朝鮮人と護国の英雄 特別攻撃隊(特攻隊)
朝鮮人と護国の英雄 特別攻撃隊(特攻隊)
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
朝鮮人と特攻
平成17年10月20日月木曜日 平成26年7月28日 平成26年11月7日一部追記訂正
特攻などという必死の攻撃方法が通常の状態ではあるはずもなく、したがって通常では訓練などもされるはずは無い作戦です。
特攻による急降下攻撃の場合、突撃開始から目標の艦艇まで約二キロ、時間にしてたった十秒あまりを加速度で浮揚しようとする愛機を押え、目を見開いて突進する気概のみがこの攻撃方法を成功させる唯一の条件でした。愛機が火を吹こうとも・・・・・
大東亜戦争において、当時は日本であった朝鮮、台湾などの多くの方が日本人として戦い、散華されました。
この方々は我々にとり間違い無く護国の英雄なのです。
その中には特別攻撃隊要員つまり特攻隊員として出撃、散華された方々もいらっしゃいます。
ただ、当時の祖国である我国のために戦われ、自らの貴い命を捧げられ散華された方の御家族は、お気のどくなことに、戦後、南北朝鮮にて冷たい目でみられています。十死零生という特攻という作戦についての是非はいろいろと問われてしかるべきものと思いますが、その時代に国を守るために(当然、その時代は朝鮮も日本でした)、愛する家族、恋人を守るために、敵の艦船、飛行機などに我が身を顧みる事なく戦うという崇高な行為は、一般人をも巻き込み犠牲とする無差別テロ等と違い、民族、国境を超えて感銘を与えるものです。
この方がたは日本の英雄であるとともに、朝鮮民族の偉大な英雄です。
現在、残念ながら、詳しい事が不明の方も多いです。
現在、判明している方々とエピソードです。
崔貞根中尉(日本名 高山昇)についての追記
平成26年10月13日月曜日夕方より雨
崔貞根中尉(日本名 高山昇)についての追記です。
崔貞根(日本名 高山昇)少佐
三十二歳(特攻に散った朝鮮人より)
二十四歳(朝鮮人特攻隊より)
陸士五十六期ということから二十四歳と思われる。
昭和十四年十二月一日に日本陸軍士官学校(五十六期)入学
六つある中隊のうち第二中隊として学ぶ。陸軍士官学校予科から航空士官学校本科と進み、卒業後、陸軍第六航空軍・飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属。
フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華。
二階級特進にて少佐
。
高山中尉は支那、ソ連と国境が交わる豆満江の河口近くにある朝鮮半島北端の感鏡北道慶興郡にて生まれた。
父親は、満州から沿海州のウラジオストックに移り住み、物々交換で財を成した後、ソ連や満州国との三角貿易がしやすい慶興郡に移り住んだという。百戸足らずの小さな村の地主だった。地元では親日的な人物として知られ、高山中尉の兄も清津市で日本の警察官だった。
京城帝国大学に合格していた秀才の高山中尉が、法曹の夢を断念して陸軍士官学校に進んだのは、父親の命令に従ったためだという。「父親が兄を殺したようなものだ」と、ぺヨンホン氏に崔昌根士語ったそうである。
卒業間際、同期生である岡林竜之氏を消灯後呼び出し
た時のことを、岡林氏は陸士五十六期生の戦没者を収録した追悼録「礎」に記している。
<高山兄から、相談を受けたのは、航空卒業も目前に迫ったころであった。消灯後、みな寝静まってから、ひそかに寝室を抜け出した私は、航空神社の境内で、高山兄と話し合ったのである。
「俺は天皇陛下のために死ぬというようなことはできぬ」
月明かりに浮かび上がっている、高山兄の苦渋に満ちた顔を疑視しながら、愕然とした私は、言葉を尽くして説得に努めた。
しかし、朝鮮民族の血と歴史を踏まえた高山兄の苦悩に対して、私の言葉は、空しく空転するばかり、とうとう、高山兄を納得させることはできず、疑然として悩み抜く、真乎の人間を前にして私は、私自身の無力さを嘆じたものであった。
いやむしろ、無理矢理に自らを納得させ、それで死ねるつもりでいた私自身の信念を護るのに精一杯であったのである。とてもとても、朝鮮民族の立場に立って、高山兄と、ともに悩み、ともに道を見いだそうとする余裕は、恥ずかしながら、私にはなかった。
戦後、その高山兄が、米機に体当たり戦死、二階級特進と伝え聞いたときに、私は鉄槌のような衝撃を受けた。
「天皇陛下の御為に」米機に体当たりしたのではない。それは、私には判っていた。それでは、なんのために、あたら、かけがえのない生命を、米機とひきかえに燃焼させたのであろうか。>
(五十六期生追悼録「礎」より 私は「朝鮮人特攻隊」p百十三~百十四)
続いてぺヨンホン氏は著書で下記のように書いています。
<この時まだ、特攻隊は立案されていなかったが、悪化する一途の戦況を前に、陸士を卒業すれば誰もが死を覚悟していた。死ぬことに疑問を持ち始めたら、帝国陸軍の要となるべき航空士官など勤まらない。岡林氏は同期生の高山を説得するより、自分の死を受け入れるのに精一杯だったようだ。だからこそ、高山中尉が特攻で戦死したことに、衝撃を隠せなかったようだ。>
p百十六
同期生(「朝鮮人特攻隊」では岡林氏、「日韓共鳴二千年史」では齋藤五郎氏となっています)が陸士の同期会の懇親会にて、李亨根氏(陸士五十六期地上兵科、戦後韓国陸軍大将 英国大使など歴任)にただしたところ、
「その気持ちは貴様らには判らんだろうなあ。それが判るとき、両国の本当の友好が生まれるだろう」(「朝鮮人特攻隊」)
「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」(
「日韓共鳴二千年史」)
と答えたそうです。
岡林氏が「礎」に米軍機に特攻と書いた高山中尉の最後について、ぺヨンホン氏は
<高山中尉四十五年四月二日に、沖縄の南方方面で戦死した。戦闘機乗りとして名を馳せた岡林氏は、自らの戦闘経験から、高山中尉が交戦中に「米機」に体当たりしたと考えたようだが、彼が体当たりしたのは米機ではないかった。
高山中尉の戦死にいたる情況は、所属していた陸軍第六航空軍・飛行第六十六戦隊の「生死不明者死亡認定ニ関スル報告」に詳しく説明されている。
高山中尉は三機編隊の小隊長として、一九四五(昭和二十)年四月二日午前六時前、沖縄北方の徳之島から出撃した。沖縄本島に上陸を開始したばかりの米艦艇に対する哨戒が任務だった。高山小隊は、沖縄を目指して北上中の敵艦船群を発見し、即座に攻撃態勢に入る。そして、爆撃を終えて急いで戦域から離脱しようとした部下機が、小隊長の高山機が敵艦船めがけて突っ込んでいくのを目撃した。それは特攻以外のなにものでもなかった。
