このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ
大空に散った笑顔
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成17年1月18日火曜日 平成18年1月1日日曜日 追記訂正
今年は新しい日記だけでなく、URAホームページの過去のそれぞれの項目を追記、訂正などしながら少しでも充実させていきたく思っています。
その第一弾として、今日、部屋にて新聞の切り抜きなどを整理していて、昨年一月十八日に一度日記に書いたことのある産経新聞の引用記事ですが、私にとり昨年で一番記憶に残った記事です。それについて、もう一度どうしても追記しておきたいところもありますので、改めて追記そして引用させていただきます。昨年の一月十八日の日記をどのように追記、訂正したか比べていただけるとありがたいです。
平成十七年一月十六日日曜日の産経新聞に「大空に散った笑顔」と題して、旧陸軍整備隊長だった関忠博氏の文章と関氏が写し、戦後、靴底に隠し台湾の収容所から持ち帰った特攻隊員の写真が掲載されていました。
写真は、昭和二十年四月二十二日に二式複座戦闘機「屠龍」にて出撃する直前に写した、日の丸の鉢巻きをし満面の笑みを浮かべる飛行兵十四名の写真です。
この写真に写っている「陸軍特攻誠第百十九飛行隊」(指揮官 竹垣全少尉)は志願者を募って台湾で編成された十八〜十九歳の少年航空兵出身者十人と学徒出陣してきた二十三、二十四歳くらいの四人だったそうです。
関氏は旧に本陸軍航空整備学校を卒業後、教官として第三練成飛行隊に所属、昭和十九年五月に台湾に渡ります。
整備隊長としての指導のかたわら、隊員たちと日々語り合った関氏によると「彼らには不思議なほど悲壮感はなく、全員が実に冷静に死について考えていた」と振り返ります。
出撃までは軍規の拘束を受けない自由が与えられていたそうですが、隊員たちはあまり外出せず、家族や故郷のある日本を守るには、「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」と語っていたそうです。
出撃は昭和二十年四月二十二日。最後の姿を残してあげたいと、出撃前の午前八時ごろ、台湾北部の桃園飛行場の滑走路近くで隊員たちがそろった場面を撮影しました。これが彼ら十四名の最後の写真となりました。そして、死を前にしても、全員が笑みをたたえていたのが印象的だったと関氏は語っています。
そして、午前十時頃、二式複座戦闘機「屠龍」十四機に隊員らが乗り込み離陸。離陸後間もなく海に落ちた一機のみをのぞき、飛行隊は石垣島に立ち寄って五百キロ爆弾を積み、沖縄本島周辺で米軍の巡洋艦と貨物船とみられる船を一隻ずつ撃沈しました。しかし、米軍から猛烈な機銃掃射に遭い、途中で撃墜された機も多かった。
私の手許にある「写真集特別攻撃隊」(昭和五十五年国書刊行会)の陸海軍特攻隊戦没者名簿によると下記の九名の方々のお名前が確認されました。
四月二十二日 出撃方面 粟国島南西方
竹垣 全 少尉 (幹七)
溜 洋 少尉 (幹八)
岩上 要 伍長 (小十三)
永久 要 伍長 (小十三)
山本 茂 伍長 (小十四)
4月28日 出撃方面 久米島西方
中村 潤 少尉 (幹八)
小森 興彦 少尉 (特操二)
木原 正喜 伍長 (小十三)
山沢 四郎 伍長 (小十三)
(屠龍は特攻用襲撃機に改造され「二式双龍」といわれました。同誌にも搭乗機としてその名前が使われています)
ここで、日本陸軍と海軍との航空機特攻の違いについて書きたく思います。
陸軍の場合は、上陸地付近にある攻略船団を目標としていたため、目標発見は容易であるため、この復座戦闘機である屠龍でも操縦者一名としました。「陸軍特攻誠第百十九飛行隊」十四機の場合は十四名の特攻隊員です。
それに対して、海軍は敵機動部隊とくに空母を目標とし、広い洋上にある目標を発見するのが大前提としていましたので、艦爆、艦攻などの多座機には座席数に応ずる人員が乗り組みました。
特攻隊とは自らが操った飛行機などを、敵艦船などに激突することにより、大きな戦果をあげようとするものであり、そのためには、如何に確実に敵艦などに体当たりをすることができるかを目的としたまさに生還などありえない必死の戦法です。
自らの志願によるものであるが、作戦の実行は命令によるものであり、組織的なこのような悲痛極まりない戦法は歴史上例をみない。
特攻隊は、その性格は国を思い、自らの身を国に捧げるために志願した者たちであり、その中から選ばれたリーダーを有する殉国同士の集団といえるもので、表面的には一般軍隊徒同じように、隊名、隊長が定められているものの、特攻隊の隊長には人事、教育、賞罰などにかんする統率権がない。司令部が特攻隊を直接掌握していたために、現地部隊との関係は極めて薄く、人事記録が乏しいといわれている。
終戦後、関氏は台湾での収容所生活を経て昭和二十一年三月に復員しますが、その時に基隆(台湾北部)を出発する際には写真や光学機器、時計を持ち帰ることが禁止されましたが、「この写真は何としても残したいと思い、靴底に隠して、検査をすり抜けた」
こうして隊員たちの笑顔だけ、本土に持ち帰ることができました。と記事にあり、ここまでパソコンのキーをたたいていて涙がでてきました。
そして、関氏は戦後の日々を「彼らに生かしてもらっている」という感謝と申し訳ない気持ちで過ごしてきた。
「戦争の勝ち負けは関係なく、特攻隊員が純粋に国を思い、犠牲になったからこそ今の日本がある。時間がたっても笑顔は色あせていない。この写真を家族に届けたい」
と語っています。
この関氏の「生かされている」という言葉と、特攻隊員の方たちの何か覚ったような神々しいとまでいっていい言葉と態度は他の文献などでもよく出てきます。
このような作戦を必要以上に美化することも、他にも書きましたように、元毎日新聞記者の古川利明氏のように特攻隊の純粋な国を思う気持ちを醜く歪めて伝えることは先人を屈辱することであり、決して許されることではありません。ただ、まさに必死である特攻という戦術についてはいろいろ言われていますが、この時代に我が国、故郷、親兄弟、同胞を守る為に散華された先人がいた事は事実です。国を守ろう、家族を守ろうと自ら進んで準じた先人の事を忘れてはいけないと思います。
そして今、その先人が自らの命を捨ててまで守ろうとした国に日本はなっているのでしょうか。自らを捧げてくれた先人が誇りに思ってくれる国になっているのでしょうか。