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朝鮮皇室?復活?

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成18年10月1日日曜日曇りのち雨 ○
 先日あった「ある意味ビックリ」するようなニュースです。まあ、朝鮮ということを考えれば当たり前でしょうか。インターネット上では既にお祭りのところもあります。当店のURAホームページの掲示板もプチ祭りです。

 まず最初に下記のようなニュースがありました。
以下引用
 リアルメートル 世論調査, " イギリスと 日本 のように 我が国も 皇室 あると" 54.4% 50 台 以上 年齢 層序 賛成 意見 62.8%, 男性 見る 女性が 賛成 多くて 我が国 ' 皇室 復元' を 賛成する 国民が 半分を 過ぎる ので 現われた.
SBS ラジオ ニュースエンジョイが リアルメートルに 依頼して 調査した 結果 応答者の 54.4% 街 皇室復元に ' 賛成' すると 返事したし, ' 反対' するという 意見は 30.5% に 止んだ.
性別では 男性 57.3% 路 女性 51.4% 見る 多かったし, 年令別では 50 台 以上から賛成意見が 62.8% 路 仮装(家長) 高い 割合を 見えた.
20 つける 56.8% 街, 40 つける 54.1% 街, 30 つける 42.7% 街 賛成するという意見を 出した.
その間 いくつか 団体で 伝統文化 保存 次元の 象徴的な 皇室嶺でも 主張が あって来たが, 皇室復元を しようという のぼったところ ‘複壁では’この 予想より 高く現われた のは 我が社会が 核家族化 なりながら 現われた 社会 倫理的 副作用に大韓 憂慮 だからだと 調査機関は 分析した.
引用終わり
http://i50523.naver.com/j2k_frame.php/japanese/news.naver.com/news/read.php?mode=LSS2D&office_id=119&article_id=0000011109§ion_id=103§ion_id2=245
そして、その後にホームランとして
以下引用
大韓帝国皇室を復活、皇族会が皇位継承式を開催
http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=382006092900500
【ソウル29日聯合】日本による植民地化のため没落した大韓帝国皇室の子孫が、大韓帝国皇室の復活を宣言した。「大韓帝国皇族会」が29日、ソウル市内のホテルで大韓帝国皇位継承式を行い、義親王・李ガン(1877〜1955)の二女、李海ウォン(イ・ヘウォン)さん(88歳)を30代皇位継承者に推挙するとともに戴冠式を行った。皇族会はまた「文化大韓帝国」の総理大臣として孝寧大君(1396〜1486)の子孫に当たるイ・ガンム聖民大学総長を、秘書室長に南延君・李球(イ・グ)の末裔(まつえい)となるイ・ソンジュ氏を任命した。皇族会は李玖(イ・グ)さん(29代皇位継承者)の他界などを契機に、大韓帝国の末裔ら10人余りを中心に結成されたもの。
 皇族会は「大韓帝国の皇室が日本により侵奪されて100年、祖国の解放から61年となるが、28代英親王・李垠(イ・ウン)の息子である李玖が昨年7月に東京で他界し、英親王家の血筋が途絶えたことから、李海ウォン氏を30代皇位継承者に推挙した」と説明した。李海ウォンさんは女性として大韓帝国皇室を継承し、皇室の代表全権、皇室の維持保存事業権、31代皇位継承者指名権などを持つことになる。
 イ・ソンジュ秘書室長は「今回の皇位継承は大韓民国にも皇室が存在していることを全世界に知らせるためのもの」と話している。皇族会によると、李海ウォンさんは生存している義親王の子女のうち最も序列が高いため皇位を継承することになったとし、女性が皇位を継ぐことも問題はないとしている。
 大韓帝国皇室の末裔が、没落した皇室の再建に向け具体的な行動を起こすのはこれが初めて。皇族会は今回の皇位継承の事実について、政府と海外の皇室関係者に正式に報告するとともに、海外の皇室との交流も進めていく計画だ。
(YONHAP NEWS) - 9月29日17時50分更新
引用終わり

