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アメリカ人の有色人種蔑視
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
米国人の日本人の遺骨に対する扱い
平成22年11月24日水曜日晴れ△
下記は一部今まで日記に書いた箇所と重複いたしますことをご了承下さい。
映画「硫黄島からの手紙」の中に、昭和七年ロスアンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技にて金メダリスト(オリンピック史上、馬術で我が国唯一のメダリスト)であるバロン西こと西竹一中佐(戦死後大佐)が負傷したアメリカ兵の手当てを部下に命じる場面と、アメリカ兵による降伏した日本兵を銃殺する場面までこの映画の中にあります。昨年、日記にも少し書きましたがロシア軍はもちろん、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍、支那軍などの連合国は多くの捕虜虐殺をやっています。もちろん、日本軍も同様ですが、どういうわけか我が国の先人だけを責める日本人が多い。
ちなみに、映画でも描かれていますが西中佐が肌身離さず持っていた愛馬ウラヌスの鬣は後に一九九〇年になってアメリカで発見され、返還されたそうです。
何振りもの名刀が戦後のドサクサに米国軍人により接収という名の強奪、強盗に遭いました。アメリカ軍の戦利品あさりでありますが、このぐらいならまだかわいいもので、「SAPIO」の九月二十九日号にて「アメリカを彷徨う 旧日本兵の遺骨」と題された在米ジャーナリストである武末幸繁氏の記事がありました。
アメリカにおいて大東亜戦争中の我が軍の兵士の遺骨がトロフィースカルとして扱われているという記事です。
<しかし、人の頭蓋骨や遺体の一部を持ち帰った米兵がいることは驚かざるを得ない>
P七十七
と、武末氏は書いているが、近代、白人がやってきた事を考えれば容易に想像がつく事です。
この記事に掲載されている写真と記事はネットですぐに見つかります。
「Trophy skull Jap」と検索すると一番上に下記のページが出てくる。
「Japanese trophy skull finally returning home 」となっている。
そして記事には、words “1945 Jap Skull Okinawa”とその頭蓋骨に刻まれていた事が書かれている。
メイン州ホールデンにて銃や軍用品を売買するラルフ・マクラウド(Ralph McLeod)氏は二〇〇五年6月に発見し、日本に返すべきだと同業者から五十ドルで購入して、日本大使館に連絡した。
(その後我が国に返還されたはずとサピオの記事は書いています。)
同様にこのサピオの記事に掲載された
カリフォルニア大学バークレー校に日本兵の頭蓋骨が同大学博物館に収蔵されたままということで、これは、国際法に反する、ということで、日本に返還すべきだ、という記事。
Japanese war dead skulls at UC museum
http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/08/15/MNPK195PD6.DTL
また、サピオには日本兵の頭蓋骨で遊んでいるマクファーソン中尉
アメリカ海軍魚雷艇三十四の甲板にて
米兵が日本兵の頭部を煮ている写真
その頭蓋骨は一体につき三十五ドルで販売されていた。(一九四四年)
などが掲載されているが、これらの旧日本帝国軍人の御遺骨はどのようにアメリカ軍に扱われたか。
有名なのは日本兵の頭蓋骨を送ってくれた米兵に礼状を書くガールフレンドの写真として、ライフの昭和十九年(一九四四年)五月二二日号に掲載された写真だと思います。
"This is a good Jap - a dead one picked up on the New Guinea beach." Natalie, surprised at the gift, named it Tojo.
