このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

反日活動家・内海愛子

在日朝鮮人の嘘 闇市支配、言葉狩り 

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


内海 愛子(うつみ あいこ、1941年 - )恵泉女学園大学人文学部名誉教授。
1941年東京都生まれ。1967年早稲田大学文学部卒業。
1991年、「韓国・朝鮮人BC級「戦犯」に対する謝罪要求」運動により、多田謡子反権力人権賞を受賞。
2005年、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会の運動を支援する組織強制動員真相究明ネットワークの共同代表となる。
現在、恵泉女学園大学名誉教授、早稲田大学大学院客員教授(日本アジア関係論)。特定非営利活動法人アジア太平洋資料センター理事。


12月9日金曜日 晴れ × 平成18年1月13日URA掲載
 昨日までこの日記に引用させていただいた「正論」八月号に掲載された浅川氏の論文の中の<筆者は、当時の在日朝鮮人には、基本的には反対がなかった、いやむしろ、占領体制下で、敗戦国民である日本人よりも上の「第三国人」というステータスを前提に、無法活動を繰りひろげてきた経験から、日本国籍付与にこそ反対であったのではないかと推測する>という部分は当時の在日朝鮮人が敗戦国である我が国に留まり、どのような行動を取ってきたかをよく現しています。

 戦後の在日朝鮮人の醜い行いについては多くの証言が残されています。それは手許にある『朝鮮人差別とことば』という本の中にも幾つか掲載されています。それらを統べて朝鮮人差別としているところは何とも凄い思想ですが・・・・
せっかくですから、それを御紹介させていただきます。
 在日朝鮮人などの戦後における行いについての証言
 @中内功ダイエー社長(当時)
<「その当時は、神戸は第三国人によって支配されていまして、主に台湾人、韓国人ね」『ビックマン』1983年1月発行第三巻第1号

 A野坂昭如氏
 <「・・・・当節風表現をつかうが、P中の生徒だけでなく、あっちでなぐったり、蹴ったりしてきたはず、これについては反省せず、まったく得手勝手、あえていうが、闇市時代の三国人が、よくこういった理屈をふりまわした」(週刊朝日1978年7月14日号)>

 B椎熊三郎国会議員
<「朝鮮人は、すべてのやみ市場活動の中核をなし、またかれらの無法な行動は今日の日本のすべての商取り引きや社会生活に影響を及ぼしている。かれらは警察をはばからず、輸出入禁制品の取り引きを誇示し、またなんらの税もはらっていない。流通新円の三分の一は今やかれらの手中にあるとの風評がある。石橋湛山大蔵大臣は一週間前、国会で500億の流通円の中200億円は『引き揚げずに日本に残っている第三国人の手の中にあると述べた。(略)事実、大阪・神戸においてはすべての露店・飲食店は朝鮮人・台湾人の手中に帰したといわれている」国会に於いての演説より1946年8月17日)>

 C毎日新聞
<「日本にいまいる朝鮮人六十万人の資産は、動産千五百億円、不動産千五百億円といわれる。戦前はほとんどゼロに近かったのだから、まるでデン助トバクみたいなものだ。戦後数年間の混乱時代が便利な暗室になって、ぐあいよく手品のタネをかくしている。いまになって日本人からビルを買い取り、大工場をおこし、派手なキャバレーやパチンコ店を経営している朝鮮人の話が”不思議な物語!として町に伝えられるだけである。しかも、この物語はどれもこれも、戦前のみすぼらしい状態と、戦後のにわか成り金ぶりが伝えられるだけで、かんじんの開運のキッカケはボカされてしまっている。
略)
 どうして彼らが金づるを握ったのだろう。このナゾをとくためにもう一度終戦直後のことを思い出してみよう。
”もう日本人じゃあない”日本降服の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人たちだった。彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこれられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。米でも衣料でも砂糖でも”モノ”が不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに”モノ”を動かした。当時絶対に手にはいらなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウイスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買う事ができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主にそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持ちが続々と生まれていった。完全な無警察状態ー。そのいい例が二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身元がわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって枝川部落に出かけたところ、部落民から逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという」
1956年6月『白い手黄色い手ーー日本人の財布は狙われている』より>