この犠牲心に満ちた行動が評価され、陸軍第六空軍から『感状』が出された。その証明書では「身ハ半島ニ生ルルモ 至誠忠常ニ国ヲ憂ヘ 率先陣頭ニ立チ 部下ノ信望殊ニ厚シ」と讃えられた。>
p百四十一~百四十二
引用頁に関しては「朝鮮人特攻隊」※淵弘(ぺ ヨンホン)著 新潮社 平成十九年刊より
崔貞根中尉(日本名 高山昇)についての追記2
10月29日水曜日晴れ△
崔貞根中尉(日本名 高山昇)についての追記第二弾です。
日本帝国陸軍軍人高山昇中尉の婚約者について書かれた文を私が最初に見たのは※淵弘(ぺ ヨンホン)氏の著書「朝鮮人特攻隊」(新潮社 平成十九年刊)が初めてでした。(※=私のパソコンでは表示できず。)
以下引用
<高山中尉の婚約者
航空士官の卒業生は、各地にある飛行学校で実用機の操縦訓練を受けた後に、実戦部隊に配属される。戦闘機は明野、軽爆撃機は鉾田、重爆撃機は浜松、通信は水戸の飛行学校に分かれる。高山中尉は鉾田飛行学校付属の福島県原町飛行場で、固定脚と複座席が特徴の軽爆撃機、九九襲撃機の操縦を習った。
原町飛行場で訓練を受けた航空士官の戦没者を追悼する「原町戦没 航空兵の記録」という追悼録を、上野氏が所蔵していた。高山中尉の記事をめくると、思いがけない文章が飛び込んで来た。
(木下注 上野氏=上野辰熊氏 支那において小片飛行兵学校第十五期に志願。卒業後は飛行第六十六戦隊にパイロットとして配属。)
私の生涯忘れることのできないお方その方は崔 貞根(高山昇中尉 戦死されて少佐)
私が十八歳になったら結婚しようと約束された人でした。
昭和二十年四月二日、沖縄の空に二十四歳の若い命を散らされてしまいました。
文章を書いた梅沢 ひでという女性は女子挺身隊員として勤務していたときに高山中尉と知り合い、慌しく婚約した。二人の付き合いは四ヶ月足らずしかなかったが、彼女は〇五年に天寿を全うするまで、生涯にわたり高山中尉を慕い続けたという。
上野氏の証言通り、六十六戦隊はフィリピンのレイテ島で壊滅的な打撃を受けた後、千葉県の下志津で、沖縄戦に向けて部隊再編の準備をしていた。二人はそのとき出会い、叶う事のない結婚の約束をした事になる。
梅沢ひでさんの妹で、千葉市に住む高橋せつ子さんに連絡がとれ、二人の婚約に至る経過を尋ねる事が出来た。
「背が高くて男らしく、とても明るい方で、父と愉快にお酒を酌み交わしていたのを今でもはっきり覚えています。朝鮮出身の軍人さんであることは家族も知っていましたが、父はそんなことを気にもとめず母も御馳走を用意して大事にもてなしていました。だから高山さんも心を開いて私たち家族とお付き合いしてくれたのだと思います。
六月一日になって、同じ部隊の田辺中尉という方から、戦死を知らせる手紙を頂いたのです。もしもの事があれば、姉の家族に知らせるように頼まれていたとのことでした。戦死の情況は軍の秘密でしたから、どこでどうやって亡くなったのかは分りませんでしたが、姉はその場で泣き崩れてしまい、本当に可哀想でした。父は戦死した高山さんのことを話すときは、必ず高山中尉殿と呼ぶようにと私たち姉妹に言い聞かせたものです」
梅沢ひでさんは、高山中尉が教官となって部下の訓練をしていた、銚子の飛行場を訪ねたこともあった。そこで艦船めがけて急降下の訓練をしていたので、戦死の通知を受けた家族は、高山中尉が特攻で死んだのではないかと思うようになった。戦後になり、高橋せつ子さんは鹿児島県の知覧にある特攻平和会館を訪ねた。そこで目にしたのは高山昇中尉の名前だった。
〇五年夏に末期癌で入院した梅沢ひでさんは、病室で目が覚めると高山中尉の話をしていたという。医師に「もうすぐですよ」と告げられた高山せつ子さんは、姉の顔を撫でながら、「もういいから高山中尉殿の所に行きなさい」と言ってあげた。梅沢ひでさんは同年十二月に息をひきとり、遺骨は彼女の遺言通り、高山中尉が戦死した四月に、沖縄の海に散骨された。戦争で引き離された二人の絆が、六十年の歳月を経てようやく結ばれた。
フィリピンで五人、沖縄で十二人、B二九に突っ込んだ河田少尉を含めれば、十八人いた朝鮮出身の特攻隊員たち。彼らをめぐる話を取材して聞いたなかで、高山中尉と梅沢ひでさんの婚約ほど悲しい逸話はない。>
「朝鮮人特攻隊」 ※淵弘(ぺ ヨンホン)新潮社 平成十九年刊
p一四六~一五一
(※=私のパソコンでは表示できず。)
朝鮮人特攻隊 金尚弼(結城尚弼)少尉
平成26年11月6日木曜日晴れ△
金尚弼(結城尚弼)少尉 大尉
大正九年平安南道鎮南浦市生まれ(現在は北朝鮮)
昭和十八年七月私立延禧専門学校卒業(京城)
九月大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校 特別操縦見習士官一期生として私立延禧専門学校初の合格者となる。
特別操縦見習士官一期生には十人近くの朝鮮人がいたが、そのうち四名が特攻にて散華。
二期生は朝鮮人がゼロ。
三期生はぺヨンホン氏がインタビューした朴柄植氏を含め七名。
名門私立延禧専門学校は現在の延世大学校であり、朝鮮人学生だけが通う民族系エリート校であった。
操縦は同期でトップ、柔道三段、剣道は突きが得意
のちに満州・綏中第二十三教育飛行隊配属
昭和二十年一月二十九日、陸軍中央部は「と」号部隊仮編制要領(陸亜密八一九)を発令したが、満州の第二航空軍では次の四隊が編成された。
いずれも独立第百一教育飛行団隷下であった。
誠四号第三一飛行隊「武揚隊」(ぶようたい)十五名[ 隊長 山本 薫中尉 五六期]九九式襲撃機
誠四号第三二飛行隊「武剋隊」(ぶこくたい)十五名[ 隊長 広森達郎中尉五六期 ]九九式襲撃機
誠四号第三九飛行隊「蒼龍隊」(そうりゅうたい)十五名[ 隊長 笹川勉大尉五五期 ]九九式襲撃機
誠四号第四一飛行隊「扶揺隊」(ふようたい)十五名[ 隊長 寺山欽造大尉 五五期]九七式戦闘機
金尚弼(結城尚弼)少尉は特攻隊陸軍誠第三二飛行隊「武剋隊」。
昭和二十年四月三日 宮崎県新田原基地より誠第三十二飛行隊「武剋隊」第五編隊長として沖縄西方洋上に出撃 戦死 二十四歳 二階級特進で大尉
エピソード
休暇で朝鮮に帰った折、母校の私立延禧専門学校を訪問。その時の校長であった辛島驍氏の勧めで学生の前に立った金について、辛島氏の手記より。
<私は学生をグランドに整列させて、彼に言った。
「何でも言いたい事を言いたまえ」
だが彼は学生の前に立つと多くを語らず、
「俺についてこい」