ナタリーというこの女性に対し、
<「これは状態の良いジャップです。ニューギニアビーチで死んだのを切り取ってきました」
サプライズな贈り物にナタリーは、それを『東条』と命名しました。>
というような記事です。
写真はそのバカ女と旧日本帝国軍人の頭蓋骨。
下記の写真は我が軍の捕虜に対する米軍の扱いがよく現れています。アメリカ人というものがよくわかる一枚だと思います。
昭和二十年(一九四五年)に報道カメラマンのフェンノ・ヤコブスによって撮影された写真です。
(戦艦ニュージャージー甲板にて。世界写真全集・第三巻『フォトジャーナリズム』掲載)
その他にも、Wikipediaには「American mutilation of Japanese war dead」として
http://en.wikipedia.org/wiki/American_mutilation_of_Japanese_war_dead
ここにはSAPIOに掲載されていた写真以外にもいろいろな写真が掲載されている。
記事にも多くのアメリカ軍の我が軍兵士に対しての醜い行為の証言が書かれている。
1945 image of a Japanese soldier's decapitated head hung on a tree branch, presumably by American soldiers
Front line warning sign using a Japanese soldier's skull on
他にも、ネットでいろいろな写真を見つける事ができる。
現在でも、ネットにて「日本人兵士の下顎の骨」として売られているページを見つける事ができる。
Headhunting Trophy Head - WWII Japanese Jaw - Gong Handle
$380.00
http://www.collectorsdeck.com/index.php?main_page=product_info&cPath=92&products_id=99
続く
今日の築地本願寺の蓮。 日刊ゲンダイ。今日ぐらい小沢関連ネタをやめればいいと思うが。
今日は予約もないしヒマやろうなと思っていたら、
Yさん、Hさん、Nさん来店。
Nさん来店。
二名様来店。
小胡子さん来店。
ホロン部員Yさん来店。
ドンチャン。
記憶あり。サルよりマシ。
米国人の日本人の遺骨に対する扱い
11月26日金曜日曇り一時雨 △
過去に書きましたが、他にも多くの日本兵の頭蓋骨トロフィーの事例が出てきます。
このサピオの記事に書かれているようなことは私の手元の本に書かれています。
一部重複する事をご了承ください。
<駆逐艦キッドの戦友会にて
以下引用
「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」
「どういう意味ですか?」
「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。
この老人は私の顔を見ながら言った。
「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。
この男は、当時機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港した一ヶ月後だった。体当たりを受けてから二ヶ月以上後のことであった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。
戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。
その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。
略)
日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。
実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。
ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。
この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大学に実際に問い合わせたことがあると言う。
大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。しかし、博物館はそれを拒んだ。>
引用終わり
「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) p二百五十一〜二百五十二
<キッド(駆逐艦)は日本機を一機撃墜した。パイロットは落下傘で機内から脱出したが、キッドがそのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時にはすでに死亡していた。血気にはやる数人の乗組員たちは日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首をはねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品をつくった者もいた。
バーンハウスは艦長とともにこの非道な行為を止めた。後日、このパイロットの遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた>
「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) P六七
