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支那残留孤児について
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成18年12月5日火曜日晴れ ○
支那残留孤児訴訟で、永住帰国した全国の留孤児の約9割にのぼる約二千二百人が「支那に置き去りにされ、帰国後も苦しい生活を強いられているのは国の責任」という判決が神戸地裁であったそうである。
橋詰均裁判長は国の責任を認定し、原告六五人(1人死亡)のうち61人に、人あたり六六〇万〜二三七六万円、総額四億六八六〇万円を賠償するよう命じたと先日のニュースにありましたが、それについて、チョンイル新聞(通名朝日新聞)も社説を書いています。
以下引用
<残留孤児、勝訴 祖国への思いに応えよ >
中国残留孤児と呼ばれる人たちの望みは、祖国で人間らしく生きることだった。
しかし、日本政府の理不尽な対応で帰国は大幅に遅れ、自立するための支援もお粗末きわまりないものでしかなかった。
略)
孤児たちは旧満州(中国東北部)に取り残され、中国人の手で育てられた。81年になって、日本政府はようやく本人を日本に招いて身元の調査を始め、祖国に戻る道が開けた。
裁判のなかで、原告は国民を守る責務を果たしてこなかった国を厳しく批判してきた。神戸地裁の判決は、この訴えに正面から応えるものとなった。
旧満州の開拓民は戦況をまったく知らされず、無防備なまま敗戦の混乱に放り出された。無慈悲な政策が生んだ残留孤児に対して、戦後の政府は救済すべき政治的な責任を負う――。
判決はそう述べ、本来なら72年の日中国交正常化を機に、救済の手を差しのべることができたと指摘した。だが、国は日本人と認めようとせず、外国人の扱いで親族の身元保証などを求めた。そのために永住帰国が遅れてしまった。
略)
与党の国会議員がプロジェクトチームを発足させ、給付金制度を検討しているが、作業は進んでいない。新たな制度のための立法を急いでもらいたい。
敗戦時に、そして帰国した後にも、国から棄(す)てられたと感じている孤児にとって、この裁判は人間の尊厳を取り戻す闘いだった。
「やっと、日本人に生まれ変わりました」。晴れやかに話す孤児の思いを踏みにじってはいけない。
朝日新聞【社説】2006年12月02日(土曜日)付
引用終わり
支那において残留孤児の皆様はさぞかし御苦労されたことでしょう。しかし、チョンイル新聞が書くように一方的に我が国政府だけの責任であろうか。
「日本の反論」(米田健三著 並木書房)という本に俳優の故芦田伸介氏と宝田明の終戦後の体験が掲載されている。
以下引用
八路軍(共産党)の白山芸術学校の講師をしていた芦田伸介(俳優)は、国府側から八路軍の協力者として狙われていた。芦田一家は脱出行に運命を賭けた。便乗した列車では公然と略奪が行われた。鉄橋が破壊されていたため、列車を降りて徒歩での逃避行となった。暴民の略奪を受けながら、くる日もくる日も野山を踏破した。生まれて半年の娘のオシメまで奪われた。
「いつのまにか満人の農民に囲まれていた。度重なる略奪に身ぐるみはがれた私たちに、子供を売れと要求するのである。男の子が三〇〇円、女の子が五〇〇円だという。・・・・・私は地べたにひざまずいて「助けてくれ、この子は私の命」と(中国語で)叫んだ」
俳優の宝田明は、ハルピンの国民小学校六年生だった。
「ロシア軍が侵入し、めちゃくちゃな暴行、略奪を繰り返した。(中略)子供を捨ててきた人もいる。カボチャ一個と交換した母親もいる。信じられない事だが、事実だった」
P一四三 (米田氏は月刊誌「潮」昭和四六年八月号「引揚げ者一〇〇人の告白」より引用)
そして、米田氏は下記のように続いて書く。
置き去りにされた子供、金や食糧と交換された子供が、大量に発生した。酷薄な親と非難できようか。ソ連軍にせよ、中国や朝鮮の新たな統治者にせよ、必要な食糧を給付するという人道上の、あるいは国際法上の義務を果たさなかった。親が生き残って祖国に帰るために、そして中国人に引き渡された子供達が、せめて飢えから解放されることを願って、そうせざるを得なかったのだ。
満州からの逃避行を経験したある代議士が、かって私(米田氏)に語った。
「母と二人で満州の原野を歩いていた。脇からあらわれる満人たちが、僕の体に手をかけて引っ張るんだ。食べ物をちらつかせて、子供をよこせ、子供を寄こせという。母は僕を取られまいと、必死になって僕の手を握っていた」
なぜ、彼らは子供を欲しがるのか。敗残の親子を憐れむならば、充分な食糧を与えればよい。一時預かるならば、お互いの連絡先を交換する方法もある。子供のいない中国人が正式な話し合いの結果、養子にするというのなら、まだ判る。ところが、敗残の弱味につけこんで、路傍でわずかな物やカネと引き換えに、「くれ」というのであるから尋常では無い。
