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大和

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成17年5月19日木曜日晴れ ○
あの戦艦大和の乗組員だった八杉康夫氏の体験談が現在、産経新聞で「わが青春の大和」と題され連載されている。
その5回目(5月17日)の文章でお母さんとの別れの場面として次のような内容が書かれています。
 出撃前にお母さんと呉市内の紅葉旅館という高級旅館に泊まり、枕を並べて寝た後、翌日、旅館を出たところで敬礼して「17年間お世話になりました。行って来ます」というのが精一杯だったそうで、それに対してお母さんは敬礼に頭を下げて答えてくれ、その後、大和への船が出る桟橋までついてきて、「元気でな」と後ろから声をかけたそうですが、振り向かないで、「さようなら」と一言いって敬礼して船に飛び乗ったそうです。
機密保持のために大和の出撃前に家族には連絡が取れなかったそうですが、八杉氏は上官が知らせてくれ、お母さんが会いに来たのでしょうと。

 以下は新聞に掲載された文章をそのまま引用いたします。
 沈没の前日の四月六日、豊後水道を南下中、艦長よりの命令の伝達があり、皇居の方角に向かって最敬礼、君が代、海行かばを斉唱しました。それで終わりかと思いましたら、能村副長から「各人故郷のほうを向け」と命令がありました。「みな、遠慮せずに大いに泣け」というのです。みな肩を震わせて一生懸命泣きました。よく覚えております。
その前日には無礼講の酒宴があり、「今のうちに飲んどけ。気持ちよう飲まな、機嫌よく死ねないぞ」と。そんな無茶な酒宴はあとにも先にもありません。
引用終わり

 わたしはこの文章を朝、読んでいて涙が出て来ました。
 批判するのは容易く、よく、無謀な、無駄なと言われる大和の特攻ですが、このように覚悟して乗り組み戦ってくれた先人がいて、今の平和な我が国があります。それを我々は決して忘れてはいけないと思います。この大和の乗組員のみなさんのような辛い別れも酒宴をする事も、我々は無いのですから・・・・・


 

平成17年11月7日月曜日晴れ ○
 昨日、寝る前に読んでいた本で、我国国民が大東亜戦争の時に受けた連合国側による戦争犯罪の事が気になり手許にある他の本をいろいろ見ていたら、結局、朝まで読んでしまう。こういう時は週休二日はいいとつくづく思う。でも、ゆっくりと寝るぞと思っているのにどういう訳か九時過ぎに目がさめてしまう。
 起きてから先週古本屋さんで買ってきた「男たちの大和」(辺見じゅん著)を読む。結局今日は飯を食いにとその帰りにコンビニで買い物をしただけで、一日が終わる。
 その「男たちの大和」の中に山本五十六長官より直に短刀と茶掛をいただいたという大和の柔道部で機銃を受け持っていた内田貢氏はレイテ沖海戦で片目を失い、この短刀を大和のロッカーに置いたまま呉海軍病院に入院していたのだが、この短刀を取りに沖縄海上特攻に向かう大和に潜り込んだら、そのまま出港、そして降りる間もなく戦闘状態になった。というなんとも凄いエピソードの持ち主ですが、戦後、九死に一生を得た内田氏がその海上特攻で散華された北栄二氏の実家を訪ねるために淡路島にいった時のエピソードがなどが出てきます。
 内田氏は100ケ所以上の傷を負い、何度も手術をくり返したそうですが、取り除く事ができずに内田氏の体の中に残ったままの弾などの破片も多くあり、空港の警報装置に引っ掛かるそうです。台湾に旅行でいった時には裸にまでされて調べられたそうで、その時に内田氏の全身の傷跡やひきつれを見た三人の係員は言葉も無かったそうです。そして、「戦争ですか」と流暢な日本語で訪ねられ「そうですがな、大和に乗っとりました」と内田氏が答えると、三人の係員は、瞬間に敬礼したそうです。
子供のいない内田氏は11人もの戦災孤児を引き取り育て、そのうち三人を御自分の籍にいれているそうです。でも、嫁にまでだしても音沙汰ないと奥様がぐちると「ええわな、幸せならええわな」と何もいわないそうです。