 李朝五一八年の間には二七人の国王がいて、その多くは父子か兄弟が王位を継いだが、新王は旧王の政策を一八〇度変えて世襲せず引き継がないでいた。
 黄文雄氏の著書によると、あの朝鮮という国がどういう国かということを世界中に知らしめた二〇〇二年のサッカーワールドカップで、南朝鮮のサッカー協会会長鄭夢準氏の言葉として「
鄭夢準氏、日本に天皇があるように、南朝鮮政治の安定になんらかの好影響があるだろう、大統領だけなのは悔しいかぎりだ」だそうです。
 それほど国王を朝鮮の人々は慕って愛していたのであろうか。なぜ慕っていた国王を戦後すぐに迎えなかったのでしょう。いや、むしろ国王の帰国を阻んでいたと言う方が正解でしょう。李方子妃殿下のお母上である伊都子妃の自伝には<こちらの悲しみとは裏腹に、朝鮮の李太王には大変お喜びでありました。あちらの宮廷では貴族の中で血で血を洗うがごときすさまじい勢力争いが行われていたのです。選ばれて王妃になるとその一族が力を得て、天下の実権を握るという。李太王はその醜い闘争をよく存じておられ、その上に王世子は日本で大きくなり、勉強もしていることだから、日本皇族の女王殿下をいただければ、宮廷が穏やかに治まるだろうと、大喜びであったというのでした。>と書かれているようで、当時、一五年間李王職宮内官を務めていた権藤四郎介にもこれを裏付ける記述があるそうです。

 戦後、朝鮮王朝を継ぐべき李垠殿下に対して、南朝鮮の大統領におさまった李承晩は帰国を許しませんでした。
 故国に裏切られた李垠殿下は、我国の他の皇室の皆様方と同じようにGHQによる占領政策の臣籍降下により、日本の皇室としての地位も失ったまま、我国で生活を余儀なくされました。そして、戦後のめまぐるしい環境変化などにより昭和三四年に脳血栓でお倒れになる。南朝鮮の英雄である朴正煕大統領よりの温かい手が差しのべられたのは昭和三六年でした。李家の生活費、垠殿下の療養費一切を南朝鮮政府が保証することになったのです。
 南朝鮮に帰国できたのは戦後十八年もたった昭和三八年でした。本当に王室が大切に思い、敬っているのであれば、なぜ今頃なのか。

参考、引用文献 
 「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助著 明成社
 「韓国は日本人がつくった」黄文雄著 徳間書店

朝鮮皇帝2
10月2日月曜日雨 ○

 朝鮮人が無理矢理信じたいと思っていることは、「日本が朝鮮の皇帝を奪った」という大ウソを真実にしたいのでしょうが、歴史を直視できない愚かさです。
 一八九七年二月二〇日に一年間もこもっていたロシア公使館より、宝座を慶雲宮に移しました。そこで国号を「大韓帝国」に変え、自らの称号を国王から皇帝に、王后より皇后、王世子は皇太子に改め、同年八月に元号を支那の暦「建陽」から「光武」に変え一〇月一二日に皇帝即位式を行いました。
 つまり一〇〇〇年属国であった朝鮮には皇帝はいませんでした。一八九五年の日清戦争による下関条約の第一条にて清朝の朝鮮に対する「宗主権」放棄、つまり朝鮮独立の承認を謳っています。なぜ、「朝鮮独立」が明記されているか。それはそれまで朝鮮が独立国でなかったからです。支那の属国だったのです。それが、我が国により独立でき大韓帝国となりました。それが、我国にとって最大の目的のひとつであったからです。
 ところが、大韓帝国とは名ばかりで、実際には旧態依然としており、朝鮮民族の名物である骨肉の争い、内部抗争により政府はロシアにより操られ、英国は巨文島を再占領し、朝鮮はの列強の利権競争などにより混迷を極めます。その時期に内部抗争に明け暮れた愚かな朝鮮王朝は独立国家と呼べるものではありませんでした。大韓帝国は朝鮮民族の自らの愚かさにより我国に併合されたのです。
 日本に対して背信行為を行った朝鮮の王族でしたが我国は絶やしてはいません。
それは当時の列強による植民地における国王の処置と比べても明らかです。
 イギリスは一八五七年、セボイの反乱で王族を皆殺しにし、帝はビルマに流刑。同じく一八八五年、ビルマ国王はどのような目にあったか。帝京大学の高山正之教授はその著書「異見自在」で、英国人はさまざまな手口でビルマ人のアイデンティティーを奪った。十九世紀末には国王以下の王族をボンベイに流刑にして、国民の求心力を奪ったと書き、 国王の娘、誹菴のファヤ王女の消息をほぼ一世紀ぶりにインドの英字新聞ヒンドスタン・タイムズ紙が報じた王家の悲劇にもふれています。
それによると、「王女は英植民地軍兵士の愛人にされて貧困の中で死に、その娘、つまり国王の孫娘ツツは「最貧困層に身を落とし、造花を売って生計を立てている」というひどい状況だそうです。
 フランスは一八八七年、ベトナム最後の帝はサハラ砂漠に幽囚。一八九六年、マダガスカル王は流刑に処しました。
 アメリカは一八九八年にハワイを武力弾圧で併合し、一九〇〇年、ハワイ王家を廃絶し、一市民に格下げしました。
 当然、我国の朝鮮併合そのものについては是非はあってしかるべきですが、ただ、我国は 大韓帝国の王政を武力にて打倒し、武力弾圧して併合したのではありません。併合条約は、王政、閣僚ともそのままで、一九一〇年八月一八日に李完用を首相とする内閣に上程。二二日、閣僚が昌徳宮に閣僚が参内し、午後一時より王族代表、元老代表を交えて午前会議が開かれました。この時病気欠席した学部大臣の李容稙を除いて全員の賛成をもって併合が決定され、それを純宗皇帝が裁可しました。