連合国軍の捕虜虐殺については有名なリンドバーグの日記にも書かれています。下記の「 」内の引用文はリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、私の手元にある「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)よりの引用ですので文章は米田氏が要約・抜粋したものです。
これについて米田氏は第二次大戦に対してアメリカ参戦を反対していたリンドバークは昭和一九年になって南太平洋の戦場視察と慰問を許される。そこで、「アメリカ人が文明人であることを主張せねばならぬ理由がなくなる」ような、米軍兵士の日本兵捕虜に対する数々の蛮行を見聞することとなったと書かれています。
「日本兵士殺害に関する将軍の話−−−−実戦参加経験がないまま帰国する軍曹が、せめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。
偵察隊に捕らえられた一人の日本兵捕虜が軍曹の前に引き立てられた。軍曹は言った。
『俺にはこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』
『ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』
偵察隊の一人がそういうと、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めたとたんに、日本兵の頭部に腕が巻つき、喉元が一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた。
このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた」
(リンドバーグ日記六月二一日)
「小屋の壁のひとつに、絹地の日本の国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品として一〇ポンド(三三ドル)の値打ちがあると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は二五〇ポンドなら譲ってもよいといった」
(リンドバーグ日記六月二一日)
「将校の話によれば、穴の中の遺体をブルドーザーにかける前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、耳や鼻を切り落とされている日本兵の遺体を幾つも見たとも言った。『兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取りあげねばなりませんでした』。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ」
(同九月九日)
先日、下記のような記事がありました。
<硫黄島で51人の遺骨収集=政府チーム―旧日本兵、集団埋葬の可能性
時事通信2010年10月22日(金)19時56分配信
硫黄島で戦死した旧日本兵の遺骨収集を進める政府の特命チーム(リーダー・阿久津幸彦内閣府政務官)は22日、首相官邸で第3回会合を開き、51人分の遺骨を島内2カ所で発見したことを報告した。計2200人が集団で埋葬されている可能性があるという。
同チームの調査団は7日から同島を訪れ、旧日本兵が集団で埋葬されているとみられる2カ所で遺骨の収集に当たった。>
二千二百人が集団で埋葬とはどういうことか。
これは、米軍が我が軍兵士の遺体をどのような扱いをしたかを考えれば、自ずと答えは導き出されます。
リンドバーグは下記のように日記に残しています。
「われわれがもし日本兵の歯をもぎとったり、ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、さらった土をかぶせてやったりする代わりに、人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。ブルドーザーで片付けたあとは墓標も樹てずに、こう言うのである。『これが黄色い奴らを始末するたった一つの手さ』と」(七月二一日)
「山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の中には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾でできた穴に投げ込んだうえ、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる」(七月二四日)
ブルドーザーで遺体を片付け、その上に残飯、廃物を放り込む。
そのような箇所が何カ所もあったのです。
決して、整然並べ、遺体を処理したわけではない。
そして、捕虜に関して下記のような記述もある。
「ニューギニアの密林を越えて、ホーランディア飛行場周辺に日本空軍の残骸が散乱していた。着陸後、将校連と会議。談たまたま日本兵捕虜の数が少ないという点に及ぶ。
『捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることができる』
と将校の一人が答えた。
『ところがわが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ』
『(原文伏字)では二〇〇〇人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった一〇〇人か二〇〇人だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』
『あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね』
と、別の将校が調子を合わせる」
ホーランディア攻略戦で敗れて捕虜となった日本軍人の大多数は、機関銃の乱射で殺されたのである。