と言うなり、上衣を脱いで走り出した。校庭は二十万坪の広さである。坂をのぼり、林を抜けて走り続けた。彼は黙々と、だが、在学生に何事かを訴えるかのように走り続けた。在校生ばかりでなく教職員も、彼の後に続いて走った。約一時間 落伍者はなかった。これが契機となって、校内にはやればできるのだという気概がみなぎり、志気は大いに上がった。
学生達は、その夜のうちに配属将校を通じて、日本刀を一振り買い求めてきた。翌朝、学生達の発意によって、贈答式が行われた。結城君はこの日本刀をしっかりと握って、沖縄の空に散ったのである。>
この母校での挨拶のあった日は、結城少尉は辛島氏の自宅に泊まった。
その縁で、まだ小学生であった辛島氏の子息と文通を交わす仲となる。
辛島氏の子息に来た結城少尉の葉書。
<御父様ノ御恩ハ忘ラレマセン、何ト御礼ヲ申シ上ゲテヨイヤラ。兄サン益々(家ノ事ハ安心シテ)北ノ空ヲ守ロウト張切ッテイマス、新聞ヲ見テアンマリノ有難サニ兄サン思ワズ涙ヲ落シマシタヨ。
中略
共ニ勝ツ為メニシッカリト毎日戦ツテ行キマセウネ。「ドンナ事ガアツテモ勝タナケレバナラナイカラ。」トイフ事今一度共ニヨーク考ヘマセウネ。>
満州綏中第二十三教育飛行隊配属に配属されている時の事です。
隊内の演芸会で「私は朝鮮出身です。少しアクセントが違いますが、日本の歌を歌います」と言うと、隊員から「アリランを歌え」「そうだ、そうだ、アリランを聞かせてくれ」との声があがりました。金が「では母国の朝鮮語で歌います」と言って歌い、歌い終わると、拍手喝采の嵐が起こったといいます。
その後、満州の敦化の飛行隊に移り、昭和二十年二月十一日、満州・新京の第二飛行軍で二つの飛行隊が編成された時特攻隊に志願し、誠第三二飛行隊に配属されました。恐らく家族とはこれが最後の別れになると思った金は、二月二十五日、平壌の三根旅館で日本軍将校になることを反対していた兄・金尚烈と会いました。
兄から逃亡するよう懸命な説得を受けましたが、
「自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が笑われる。多くの同胞が、一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁に我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです。日本が強くなればなるほど、地下の独立運動は無力となりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る、その方が確かだと思うのです。
日本人が憎くない、というとそれは嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れてゆきますし、今日一緒に来てもらった佐藤曹長からは、親身の整備をしてもらいました。戦友や部下たちとは、一心同体であり、民族のしこりや壁はありません。・・・・・・
民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許して下さると思うのです」。
五個編隊十五機で平壌→大刀洗飛行場→宇佐飛行場→各務原飛行場と移動し、二月二十日に長野県松本へ移動陸軍松本飛行場で特攻機用の改修が行なわれた。「武剋隊」隊員の内六人は浅間温泉に滞在したとある記述もあるので、結城少尉が兄上と平壌でお会いになったのは二月二十五日ではない可能性があります。
結城少尉の武剋隊六機の先発隊が松本を出発したのは三月十八日各務原飛行場(岐阜県)経由で新田原飛行場(宮崎県)へ向かい、四月三日、結城少尉は第五編隊長として小林勇第二編隊長と共に宮崎県の新田原基地より第五編隊長として沖縄西方洋上に出撃。圧倒的な数の米軍戦闘機と、艦隊からの対空砲火網の中沖縄西方洋上の艦船軍に突入。
誠四号第三二飛行隊「武剋隊」
九九式襲撃機
日時昭和二十年三月二十七日出撃 慶良間北東 九名
広森達郎中尉(陸士五十六期)
清宗孝己少尉(特別操縦見習士官一期)
小林一満少尉(陸軍特別幹部候補生)
今西修 軍曹(陸軍予下士官学校)
今野勝郎軍曹(陸軍予下士官学校)
島田貫三軍曹(陸軍予下士官学校)
出戸栄吉軍曹(陸軍予下士官学校)
伊福孝 軍曹(陸軍少年飛行兵十五期)
大平定雄伍長(陸軍予下士官学校)
四月三日出撃 沖縄西方洋上 六名
小林勇少尉(陸軍特別幹部候補生)
結城尚弼(金尚弼)少尉(特別操縦見習士官一期)
時枝宏軍曹(陸軍予下士官学校)
古屋五朗伍長(陸軍少年飛行兵十四期)
佐藤正伍長 (陸軍少年飛行兵十五期)
佐藤英実伍長(陸軍少年飛行兵十五期)
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朝鮮人特攻隊 林長守伍長
平成26年11月5日水曜日晴れ
林長守伍長
少年航空兵出身
昭和十九年十二月七日
勤皇隊 二式双襲(屠龍)にてフィリピン オルモック湾(レイテ島東海岸)出撃
父親が平安北道龍川郡南市の市議長であった。
高校を卒業すると少年飛行兵を志願し、水戸陸軍通信学校を経て、特攻隊に編入された。朝鮮の日本語紙「京城日報」は昭和十九年十二月十二日付けで林伍長を「第二の神鷲」と紹介し、ハングル紙の「毎日新報」も、親日派文豪の香山光郎が寄せた林伍長の追悼詩を掲載している。
父親に宛てた手紙の内容には、「特別攻撃隊に入隊。南十字星を仰ぎ見ましたから安心してください。しっかりやります」と書かれてあった。かれの航空学校時代の日記に、「操縦は腕ではない。精神である。全く心気明瞭で落ち着いてやれば、高度計も速度計も我が心を反射してくれるだろう」と期されてあったことから、これぞ神鷲魂ともてはやされた。
しかし、林伍長は操縦士でなく通信士であった。特攻機に同乗する任務もなかったのだ。
(木下注 陸軍は複座であっても海軍と違い操縦士のみで出撃)
彼が所属していた「勤皇隊」の隊長は陸士五十六期の山本卓美中尉で、参謀長に片道のガソリンだけを入れるように願い出るなど、死を願みない青年将校として強い印象を残している。
山本中尉は通信員を内地に帰らせるつもりだったが、林伍長は自分から進んで山本隊長機に同乗を申し出たという。
山本中尉の人柄に惹かれて、彼は隊長機の複座の戦闘機に乗り込んだ。
勤皇隊が出撃して数時間後、山本隊長機から師団の無線室に、敵艦への突入を知らせる「ピーッ」という信号が入った。林伍長が発信した電波だった。
「大東亜戦史・フィリピン篇」(富士書苑刊)によると
<そういう未熟な人の多い中では、勤王隊の林長守軍曹は抜群の操縦技術を持っていた。少年飛行兵出身として最初の特攻隊員でもあった。
人柄もよく、隊長の山本卓美中尉は彼を日本に帰して少年飛行兵の育成にあたらせようと、何度彼に説いても、彼は頑として聞かなかった。山本隊長の「これは命令だ」といっても、彼は「私のたった一度の反抗です。そういう命令はきくことができません」と承知しなかった。眼のくりくりしたいい青年だった>