 このような証言、記事も反日日本人にとってはそうではないようです。
内海愛子女史は『朝鮮人差別とことば』の中の同じ章で下記のように書いています。
D以下引用
 こうした悪意に満ちたマスコミ報道は、「第三国人が闇市を牛耳っている」とのイメージをつくりあげ、新たな差別を生んでいく。
略)
 政府、警察、マスコミが一体となった、こうした朝鮮人の生きるための闘いへの弾圧と悪意に満ちた宣伝は、俗耳に入りやすい。日本人が植民地時代から抱いている朝鮮人に対する抜きがたいまでの偏見に、新たな反感に満ちた思いが加わり、「第三国人」という言葉が、朝鮮人にむかって、攻撃的に投げかけれらていく。
引用終わり
 
 ただ、事実、証言を書いているだけであるのに、どうしてこういう考え方になるのでしょう。それには続いて書いてある女史の文章が教えてくれているかも知れません。
E以下引用
 一九四五年八月十五日は日本人にとって敗戦の日であっても、朝鮮人にとっては、日本植民地支配からの解放の日であった。だが日本人の多くは、このことを理解できなかったばかりでなく、「アメリカには負けたが、朝鮮や中国には負けたんじゃあない」と考えていた。こうした敗戦によっても殆ど変わることのない日本人の朝鮮(人)に対する考え方は、敗戦による混乱の中で、たくましく活気にあふれた在日朝鮮人の活動に対する反感を生み、非難、中傷を生んでいっったのである。
 打ちひしがれた日本人が「解放国民」となった在日朝鮮人に対する反感、蔑視などさまざまな感情をこめて「第三国人」ということばを使っていったのである。
引用終わり

 以上この項は『朝鮮人差別とことば』内海愛子、梶村秀樹、鈴木啓介編 明石書店1994年刊よりそれぞれ引用
@P7
AP112
BP121
CP122〜125
DP125〜126
EP126〜127

 どう考えれば、このような考えが導き出されるのでしょう。
つまり、暴力を振るったり、泥棒をしたりした在日朝鮮人は悪く無く、それらは「たくましい活気にあふれた活動」であって、日本人の朝鮮人に対する考え方が悪い・・・・・

絶句・・・・・・

「アメリカには負けたが、朝鮮や中国には負けたんじゃあない」って事実ですし、ましてや、朝鮮とは戦っていません。(まさか、戦った相手とは上海にあったとかいう売春を生業にしていた朝鮮独立政府の事?)

 この内海愛子というひとは現在もあっちこっちで反日活動に余念がありません。

 在日日朝鮮人、進歩的文化人のみなさまは言葉狩り、そして事実を隠すのがお好きで、同じく『朝鮮人差別とことば』に掲載されていた梶原一騎・矢口高雄両氏と少年サンデー編集部への抗議文にもそれがみられます。この抗議文は「おとこ道」というマンガの中で朝鮮人が敗戦後の我国でやってきた非道を描いたものに対しての抗議文ですが、この抗議文が一部の歪んだ在日朝鮮人の人たちの精神性をよく表しています。
以下引用
<敗戦当時、日本に居住していた在日朝鮮人・中国人は、植民地支配と侵略戦争によって
強制ないしは、なかば強制的に日本に連行されて来た人たちとその子供たちで、日本帝国主義の犠牲者以外のなにものでもない。
 この
日本の犯罪的な歴史の創造者は、朝鮮・中国人の手によって、裁かれてもやむえない状況にあったのだ。当時の在日朝鮮人・中国人のごく一部の人の一時期の行為を、具体的な歴史から切断し(このような行為とは異質な運動が現存している事実も含めて)「第三国人」つまり、在日朝鮮人・中国人のすべてがそうであったかのように描き、かつ「敵」と設定している。
略)
 このような劇画が、
充分な歴史認識をもたない青・少年に、広く流布されていることは、いかなる名分(フィクションだとか表現の自由など)を主張しようと容認することができない。理由は、すでに指摘したようなデタラメ極まる内容が、主な読者である青・少年にどのような影響を与えるか、与えているかということである。植民地支配はおろか、ここに記述されている敗戦後の体験すらもたない日本人高校生が、朝鮮高校生に、白昼公然と集団で暴行を加えてはばからない現実は、まさに「おとこ道」にしるされている思想と行動が、下敷きになって実行され、再生産されているということにほかならない。
略)
日本朝鮮研究所運営委員会
引用終わり
『朝鮮人差別とことば』内海愛子、梶村秀樹、鈴木啓介編 明石書店1994年刊 P136〜139

