初めの二ヶ月は赤チンを日に一度ぬってくれるだけであった。
左肩は骨が砕けているので、病院側は、腕の付け根から切り落とせば治りが早いとしつこく何度も言ったが、
私はもし切り落とすような事をしたら国にも帰れないし、自殺すると言い張りやっと免れた。
「麻酔薬もなく」「手術が大変」で自殺したいような気持ちであった。
顔や頭の傷は早く治った。
竹槍で刺された右脇腹の傷口は、息をすればそこから空気がもれるような状態で、治療が長引いた。
左手の小指は荒川堤防で日本刀でスッパリと、切り落とされたせいか、傷口はきれいになっていたが、日が経つにつれて痛みが増して来たが、医者や看護婦に訴えても相手にしてくれず、偉い医者が見回りに来た時に、痛くて、我慢できないから、何とかしてくれるように頼むと、その場で包帯を切る鋏で、乱暴に痛む所をブスッと切り裂いてしまった。裂いた傷口から大きなウジ虫が何匹か出て来ました。
日赤病院といっても、このように被人道的扱いをされていたので、同じ病室で十六名中生き残ったのは九名だけでした。
日赤病院から一年六ヶ月ぶりに退院し、朝鮮に「帰ってみる」と、故郷の居昌郡だけでも震災時に十二名も虐殺された事が判り、そのうち私の親類だけでも三名も殺されました。
私の身体を一生涯不具にさせ、多くの同胞の生命を奪った日本帝国主義に対する憎しみは、一生忘れる事はないでしょう。
以上
「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植 未来社 昭和四十年刊)P二百二十九~二百三十四
時系列にこの慎昌範氏(千葉県在住)という朝鮮人の証言をハッショリながら書きましたが、このアホ朝鮮人は矛盾というものを知らないのだろうか。
明治四十三年(千九百十年)の併合からたった十二年しか経っていない「大正」十二年に、十五人もの兄弟、義兄などで「観光旅行」に来て泊まっていたという裕福な朝鮮人である慎昌範氏は泊まっていたという「昭和旅館」で地震に遭遇したそうだが、「大正」十二年当時、「昭和」に旅館は存在していたのだろうか。
明治時代に「大正○○」、大正時代に「昭和○○」、昭和時代に「平成○○」などと名付けられたものが存在するのであろうか。
あと、九月五日に自警団に襲われ、日本刀と竹槍により、顔、頭、日本刀で切られたのに、その切り傷ではなく、骨が砕けて切断する手術を提示される程の左肩、息をすれば空気が漏れるほどの右脇腹など無数の傷をおい、気を失い死体と間違われる程の重傷であったのに、警察署においては何の手当もされずに十月末に日赤病院に移るまでの約二ヶ月間も放置され、その後の日赤病院においても赤チンを一日一度だけぬるだけで、治ってしまったというのも凄い。
初期治療が大切というのは私のようなド素人でも知っています。
それが、警察に二ヶ月治療もされずにいて、日赤病院に一年半も入院していたのですから、自警団に襲われてから、一年八ヶ月ぶりに外に出るような傷が、憎き日帝により赤チンをぬるだけで治ってしまったのですから、不死身ですね。
まさに、ゴキブリ、ネズミ以上の生命力でしょうか。
流石に、たった三十五年の日帝の醜い統治でも人口が倍以上に増える民族だけの事はあります。
ところで、なんで、「観光旅行」に来て、「朝鮮に帰れなくなるから」と病院で言って手術を拒み、一旦は故郷の朝鮮半島に帰りながら、また殺されかけた日本の「千葉市在住」なんでっか?
強制連行でもされたんでっか?
