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北朝鮮はかってバカどもにどのように語られたか
安江良介(岩波社長)
「主席閣下は、第二次世界大戦後、今日まで一貫してトップリーダーとして民族を導き、国際政治の転変をみてこられた、世界に類を見ない政治家であります。」
「北朝鮮では車の私有は認められていなく、そのためピョンヤンの街は実に美しい…」
1972年の発言
「この主席の言葉に対応した話を私はあらゆるところで聞いた。
即ち「瓦の屋根の家に住み、絹の着物を着て、白米を食べたいというのが長年の私達の憧れであった。
今私達は、この三つとも自分達の手にしている。昔の地主達の生活と同じである。いや、国家の保障によって
大学までも無料で行ける事にかっての地主よりもよいと言っている。」というのである。
この言葉に嘘はないと私には思えた。」
(「金日成主席傘寿記念出版/主席 金日成」所載)
稲垣武(「悪魔払い」の戦後史)文春文庫
ラングーン事件に関して
「北がなしたことであるとしたら、それに対する責任の少なくとも一端は全政権にあると言わねばならない。全一派は今まで南北対話や統一を口にしてきた。しかし実際は、南北対立を減らすどころか、
北には勝たねばならない、などと国民を叱咤しながら、一方では、北の侵略が今にもあるかのように宣伝した。
北の侵略という虚像を作って国民を彼らの支配に屈従させるためであった。
・・・・・・
北はこの挑戦とある意味では侮辱を耐えることができなかったと言えはしまいか。」
『世界』1983年12月号
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、『朝鮮新報』1998年1月13日
【岩波書店前社長 安江良介氏を偲んで】
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金沢の名高い金箔職人の家に生まれた。金箔は1万分の1ミリの世界。
この極限の技術に日々、精魂込めた父の頑固一徹な職人気質が、安江さんの骨太の ジャーナリスト精神にも脈々と受け継がれていたように思う。
南朝鮮の民主化闘争を積極的に支援して始まった雑誌「世界」での「韓国からの通信」は、
様々な圧力と闘いながら屈せず、17年も続いた。
90年に岩波書店社長に就任した直後、冗談を交えて「社業が忙しくなりましたから、
朝鮮問題の集会にも出られなくなりますよ」と語ったことがある。しかし、その後も安江さんは
全国各地のどんな小さな集会でも、招かれると飛んで行って話をし続けた。在日朝鮮人のオモニ
たちに囲まれて楽しそうに語らっていた。南で獄中生活を送る政治犯の家族から「雑誌『世界』を
生きる支えにしています」と声をかけられた時に、安江さんは溢れる涙を拭おうとしなかった。
いつも抑圧された弱い人の立場の側で喜び、怒り、涙する人だった。
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