このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ
朝鮮と琉球の共通点
平成20年4月18日金曜日雨△
「豊かで平和な琉球王国」というのは「豊かで平和な李氏朝鮮」と言っている朝鮮人と同じという事を、沖縄の人々は理解しているのでしょうか。
つまり沖縄県になるまえの琉球の真実の姿というものを理解しているのでしょうか。
恵氏の著書「誰も書かなかった沖縄」には下記のような記述があります。
琉球王尚泰の四男尚順(男爵、沖縄戦で死去)はその遺稿で首里王城の正月(旧正月)の光景をこう回願している。
「五族の大旗を建て、国王が北京の紫禁城に向かって遥拝される式であって設備装備は純粋の支那風によって挙行され、左右より羽扇を翳して国王が進み来られると同時に黄冠、紅冠をつけし唐栄(久米村人)の連中ばかりの活動で、黄色のクロスを掛けたテーブルの上には龍紋彫の黄金の香炉を置き、海南に沈香を薫いて礼拝を行う。(中略)黄冠をつけた久米の先生達がケーウ、ケーウというのは中国語の叩頭のことだ」
こうして、首里城では欧米人が世界で最も屈辱的な礼式と批判した、三跪九叩頭(三回跪き、九回地面に額をこすりつける)の礼が執り行われたと書かれています。(p一八〜一九)
これは、小中華を自任し、ある意味中華よりも中華的であり、「四書五経」、支那史のみに没頭し、ハングル文字を蔑み、漢文を尊んだ朝鮮の李朝時代から、わが国により支那の影響下から解放され、近代化されたという点では朝鮮半島も沖縄も共通のところがあります。
朝鮮で行われていた三跪九叩頭の礼までそっくりです。
わが国が日清戦争に負けていたなら、支那の郡県に再編されていた可能性があるのもそっくりです。
そして、その王の下には醜い統治が行われていていたところまでそっくりです。
Oさん来店。最近は金曜日に来店してくださる事が多くなった。Sさん二名様で来店。御近所にお住いというHさん来店。
沖縄の支那隷従
4月17日木曜日雨 ×
「誰も書かなかった沖縄」(恵隆之介著 PHP研究所刊)に、沖縄と支那との関係について書いています。それによると、明治二八年(一八九八年)、日清戦争による清国の敗北まで、沖縄は支那の強い影響下におかれていて、ペリー提督の「琉球訪問記」には、通貨は琉球独自のものはなく、日本または一部中国銭が通用していると記録されている。
明治二七年四月、熊本師範学校修学旅行生一〇〇名が沖縄を旅をした時に、公会堂とされた南陽館の扁額がすべて支那の冊封使のものばかりで、しかも、沖縄県内の支那系移民によって組織された支那党の存在に、嫌悪感さえ覚えたそうです。当時、支那党は人口の一%、五〇〇〇人を超えていた。
沖縄が支那の隷下に入ったのは一三七二年、明国皇帝が琉球に朝貢を求めてきたことから始まったとされ、薩摩藩が琉球に侵攻する一六〇九年までその監督下にあった。
那覇市内にある久米は、一四世紀以降支那人の居留地域となっていて、一八世紀まで浮島と呼ばれる島であった。
寛永二一年(一六四四年)、明が滅び清国が成立した時に、満州族の支配を忌避して明人、すなわち漢族の三六性の家族(部族)が移民してきたとされ、一九世紀になっても支那語が話されており、日清戦争の終了まで沖縄をことごとく支那圏に留めようと画策していた。
支那系移民がいかに琉球の政権に固着したかを物語る歴史的事件として、恵氏は同書に一九世紀初頭に起きた官生騒動を例として書いています。
それによると、官生とは、官費留学生制度つまり国費留学生制度のことであり、一五二五年、琉球王尚真が北京の国子監へ久米村人の中から四人を選び留学させたのを皮きりに、その後約三〇〇年間続いた制度で、その官生はすべて久米村出身者で占められていた。一八〇一年、尚温王は琉球王府の教育権に主体性をもたせるべく首里に国学を作り、官生四人の枠のうち二人を地元の首里出身者にしょうとした。これを知った久米村人が猛烈に反発し暴動が起きた。この年、尚温王はわずか一九歳という若さで亡くなる。毒殺説が根強く残る。
そして、現在約三〇〇〇人の沖縄県民がその子孫を自認しており、約一〇億円の共有貯金と会館を運営している。
一名様来店。マロさん来店。初めてのお客様Aさん三名様で来店。
営業終了後、高円寺のイタリアンレストラン「やっちゃま」でドンチャン。もう一件ハシゴ。最後は神楽坂の「エムズバー」さん