となっているが水戸陸軍通信学校を卒業しているのであるから通信士だったのであろう。
その時の戦果は、駆逐艦マハン(一六三〇トン)輸送駆逐艦ワード(一六〇〇トン)の二隻を大破。両艦は使い物にならなくなり、最後は米軍によって沈められました。(米軍資料より)
<勤皇隊は鉾田教導飛行師団で編成完結された。
鉾田における二式複戦「屠龍」は、襲撃機に改修され二式双襲といった。複座戦闘機のもつ優速と運動性能は、襲撃機として十分な戦績を収めうるものと期待された。同時に編成された皇魂隊も同機を装備していた。体当たりに同乗者は不要ということで、操縦者単独で特攻に出撃して行ったのである。>
十二機、十三名出撃し、下記のように散華されたのは十名となっています。
残念ながら、林長守伍長と特定できる写真は見つける事が出来ませんでした。
八紘第八隊(勤皇隊) 二式双襲(屠龍)
昭和十九年十二月七日(写真集 特別攻撃隊より)
山本卓美中尉 陸軍士官学校第五十六期
二瓶秀典少尉 陸軍士官学校第五十七期
東直次郎少尉 陸軍士官学校第五十七期
林長守 伍長 陸軍少年飛行兵第十二期
入江真澄伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
大村秀一伍長 陸軍少年飛行兵第十三期(勤皇隊最年少十九歳)
片野茂 伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
白石二郎伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
増田良次伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
勝又満 伍長 陸軍予下士官学校第七期
鉾田飛行場で菊花の下、別れの杯を交わす勤皇隊隊員
地元女子学生の見送り内、鉾田飛行場を出発する勤皇隊
フィリピンでの勤皇隊員
大村秀一伍長 陸軍少年飛行兵第十三期(勤皇隊最年少十九歳)
自ら考案したマーク入り尾翼の前に立つ山本卓美中尉
山本卓美中尉(二階級特進後少佐)遺書
父上様
母上様
卓美ハオ先ニ失礼致シマス。
二十有余年ノ間、此ノ上ナク可愛ガッテ頂キマシタ。
山ヨリモ高ク、海ヨリモ深キ養育ノ御恩ニ何等報ユル所ナク、御心配ヲカケ通シテ参リマシタガ、今ヤ御恩ノ万一ニ報ユル時ガ参リマシタ。
光栄アル八紘隊長ニ選バレ、南海ニ水漬ク屍トナルハ男子ノ本懐、只々感謝感激ノ外アリマセン。
信ズルハ 皇国ノ必勝
祈ルハ 皇運ノ無窮
靖國神社神社デ、オ待チ致シテ居リマス。
御両親様、幸福ニ御暮シ下サイマス様、心ヨリ祈リ上ゲマス。
昭和十九年十一月三十日
山本卓美
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特攻隊における朝鮮人 印在雄(松井秀雄)伍長
平成26年11月3日月曜日晴れ○
自分なりに大東亜戦争における特攻隊と朝鮮人について、手元にある書籍より現在わかっているだけの事をまとめていくことにします。
印在雄(松井秀雄)伍長
本籍 朝鮮京畿道開城府黄金町一〇二一番地
陸軍少年飛行兵第十三期
八紘第三隊(靖国隊) 一式戦「隼」 昭和十九年十一月二十九日(「朝鮮人特攻隊」)
十二月五日(「写真集 特別攻撃隊」)
松井伍長の属した靖国隊は、第五十一教育飛行師団で編成された。内地から進出した特攻隊が、各教導飛行師団という将校の教育・研究機関であったのに比し、この部隊は内地・朝鮮にまたがって展開し、主に下士官の操縦訓練に任じていた。 その隊員は幹部候補生出身の少尉と、少年飛行第十三期生をもって構成されていた。
この少年飛行兵達の年齢はまだ二十歳にも達していないが、敵撃滅の意気に燃えていた。
このような関係で、編成完結は他隊に遅れたが、その後の行動は迅速であった。
靖国隊はネグロス島北方のシライ飛行場を根拠地としてレイテ湾に対する特攻を諸隊に先駆けて敢行している。
朝鮮人で最初に「散華」したとされた特攻隊員の松井秀雄伍長は、「半島の神鷲」として大々的に報じられていた。果樹園を営む松井家には、阿部信行総督はじめ朝鮮総督府幹部が続々と弔問に訪れ、新聞には家族写真まで掲載されていた。…熊谷陸軍飛行学校を卒業後に特別攻撃隊の「靖国隊」に参加した。少年飛行兵の第十三期卒業生だった。松井伍長を称賛する記事は連日のように続き、十二月九日付の『毎日新報』には、後に韓国文学界を代表する詩人となる除廷柱の追悼詩まで掲載された。
朝鮮総督府の朝鮮語機関紙『毎日新報』の四四年十二月二日付の記事、「松井伍長に続け」と題した一面の社説には、こう書かれてあった。
< 必死必中の特別攻撃を敢行して、レイテ湾内の敵艦隊を撃沈炎上させた我らの特別攻撃隊に、半島出身の荒鷲が参加していたことが明らかになった。彼こそ開城出身の松井秀雄伍長だ。(中略)松井伍長は実に半島二千六百万(註・当時の朝鮮半島の人口)肉弾総突撃の最先鋒になった。我々は襟を正し、頭を下げ、伍長の冥福を祈る。>
ところが、「半島の神鷲」と讃えられた松井伍長は、体当たり攻撃に失敗し海に墜落したところを米軍に救助され捕虜となってハワイにある海軍病院で治療を受けた後、終戦の翌年帰国を果たしているが、その後の消息はまったくつかめていない。
靖国隊の攻撃の様子を「朝鮮人特攻隊」 に※淵弘(ぺ ヨンホン)氏は「陸軍特別攻撃隊」(高木俊朗著)よりの引用として下記のように書いています。
<大坪明少尉が指揮する六機の靖国隊と、二機の援護機がレイテ湾で攻撃を始めたのは午後四時三十五分。最初の一機が戦艦メリーランドの煙突に突入して爆発。
その直後、米駆逐艦ソーフレイは、激戦の末爆撃機二機と戦闘機一機を撃墜して体当たり攻撃をかわした。撃墜された特攻機は、海面で爆発炎上して船の側面を焦がした。しかし、一時間後に戦闘機一機が右舷船首に激突。さらに午後六時五十分一機が船尾に爆弾二個を投下したが命中せず、海上の爆発で起きた大波によって左舷甲板にいた米兵数人が負傷した。この爆撃機は左舷五十メートルのところで撃墜された。
同じ午後六時五十分、米駆逐艦オーリックに突撃した二機の特攻機のうち一機が、レーダーの空中線を切って右舷艦首から二十メートルの海中(海面?)に激突。他の一機は、士官室の上の甲板で爆発して船の上部構造を大破し、米兵三十二人が戦死、六十四人が負傷した。壮絶極まりない特攻隊の攻撃である。
