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小野田元陸軍少尉の言葉にみる「生きる」とは

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成21年2月19日曜日木曜日晴れのち遅くなって雨  ×

 <拾った命でも、祖国へ生還したからには私は生活していかなければならない。

 お金の蓄えなどあるはずもなかった。

「国に保証を要求すべきだ」という人もいたが、それは筋違いというものだろう。日本が降伏した昭和二十年八月十五日以降は、「私個人が勝手にやった戦争」とされているわけだから、国家に補償の義務はない。

 それに私は、出征するとき死を決意した。いわば私の命は原価ゼロである。生還したことは、まったくの幸運といわねばならない。生き残ったものは、これから働けばいいのだ。それが国に対するつとめであり、死んだ戦友への申し訳だろう。>p二一六

 小野田寛郎元陸軍少尉が、著書「たった一人の三十年戦争」(東京新聞出版局 一九九五年)に書かれていることです。

 昭和五十年早春、陸軍中野学校同期の仲間の皆さんがブラジルに出発する小野田氏の壮行会を開いたそうで、その宴の最後はスクラムを組んでの

「丈なす墓も小鳥の棲み家 砕けし骨をモンスーンにのせて 散るや世界のすべてが墓だ」と歌う

「中野学校三三壮途の歌(さんさんわかれのうた)」だそうです。

 昭和四十九年三月十二日に帰国した小野田氏は、祖国日本にたった一年足らずいただけで、ブラジルに渡る。

 小野田氏五十三歳の時である。その後、入植地において、八年間も電気もないランプの生活をおくりながら、時には軽機関銃を構えて牛泥棒と対峙しながら成田空港ほどもある現在の千百二十八ヘクタールの牧場築き上げた。

 当時、報道された日本の通信社による「州知事、小野田氏に土地を贈る」というのは誤報であり、これらはすべての土地は、小野田氏が印税の他に数千万円の借金をして、一ヘクタールあたり三万六千円で国際協力事業団より購入したものである。

 牧場が軌道に乗るまで、多くの資金を必要とする。そのため、小野田氏が移住して一年後、「三十年間も一人戦争をしてきた彼に、その後の人生を『生きててよかった』と思ってもらいたい」と結婚を決意し、三十八歳で小野田氏の妻となった町枝さんは、持っていたマンションなど三件の家を手放した。

 帰還時の記者会見で、三十年間のジャングル生活で、人生を損したと思うかと聞かれた小野田氏はこう答えている。

 「若い、意気盛んな時期に、全身を打ち込んでやれたことは幸福だった」

 そして、。 「私はこの戦後二十年、必死で、人の二倍のスピードで生きてきた。」同書p一九

 この著書に書かれている小野田氏にとっての戦後とは、もちろん、昭和四十九年三月に帰国してからのことですが、この著書が出版された時に、小野田氏は七十三歳であった。

 八十六歳の現在、小野田氏は雑誌「WiLL」の対談で、

「私は毎年、お正月の書初めで『命は天にあり』と書きます。命はもう決まっているんですよね。好きなものだけ食べて体を壊したとしても、それは自分の責任。人は必ず死ぬんだから、びくびくして生きていても力は出ない。精一杯努力していれば、いつ死んでもいいと思っています」

「WiLL」平成二十一年二月号p二百七十八

 仕事も、何もかも「悪いことは他人のせい」という自分勝手な理屈が通る現在の我が国において、このように言い切れる人がどれだけいるであろうか。

 Mさん大勢様で来店。Oさん来店。Tさん松葉杖で来店。不自由な中のわざわざの来店に感謝。Mさん来店。恭子さん来店。今日で試験が無事終わったそうで、久しぶりの酒。

 ドンチャン。記憶はあり。後片付けもきっちりと。だから、雨なのか・・・・


派遣村について

2月18日水曜日晴れ今日も寒い △

 先日、朝日新聞に<派遣切り 手元に100円 雇用「失政」の犠牲者>と題した記事がありました。

 それによると、再就職口はなかなか見つからない中、自室で求人サイトを見る男性は、東京・日比谷公園の「年越し派遣村」の人たちは、湯気の立つ食事を見て、行きたいと思うが、手元には百円と少しだけしかなく、大分に「派遣村」がないか、ネットで探したが、見つからなかったという記事です。

記事は下記のように続きます。

以下引用

 1月9日。大分キヤノンのライン閉鎖で工場の請負元を解雇されて1カ月。食べ物は底をつき、寮の退去期限は10日後。男性(33)は何かないかとテレビやネットのニュースを追い、「就職安定資金融資」を知った。

 敷金・礼金や就職活動費用として最大186万円まで低利で借りられ、就職すれば返済が一部免除される。職と住まいを同時に失う人が続出したため、厚生労働省が昨年末に打ち出した対策だ。

 「事業主都合の離職に伴い住居喪失状態」「貯金・資産がない」など、4項目の貸し付け条件に当てはまっている。

 すがる思いで窓口のハローワーク大分に電話した。

「制度を利用したい」「審査に2週間はかかります」「食べ物がない。千円でも借りられる制度はないですか」「ありません」。だめだ。

 それから4日、ふらつきながら寮の階段を下りると、ポストに大分県労連のちらしが入っていた。助けを求め、大分市に生活保護を申請。当座の生活費として1万円がその日に貸与された。

略)

(野沢哲也) asahi.com2009年2月14日3時2分

引用終わり

  私は、今、話題の派遣村などの報道をみる度に違和感を覚えるのは、その中に多くの働き盛りの人たちがいるからです。国に対して、「仕事、住居、給料」などの責任を転嫁しているように思えてしかたがない。