 この本の巻末には大和とともに運命を共にした3000余名の乗組員の名簿が掲載されていますが、私の手許にある父の三原郡海友会名簿でしらべますと、私の故郷である淡路島のなかの、そのまた狭い三原郡の三原町内でも居内久夫兵曹長(24才)長谷年夫一等機関兵曹、金勝清志二等兵曹、武田勝二等兵曹(25才)の四氏のお名前が「男たちの大和」の巻末にある名簿でも確認できます。3000余名の散華された割合としては異常な高さと思います。私の父親もそうでしたが、淡路島の人間が多く行った呉の大竹海兵団の関係でしょうか。


 このような先人のおかげで、今の日本があります。しかし、3000人以上をの尊い命をむざむざ犠牲にした大和の海上特攻とはなんだったのでだという想いは誰もが持つものだと思います。


 

平成17年11月7日月曜日晴れ ○
 昨日、寝る前に読んでいた本で、我国国民が大東亜戦争の時に受けた連合国側による戦争犯罪の事が気になり手許にある他の本をいろいろ見ていたら、結局、朝まで読んでしまう。こういう時は週休二日はいいとつくづく思う。でも、ゆっくりと寝るぞと思っているのにどういう訳か九時過ぎに目がさめてしまう。
 起きてから先週古本屋さんで買ってきた「男たちの大和」(辺見じゅん著)を読む。結局今日は飯を食いにとその帰りにコンビニで買い物をしただけで、一日が終わる。
 その「男たちの大和」の中に山本五十六長官より直に短刀と茶掛をいただいたという大和の柔道部で機銃を受け持っていた内田貢氏はレイテ沖海戦で片目を失い、この短刀を大和のロッカーに置いたまま呉海軍病院に入院していたのだが、この短刀を取りに沖縄海上特攻に向かう大和に潜り込んだら、そのまま出港、そして降りる間もなく戦闘状態になった。というなんとも凄いエピソードの持ち主ですが、戦後、九死に一生を得た内田氏がその海上特攻で散華された北栄二氏の実家を訪ねるために淡路島にいった時のエピソードがなどが出てきます。
 内田氏は100ケ所以上の傷を負い、何度も手術をくり返したそうですが、取り除く事ができずに内田氏の体の中に残ったままの弾などの破片も多くあり、空港の警報装置に引っ掛かるそうです。台湾に旅行でいった時には裸にまでされて調べられたそうで、その時に内田氏の全身の傷跡やひきつれを見た三人の係員は言葉も無かったそうです。そして、「戦争ですか」と流暢な日本語で訪ねられ「そうですがな、大和に乗っとりました」と内田氏が答えると、三人の係員は、瞬間に敬礼したそうです。
子供のいない内田氏は11人もの戦災孤児を引き取り育て、そのうち三人を御自分の籍にいれているそうです。でも、嫁にまでだしても音沙汰ないと奥様がぐちると「ええわな、幸せならええわな」と何もいわないそうです。

 この本の巻末には大和とともに運命を共にした3000余名の乗組員の名簿が掲載されていますが、私の手許にある父の三原郡海友会名簿でしらべますと、私の故郷である淡路島のなかの、そのまた狭い三原郡の三原町内でも居内久夫兵曹長(24才)長谷年夫一等機関兵曹、金勝清志二等兵曹、武田勝二等兵曹(25才)の四氏のお名前が「男たちの大和」の巻末にある名簿でも確認できます。3000余名の散華された割合としては異常な高さと思います。私の父親もそうでしたが、淡路島の人間が多く行った呉の大竹海兵団の関係でしょうか。


 このような先人のおかげで、今の日本があります。しかし、3000人以上をの尊い命をむざむざ犠牲にした大和の海上特攻とはなんだったのでだという想いは誰もが持つものだと思います。

 