援護機も靖国隊と一緒に突撃を試みたようだが、この中で生存の確率が高いのは、駆逐艦オーリックへの体当たり攻撃が僅かに逸れ、海面に激突した機しかない。どうやらこの機に搭乗していたのが松井伍長だったようだ。しかも、百人近い死傷者を出したオーリックの水兵が、自分たちを攻撃した特攻隊員を救助した事になる。
高木俊朗の「陸軍特別攻撃隊」は、陸軍で最初に出撃した「万朶隊(萬朶隊)」の唯一の生存者、佐々木友次伍長の証言を元に書かれている。>
「朝鮮人特攻隊」p九十四~九十五
印在雄(松井秀雄)伍長はこのように勇敢に戦われた結果、捕虜となられたのであるから、なんら恥じる事のない護国の英雄である。
命名式
朝鮮軍司令部首脳との別れの杯
比島シライ基地で、武運を祈る守り札を受ける
出丸一男中尉
松井伍長と一緒に出撃し散華された方々は「写真集 特別攻撃隊」の巻末にある戦没者名簿には下記のように記されています。
八紘第三隊(靖国隊) 一式戦「隼」
出丸一男中尉 陸軍士官学校五十六期
大坪明 少尉 陸軍特別幹部候補生七期
谷川昌弘少尉 陸軍特別幹部候補生八期
秦音次郎少尉 陸軍特別幹部候補生八期
岡村義人軍曹 少年飛行兵第十期
河島鉄蔵伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
寺島忠正伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
石井一十四伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
松井秀雄伍長 陸軍少年飛行兵第十三期(生還)
五十嵐四郎伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
特攻の母と光山大尉
11月2日水曜日はれ ×
先週号(平成17年11月3日号)の週刊新潮の「墓碑名」というコーナーで「特攻おばさんの次女 赤羽礼子が語り継いだもの」という題名で、特攻の母鳥浜トメさんの次女である赤羽礼子さんが、10月16日に75歳でお亡くなりになったという記事がありました。
特攻の母といわれた鳥浜トメさんにとって忘れられない多くの特攻隊員の中でも特に印象に残った一人として光山文博大尉こと卓庚鉉大尉がいらっしゃいます。
卓庚鉉たくこうげん(光山文博)
大正9年慶尚南道生まれ
立命館中学、京都薬学専門学校(現京都薬科大学)
大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧) 特別操縦見習士官一期生
昭和20年5月11日第51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に陸軍戦闘機 隼にて出撃 戦死 24歳 2階級特進 大尉
辞世 たらちねの母のみとぞ偲ばるる弥生の空の朝霞かな
京都薬学専門学校を卒業、陸軍航空隊を志願し、昭和18年10月に特別操縦見習士官一期生として難関を突破しみごと合格した光山文博は大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧)に配属となり、一年間の訓練のちに19年10月に少尉に任官す。その一カ月後の11月に軍人になることを反対した母を亡くしています。その母の死に目に駆け付けた光山少尉に対して、「ひと足遅かったなあ。お母さんは、随分待っていたのになあ・・・。お母さんなあ、お前の事を心配していたが、なくなる前には、もう諦めの心境なのか、『文博はもうお国に捧げた体だから、十分に御奉公するようにいって下さい』と言い残したんだよ」「じゃあ、お父さんも、僕が戦死しても嘆きませんね」「日本が勝か負けるか、大変な戦争だよ。お前も十分戦ってくれ」
光山少尉は基地に戻ってただちに特攻志願の願書を書いて、師団長に提出。三重県明野で編成された陸軍特別攻撃隊第51振武隊に所属。昭和二十年4月、知覧に進出。
知覧の特攻隊員の多くを見送った鳥浜トメさんの経営する富屋食堂に、出撃前夜最後の別れに一人で訪れてました。他の特攻隊員の歌声に耳を傾けていた卓に、トメさんが「今夜が最後だから光山さんも歌わんね」と勧めると、「そうだね、最後だからね。それでは僕の故郷の歌を歌うから、おかあさん聞いてね」とふだんは無口で恥ずかしがり屋だった光山は、被っていた戦闘帽を眼が隠れるぐらい目深に被って、あぐらをかき、柱にもたれかかってアリランを歌っています。
アリランを歌う光山は次第に涙でくしゃくしゃになって、二番は歌にならずに、いじらしく思ったとめさんは光山少尉の手を取り、トメさんの娘さん二人も手を取り合って泣いたそうです。
光山少尉こと卓庚鉉少尉はこの時トメさんに朝鮮の黄色い縞の布で作った財布を「お世話になりました。こんなもので恥ずかしいですが、受け取ってください」とお渡ししています。トメさんは「出撃記念 光山少尉」と書かれたこの形見となった財布を大切にしていて、それは今も残されています。(豊田穣著の「光山文博大尉の突入」にはこの財布には「贈 鳥山とめ殿 光山文博」と記されていたとなっているが、残されている遺品の財布の写真では「出撃記念 光山少尉」となっている。)
爆装隼にて昭和20年5月11日午前6時30分 第51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に出撃、散華されました。
「日本陸軍隼大尉」と墓碑名に刻まれた墓で故郷の慶州で御両親といっしょに眠っているそうです。
戦後、4、5人の在日朝鮮人学生が富屋旅館を訪ねてきたそうで、光山大尉の話しを聞いたその学生たちは、トメさんに「アリラン」を歌ったそうです。トメさんは光山大尉を思い出し涙ぐんだそうです。
戦争が終わって三カ月目の20年11月、知覧に残っていた特攻機を米軍が山積みにして焼いた。その最後の様子を見ていたトメさんは、焼跡に墓標を建て「これは特攻隊員のお墓だよ」といって毎日花を供え焼香するようになった。これが後に昭和30年に健立される特攻観音のはじまりであった。その特攻観音にトメさんは水桶を持って日参し、平成4年4月、90歳でお亡くなりになっています。
トメさんの御遺体を病院から自宅に移送する途中、最後のお参りにと特攻観音に車を廻した。観音様に頭をむけて棺を安置し、顔上の白布をとると、胸の上で組んだ両手と同じように正面を向いていたはずの顔が、まるで観音様を覗き見るように大きく右後ろを向いていたそうです。
このトメさんに当時国会議員だった石原信太郎現都知事は国民栄誉賞をぜひにと、当時の総理大臣だった宮沢氏に進言しましたが、赤い首相のひとりである宮喜一氏はそれを拒否したそうです。らしいといえばらしいでしょう。石原氏はそんな宮沢氏に対して「あんた、そのうち罰が当たって、のたれ死にするぞ」といったらしいですが、私もそう思います。きっとろくな死に方せんでしょう。
