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大笑い「韓国偉人伝」柳寛順
ウソを平気で書いたのは梁東準
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成19年4月12日木曜日晴れ ×
日曜日に高田馬場の古本市で買ってきた本の中に「韓国偉人伝」というのがありました。梁東準、太田哲二、金順子という三人による平成一三年に明石書店から出版されたとんでも本です。
この中に偉人のひとりとして描かれているのが、韓国のジャンヌダルクとか言われている柳寛順です。
書いているのは梁東準氏という一九四〇年大阪生まれの早稲田大学卒業で民団東京本部教育委員長というエライさんです。
そのアホな内容とは
<一八九五年には日本公使・三浦梧郎の命令で、景福宮・閔妃(一八五一〜一八九五年)が惨殺され、遺体は石油をかけて焼き捨てられる、という世界史でもまれな蛮行があった。
その後は、高宗および民衆の抵抗もむなしく、日本は軍事力を背景に急ピッチで支配を拡大し、一九一〇(明治四三年)年には、「日韓併合」をなしとげ、植民地化を強引に押し進めた。>p二〇
いや、その国母とか言われている(笑えますけど)閔妃が「甲申事変」において開化党と呼ばれた金玉均、朴泳孝などに対しておこなった虐殺な行いには負けるでしょう。
金玉均は、日本に亡命した後に一八九四年に騙されて上海に連れ出され、三月二八日に刺客の洪鐘字に暗殺され、遺体は朝鮮に送られ寸断され、首と四肢は獄門に梟されるという残虐非道の仕打ちを受けた。甲斐軍治は夜にまぎれて梟首台に近づき、遺髪を持ち帰った。遺髪は東京本郷の駒込真浄寺に埋められ、別に東京青山の外人墓地にも墓がある。同年五月二〇日には、浅草本願寺で盛大な葬儀が行われた(併合後、明治天皇は、金玉均の遺族に金一万円を下賜せられた)
<幼い寛順の目に焼きついた日本人といえば、非常で横暴な菰田(注、高利貸しの名字だそうです)や威張り散らす巡査(憲兵警察)だった。>p二四
<独立運動の巨大示威行進は、徳寿宮から大漢門から二手にわかれた。ひとつはアメリカ領事館へ、もう一つは朝鮮総督府へ向かった。
その時、銃声が響いた。日本の憲兵たちが、示威行進に発砲したのだ。憲兵たちは、サーベルや日本刀で斬りつけ、銃を乱射した。憲兵たちのどなり声、民衆の悲鳴が入り乱れた。
略)
日本当局は、以下のように発表した。
死者・・・・七五〇九人
負傷者・・・一万五九六一人
逮捕者・・・四万六九四八人
参加者・・・二〇〇万人以上
運動が実施された市・郡の数・・・二一七(当時の市・郡の数は全部で二一八)
デモ・集会数・・一四九一回
この数は、あくまで日本当局の発表データーで、参加者総数は「一千万人近い」といわれている。
ちなみに、当時の人口は焼く二千万人だから、まさに民族総ぐるみの超巨大独立運動であった>p三〇〜三一
朝鮮人は息をするようにウソをつくと書いてあったのを読んだことがありますが、まあ、ここまで醜いウソを平気で書けるものです。この梁東準という御仁も例外ではないようです。私が何度も指摘していますが、この梁東準氏という在日朝鮮人のウソつき大センセイが示している数値は朝鮮人朴殷植が書いた「朝鮮独立運動の血史」に書かれているものであって、朝鮮総督府の発表した数値ではありません。それをよくもぬけぬけと日本当局の発表データーといえるものです。一〇〇〇万人もの独立運動って凄いし、それでも独立できない朝鮮はもっとすごいです。
そして、市場でのこの柳寛順の言葉として
<「私たち二〇〇〇万同胞は、五千年の歴史をもつ誇りある民族です。ところが、日本は武力でわが国を奪いました。そして、一〇年ものあいだ、私たちを苦しめています。民族の運命は、その民族自らが決めなければいけない」>p三四
どうして、そんな誇り高い民族が一〇年どころか千年の奴隷国家に甘んじていたのでしょう。
