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小野田寛郎元少尉にとっての祖国日本

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成21年1月6日火曜日晴れ

 「小野田寛郎の終わらない戦い」(戸井十月著 新潮社 二〇〇五年刊)を読む。

 小野田寛郎元少尉は昭和四十九年三月十日夜、フィリピン空軍では整列した兵の捧げ銃で迎えられ、

 翌日、マラカニアン宮殿でマルコス大統領は、

「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として四年間戦ったが、三十年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。」

と賞賛され、三月十二日、空港に向かう小野田氏を、フィリピン軍楽隊は「フィリピン国歌」、「君が代」そして「ハッピーバースディ」の演奏で送った。

 マニラ空港より、日本政府が用意した日本航空特別樹により帰国した。パーサーもスチワーデス(今や死語ですが)も小野田氏の故郷である和歌山出身者から選ばれた人たちであったという。

 

 三月十二日午後四時二十分、羽田空港に着いた小野田氏を迎えたのは、大勢の人であったが、整列した兵の捧げ銃も軍楽隊の姿はなく、空港に流れたのは、わずかに、デッキで出迎えた、見知らぬ民間人の元近衛兵だった方がたったおひとりで吹かれる軍隊ラッパの音色だけであったという。

 ご両親、ご兄弟、戦友の島田伍長、小塚一等兵のご遺族よりも前に、タラップの下には百人近い政府関係者が並び待っていた。タラップを降りた小野田氏を待っていたのは、先を争うようにして名刺を差し出す政治家だった。

 その後の会見も、後に小野田氏が「苦しく、そして腹立たしい会見だった」と書いたようなカスマスコミらしいアホな質問ばかりだった。

 小野田氏は、そのまま国立第一病院に強制的に入院させられ、マスコミはそんな小野田氏に取材もないまま体験を面白可笑しく書き、その想いを勝手に推量したり決めつけたりした。

 入院させられて数日後に、当時の田中角栄首相より一〇〇万円が届けられた。   

 田中角栄氏のポケットマネーであるその一〇〇万円の使い道をアホなマスコミから聞かれた小野田氏は、「靖國神社に奉納します」と答えたが、それに対して軍国主義に与する行為だと非難の矢面に立たされる。

 

 小野田氏は政治家や善意の人からの僅かな見舞金以外、手にしたお金などないが、政府から多額の保証金を内密に受け取ったから、一〇〇万円というお金を靖國神社に奉納できるなどという噂までながされる。

 三月二十六日、我が国政府は、自民党の鈴木善幸総務会長を特使としてフィリピンへ派遣し、マルコス大統領に感謝の意を表明。田中首相の親書と小野田氏からの手紙を渡し、フィリピン政府に三億円を贈ることを閣議決定した。

 三月三十日、十九日ぶりに退院した小野田氏を待っていたのは、厚生省の役人によるスケジュールのもと、皇居では二重橋前で体の向きまで指示され行動しなければいけなかった。

 当初は、小野田氏の帰国後の最重要事であり、一日も早く実現させたかった一緒に戦った島田庄一伍長、小塚金七一等兵の墓参りさへ、スケジュールに組み入れられてなかった。そのため、独自の計画を立てた。それは、中野学校二俣分校同期会、「帆一会」幹事長の末次一郎氏に協力を頼み、退院前夜、病院を抜け出し、未明までに埼玉、八王子の二人の戦友の墓に参り、靖國神社と皇居に参拝したのちに東京を離れるという計画だった。小野田氏の心情を理解する末次氏が厚生省に掛けあった結果、やっと、首相表敬訪問の後、墓参りすることが許可された。

 

 首相官邸では、首相と並んで座らされ、首相の顔は小野田氏の方ではなく、列をなして並ぶカメラに終止向けられていた。

 このように、小野田氏は腐れ役人と、腐れ政治家のパフォーマンス、腐れマスコミに振り回され続けた。

 

小野田寛郎元少尉にとっての祖国日本

1月7日水曜日 晴れ

  敗戦や 妻なく子なく金もなし 職もなければ死にたくもなし

 これは小野田寛郎氏が、二十九年間の戦争をして五十二歳近くになり帰国した後に、その時の心情を詠んだものです。

 小野田氏は帰国後、日が経つにつれ、戦後の日本に違和感を感じるようになったそうです。

 日本に帰国して半年後の昭和四十九年十月四日、次兄、格郎氏のいるブラジルに三ヶ月の旅行にでます。そして、帰国後、昭和五十年四月、ブラジル永住を決め、わずか一年で再び日本を離れます。

