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朝鮮と徴兵・徴用
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
(日本タレント名鑑より)
以下、特に表記のない場合は井筒和幸氏の著書「民族の壁どついたる!」(河出書房新社刊)より引用
<一九四三年になると、朝鮮で徴兵制が施行されました。もうこれは強制連行していいよ、ということです。ハードなやり口で、朝鮮から人間を集めては労働の現場に送り込んでいきました。>p六七
<一九三八年から陸軍特別志願兵令というのが出ていて、朝鮮人の青年に対して志願兵になるように募集はしていましたが、日本人として日本のお国のために戦いますなんという朝鮮人は、よほど珍しかんたんじゃないですか。お金のためにしようがなくとか、そういう人はいたでしょうけど。それがもう一九四四年には強制的に徴兵ですから。>P一二七
引用終わり
こいつはホンマのアホです。
下記のデーターをどう見るのでしょう。
朝鮮人陸軍特別志願兵の朝鮮人志願状況
? | 採用数 | 応募者 | 倍率 |
昭和一三年 |
四〇六 |
二、九四六名 |
七・七 |
昭和一四年 |
六一三 |
一二、三四八名 |
二〇・一 |
昭和一五年 |
三、〇六〇 |
八四、四四三名 |
二七・六 |
昭和一六年 |
三、二〇八 |
一四四、七四三名 |
四五・一 |
昭和一七年 |
四、〇七七 |
二五四、二七三名 |
六二・四 |
ましてや「労働の現場」って、あんたそりゃ、徴用?
朝鮮半島・台湾における陸軍特別志願兵制は昭和一三年四月、海軍特別志願兵制は昭和一八年五月に実施されていますが、朝鮮半島における徴兵制は昭和一七年五月に発表されたが、実施は昭和一九年四月、つまり一九四四年です。
名越氏の著書「日韓共鳴二千年史」には、その朝鮮の志願兵の事も掲載されている。
以下引用
朝鮮総督府情報課が編纂した「新しき朝鮮」には、志願兵李仁錫上等兵(昭和一四年三月二二日戦死)の逸話が掲載されている。
略)
これが最初の朝鮮人志願兵の戦死を伝える記事である。彼は第十一軍(岡村寧次中将指揮)による南昌攻略「仁号作戦」における日本軍戦死者五〇〇余名のうちの一人と推定される。
昭和一八年一〇月二〇日、「昭和一八年度陸軍特別志願兵臨時採用規則」(陸軍省令第四八号)による「中等学校卒業程度ヲ入学資格トスル修業年限二年以上ノ学校ニ在学スル者」の志願兵制度が施行された。
これによる朝鮮出身者の学徒兵最初の戦死者は、佐賀高等学校を卒業し、京都帝国大学法科に進み、一回生で志願して、昭和一九年一月二〇日入隊、北支で鉄道警備に当たっている際に敵と交戦、戦死した光山昌秀上等兵である。彼は戦死後、二階級特進とされているので、戦死時は二等兵であった。それでも時の小磯国昭朝鮮総督府総監は、自ら光山家に出向き霊前で合掌したと報じられている。残念ながら彼の本名、詳しい戦死日時、場所は不明である。
これ以後も、昭和一八年に朝鮮総督府陸軍志願兵訓練所で四カ月の訓練を受け、翌一九年一二月一四日、ビルマ戦線で爆雷を抱いて敵陣地に突入し、戦死を遂げた朴村官彬上等兵が、個人感状の光栄に欲した事などがハングル文字の新聞に大きく報道されている。
略)
イワラジ河畔の都市バーモにおいて三〇倍もの重慶政府のインド遠征軍に包囲された原支隊(原好三大佐指揮)が、第四九師団「狼」と第五六師団「龍」の精鋭三〇〇〇名とによって救出された際の「狼」師団の歩兵であったと推測される。
引用終わり
「日韓共鳴二千年史」P四四一
このように多くの朝鮮の人たちも日本人として立派に祖国を守るために戦ったのです。
その中には、朝鮮人最初の金鵄勲章を賜った金錫源大佐(朝鮮名のまま)、特攻隊として散華された朝鮮人の方々など二四万二千三百二十一人もの朝鮮の方々が大東亜戦争中に、軍人および軍属として戦い、二万二千百八十二人の方が戦死、戦病死されました。当時は日本ではあったとはいえ、台湾の方々ともに戦い、尊い犠牲を払ってくださったのです。
それを、井筒氏のように「日本人として日本のお国のために戦いますなんという朝鮮人は、よほど珍しかんたんじゃないですか。お金のためにしようがなくとか、そういう人はいたでしょうけど。」と書くことはこのような先人の行動をも歪め、辱めていることになるのです。
ちなみに、先に書いたように朝鮮半島における徴兵制実施は昭和一九年であり、訓練中に終戦となり、朝鮮半島の徴兵制による兵士はほとんど戦場には行っていない。