大河正明少尉
平成26年9月9日火曜日晴れ△
朴東薫 ぼくとうくん パク トンフン(大河正明) 伍長
二階級特進により少尉
大正十五年生まれ
十五歳で陸軍少年飛行兵第十五期生
昭和二十年三月二十九日 誠四十一・扶揺隊
知覧より九七式戦闘機にて沖縄方面出撃
十八歳
(十七歳ともあり)
遺書には「靖國に召されし身 如何にせん ただ君がため」とあったそうですが、同期の同胞「金山」伍長には「内鮮一体というけど、ウソだ。日本はウソつきだ。俺は、朝鮮人の肝っ玉を見せてやる」と言い残したという。
「The Geacs Project Vol.5」大館史編による)
録音版に残されていた大河少尉の遺言
<御民われ 生ける験あり 天地の
栄ゆる時に あらく思へば
ひとりこの静かにこの歌に包まれる時
何とも言えない気持ちで胸いっぱいであります
今ここに選ばれて、名誉ある特攻隊に召された時の気持ち
またこれが 何とも言えない気持ちであります
鬼畜米英の軍艦 あるいは B二九が
次々と見えてきて じっとしておれません
大きな戦果が新聞に載らずとも
一機一艦 憎き船にぶつけて粉々にしてみせます
歴史を守る同胞よ
ひとりひとりが特攻隊となって
この歴史を永遠に保ってくれ
それが若きものの進むべき路である事を思ってくれ
お父さん、お母さん
ぜひ来てください
いろいろとご心配をかけて誠にすみません
不幸者ですみません
正明にはこのことをお許しくださると思って
元気で行きます
弟よ 妹よ
兄が可愛がる事も また、兄として
何も出来なかった 許してくれ
強く 元気に
そして立派になってくれ
では最後に生まれて初めての句を心ばかりにつくってみました
かしてください
靖國に
召される身体
如何にせん
さようなら>
このようにNHKの制作した番組では、朴東薫(大河正明)少尉の御遺書とされた
< 靖國に
召されし身体
如何にせん
ただ君がため>
が、
<靖國に
召される身体
いかにせん>
となっていました。
俳句つうことなのでしょうか。
カットせずに正確に放送していたのでしょうか?
戦死した
朝鮮半島の御遺族は、戦後、ソ連軍による財産没収や朝鮮動乱、そして、親日派としての経歴より多くの辛酸をなめ、迫害されて精神に異常をきたし、悶死したといわれる御父上は生前、「日本という国は決して悪い国ではない。特攻で死んだ者の家庭に対して責任を持つ国だ」とおっしゃっていたそうです。
重いお言葉です。
ラジオが伝えた太平洋戦争 ⑥ 朝鮮人特攻隊員
https://www.youtube.com/watch?v=0tCD2h4PgNw
ラジオが伝えた太平洋戦争 ⑦ 朝鮮人特攻隊員2
https://www.youtube.com/watch?v=6KoK_PflfjM」
河田清治(盧龍愚)陸軍少尉
平成26年7月28日月曜日晴れ △
「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)を読む。
どういうわけか在日朝鮮人の恥である犯罪者の金嬉老と護国の英雄である大東亜戦争の元帝国陸軍軍人・河田清治陸軍少尉(二階級特進で大尉)を題材にしているこの河田浩という著者の考え方は本を読んですぐ理解出来ます。
ただ、著者の河田氏についてはあとで書くとして、とりあえず、この著書より護国の英雄である河田清治(盧龍愚)少尉について書きます。
以下 「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)より抜粋。
昭和二十年(一九四五年)五月二十九日、この日は朝八時から警戒警報が発令されていた。マリアナ基地を発進したB二十九は五一〇機。途中、硫黄島(いおうとう)から直援のP五一が一〇一機随伴していた。
昼近く(記録では十一時三十分)、北西方向から双発の二式複座戦闘機「屠龍」が現れ、ぐんぐん近づいてきて梯団の先頭機にまとわりつくように旋回し、機関砲を撃ち合ったが、そのB二十九はそのまま遠ざかってしまった。すると、友軍機は次の編隊の先頭機に浅く降下しながら近づいていく。屠龍の右エンジンから白い煙が出て、右翼が飛び散ったままB二十九に「体当たり」攻撃を敢行した。凄まじい閃光が走りB二十九は黒煙と火炎に包まれて空中分解した。その後に落下傘が三個空中に舞ったが友軍機搭乗員の落下傘は開ききらずに落下した。
翌日、東川根村坂京の杉林にその開ききれなかった落下傘がぶら下がっているのを子供が発見した。
遺体はそれほど損傷しておらず、担架で村の消防本部まで運んできた。胸ポケットに妹さんからの「頼まれていた衣類が出来たので近いうちに届ける」という葉書がはいっており、朝鮮京城出身の河田清治少尉であることがわかった。
河田少尉の搭乗機である屠龍の機体は一キロほど離れた中川根村本城山山頂近くの窪地で見つかり、その機内から放り出されたような形で同乗者である土山茂夫兵長の遺体も発見された。
二人の遺体は村長をはじめ大勢の村民が参加して通夜を営み、村営火葬場で荼毘に付した。
昭和二十年六月二日に二人の御遺体は午前九時四五分発の汽車で原隊に帰還していった。
陸軍はパイロットを空中勤務者、海軍では搭乗員と呼んだ。
大東亜戦争中期以降、基礎学力が十分に備わっている高学歴者については即、操縦訓練にかかり、一年二ヶ月後には実戦配備する 陸軍特別操縦見習士官(特操) と呼ばれる養成機関を設けた。
特操一期生二千六百名は昭和十八年十月一日、陸軍飛行学校の各教育隊に入隊した。
この時、河田清治は同期一〇〇名とともに朝鮮全羅道錦江河口にある大刀洗陸軍飛行学校群山教育隊に曹長として入隊した。
ここで訓練を受けた後、支那青島の第二十九教育飛行隊に転属し九七式戦闘機で訓練を受ける。
三重県明野指導飛行師団配属後、同期二十六名とともに「屠龍」の操縦履修のため茨城県那珂湊の常陸教導飛行師団に転属。
十一月十日、常陸教導飛行師団の空中勤務者全員に特攻志願書が渡され、全員が「熱望スル」に丸を付けるが、これについては同期の草川栄造氏(関西大学商学部・京都出身)の言葉として、
「ためらいはありませんでした。死ぬのが怖いとか怖くないとか言うのではなく、空中勤務者になったからにはその義務を果たすということでしょうか。
略)
ですから義務を果たすという気持ちが強かったですね。その為に特攻をやるというならやるしかない。河田君もそんな気持ちだったんじゃあないでしょうか。ただ、みんなで雑談している時、ふだん口数の少ない彼が『飛行機が少ないのに、こんなバカな戦法があるか』とぽつんと言ったのを覚えています。これもみんなの実感です。二式複戦には三七ミリ砲があり、その訓練をしているのですから、それで戦いたいですよ」