 明治天皇は朝鮮国王の地位と処遇に非常に御心痛を示された。国王と王室がその宗祀を奉じることのできるよう、毎年、一五〇万円の歳費を李王家に計上し、その親族「公家」に対しては恩賜公債を交付してその歳費の基金に充てられるようにしたのは、すべて明治天皇の御指示であった。
 国王と王室には莫大な朝鮮においての財産もそのままにし、皇室典範を与え、李完用総理をはじめ、侯爵六名、伯爵三名、男爵四五名など七六名に貴族の爵位を与えた。
 そして、明治天皇は当時わずか一〇歳であった垠皇太子(王子)に接するに、何事も我国皇太子いや国家元首に対する礼遇をもってするという破格なものであった。
 垠皇太子が総監で「太子大師」(養育係)でもある伊藤博文を伴って来日(一九〇七年一二月一五日東京着)、最初に皇居に参内したとき(一二月一八日)、明治天皇は垠皇太子を「鳳凰の間」の入口に出迎えている。さらに、入京五日目の一二月二〇日、明治天皇は皇后を伴って、垠皇太子を芝離宮に答訪されている。元首と同等と見なされたのである。
 明治天皇と皇后が、垠皇太子を愛されたのは尋常ではなかった。『明治天皇紀』に記録されている、(新たに購入した)贈り物だけでも次のように、前例のない頻度である。手元にある品々を下賜されたものは記録されていないので不明ですから、それを含めれば大変な数となろう。
 一九〇七年一二月二〇日、御紋付金時計
 一九〇八年二月九日、  蒔絵文硯箱、革製手提文房具入、紫檀書棚
      五月九日、  御紋付銀花瓶、銀香炉、果物一籠
      五月一一日、 クリケット用具、書架
      九月一日、  クリケット用具、活動写真器
      一〇月二〇日、銀製インク台、呼鈴、御紋付蔵六形銀瓶
 一九〇九年四月三〇日、 銀製花瓶、望遠鏡
      七月三〇日、 洋服地、時計鎖、菓子タンス、双眼鏡、旅行用化粧品入れ鞄
      九月二日、  象牙彫刻箱、銀製襟針入箱、銀製桃形香炉、銀製狆棚飾
      一一月二七日 墨画雪中中山水の額
      一二月二三日 西洋菓子入玩具七種
      一二月二七日 飾箱入り西洋菓子、鴨一籠
 一九一〇年一月一日   銀製文房具一揃い、仙舟筆掛物、西洋玩具三種
      二月四日   小鴨五〇羽、野菜一籠
      四月二五日  日本絵具一組、西洋絵具一組、墨絵蒔絵書棚
      七月一二日  膝掛、旅行用鞄、旅行用文具、金鎖付金時計
 一九一一年一月七日   制服地、ランドセル、文房具一式
      二月一日   鳥居坂御用邸の土地・建物の一切
      四月二日   文房具各種、ランドセル、茶褐絨軍服地
      五月九日   果物一籠
      七月一七日  文具入れ鞄、膝掛、ハンカチーフ、双眼鏡、茶褐絨軍服地
      一〇月二一日 洋服地、文房具、テニス用具
 一九一二年一月一三日  果物二籠
      四月二八日  果物二籠
      七月一四日  洋菓子一折(英親王李垠伝より)

