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特攻隊にみる日本人の死生観
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成17年7月27日水曜日晴れ 台風一過メチャ暑い
右の写真を見ていただきたい。これは、写真集「特別攻撃隊」(国書刊行会昭和55年発行)に掲載されている写真です。この写真の特攻隊員、機付兵の方のお名前はお二人とも不明ですが、写真のキャプションとしては
<この点景、あまりに日本的、あまりに美しくそして悲しい。死に臨むものそして断腸の想いをもって送る者、共に風雅の心を失わなかった。それが日本人であり、その心根、今日も失われていないと信じたい。>となっています。
これとともに、先の本「いざさらば我はみくにの山桜」に掲載されていた三名の特攻隊員の方をぜひ紹介しておきたく思います。
時任正明海軍大尉
(中央大学)昭和二十年四月六日、神風特別攻撃隊「第一早薙隊」隊員として「九九式艦上爆撃機」に搭乗、第二国分基地を出撃、南西諸島洋上にて戦死。
時任少尉(後に二階級特進にて大尉)は出撃前夜に御実家に連絡をとっている。
「国分の息手さんから電話です」役場の小使いさんの呼び出しに、時任少尉の、両親、祖母、姉は役場へ急行する。出撃前夜、第二国基地から時任少尉最後の電話だった。
父「正明か、征っておいで、家の事は何も心配いらない。立派に戦っておいで、成功を祈る」
母「正ちゃん、いよいよ征きますか。元気で征ってください」
姉「正ちゃん、元気でお征きなさい。心残りなく戦って下さい」
思い思いの声が受話器にすがる。
父「おばあさん、これが正明の最後の電話ですよ。・・・・・よく聞いておきない。涙声を出さないように・・・」
促されて祖母は生まれて初めて受話器をとった。
祖母「正ちゃん、明日発ちますか。行っておいで。そして元気に帰っておいで・・・・」
後は言葉にならなかった。
いよいよ明日は征く孫。精一杯励ましてはみたものの、二十余年育んだ断ち難い孫への愛着が、叶わぬ望みと知りながら「元気で帰っておいで」と言わせたのであろう。電話はきれた。零時半だった。
家に帰り、大急ぎでご飯を炊き、おにぎりをつくり、身支度をして午前二時、両親は家を出た。
幼子を抱えた姉と祖母は家に残った。眠られぬまま夜が白む。姉は国分の方角に手を合わせ、はるかに門出を祝し、武運を祈った。
略)
夕方帰宅した、両親の眼の輝きに姉は驚く。「出発十五分前、機上の正明に会えた」ことを伝える輝きであった。
略)
ようやく飛行場に辿り着いた。11時15分だった。
次から次へ離陸する飛行機。もうもうたる砂塵であたりに人も見えず、眼も開けられず、気ばかりあせった。
何人かの人に尋ねて広い飛行場を走り回り、最後は親切な方々に手を引かれ、ようやく時任少尉機の側に駆けつけることかできた。
父「正明!」
正明「はい、お父さん。来られましたか」
父母「よかったね、元気で征きなさい」
正明「有難う。お父さん。お母さん。お体を大事に。おばあさん、お兄さん、お姉さんによろしく。近所の方にもよろしく」
正明「何も思い残すことはありません。喜んで征きます」
ニコニコ顔で答える時任少尉に、両親は吾子でありながら神の子のような思いで心の中で手を合わせた。
死を前にして送る者、送られる者、まして両者は親と子。その胸中いかばかりであろう。私たちは言葉を知らない
穴沢利夫陸軍大尉(中央大学) 昭和20年4月12日、特別攻撃隊「第二十振武隊」隊員として一式戦闘機「隼」にて知覧を出撃、沖縄洋上にて戦死。
「にっこり笑つて出撃した」(当時、知覧高女学生で、出撃を見送った前田笙子さんの日記)穴沢少尉(後に二階級特進で大尉)は、白い飛行マフラーの下に婚約者の智恵子さんから贈られたマフラーを締めていた。「神聖な帽手や剣にはなりたくないが、替われるものならあの白いマフラーのように、いつも離れない存在になりたい」
穴沢少尉は彼女の一途な思いに、このマフラーを彼女の身替りとして、肌身につけ出撃する。
婚約者へのご遺書の中に「今更何を言ふか、と自分でも考へるが、ちよつぴり慾を言つてみたい」と三つあげている。「一、読みたい本」として「万菓」「旬集」「道程」「一点鏡」「故郷」を挙げ、「二、観たい画」としてラファエルの「聖母子像」と芳岸の「悲母観音」を挙げ、そして「三、智恵子」とあり「会ひ度ひ。.話したい。無性に」とあった。
ご遺書は最後に「今後は明るく朗らかに。自分も負けずに朗らかに笑つて征く」と締めくくられていた。
その日、穴沢少尉は、桜を打ち振り見送る前田笙子さんら女学生に、軽く手を挙げ笑みを返して飛び立って征った。
戦後の長き年月、婚約者智恵子さんの生きる支えになったのは、穴沢少尉の日記に記された次の言葉である。
「智恵子よ、幸福であれ。真に他人を愛し得た人問ほど幸福なものはない」
一度は見た事のある、桜の小枝を打ち振る知覧高女の女子学生に送られての隼の特攻隊出撃の写真ですが、穴沢少尉の機体だったのです。穴沢少尉はこの見送りに対して笑顔で挙手の礼にて応えています。
穴沢利夫陸軍大尉(フラッシュ)
堀之内久俊海軍大尉(東京帝国大学) 昭和20年4月12日、神風特別攻撃隊「第二八幡護皇隊」九七式艦上攻撃機にて串良基地を出撃、南西諸島洋上にて戦死
<けふは第四次護皇隊が出発した。われわれ学生からは、艦攻六名、艦爆十三名で、堀之内少尉も黒崎少尉も山て行つた。堀之内は台北高等学校から東大法科を出た男で、家は台湾に在り、此の三年のあひだ父上母上に会つてゐないのださうだ。さういへば、かつて水兵時代、予備学生時代、面会のたびに彼が手持無沙汰にさみしさうにしてゐたのを、自分はおもひ出すのである。いま彼がたどらうとしてゐる死出の道は、むかしかよひなれた帰省の道であり、三年目の家路である。堀之内は此のことを、感慨ぶかく静かにはなして出かけて行つた>とは、阿川払之の代表作『雲の墓標」の一節である。
そして、この出撃前「これでいい。おれは、生まれたままの体で死なふ」というご遺書を残している。
ご遺影には、振り袖人形が写っているが、これは、当時、彼の心境を察した知人の町医者が贈ったものであり、山桜を背に刺して人杉をかかえる彼の姿からは、これより死出の旅に赴く者とは思えぬほど、晴れ晴れとした感じが伝わってくる。
散華された特攻隊員の方々の数だけドラマがあります。