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今更ながら祝日の意味
日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成21年3月12日木曜日晴れ ○
今更ながらあらためて、祝日とはなんでしょう。何のためにあるか。
現在の祝日といわれるものは、戦後まだ我が国が独立できていない占領下の昭和二十三年に「国民の祝日に関する法律」によって定められものが基になっています。
アホな一部の国会議員により、日曜日にくっつけて連休を増やすために使われている日もありますので、本来、その日がどうして定められたか不明の祝日も出てきています。
来週は春分の日がありますが、祝日法では「自然をたたえ、生物をいつくしむ」となっている。これがどうして祝日になるのか。意味が理解出来る人はいるのだろうか。
ところが、五穀豊穣を祈る皇霊祭、すなわち春季皇霊祭・秋季皇霊祭といえば、意味が通じる。
どうしてそうしないのか。それは、意味が通じないほうが「都合がいい」と考える人たちがいるわけです。そのために、占領下において憲法改正が行われ、各法律が変えられました。何のためか。日本人としての歴史を認識させなくし背骨を溶かすためです。
たとえば、国として最も大切な祝日のひとつである建国記念日について、その意義を報道した大手新聞社はわずかに産經新聞のみであり、朝日新聞などは、期待通りに朝鮮人作家の朴慶南氏の「田母神論文を受け入れる日本社会の土壌を問題視し、『戦争に向かっていく怖さを感じている』と話した。」という記事を掲載している。我が国の建国記念日に、その意義も掲載する前に、どうして朝鮮人の言葉を掲載するのか。この新聞社の体質というものがよくわかる。
祝日について清水幾太郎氏は下記のように書いています。
<それにしても、戦後の日本人にとって、元旦とは何なのであろう。私は、お正月がくる度に、「国民の祝日に関する法律」(昭和二十三年)のことを思い出して腹が立つ。覚えておられる読者もいるであろうが、それによると、「第一条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い・・・・」まるでテレビのコマーシャルのような文章である。
まあ、こんな小学生のような文章がよく書けたものである。
へえ、そうですか。マージャンやパチンコでもやっていろ、というのですか。
時間とは何か、と聞かれたら、「時計で測られる量」とでも答えるほかはないが、もともと、時間は何の意味もないもので、それに人間的な意味を与えるのが、暦というものである。各民族の暦には、必ず特別の祝祭の日が定められている。それが定められているのは、私たちに或る大いなるものを更めて思い出させるためである。大いなるものとは、第一に、私たちを包む自然の循環であり、第二に、私たちが負う歴史の運命であり、第三に、私たちに伝えられた信仰の遺産である。
平素は忙しく仕事に明け暮れている人間も、この日だけは、大いなる自然、大いなる歴史、大いなる信仰の前で、服装を整え、襟を正して、民族固有の特別な儀式を執り行う。万事、人間は形から入るもので、儀式というのは、人間の感情に美しい形を与えるために祖先が作り上げた智慧である。如何に敗戦のドサクサとはいえ、それがすべてガラクタのように捨てられてしまったのだ。
かって、少年の私には、本当の正月があった。元旦には、学校で式が行なわれ、みんなで、「年の始めの 例とて、終わりなき世の めでたさを ・・・」で始まる「一月一日」(出雲大社宮司、後の司法大臣、千家尊福作詞)を歌い、紅白の餅を戴いた。男の先生は、モーニング・コートやフロック・コートを着ておられた。トックリ・スェーターの先生などいなかった。幼いながら、厳粛な空気の中で、私たちは、何かを感じ、何かを考え、何かを決心した。>
「戦後を疑う」(清水幾太郎 講談社 一九八〇年刊)P一八二〜一八三
清水氏について、江藤淳氏は「戦後知識人の破産」(一九六〇年十一月)で、自己分裂がもっとも深刻にあらわれていたのは、「安保闘争」の後で書かれた清水幾太郎氏の「安保戦争の『不幸な主役』という文章であると丸山真男氏と比して書き、丸山氏と清水氏は「思想」的に対立しているなどという見方ほど知的ジャーなリズムの浅薄さを露呈しているものはない。両氏は「事柄の本源」を八月十五日に求めようとするところで一致し、少なくとも政治に道徳の中心を見ようとするところで一致している。と書いています。
(私は「落葉の掃き寄せ 一九四六年憲法 その拘束」江藤淳 文藝春秋社 昭和六十三年刊P五〇六より引用)
清水氏と丸山氏を同列に見る事のできない私も、江藤氏が指摘する「浅薄さを露呈している」ものの一人には違いないでしょうが、清水氏のこの祝日について書いている文章においてはなんら違和感がなく、むしろ、よくぞ私などにも判りやすく書いて下さったと感謝です。
日本政府として、建国記念日の催し物も何も行わないということは、清水氏が書かれている「私たちに或る大いなるものを更めて思い出させるためである。」という事をなくし、「幼いながら、厳粛な空気の中で、私たちは、何かを感じ、何かを考え、何かを決心した。」ということもない。つまり、日本民族の歴史という背骨が溶解していくのを早くしているとしか思えません。日本人がその民族の歴史を忘れる時は日本人が日本人でなくなった時であり、この日本という国は滅びるしかない時です。
小胡子さん二名様で来店。Mさん二名様で来店。マロさん来店。
今日は飲まず。