いくら鬼の日帝でも身体の不自由なものをわざわざ朝鮮から連れてこんでもよさそうなものですが。
あほらし。
慎昌範というアホ朝鮮人のウソ証言は、現在でもあの犯罪組織朝鮮総連系の「統一評論」統一評論 平成二十年九号[第五百十五号]にて、荒川土手で虐殺された多くの同胞」として掲載されています。
こういうアホ朝鮮人の言う事をそのまま信じる輩もいる。
このアホ証言がウソでないと言うなら、私が指摘した矛盾点をそれぞれ説明して欲しいものです。
このようにウソを吐き続ける腐れ朝鮮人どもは、普通の朝鮮人の人々にとり、害以外のなにものでもない。
Sさん御友人夫妻と来店。小胡子さん来店。
営業終了後、小胡子さんと高円寺のイタリアンへ。
「ソウルに刻まれた日本」(鄭雲鉉著 武井一訳 桐書房 平成十一年刊)
「台湾少年工と第二の故郷」(野口毅 展転社 平成十一年刊)
「植民地朝鮮の研究」(杉本幹夫 展転社 平成十四年刊)
「日本から観た朝鮮の歴史」(熊谷正秀 展転社 平成十六年刊)
「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植 未来社 昭和四十年刊)
「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」(坪井幸生 草思社 平成十六年刊)
「生活者の日本統治時代」(呉善花 三交社 平成十二年刊)
「歴史を偽造する韓国」(中川八洋 徳間書店 平成十四年刊)
平成21年3月21日土曜日晴れ ○
古本屋で購入した「石原都知事『三国人』発言の何が問題なのか」(内海愛子、高橋哲哉、徐京植編 影書房 二〇〇〇年刊)を読む。
内海愛子、高橋哲哉、徐京植の三氏編となっている時点で、香ばしさ満点。
その中に鵜飼哲氏(一橋大学教員)の文章が掲載されています。
以下引用
今回の石原発言で、私は、「自衛隊」という呼称が、「自警団」とほぼ同義であることに気がついた。「自衛隊」とは国営「自警団」なのだ。だから、わたしたちは、「自衛隊」の国軍化に反対するだけの護憲運動に満足してはならない。 今回の石原発言に含まれている思想と対決するには、「自衛隊=自警団」の<自>とはいったい何のことなのかを実践的に問う必要がある。 この国ではこれまでまれだった<沖縄戦など、けっして皆無ではない>が、世界の近代史は「自」国の軍隊による民衆虐殺を頻繁に目撃してきた。「騒擾」鎮圧の名目で自衛隊が出動するという、あってはならない事態が将来起きてしまったとき、私たちは、決然として、銃口を向けられた外国人の前に立たなくてはならない。私たちは、そのときはじめて、「自」国の治安部隊に対峙する民衆という・・・・あえて言おう・・・・栄光の歴史に連なることになるのだ。
外国人を「自」宅にかくまい、必要とあれば外国人と「自」衛隊との間に割って入り、外国人のかわりに我が身を危険にさらすこと。
私たちが「国民」であることをやめ「市民」になり始めるのは、おそらく、その時である。
引用終わり
「石原都知事『三国人』発言の何が問題なのか」P七十六~七十七
しかし、醜い文章です。暴徒鎮圧もしてはならない。暴徒を匿おうと言っているのです。鵜飼氏は関東大震災の時にあったという「理由なき」朝鮮人虐殺を頭においているのかも知れませんが、どのような国でも治安のために暴徒を鎮圧するのは当たり前のことです。
鵜飼氏の心の祖国でも同じでしょう。
関東大震災においては、地震発生後すぐに一部朝鮮人が暴徒化し、下記のような記事が出ました。
<主義者と鮮人一味 上水道に毒を撒布 警戒の軍隊発見して発砲
囚人三百名脱獄し、 鮮人と共に大暴状 混乱の横濱山下町付近に於いて 強姦略奪殺人をなす 静岡聯隊出動す 横濱刑務所の囚人三百名は脱獄し不逞鮮人とともに大集団となつて山下町付近に強姦、略奪、殺人を擅にしあらうる暴虐を遑しふして居る之れがため静岡歩兵三十四聯隊は出動した。>