「我が軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが大平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」(七月一三日)
「安全でかなり贅沢な将校クラブに座しながら、これらの日本軍を『黄色い奴ばら』と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、惨たらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えはまったく無い」(七月二一日)
「私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼け爛れた地域の地表下に極限の苦悶隠されているのだ
飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない。なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかだから」(七月二一日)
(以上は先に書きましたようにリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、「日本の反論」米田健三著 p百六十一〜百六十五よりの引用)
そして、米田氏はこうも書かれています。
<第二次大戦におけるソ連軍の蛮行は周知の事実だが、米軍については極めて人道的であったがごときイメージが長い間流布されてきた。記録映画などに登場する日本占領前後の米軍将校のほとんどが、降伏した日本軍兵士や民間人に食糧を支給し、医療を施す善良な姿で映っている。だから、「鬼畜米英という教育はまちがいだった。玉砕は犬死にだった。文明国の軍隊はあんなにも寛大だったのだ」という論理がまかり通ってきた。しかし、前線の諸記録に垣間見られるのは、むしろ日本人が軍民を問わず玉砕を選ばざるをえなかった米軍の残虐さである>(同書p百六十一〜百六十二)
「敗北を抱きしめて」などの著書で有名なジョン・ダワーもその著書「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」(平凡社ライブラリー)に書いています。
「大平洋地域担当の従軍記者エドガー・ジョーンズが、四六年の『アトランティック・マンスリー』誌に書いている『われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機関銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ』。ジョーンズはさらに、標的の日本兵がすぐに死ぬことがないように、火炎放射機の炎を調整するというような行為にまで言及している」
「一九四二年の末に出版されベストセラーとなった『ガダルカナル日記』のなかで、ジャーナリストのリチャード・トレガスキスは、日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士たちの会話を挿入している。『ジャップは金歯をたくさん入れてるんだってな。それをいただいてネックレスでも作るかな』と一人がいう。『おれは奴らの耳を持って帰るよ』ともう一人が宣言する」
「リンドバーグがついに大平洋諸島を離れ、ハワイで税関検査を受けたときには、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。それは決まりきった質問だと言われたという」
沖縄戦でも、南太平洋戦線と同様の米兵による悪行が繰り広げられた。アメリカの作家、ジョージ・ファイファーが、取材開始から出版まで八年の歳月を費やした労作、『天王山 沖縄戦と原子爆弾』(早川書房)で、「アメリカ軍の残虐行為」という項目を設けて明らかにしている。
「野蛮な人間もいた。日本人の歯で作った腕輪は、彼らの歯を抜き取らなくては作れない」
「ある機関銃分隊は急造の小さなパイプを持って歩き回っていたが、それは日本兵の死体の口に彼らの尿を流し込むのに使われた」
以上
「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)(p一六六〜一六九)
「特攻パイロットを探せ」平義克己著 扶桑社 平成一六年刊)p二百五十一〜二百五十二
これが人道的とされてきたアメリカの姿です。アメリカ国内においては大東亜戦争中も人種差別が合法でした。公立の学校においてさえ、人種差別が憲法違反とされたのは一九五三年のことです。軍隊においては別々に従事させていました。
バンブーさん来店。
MIKAさん四名様で来店。
初めてのお客様Tさん二名様で来店。
Mさん、Kさん来店。
ナベちゃん来店。
福岡のTさんの御紹介ということで、二名様来店。
Tさん来店。
ドンチャン。
珍しく記憶あり。
でも、洗い物はする元気もなく、そのまま・・・・・
平成18年10月29日日曜日晴れ
「ドイツ兵が頭蓋骨を手に記念撮影 首相謝罪」という以下のようなニュースがありました。
以下引用
アフガニスタンでドイツ軍の兵士が頭蓋骨を手にして記念撮影をした写真が報道され、ドイツの首相が謝罪する事態となっている。
問題の写真は25日、ドイツの大衆紙「ビルト」が報じたもので、アフガニスタンで活動する国際治安支援部隊に所属するドイツ軍兵士が頭蓋骨を手に記念撮影をしたり、笑いながらポーズを取ったりしている。ビルト紙によると、写真は03年に撮影され、頭蓋骨は遺体が大量に埋まっている砂利採取場から持ち出されたとみられている。
イラクでアメリカ兵が行ったイラク人虐待の再来と非難する声も上がり、この報道を受けて、ドイツ・メルケル首相が「政府として徹底調査し、厳正な処分を行う。兵士の行動に弁解の余地はない」と謝罪した。