小野田氏五十三歳の年です。

 ブラジルに渡った小野田氏は、ブラジル中西部、南マットグロッソ州バルゼア・アレグレ移住地に、ヘクタール当り三万六千円で五百十四ヘクタールの土地を購入する。

 三回に分けて購入した土地の頭金は手記の印税で払い、残りは知人から借金した。国から多額の保証金を貰っただの、ブラジル政府から土地を貰っただのの噂が流れたが、すべて根拠のないデマだった、若干の見舞金も靖國神社に奉納してしまった小野田氏には、手記の印税以外の金はまったくなかった。

 のちに結婚する町枝夫人と懸命に働き、現在の千百二十八ヘクタール、千八百頭の牛を有する小野田牧場を作った。

 移住して七年間は電気もなく、ランプで暮らし、護身用と狩猟用に四丁の銃を持ち、ジャガーや大蛇の襲撃、軽機関銃を手にして、牛泥棒と対峙した。

そんな小野田氏は、

 「みんな僕のことを気の毒がってくれるけれど、何も、僕は気の毒でも何でもない。気の毒なのは死んだ人。僕はこれから働けばいいんだから。何も同情してもらうことはないって気持ちもありました」

「性質ですかね。済んだことは済んだことで、愚痴を言ってもはじまらない。愚痴を言えば前に進む力がへるだけでしょ。だから、愚痴を言うのは大嫌いです。愚痴や泣きごとを言う人も大嫌い。

 戦争で三十年近くを無駄にしたと思われているけれど、でも、その分ずい分強くなりましたよ。南方の自然や天候気象について、生きるために得た知恵もある。結局、それが後で役に立つんですからね。だからあながち無駄じゃあないんです。要は、自分がどう使うかなんです。無駄と思ったら、無断になっちゃうんでしょうね。どっちにしろ、強くなったことは確かに強くなりました」

(「小野田寛郎の終わらない戦い」戸井十月著 P百三十三〜百三十四)

と述べている。

 悪いことはすべて他人のせいにして生きている人間が多い日本では、小野田氏は暮らしにくかったのでしょう。

 二十年十二月十三日の産經新聞に、小野田氏の帰国直後である昭和四十九年三月二十日に掲載された「高貴に生きた小野田さん」と題する日本文化会議専務理事・鈴木重信氏の論文が掲載されていました。

 その中で、鈴木氏は

「小野田さんの生還が、日本人を感動させたのは、その体験の異常さではなく、増して軍国主義の亡霊としてでもない。与えられた運命を甘受して、三十年間を任務の遂行に賭けた、この生き方である。

 オルテガは自分に多くの要求を課し、進んで困難と義務を負う人間を真の貴族と呼んだ。小野田さんはまさにこの高貴な精神を生きて見せたのであり、これこそ平和と繁栄の中で欲望肥大症にかかった日本人が喪失したものである。現代の日本人は、まさに虚を衝かれたのだ。戦後の教育の見失ったものを、いま謙虚に小野田さんから学ばねばならないのである」と述べておられます。

 

 以前にも書いた事はあると思いますが、政府は引きこもり対策として、多額の税金を投入しようとしているが、そんなものが果たして必要なのだろうか。健康な成人が引きこもりをしていることに国が金を使う必要があるとは思えない。もっと、根本的な教育に金を使うべきだろう。もっと、普通の教育をすべきであろう。

 年老いた親が、いくら自分の子供とはいえ、いい年をした健康な成人を食わせているというのは異常としか思えない。普通は、逆だろう。人間、腹が減れば自分でなんとかするのが当たり前です。親が食わしてくれるから親に甘えて、ええ歳をして働こうともせず、世間が悪い、社会が悪いと文句ばっかり言っているだけの者も多いのではないだろうか。健康な成人なのに、餌をやらなければ、死んでしまうというのであれば、そんなアホは死ねばよい。生きていても、世の中のためには何にもならない。

 午後より一〇日ぶりにスポーツセンターに行く。あまり時間がなかったが、一応一通りのメニューを消化。

 きっと、明日は身体のあちこちが痛いと思う。

 金ちゃん、マロさん来店。平成二十年度「お前が言うな大賞」受賞者のoresama777さん来店。景品の磯自慢大吟醸を受け取っていただく。小胡子さん、BOOちゃん来店。Sさん来店。Kくん、Hさん来店。

ドンチャン。営業終了後、金ちゃんとKくんと三人で高円寺のイタリアンに酒を持ち込みドンチャン。(徹夜明けのマロさんは帰宅)マルガリータさん合流。

 「派遣村」とかいうのが話題になっている。本当に手を差し伸べなければいけない人もいるだろうが、そうでない人も多いのではないだろうか。何がなんでも国が悪い、世の中が悪いといってばかりいて、人の助けを待っているより、前向きにやれることもあるのではないだろうか。

 


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