モンテンルパに祈る
モンテンルパに祈る
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成18年2月12日日曜日晴れ ○
今日は、飯を食いに出かけた以外はどこにも行かずに部屋にいた。
図書刊行会が「戦争と平和」としてシリーズで出している内の「戦犯叢書」全七巻のうち古本市にて新刊のままの本として六冊を入手できたことを以前に日記に書きましたが、今日は、それをず~と読んでいました。これらは戦後、戦犯として、あるいは着の身着のまま外地より引き上げた方たちが書き残したものを昭和二〇年代から三〇年代にかけていろいろな出版社より発刊された貴重な記録が年月とともに埋もれて、忘れ去られるのを残念に思った図書刊行会の佐藤今朝夫氏が昭和五七年に再刊されたものです。
「モンテンルパに祈る」加賀尾秀忍著 図書刊行会五七年刊 初刊は昭和二八年 富士書苑刊行)
著者の加賀尾秀忍師は高野山僧侶で、連合軍最高司令官命により昭和二四年一〇月三〇日に日本を出て、教誨師としてフィリピン モンテンルパにあるニュー・ビリビット刑務所に六ヶ月間という派遣期間を過ぎても心臓病の持病に苦しみながらも現地にとどまり、同じ収容所内に寝起きし、囚人の残飯を食べながら、死刑囚の処刑に立ち会い、戦犯者の減刑、祖国への移管にと献身的に尽くされました。結局、戦犯とされた方々が全員の帰国がかなった昭和二八年七月一五日まで現地に留まられた「モンテルンパの聖者」といわれている方です。(写真はキリノ大統領に減刑と釈放を嘆願する加賀尾師。「モンテルンパの夜はふけて」のオルゴールを贈呈。大統領はそのメロディに感銘したと伝えられる)
師も書いておられるが、中村ケースとされた十三名、三原ケースとされた一名の計一四名もの日本人が昭和二六年一月十九日に処刑される場面はたまりません。
三原ケース
三原菊市陸軍軍曹の場合は北部ルソンのカガヤン州バイバヨク橋梁の守備兵時代に住民を虐殺したという罪状であった。制空権もない大東亜戦争末期に橋梁を守るために攻めてくるフィリピンゲリラと必死に戦闘の結果として殺したとしてもそれがゲリラと良民と区別等つくわけもなく、また、だれが殺したかなども判るはずが無い。
中村ケース
これらの十三名の方々は二五〇〇名あまりの戦犯とされた中より、セブ島の北端にあるメデリンという小島で起こったという事件で、残虐行為があったとされていますが、問題はこの事件がおこったかどうかではなく、証人となったたった一人のフィリピン女性の指差しだけで曵き出された人たちです。収容所にいた日本人に対して、その女性はあれもいた、これもいたと片っ端から指差して歩いたそうです。その結果、戦犯とされてしまったという酷いケースです。よって、事件のあったセブ島にはいなかった人や、死刑執行のその日の死刑囚の手続きの書類に記されていた所属が間違えていたなどというデタラメも通った復讐裁判です。十三名のうち少なくとも六名はミンダナオ島、パナイ島にいたり、セブ島にいても別の部隊にいてその事件とは無関係だったわけです。
下記の皆様はそんな経過で処刑されてしまった方々です。(写真はその処刑台)
三原菊市
陸軍軍曹 香川県木田郡 四六歳
中村秀一
陸軍大尉 山口県吉敷郡 五一歳
伊東益夫
陸軍兵長 大分県大野郡 三四歳
小野安夫
陸軍伍長 小倉市 三五歳
金田貞雄
陸軍軍曹 大分県佐伯市 三三歳
上野勝四郎
陸軍曹長 長崎県北高来郡 三二歳
衛藤利武
陸軍曹長 大分県大分郡 三一歳
安部末雄
陸軍中尉 大分県速見郡 四十六歳
斉藤助
陸軍伍長 大分県国東郡 三十二歳
志賀富士男
陸軍兵長 大分県直入郡 三十五歳
関森儀道
陸軍憲兵曹長 長野県東筑摩郡 三十五歳
三木巌
陸軍獣医中尉 北海道雨竜郡 三十五歳
鈴木光忠
海軍主計大尉 栃木県那須郡 三十五歳
陣内起也
陸軍少尉 長崎市 三十五歳
(掲載写真は「東京裁判」新人物往来社 二〇〇三年刊より)