 ちなみに「おとこ道」にしるされている思想と行動とは特攻隊くずれの男たちが、「男子たるもの、肉体の死をおそれるなかれ、魂の死こそおそれよ」「右のスローガンのもと第三国人を相手どって凄絶の死闘を敗戦下の東京にくりひろげた”相馬組”血の抗争史はかくて幕を切っておとす」(少年サンデー1970年8月30日号P64)
だそうです。それに対しての抗議文の内容はまさに天に唾するもの以外の何ものでもないでしょう。

そのままお返しさせていただきます。

 普段、在日朝鮮人の人たちが朝鮮学校などの民族学校で子供たちに教えている歴史などの内容はどうなのでしょう。もちろん、南北朝鮮国内の歴史、思想教育についてはどうなのでしょう。

アホらし過ぎます。
在日朝鮮人のつく嘘6 言葉狩り2
12月11日日曜日曇り ○

 昨日の続きです。
 この後もこの日本朝鮮研究所運営委員会と名乗る厚顔無恥な団体は、小学館の少年サンデー編集部あてに下記のような抗議文を出しました。
以下引用
略)
 あなた方の回答文の、最後の一つの論拠は、「劇画の中に戦後の一風俗を表現しただけ」ということである。また、直接の面会のさい、しばしば「あった事実を客観的に描いて何がわるい」「あなた方は事実にふれるのをタブーとするつもりなのか」などと発言があった。これをわれわれはそのつど反論したのに回答文ではまたも平気で同じ事をくり返している。いったいこれはどういうつもりなのか? われわれは、もとより、真実をおおいかくし、タブーを作れと強要するように曲解されるようなことをいった覚えは全くない。略)
 あなた方はあった事実を客観的に描いただけというが、それならほかに無数にあった事実をとりあげずにどうしてこの事実だけをとりあげたのか? 無数の事実の中から特定の事実のみをとりあげた主体的責任はあくまでものを書く人間、編集する人間がとるべきだ。それを回避するつもりなのか?
 あなた方がもし、あった事実を否定的にとらえ、今日において二度とくり返さないための歴史的教訓として受けとめようとするなら、今日においてなお日本社会に濃厚に存在する朝鮮人に対する制度的、日常感覚的差別こそ否定的事実の根因をなしていることこそ、つまり日本人の側面の加害をこそまず問題にしなければならないはずである。
略)
引用終わり
『朝鮮人差別とことば』内海愛子、梶村秀樹、鈴木啓介編 明石書店1994年刊P149〜150

ウ〜ン、ヤクザ以下のいかにも頭の軽そうな言い掛かりです。さすがと言うべきでしょうか。
<われわれは、もとより、真実をおおいかくし、タブーを作れと強要するように曲解されるようなことをいった覚えは全くない。>
シャレでっか。
<無数にあった事実をとりあげずにどうしてこの事実だけをとりあげたのか?>
って、すべての事実を取り上げたマンガって無理でっせ。

この団体さんはこのあとも面白い自爆をおもいっきりやってくれました。

 少年サンデー編集部に在日朝鮮人団体が送った抗議文がこれまたアホな言い訳と大嘘ばっかの内容で受けます。ちょっと長くなりますが、面白いので引用させていただきます。どうぞ、そのアホさ加減と大嘘を笑ってやってください。
 引用は『朝鮮人差別とことば』内海愛子、梶村秀樹、鈴木啓介編 明石書店1994年刊 P149〜152よりです。

以下引用
 <私たちは、確かに一九四五年八月十五日から、
わずか一〜二年の間、解放された朝鮮人の一部が単にその立場を利用して、戦後日本の経済混乱下の民衆生活にとって必須の存在であったヤミ市に登場したことを知っている。強制連行で見ず知らずの土地に連れてこられた末、敗戦とともに閉鎖的な日本社会の中にほうり出されて生きていかなければならなかった朝鮮人にほかにどういう場所があったろうか?>
(ハイ、まず、ここで、もうブ−ですね。このあとも女々しい言い訳と嘘が続きます)←店主の声