ドイツ国防省は関係した兵士から事情聴取を行い、検察当局は死体損壊の疑いで捜査を始めた。
[読売 27日14時3分更新]
引用終わり
アフガニスタンにおいてのドイツ軍兵の死者への冒涜についての記事ですが、そもそも多くのアメリカ人、オーストラリア人などの白人は有色人種に対して人間扱いをしていなかった。
これはあの大西洋横断単独飛行の英雄、チャールズ・リンドバーグの日記にも記されていることです。(新潮社、一九七四年刊)
以下チャールズ・リンドバーグの日記については「日本の反論 戦勝国の犯罪を検証する」(米田健三著、並木書房)よりの引用。
「小屋の壁のひとつに、絹地の日本の国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品として一〇ポンド(三三ドル)の値打ちがあると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は二五〇ポンドなら譲ってもよいといった」(リンドバーグ日記六月二一日)
「将校の話によれば、穴の中の遺体をブルドーザーにかける前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、耳や鼻を切り落とされている日本兵の遺体を幾つも見たとも言った。『兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取りあげねばなりませんでした』。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ」(同九月九日)
この米田氏の著書には他の例も多く書かれています。
雑誌「ライフ」一九四四年五月二日付には、恋人の海軍大尉から送られてきた日本兵の頭蓋骨を眺めながら、その海軍大尉に手紙を書いているアリゾナのナタリ−というバカの写真が普通に掲載されていたぐらいに、アメリカという国の有色人種に対しての偏見があったのです。
「敗北を抱きしめて」などの著書で有名なジョン・ダワーもその著書「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」(平凡社ライブラリー)に書いています。
「大平洋地域担当の従軍記者エドガー・ジョーンズが、四六年の『アトランティック・マンスリー』誌に書いている『われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機関銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ』。ジョーンズはさらに、標的の日本兵がすぐに死ぬことがないように、火炎放射機の炎を調整するというような行為にまで言及している」
「一九四二年の末に出版されベストセラーとなった『ガダルカナル日記』のなかで、ジャーナリストのリチャード・トレガスキスは、日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士たちの会話を挿入している。『ジャップは金歯をたくさん入れてるんだってな。それをいただいてネックレスでも作るかな』と一人がいう。『おれは奴らの耳を持って帰るよ』ともう一人が宣言する」
「リンドバーグがついに大平洋諸島を離れ、ハワイで税関検査を受けたときには、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。それは決まりきった質問だと言われたという」
沖縄戦でも、南太平洋戦線と同様の米兵による悪行が繰り広げられた。アメリカの作家、ジョージ・ファイファーが、取材開始から出版まで八年の歳月を費やした労作、『天王山 沖縄戦と原子爆弾』(早川書房)で、「アメリカ軍の残虐行為」という項目を設けて明らかにしている。
「野蛮な人間もいた。日本人の歯で作った腕輪は、彼らの歯を抜き取らなくては作れない」
「ある機関銃分隊は急造の小さなパイプを持って歩き回っていたが、それは日本兵の死体の口に彼らの尿を流し込むのに使われた」
以上米田健三氏の著書「日本の反論 戦勝国の犯罪を検証する」より(p一六六〜一六九)
このような事例は、私の手元にあるその他の本にも掲載されている。
「キッド(駆逐艦)は日本機を一機撃墜した。パイロットは落下傘で機内から脱出したが、キッドがそのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時にはすでに死亡していた。血気にはやる数人の乗組員たちは日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首をはねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品をつくった者もいた。
バーンハウスは艦長とともにこの非道な行為を止めた。後日、このパイロットの遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた」P六七
著者が米国国立公文書保管所で、大東亜戦争時の米軍書類より、資料を探していた時の事を書いています。
以下引用
当時、アメリカ軍は、日本とだけではなく、またナチスドイツとも交戦していた。ドイツ降伏一ヶ月前の事である。ドイツ海軍とは北大西洋で、特にドイツ潜水艦と熾烈な戦いを行った。書類の中にドイツ海軍の話も時折でてきた。ドイツ軍の呼称は、そのままGermansであるが、日本軍の総称はほとんどJapsであった。稀ではあるが、JapaneseとかJapanとか記述してあるものもあった。これは、その当時のアメリカの一般的な感情、意向、傾向を表していた。アメリカ政府、軍部は一貫したポリシーとして当時、日本、日本人を人間以下の動物として蔑視し、それを事実として国民に植え付けていった。反対に自分たちの多くがドイツから移民してきた仲間であることも手伝って、ドイツに対してのそのような政策はなかった。この違いが、報告書などの書き方にも現れている。単に敵に対する増悪だったと言えば、そうとも考えられないことはないが、戦争が終わって六十年近くにもなっていまだに、Japsという呼び方が正式なものだと信じている老人もいる。p192〜3