p二〇五
そして、昭和二十年三月愛知県清洲の飛行第五戦隊(天鷲第一五三一〇部隊)に配属される。
戦隊長・馬場保英少佐の率いる二式複戦屠龍三十六機で編成された部隊である。
着任してすぐに同乗者が決められた。
土山茂夫兵長(京都府乙訓郡向日町上植野出身 現・向日市)であり一九二四年生まれの二十才であった。
国鉄に勤務しながら立命館中学夜間部に通学中にいくつもの検定試験に合格した真面目で勉強好きな好青年であった。
陸軍航空通信学校卒業後、兵庫県尾ノ上教育隊での実地訓練を終えて着任したばかりである。
六人兄弟の長男で妹さんへの手紙が何通も残っている。
五月二十九日〇八〇〇。河田清治少尉操縦、土山茂夫兵長同乗の二式複戦屠龍は清洲飛行場を定期哨戒のため飛び立った。
其の哨戒中、B―二九の大編隊が静岡に飛来したため、単機にてB―二九第四悌団指令機〇〇十五機(ジョージ・ローリー大尉操縦)攻撃中右エンジンに被弾。
悌団長機に後続する五四二号機が銃撃すると屠龍の右翼が落ち、左に傾きながら次の編隊長機四八九四号機(M・R・クラーク・ジュニア中尉操縦十一人搭乗)に体当たりしていった。
四八九四号機は一方の翼がとれ、きりもみ状態で落下していった。
(河田少尉が体当たりにて落としたB―二九については機体番号42-24594と記してあるものもあるようです)
その時、惜しむらくは河田少尉の落下傘は半分しか開かなかった。
河田清治少尉、土山茂夫兵長はそれぞれ二階級特進となり、河田清治大尉、土山茂夫軍曹。
朝鮮人特攻隊
平成26年11月7日金曜日晴れ×
フィリピンで五名、沖縄で十二名。そして、B二十九相手に特攻した河田少尉を入れて、現在判明している朝鮮人特攻隊は十八名です。
フィリピン方面
近藤行雄伍長(朝鮮名不明)
航空機乗員養成所十期生
昭和19年11月25日
万朶隊
離陸直後、空中爆発により事故死
李充範 (平木義範)曹長
(少尉)
米子乗員養成所五期 第八十振武隊(第一航空軍の基本飛行学校の教官、助教で編成されたと考えられる特攻隊)
大正十年十二月全羅南道生まれ
昭和十二年頃に日本へ。昭和十四年十二月、米子航養所五期生として入所。当時の教官は馬詰太郎(陸委十八期)である。在学中に平木義範に改名。
第八十振武隊寄せ書きより
<大君の御楯となりちるさくら
ただひたすらにくにのさかえを>
第八十振武隊 九十九式高等練習機にて知覧出撃
昭和二十年四月二十二日
杉戸勝平少尉 小候二十四
川瀬明 少尉 特別操縦見習士官第一期
高橋弘 準尉 昭十一
上成義徳 曹長 昭十四
難波隼人 曹長 陸軍少年飛行兵第六期
平木義範 曹長
岡山勝己 軍曹 昭十四
白石哲夫 軍曹 昭十四
四月二十六日
橋本英亮 軍曹 陸軍少年飛行兵第十期
岩本光守軍曹(朝鮮名不詳)軍曹 少尉
都城乗員養成所十二期 (特攻に散った朝鮮人)
陸軍予下士官学校第九期(写真集 特別攻撃隊)
独立飛行二十三中隊三式戦「飛燕」にて出撃 那覇西方洋上にて戦死
昭和二十年三月二六日
阿部久作少尉 小候
岩本光守軍曹 陸軍予下士官学校第九期
須賀義栄軍曹 陸軍予下士官学校
長野光宏軍曹 陸軍少年飛行兵第八期
金井勇 軍曹 陸軍少年飛行兵第十一期
広瀬秀夫軍曹 陸軍少年飛行兵第十二期
五月一日
片山勝義少尉 特別操縦見習士官第一期
有吉敏彦軍曹 陸軍予下士官学校
河東繁伍長(朝鮮名不詳)伍長 少尉
少年飛行兵十四期
(特攻に散った朝鮮人)
第二航空軍編成(隆魔隊)ー 四平街ー 奉天 ー 京城 ー 板付ー 菊池ー 知覧出撃 昭和二十年四月六日
(朝鮮人特攻隊)(写真集 特別攻撃隊)
第百六振武隊
九十七式戦闘機にて出撃昭和二十年四月十六日 沖縄周辺洋上
四月十六日
石田耕治少尉 特別操縦見習士官第一期
清原勉 少尉 特別操縦見習士官第一期
丹下寿雄軍曹 陸軍少年飛行兵第八期
河東繁 伍長 陸軍少年飛行兵十四期
鈴木勇 伍長 陸軍少年飛行兵十四期
二宮淳一伍長 陸軍少年飛行兵十四期
松原徳雄伍長 陸軍少年飛行兵十四期
宮之脇勇伍長 陸軍少年飛行兵十四期
四月二十八日
榎本孝一伍長 陸軍少年飛行兵十四期
藤原勇 伍長 陸軍少年飛行兵十四期
尾鷲二郎伍長 陸軍少年飛行兵十四期
五月四日
袴田治夫伍長 陸軍少年飛行兵十五期
木村正碵伍長 (朝鮮名不詳)
少年飛行兵十五期 第一航空軍編成(第七十七振武隊)ー 知覧ー 徳之島 九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上
昭和二十年三月二十九日(特攻に散った朝鮮人)
四月二十八日(朝鮮人特攻隊)((写真集 特別攻撃隊)
四月二十八日
須山佳市少尉 特別操縦見習士官第一期
長谷川栄七伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
鈴木三男伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
本間忠男伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
三枝英明伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
木村正碵伍長 陸軍少年飛行兵第十五期
寺尾正道伍長 陸軍少年飛行兵第十五期
中秀夫 伍長 陸軍少年飛行兵第十五期
四月二十九日
金子誓 伍長 陸軍少年飛行兵第十四期 (徳之島から)
五月四日
相花信夫伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
李賢載(広岡賢哉または広岡賢蔵「写真集 特別攻撃隊」)伍長 少尉
少年飛行兵十四期 第四三一振武隊
金光永(金田光永)伍長
少尉
少年飛行兵十四期 第四百三十一振武隊九十七式戦闘機にて出撃沖縄周辺洋上
昭和二十年五月二十七日(特攻に散った朝鮮人)
昭和二十年五月二十八日(朝鮮人特攻隊)(写真集 特別攻撃隊)
五月二十七日
紺野孝 伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
鮭川林三伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
橋ノ口勇伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
広岡賢蔵伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
渡辺綱三伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