下越新報 大正十二年九月三日 附録
<不逞鮮人各地に放火 石油缶や爆弾を携へて>
小樽新聞号外 大正十二年九月三日
<朝鮮人の暴徒が起って横濱、神奈川を経て八王子に向って盛んに火を放ってるのを見た。>
大阪朝日新聞 大正十二年九月三日号外
<不逞鮮人益々擴大 王子横濱方面に於いて軍隊と衝突
不逞鮮人及び主義者の一派は其の後猖獗を極め、三日午前十一時三百余名手に手に爆弾を携え之を投じ或は放火し近衛師団の三個中隊と王子付近に衝突乱闘の結果三十余名捕らはる。尚○日午前四時四百名の○鮮人爆弾を持ちて横濱方面より襲来 討伐の一個中隊は少数の為に全滅の恐れあり、3聯隊の二個中隊急遽自動車に分譲して應援に向ふ 尚越後高田十三師團にも出動命令下り直に東京に急派>
荘内新報 大正十二年九月三日号外第十八報
<不遜鮮人一千名と横濱で戦闘開始 歩兵一個小隊全滅か 更に麻生聯隊から 一個中隊を派遣 鮮人の陰謀 震害に乗じて放火 東京に三千名蠢く 逮捕は頗る困難
発電所を襲ふ鮮人団 朝鮮人二千人 戸塚、大船、藤沢、○○、○○、○○の発電所を襲ひ>
新愛知 大正十二年九月四日号外
<屋根から屋根へ 鮮人が放火して廻る 婦人凌辱 略奪>
新愛知 大正十二年九月四日号外
<唯氷峠の上から列車爆破を企つ 松井田驛で逮捕された不遜鮮人の自白 爆弾を所持せる鮮人七八名が七時十三分松井田驛に下車せるを警戒中の巡査に逮捕され目下厳重取り調べ中であるが彼等と行動を共にする二三ものが爆弾を携帯して唯氷峠より同山麓を通過の列車を目掛けて>
<鮮人 浦和高崎に放火 高崎にて十余名捕らはる>
名古屋新聞 大正十二年九月四日号外第二
<鮮人一部の暴挙は既に完全に取締を遂行した
警視庁の急告通達(三日付け)>
大阪毎日新聞 大正十二年九月四日号外第二
<政府の震災対策 政府は今回のさあ意外対策を講ずるため毎日午前九時および午後四時の二回閣議を開き善後策を討議決定することなつたが四日の閣議で決定した事項の主なるもの左の如し
一、千葉県習志野、下志澤の兵廠内へ負傷者約一万五千人を収容すること
略)
一、鮮人は警察力を以て一まとめとなし保護すること。
略)
一、宮内省の木材を一般的材料として建築に使用すること。>
大阪毎日新聞 大正十二年九月五日号外第二
<閣議決定の善後策 鮮人一萬五千名は習志野兵廠に之を収容し百名に付き一名づつの警察官を附して護衛すること。>
東京朝日新聞 大正十二年九月六日特報第三
つまり、大正十二年九月一日午前十一時五十八分ごろに発生した関東大震災時において、
一部朝鮮人が社会主義者といっしょになり、暴徒化して放火、略奪、強姦などを繰り返したことは事実であり、
それに対して当時の我が国政府が迅速な軍隊の即時派遣による鎮圧したことは事実である。そして我が国は平穏を取り戻したことも事実である。その地震発生より三日目には一般の朝鮮人の保護を閣議決定し、即座に保護したことも事実である。
そして、帝国海軍軍艦による食糧輸送が行われ、マニラ駐泊中のアジア米国艦隊が命令により、救援のために横濱へ回航という記事が掲載されています。(下越新報十二年九月三日付け)
阪神淡路大震災に対する、時の政府であった村山富市、土井たか子、河野洋平らの対応と比べてもらいたい。
どちらがまともな政府であるか。
まあ、国民が苦しんでも平気でイタリアンピザの店を作る「偉大なる」首領様の国もありますけど。
この鵜飼哲氏などは、災害のおりには暴徒化した一部外国人と一緒に暴れ回るつもりなのであろうか。
普通の日本人では到底考えつかないことです。
まあ、この本に書いている人たちは普通の日本人じゃあないから仕方ないですかね。
普通の朝鮮人じゃない人も・・・・・・
スポーツセンターに行く。 今日は時間がなかったので、上半身のみ。
予想通り、ヒマ。
横浜からお客様来店。Oさん二名様で来店。