駆逐艦キッドの戦友会にて
「頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。
戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。
その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。
略)
日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。
実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。
ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。」
p251〜2「特攻パイロットを探せ」平義克己著 扶桑社 平成一六年刊)
これが人道的とされてきたアメリカの姿です。アメリカ国内においては大東亜戦争中も人種差別が合法でした。公立の学校においてさえ、人種差別が憲法違反とされたのは一九五三年のことです。軍隊においては別々に従事させていました。
平成19年10月17日水曜日曇り ○
今日の産経新聞に「アルメニア人虐殺非難決議案米下院外交委で採択へ」という古森義久氏の記名記事が掲載されていました。
以下引用
90年以上前のアルメニア人虐殺に関して当時のオスマン帝国を非難する決議案が米国下院外交委員会で10日に審議されることとなった。オスマン帝国を継承した現在のトルコ政府は、同決議案が事実の一方的解釈であり、その採択はトルコと米国との関係を深く傷つけるとして激しく反対しており、日本糾弾の慰安婦決議案とも類似する局面が注視される。
米国議会下院の外交委員会(トム・ラントス委員長)は、1915年からの数年間に起きたアルメニア人大量虐殺を公式に「ジェノサイド」(事前に計画された集団的虐殺)と呼び、その悲劇への理解などを米国の外交政策に反映させるという決議案を10日の公聴会で審議し、採決するという予定を発表した。
同決議案はこの虐殺をオスマン帝国の責任だとし、アルメニア人の犠牲者を150万人としている点などで、現在のトルコ政府が激しく反対している。しかし、米議会側ではアルメニア系米人の意向を受けたカリフォルニア州選出のアダム・シフ下院議員(民主党)らが提出し、すでに下院で226人、上院で31人の共同提案者を得るにいたった。
トルコ政府はこの動きに対し「いわゆるアルメニア虐殺の実態はなお不明確な部分も多く、ジェノサイドと呼ぶことには問題があり、決議案の採択はトルコ国民を激怒させて、トルコ・米国関係に重大な打撃を与える」として反対し、5日付の米紙ワシントン・ポストにも決議反対の全面意見広告を掲載した。
同広告は、エルドアン首相が歴史調査のためにアルメニアとの共同委員会を設けることを提案した点を強調し、この種の決議は「真実を求める側への不公正」だとして、その採択は両国関係を悪化させると警告していた。
トルコ政府は今年2月には当時のギュル外相を米国議会に送りこみ、もし、この決議案を通せば、トルコは米国のイラク作戦に不可欠なトルコ領内のインジルリク基地の使用を拒むことまでも示唆していた。こうした点は日本政府の慰安婦決議案への対応とは対照的だった。
米国政府もこのトルコ政府の主張に同調し、議会に対し同決議案への反対を明確にしていた。またヘンリー・キッシンジャー氏をはじめ過去8人の国務長官歴任者たちが連名で9月末、下院外交委員長あてに同決議案への反対を伝える書簡を送っていた。
引用終わり
慰安婦決議案の時の日本政府の対応とトルコ政府の対応との大きな違いを感じずにはいられません。
ただ、トルコ政府もアメリカ人からこんな事は言われたくはないでしょう。
アメリカ人は今回、問題にしているトルコのアルメニア人虐殺といわれている一八〇〇年代終わりから一九〇〇年代初頭にアメリカは何をしていたか。
一八四六年から四八年によるメキシコとの戦争。
一八六三年、南北戦争が終わり、やっと黒人奴隷制度が廃止された後も、インデアンに対しての虐殺は続いていたのです。
一八六四年一一月二九日早朝、シャイアン族の居住地サンドクリークを酔っ払った七〇〇人の騎兵隊が襲撃し、女性、子供一〇五人含む一五〇人近くのシャイアン族を虐殺。昼頃まで続いた虐殺で、その死体から頭の皮を剥ぎ、死体を砕いたりして損傷。指輪を取るために、指を切断。子どもも合わせた男性部族員の陰嚢は「小物入れにするため」切り取られた。男性器と合わせ、女性部族員の女性器も「記念品として」切り取られ、騎兵隊員たちはそれを帽子の上に乗せて意気揚々とデンバーへ戻った。
一八六八年一一月二六日の夜明け頃、オクラホマ州シャイアンのワシタ川の川岸に野営していたシャイアン族達は、ジョージ・アームストロング・カスター将軍指揮下の第七騎兵隊によって不意打ちの襲撃を受けキャンプの人々のほぼ全員が、無抵抗な女・子どもを虐殺。
カスター将軍率いる第七騎兵隊は一八七六年六月二五日、インディアンの野営地を発見し、それを襲うが、バカな司令官に率いられた二二五名の直属部隊は輸送馬車に二万四〇〇〇発の弾薬を置いたまま全滅した。カスターは兵士達には一二四発ずつしか弾薬を装備させていなかった。
一八九〇年一二月二八日にはサウスダコタ州ウンデット・ニーで野営しゴーストダンスに酔っていたスー族の集まりを、大砲や機関銃で武装したジェームズ・フォーシス大佐率いる第七騎兵隊が一方的に襲撃し、虐殺。