 <また、そのような場面での日本人との接触にさいして、なが年おさえつけられてきた日本人に対する反感、つもりつもった恨みをはらす感情が単純に表現されたことが確かにあった。つみ重ねられた人間歪曲強要の歴史を本当に知るなら、もしそういうことが全然なかったら全くふしぎなことであることが分かるだろう。少なくとも、もし全く同じ状態に日本人がおかれたばあい、どうしたろうかをきちんと答えなければならない。
 しかし、解放後の在日朝鮮人の全てが、上のように日本人に対して単純に報復の感情を爆発させたのではないどころか、むしろ歴史の重さに比べて驚くほど少なかったことが分かるだろう。
一九二三年関東大震災において日本人は何のいわれもなく六〇〇〇人余人の在日朝鮮人を殺した。一九一九年三・一独立運動を弾圧して少なくとも七五〇〇人を殺した。教会堂に全村の男子を集めて門を閉じ石油をかけて火を放った。一九二〇〜二十一年、琿春で少なくとも一万人の朝鮮人農民を殺した。これで全部ではないのだ。軍閥が組織したといっても直接手を下したのは、これに屈服・加担したわれわれ「庶民」であった。「血債は正確に返さなければならない」とすれば、どうなのか? あった事実を客観的に書いたまでだというのなら、あなた方はこのはるかに沢山の事実を何故罪として描かないのか?
 これに対して、
敗戦時に、朝鮮において単純な報復を受けた日本人が驚くほど少なかったことをあなた方は知っているのか?>

(ここまでも、朝鮮人らしい大嘘ばっかですね)←店主の声

 <ましてGHQや日本の官僚機構がなくなってしまったのではない日本ではさらに少なかったことを知っているのか? 解放前、日本人植民者に無理やり手ごめにされた朝鮮の婦女子の数がどれだけ多かったかあなた方は知っているのか。さらに日中戦争中に日本軍隊が強制的に前線につれていって兵士のなぶりものにした朝鮮の婦女子がどれだけの涙を流し人間として屈辱をうけたか知っているのか? もし知っているのなら何故そのような事実を怒りをこめて描かないのか? もし知らないか忘れてしまったとしたら、それはどういう理由なのかおききしたい。

 具体的に当時の在日朝鮮人や中国人は、自己の意見・自己の主体的判断で日本への渡航を選択し、さらに自己の選択で、あのような残忍な労働条件に服し、傷つき死んでいったとでもいうのか? この間、朝鮮人や中国人の選択の余地は全くなかったといってよいのだ。もし日本帝国主義者の意向に反する選択をしたら、それは文字どおり死を意味した。そういう抑圧に耐えながらに本の敗戦を迎えた。そしてごく少数の人間が、ごくわずかの期間「おとこ道」に描かれているような行動をした。あなた方に聞きたい。もし完全に強制的に外国に連行され、たえず蔑視といわれなき嘲笑を浴びながらドレイ的労働を強要され、多くの仲間が傷つき倒れていったとしたら、その外国のあなた方を苦しめた支配権が倒れたとき、あなた方はどのような態度をとるか?>
引用終わり

 いかがでしょう。普通、ここまで開き直るだけでは無く、大嘘を列記してくるでしょうか。
 朝鮮人強制連行についてはすでに多くの方々がその嘘について指摘され具体的な反証をされています。戦時売春婦についてもそうです。そして、李朝時代には40%が奴隷でしたから多くの朝鮮人には人権などというものはありませんでした。そういった多くの朝鮮人は我国と併合した結果、初めて人間らしい生活ができるようになったのです。
朝鮮で差別されていた済州島出身の在日朝鮮人の人たちがどうして多いかを考えればわかることですが、併合した後もよりよい生活を求めて多くの朝鮮人が渡航してきました。そして、戦後に内外においてはソビエト軍の蛮行が有名ですが、朝鮮人の醜い行いも数多くありました。

 でも、ある意味私的には受けたのは下記の部分です。
以下引用
 <あなた方は、差別する意図はないという。それでは、身体不自由者の不自由な箇所をあげへつらって笑いの種にし、劇画にして出版したとして、当事者から抗議がよせられたとき、「身体不自由は客観的事実を表現したまでであって、抗議文のような意図はありません」と答えるのか? 身体不自由になりたくてなった者があるか?>
引用終わり
 朝鮮において身体の不自由な方がどのような扱いを受けているか、この抗議文を書いている人は分っているのでしょうか。ましてや、このような事を書く事じたいがこの人の心の卑しさがよく現れています。
 


裏表紙にもどる

酒たまねぎやホームページ