また、現実は暴動と略奪であった三・一運動の実態に付いて
<あわてふためいた分遺所の署長は、村人に向けて拳銃を撃った。その一発が柳寛順の父・柳重権を貫いた。真っ赤な血を流して柳重権が倒れた。恐怖が村人の口をふさいだ。
次の瞬間、趙仁元が分遺所の前に走り出た。
「みなさん、日本人巡査を殺してはいけません。暴力はいけません。私たちの願いは自由と独立です」
趙仁元は、何とか暴力の拡大を防ごうと叫んだのだ。しかし、その刹那、一人の巡査が抜刀し、趙仁元を切り捨てた。村人の目の前で、二人の指導者が殺された。群集のうねりが分遺所に殺到した。窓ガラスに石が投げられ壊れると、群衆は「万歳」「万歳」と連呼した。
群衆の後方で銃声が炸裂した。天安憲兵隊本部から鎮圧部隊が到着したのだ。それは、群衆を解散させるための威嚇射撃ではなく、最初から射殺が目的であった。無差別の乱射、無差別に斬りつける憲兵、逃げまどう群衆。修羅場だった。
略)
結局、この日の殺戮は六〇余名を数え、負傷者数はわからない。逮捕者は六百人に上った。そのなかに柳寛順と兄に寛玉もいた>p三五〜三六
と、書くが、現実は暴動であったことは過去に書いた通りです。
この時に柳寛順の両親は武装して住民を煽動し群衆四〇〇〇人は警備に当たる警察官を襲撃し、重傷を負わせる。そのため夕刻、二〇名程度の天安地区憲兵部隊が出動し、群衆に対しての射撃で一九名が死亡し、柳寛順も逮捕された。もうここでも六〇名とウソをついています。
柳寛順の逮捕についても
<天安憲兵隊本部に連れて行かれた寛順を待っていたのは、過酷な拷問であった。
略)
寛順の体は、拷問のため数日でボロボロになった。しかし殺された両親を思って、拷問に耐え抜いた。留置場のなかでも、毎日、朝・夕、決まった時刻に「大韓独立万歳」と叫んだ。
略)
寛順は裁判の時も堂々としていた。
「私は大韓国人。日本の裁判を受ける理由はない。あなたたちは、私を裁く権利も資格もない」
略)
「私が何したって言うの。悪いことしているのは、日本人の方でしょう!」そう叫ぶなり、寛順は裁判官めがけて椅子を投げつけた。このため、法廷侮辱罪四年が加算され、七年の刑罰を受けた。これは逮捕された者のなかで、一番重い刑罰であった。
略)
朝鮮のジャンヌ・ダルク
ソウルの西大門刑務所に送られた寛順は、一筋の光も入らない一メートル四方の独房に入れられた。だが彼女は負けずに、強固なる意志の塊となっていた。すでに、神のふところの人になっていたのかもしれない。
ここでも、朝・夕「大韓独立万歳」を叫ぶことを実行した。そのたびにしたたか殴られ、生傷のうえに生傷が重なった。全身どす黒い血にまみれた寛順は、もはやどこがどう痛いかさえわからなくなっていた>p三七〜三八
この柳寛順は身長一七一センチの大女で怪力であったそうで、書いてあるように控訴審で椅子を持って検事に突進し負傷させるというあきれた行動をとっている。
法廷侮辱罪も加わり、懲役七年で結審。その後三年に減刑され、その半分つまり一年半まで減刑された事を書かない。都合の悪いことは書かないのはこの手のセオリー。
総督府時代の公判記録は完璧に残っている。また刑務所でそのような拷問が日常的に行われたのであれば、戦後に被害者なり、親類縁者が訴えることが戦後可能であったはずだが、そのような記録が残されていない。
何にしても「私は大韓国人。日本の裁判を受ける理由はない。あなたたちは、私を裁く権利も資格もない」というのは法治を理解していないバカ女というだけのことです。
こんなバカ女を偉人とするしかない偉人のいない朝鮮です。
ちなみに、他の偉人?は
乙支文徳、申師任堂、李舜臣、金通精、世宗大王、王仁、広開土王、檀君王検が掲載されていました。
しかし、クマから人間になった女から生まれたという神話の檀君まで偉人とは凄いです。我国で天照大神を偉人伝に加えている本はないでしょう。実に朝鮮らしい本でした。三〇〇円は安かった。