その時、スー族の1人がナイフを持って手放さなかったという理由で酋長ビッグ・フットをはじめとする約一五〇名が虐殺された。
この第七騎兵隊には議会勲章まで授与されている。
一八九八年にハワイを武力弾圧で併合し、一九〇〇年、ハワイ王家を廃絶し、一市民に格下げ。
一八九八年のパリ条約によって、スペインより二千万ドルでフィリピンを買い取ることにより植民地とする。
この時にフィリピン民衆の抵抗に対して、アメリカ軍は下記のような行動に出る。
それで、スペインの植民地支配に抵抗するアギナルドに独立の援助をほのめかして戦端を開いた。一八九八年春のことである。
以下引用
「フィラデルフィア・レジャ」紙のルポ
「米軍部隊は無情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな反乱分子であれ容疑者であれ、一〇歳以上なら片端から殺しつくした」「手をあげておとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠もないまま、一時間後には橋の上の立たされ、次々と銃殺されて川面を流されていった。弾丸で蜂の巣にされた死体を、川下にいるであろう連中への見せしめにするためだ」
「これは文明人相手の戦争ではない。相手は、力・暴虐・残忍しか通じない連中なのだ。われわれはだから、通じるべき手段で実行しているのである」P一七二〜一七三より
ルソン島南部の指揮官ジェイムス・F・ベル准将
「二年間(一九〇一年五月までの)にルソン島住民の六分の一が殺されるか、またはテング熱で死んだ」P一七四
つまり、二年間に六一万六〇〇〇人が殺されている。
サマル島の第九歩兵師団・司令官ジェイコブ・スミス准将はゲリラ戦に壊滅させられたC中隊の報復として、
「捕虜はいらん。全部殺し、焼き尽くせ。殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、私は満足だ」
一時的に指揮下にあっ海兵隊旅団長L・ウォーラー少佐が、「何歳が限度ですか」 と訊ねると、「一〇歳だ」と答えた。
略)
ウォーラーは全住民に海岸への移動を命じた。二日後、内陸にあるすべての村の組織的破壊と皆殺しが開始された。家はもちろん、市場に出すための食糧や麻など一切焼き尽くされ、家畜のすべては殺され、舟の類も手当たり次第沈められた。米軍の軍服なり装備なりの一片でも見つかった村は、それがC中隊の遺品とみなされ、女子供を含む全住民が皆殺しにされた。
P一七四〜一七五
(「殺される側の論理」本多勝一著 朝日新聞社 一九七八年刊)
引用終わり
同じく
一八九八年の米西戦争も同じように、北米大陸の脇腹にあるスペイン領キューバが米国の不安材料だった。「いつか敵対国の手にわたったら」という危惧は、実際に六十年後、あのキューバ危機で現実のものになったが、米国はそれを先読みして戦端を切った。ただ、自国の安全保障という直截な言い方はしなかった。「植民地支配にあえぐ人々の自立のために」、米市民が立ち上がった、と。
このとき海軍次官だったのがセオドア・ルーズベルトだった。彼は友人のアルフレッド・マハンの言葉を入れ、太平洋戦略の基地としてスペイン領フィリピンの奪取作戦も取り込んだ。そしてスペインに抵抗していたアギナルド将軍に、独立支援を餌にマニラ攻略の共同戦線を張った。
米上院へのレポートでは、サマール島で三十八人の米兵が殺された報復に、この島とレイテ島の住民二万余人が虐殺されるなど、二十万人が殺された。
この中には拷問死も多く、アギナルド・シンパとされた市民が逮捕され、「ウォーター・キュア(水療法)」の拷問を受けたと報告書は伝える。これはあの魔女裁判と同じに数ガロンの水を飲ませ、それでも白状しないと「膨れた腹の上に尋問の米兵が飛びおりる。彼らは口から数フィートの水を吹き上げ、多くは内臓損傷で死んだ。」(同報告書)
マニラ湾南のアギナルドの故郷バタンガスでは、住民を銃で殺害こそしなかったが、すべての田畑や家屋を焼き払い、家畜を皆殺しした。食べるものを家も失った住民は、飢餓地獄の中で死んでいった。その数は五万人ともいわれる。
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂出版 p一七〇〜一七二
ちなみに、このような残虐な米軍の指揮を執ったアーサー・マッカーサーは、日本占領軍司令官になるD・マッカーサーの父であり、ウィリアム・タフトは後に米大統領となる人物。
下記の言葉がそんなアメリカ人をよく表している。
以下引用
その辺の国民性について、ニュージャージーに生まれたノーマン・メイラーは「米国人は自分の間違いや国家の過失を無視するという不愉快な資質を持っている。だから米国人は直視したくないことは、なかったことにしてしまう」(日本版「プレイボーイ」)と説明する。
高山正之の異見自在 [2000年07月29日 東京夕刊]
引用終わり
そうやって平定したことを記念する米西戦争の前述の碑には、一八九九年に終わったはずのスペインとの戦争の年号が一八九八年から一九〇二年の四年間を刻み、「植民地支配にあえぐ人々に自由の手を差し伸べた米軍兵士たちに」と記す。戦争はスペインがさっさと降伏して翌一八九九年には終わったが、ロサンゼルスにあるこの戦争記念碑には「一九〇二年」とある。これは、アメリカに裏切られて抵抗するアギナルド将軍とその一派を、米軍が完全に掃討し終わった年を意味している。
このように一九〇二年までかかって、二〇万人ものフィリピンの人々を虐殺(上院報告書)し続け、ベトナムでも虐殺を続け、我が国には無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下。そんなアメリカからトルコも五月蝿い事を言われたくはないでしょう。