むろん、好意と親切で子供を引き取ったケースがあることは否定しないが、「すべての中国人が寛容な精神をもって、かわいそうな日本人の子供を引き取った」という、戦後長い間流布されてきた「美談」に筆者は組みしない。反日自虐の戦後思想潮流の中で、中国残留孤児問題についても歴史の真実が偽造されてきたのでは無いか。
今日なお、人身売買いが大きな社会問題となっている中国の民度において、半世紀以上遡る時代に、近代社会共有する人道の概念が本当に存在していたのであろうか。残留孤児支援運動に関わった人物が、こう語った。
「当時の遅れた農村社会の中国・満州にあって、子供は将来の労働力。ましてや、東洋鬼の日本人の子は、奴隷要員ですよ。カネで買う時男の子より、女の子のほうが高かったのはなぜかわかりますか? 少なくとも、当時の中国では、女の子が大きくなったら「商品」になったからです」
あの朝日新聞ですら、かって、残留孤児について、こんな記事を掲載している。
「わたしが、中国残留孤児の人たちを中国に訪ねたのは八四年四月。・・・・大方は、生活的にも精神的にも悲惨だった。ハルピンから、でこぼこ道を二時間以上も四輪駆動車に揺られて訪ね当てた一人の女性孤児は、水道もない小さな家で暮らしていた。家族や村役場の人たちの前では本音が言えず、私の泊まっていたホテルに来てはじめて、全身に残る労働と虐待の傷跡を見せてくれたのである」(作家山崎朋子、二〇〇二年一二月二〇日朝日新聞夕刊)
また、中国残留孤児の日本国を相手とする国家賠償訴訟に関する記事では、麻山事件で生き残った残留孤児・内海忠志の半生についてこう書いている。
「農民の養父母に引き取られた内海さんは、水をくみ、まきを割り、豚や牛の放牧をした。靴はなかった。冬はフンに足を突っ込んで暖をとった。一〇歳になって、やっと小学校に通う事ができた。午前三時に起きて牛を放牧してから登校した。学校では『小日本』とののしられた。一六歳のとき発電所で見習いの職を得た。六六年に文化大革命が始まると、日本人であることを理由に一〇〇キロ以上離れた農場に追いやられた。」
(朝日新聞二〇〇二年九月二五日)
「孤児たちは『侵略者日本』に対する憎しみを背負わされたといえる。単なる労働力と扱われ、学校に通えなかった人は多い。日本のスパイとして投獄された人もいる」(同じく朝日新聞二〇〇二年九月二五日)
残留婦人もまた残留孤児と同様に、すべてのケースが中国人の善意T9お寛容の精神によって保護されたわけではない。内蒙古に近い草原の開拓村で、小学校の補助教員をしていた鈴木則子の場合、難民として逃げ惑うなかで銃弾を受けた。
「意識を失って倒れていた時、中国人の人買いにつかまりました。三年間、奴隷でした」(朝日新聞一九八九年三月二四日)
略)
生きるため、食うために、中国人の妻になる者もいた。敗戦の混乱で、軍隊に召集された夫の生死は判らない。飢えに苦しんで路頭に迷うなか、中国人に拾われるようにして妻となったのだ。妻でなく妾にされあ者も多い。教養ある裕福な家庭で暮らしていた女性であっても、相手を選ぶことはできない。中国の下民層の妻になり、流転の末に中国の奥地で貧困の生涯を送る者もいた。
前出「潮」昭和四六年八月号「引揚げ者一〇〇人の告白」の中で、元奉天(瀋陽)居住の作家・楳本拾三は、自分が立ち会った目撃談として、さらに悲惨な例を記している。
「昭和二一年の初夏のある日、中国官憲の命令で、奉天中の遊女屋から日本人の接客婦が、中国人の楼主あるいは番頭に連れられて居留民会に集められた。これらの日本婦人は進駐軍に犯されたり、食う道がなく接客婦に身を落とした人々であったが、かっては地方官吏や特殊会社員の婦人であった人や、なかには女子大出のインテリも何人かまじっていた。敗戦で奥地から身ひとつで逃れ、やっとたどり着いた奉天で、生きるために、いつかこのような境遇となったもの、自暴自棄になったもの、敗戦の結果、不幸な運命に落ちた婦人ばかりであった」
中国官憲はポツダム宣言によって中国内には日本人を残す事はできない、と言うのだったが、「調査票をみると、ほとんどがすでに悪質な性病にかかっており、日本に帰りたいと希望するものは何人もいなかった」
P一四三〜一四八
米田氏も書かれているが、支那残留孤児のみなさまが御苦労されたのは確かですが、すべての支那人が寛容な精神で日本人の子供を引き取って育てたわけではない。そうでない支那人も多かった。当たり前である。いまでも人身売買が一〇万件も発生し社会問題になるような国である。http://jp.epochtimes.com/jp/2005/08/html/d57735.html
そのような国の人間がすべてが統べて、親切心だけで日本人の子供を引き取るとは考えられないのが普通であろう。