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中帰連・小島隆男と延安リポート
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
小島隆男氏の例からみてみます。
以下西野留美子著「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」明石書店刊1992年より
<日本に帰ってきてから遅い結婚をし、自分の子どもを育てるなかで、自分たちが犯した罪の大きさを知ることがたびたびありました>
p154
<彼が命令した衛河の堤防決壊事件の事である。山東省西北端の臨清に機関銃中隊長として駐屯していたときのことであった>
p156
<わたしは一九三九年十二月に入隊し、下旬には、第三二師団歩兵第二一二連隊に配属になり、中国の北支山東省に行きました。四一年には少尉になり小隊長に、四三年には中尉になり中隊長として、二百人の兵隊の指揮にあたっていました>
p159
対談の終わりにある参加者の紹介では
一九三九年歩兵第五七連隊入隊(佐倉)、第三二師団歩兵二一二連隊(北支・山東省)
一九四三年中尉
一九四五年ソ連抑留
一九五〇年中国撫順戦犯管理所に移される
一九五六年帰国
その同じ小島氏の証言が「天皇の軍隊」ではどのようになっているか。
以下 本多勝一・長沼節夫著「天皇の軍隊」朝日文庫一九九一刊(単行本の初版は一九七四年)
<「衣」第四四大隊機関銃中隊(隊長・久保川助作中尉)の小島隆男少尉らも、その日の午前中に非情呼集がかかったために、衛河のほとりにかけつけた>
P224
<広瀬利善大隊長や久保川中隊長ら数人の将校たちは、満水の運河を眺めつつ、先ほどから堤防の上を行きつつ戻りつつしていた。
略)
大隊長の命令は久保川中隊長が受けた。作業の実質的な指導は小島小隊長の任務だ>
P225
<大隊長・中隊長や小島少尉(小隊長)らの将校は、そこに堤防決壊後二時間ほどいた>
P227
<一九四四(昭和十九年)年の秋、機関銃中隊(久保川助作中隊長=中尉)の小島隆男小隊長(少尉)以下三〇人は、河北省南端に近い武城県の部落に一時分屯していた>
p311
<「衣」第五三旅団第四四大隊の小島隆男中尉が一時帰国したのは、一九四四年(昭和十九年)の一一月である。
略)
彼は結婚式と新婚旅行を理由に上部に願い出てこの機会を得る事ができた>
p356
注)本多氏の著書では「衣」師団とは、工作隊、通信隊、輜重隊、野戦病院と二個旅団(独立歩兵四一大隊、四二大隊、四三大隊、四四大隊によって構成された歩兵五三旅団と独立歩兵第一〇九大隊(甲府)・第一一〇大隊(麻布)・第一一一大隊(佐倉)・第四五大隊(現地編成)によって構成された五四旅団によって「北支那(華北)方面軍第一二軍第五九師団」として編成されたものとなっています。
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「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」 |
「天皇の軍隊」 |
所属 |
第三二師団歩兵二一二連隊 |
第五九師団独立歩兵第四四大隊 |
一九四三年時の階級 |
中尉 |
少尉 |
結婚 |
一九五六年以降 |
一九四四年十一月 |
西野女史の著書では小島氏は第三二師団歩兵二一二連隊中隊長であり、一九四三年の小島氏のいう堤防決壊の時には中尉として二百人もの部下を持っていた事になっています。それが、本多氏の著書では小島氏は第五九師団独立歩兵第四四大隊機関銃中隊小隊長(少尉)として一九四三年の堤防決壊の時には「大隊長の命令は久保川中隊長が受けた。作業の実質的な指導は小島小隊長の任務だ」とまで書いています。本多氏の著書「天皇の軍隊」でみると一九四四年秋の河北省の作戦時までは小島氏は少尉であり、一一月の一時帰国したときには中尉になっていたことになり、少なくとも中尉に昇進したのは一九四四年秋以降となっているばかりでなく、結婚も「日本に帰ってから」「一九四四年に結婚式と新婚旅行を兼ねた帰国」と結婚の時も違うし、もっとすごいのは、軍人としてのその所属師団、連隊まで違う事でしょうか。つまり、小島氏は同じ時代に二つの人生を歩んで証言している事になります。
まるで、嘘つきばかりの朝鮮人慰安婦の証言なみです。