 明治天皇からこのような贈物をふんだんに下賜された皇族は一人としていない。皇孫であるのちの昭和天皇ですら想像だにできない。
 垠皇太子は我国において立憲君主としての世界最高レベルの教育を受けられて成長された。そして、梨本宮正王の第一王女である方子女王と御結婚された。
イギリス、フランス、アメリカなど他国と比べてあまりにも違う。ましてや、ロシアであればどうであったであろう。
これらの事を朝鮮の人々はどう思うであろう。

 参考、引用文献 
 「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助著 明成社
 「歴史を偽造する韓国」 中川八洋著 徳間書店
 「韓国は日本人がつくった」黄文雄著 徳間書店


早速、伝統披露
10月4日水曜日晴れ ×
 朝鮮での英雄というと東郷元帥によってやっとその名が知られるようになった可哀想な李舜臣将軍、テロリスト安重根、キチガイ女柳寛順などです。ハングル文字を創出したとされる世宗大王以外の王族の名前はあがってきません。
 反日により、亡国の張本人である閔妃を「国母」と書いて礼讃している朝鮮の新聞などをみると朝鮮人に哀れみさへ覚えます。李朝朝鮮の王族である李王一族の評判は最悪です。
新羅朝では歴代王朝の半数近い二十名以上が非業の死を遂げています。高麗朝、そして李朝においてもこの「伝統」は脈々と受け継がれています。
 李朝朝鮮の建国の祖である李成桂は、高麗王朝の最後の王である恭愍王父子を絞殺し、王と血縁関係にある者はすべて殺害しました。そのようにして成立した李朝は大祖となった李成桂の王子による殺し合いがあり、その後も李朝五〇〇年の歴史は残虐な抗争のたえない時代です。

 先日、日記に書きました皇帝復活につきましても早速この「伝統芸」が演じられているようです。
以下引用
◆「大韓帝国の女性皇帝」をめぐって雑音
 先月29日に開かれた李ヘウォン(88・女性)皇孫の大韓帝国30代皇位承継式に対して、「わが皇室愛の集まり」「大韓皇室再建会」「全州李氏大同宗約院」など皇室関連3団体が反対した。
 皇位承継式の直後、インターネットのポータルサイト「ダウム(daum)」に開設されたインターネットカフェ「わが皇室愛の集まり」には戴冠式が行われた後「皇室は国民からさらに遠のいた」「勝手に行われた戴冠式などとんでもない」という内容が続いた。

 わが皇室愛の集まりは2001年、大韓皇室の象徴的な復元を希望する人々が作った集まり。
抗議文が相次ぐと、わが皇室愛の集まりは先月30日に公式声明を出し「29日に行われた戴冠式は『皇族会』という正体不明の団体が李ヘウォン皇孫を口車に乗せ、皇族の意見収集なしに行った」とし「正体不明の『大韓帝国皇族会』は皇室を笑いものに転落させた責任を負い、組職を解体せよ」と主張した。

大韓皇室再建会も「大韓帝国皇族会は皇族全体の立場をとりまとめず、李ヘウォン皇孫の推戴を強行した」とし「皇族の分裂を助長する特定人物中心の皇室運動は避けなければならない」と明らかにした。
 運営者の李ジョンヨプ(32)氏は「昨年7月、李ウォン皇嗣孫(皇室を引き継ぐ子孫)を皇位承継者に推戴したことに反対する勢力が中心となり、大韓帝国皇族会を作ったものと聞いている」と話した。

 一方、全州(チョンジュ)李氏大同宗約院も2日に声明を通じ、嫡統が李ウォン皇嗣孫に移った状況で、李ヘウォン皇孫を再び推戴した大韓帝国皇族会を批判した。
これについて、大韓帝国皇族会の李ソンジュ・スポークスマンは「今回の戴冠式は乱れた皇孫の秩序を正そうとする李ヘウォン皇孫の意思で進められただけ」とし「皇位継承は堂号を受けた皇孫の同意さえあれば、大同種薬院など他の団体の意見は求めなくても良い」と反論した。
引用終わり
東亞日報
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2006100396248
 
 すばらしい伝統芸です。さすが、李朝五〇〇年の歴史です。戦後、どうしてすぐに李朝国王が復活しなかったか、その歴史的背景も考えずに復活、復活と騒ぐバカさ加減。
死ぬまでやってろという感じです。
あほらし。

 裏表紙