平成18年1月16日月曜日くもり ○ 17日一部訂正追記
 午後より新宿の映画館で「男たちの大和」を観る。三時五十分からとなっていて十分ほど前に入る。
親父連中もいっぱい来ていました。それもひとりの人が多かったです。
いい映画だったと思ったし、最近、年のせいか涙もろくなってきているので泣けました。ただ、正直なところ仕方ないのかもしれないが、以前読んだことのある原作との距離感というか映画に少し違和感も感じました。
 帰ってきてから、原作の辺見じゅんの「男たちの大和」を読みなおすと沖縄に向かう大和として下記のような場面が書かれています。(ちなみに、原作者である辺見じゅん氏は角川春樹氏の姉にあたるそうな)

「副長の訓示のあと、乗組員は皇居の方角に向かって遥拝した。「君が代斉唱」がすむと、副長の音頭で「皇国万歳」を三唱した。
 乗組員たちはすべて戦闘服に身をかためた。この日の朝は、だれもがあたらしい肌着を着けていた。
 副長の解散の号令がかかったが、しばらくはだれもその場を去ろうとせず夕闇せまる甲板に立ちつくしていた。四国の海岸の松の木が、夕陽のなかにシルエットをつくっていた。
 家郷の方角に姿勢を正して帽子を脱ぎ、頭を下げて動かぬ者がいる。両手を高く拳げ、ちぎれるほど振っている者もいた。見えない父母弟妹に、妻や子に、恋人に、最後のお別れをした。みんな泣いていた。
 側距儀の石田直義班長も、「君が代」を歌いはじめたとき、涙が出た。最後に家に帰った時のことがまぶたに浮かんだ。長男が誕生して一週間目だった。家を出て歩き出したが、もう一度家の回りをまわった。息子をもう一ぺん、この腕でしっかり抱きしめたかった。妻や子のことが思い出され、涙がにじんだ。
 ああ 堂々の輸送船
 さらば祖国よ 栄あれ
 だれかが小声で歌いだすと、その歌声に誘われ、甲板を去りかけた者も立ち止まって歌いはじめた。
 遥かに拝む 宮城の
 空にちかった この決意
 暗くなりかけた海の彼方へ、大合唱となって広がった。漆黒の海面には艦の航跡が白く尾をひいていた。」
「男たちの大和 上」p303〜034

 その場面は、映画館の中で買ったパンフレットの中にも元乗組員の小林健氏の言葉としても下記のように書かれています。
<全員東に向いて「宮城の遥拝」をし、「君が代」と「海ゆかば」を斉唱して、それぞれ自分の故郷への別れと挨拶をしました。この時、日本海海戦で東郷平八郎元帥が掲げた”Z旗”が翻りました。全艦を「軍艦行進曲」が流れ、これを聞きながら大和は進みました>

 残念ながら映画にはこの場面はありませんでした。
そして下記の掲示板に書かれていたという出撃命令も出てくることはありませんでした。
   要旨
 本楠笋に海上特攻隊ヲ編成シ、壮烈無比ナル沖縄突入作戦ヲ命ジタルハ光輝アル皇国海軍ノ伝統ヲ後世ニ伝ヘントスルニ外ナラズ。 各員奮戦其ノ職ニ殱死セヨ

 この二つは映画には描かれているだろうと何となく思っていたのですが外れちまいました。映画には国歌である君が代が流れることはなかったです。特攻に反対であった渡哲也扮する伊藤整一司令長官に対して、林隆三扮する草鹿参謀長が「海軍ニハモウ艦ハナイノカ、海上部隊ハナイノカ」と先帝陛下の言葉をだして説得している場面はあります。それに対して、元乗組員の方の証言にも出てくる当時では当然であったであろう宮城の遥拝、国歌を斉唱などの場面が特攻の大和の艦上において描かれて無いのは不自然に思いました。原作にあった掲示板に「死ニ方用意」の言葉が書かれていたということと、産経新聞にも掲載されましたが、同じ大和の乗組員だった八杉康夫氏の体験談にでてくる
 <能村副長から「各人故郷のほうを向け」と命令がありました。「みな、遠慮せずに大いに泣け」というのです。みな肩を震わせて一生懸命泣きました。よく覚えております。>
というのを参考にしたと思われる場面としては、特年兵に掲示板に書かれた「死ニ方用意」の方法を長島一茂演じる大尉が示唆し、それにより特年兵が絶叫したり、泣き崩れたりする場面として描かれています。そして、出航してから特攻の是非で下士官が大勢で殴り合い、それを長島一茂演じる大尉が止めて、「負けなければ分からない事もある」というようなことを言う場面は辺見氏の原作には無かったのですが、いれています。これらは中で買ったパンフレットに監督の言葉として「戦争は悪」「日中十五年戦争を見つめ直す作業」「太平洋戦争とはなんだったのか?」などという文章がでてきていますが、これらと関係あるのでしょうか。