五月二十八日
堀川義明少尉 陸軍特別幹部候補生
金田光永伍長 陸軍少年飛行兵第十四期
六月三日
岡沢実 伍長 陸軍予下士官学校
石橋志郎(朝鮮名不詳)少尉
大尉
特別操縦一期生 大刀洗 ー 第四航空軍 ー カローカン基地(フィリピン)ー 第八飛行士団ー 宜蘭(台湾)出撃
飛行第二十戦隊
一式戦「隼」
昭和二十年五月二十九日
石橋志郎少尉
特別操縦見習士官第一期
大野好治少尉 特別操縦見習士官第一期
竹本郁夫少尉 特別操縦見習士官第一期
山田三郎伍長 陸軍少年飛行兵第十三期
森弘 伍長 陸軍少年飛行兵第十五期
韓鼎実 (清原鼎実)伍長
少尉
少年飛行兵十五期
(特攻に散った朝鮮人)
鉾田(茨城県)編成 万朶隊ー 立川ー リバ基地(フィリピン)
(朝鮮人特攻隊)
第百十三振武隊
九十七式戦闘機にて出撃 昭和二十年六月六日沖縄周辺洋上
高野正治少尉 陸軍特別幹部候補生
生駒寛彦少尉 特別操縦見習士官一期
泉田裕 伍長 陸軍予下士官学校
菊池秀雄伍長 陸軍少年飛行兵
北沢丈夫伍長 陸軍少年飛行兵第十五期
清原鼎実伍長
陸軍少年飛行兵第十五期
坂口良介伍長 陸軍少年飛行兵
中島璋夫伍長 陸軍少年飛行兵第十五期
羽立光行伍長 陸軍少年飛行兵
村串六郎伍長 陸軍少年飛行兵
我が国は、特攻隊員の場合は二階級特進の栄誉をもって応えた。
桜の樹を植えた特攻隊員
以下のエピソードは「日韓共鳴二千年」(明成社)に著者の名越二荒之助氏がどうしても紹介したい秘話として書かれていることです。
日華・日韓の教育交流に尽力されている草開省三氏と名越氏が昭和五十四年十二月末に研究会に通訳をお願いしている当時、中学校の教頭を務めておられた張志学氏に対して名越氏が「大東亜戦争をどう思うか」という質問をした時に、張氏がそれに答える変わりに、どうしても日本の方々にお知らせしたいと思っていた話として是非聞いて下さいと語った内容として書かれています。
以下引用
「私は教頭をになる前に視学官をやっていました。各地を巡回していた時、韓国では珍しい女性の小学校長を訪ねたことがあります。その校名は本人に迷惑がかかるといけないので、まだ発表できません。なななか立派な人柄で、男性教師からも尊敬されていました。ところがその校長は未亡人で、子供がいないのです。校長の御主人は、どんな人だったと思いますか。韓国では余り吹聴できませんが、実は特攻隊員として、沖縄で戦死したんです。その御主人は航空隊員になると、死を覚悟してたんでしょう。出身小学校を訪ねて、校庭に桜の木を植えたんです。その桜は今は大きな樹に成長しています。未亡人は奇しくも御主人が桜を植えた学校の校長として赴任したんです。校長は言っていました『淋しい時は桜の木の下に立つと心が安まる』と。
私はこの話を日本人に知って貰いたいと思って、ソウルにいる日本の新聞記者にそれとなく知らせたました。A新聞の記者が、早速小学校長を取材しました。
校長は記者を桜の木の下に案内しました。すると記者は『日本の軍国主義が、御主人をダマして申し訳ないことをしました』と言ったのです。いつもは謙虚な校長でしたが『だました』という言葉には激怒しました。
『私の主人はダマされるような人ではありません。自分の意志で出撃したんです。ダマされたというのは、人間に対しての屈辱です。取材はお断りです』と。これが私の大東亜戦争観です」
張さんはこの秘話を紹介しながら、あとは何も語りませんでした。私は余韻を持たせる解答にうなりました。
大東亜戦争を評論し出したら、どんなことでも言えましょう。特に当時の朝鮮の人々にとっては複雑で一言で尽くせるものではありません。我々は評論する前に、このように生きた人々の心を深く偲びたいものです。
その張志学氏は、一九九二年、癌のために逝去しました。そのために特攻戦死した御主人の名も、小学校の名も、もはや聞き出すすべがありません。美談はこのようにして歴史から消えてゆくのでしょうか。
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社P468~470
引用終わり
歴史を簡単に断定する事ということは、往々にしてその時代に生きた先人の生きざまを屈辱する事にもなりかねません。我々も我が国を守るために戦ってくれた先人とともに当時の日本人として戦った朝鮮・台湾などの勇敢な人々の事を忘れてはいけないと思います。
ところで、この本に書かれているA新聞って、築地にあるあのA新聞でしょうか。
薫空挺隊の朝鮮人軍曹
平成26年11月8日土曜日晴れ△
高砂族が大部分を占める特攻隊として有名な薫空挺隊に朝鮮人軍人がいる事を知ったのは「朝鮮人特攻隊」を読んだ時です。
<今回の特攻空挺隊の初陣に当って特記すべきは、半島ならびに本島出身者の勇士がたくさん混じっていることである。大東亜戦争勃発以来、東亜諸民族の結束が愈々昂揚されてきているが、この皇民化されたる半島ならびに本島出身者勇士の参加によって決行された内鮮台一体の決死斬込隊こそ、大東亜諸民族の中核たる我ら一億同胞の鉄火の決意を最も端的に表すものである>
昭和十九年十二月三日付朝日新聞(私は「朝鮮人特攻隊」p百一
この記事に出てくる朝鮮人特攻隊の氏名は、
金原庚鎮(かねはらこうちん)軍曹 軍歴不明 慶道北道尚州郡出身。
貧しい小作農出身で、父親は訪ねてきた記者に対して、たどたどしい日本語で、
「あれがほんとうにそんな立派な働きをしてくれましたか。もしそうなら、これで本当に世間様へ顔向けができます」
と答えたそうである。
(「京城日報」昭和十九年十二月五日付)(私は「朝鮮人特攻隊」p百四~百五
公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会会報「特攻 第四十五号」(平成十二年十一月)には金原庚鎮軍曹は第三小隊の下士官として十二名の高砂族上等兵とともに散華された事が記されています。
第三小隊としてこの金原庚鎮軍曹とともに出撃した高砂族兵士の御一人はあの写真で有名な津村重行上等兵です。
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薫空挺隊の生存者はいません。全員突入し散華されました。
参考文献
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社
「特攻に散った朝鮮人」桐原 久著
「朝鮮人特攻隊」※淵弘(ぺ ヨンホン)著
「写真集 特別攻撃隊」図書刊行会 昭和五十五年刊
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」毎日新聞昭和五十四年刊