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梁川七星氏
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成17年2月13日日曜日晴れ
今回、読んだものの中で、興味深かったのは、昨年、古本市で見つけてきて、読む事なく部屋でついついそのままになっていた元海軍司教官の鈴木政平氏の著書であろうか。
1999年に出版されたこの本は、日本が大東亜戦争時に統治していたインドネシアに昭和17年7月より昭和19年12月に至る二年半、民政部文教課長の職にあった時の状況を、鈴木氏が内地の学兄宛の報告として書き綴ったものを、そのままの形で本にしたものでした。(旧仮名づかいなどは現代仮名づかいに改められています)
この手の本のほとんどが、戦後、日本に帰ってきて生活が落ち着いてから書いたものがほとんどと思います。この本は著者がリアルタイム?で書き綴ったものですので、その当時のバリ島などの状況、日本の占領下における教育内容その他がわかりやすく書かれていています。
この本が出版されるまでにはドラマがあったようです。
1995年に元産経新聞記者の村松和男氏が入手した日本によるインドネシア統治時代の貴重な手記を、慶応大学経済学部教授の倉沢愛子氏に1994年に託した後、翌年の三月に村松氏はお亡くなりになったそうです。村松氏の行動は御自分の死期を悟られての事だったのです。
この手記を書かれた御本人の鈴木政平氏も、この本の出版を待たずに九十九歳という長寿を全うされてお亡くなりになっています。
この本には鈴木氏がいかに小さなことまで気を配り、教育者としてインドネシアの人々と接したかが書かれていると同時に、卒業証書、教員の昇給辞令にまで税金をかけてたり、歴史という授業がなく、運動場もなく、消しゴムから白墨にいたるまで学用品使用量を異常に低く押さえていたり、女子の就学率が異常に低く、学校の新設も少ないという文盲政策をとったオランダによる愚民政策統治のひどさを学校数など具体的な数字で表しています。それに比べて、我が国はどこの統治下でもやった事ですが、官民あげて就学を奨励し、初等教育の授業料は無料とし、多言語.多民族のインドネシアにおいて当時の共通語になりつつあったムラユ語(マレー語)今はインドネシア語とよばれる言葉を教育用語として教えて、そのうえで日本語教育をしたという事が、オランダの統治時代とよく比較できます。
日本が統治してから学校の数が増えてハングルが普及したくせに、うそつき朝鮮人がよくいう、日帝が言葉と文字を奪ったなどと言っていることが如何に戯けたことかよくわかります。
同じインドネシア残留日本兵を題材にした上坂氏と長氏の本でしたが、残留日本兵の方々が作った「福祉友の会」の運営と二世三世への引き継ぎによる日系人がインドネシア社会にどう馴染み、発展、貢献していくかという事を主において扱った上坂氏と、インドネシア各地を訪ねてアルバム的に多くの残留日本兵を取材し紹介したジャカルタ日本人学校教員だった長氏とは著者の視点が大きく違っていましたが、どちらも貴重な資料のひとつと思います。
長氏の取材に応じられた残留日本兵の方々も取材後お亡くなりになっている方が多く、この発売時で五十年近くもたった時間の流れを感じます。
ただ、長氏の著書で気になった事が少しあります。たとえば、戦後、インドネシア独立軍に参加して他の日本兵の方々といっしょにオランダ軍と戦い、一緒に独立軍に加わった青木政四郎曹長、長谷川勝雄軍曹とともに捕らえられて銃殺され、独立戦争の英雄として今は英雄墓地に眠っている、有名な元軍属の梁川七星氏(朝鮮名 梁七星)の遺児エディ・ヤナガワ氏が紹介されていました。私は梁川七星氏に遺児がいるのをこの長氏の本で初めて知りました。その発言内容の中で、自由意志にて応募してきた軍属を「軍属として強制的に日本軍にインドネシアまで連れてこられた」という息子さんの言葉を訂正させずに掲載しています。
(普通だと、「朝鮮半島に徴用令が施行されたのは1944年です。それ以前に、ましてや軍属で強制的に連れてこられる事等ありえないから、あなたのお父さんは自由意志で応募してきたはずですよ」「日本軍からお給料も出ていたはずです」「強制的に連れてこられたのであれば、終戦後すぐに帰国するはずですよね」と具体的に諭してあげるのが普通だとおもうのですが・・・)
名越氏の著書によると、平成七年3月11日付の産経新聞に梁川七星氏の墓碑名の変更要求運動が紹介されたそうです。[JAPAN
YANAGAWA SICHISEI]と刻まれている英雄墓地の墓碑名が、韓国から改めろという運動がおこり、1995年には「奪われた国籍と名前の回復を!」「誇るべき大韓民国の栄光・梁七星!」という声に満ちた市民集会まで開かれたそうです。
当時は日本人だった梁川氏は、日本人としてインドネシアのために戦い、死んでいったのですから、今の墓碑名は間違ってはいないと思います。
何でも文句をつけてくる民族・・・・・
あと、長氏はこれまた有名なインドネシアの独立宣言文の日付け「17・8・05」という皇紀ではなく「1945・8・17」と西暦っぽく、書いているのはうっかり、それともわざと皇紀になっているその謂れを説明したくなかった・・・・・