 パンフレットによりますと、原作の主人公だった内田貢氏は平成十四年三月七日にお亡くなりなっておられ、その遺骨を養女の牧子さんが映画のように沈没地点で散骨され其の時に「内田兵曹、ただ今、帰りました。長生きさせて頂き、ありがとうございました」と亡き父親に代わり敬礼されたそうです。大和イチの柔道の猛者である内田氏は、当時は士官は別として、海軍では髪を伸ばしている兵隊はいなかったそうですが、大和に乗艦中もオールバックのへヤースタイルを通し、香水を好んでつけていたシャレ者だったそうです。そんな内田氏を山本五十六司令長官は可愛がり、大和を降りる時に世話になったと内田氏に短刀と茶掛を渡されたそうです。

そういえば、支那がこの映画に対してイチャモンをつけてきたそうですが、散々酷い映画を今迄作ってきた国がよくいうよ。


 

「硫黄島からの手紙」と「男たちの大和」

平成19年1月15日月曜日晴れ ○
 午後よりスポーツセンターへ行く。時間があまり無かったので、背中、二頭筋、前腕のみのメニューを消化。店により資源ゴミを出した後に、李さんと待ち合わせて新宿の映画館にて「硫黄島からの手紙」を観る。
 この映画は監督であるクリント・イーストウッドが五日で落とせるとアメリカ軍がいっていた硫黄島で三六日間戦い抜いて、上陸した六万一千人のうち死傷者二万六千人というアメリカ軍史上、最大の犠牲が硫黄島で生まれました。その最大の犠牲を絶望的な物量差のなかでアメリカに強いた日本守備隊二万一千人を畏敬の念を持って描いているように思います。たとえ、日本兵を嫌々ながら戦うという姿に描いていたとしても、先日来店してくださったSさんがおっしゃっていたように、とてもアメリカ人が監督で製作した映画とは思えないほどの作品でした。(ただ、最初の方に出てくる陸軍の上官のヘルメットは????)
 沖縄への海上特攻という同じように全員が死を覚悟した戦いを生存者の方の証言などをもとに書いた辺見じゅん氏の小説「男たちの大和」。これを原作にして製作された映画では、原作には沖縄に向かう大和において昭和二〇年四月五日午後六時に「酒保開け」「各分隊、酒を受け取れ」という艦内スピーカの声により乗員が各々最後と覚悟した酒宴をやり、三時間後の午後九時に流れた「きょうは、みな愉快にやって大いによろし、これでやめよ」という能村次郎副長の声により艦内の騒ぎは収まった。そして「この期に及んでも艦内の規律は寸毫の狂いもなく、出撃に際し一丸となった意気込みを感じ取ることができた」という能村次郎氏の言葉とともに紹介していますが、映画では酒を飲んで殴り合う乗組員たちを制止た長島一茂ふんする白淵海軍大尉に「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めるのが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外にどうして日本は救われるのか 今日目覚めずしていつ救われるのか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃあないか」といわせています。原作と映画とは違って当たり前ですが、あまりにも違和感があります。
 同じく四月六日夕刻、能村副長の訓示のあと、艦上よりの「宮城遥拝」、「君が代」斉唱、「皇国万歳」三唱が行われたという。それについては映画「男たちの大和」のパンフレットにも元乗組員である小林健氏の言葉として「君が代」に続いて「海ゆかば」を斉唱し、その後それぞれの故郷に向かって別れの挨拶をしたと書かれていますがそのような場面もありませんでした。「男たちの大和」の監督の佐藤純彌氏は「日中一五年戦争」(パンフレットより)などという言葉を使っている歴史観の人ですから仕方ないのかも知れません。「硫黄島からの手紙」はそんな「男たちの大和」よりはすばらしい映画と思います。


 

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