 当然、私はこの大分の三十三歳の男性にもな〜んにも同情できない。

じゃあ、死ねって言うのかと言われれば、そうだ、「五体満足でありながら、働く気がないんだったら、生きる気がないんだったら、死んじまえ」と答える。

それと、 「何甘えてるんだ、このドアホが」とも。

「仕事がない」という人がいるが、仕事など、探せばいくらでもある。

 我が国に多くの国々から密入国までして働きにきているのはどうしてか。

我が国に仕事があるからです。仕事しなければ、銭がない。飯が食えない。死んじまうのです。

 解雇されてから、銭もないのに百円の所持金になるまで、一ヶ月も何をやっていたのか。

 「やりたい仕事が見つからない」じゃあ、飯が食えなくていいのか。やりたい仕事ってな〜に。やりたい仕事で飯を食っている人間が世の中に何人いるのだろう。

 だいたい、この朝日新聞の野沢哲也という人が書いたこの記事自体が胡散臭い。

 残り百円になった後に電話して <「制度を利用したい」「審査に2週間はかかります」「食べ物がない。千円でも借りられる制度はないですか」「ありません」。だめだ。>というほど困っているというが、本当に二週間生きられないのか。金策が出来ないのか。サラ金はダメなのか。

残り百円になったあと四日間もどうしていたのか。その後、どうするつもりだったのか。仕事を探す気持ちは本当にあるのか。仕事をする気はあるのか。仕事先の面接に百円でどうやって行くつもりだ。バスも乗れないのではないのか。それとも、生活保護が目的なのか。

 四日目にふらふらになりながら、めでたく生活保護を得て、当座の生活資金として一万円を借りられた事を取り上げているが、一万円で助かるのであれば、日雇いでも何でもある。持ち物で売るものもないのか。 少なくともパソコンはあるだろう。本もないのか。時計は、デジカメは。他の家電製品でも売れば少しは金になるだろう。(テレビはよっぽど新しくなければあかんかな?)パソコンで仕事を探しているのだから、売り先、処分先ぐらいは見つける事ができるだろう。

 生活保護を得る事を勧めている記事としかおもえない。

  私は、昭和五十二年九月に、金沢から東京に出てきて、渋谷駅で置き引きに遭い、荷物の方にほとんどの金をいれていたので、ズボンのポケットに入れていた三千円弱しかなくなった。その後、山手線をグルグル回って、どうするか考えた結果、途中、少しでも使える金を得るために、高田馬場にある「スズヤ」という質屋さんに時計を持っていき、免許証を見せて、五千円を借りた後、その日からの屋根と飯を確保しなければいけないので、渋谷の水商売をいろいろとやっている会社に入った。

 この時、私が持っているような安物の時計に五千円という金額は到底見合わなかったようですが、「ちょっと、困っていますので、」というと、店の方は少し考えてからこの金額を貸して下さった。ありがたかったです。

   下記はWiLLに掲載された小野田寛郎元陸軍少尉の対談として掲載された言葉です。

  <少なくとも税金の払える人間にならないといけない。人様にぶら下がって安穏としているような人には、少し遠慮してもらわないと。

 フリーターだって今頃さわいでいますが、あれで生活できていたことがおかしいので、今は一度転ぶと仕事がなくなるのも当然。可哀想だ、社会の犠牲者だと言うけれど、自業自得の部分もあるんじゃなかいと思う。

略)

 ブラジルで、あるドイツ系の男性がブルドーザーのオペレーターの仕事をしていたのですが、彼のいた南部はかなり開けてしまったので、仕事がなくなってしまった。それで私の知り合いの養鶏場に「仕事をくれないか」とやってきた。「簡単な仕事だから、最低給料しか払えない」というと、「それでもいい」と承諾して雇われたんです。

 給料は多いときでも最盛期の四分の一だったそうで「こんな仕事で食っていけるのか」と聞くと、「仕事をしなければ一銭にもならない。妻子もいるから、一銭でも稼がないと」と言う。さすがドイツ人はしっかりした考えを持っているなと思いました。

 彼は半年後に新しい仕事を得て去っていった。

「四分の一の給料なんて耐えられない」なんていっていたら、いつまでたっても一銭の稼ぎもありませんからね。レーガンが「失業者というのは自分で仕事を見つけられない人間だ」と言っていましたが、はっきり言えばそういうことだと思います。>

(WiLL  平成二十一年三月号p二百六十四〜二百六十五)

 「仕事をしなければ一銭にもならない」 当たり前のことですが、派遣村とかに集まっている連中はそれがわかっていないとしか思えない。普通は、金がなくなったら、身の回りの物を売ってでも金を作ろうとするだろう。そして、なんでもいいから仕事を見つけて働こうとするだろう。それをせずに、五体満足でいながら、生活保護に助けを求める。性根が腐っているとしか思えない。

 そんな阿呆どもを、ただかわいそう、気の毒、国が悪いという記事に取り上げ方をするマスコミも病んでいるとしか思えない。

 午後からスポーツセンターに行く。今日は時間がないので上半身のみ。フラットベンチプレスよりインクラインベンチプレスを先にやる。

 初めてのお客様来店。来店していただいた事はなかったようですが、早稲田でやっていた「酒いわしや」をご存知でした。Eさん来店。五月に香港に奥様といらっしゃるそうで、「ヨンキー」でも何度か食事をされたそうな。近くにお住まいという初めての女性のお客様来店。引っ越してこられて一年半だそう。Yさん来店。

 ドンチャン。記憶あり。


 

 


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