先日書いたインドネシアの慰安婦施設は、砂漠の中にあるネバダ州の公認売春施設と何処が違うのでしょう。
今も変わらぬ現在進行形の米国兵の残虐さ
平成22年11月29日月曜日晴れ ○
最近、民主党のアホ国会議員ども(藤田幸久など)のいらぬ努力により元米兵が我が国に来て謝罪を求める旅などという戯けたことをやったという報道がありました。
ではその米国兵が現在進行形でどのような事をやっているか。
以下引用
<アフガン 米軍兵士5人「気晴らし」に市民殺害し訴追
毎日新聞 2010年9月21日(火)19時15分配信
【ニューデリー栗田慎一、北米総局】19日付の米紙ワシントン・ポストは、アフガニスタン駐留米軍の兵士5人が、「気晴らし」にアフガン市民を殺害した疑いで米軍から訴追されたと報じた。遺体の撮影や頭蓋骨(ずがいこつ)を収集した疑いも浮上している。同紙は01年のアフガン戦争開始後、「最も身の毛がよだつ事件」と批判している。
同紙が入手した米陸軍の訴追資料によると、殺害事件は今年1〜5月、アフガン南部カンダハル州で3件発生。1月の事件では、兵士らが手投げ弾を爆発させて米軍が攻撃を受けたように装い、近くにいたアフガン男性1人を射殺した。また、遺体を切断して写真撮影することもあったという。
動機については、兵士らが酒や麻薬を常習し、ふざけて罪のない市民を殺害した疑いがあるとしている。内部告発した別の兵士がリンチを受けた事件も起きたという。
◇検証◇
一方、アフガン駐留米軍の「非道」ぶりについて、アフガン国内では、「何をいまさら」との受け止め方が強い。「気晴らし」感覚があるかどうかはともかく、アフガン市民は、米軍が極めて安易に市民を殺害していると考えているのだ。
アフガン各地に展開する米軍や国際治安支援部隊(ISAF)の装甲車の車体の前後には、現地の言葉で「近づくな」と書かれたプレートが張りつけられている。不用意に近づけば銃撃するとの意思表示だ。
内務省によると、低速で走る米軍車列を追い越そうとしたり、クラクションを鳴らした一般車両が銃撃され、乗っていた市民が死傷する事件が相次いだことを受けての措置で、数年前に始まった。
米国の後ろ盾を受けるアフガン政府はこうした銃撃事件について、「テロリストと誤解された不幸な事件」と鎮静を図ったが、地元テレビのカンダーリ記者(45)は「過失とは思えない銃撃も数多い」と憤る。
同記者は「検問所で英語が分からない老人や女性が制止を無視したとして銃殺されたり、家宅捜索として深夜に米兵に押し入られた民家の男たちが抵抗し、その場で殺されるなど、常軌を逸した事件があまりにも多い」と指摘する。
米軍による市民殺害は、タリバンが勢力を回復し始めた07年ごろから急増していった。地上戦での消耗を避けるため、米軍が空爆を多用した結果、市民の犠牲は拡大して反米感情が高まり、タリバンを勢いづかせ、空爆や戦闘がさらに激化していったのだ。これが、市民や米兵の犠牲が毎月のように最悪を記録している背景となっている。
一方、イラクでもアフガンと同様の状況があった可能性が高い。イラクに派兵されていた元米兵が帰国後に書いた著書で、イラク駐留米兵が殺害したイラク人の頭部でサッカーに興じていたと報告している。>
引用終わり
これについて、ネットで調べると
<アフガン市民を気晴らしに殺害 米兵取り調べ映像を入手
2010.09.28 Tue posted at: 14:39 JSTアトランタ(CNN)
アフガニスタンに駐留していた米兵らが今年1月から5月の間にアフガニスタン市民3人をふざけて殺害したとされる事件で、CNNは殺害にかかわったとされる兵士の取り調べ映像を入手した。残忍で冷酷な殺害の様子が語られている。
映像には、5月に軍の捜査官が22歳の兵士を取り調べた様子が映っている。この中で兵士は、上司である軍曹の命令に従い、無防備なアフガニスタン人男性を連れ出し、手投げ弾を使って殺害したと話している。 兵士は、この男性のほかに2人の一般男性を射殺した罪にも問われている。 起訴状などによると、兵士らは麻薬を吸い、遊び目的でアフガニスタン市民の殺害を企て、実行したという。
殺害を命令したとされる軍曹は被害者の指や脚の骨と歯を収集しており、別の兵士は被害者の頭蓋骨(ずがいこつ)を保管していたという。 また、兵士らが被害者を射殺した後で遺体の写真を撮影したり、互いの写真を撮り合ったりしていたとの情報や、麻薬を毎日のように使用していたとの兵士の証言もある。
映像に映っていた兵士の弁護士は、この兵士は以前受けた爆撃で脳を損傷し、処方薬を服用していたうえ、麻薬を吸い、軍曹の命令に逆らえない状況にあったと述べ、軍曹が事件の首謀者だと主張している。 殺害にかかわったとされる5人の兵士については、公判前の取り調べ尋問が今後数週間内に行われる予定。 国防総省はいずれの事件についてもコメントしていないが、CNNに宛てた声明で、取り調べ映像が流出したことは問題だとしている。>
US soldiers ‘killed Afghan civilians for sport and collected fingers as trophies’
<殺害を命令したとされる軍曹は被害者の指や脚の骨と歯を収集しており、別の兵士は被害者の頭蓋骨(ずがいこつ)を保管していたという。>
大東亜戦争の時に我が軍兵士の遺体に対しての扱いと同じ事を現在もやっていたのです。
米軍の変わらない本質です。
昨日、スポーツセンターでよく一緒になる歳が半分ほどの人たちと年甲斐にもなく、腹筋ローラーを使ってトレーニングメニューのひとつを競い合ったので、今日は何かする度に「イテテテッ」・・・・
ちなみに、腹筋ローラーってのはこんなやつです。
久しぶりに古本屋さんに行くが、収穫はなし。
食事をして、帰宅。
酒は飲まず。