こんなアホを同じアホの西野留美子氏や本多勝一氏がその著書で取りあげて大騒ぎしています。売国奴つながりというべきでしょうか。活字になるということはそれが残ることだということを考えなかったのでしょうか。西野留美子女史もそれらの発言の矛盾点を調べなかったのでしょうか。まあ、その程度の頭だからアホな事を平気でやっているのでしょう。
こういったアホは他にも多くいて、それを朝日新聞などは重用しています。さすがというべきでしょう。
店でだしている醤油を作るというか、酒とだしを足すだけ。その後、店を片付けてからスポーツセンターにいく。今日もスロートレーニング。効果はあるのか、まだ不明。一応一通りのメニューを消化するが、左肩が少し痛みがあり、かったるい。
どこにもそこのルールを守らないバカはいるもので、ちょっと説教。
店に帰って生ゴミを出してから、最近よくお世話になっている定食屋さんに寄ってから帰る。
支那の日本人捕虜に対しての洗脳の実態
平成20年9月1日月曜日晴れのち一時小雨 ○
<外国を侵略して千万単位の人々を直接・間接に殺し、その結果として原爆や大空襲で自国民の多数をも犠牲にした巨大な戦争犯罪。その責任者らを自らの手で裁かぬまま今なお権力の座におく無責任民族・破廉恥民族は世界に日本人だけである。旧日本陸軍将校・鵜野晋太郎氏は、そのようなかなしい日本にも良心的個人は存在することの証左を示した勇気ある真の「愛国者」といえよう。>
これは本田勝一氏による本の帯に書かれた推薦文です。その本とは「菊と刀」(鵜野晋太郎著 谷沢書房一九八五年刊)ですが、本多氏が「真の愛国者」と絶賛する著者の鵜野氏は一九二〇年支那天津生まれ、一九四二年久留米第一陸軍士官学校卒業し、撫順戦犯監獄より一九五八年八月一九日出獄した人です。
つまり、「延安レポート」にも書かれている典型的な支那共産党による対日プロパガンダや日本捕虜に対する"洗脳的教化”を受けたひとりです。
リポートに書かれているように、優しく接し、教育し、一般の日本兵や日本人が戦争を遂行する指導部を憎悪し、「否定的な厭戦気分から積極的な反戦意識」を持つように教化した。後に支那側の九八人の日本兵捕虜に対し米側が行った「意識調査」では戦争や天皇制を否定する声が九割を超したほどである。
この鵜野氏の著書にもその様子が書かれています。
<頬を熱いものが滂沱と流れ落ちた。K科長の温顔が涙でかすみ、ガッチリした手が私の手を握りしめて何度も強く握って下さった。その上、凶悪戦犯の私のために送別パーティを開いて下さった・・・・。一〇余年ぶりのウマ酒が奔流となって全身を駆け巡る・・・・。指導員、班長(下士官の看守)、軍医、看護婦、炊事長、理髪員の方々が入れ替わり立ち代わり、惜別と励ましの握手、握手、そして握手である。感激で頬がこわばり、涙が次から次へと溢れて来る。お礼をいいたくてもつまって声にならない・・・・。ただ心の中で叫ぶ・・・・。「済みませんでした・・・・。皆様の・・・・中国人民の・・・・毛主席の大恩は絶対に忘れません・・・・。これが戦犯に対する中国人民の心情なのか・・・・オレは一体何なのだ・・・・・オレは生きてる限り何をすべきか・・・中国人民は、被害者の方々はオレを憎まないのか・・・・。どうしてこんなに温かく遇するのか・・・」
略)
長い獄中であげ膳、すえ膳の面倒をかけ、たたかれたことも、怒鳴られたこともなく、いつも笑っているような眼、カラリと明るい雰囲気のどこにも、いわゆる鬼のような看守といった影はなく、控えめに辛抱づよく、私が反抗し悪口をいっても、「戦犯を立ち直らさねば・・・」という思いをこめて、私のような鬼を温かく包み込んでくださったことを、ただ慚愧の念で想起するのである。>P二〜三
すばらしいお言葉ですが、では、そのような大きな心をお持ちのはずの支那人が、戦後六〇年以上たった現在、支那の指導者が「日本には永遠に歴史問題を持ち出せ」「一〇〇年でも二〇〇年でも謝り続けさせろ」と言っているのはどうしてでしょう。
そして、「日本人には何をしてもいい」と言っている支那人が多いのはどうしてでしょう。
このような支那人にだまされ、その手先になって我が国で活動している戯けた売国奴も多いのです。
アホな売国奴を知るネタにしかならない、こんなカスが書いた腐った本が定価三三〇〇円もするのです。古本屋さんでなければとてもアホらしくて買えません。